喪服とスーツと水溜り

やられた。

俺が手術を行うはずだった病院の廊下。昨晩起こった事柄について担当医から報告を受けた。

「患者は昨夜息を引き取りました。巡回の看護師が気付いたときにはもう…」

常套句だ。

「そうですか。残念です。」

起きてしまったことについてこれ以上言うことはない。患者のこころに気付けなかったと、生きることへ希望を持たせられなかったと己を責める時間は後でいくらでも持てる。今は、患者を死へと連れ去ってしまったものへの怒りだけが渦巻いていた。

「俺は無関係だよ。」

「嘘をつくな。」

俺が今問い詰めているのは、銀髪に隻眼碧眼の死神の化身。

奴の家の前に張り込み、帰宅したところをとっ捕まえたのだ。

「早とちりもいいところだよ。大体お前、遺体の状況も確認せずに飛んできたんだろう。それに、俺、さっき成田についたんだぜ。どうやってS県の山奥に行けるってのよ。」

アリバイを主張するか。おとなしく吐かせるには人質がいるな。ちらりと奴が今さっきまで乗っていたパガーニ・ゾンダF8に目をやる。

「…てめえ、もしも腹いせにこの車に手ぇ出しやがったら、岬の家も同じ目に遭わせてやるからな。」

すっと視線を外し、砂糖漬けは却下。奴の表情が般若に見えたからってわけじゃないぞ。うん。

「じゃあなんで仕事着なんだ。」

奴はいつも仕事のときには黒色のスーツを着る。あれ。今日のはいつもと違うような…

「お前はスーツを色でしか区別できんのか。」

呆れた声を漏らしながら腕を組むキリコは、いつものパンツスーツではなく、タイトなスカートを履いていた。

キリコは女性の体になってから、クロゼットの中をほとんど新調した。男物でも使いまわしの利きそうなものは少し残していたようだが、それらは大概部屋着になったり寝巻きになったりしていた。

何せ女物の衣服というのは無駄に種類が多い。ジャケット一つにしても襟がスタンドカラーだのノーカラーだの、袖にも7分や5分があるというのも驚いた。ジャケットの中に合わせるものに至っては、何故そんなにも選択肢があるのか全く持って理解しがたいところである。カッターシャツ一枚ありゃいいだろうが。

こうぼやいたら「男にもそれなりにセオリーがあるよ。カラーも女性と同じくらい種類があるし…寧ろ男性のスーツのほうがこだわるポイントが多いと思うんだけど。シャツを一括りにしてる先生には無縁の話だな…」と嘆息交じりに呟かれた。どうせ俺は着たきりスズメだ。しかし合理的だと言ってほしいものだ。朝何を着ていくか迷わない。洗濯も楽。メンテナンスも楽。時間と経費の節約。これ以上はないではないか。

……話が逸れた。

ともかくもキリコは女物の服を少しずつ買い揃えていっていた。しかし普通の女性なら着るであろう物をキリコは絶対に着なかった。スカートである。

これは男は絶対に着ない服の一つだ。アイリッシュの伝統的なものとは意味合いが違う。下着類などは機能的な面からどうしても必要だと言えるが、スカートは必ずしもそうとは言い切れない。

フォーマルな場面での必要性は認める。実際キリコは一度だけロングドレスを着たことがある。しかし日常では女らしさを強調したいとき以外は履く必要性がないのでは。だいたいヒラヒラしていつも裾を気にしていなければならず、活動的ではない。

男の俺がこう思っているのだから、きっとキリコの感覚も似たようなものだったろうと推測される。従って俺は今まで一度もキリコがスカートを履いているところを見たことがない。

「ユリがどうしてもというからね。」

キリコの屋敷へ上がり、ダイニングへと向かう。キッチンへは…おっと俺は入れないのだった。ちくしょう。誓約書なんかくそくらえだ。

冷蔵庫の電源を入れ、ガスの元栓を開け、換気をする。

あああ、これ完全に「長い間留守にしていましたが帰ってきました」のパターンだ。

「どうしても?おまえさんにそんなカッコをしてほしい理由が?」

敗北感を肯定するのが悔しくて、興味がそちらへ向いたような芝居をする。キリコは蛇口から水をいっぱいに出すと、ケトルを何度か濯ぎ、湯を沸かし始めた。

後姿を見つめる形になってしまって、スカートを履いた奴の下半身にばかり目が行く。脛の辺りまである丈にちょっとほっとした。新入社員です!という雰囲気の膝丈のスカートは流石にいただけない。

「墓参りさ。」

ぽそりとこぼれた言葉。

なんてことはない、と言う風にキリコは棚からコーヒーの豆を取り出す。真空パックにはさみを入れるとふわんと香りがあふれた。

「家族のか。」

平静を装ったつもりが、俺の声はワントーン低かった。

「うん。」

豆がミルに注がれる。

「親父が入って、先月死んだ叔母も入ったんだ。近しい親族はみんな墓の下。」

雲が割れたのか急に午後の日差しがキッチンにあふれ出す。

「姉さんと私だけになっちゃったわねえって、ユリが言うからさ。」

逆光になってキリコの表情は見えない。銀髪が透き通るように輝いて、シルエットを囲む。

どうして、寂しそうだと思うのだろう。

人の命を簡単に奪うこいつが。

命を死へ向かわせて、飯の種にしているこいつが。

やがてミルが豆を砕く音に俺の思考は遮られた。

コーヒーを飲み、煙草をつけても、奴は何だか沈んでいた。それはそうだろう。墓参りなんて楽しいもんじゃない。ましてや親父さんが入ってる墓だ。こいつにとったら、まるで。ああ、いらいらする。

「BJ、ちょっと疲れた。俺は休むよ。」

俺が煙草の火を消すのを待っていたかのように、キリコは席を立った。

「2階にいるから、お前も適当にのんびりしていけよ。」

ああ、ああ。そんな薄い笑顔なんか見せるなよ。

俺の横をすり抜けていこうとするのを捕まえる。

「本当に疲れたんだ。眠い。横にならせてくれよ。」

力なく抵抗するふりをする。いらいらは更に募る。

「じゃあ、いっしょに昼寝しようぜ。キリコ先生。」

驚きに見開かれた隻眼を覗き込むように、俺はキリコの唇をふさいだ。

「いやだ…今は、そんな気分に……」

切れ切れにこぼれる言葉を無視して、リビングのソファに押し倒す。商売道具の入ったコートは一番遠くに放り投げ、俺はどんどん身軽になっていく。その様子を見て、これから起こることを予測し、抵抗するキリコ。全然力が入っていない。おい、前のゴリラ並みのバカ力はどこへ行ったんだろうな。

黒のスーツを見下ろす。

喪服か。

馬鹿馬鹿しい。

こんなものを着ているから。

ジャケットを脱がせると、インナーも黒。気付かなかったけれど、耳にブラックパール。これで下着まで黒だったらどうしたものかと、こめかみがチリチリする。

ああもう。全部脱いでしまえ。

上半身に着ているものをすっかり脱がせようとしているところに、腹部に足蹴を一発食らう。全然だ。本気かお前。ああ、面構えは良くなってきた。目がちょっと生き返ってきたかな。でもまだまだ。

うつぶせにして俺の腹部を蹴り付けた脚を捕まえる。膝下のスリットからはみ出したふくらはぎがやけに扇情的だなどと思う。こちらもご丁寧にストッキングまで黒。

俺自身普段から黒はよく着る。寧ろ黒しか着ない。黒は嫌いじゃない。

だけど、今お前が着ている黒は駄目だ。

こんなものを着ているから。

キリコの批判の言葉を聞き流して、黒いスカートを剥ぎ取った。

ビ、ビビ…

耳に不快な音を残してストッキングが引き裂かれていく。二度と履けないようにしてやろうと思いついただけだったけど、ストッキングの裂け目からはみ出す白い肌があまりにもなめらかで。

キリコはソファにうつぶせに突っ伏したまま動かない。またお得意のだんまりか。そうはいくかよ。腰から背筋へのくぼみを舌でなぞってやる。ひくりと筋肉が縮むのがわかる。

乱れてかかる銀糸をかき分け、首筋を辿る。力のない抵抗だと思ったけれど、俺の下で暴れたせいかうっすらと汗ばんでいた。うなじにそっと噛み付いてやると吐息が漏れた。

そのまま手のひらを腰から下へと這わせる。ほとんど触れるか触れないかの距離で尻をなぞる。ゆっくりと。大きく。筋肉の伸縮を感じる。吐息も隠し通せないようになってきた。いきなりぎゅっと鷲掴みにすると初めて声を上げた。

「今はそんな気分になれないんじゃなかったか、キリコ先生?」

わざとらしく聞いてやると、少し顔を傾けてこちらを睨みつける。

反応があったことに気をよくして、ビリビリに破いてしまったストッキングの隙間から内腿へ指を滑り込ませる。

俺は正直、女関係は決して派手ではなかった。皆無ではないけれど、執着しなかった。よってキリコが女になってしまったとき、一番に心配したのはこれだ。

「俺はキリコを喜ばせられるか」

男のときもそんなに喜んでもらえたかと言うと、断言できない。自分と同じものがついているのだから、なんとなく勝手は分かっていたつもりだが、キリコの勝手は俺のをはるかに超えていた。結果、喜ばせられたのは、俺のほうが多かった、ように思う。くそ…

それに男の場合は目に見えてわかるのだが、女はさっぱりわからん!と今でも思う。確かにわかるときもあるけれど、それは極まったときのサインでそこにいたるまでがまるで霧の中を歩むようなのだ。ああ、未だ童貞くさくてすまんね!

言葉で教えてくれることもあるのだが、イマイチ自信が持てずにいる。演技する女も多いって言うしな…

キリコの体をうつぶせにしたまま、そっと指で下着の隙間をなぞる。汗のせいか湿っているように感じる。ぐ、と力を込めると、背中がひくりと動いた。

そこばかりいじっているのも妙に気恥ずかしくて、ソファに押しつぶされている胸にも手を伸ばしたが、キリコは体をよじらせて逃げてしまう。それならとうつぶせのまま腰を持ち上げ、膝立ちの格好にさせると猛烈な抗議を浴びた。

うるさいうるさい。この体勢が触りやすいんだ。

後ろから抱え込むようにして責め立てると、ふるりとキリコの体から力が抜けた。奴はこの後大概「いったから休ませろ」とか言う。これは逃げ口上ではないのか。男のように目に見えるサインがないからといって、辛い体勢や行為から逃げる理由に使われているような気がしてならない。

「ちょ、ちょっとBJ!今は…っ」

そうは問屋が卸さない。少し顔色は戻ったけど、まだまだ。

キリコを仰向けにすると、脚を大きく広げさせた。触れると熱くて潤んでいる。傷つけないように指を埋めていく。内側がひくひくと指に吸い付いてくる。あ、気持ちよさそう。もっと見たい。お前のいい顔。

暴れる腰を片手で押さえつける。骨盤を押さえられると、どんな屈強な男でも簡単に跳ね返せないことを俺は自分の経験から知っていた。

指の角度を変えて、内側を擦る。水っぽい音が響く。

ブラックパールのイヤリングが目に留まる。口で取ってやる。耳にかぶりついた瞬間、またキリコの体がふるふると震えた。

大きく息をつき、頬を紅潮させて。

「本当に、休、ませてくれよぉ…!」

切れ切れに哀願する顔もかわいい。でももっと気持ちよくしたいんだ。お前もいつもそうしてくれてただろう?

「ィやぁ…」

三度動き出した指にかキリコは顔を覆ってしまう。駄目だ。見せてくれ。手をどけようとしたけれど、撥ね退けられてしまう。強情っぱりめ。それならと胸の桜色を口に含む。小さく、悲鳴に近い抗議の声。俺の髪を掴んで。

舌先で、歯で、味わううちに、キリコの声がだんだんと泣き声のようになってきた。本当に嫌だったのかな。慌てて顔を覗き込むと、キリコは必死に口を押さえて声を押し殺そうとしていた。ばか。声を出せよ。チアノーゼになるぞ。

そういう意味を込めて、指を深く動かした。指の数を増やして、奥の奥まで。

「ああ!嫌だ!!嫌ぁっ!!」

大きく仰け反るキリコの体。ぎちぎちと指を食いちぎるかのように締め上げる。奥は絶えず痙攣を繰り返している。そんなに嫌か?とても良さそうに見えるのだけど。少なくとも俺は。

キリコの震えが納まるまで、そっと抱きしめていた。ふいに違和感を覚えて右腕を見ると、ひじの辺りまでびっしょりと濡れていた。革張りのソファにも水溜りができていた。

「潮吹きは実在したんだ…」

と感慨深げに呟く俺のテンプルめがけてキリコの肘が飛んできたのは言うまでもない。

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