いきぎれ

私にしては、大変大健闘です。ここまで突貫工事してきたの。よくわからんままに、多分大丈夫じゃね?いかんことすら気付かない調子で、ホームページ(やだ、新鮮!)を作ってみましたよ。一日の作業量決めておかないと、いつまでもやり続けてしまう悪い癖が出てます。そして日常に支障をきたす、と。そこまでにならんように、リラックス。リラックス。

はーーーーーーーーーーー

まじでどきどきする。こんなん、一生に何度もないわ。こんなモラトリアム期何度も来てたまるか、と思いつつ、何度目だろうなあ…これでけじめをつけるんだ。けじめだ。よし。多分。←

飲み屋街に消える理由/平行線からの提案/ケンカの後/俗物

キリジャバナー2

「飲み屋街に消える理由」

たぶんこれが初めてのキリジャでした。どんどんはまっていくことになるのです。しかし、この頃の方が下手なりに気持ちよくかけていたと、今になって思います。

「平行線からの提案」

キリジャなのかジャキリなのか自分でも判断できていなかった話。
ふたりには対等であって欲しいという思いが強くありました。それは現在も変わりません。ここから二人と一緒に関係を見つけていこうと決意した話でもあります。重いなあ笑。
そして!この時頭の片隅にバックグラウンドができていた亡霊5人衆と長いお付き合いになろうとは、全く想像すらしていなかったのです。完全に私の妄想ですが、気に入っている人たちです。

「ケンカの後」

嫌味な応酬ばっかじゃなくて、殴り合えばいいじゃん!そんで草っぱらで寝転んで「マブダチ」って…なるわけねえですな。「コブラツイスト」の絵とリンクしてます。

「俗物」

この内容は特定の宗派や寺院を指すものではありませんが、ある禅宗の僧侶の言葉をヒントにして思いついた話です。しかしキンクににてるなあ、このお坊さん。

彼女の可能性(3)【キリコ先生女体化】

「BJ先生、私達の娘を助けてください。」

俺の目の前で両親が懇願する。

「もう先生しかおらんのです。」

両腕を投げ出して、俺の前に跪かんばかりだ。

俺は椅子をくるりと回して、依頼人に向き直る。

氷嚢ががしゃりと音を立てた。

「いいでしょう。引き受けましょう。」

依頼人達が安堵の表情を浮かべてお互いに見合った後、俺を見て怪訝な顔をした。決して俺のツギハギを見ての反応ではない。

俺の頬は顔の縫合痕を歪ませるほどパンパンに膨れ上がっていた。あの寒い夜、キリコに強烈な右フックを食らったのだ。女の力じゃないぞ。ゴリラ並だ。くそ。

「先生、お茶がはいったのよさ。」

湯飲みを出してくれるピノコのやさしさが身にしみる。

「ああ。」

と言うが早いか「アッチ!!」

俺は煮えたぎった茶の入った湯飲みから慌てて手を離した。弾みで湯飲みが俺の太ももに落ちる。

「~~~~~~~~!!!」

慌ててスラックスを脱ぐ。

ピノコは知らん顔だ。俺がまた土産を忘れたので怒っているのだ。

くそ。女なんて。

くそ……

氷嚢が2個に増えた。

頬と腿を冷やしながら、依頼に来た患者のカルテに目を通す。子宮癌か。ステージ4とは。若いぶん進行が早い。位置も悪い。すぐに本人に会おう。

クラウンを飛ばして着いた病院の一室。30半ばの女性、眼の美しい人だった。

相部屋だったので、人がいなくなったのを見計らって声をかけた。彼女は一瞬驚いた顔をした。顔のキズにか、それとも腫れにか。

「あなたがBJ先生ですか。両親から聞いています。」

彼女の表情は凛々しい。俺は彼女の病状の進行具合についていくつか問診をして、オペに関して彼女の意思を確かめることにした。

「子宮を全部取ってください。」

彼女の言葉に俺は絶句した。彼女の両親は子宮を残すことを希望している。今の状況は決して芳しくは無いが、全摘せずとも俺なら治療できる。妊娠ができる可能性が彼女には残っているのだ。それに子宮を全摘すれば、いわゆる女性らしさも薄れてしまう。かつて全摘せざるを得なかった大学の後輩を思い、ふつふつと怒りを覚えながらも、話を聞くことにした。

「私は生きていたいんです。」

彼女は現在の主治医から手術について説明を受けた。その中で、とても難しい手術になること、それから手術がもし成功したとしても再発の可能性があること、その場合の致死率は9割になること、更に3年の間に再発する可能性が8割あることを告げられたという。

その見解は俺も同じだ。現在の検査結果ではわからないが、もしリンパまで侵されていればお仕舞いだ。そして場所が悪い。渡された映像からでは癌全体の様子が見えない。開いてみれば病巣が予想以上に大きかったということも十分に考えられるのだ。

「もし、手術が成功して、運よく子宮が残ったとします。でも、そうまでして子どもを授かっても、私には時間がなくなってしまうんです。3年しか生きられなかったなら、どうして小さい子を残して逝けるでしょうか。」

ぽたぽたと雫がシーツに染みる。

聞けば彼女は保育士をしているという。少し、特殊な。いわゆる養護院といったところか。そこでは親の都合で預けられた物心もつかない年齢の子どもが、似たような境遇の子どもたちと生活をともにしている。

それでか。彼女の枕の周りにはへたくそな、しかし懸命な字で「げんきになってね」「せんせいはやくきゃべつえんにきてね」だの、色とりどりなメッセージカードが所狭しと貼り付けられている。

彼女は親のいない子の悲しみを人一倍知っていると言った。わかる、とは言わなかった。それが彼女の子どもたちに対する真摯な姿勢のように思えて、俺は言葉を失った。俺もそれは、とてもよく知っていることだったから。

一人の男が病室に入ってきた。背の高くない、作業服の男だった。彼女の涙を見て、足早に近づくと、ポッケからしわしわのハンカチを出して彼女の涙を拭いた。彼女の様子を伺いながら、俺に不審そうな目を向ける。彼女から経緯を聞くと、男は無骨ながらも佇まいを正し、俺に深々と頭を下げた。彼女の婚約者だそうだ。

「両親には孫の顔を見せてあげられないのは申し訳ないと思っています。でも保育園の子どもたちが、本当の親でなくても、私の子どもです。だから私は生きていたいんです。30年とは言いません。せめて3年より長く。」

「彼女のいない人生は俺には考えられません。先生、どうかよろしくお願いします。」

固く手を握り、真っ直ぐな瞳を向ける2人に、俺はゆっくりと頷いた。

病院の独特のにおいのする廊下に立ち止まり、俺は過去の自分を見つめていた。

母がなくなった後、一人になってしまったけれど、俺には幸運にもさっきの彼女のような人が居てくれた。

本間先生、看護士の女性、病院のスタッフ。みんな俺を励まして、支えて、育ててくれた。

母がいなくて、とても寂しかった。

父がいなくて、とても悔しかった。

でも今になったら分かるような気がする。俺はたくさんの人に育てられたのだ。

結局俺は子宮を全摘した。開いてみると病巣は予想以上に深く、広く、彼女の体に食い込んでいた。やはり全部とったほうがいいと確信させるに十分だった。癌はリンパ腺のほんの数ミリ先まで進行し、そこが侵される前に摘出できたのが救いだった。全適の代償として、俺は完璧にどんなに小さな腫瘍であろうとも、すべて取り除いた。血管の先、筋肉の隙間、すべて。もう二度とここから病巣が広がらないように。

俺は彼女の親父に、頬の腫れが若干引いたところに拳を頂戴したが、こんなもんであの2人の門出祝いになるなら安いもんだ。あの娘の決心をちょっとは見習え。3千万が缶コーヒー1本になっちまったが、全くすっきりした。

その夜は繁華街に繰り出してうまい寿司を食い、腹がくちくなったところで、ゆかりママの店『すきゃっと』に転がり込んだ。

ゆかりママは昔俺が全身手術をしたことがある人だ。ふとしたことで再会し、それからちょくちょく通うようになった。

「『すきゃっと』はいつ来ても客が少ないのがいいな。」

「ちょっとセンセ、ひどいわぁ!先生のことを思って、わざわざ貸切状態にしてるんじゃないのよ。」

ゆかりママが野太い声をキンキンさせて水割りを作る。

「なんで俺のことを思われなきゃいけないんだ?」

「だって、アタシと2人っきりになりたいんでしょ?」

お通しのピーナッツを投げつけてやる。

「マチコもいないのか。」

マチコは巨漢のオカマだ。オペラ歌手顔負けの声量で『時をかける少女』なんか歌うからたまらない。あれははかなげに歌うからいいんだ。

「今日はね、みんなお手伝いに行ってるのよ。クリスマスが近いでしょ。」

もうそんな季節か。忘れていた。ピノコにプレゼントどうしよう。

「と、言うわけでぇ、センセにプレゼントがありまーす。はあーい、センセの好きな鰤カマ大根でえす。」

「いつもの突き出しじゃねえか。」

「いやん、プレゼントよお。氷見の鰤カマなのよお。」

カマカマ言うな。俺はげらげら笑いながら、フォアローゼスのニューボトルを入れ、ママと2人でしっぽりと飲んだ。

程よく酔いが回り、ママとの会話も途切れがちになってきたころ、いつの間にか猫が俺の横の席で毛づくろいを始めていた。あいつの家にもよく野良猫が来てたな。

「ゆかりママは、なんで女になりたかったんだ?」

俺の問いに驚く様子も無く、グラスを洗いながらママが言う。

「やあねえ、センセに切ってもらう前に大演説したでしょう。」

「そうだっけ。」

俺は嘯く。

「俺を納得させなけりゃ、いくら積まれても切らん!って啖呵切ったのはセンセよ。」

「そうだっけ。」

ゆかりママは俺をちょっと睨むそぶりをして、俺のグラスにまた水割りを作ってくれた。ついでに自分のグラスにも注いで、って、俺のより濃いぞ、それ。

「愛よね。」

なんだそりゃ。

「惚れた男がいたの。彼もアタシを大事にしてくれたわ。2人で幸せゴッコしてたんだけど、彼の両親にばれちゃって。」

ぐびりと水割りを飲む。

「アタシが女なら文句ねえだろ!ってセンセのとこに行ったの。」

そうだった。ゆかりママはそう言って、全身殺気立てて俺のところに来たのだった。その時ママが手術に命を賭けていることだけは、分かった。その目つきが気に入ったから切ったのだった。愛か。俺には分からない。

「男とか女とか、ぜんぜん関係ないのに、ねえ。」

キリコの肌を夢に見た。

なめらかで、熱くて、俺の体をしっかりと抱きしめてくれた。

「もう俺は俺じゃない!」

あいつの叫びがリフレインする。

あの夕暮れのテラスで、あいつが叫んだ言葉の意味を、俺はずっと考え続けていた。

いや、やっと、考え出した。

脳が、肉体が、全く違う様子に変わってしまうのを、一番に感じていたのはあいつだ。

あの病状では今までできていたことが、みるみる出来なくなっていったんだろう。

それだけじゃない。外見の変化は、時間をかけて神経を苛む。

それを俺は知っているはずなのに。

抱きしめることしか出来なかった俺に「ずたずたにされている気分」だと言った。

もうその時のお前は、俺の腕の力をはね退けることができなかったんだな。

抵抗しなかったんじゃない。できなかったんだ。

あいつは、どんなに。

どんなに。

キリコ、お前さんが必死で残そうとしていた男のプライドをぶち壊したのは、俺だ。

熱いものが枕を濡らしていくのがわかる。

何になるというわけではないのに。

冷え切った寝室の空気をかけ離れて、布団の中に溜まった俺だけの体温が、やたら空しかった。

焦げ臭いにおいで目が覚めた。

すわ、と起き上がり、台所に走るとガスマスクを着けたピノコが出てきた。

手に握られた菜箸の先には原型を留めぬ消し炭が一つ。またか。火事になったらどうするんだ。思わず大きな声で叱り付けてしまった。無理はしなくていいんだ。俺はどっかの死神野郎のように食道楽じゃない。食パン1枚あれば十分なんだ。

「疲れてるみたいだったから、先生の好きなお魚焼いてたのよ!もう!先生ッたら女心がてんでわかってないのよさ!」

涙でぐしゃぐしゃになりながらピノコが喚くのを聞いて、しまったと口を紡いだときにはもう遅かった。

それからピノコのストライキが始まった。

家事を一切放棄した。掃除も洗濯も、料理も。何もかも。

確かに最近の俺は仕事だ何だと家を空けながら、土産の一つも買わず、挙句に毎晩飲み歩く放蕩ぶり。彼女の逆鱗に触れるのも無理からぬ事だ。

ソファに寝ッ転がったままテレビドラマをむっつりと睨んでいるピノコにいろいろアプローチをかけたのだが糠に釘だ。やさしく声をかけてみたり、睨みを利かせて凄んでみたり。任侠相手に向こうを張れる俺のドスを聞かせた声も、彼女の冷ややかな一瞥の前に無残に霞んだ。俺はすごすごと書斎に退散し、デスクの下の引き出しに隠してあったビスケットを朝食の代わりにもそもそと食べた。

家の中が荒廃するのに2日とかからなかった。

相変わらずピノコは俺と口も聞かない。女って奴はどうして気に食わないとすぐにだんまりを決め込むんだろう。…うーん。俺も一緒か。俺も臍を曲げて、ピノコに何も話しかけてない。こうなったら根性比べみたいになってきた。

ピノコはどこからか自分だけラーメンやボンカレー(!)を出してきて、俺の前でうまそうに食べた。くそ。俺がどんなに探しても見つからないのに!

流石に腹も限界だ。いらいらを募らせて、車のキーを取り外へ出た。

冬の潮風は厳しい。クラウンのボディに錆が浮いている部分を見つけ、早めのメンテナンスをしなくてはとシートに駆け込む。車内は冷え切っているとはいえ、外よりはいくらかましだ。キーを差し込み、エンジンをかける。かける。ん?

こんな時にバッテリーがあがるなんて。なんてついてないんだ。急いで家に取って返した。正直家の玄関の鍵が開いていたことにほっとする。かじかむ指で電話帳を繰り、一番近いガソリンスタンドに電話した。

ツキの悪さは連鎖する。スタンドはタイヤ交換でてんてこ舞いだと言う。そういや今週末に雪が降るって天気予報が言ってたっけ。とにかく落ち着いたらでいいから家に来てくれるように頼む。今度スタンドで急患が出たら無料で治してやると言いかけたが、慌てて言葉を引っ込めた。どうも最近の俺は言葉で失敗している。

体が重い。こんな時は動かないほうがいい。

俺は書斎に引きこもると、ソファの上でコートを羽織り、寝てしまった。

何時間経った頃だろうか。うまそうなにおいが鼻をくすぐった。目を開けると、テーブルの上に湯気の立ったカップラーメンがあった。今度から俺のカップラーメン杯の首位はマルちゃんだ。息つく間も惜しく、温かいスープを最後まですすった。からっぽの容器を見つめ、目頭が熱くなる。俺は思いっきり鼻をかむと、ピノコがいる居間へと向かった。

「いっしょに片づけをしないか。」

俺の提案にピノコは不承不承といった風をしながら乗ってくれた。床に散乱したごみを拾いながら、無言の空気はそれでも少しは和らいでいた。

箒を操っているピノコはまだ話さない。ピノコの身長よりはるかに大きな箒を見て、彼女の体の小ささに改めて気付く。気丈にいつもこの家を守ってくれていたピノコ。彼女がいなければ、俺の生活はたちどころに崩れてしまう。夫としてではないけれど、一緒にこの家に住むパートナーとして、俺はもっと彼女のことを考えなければならない。彼女がいつか本当の恋をして、この家を出て行くその日まで。

「…」

「ピノコ」

「……」

「すまなかったな。」

目は合わせなかった。お互いに背を向けたまま、俺はピノコに感謝した。

どすん、と腰に衝撃。

ピノコが大きな目にいっぱいに涙をためて、俺にしがみついていた。

抱き上げて背中をぽんぽんと叩く。俺の耳元で絶叫してはいけないと思うのだろう。ピノコの声を殺した泣き声が愛おしい。

俺はピノコの気持ちをどれだけ考えたことがあっただろうか。こんなでかい図体をして俺はピノコに甘えてばかりだ。俺が帰らないと告げる電話の向こうで、お前はどんな顔をしていたんだろうな。土産を忘れた俺をカンカンになって怒ってくれるから、俺は謝るタイミングがもらえるんだ。

そんな思いがこぼれて、ピノコが耐え切れずにわんわん泣き出した。

思いっきり泣いてくれ。俺の鼓膜の一枚や二枚、破けたってすぐに治せるんだから。

家の掃除や片づけが一段落したころ、呼び鈴がなった。ガソリンスタンドの若い衆が俺の車のバッテリーを交換しに来てくれた。待たせて申し訳ないと、簡単な作りのクリスマスリースをピノコにくれた。緑の紙のテープで作られたリースに、赤いリボンの着いた金色のベルが中央に飾られている。

きっと町はクリスマス一色だ。今夜はレストランに行こうか。きらきらした笑顔を向けてくれるピノコに穏やかな気持ちになる。

視界の端で、リースの銀色の星が光った。

師走。

師ってのは学校の先生だけを指すんじゃなくて、坊さんや俺たち医者も指すのだそうだ。

確かに俺は忙しかった。大晦日まで金の取立てに行くのが嫌で、少々駆け足で治療費の請求に回っていた。

俺がローンを組ませる相手には、これでもかと手術に賭ける意思を問う。それから生半可には返せない額を吹っかける。それでもいいと、心に決めた人間からでないと金は取らない。結局その金が、健康になってからも患者を生かす。金を返すために必死に働いて、働けることに喜びを感じてくれれば、もう大丈夫。この金が重荷になるようであれば、初めから引き受けなどしない。その結末は考えたくも無い。

考えたくも無い結末に、はまり込んでしまう人間が世の中には存外多い。だから年末は、俺とは比べ物にならないほど忙しい奴がいる。勤勉なことだ。

そんな考えがふと過ぎった、大股で歩く町の雑踏。不意に人ごみの中に違和感を覚えた。ヨーロッパ人だろうか。体格の良い長身の男が雑踏の中で頭一つ突き出している。観光だろう。別段外国人など珍しくもない。目線を逸らした軌道上のある点で、俺の目は動かなくなった。

その横に寄り添う、銀髪の女。

心臓が裂ける。

男の腕に手を回し、肩を寄せている。

まっしろになった。

女の顔が見えた。

両目がある。

キリコじゃない。

筋肉が弛緩するのが分かる。

指先が少しずつ温まり、汗をかいているのに気付く。

心音が激しくて、耳はまだよく聞こえない。

……キリコじゃない。

はあっと大きく息をつく。

たった今起こった体の異常の原因を、考えたくなかった。

そんなくだらないことがあったせいだろう。曲がり角で通るべき路地を1つ間違えたことに気付いた。別に、関係ない。ここを通っても行き先は同じだ。キリコの屋敷がある通りを、俺は足早に歩いた。屋敷を確認するのもとうに止め、こちら方面に足を向けることもなかった。

屋敷の敷地はこんなに広かっただろうか。延々と続く歩道にうんざりする。

そちらを見ようとはしなかったのに、植え込みの隙間からちらりと窓が見えた。相変わらず、暗いままだった。投石で割られてやしないかと、他の窓も見る。あいつの商売柄、そんな窓が1枚や2枚あってもおかしくない。窓は割れてはいないが、どれも薄汚れている。病棟も含めると大きな屋敷なのに、どこか儚く霞んでいて、台風でも来れば根こそぎやられて倒れてしまいそうに見えた。庭も見渡すと、花壇にも芝生にも雑草が生い茂った後に枯れ果てて、あいつが世話をしていたころの名残もなかった。

何の名残も、なかった。

踵を返し、俺は家路を急いだ。

暗い路地で別れてから、俺はあいつの噂を一切聞かなかった。聞かないようにしていたのもある。それでも大概は耳に入ってくるものだが、それすらも無かった。あいつも俺を避けているのだと思う。これまで俺たちは腐れ縁のように、病院に行けばかなりの率でかち合った。患者がかぶることもざらにあった。それが完全に途絶えた。

もう俺は自由にメスを振れる。誰も俺が命を救うことに文句を垂れない。

実に開放感あふれる時間を俺は十分に味わった。ばりばりと仕事をこなし、貯金講座を新たに4つ開設したほどだ。

そう、十分に味わった。

ピノコがケーキを焼く練習をしている。来年のクリスマスのためだと言う。ちょっと早すぎやしないか?失敗作を食べるのは夕食後の習慣。だんだん上達はしている。見込みあるぞ、ピノコ。そう言ってやると、ピノコはにっこりしたが、小さな声で「ロクターに教えてもらいたいなあ。」とつぶやいた。ピノコも俺たちの間の変化に気付いている。

それはそうだ。あんなに足繁く通っていた奴が、ある日を境にぱったり来なくなるんだから。だからと言って俺を問い詰めたりしない辺り、またピノコに俺は甘えているのかもしれない。しかし、どう説明できるというんだ。

きっともう2度と俺たちは会わない。

俺にはもうチャンスが無い。

天気予報が大雪を知らせている。太平洋側でも雪がちらつくという。都会の交通網の脆弱さにうんざりしながら、俺は先日手術をした男性の経過を診るために家を出た。

高速に乗る。帰省ラッシュにはもう少しゆとりがあるため、上下線とも空いていた。車の窓から見る海は空と同じ鉛色で、容赦なく岩礁にその身を叩きつけ、白く粉々に砕けていた。カーステレオから女性シンガーのハスキーな歌声が流れてくる。

♪笑って話せるね

 そのうちにって握手した

別に興味もない。耳にするでもなく、ただ流れるに任せていた。

俺にはもうチャンスが無い。その事実に日増しに押しつぶされそうになっている。自分のしつこい性格を恨む。もうキリコは俺のことなどすっかり忘れてしまっているというのに。

緩やかなカーブを過ぎるとトンネルに入った。オレンジの光が暗闇に流されていく。

もう何度思い出したかわからない。あの寒い夜の記憶。俺は記憶の中のキリコに語りかける。

キリコ、お前結構ドレス姿似合ってたぞ。ユリさんによく教えてもらったんだな。しかし、化粧までするとはな。女ってめんどくさいんだな。デパートに買い物に行ったときは、あんなに引きつってたのに。今思うと、あのときから女として生きようと、いろいろと試していたんだな。

♪あなたが本気で見た……

   はぐらかしたのが苦しいの

俺はばかだ!

あのキリコが、俺に手を施され、人工的になった体で生き続けるはずなんかない。

俺はそんなことも分からずに、またお前の積み上げてきたものを砕いた。

俺のちっぽけな思い込みを押し付けて。

「女だから、何?」

「何が違うの?」

違わない。お前さんは何も変わっていなかった。

肉体の変化に囚われて、気付こうともしなかった。

何も変わっていなかった。

相変わらず安楽死なんぞ続けやがるふてぶてしさも。飄々と俺の言葉を流す憎たらしさも。酒を飲みながら過ごした気分のいい時間も。ベッドの上での毒物を思わせる雰囲気も。

それでもお前は俺の手術プランを聞いてくれたよな。

お前さんも俺に甘すぎるぜ。

本当に。

♪…を許さないで 憎んでも 覚えてて

カーステレオが歌う。

俺はスイッチを切った。

トンネルを抜けると、粉雪が舞っていた。

山間の病院は流石に雪深く、四駆でよかったと切実に思った。もうちょいランクを下げた前輪駆動の車ではこの坂と雪には敵わない。駐車場には大きな雪の山が出来ていた。重機で雪かきをして積んだのだ。一つ県をまたぐだけでなんて違いがあるものだろう。ピノコが見たら大喜びするだろうが。

粉雪はじき吹雪になった。これはうかうかしてはいられない。静まり返った病院に俺は影のように入り込んだ。年末で一時帰宅する患者も多い。スタッフも交代で休暇に入っているようだ。人もまばらな廊下を通り、静まり返った病棟へ入った。

術後の経過は良好で、男性はリハビリに苦慮しているようではあったが、努力を続けると約束してくれた。家族も見送ってくれたが、どこか疲れているような雰囲気が気にかかった。

病院を出たが、嫌な予感を払拭できず、SAで家に電話を入れる。

間髪いれずにピノコが出る。

「先生?!たった今、先生が行ってた病院から電話があって」

受話器を叩きつけ、俺は走った。

息を切らせて病室に駆け込むと、もう男性の息はなかった。家族のすすり泣く声。でも誰も俺を責めようとしない。遺体の腕を確認する。何も見当たらない。

俺は静脈を注意深く、くまなく辿り、見つけた。

真新しい注射痕。

死神が、来た。

病院のスタッフが制止するのも聞かず、俺は院内を走り回った。

あいつがいる。

ここにいる。

廊下に俺の駆ける足音だけが響く。

立ち止まって周囲を見渡せば、俺の息切れだけが聞こえる。

人気の無い、最北の病棟へたどり着いた。ここは検査室ばかりで、普段患者は寄り付かない。

階段の踊り場に立った瞬間、白い影が目に映った。

長い渡り廊下の真ん中で、あいつがじっと立っている。

黒いスーツに身を固め、手にはジュラルミンの鞄。

渡り廊下はガラス張りで、外の光が差し込んでいるにも関わらず、あいつの周りだけは暗い。あの銀髪は燃えるように輝いているのに。

奴が一歩踏み出す。

靴音だけが響く。

俺も歩き出した。

2つの靴音が交差し、反響し、ぴたりと止まった。

渡り廊下の境目、暗いロビーの中で、俺たちは対峙した。

あいつは、キリコは、真っ直ぐに俺の目を射る。あの夜のぎらぎらした瞳ではなく、どこまでも静かな、暗い目つきで。

「よう、BJ。」

「おう、キリコ。」

「餌に食いついてくれて感謝する。」

「餌などと言うな。いつからいた。」

「ほんの2時間前さ。お前に関わりそうな依頼は片っ端から断っていたんだけど、そろそろけじめをつけようかと思ってな。」

「何がけじめだ。人の命を奪っておいて。」

「噛み付くなよ。俺につけ込まれるような仕事をしたお前が悪い。」

次の言葉を言い澱んだ俺の喉笛に、キリコが注射器を構えた。

「腐れ縁だよな。俺の仕事には必ずおまえが付きまとう。」

朗々とあいつの声だけが響く。キリコはじっと俺を見つめるようでありながら、どこか焦点が合わない。

「お前関係の依頼を断るのに、俺は些か疲れた。」

注射器の針から毒液が滴る。

「だから、いい加減けりを着けたくてな。」

キリコの頬は緩まない。機械のように言葉を紡ぐ。

「俺に殺されろ、BJ。お前のために、俺はとっておきの毒薬を持ってきてやったぜ?」

突如、俺の目の前に、銀の花弁を擁した壮絶な毒の華が咲いた。

不思議と、俺は穏やかだった。チャンスだとさえ思えた。こいつをここまで追い詰めたのは俺だ。俺がキリコにしたことを、キリコ自身の手で取り戻せるなら。

「好きにしろ。キリコ。」

俺の言葉を一瞬理解しかねたような表情。

「好きに?」

嘲る様な口調でキリコが言った。

「ああ、好きにするさ。お前を殺して、精々見栄えの良い男でも捕まえて、楽しく暮らすよ。」

かつての雑踏で俺の心臓を裂いた痛みが蘇る。

「そうだなあ。お前、言ったっけ。子どもを産むのもいいかもな。」

キリコの声は平静だ。一瞬目だけが、ぎらりと燃えた。

「俺の勝手だよな。BJ?」

そう。確かにそういった。でも、そんなつもりではなかった。ただ女性の能力の素晴らしさを言いたかっただけだった。俺と関わった女性たちの顔が通り過ぎる。

ああ。俺は、ちっぽけだ。キリコに、あのキリコにそんな言葉を吐いた俺も。

「そうだ。勝手だ。」

噛み締めるように声を絞り出す。

「これからどうしようが、お前さんの勝手さ。」

キリコの表情が凍てつく。

「でも、許さない。」

俺の奥歯がぎりりと鳴った。

「何を許さないって?先生が許可する範疇のことじゃないでしょ。」

ぴくりと片眉を吊り上げて、キリコが反駁する。

俺はきっと緑色の目をしているだろう。俺の妄想の産物だ。雑踏の見間違いから派生した思い込みだ。でも、俺があの寒い路地で、キリコに投げつけた言葉の意味は、そう捉えられてもおかしくなかった。俺自身の言葉が、俺に突き刺さる。

チャンスなんだ。

格好つけたり、意地を張ったりして逃したくない。俺たちは世間で言う恋人ではないけれど。嘘をつくのは嫌だ。大きく響く心音をできるだけ治めようと呼吸を整えた。

俺の目の前には、キリコがいる。

そう、キリコが、ここにいる。

俺はただ素直に言った。

「俺は、お前さんの横に誰か他の奴がいるのは、許せない。」

キリコの手を取る。水のように冷たかった。

「俺は、今日、お前さんに会えてよかったぞ。」

無言で、キリコは俺の首筋に注射針を振り下ろした。

来るべき衝撃がなかなか来ない。

俺の肩口がだんだんと湿り気を帯びてきた。キリコの手に握られた注射器は、俺の首筋にわずかに届かず、その場所で針先から雫を零していた。

注射器が滑り落ち、ロビーの床に小さな音を立てて転がった。

嗚咽が漏れる。

キリコが俺の胸倉を掴む。もう一方の手で俺の胸を思いっきり殴った。

息が止まるほど痛い。

よろめく足を踏ん張り、2発目を受け止める。3発。4発。

肋骨なんかくれてやる。

俺のコートの襟を握ったまま、うつむくキリコの腕にそっと触れる。

途端にキリコが涙で潤んだ顔を上げて叫んだ。

「今、抱きしめるんだ!馬鹿!!」

「力の加減を知らないのか、馬鹿。」

俺の腕の中で悪態をつく。なおさら俺の腕に力がこもる。夢にまで見た感触を確かめる。

この髪を、この腕を、何度欲しいと思っただろう。この匂いも、ぬくもりも。

俺のコートの襟をぐちゃぐちゃにしながら、キリコが下から睨みつけた。

「好きにしろとか、そのくせ許さないとか、勝手過ぎるんだ。先生は。」

「もうずっと勝手なんだ。」

「病人意外には、鈍感で甘ちゃんで。」

喚きながら襟を持ってがくがく揺らす。ごもっとも。眉を歪ませて、涙が滲んだ片目が非難する。 三半規管をやられてくらくらする。

「お前さんには、特に、だな。」

ぴくっと動きを止めたキリコの眼がまんまるに開かれる。

「殊勝なこと抜かすんじゃねえ、バカ!!」

タイを締め付けられ、窒息しそうになる。

怒り付けながら、どこか照れくさそうな瞳。俺も何だか照れくさくなる。本当に夢じゃないだろうな。確かめるように、ぎゅっと抱きしめ、やわらかな唇に俺の唇を落とした。

「痛い、気がする。」

後数ミリ、と言うところで、俺は肩に異常を感じた。さっきキリコの注射器から漏れた毒薬がかかったところだ。

サッとキリコの顔色が変わり、あたふたとジュラルミンのケースから蒸留水と脱脂綿を出し、俺をロビーのソファに座らせてコートを脱がせにかかった。ジャケットを捨て、タイを解き、シャツをはだける。すっかり俺の上半身を剥いて、てきぱきと処置した。「大丈夫だとは思うが…」言い澱むキリコに俺は少々恐怖を感じる。こいつ、本気で俺を殺すつもりだったのか。

「これでおあいこか?」

と言う俺を、ぱちくりと見た後、意地悪そうに笑って。

「とんでもない。先生へのご恩はこんなものじゃあ済まされないよ。」

ご恩か。ふん。こんな嫌味すら懐かしいなんて、俺は病気だ。いきなり反対の肩をとん、と押され、俺は後ろへ倒れる。ここのロビーのソファ、背もたれが無いタイプで、しかも大きな円形をしている。

「とりあえず、前金を受け取ってもらおう。」

俺の上にまたがって、体を重ねてくる。かき上げた長い髪が流れる。

「遠慮なくいただくよ。」

微笑むキリコの唇を、今度こそ味わった。

瞬間、臀部にちくっと刺激が走った。怪訝な俺からキリコが唇を離すと、奴の右手には注射器があった。凍りつく俺に「心配するな。毒薬ではないよ。」と言う。じゃあ何だ。

「とっておきの媚薬。」

うっとりとする声でささやかれた。

「象に使うくらいの濃度のね。ちなみに遅効性。持続期間も長い。依存性は低いし、1度きりなら何の問題もない。」

つらつらと立て板に水といった塩梅に説明をすると、がばりと起き上がってソファから降りた。まだよく状況が飲み込めない俺に、艶やかに微笑み、銀髪をきらめかせて振り向く。

「じゃあね。先生。近々また会おうぜ。」

言うが早いか階段を駆け下りて、あっという間に姿を消してしまった。

ぽかんと一人残された俺。ソファに音を立てて倒れこむ。俺は不思議な安堵感に包まれていた。

「近々また」なんて信じても良いのか?

それがいつだっていい。肋骨の痛みが、あいつがここにいた証拠。

俺は口の端に笑みが浮かんでいるのに気付いた。

わずか数時間後に襲い来る地獄も知らずに。

大雪という予報は当たりだった。帰りも高速に乗ったが、大雪のため道路が封鎖される最悪の状況。下道へ誘導されるも、ここでも大渋滞。その時だった。下腹部にじわあっと嫌な熱が溜まるのを感じた。

「とっておきの媚薬。」

キリコの声が響く。

何てことだ。あの野郎、媚薬も本物か?!大体、本物ではないだろうと高を括った俺も相当呑気だが、あの時の俺はそんなことがどうでもいいくらいキリコに再会できた感覚を味わっていたのだと思う。油断だ。いや、あんな時にケツに一発食らうなんて予想だにしなかった。ぐるぐるしているうちにも、スーツの股座の部分がパンパンに張ってきた。痛え。脂汗が額に滲む。ハンドルが手汗でぬるぬるする。心拍数が異常だ。

前の車は一向に動かない。赤いテールランプが揺らめいて、眩暈さえする。震える手でスラックスの前立てをくつろげる。跳ね上がるものを見てげんなりする。衝動に駆られる。しかし四方を車に囲まれて、こんなところで何ができるっていうんだ。

おまけに俺のいでたちは素肌の上に白衣と言うワイルド振り。毒薬のついたシャツなど羽織れるはずもなく、俺は病院から白衣を拝借したのだ。車の中で、素肌に白衣のつぎはぎ男が一人で……恥ずかしくて消え入りたくなる。

雪で窓が隠されているから、とか。みんな前を睨んでいるから、とか。悪魔がささやく。みんなキリコの声に聞こえてくる。

俺はあんなに長くて苦しい4時間を味わったことがない。

結局俺は渋滞を抜けて一番に見つけたホテルに転がり込んだ。抜くためだけに。女を見繕うとか、そんな時間さえも惜しかった。

バスルームにこもって何分、いや何時間たっただろうか。疲れ果て、薄れ行く意識の中でキリコの妖艶な表情が浮かぶ。

くそ。あの野郎。

覚えとけよ。

前金どころじゃないぞ。釣りが来るぜ。

近々、なんて言わせないからな。

今すぐだ。今すぐ。

男の貞操帯。ヒット664000件。

そんなものを検索するほど俺は憔悴していた。

あれから3日。注射なのにここまで持続する薬なんて。どんなものを俺の体にいれやがったんだと怒りがごうごうと腸で煮えくり返っていた。正確には怒りだけではないけれど。

肝心のキリコはまた行方がつかめなくなっていた。屋敷にも戻ってはいない。ずっとこのままだったらどうしよう。「また会おう。」なんて信用の置けない奴の常套句じゃないか。

昼と言わず夜と言わず、悶々と過ごすはめに陥っている。家に帰ったがピノコもいることだし、何とか気付かれないように必死だ。トランクスでは押さえが利かない。できるだけぴたっとした下着にして、シャツもすそを出して目くらまし。ピノコが行儀が悪いと注意するけれど、どうしようもない。

24時間臨戦態勢なんて、ありえない。その分頭のめぐりがめっきり悪くなった気がする。ふわふわと俺は浮ついた足取りで、夜の街に出て行った。こんな時は飲むしかない。煩悩をアルコールでふやかして、正体不明にするんだ。行きつけじゃない、どこか知らない店に入ろう。その店に2度と行けなくなるくらい飲もう。

ぎらぎらした目で適当な店を選び、ドアを勢いよく開けると、店にはカウンターしかなく、そこでバーテンダーと客と思しき女が談笑しているところだった。

キリコだった。

俺は悪運に感謝する。つかつかと歩み寄り、腕を取る。

「あらぁ、BJ先生。」

びっくりした様子のバーテンと正反対に、おっとりとした口調のキリコ。だいぶ酔ってやがる。俺は無言でカウンターに万札を数枚叩きつけ、キリコを店の外へと引きずっていった。

ピンポーン

「いらっしゃいませ。当ホテルは自動会計システムに……」

機械のアナウンスに苛立ちを隠さず、鍵をかけたかどうかもあやふやなまま、俺はキリコを壁に押し付けて唇を貪っていた。

安いホテル。ピンクの絨毯がわざとらしい。

キリコも負けじと俺の舌を吸い上げる。唾液がこぼれる。

くらくらしながらキリコのスーツを剥ぎ取る。ジャケットをソファに投げつけ、スラックスを床に散らかして。ストッキングの手触りが、ぞくりと俺の股に絡みつく。

それに気付いたのか、キリコがそっと俺に触れる。唇を重ねたまま、俺の体をやわらかい胸に押し付けたまま。まずい、そう思った途端に弾けて腰が砕ける。がくがくと足をふるわせて。なんて様だ。

俺の息が少し収まるのを待って、キリコが耳元で囁く。

「俺のこと考えて、いっぱいした?」

かあっと血が上るのを感じる。ああ、したさ。数え切れないくらい。こくりと頷いてしまう。

「いっぱい我慢した?」

吐息が耳をくすぐる。我慢できなかったから抜いたんだ。悔しくて恥ずかしくて何度も頷いた。

「えらいね。」

キリコは俺のコートをシャツを、すべて投げ捨てると、ベルトのバックルに手をかけた。

俺も焦りで震える手でキリコのシャツのボタンを外しにかかる。3つほど外したところで止められた。広げたシャツの襟からほのかに色付いた肌が露になっている。

そこに釘付けになる俺に、ふわりと微笑むキリコが床に膝をつき、ベルトを外して俺の下着に指をかける。下着はさっきの破裂でどろどろだ。触らなくていいと言おうとした時、自分とは違う熱さにくらっときた。下着の上から、キリコの熱い舌が動いているのがわかる。

もどかしい。一枚薄い布が隔てているだけなのに。直に触ってほしい。直に。そう思っているのが伝わってしまったのか、キリコがやさしく噛み付いた。もう限界だ。

キリコの体を抱え、ベッドに横たえる。シャツのボタンを半ば引きちぎるように全て外し、紺のレースの上から揺れる胸にかぶりついた。

もう体裁なんかとっくに構っていられない。こんなに我慢させて、くそ。全裸になって獣のように覆いかぶさる俺の背中をそっと指が辿る。

「しょうがないなあ。まあ、俺も予定より遅くなっちゃったし、悪いのかもしれないけど。ほら、一回抜いてあげるから。」

すらりとした指が俺にまつわりついたかと思った直後、俺はまたまっしろになっていた。

俺はひたすらキリコを求めた。

キリコもまたパワーアップしたみたいだ。初めての夜と違って、まるで溶解炉のように熱くて、うねっていて。そう言ってやったら、ほめたつもりだったのに殴られた。

それから暗闇に浮かぶしなやかな体は、俺の記憶フォルダにがっちり保存された。

俺は何日ぶりかのすっきりした気持ちで、汗と体液でじっとり濡れたシーツにもぐりこんだ。横にいるキリコは、すっきりというよりぐったりしていた。満足できなかったのかな。俺、もうちょっとならがんばれるけど。そっと顔を覗き込むと静かに寝息を立てていた。

キリコを起こさないように気をつけながら肩を抱きかかえた。

夜のうちに、こいつがこっそりいなくならないように。

朝になってお互いの顔を見合うと、昨晩の嬌態がまざまざと蘇って、俺はまともに目を見れなかった。

「昨夜のことは、お前は薬のせい。俺は酒のせいだから。」

いい歳をして言い訳がないと素直になれないのが情けないけれど、今はそういうことにした方が楽だ。身支度をして、ちらと盗み見た奴の横顔が夜の表情とリンクして、俺の記憶フォルダが開く。うーんといい気分で味わっていると、尻をぱんぱんと確認された。

「BJ、ノーパンで帰るのか?」

「しかたないだろう。近くのコンビニで買うまでの辛抱だ。」

コンビニ、と聞いて奴の眉根が曇る。

「たまにはもうちょっと色気のあるパンツ履けよ。」

ああもう。キリコ先生。そういう台詞は言わないでほしい。

キリコだ。やっぱり、キリコだ。

俺は苦笑いをしながら「近々またな。」と答えた。

ああ、くそ。

うるせえ。

手がかゆい。

振動が気持ち悪い。

細かい切れ端が顔に当たる。

晴れ渡る空の下、俺は慣れない手つきで草刈機を振り回していた。キリコの庭で。

「おーい、BJ!おーい!!」

聞こえないふりをしてやる。本当にこの草刈機はやかましいなあ。

「近寄れないじゃないか、エンジンを切れ!」

ごすっと俺の後頭部に何かが投げつけられた。ちっ。

しぶしぶエンジンを切り、草刈機を地面に置くとキリコが寄ってきた。何を投げたんだ、こいつ。足元を見ると30cmくらいの箱が落ちていた。箱に書いてある字を読むと、「じかたび」?

「近所のじいさんが見かねて貸してくれたぞ。」

奴の手には麦藁帽子と何だか怪しげな黒い布状のもの、更に怪しげな緑のネットが握られていた。

そう。俺は相変わらずいつもの格好で草刈をしていた。ジャケットは流石に脱いだが、カッターシャツにリボンタイ、革靴といった服装だ。俺だってこれが草刈に向かないとは思っているけど、そもそもこんなことをするなんて思ってもみなかったんだ。

「よし、これが草刈の正装だそうだ。」

キリコが明らかに笑いを堪えて、もったいぶって抜かしやがった。

足元はさっき投げつけられた地下足袋を装着。コレはなんと奴の私物だ。これでぬかるみも怖くはない。スラックスのすそから草が入り込むこともない。腕には怪しげな黒い筒状の布を装着。軍手と手首の隙間をカバーしてくれている。手のちくちくともおさらばだ。麦藁帽子はまだ日差しがきつくはないのでマストとは言いがたいが、これがなくては最終兵器は使えない。緑のネットだ。これを帽子の上からかぶせ、つばの部分に引っ掛けて残りのネットを垂らすと、なんと顔をガードしてくれるのだ!細かい草の切れ端が目を襲うこともない。呼吸も楽だ。理に適っているとあれば、見てくれなんぞ構うものか。

「正装には、やはりタイが必要だろう。」

キリコがタオルを首に巻いた。……この野郎。

俺は完璧に草を刈った。慣れてきたら芝の高さをほぼ2cmに揃えることができた。しかし、奴の庭はこんなにも広かったのか。まだ半分しか終わっていない。くそ。意地で徹底的に芝を刈り続けていると、だんだん腰が痛んできた。休憩だ。休憩。家の裏に回り、テラスのように使われている縁側に向かう。縁側は以前は所狭しと植物の鉢が置かれていたのだが、今は全てなくなっている。縁を水拭きしているキリコに「一服しようぜ。」と声をかけた。

あいつは顔を上げ、俺の姿を見て、また笑った。俺の正装を忘れるとはふてえ野郎だ。

地下足袋を脱ぐのが面倒で、縁に腰掛けてキリコの入れてくれた茶を飲む。緑茶の香りが草と俺の汗のにおいと混ざる。しかし嫌な匂いではない。労働の匂いとでも言うのだろうか。

キリコを見ると膝が煤け、指先が黒ずんでいる。家の中をくまなく拭いて回っているようだ。結い上げた髪にホコリが付いていると教えてやると、うまく見つけられないのか全然違うところを触っている。見かねてホコリを取ってやると、キリコの体からも労働の匂いがした。

風が吹く。

汗をかいた肌に心地よい。

一服着く。

奴も吸う。

働いた体にヤニがよくまわる。

いい気分だ。

理由など探すまい。

「休憩終わり。さて、続きだ。」

「お前さん、人使いが荒すぎやしないか。」

「報酬は用意してある。」

「何だ。」

「虎屋の季節限定の羊羹。」

「超厚切りだぞ。」

「わかった。わかった。」

俺はまた草刈に戻る。春先だから、きっとまたすぐに刈らなくちゃいけなくなるだろうけど。マスターしたんだ。いつでも刈れるぞ。

なんでもない春の日。

門の鉄格子をそっと外して捨てたのは秘密だ。

彼女の可能性(2)【キリコ先生女体化】

モグリの医者なんて言うと格好をつけたように聞こえるかもしれないが、結局のところは単なるアウトローだ。言うなれば、その日暮らしの医者だ。

患者が来れば治すし、見合った料金を請求して生計を立てる。反対に患者が来なければ全くの食いっ逸れ。開業した当初はパンの耳だけで過ごした日々もあったっけ。だんだんと仕事が軌道に乗ってきて、金持ちの顧客もできて、楽ができるようになったら厄介事が増えてきた。

正規の医者からは蔑まれ疎まれ憎まれる。俺のような生き方は。税務署からも睨まれる。まあ、取立てにきたら小遣いくらいはやるよ。

国家や組織には一切貢献しない。動くときは私事で動く。それがモグリの医者の醍醐味ってやつだろうさ。

そんな「モグリの医者様」が何故このような場所にいるのか。

俺は今一度隣にいる憎ッたらしい白いスーツの男に問いたい。

男の名は白拍子。

大病院のお坊ちゃま。院長様だ。

今夜の一張羅は気合が入ってるらしく、アンダーソン&シェパードでビスポークしたとかなんとか、意味分からん。どうして白にしたんだろう。新郎か、お前は。

髪型もがちがちにヘアジェルで固め、つんととんがったアンテナを終始気にしている。

「BJ君、早く来たまえ。受付の時間が終わってしまう。」

高飛車な物言いに虫唾が走る。

「白拍子先生、教えちゃもらえませんかね。どうして私はこんなところに連れてこられたんです。」

精々横柄に問うと、しれっと返された。

「君がブライアン教授の脳外科に関するレポートに、大変感銘したと言ったからだろう?」

大変感銘?どんな耳してるんだお前は。俺は疑問点があると言ったんだ。

「それに僕が一緒でないと、君のようなモグリの医者が、こんな一流ホテルで世界中の名医と会食なんて有り得ないだろう?いい経験じゃないか。感謝こそすれ、そんなに睨まれる筋合いはないけどね。」

俺は怒りを通り越して体中の血がすうっと冷たくなるのを感じていた。

本当にこのお坊ちゃんは。この。……ただ飯食って帰ろう。

俺は数十分後の会場で自分がどんな状況にあるかを想像したが、おそらく予想の範囲を超えることはあるまい。今は明日のオペに臨む患者の事だけを考えることにした。オペが済むまではこの坊ちゃんの顔を立ててやらんと手術室が使えないからな。

受付をすると、見知った名前がいくつかあった。

顔を合わせたら、向こうは驚いた風だったが、そっと目で挨拶をすることに留めた。あちらにも立場がある。俺と関わりがあると面倒だろうしな。

さっさとメシ食ったら、とっとと帰って適当な店で飲み直そう。ここに来ただけで、白拍子へのお義理は半分果たしたようなものだ。

そう思うといくらか楽になった。

コートをクロークに預けろと言う。

嫌なこった。係員と押し問答をする俺を白拍子が苦虫を噛み潰したような面で睨みつけていた。わかった。わかったよ。しぶしぶコートを預ける。会場で急病人が出ても俺は知らんからな。

コートを脱いで軽くなった体でラウンジの隅に座る。

けばけばしい装飾の大きなシャンデリアが光を放っている。フロアの絨毯の真紅に反射して、ひどく暑苦しく見える。1階のフロント付近で談笑する男たちを見下ろす。あれが落ちたら真下の人は内臓破裂か粉砕骨折か、はたまた脳挫傷か、大怪我をするだろうななどと不謹慎なことを思う。

サービスなのか熱いコーヒーをボーイが俺の前に置いてくれた。白磁のカップには銀の装飾が入っている。

俺はカップに口をつけようとして、やめた。

この装飾がせめて金であればよかったのに。なんでもいい。この色以外なら。

俺には理由が分からなかった。

どうしても、分からなかった。

主催者の長い挨拶が終わり、和やかに会食が始まった。

微笑みながら交わされる挨拶。力強く握り合う手。傾けられる杯。そんな人々の間を縫うようにくるくると働くボーイ。白拍子はあっという間にその人の幕の中に消えた。清々する。

いつもなら周囲の視線を無視してがつがつと料理を腹に詰め込んでいた。

でも、どうしてかそんな気分になれなかった。

「そこにいるのBJ先生じゃないの?」

振り向くと、白髪の日本人がいた。後ろに学生らしき2人の供を連れている。

「あなたは…H大の漆原教授。」

思い出した。俺が熊だのライオンだの動物まで治療するものだから、この教授に興味を持たれメールをもらったのだった。俺もアフリカ好きで奔放なこの教授に興味がわき、何度か酒を飲んで交流を持った。

今夜は教授も珍しく正装をしている。いつもの白衣とアフリカのお面のほうが似合っていると伝えたら、にや~っと笑われた。

「何?メシも食ってないの?こんなとこに来たら食べるしか楽しみがないでしょうよ。」

どかどかと人を掻き分け皿に料理を盛る。俺にくれるのかと思ったら、目の前で骨付きソーセージにがぶりと噛み付かれた。彼の後ろでは学生らがおろおろとしている。

「教授、僕たちの会場はあっちの広間ですから!」

「他の会の料理なんて食べちゃダメですよ!」

ははあ、獣医学会が同じホテルであったとは。

「むー。向こうの方がうまいな。でも酒はこっちのほうが種類が多い!ハムテル!そこのワイン持って来い。」

傍若無人とはこの人のことを言うのだろうなと、流石の俺でも思う。医師会の連中は遠巻きに俺たちを見ている。おもしろくなって、俺もワインを煽る。

散々かき回して漆原教授は去っていった。去り際に「あんまりアンニュイな顔してると、失恋したのかと思われちゃうよーん。」とか何とか言っていた。

失恋って俺がか?思わず笑いがこみ上げる。あの人の雰囲気に釣られて、だいぶ飲んでしまった。空きっ腹では回りも速い。

残ったワインをぐるぐると回し、グラスを口に運ぶ瞬間、視界の端に銀色が見えた気がした。

目で追うと、クロークの前でゆっくりとコートを脱ぐ、長い銀髪の女が目に入った。

女は黒いロングコートを着ていた。背中をこちらに向けているから、顔は分からない。コートを肩から外すと、淡い金色のドレスが現れた。背中が大きく開いているドレス。上半身から腰にかけて体の線がはっきりと分かる。ボーイにコートを渡すと、銀髪が肩から背中にさらさらと落ちる。

心臓が派手な音を立てて跳ねた。

俺はあの背中を知っている。あの銀髪を知っている。

女はボーイに会釈し、こちらに向く。

じわりと汗が手のひらににじむ。

顔の左側に、あった。

今夜の姿にはおよそ不釣合いな、無骨な黒い眼帯。

キリコだ。

廊下を真っ直ぐに歩いてくる。

俺を見つけているのか。

会場に入る手前で、キリコは立ち止まった。そこへ駆け寄る人影があった。うやうやしくキリコの手を取っている。なんだあいつは!

人の垣根を押しのけて、近づく。大股で。俺はきっと怒りに燃えているように見えるだろう。

手を取った男は、しきりにキリコに礼を述べている。キリコはそんな言葉を微笑みながら聞いている。手を払いもせずに。その男を見つめたまま。

「こんなところにお出ましとは、驚いたな。キリコ先生よ?」

俺はできるだけ平静に声をかけた。得意技だ。

怯んだ男に甘い声で「また後で。」とささやき、人払いをすると、あいつは背筋を伸ばして俺に初めて視線を向けた。薄い青の瞳が射抜くように。

「お久しぶりです。BJ先生。」

事も無さげに、澱むことなく。形のよい唇に笑みさえ浮かべて。

血圧が上がる。

そんな俺を見透かすように、キリコの眼が三日月形に歪む。

また一段と女になった。豊かな胸元。それと同じくらいに主張をする腰つき。背中から腰にかけての曲線は、男には得ることが適わない。以前は肩までしかなかった髪も胸まで伸びて、毛先が少しカールしている。よく手入れをしているようだ。すらりとした首には、あいつの眼と同じアイスブルーの宝石。やわらかな唇には光沢があった。こいつ、化粧まで覚えやがった!

「けっ、よく化けたほうだがな、どんなに塗っても地がでちゃお仕舞いだぜ。」

「TPOは大事なんだよセンセ。特にこんな場所ではね。いつも同じスーツって訳にはいかないじゃない?」

減らず口が。何事も無かったかのように俺と普通に会話している奴が憎たらしい。

俺がどんな気持ちで、どれだけ、お前を。

ギリギリと睨みあう俺たちの後ろにサッと影が差した。振り向くとツイードのスーツを着崩した初老の男がいた。

「これはこれは、キリコ先生じゃありませんか。」

酒臭い。俺を押しのけてキリコに近づく。何だこいつは。キリコお前いつの間に知り合いが増えたんだ?

キリコは何も言わずにツイードの男に会釈をした。男の視線がキリコの胸元にねばつくようだ。ツイードは今度は俺に一瞥するとせせら笑うように言葉を続けた。

「いつからこの学会は、こんなアウトロー連中を招くようになったのかね。権威の失墜を招くよ。なあ、BJ先生。」

潮時だ。俺はグラスを置いて会場の外へ出ようとした。キリコも少し考えたようだったが、やはり会場に背を向けてクロークのボーイに目配せをした。

「キリコ先生、まだ安楽死などハイエナのようなお仕事をなさっているのですか?あなたの弟さんならともかく、女の身でお辛いこともあるでしょう。」

弟、そういうことにしているのか。過去の自分を。

ツイードがにやにやと下卑た笑いをキリコの腰に向けている。

「私でよければ、いつでもお力になりますよ。」

そういうと、キリコの肩に手をかけて顔を近づけた。

さわるんじゃねえ!

この言葉に含められた意味が分からないほど俺は鈍ではない。コートの中のメスを取ろうとしたが、コートはクロークだ。男に掴みかかろうとした瞬間、キリコが前に出た。

「私の安楽死にはリストがあることをご存知ですか。」

ひんやりとした、甘い声だった。

「値段が違うのだろう?」

ツイードは相変わらず癪に障るツラで、キリコを爪先から舐めるように見つめている。

「そうです。最近そのリストに、新しく最高額の安楽死方法を載せました。」

ぎくりと心臓が凍りつく。ツイードはその話に興味を持ったようだ。大袈裟な相槌で乗ってくる。口元に微笑をたたえながら、キリコは尚も続ける。

「《腹上死》です。」

流石にツイードの男の目がぎょっと見開かれる。

普通の女がこんなことを言ったら一笑で終わってしまう。しかし男は笑わなかった。見開いた目をキリコから逸らせないでいる。

俺は視線をツイードからキリコへと戻す。

背筋に冷たいものが走った。

キリコは、うまく言えないけれど、まるで、華のようだった。

明るく陽の光を浴びて咲く花ではなく、真夜中に咲く、毒性の強い、触っただけで命を奪われそうな、そんな華がもしあるとしたら今のキリコにぴったりだ。

キリコは妖艶にもう一度微笑むと、少し困ったような演技をした。

「でもまだうまくできないのです。ぜひ練習にお付き合いいただけたら……あら、いけない。そうなったら、お命が危ないですね。」

「くそじじいがーーーーーー!!!」

乾杯の音頭がそれだった。

ガッシャンとグラスが割れそうなくらいに勢いよくぶつけ、お互いにBOWMORE25年を飲み干した。飲み干す類の酒ではないのはよくわかっている。きつくて、上等のアルコールで消毒したかったのだ。

俺たちは町外れのバーに転がり込んだ。バーの中の誰も、俺たちがさっきまで睨みあっていたなんて思わないだろう。悪い立地条件にもかかわらず、店にはいい酒が揃い、他の客たちも趣味のよい音楽の中で穏やかにそれぞれの時間を過ごしていた。そんな雰囲気に癒されるように、俺たちの最初の興奮もだんだんと収まり、ぽつぽつとあの日以来のことをお互いに話していた。

「化粧を教えてくれたのは妹なんだ。」

度肝を抜かれた。

奴の妹、ユリさんははっきり言って勘が効く。

実の父を安楽死させようと躍起になっているこいつから、他でもない俺の下へ父を連れてきたこと。それからグマにかかって無人島で一人で死のうとしているこいつの居場所を突き止めたこと。勘の良さを証明する事例は枚挙に暇が無い。そのユリさんの勘が発動し、奴は屋敷を去った後、まもなくユリさんに捕獲(笑)されたそうだ。ユリさんはキリコの変化を驚きつつも、あっという間に受け入れてしまったという。

「流石、俺の妹だと思ったぜ。」

ユリさんは兄、もとい姉に不自由なく生活できるだけの女性としてのスキルを教えてくれた。

「買い物に行ったら、あいつの物までカウンターに並べてあるし、エステだ何だと連れ回されたが、結局あいつも俺の隣でやってるんだ。支払いは全部俺なのに!」

ちゃっかりしている。今はユリさんのアパルトメントを出たそうだが、月に1度は2人で食卓を囲む習慣が出来つつあるらしい。なんだかこのきょうだいは今がとても楽しそうだ。

俺はもうこいつに怒っていたことが、どうでも良くなってきた。

こんなふうにまた話せるなら。また笑いあえるなら。

ただ、キリコが俺にまた会いたければの話だが。

店を出て、真夜中の路地を歩く。

北風が肌を刺すけれど、酔った頬にはむしろ気持ちがいい。

俺はコートのポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。澄んだ空気に星が明るい。

キリコがちょっと遅れて、コートの襟元を押さえて歩く。こいつ今日はあんなドレスしか着てないんだ。足もむき出しで、とても寒そうだ。

ちょっと体温を確かめるつもりで、キリコの空いている手を掴んだ。

キリコと目が合う。手をつなぐ形になっているのに、今更気付いて。

どっちからなんて分からない。

町の明かりが届かない暗がりで、俺たちはお互いの唇を貪った。

同じ酒の味がする唇を味わい、違う煙草の残り香のする舌を吸い、一つの柱のようにしがみついて。

俺の脳裏にさっきの医師会場でのキリコがフラッシュバックする。

さっきバーで聞きそびれたことがぐるぐる回って、口から出た。

「まだ、安楽死を続けているのか。キリコ。」

キリコはじっと俺の顔を見つめた。

「そうだよ。」

俺の手はキリコの腰に回ったまま。

「安楽死は、もうよせ。」

キリコの手は俺の背中に回ったまま。

「先生こそ、切ったり貼ったりはもうやめたら?」

意地悪く言うけれど、お前さんはもう。

「お前さんこそ、本当にもうよせ。今日みたいな目にまた遭うぞ。」

「ううん。こんなのは慣れてるし、今日は依頼人にどうしても頼まれただけさ。表舞台に出ている自分を見て欲しかったんだって。」

そうだったのか。しかし、依頼人とは捨て置けない。あの場に安楽死をしたがっていた人間がいたのか。そして数日のうちにキリコはそいつを殺すだろう。目の前の美しく着飾ったキリコが誰とは知らない人間の命を絶つ様子を、俺は今まで垣間見た奴の仕事の瞬間とまざまざと重ね合わせてしまっていた。

突如、胃壁をじりじりと焼く嫌悪感が、俺の腹の中にヘドロのように溜まりだした。

奴が男の時にだって、仕事をしたと聞けばこんな気持ちになった。でも何か違う。もっと生理的に、本能的に付随する苛立ちがある。それを探ろうとして、俺は言葉を捜す。

「依頼人は、どんな病状なんだ。」

キリコはうんざり、という表情を作って見せた。

「俺が診たところは、もう治る見込みは無いね。」

「俺に診せろ。」

こんな問答でさえ、懐かしくて。

「ダメだよ、先生。もう俺と契約してるし、彼もそう望んだから俺のところにきたんだよ。」

空気の入る余地も無いくらい、ぴったりと体をくっつけてくる。路地を吹き抜ける風は身を切るよう、でもキリコと貼りついたそこだけは火が付いたように熱い。

「ねえ、BJ先生?」

奴も熱を感じている。唇がふれそうな距離でささやく。その唇をふさいでやりたい。

その瞬間に、気付いてしまった。

俺はキリコの仕事を許すことは出来ない。

生きられる命を勝手な判断で殺すのは、俺には耐えられない。

腹に溜まったヘドロの正体だ。キリコと長い時間過ごすなかで、俺はそのヘドロとの折り合いをつけようとしていた。

キリコが安楽死をするのは、信念であり、奴なりの尊厳だ。俺が患者を手術するのは、信念であり、生きる素晴らしさからだ。

俺たちの命に対する価値観は、皮肉なことによく似ていた。ただ、帰着する点がお互いに間逆の方向だった。俺が戦地にいたら、あいつになっていたかもしれないんだ。

思い込みに過ぎないかもしれない。

でも、今のお前は。

それをふつふつと更に煮え繰り返させるのは。

それ以上に。

「違う…キリコ。俺は女のお前が、安楽死をしているのが嫌なんだ。」

その言葉を聞いた途端、キリコの両腕が俺の肩を力いっぱい押し退けた。

弾かれて俺とキリコの間に隙間が出来る。

「女だから、何?」

キリコの声が尖る。

「女の俺が、安楽死でメシ食ってるのと、男の俺が安楽死やってるのと、何が違うの。」

何が違う。大違いだ。

安楽死をやめろ、やめないの問答は奴と出会ったときから挨拶のようにしてきた。何万回したかわからない。俺の中で折り合いをつけたはずのヘドロが鎌首を擡げる。

キリコの姿を改めて見る。

誰が見ても、こいつがもともと男だったなんて思わないだろう。整形手術をしたって、ホルモン投与をしたって、もとの性別の面影は少しは残る。だがキリコにはそれすらない。骨格が変形し、筋肉と脂肪の割合も変化し、内臓も完璧に変わってしまった。唯一残る眼帯だけが、あいつのアイデンティティと言っても過言じゃない。

そう、お前さんは変わってしまった。

男と女の大きな違いなんて、小学生でもわかる。胃壁がじりじりと焼け付く。

「だから、お前さんは女の体になったんだろう?女は産んで育てることができるんだ!男には絶対出来ない素晴らしいことが!」

俺の中の母への思いが吹き出した。そうだ。女性は命を産むことが出来る。そんな母と同じ性別の人間が、世界のどこかでたやすく命を絶っているなんて、俺には許せない。生きたい命があるのに、その命を産み出せるのに。

「俺が、誰の子を、産むって?」

小さく、鋭い声だった。

ぎりっとキリコの視線が投げつけられる。

さっきの男の二の舞だ。いや。その比ではない。

切り裂く風に銀髪が舞う。

揺ぎ無く俺と対峙し、拳を固く握っている。

ぎらぎら光を乱反射する一つだけの眼。

唇は固く噛み締められて色が無い。

壮絶に、美しかった。

俺は負けじと睨み返して、

「お前さんが誰の子を産もうが勝手さ。だがな、安楽死を続けるのなら、俺は縛ってでもお前さんを男の体に戻してやるぞ!!女の身で安楽死なんか、命を冒涜するのはやめろ!!」

静かな夜に、俺の声だけが響いた。

キリコはうなだれているように見えた。やがて浅くため息をつくと、踵を返した。

返事を聞けていない。逃がすまいと腕を掴もうとするのを、たやすく払いのけて、キリコはうつむいたまま足を止めた。

「やっぱり、会いたくなかった。」

はっきり、キリコは言った。

「BJ、俺が何故屋敷から消えたか、お前分かってなかったんだな。」

俺は黙るしかなかった。分からなかった。キリコは検査にも協力的で、オペにも前向きだった。俺はお前をもとの体に戻すのに必死だったのに。

「お前が…勝手にいなくなったんだろ。」

呻くように言葉を搾り出した。分からないと言っているようなものだ。

キリコが顔を上げた。

泣き出しそうな、耐えているような、あの時の顔と似ていた。

③へ→