葡萄畑で捕まえて(中)

キリジャバナー2

【四日目】

俺の食事に異物が混入された。

チキンの香草焼きから、かすかな異臭がしたのだ。不思議そうな顔をしているリーゼロッテに、まだ食事を始めるなと告げ、持ち歩いている検査キットを使う。するとチキンの肉汁が、見る間に薬物の陽性を示した。俺に毒物で挑むのか。なめられたもんだ。

犯人はあっけなく捕まった。俺の前に皿を置いた給仕の女性だった。

『ドクターキリコは日本から来た人だから、食事に〈ニガリ〉をかけるといいと、野菜を届けに来た男性が言っていた。自分はそれを鵜呑みにして、男性からもらった〈ニガリ〉を料理にかけてしまった。』ニガリは健康食品だと思っていたと、給仕の女性は泣きながら謝罪した。確かに日本で苦汁を健康のために摂取する人間はいるけれども、得体の知れない物を勝手に料理にかけるのはNGだろう。呆れるしかなかった。

同じテーブルに着いていたリーゼロッテは、ひどく落胆していた。信頼している従業員の中から、害をなす人間が出たのだ。信頼関係に影を落とすのと同時に、それは城中の全ての者が、安全ではないことを示していた。

不安が食堂を満たす前にリーゼロッテは従業員を集め、綱紀の緩みを引き締めること、身を守るために一人で行動しないこと、警備員の数を増やすことを指示し、その場を解散した。経緯はともかく、犯人の女性には厳しい処分をすることになりそうだ。

「悪かったわ。」

ショックを隠せないまま、リーゼロッテは呻く。

「よくあることだ。問題ない。」

「しばらくデリバリーを頼んだ方が安心?」

「どうかな。自分で作るよ。その方が変なものを入れられずに済む。」

「あんた、料理ができるの?」

目の前の小娘は、すっとんきょうな声を上げた。失礼な奴だ。俺が料理したらおかしいか。得意料理の名前を挙げると、リーゼロッテは目を真ん丸にしたり、ケタケタ笑ったりした。癪に障ったので、以前日本海側の漁港で鮟鱇を捌いたときの手順を詳細に説明したらおとなしくなった。ついでに厨房へ立つ許可を得る。

工場へ向かう約束があると、リーゼロッテは席を立ったが、食堂を出る手前で振り返る。

「野菜を届けに来た男は、誰だと思う?」

「多分、お前の思っている人物の差し金で間違いないだろう。証拠はないが。」

彼女は無言で頷くと、待たせていた執事を伴って廊下の向こうへ消えた。若い身空で、降ってわいた困難によく立ち向かっている。だが、お前のところまで、俺は手が回らない。契約の内容を履行するだけだ。

それにしても、あのツギハギどこ行った。この騒ぎの中、BJは食堂に現れなかった。まさか異物混入はデコイで、本命はBJのほうだったのか。嫌な予感がして、階段を駆け上がる。左右を見渡すと、右側の廊下をベッドが歩いていた。

…おい、そっちへ行くな。願いむなしく、ベッドは俺の部屋の真ん前で着陸した。

「なにやってんだ。」

ふうと一仕事終えたように汗をぬぐうツギハギに、一応紳士的に聞いてやる。

「今日からお前の部屋で生活しようと思って。付きまとうと言ったはずだぞ。俺は早く記憶を取り戻したいんだ。寝る間も惜しいくらいに。だから、お前と寝食を共にするのが、一番手っ取り早いと判断した。ところがベッドが一つしかない。さすがに不便だから、俺の使っていた部屋からベッドを運んで来たんだ。」

重すぎて手伝いを頼みたかったが、どういうわけか誰も見当たらない。自分一人でやるしかなかったから、食事をとり損ねたとツギハギはふくれっ面を作った。

もう何て言ったらいいのかわからない。本当にこの男をどうにかしてくれ。

「ほら、部屋の中にベッドを入れるのを手伝えよ。」

叫びたい。

やると決めたら、こいつはやる。痛いほど知っているはずなのに、今までの自分の認識が如何に甘かったか思い知らされている。BJは俺がどこへ行くにもついてくる。同じ空間にいても、ずっと俺の一挙手一投足を観察している。息が詰まるどころの話じゃない。

観察に飽きたかと思えば、怒涛の質問コーナーの始まりだ。「自分はどんな手術をしていたのか。」「医院は構えていたのか。」適当に答えていたら「好きな音楽は何だった。」だの「黒色しか着なかったのか。」だの、至極どうでもいいことを訊き始めた。俺はお前の説明書じゃない。耐えかねて一喝すると、しゅんと小さくなってしまった。以前のBJなら身じろぎ一つしない程度で言ったのだが、今のこいつには刺激が強かったらしい。まだまだ本調子ではないのだ。

口にチョコレートを放り込んでやると、うつむいてもぐもぐやっていた。そのまま黙っとけと、鞄に入っていた医学雑誌を渡してやる。BJは食い入るように読みだした。真剣な目つきは以前と変わらない。

やっと静かになった。窓を開けて、タバコを吸う。

精密な検査をしているわけではないから、楽観的な憶測は避けるべきだが、BJは記憶障害が目覚ましく回復しているように見える。約束の期間は半分を過ぎた。これからどう動くか、そろそろ見極めなければ。

カルロはおつむが弱いが、その分しつこい。嫌がらせは続くだろう。俺だけなら構わないが、BJに手がかかる可能性も日ごとに高まる。記憶が完全に戻っていないこいつは、襲われたときにメスを投げられない。結果的に同じ部屋になったのは、好都合なのかもしれない。俺達が一緒にいるところへ危害を加えようとするリスクは、さすがの王子様でもわかるだろう。そこまで考えたとき、ふいにBJが呟いた。

「お前のタバコのにおい、前にも嗅いだことがある。多分、好きなにおいだ。」

「…そうか。」

もっと気が利いたことが言えればいいのに、窓の外を見ることしかできなかった。

医学書を読み終えたBJは、専門用語を使って、治療法をつらつらと言えるようになっていた。回復具合を喜ぶべきなのだろうが、正直BJの生命力に底知れないものを感じて、肌が粟立った。天才ってやつは、とにかく常識が通じない。急に身体の力が抜けた。まともにやっていられないと、本能の部分で悟ったのかもしれない。

ふざけ半分で、あるゲームを提案した。俺が疾病の名前を挙げて、BJはその治療法を答えるクイズみたいなもの。「いいな!」と子犬の瞳で、BJはやる気十分だ。俺は気楽にやりたかったので、念入りに洗浄したポットで湯を沸かし、紙コップにインスタントコーヒーを入れた。

「どうして紙コップなんだ?」

「こーゆーのが流行ってるんだよ。」

「ふうん。砂糖はないのか。」

「ブラックで飲むのが流行ってる。」

「お前、かなりミーハーなやつなんだな。」

そういうことにしておいてくれ。思い付きで開催されたクイズ大会は、BJの正答率8割という恐ろしい数字を叩き出した。残りの2割は回答がとんでもなさすぎて、不可を出した。最前線を退いた俺の知識ではここまでだから、きっとその上を行く治療法のことなども思い出しているのだろう。実際BJは、ぶつぶつと症例と対処法を呟き続けている。頭から湯気が出そうだぞ。少しリラックスした方がいい。庭へ散歩に連れ出した。

庭へ足を向けると、アルベルトがいた。

「今日は隠れていないんだな。」

「もうしませんよお。そうだ、お二人さん。四阿の手前にある生垣が、ひどく壊れてしまいまして、応急処置のために、業者が木材を運んで来たんです。まだ木材が荷台に乗ったままだと思うんで、近付かないでくださいねえ。」

「そうなのか。教えてくれて、ありがとう。」

素直に礼を言うBJに、アルベルトは「いえいえ~」と手をひらひら振って、木材を運ぶための道具を取ってくると物置に入っていった。

少し歩くと、確かに壊された生垣があった。かなりの範囲で低木が引っこ抜かれたり折られたりして、生垣が囲んでいた花壇の土が流れ出している。こんな嫌がらせをして意味があるのかね。リーゼロッテへの圧力のつもりだろうか。生垣の傍に、板状の木材が積まれた荷車があった。アルベルトの助言通り、避けて進む。

突然、背後から大きな物音がした。

振り向く間も無く、木材が俺達を目掛けて倒れ込む。

腕を上げて受け止めるが、あまりの重量に潰れてしまう。ゴツゴツと木材がぶつかり合う音が響く。

幸い頭の上に屋根ができるように木材が折り重なったので、体への衝撃はそれほどではなかったように感じる。

背中に伝わる木材の振動が止むのを待って、とっさに抱えたBJの顔を見る。うん。顔は怪我してないな。頭は俺の腕でカバーできたはず。他はどうだろう。指が痛んでないといい。

ぐっと力を込めて、体の上に覆いかぶさった木材を持ち上げる。

「BJ、怪我はないか。」

リーゼロッテの采配で城から出てきた人々が、木材をどけてくれているようだ。土煙と慌てた声が混じる中、俺たちは木材の山から這い出した。

BJの体をチェックする。指は動くか、腕は痛まないか、診察するように体を見ていると、BJが叫んだ。

「自分の体を見てみろ!ひどい出血じゃないか!」

指をさされた方を見ると、シャツの脇腹がべっとりと血に濡れていた。

木材で腹の肉が少しえぐれただけだろう。青くなったり、悲鳴をあげたりする城の人間の前を素通りして、自分の部屋へ戻る。シャツをきつく巻いて止血帯にする。縫合したほうがよさそうな傷だが、生憎道具の手持ちがない。そうだ、BJの鞄があったじゃないかと顔を上げると、ツギハギが不機嫌そうに俺の前に立っていた。

「どうして俺を庇ったんだ。」

どうしてと言われても。契約だからと説明したが、ツギハギは納得しなかった。無言で鞄から道具を取り出す。縫合針を手にしているのを見て、ぎょっとした。

「人体実験の被験者になるつもりはないんだが。」

「縫合だけなら、多分できる。麻酔は自信がないから、しない。」

どうしてこう何度も、こいつに麻酔なしで縫われなきゃならんのだろうか。

ちくちくと針を動かす手つきは、お見事。BJは、あっと言う間に縫合を終え、木材がぶつかった腕を診察し出した。これも記憶を取り戻すきっかけになるかと、好きにさせた。

しかしながら、どうして木材が倒れ込んできたのだろうか。離れたところにいたのに、まるで突進してきたかのようだった。俺達に忠告したアルベルトが関わっているとは考えにくいが、忠告すら囮だったのだろうか。

「骨が折れてないか診たい。」

BJは俺の腕をとって、ぐるぐるまわしたり、持ち上げてみたり、ひとしきり確かめた。レントゲンを撮らなきゃわからんとは言ったが、現地点で骨折の気配はない。次は俺の背中に回って、ぺたぺたと手を這わせる。冷たい手をしているな。珍しい。

「内出血している。打撲もあるだろう。湿布を張るから、痛む個所を正直に言えよ。」

意地をはるなってことか。正直に痛むところを申告し、湿布をはってもらう。ひんやりとした湿布の感触を味わっていると、背中にぽふんと重量を感じた。BJの頭が当たっている。

「お前、食事に毒を盛られたんだってな。」

BJは、ぽつりと呟く。

「今の事故は、荷車が勝手に動き出したって。」

ごつごつと頭突きをされる。

「お前は言わないけど、もっといろんな目に遭ってるんだと思う。」

背中にぬるい雫が降っている。

「俺、どうしてお前にここまでしてもらえるのか、わからない。頭の中に名前が付けられない感情があるんだ。認めたいのに、受け入れられない。そんな感情が、お前を見ていると湧いてくるんだ。」

無言の俺の背中に、BJは話し続ける。

「嫌悪感とかじゃないんだ。胸の奥がつきつき痛むみたいで。これも記憶を失くしているせいなのかな。」

んー。一呼吸おいて、BJの方へ体を向けた。

「思い出すのが苦しいことなら、忘れたままでいいんじゃないか。」

「…え?」

濡れた頬を包み込むようにして、BJの顔を上げさせる。

「お前が一番に思い出さないとならないのは、手術に関することだろう。イサベラを助けるんじゃないのか。」

「うん…」

「それから、俺がお前に世話を焼くのは、リーゼロッテと契約したからであって、俺自身のためだ。気にする必要はない。俺は好きにやってる。」

「でも、お前が怪我したりするのは、おかしいと思う!」

そうだよな。俺もそう思う。でももう少し辛抱するだけでいいんだから、問題ない。相手も最終的には俺を殺したくないだろうし。

「お前が手術できるようになれば、なんとかなる。ほら、縫合ができただろ。知識も戻ってきてる。順調だ。ただ、俺がお前と一緒にいられる時間は、あと3日しかない。その間に、お前が自信を取り戻して、手術する姿が見られたら最高だ。」

『記憶』とは言わなかった。まだ涙で潤んでいる瞳を覗き込む。そっと触れた唇は、少しかさついていた。

「おやすみのキスだ。俺は休む。」

今頃傷がずきずきしだしたのを隠すように、シーツに潜り込み、無理矢理意識をシャットダウンさせた。

【五日目】

熱が出た。昨日の怪我が原因だろう。傷が化膿していたり、どこかが腫れているわけではないから、単純に免疫がちょいと落ちたんだろう。午前中はのんびりするとしようか。俺が起きた時には、もうBJはいなかったし。欠伸をすると、ノックが聞こえた。許可など不要と言わんばかりに、ドアが開け放たれる。

「見舞いよ。受け取りなさい。」

袋一杯にペットボトルを持ったリーゼロッテだった。急に気力が抜けていく。

「ムカつくわね。ありがとうとか言えないの?」

「お前、友達いないだろ。」

「あ、あんたみたいな陰キャに言われたくないわ!」

にゃあにゃあ喚く子猫はほっといて、渡された袋の中を見ると、飲料水がたくさん入っていた。

「助かる。異物混入で、この城の人間を困らせたくないからな。」

些か留飲を下げたリーゼロッテは、つかつかと部屋を横切り、窓際のソファに腰掛けた。今日の彼女は、こなれた印象のパンツスーツを身に着けている。黙っていれば様になるのに、足が痛いとブルーのヒールを放り出した。

「ああもう、工場まで行ったのに無駄足食わされたわ。あの人、工場の役員にまでちょっかい出してるみたい。昨日の庭の件も、あの人の企みね。」

「何か掴んでるのか。」

「まあね。ただ、今すぐ突き付けても効果が薄い。タイミングが大事。あなたには、とても悪いと思うけれど。」

「それも込みの10億だ。忘れるなよ。」

そうね。軽く返事をしたきり、リーゼロッテは俺をじっと見つめた。BJのときの虫かご状態ではないが、注意深く観察されている。やがて彼女は、至って真剣なまなざしで問いかけてきた。

「あんたとブラック・ジャック先生、普通の関係じゃないでしょ。」

こんなことを他人から訊かれるのは初めてだ。

「確かに商売敵に手を貸している状況は、普通ではないな。」

「ううん。もっと感情的な部分よ。恋人とかじゃないの?」

「恋人かあ…」

「ちゃんと人間の言葉で言ってるからね。生まれて初めて聞いたみたいな反応しないでくれる。」

「随分と馴染みのない言葉だったから、処理が追い付かなかった。それで、どうしてそう思うんだ。」

ふうん、と口をへの字に曲げて、リーゼロッテは足を組んだ。

「なんだか私と似たような感じがしたから。私、クィアみたいなのよね。幼いころから、自分の性別と認識に違いがあって、思い切ってアメリカに行ってみたらスッキリした。長いこと私はクエスチョニングだったんだって。それからカウンセリング受けたり、コミュニティに顔出してみたり、いろいろ。クィアってカテゴリが、今の私には合うの。」

クィアか。ざっくりとしか知らないが、性的マイノリティの総括的な名称だ。

「まだ私が女として同性を愛すのか、異性を求めるのかわからない。どっちでもあるし、どっちでもない感覚ね。ひょっとしたら性って概念がないのかも知れない。自分の性について、納得のいく名前を見つけてないの。だからクィア。それでいいの。」

組んだ足を伸ばして、手をストレッチするように前に出す。猫が伸びをしているようだ。しなやかな動きの子猫は好奇心いっぱいの眼を向ける。

「私がこれから誰を愛せるのかわからないけど、人間として気持ちを通わせられる人と出会えたらステキだなって、あんたたちを見てて思ったのよ。」

「それは買いかぶりすぎだ。」

仰天した。もともとのあいつを見たら、そんな幻想ぶっとぶぞ。気持ちが通うとか、都市伝説だ。あいつと出会ってから俺が飲んだ胃薬の量、教えてやろうか。懇々と説教臭くなりだした俺に、彼女は露骨に嫌な顔をした。

「やっぱり、私の眼って確かだわ。」

投げ出したヒールを拾い、窮屈そうに履く。

「あんたは喋ってても、殴りたくならないもの。私、男はダメなのよね。今のところ。城の人たちはみんな分かってるから大丈夫。外じゃそうはいかないから、結構がんばってるのよ。もちろんダメじゃないタイプの人だっているわ。それでも触られたらボコボコにしちゃうかもしれない。殴った後に拳を消毒しまくる。」

アルベルトが言っていたことは、本当だったのか。男と見るや引っ掻く子猫なんて、誰も拾わないぞ。それなら食堂でカルロに抱きつかれた時は大変だったんじゃないか?よくぞ聞いてくれたと、リーゼロッテは如何に不快だったか、マシンガントークを繰り広げた。

「変ね。あの人、知っているはずなのに。」

「おつむの弱い王子様の秘密か。」

「なにそれ。」

そのあだ名をつけるに至った経緯を話すと、リーゼロッテは自分もそのあだ名を使うと言って笑った。そして小さく謝罪の言葉を残して、部屋から出て行った。

ひと眠りすると、平熱まで下がった。脇腹の痛み具合を確かめるために、城の中をうろつくことにする。痛むには痛むが、大げさにするほどではない。小さな傷なのだし。階段の上り下りは大丈夫。椅子に座るのは、ゆっくりならいける。そうこうしながら厨房の前を通りかかると、大きな声がした。

「困ります!」

厨房の扉の覗き窓から、ツートンカラーの頭が見える。貧血のような感覚に襲われながら、覚悟を決めて扉を開けた。料理長が眉をハの字にして、仁王立ちしている。その前で、ぶすっとだんまりを決め込んでいるツギハギ。何をやらかしたのかと厨房の作業台を見ると、肉の塊が山のように積まれていた。

どうして大量の肉を持ち込んだのか尋ねると、BJは絞めた直後の山羊を農家から買い、郊外の野原で朝から切り刻んでいたそうだ。わかってる。お前が手術の練習したくて、そうやったのはわかってる。でも。

「なんなのお前!シリアルキラーにでもなるつもりか⁈」

やがて食堂に国際色豊かな山羊の肉料理が大量に並び、涙目でBJが食べていた。厨房の人たちからは、慇懃な言葉遣いで対応されるようになった。

「アルベルト、タバコ買って来い。」

「やですよお。それに禁煙だって言ってるじゃないですかあ。」

俺は四阿のベンチにぐったりともたれかかり、アルベルトを捕まえてパシらせようとしていた。部屋に戻るとBJがきょろきょろしていて落ち着くどころじゃないし、静かに休める場所は、この四阿くらいしか思いつかなかったのだ。ポケットにタバコが入っていないことに気付いた瞬間の絶望感たるや。

「駄賃やるから、買って来てくれ。」

「やですってばあ。僕、もう仕事に戻りますねえ。」

身を捩って逃げようとするアルベルトの後ろの茂みを、小走りに通り抜けようとする人影がある。

「リーゼロッテじゃないか。」

びくりと彼女は足を止めた。さっきはパンツスーツを着ていたのに、今はワンピースだ。わざわざ庭の隅を通っていたのは、ワンピース姿を見られたくなかったのか。

上流階級の人間はドレスコードが厳しい場合も多いし、意に添わなくても、場に応じた装いをしなくてはならない。現に彼女は淡い水色の手袋を嵌めた、ややフォーマルな印象になっている。俺の部屋で彼女とした話を思い出すと、服一つでも悩むことがあるように思えた。

落ち着きがないリーゼロッテは、口を開こうとする。それにアルベルトの間の抜けた声が重なった。

「そうだ、リーゼロッテお嬢様。イサベラ様のお部屋へ行く時間じゃないですかあ。」

「ああ、そうね。急がないと。失礼するわ。」

ぱたぱたと駆けていくリーゼロッテの姿を視界の隅に置いて、アルベルトに尋ねる。

「リーゼロッテは何をしに行くんだ。イサベラの顔を見に行くだけなら、時間は関係ないだろう。」

「いろいろとお世話したいんですってえ。じゃあ、僕、行きますから。」

生垣を全部撤去することになったのだと、ぶつぶつ言いながらアルベルトは去っていく。

一人残された四阿で、さっき抱いた小さな違和感を整理する。

イサベラのお世話、か。寝たきり老人の介護は楽じゃない。下の世話はさることながら、体を拭き清めるにしろ、老人独特のにおいがつくのだ。それを、あんな上品な手袋をしてするのか?衛生面からしても、遠慮願いたい。そもそもリーゼロッテは、工場にワイナリーに、城が所有する財産管理のために奔走しているはずだ。それなのに彼女の姿を城でいつも見かける。

秘密があるのは、王子様だけじゃなさそうだ。しかし、そこには頭を突っ込みたくない。探偵ごっこなんてまっぴら御免だ。俺がすることは、BJの記憶を取り戻す。それが契約だ。

夕食の後、バスルームにこもる。シャワー代わりに固く絞ったタオルで体を拭く。本当はガーゼの上からガムテープを貼ってシャワーを浴びたいのだが、それを見るとケトルのように湯気を吐く奴と同室なのでやめた。頭だけは洗面台で洗った。こういう時、髪を切ろうと心に誓うが、達成されたことはない。慣れると長髪は楽なのだ。ドライヤーで髪をしっかりと乾かして、バスルームから出ると、2つのベッドが1つになっていた。

俺のベッドとBJのベッドの隙間がなくなるように、ぐいぐいとベッドを押しているあいつ。

考えることを放棄した俺に気付くと、BJはベッドをポンポン叩いて、湿布を見せた。ああ、貼ってくれるのね…

「お前は就寝しているときの寝返りの回数が少ない。平均して1時間に1.7回。一般的な数値より低い値だ。寝返りには血行促進の効果があり…」

つらつらと説明しながら、俺の背中に湿布を貼るBJ。ぞくぞくするのは湿布のメントールのせいだけじゃない。どうして俺の寝返りの平均値を知っている。考えたくないが、こいつは寝ている間でさえ、俺を観察していたのだ。それは、もう、記憶云々以前の話だ。

「だから、ベッドをくっつけた。」

結論が唐突すぎたのと、説明をまるで聞いていなかったのと合わせて、反応に困った。

「もう一度説明してくれ。どうしてベッドをくっつける必要があるんだ。」

「大きなベッドの方が、寝返りが打ちやすいだろう。」

どうしてこんな簡単なことがわからないんだと言わんばかりに、BJは眉を顰めた。わかってたまるか。

「じゃあ、お前はどこで寝るんだ。」

「ベッドの上で寝る。当たり前だろう。」

同じベッドで寝るってことか。なるほど。よくない。

「俺は床の上でも眠れる。寝返りを打つために、広いスペースが必要なら、床の方が面積があって最適じゃないか。」

「正気か。衛生上の問題がある。そもそも血行促進のための対策なのに、硬い床の上では意味がない。」

「じゃあ、ソファにするよ。」

「だから広さが必要だと言っているだろう。」

ニコイチ状態のベッドの上で、やいやい言っていると、急にBJは俯いた。

「そんなに俺といるのが嫌なのか。」

違う。今のこいつは俺たちの関係を、すっぱり忘れてしまっているけれど、俺はそうじゃないってだけだ。それを説明できるほど、自惚れちゃいない。

「お前が俺の治療してくれたり、体のことを考えてくれているのは、感謝している。お前と一緒にいるのが嫌だってことはない。」

パッとBJは顔を上げた。あ、嫌な予感。説得を試みる。

「しかし、俺はパーソナルスペースが広い方なんだ。お前の提案は、きっと一般的には効果があるかもしれないが、俺には向いてない。」

「わかった。それならベッドに境界線を作ろう。その線を超えて、俺はお前に近付かない。これでいいだろう。」

お前がソファで寝る選択肢はないのかと言いたい俺をそっちのけにして、BJはシーツやクッションで境界線を作っていく。その分ベッドの面積が狭くなるのは構わないのだろうか。若干、俺のスペースを広く取ってくれていた。若干と言うところに、こいつの記憶が戻りつつある状況を実感する。もういいやと、横になろうとしていたら、BJの緊張した声が耳に届いた。

「明日、イサベラを手術するために、町の病院のスタッフとミーティングする。早ければ、明後日に手術をする予定だ。」

体を起こして続きを待つ。

「俺がきちんと手術ができるか、正直五分五分だ。イサベラの診察をしてきたが、彼女の体力が持つかどうかも。だが、やらなくてはならない。治療法のない病だとイサベラは諦めていたようだが、方法は、ある。」

力強い言葉に、ほのかな安心感を覚える。光が戻ってきた眼差しが眩しい。BJは俺に視線を合わせると、少し困ったような顔をした。

「お前も医者だって言うんなら、手術を手伝ってくれたら助かる。だけど、お前はそういうの嫌だろう。」

「当たり前だ。俺は安楽死専門の医者だ。イサベラの手術中に、彼女が助からないと判断したら、即座に安楽死を施すよ。」

怪訝な顔をして、BJは黙ってしまった。しばし考え込んだ後、重そうに口を開いた。

「前に…そんなようなことが、あった気がする。あの時…」

あまり思い出したくない。

「そんなことにリソースを割くな。イサベラの手術のことだけを考えろ。五分五分から逆転狙うんだろ。」

BJの瞳が潤んでいる。こいつなりに不安なんだろうか。こんな時、どうしてやればいいんだろう。記憶がある時と今は、かなり違うから。

やがて焦れたように、BJはベッドの境界線ギリギリまで身を寄せ、遠慮がちに上目遣いで俺を見た。

「おやすみのキスは、してくれないのか。」

おい。俺の配慮を灰燼に帰すのか。イラッときたから、してやった。ちょっと濃厚なやつ。

【六日目】

目を覚ますと、境界線はどこへやら。BJは俺の腕の隙間に入り込んで、ぐっすり眠っていた。寝起きで拷問に遭うとは。わかってただろ、俺。

さっさと身支度を整えたところに、町の病院のスタッフ達がやって来たと連絡が入る。BJは資料を手に、ミーティングへ向かった。俺も同席しようかと考えないでもなかったが、あいつが自分でやると決めたんだから、手は出さないと判断した。

ひとり城の大廊下を歩く。

歴代の城主の肖像画が並んでいるエリアに出た。かなり古めかしいものから始まっている。近代になると城主だけでなく家族で描かせた肖像画になる。ここで写真にならないあたりが、古城の伝統なのだろう。

一番端の肖像画には、明るい茶色の髪のがっしりした男性とその一人息子。そばに寄り添い微笑むのは、輝く赤い髪をした若き日のイサベラだ。夫にはかなり早く先立たれたと聞いている。おそらくこの肖像画が描かれた数年の後の出来事なのだろう。絵の中のイサベラは、くすんだ緑の瞳を正面に向けている。

BJの記憶障害が回復するにつれ、イサベラのことを考える時間が増えた。これまで俺がしてきたことは、ただ彼女の苦しみを長引かせているのではないかと、一度も自問しなかったと言えば嘘だ。リーゼロッテとの契約だと割り切ったくせに。

イサベラを診察している医者から彼女の容態を聞くだけでは、わからないことが多すぎて焦燥感が募った。BJの視点では助かることを前提にしているため、参考にならない。現地点では何もないのだ。俺がイサベラにできることは。ただ手術前に、一度でいいから彼女の顔が見たかった。

イサベラの部屋を見つけるのは簡単だ。警備員がドアに張り付いている部屋を探せばいい。正攻法でうまくいくとは思っていないが、できれば穏便にしたい。丸腰であることを証明して、二人の警備員にイサベラへの面会を希望した。当然、にべもなく断られる。この雰囲気だと買収も難しそうだ。リーゼロッテのやつ、きちんと人選に金かけてるな。最悪、城壁でロッククライミングするか。

「ドクターキリコ、お婆様に会いたいの?」

ゆったりと廊下の絨毯を歩き、背後から現れたリーゼロッテは完璧な令嬢モードだった。ミントグリーンのスカートに白いレース調のブラウス、そして同じ素材の手袋。膨れた子猫の容貌は鳴りを潜め、おしとやかな雰囲気。そういえば、ロックバンドのTシャツを着ていたり、パンツスーツからワンピースになったりと、彼女はころころと衣装の雰囲気を変える。今日のリーゼロッテは令嬢の気分なのだろうか。

警備員に話しかけ、リーゼロッテはイサベラの部屋へのドアを開けた。

「一緒に来る?変なことしたら、どうなるかわかってるわよね。」

穏やかな口調だが、視線の中には冷たいものがある。

「会わせてくれ。今は何もしない。」

軽く頷くと、俺の横を素通りし、リーゼロッテは警備員を一人連れて部屋に入っていく。俺もその後に続いた。

藤色の天蓋が覆うクラシックなベッドの周りに、最新鋭の医療機器が並ぶ。生命を繋ぐ機械の音が、いくつも部屋に満ちている。

見事な木彫のサイドボードの上に心電図モニターが乗っているのは、異様を通り越してスチームパンクの様相すらある。そんな現実味のない空間で、古城の主は横たわっていた。

彼女のベッドへ近付きながら、機械の数値やグラフを確認し、点滴、投薬の種類、彼女の体に繋がれる管の行方、病室の状況から得られる情報を掻き集める。『見切りが早い』と常々あいつに指摘されるが、流石に今の情報だけでは、彼女の病状を判断できなかった。

俺の先を行くリーゼロッテが、そっと枕元の幕を開ける。やわらかく差し込む光に、依頼人の姿が浮かび上がってくる。イサベラは眠っているようだった。酸素を付け、自立して呼吸している。見たところ、穏やかな顔つきだ。リーゼロッテの話によると、目を開ける日もあるそうだが、会話はできず、意思の疎通も難しい。

「お婆様、ドクターキリコが来たわよ。お婆様のお顔を見に来たんですって。」

そっとイサベラに囁くと、リーゼロッテは俺を枕元に招いた。俺はさっき警備員に身体検査を念入りに、執拗に、されている。

イサベラの横へ座り、俺は彼女の顔を見つめた。あの愛嬌のある瞳は、青く窪んだ瞼の下。俺の医院に訪れた時の朗笑する彼女と、現在の横たわる彼女がオーバーラップしてしまい、使命感が募る。

「現在の状況を申し訳なく思っています。ですが、契約はまだ破棄されていません。時が来れば、契約を果たすとお約束します。」

「まだ、そんなことを言っているの。」

呆れたような、力のないリーゼロッテの声が耳につく。

「明日までにお前がイサベラの正当な後見人となって、安楽死の依頼の取り下げを申請しない限り、俺はイサベラとの契約通りに安楽死を施す。これでも最大限に、お前に譲歩した。忘れたのか。」

「そんなの、お婆様の命を人質にとっているのと同じじゃない!」

「いいや。違う。仕事上、俺はイサベラとの契約が、絶対なんだ。」

「契約、契約って、それがどうしたって言うのよ!」

明日までと期限を突きつけられたのがショックだったのか、リーゼロッテは頭を振って泣き出した。涙が散り、赤い髪が舞う。病人がいるところで騒ぐべきではない。

困惑する警備員を尻目に、彼女をイサベラの部屋から引きずり出す。そのまま隣の空き部屋へ放り込み、内側から鍵をかけた。

彼女は嫌だ、嫌だと泣きじゃくり、俺に向かって部屋の調度品を投げつける。髪を乱して、手当たり次第に。クッションが跳ね、椅子は倒れる。わんわん大声を出して暴れる姿は、癇癪を起した子どものようだ。重い石の置時計を手にかけたので、その腕を掴んで引き寄せた。

「お前は、誰だ。」

エメラルドの瞳が見開かれる。髪に手を触れると、赤毛のかつらが床に落ちる。さっきの癇癪で緩んでいたのだ。かつらの下にあったのは、つやのない茶色の髪。

「涙で化粧が落ちてる。」

そう告げると、鼻にそばかすが散った少女は、力が抜けたように座り込んだ。

「瞳はコンタクトレンズかな。手袋を外して見せてくれ。」

観念したように、白いレースの手袋を抜き取る。やがて指先の荒れた小さな手が現れた。

リーゼロッテに扮していたのは、葡萄畑の粗末な小屋にいた少女だった。

散らかった調度品を適当に片付けて、ドアノブに手をかける。

「落ち着いたら、さっさと身支度整えて出て来い。俺はもう行く。」

「…どうして、とか、訊かないの。」

少女は真っ白な顔に驚愕の感情をいっぱいにしている。どうして、ね。

「あまり興味がない。きっとお前には何か役割があるんだろう。それは多分、この城の人間に危害が加えられる種類のものではない。ずっとイサベラの世話をしてきたんだ。これだけわかれば十分だ。」

「だ、だめよ。行かせない。あなたはお婆様を殺してしまう。殺人者!あなたは悪魔よ!」

追いすがる手を払いのける。絨毯の上に転ぶ少女。

「黙れ、クソガキ。母親は殺せても、お婆様は殺せないのか。理由は何だ。金か、地位か、甘いコットンキャンディか。」

「そんなんじゃないわ…」

俺を睨みつける少女は、ロゼフィニアと名乗った。そのまま話を続けようとしたので遮る。戸惑うロゼフィニアの前で、タバコに火をつけた。

「このタバコを吸い終わるまで聞いてやる。簡潔に話せ。」

ロゼフィニアはリーゼロッテの異母妹だと言う。町の工場の秘書として働いていたロゼフィニアの母を、リーゼロッテの父が見初めて、彼女が生まれた。

ところがよくある話で、本妻の怒りにふれてしまい、葡萄畑の粗末な小屋で母子は慎ましく生活していたそうだ。やがて不慣れな畑作業の無理が祟って母親は病に倒れ、満足に治療も受けさせられない。

そんなときにイサベラが小屋を訪ねてきた。息子の不始末を詫び、病気治療を申し出た。他にも何か難しい話をしていたそうだが、ロゼフィニアには理解できず、また母親も首を縦に振らなかったため覚えていない。

その後もイサベラは足繫く小屋へ通い、ロゼフィニアは優しいお婆さんが大好きになった。しかし彼女の母は頑として治療費を受け取らず、また全ての援助も不要と突き放した。苦渋を味わった母の意地だったのだろう。当然病は進行していく。痛みに苦しむ母のそばで、ロゼフィニア自身も衰弱していった。

ある日、彼女が畑仕事を終えて家に戻ると、涙を流しながら言い争う母とイサベラの姿があった。あなたたちが幸せになれるように、どうか手を取ってほしいとイサベラは泣いた。私の幸せは過去にあり、今は穏やかに死ぬことだけが望みだと母は泣いた。せめてその望みだけはと、イサベラは俺の名前を出したのだった。

「お母さんが苦しんでどうしようもなくなったときに、ドクターキリコという人が来るから、頼りなさいって。私も約束してるんだよって。お母さんは、今まで秘密で貯めてきたお金があるから、それを使いなさいって。」

だがイサベラの方が先に倒れた。噂に聞いて心配でたまらなくなっていたところへ、リーゼロッテが執事を伴ってやって来た。ロゼフィニアは自分がリーゼロッテの妹であることを知る。同時に父親が誰なのかも。誕生日が半年しか違わないリーゼロッテは、苦虫を嚙み潰したような顔で、ロゼフィニアに提案した。

「お婆様を守るために、リーゼの代わりになって欲しいって言われたの。リーゼはこれからすごく忙しくなるから、お城にいられない時が多くなる。その時に私がリーゼのふりをしていれば、お婆様を悪い人から守れるって。怖い目に遭わせてしまうけれど、ごめんねってリーゼは謝ったけど、私は全然平気。悪い人だって畑のイナゴみたいに大勢いるわけじゃないし。」

急ごしらえの令嬢生活と、小屋での母親の世話。二重生活は長くは続かなかった。俺が葡萄畑の小屋へ来たからだ。道理で二件の依頼が続いたわけだ。イサベラは自分に何かあったときに、ロゼフィニアの母の依頼も含めて、俺に知らせが行くように手筈を整えていたのだろう。

「がんばってリーゼのふりをしてきたのに、あなたにバレちゃった…」

タバコの煙が薄くたなびく室内で、あどけない口調のロゼフィニアはスカートの裾を握る。姉妹だな。姉はテーブルクロスを引っ掴んだが。

「どうしてイサベラが安楽死を受けるのに反対なんだ。」

イサベラが俺に依頼していたのを知っているのなら、安楽死の理念をわかっているはずだ。何より目の前で、母親が安らかに旅立ったのを見ている。受け入れられない理由が存在するのか。理解に苦しむ俺に、まっすぐ無垢な瞳が向けられる。

「だってお婆様は、まだ生きられるもの。痛い痛いって一晩中呻いたりしない。お顔も手足も、すべすべのままよ。それに、まだ三週間しか、ベッドに居ないんだもの。」

そうか。

「明日、お婆様がいなくなったら、私一人になってしまうわ。誰が優しくしてくれるの。」

いい加減、指が火傷しそうになってきた。タバコを携帯灰皿に突っ込む。

「わかった。簡単だわ。あなたがいなくなればいいの。」

胡乱な瞳でガラスの花瓶を握り、猛然と突進してきたロゼフィニアを躱すと、彼女はそのまま床にのびた。突っ伏したままのミントグリーンの尻に、どかっと腰を下ろす。バタバタと脚を振り上げるので、ぴしゃりと叩いておく。細っこい腕が絨毯をポカポカやってホコリを立てるので、茶色の頭の鼻先に革靴のかかとを落とす。ようやく静かになった。

これは、いろいろと栄養が足りてない。食べ物がどうってより、主に情操面の栄養不足。似たような奴、知ってる。ツギハギで、頭がツートンカラーで、今、一生懸命ミーティングしてる奴。リーゼロッテに比べて格段に未熟なのも、それが原因だな。姉と誕生日が半年しか違わないなんて信じられんほどだ。精神と実年齢とのギャップが大きすぎる。おそらく幼い頃に栄養が足りてないから、歪に育ったんだろうけど。喜べ、お前は若い。まだ矯正の余地はある。俺が将来を案じてやっているのに、下でぐすぐすやりだした。

「座り心地悪いな。肉をつけろ。お前、ちゃんと飯食ってんのか。」

「食べてる…ッ。一日三回も、食べてるもん。」

「全然足りん。10時と3時に菓子を食え。寝る前に牛乳を飲め。」

「牛乳、嫌い…」

俺の全体重をかけて座ってやると、みぃみぃ鳴き声を上げた。子猫のもっと小さいのは、どう呼んだらいいのだろう。俺はガキの世話をしに、ここへ来たんじゃないんだが。

「アルベルトー」

「誰もいない空間に呼びかけるの、やめてくれません?」

時代劇の一幕を彷彿とさせる。大名が「誰かある。」って言ったら、屋根からスタッと忍者が下りてくるところ。ここはいつもの四阿で、時代劇の舞台ではないけれど。間の抜けた話し方をやめたアルベルトは「ニンジャみたいなこと、できませんからね。」と、狐目を更に細くした。心の声が聞こえたか。

「あなたの用件は、なんとなくわかります。バレちゃいましたもんね。あの子。」

「長いこともった方だと思うぞ。大分苦労したんじゃないか。アルベルト。」

「…苦労は現在進行形ですよ。次々と対象が増えていく辛さ、わかります?僕の体はひとつしかないのに!」

まあまあと冷えた炭酸飲料を差し出す。カフェイン多めのやつ。アルベルトは俺の隻眼を値踏みするように見つめた後、ぶすっと炭酸飲料を受け取った。

「なんで僕の好み知ってるんですか。これ大好きなんです。」

「半分偶然、半分確信だ。俺の古い知り合いが、こういうのが好きだったんだ。徹夜で監視するときに効くってな。お前の歩き方を見ていたら、思い出したんだよ。」

「以後気をつけます…」

とりあえず座れ。四阿のベンチに軽くへこむアルベルトを招く。俺から適度な距離を取り、音もなくベンチに腰掛ける。彼が庭師らしく身に着けたオリーブグリーンの前掛けから、何本かペグが覗いている。少し変わったペグだな。見せてくれと頼むと、支給品なのでダメだと断られた。せめて用途を教えてくれ。粘ると、アルベルトは満更でもなさそうに、特別製のペグの使い方を教えてくれた。俄然欲しくなった。だってペグ打った範囲の電波を遮断するとか、そんなカッコイイの俺も欲しい。それなら注文してくれと言う。見上げた勤務態度だ。

「でもコレ、あなたの仕事道具とは相性悪いんじゃないですか。」

アルベルトはペグをくるりと回す。

「どうかな。愛機はロートルなんだ。逆に影響がないかも知れない。」

年季が入ってきた俺の安楽死装置は、近年修理パーツのやりくりに手がかかるようになってきている。

「トレンドは追っておかないと。どんどん良いものが、新しく出てきてるんですからね。」

「メインは馴染んだものがいいんだよ。」

「おや、エレクトロニクス方面なんか、ちょっと気を抜いたらウラシマタローですよ?」

「イビザのビーチで踊ってる奴らと一緒にするな。」

なんだか押し売りセールスの様相を呈してきた。アルベルトは遠い眼で「イビザ行ってみたいなあ…」なんて言ってるが、その目が憧れでなくて現実逃避にしか見えないのは、彼の労働環境に原因があるんだろうなあ。

まだ真夏のビーチに思いを馳せるアルベルトに、確認したいことを訊いた。

「答えられなかったら言わなくていい。お前の雇用主は、イサベラで間違いないか。」

「守秘義務がありますから。」

それは〈イエス〉の意味だと笑うと、真面目な狐目で「守秘義務が」と繰り返す。

「現在はリーゼロッテに雇用されている。合ってるか。」

「守秘義務がありますから。」

「最後にこれだけ教えてくれ。お前は明日、工場に行くか、城に残るか。」

四阿の中に一陣の風が吹き込んだ。瞬間、アルベルトは顔から柔和な表情を消す。しかしすぐに細い眼に笑みを浮かべて、手にしていたペグを前掛けのポケットに片付けた。

「お城の庭仕事があるので。明日はお客も多そうですし。」

親切な奴だ。きちんと答えてくれる。アルベルトは炭酸飲料のふたを開け、ごくごくと飲み干した。空になった缶を俺に渡してくる。お疲れさん。ゴミくらい捨ててやるさ。

「僕からも、いいですか。あなたは何故ここまでするのですか。」

そうだよな。俺も疑問。めんどくさいことばっかりだ。

「金だよ。10億のヤマ、逃す馬鹿いるかよ。」

何千回と顔に浮かべてきた、とびきりの黒い笑み。アルベルトも同じように「お金、大事ですよね。」と笑った。

庭から城に戻る途中、業者用の通用門の前を通りかかった。トラックから次々と医療設備が運び込まれている。城の中に、手術室を作るつもりなのだ。いよいよ始まる。スタッフと作業をするBJの姿を遠くに見て、静かにその場を後にした。

今夜の食堂のシャンデリアは、ひときわ輝いている。真っ白なテーブルクロスの上には、銀のカトラリー。少々くたびれた様子のBJと、工場から戻ってげっそりしたリーゼロッテが揃ったところで、厳戒体制のもと、料理長が腕を振るった豪華なディナーが始まった。

牛リブロースのグリル、ポロねぎのラヴィゴットソース、アメリケーネ風オマール、季節の野菜のテリーヌ…次から次へと運ばれてくる。俺も毒見に協力した。食材を無駄にはしたくないからな。

テーブルのすみっこに座ってリンゴジュースを飲むロゼフィニアを見つけたリーゼロッテは、慌てふためいて口をパクパクさせていたが、めんどくさいので手元にあったカナッペを突っ込む。もっとめんどくさいので、小娘同士ひとまとめにして座らせた。

リーゼロッテとロゼフィニアは、額をくっつけるようにして、ひそひそやっていた。並べてみると、似ている。姉妹という血のつながりの証と、女性の化粧の技術に感嘆するばかりだ。内緒話を終えた姉妹は、同時に俺の方を向き、幽霊でも見たような顔をした。

執事も給仕も庭師(一名欠席)も、時間の都合がつく人は、ごちそうをつまんでいく。警備員には副料理長がおつまみセットを作ってくれている。後で届けるそうだ。

明日に向けて英気を養う。はっきりと言葉にはしないけれど、城の誰もがそれを感じていた。明日はイサベラの手術をBJが執刀する。同時に俺が安楽死を施す期限の日でもある。それぞれの立場も役目もひっくるめて、同じテーブルを囲む。不思議と笑い声が絶えない時間になった。

だから、もう、いいだろ。お前はバリバリに手術できると思うし、たくさん飯も食って、よく眠ればいい。そのためにベッドを2つに分け直そうと言ったのだ。それなのに、なんだ。結局昨日と一緒だ。ニコイチベッドの境界線を、あっという間に越境して、BJは俺のTシャツの胸によだれを垂らす。本当にコイツなんとかしてほしい。俺も眠りたい。

葡萄畑で捕まえて(上)

キリジャバナー2

煌々と満月が中天にある。

白く照らされた粗末な石造りの小屋。その中で一人の女が人生を終えようとしていた。

この瞬間を待ちわびていたと、女は目を閉じる。

安楽死装置を作動し、周波数を安定させる。間も無く女は眠りについた。

そばに立っていた娘が駆け寄る。

「お母さん」何度も小さな声で呼んで、痩せた骸にしがみつく。押し殺した嗚咽が小屋の中に満ちた。こんな場面からはさっさと退散するのが常套なのだが、俺はまだ報酬をもらっていない。先にもらうべきだった。

冷たい石壁にもたれて娘の慟哭が収まるのを待っていると、ようやく娘が振り向いた。ぼさぼさの茶色の髪を一つに束ね、そばかすが散った鼻、そこに乗っかる大きな眼鏡。野暮ったい風貌だが、くすんだ緑の瞳は美しい。涙を拭って、娘は擦り切れたツナギから紙幣を取り出す。

「お約束の謝礼です。ありがとうございました。」

手荒れのひどい指先から、ぐしゃぐしゃの紙幣を受け取り、金額がそろっていることを確認する。決して安くはない額だ。日々の暮らしが楽ではない様子は、小屋を見ればわかる。どうしてこの母子は、俺に依頼してきたのだろう。疑問を気まぐれに投げかけた。

「どこで私のことをご存知になったのですか。」

娘は俯いて黙ってしまった。言いたくないなら構わない。

「失礼。興味があっただけです。」

それだけ告げて、小屋から出た。小屋の周囲には広い葡萄畑が広がっている。しんと静まり返った夜の中で、実りだした小さな葡萄が月の光に浮かび上がる。いっそ幻想的とも言える景色の先にあるのは小高い岩の丘。その上に立つ古城に目をむけた。

「次の仕事はあそこか。」

粗末な小屋であろうが、歴史ある城だろうが、そこに人がいる限り死は平等に訪れる。今夜はひとまず宿へ戻って休むことにした。

【1日目】

この地方はワインが有名だと言う。どこへ行っても長閑な葡萄畑が広がり、点々とワイナリーが建っている。昨晩は宿で地元の特産ワインを飲んだ。すっきりした飲み口と深い味わいは俺の好みに合った。この仕事が終われば2、3本求めてみても良いかもしれない。仕事が終わった後のことに思いを巡らせ、少々楽観的とも言える姿勢で丘の上の古城へと足を向けた。

遠目には丘に見えても実際は少々山の中にある。緩やかな傾斜を登りながら、町でレンタルしたバイクで来たことを後悔し始めている。一番良さそうなやつを選んだつもりだったのだが、エンジンから不穏な音がするし、回転数は見ていてはらはらするくらいに不安定。タコメーターと睨み合いながら山道を登る。結局何度も異様に熱くなるエンジンを冷ますために休憩をする羽目になり、予定の時間を大幅に超えてしまった。正確に時間を指定しているわけではないので、問題がないと言えばそうなのだが、どうにもまいった。なだめるようにバイクのアクセルを握り、崖に沿うカーブを曲がると、やっと目的地の古城が見えた。

何年も前に古城の主人と交した言葉が脳内に蘇る。

「自分は治療法のない病に侵されている。まだ体は動くけれど、長くはない。いよいよ死を待つだけになったときに知らせを送るから、安楽死を施して欲しい。」

依頼人は白髪をきっちりとまとめて、背筋がしゃんと伸びた老婆だった。はっきりした物言いは、上に立つ地位の人間特有のものだ。それから洗練された上品な身なりからして、金払いは良さそうだった。実はこの手の依頼は結構あるのだ。莫大な遺産を生前分与してスッキリした富豪とか。老婆が持参したカルテに目を通し、いくつか問診をする。手順通りに契約が成立して、イサベラと名乗る老婆は愛嬌のある瞳に笑みを浮かべて、安心したように息をつく。

「これで一つ心配事がなくなったわ。できればあなたにまた会う日が、そう近くないと良いのだけれど。」

「まるで私が毛嫌いされているように聞こえますね。」

肩をすくめるふりをして、軽口を叩いて見せる。彼女はそんなつもりはないと朗笑した。自分の死期について話しているのに、こうも穏やかにいられるのは、きっと彼女の人生が豊かであったのだろうと、これまでの経験からひっそりと思った。

ぶすん、と力尽きたようにエンジンが止まる。ご苦労さん、俺もご苦労。何とか城に辿り着けた。バイクを適当なところへ停めて、軽く身繕いをした。

城にふさわしく厳しい門を叩く。しばらくして黒いスーツを正しく着こなした男が迎えてくれる。用件を告げると、よく承知していると控えめに頷き、案内を申し出た。有能な勤人がいるのはありがたいものだと感じ入っていた矢先、玄関のホールに女の声が響く。

「どなたですか。今日は来客の予定はないはずですが。」

警戒心を露わにした声の主に目を向けると、澄んだエメラルドの瞳が射るように俺を見据えている。豊かな赤い髪が印象的な、見るからに令嬢と言った容姿の若い女性だ。簡単に自己紹介をする。ただ「医者」としか告げなかったのに、俺の名を聞くと見る間に表情を固くした。

「あなたが、ドクター・キリコですか…」

この様子だと俺の用件がわかったらしい。おそらくイサベラから事情を聞いているのだろう。できればさっさと仕事をしたいのだが。

「失礼をいたしました。私はイサベラお婆様の孫、リーゼロッテ・マディティンと申します。長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがですか。」

出た。よくある手合だ。家族が安楽死に賛成していないときは、こうやって時間稼ぎをされる。ちゃんと説得しておいてくれよ…とイサベラを恨めしく思いながら、応接間のテーブルに着く。紅茶を出されたけれど、手を付けるはずがない。ますます不信感を募らせるリーゼロッテの視線を感じる。じゃあ毒見をして見せろとも言いたくないので、黙ってソファに深く座った。ぴしりと張りつめた空気の中、棘のある声でリーゼロッテが口を開く。

「私、少し前までアメリカの大学に留学していたのです。しばらくここを離れていたもので、お婆様と詳しいお話をする機会がなく、あなたのこともお名前とご職業しか存じ上げません。いつか来るお医者様だと聞いておりましたが、あなたが本当にお婆様と約束された方なのか確認したいのです。」

礼節はわきまえているようだが勝気な声だ。俺はケースの中から契約書を出す。彼女はそれを受け取ると、なにか抜けているところはないか粗を探すように契約書をじっくりと読んだ。やがて契約書の終いにイサベラのサインがあるのを確認して、小さく首を左右に振った。

「確かにお婆様のサインですね。」

契約書を俺に返却して、リーゼロッテはしばらく目を閉じた。何かに悩んでいるように見える。これはよくないパターンだと俺の中で警鐘が鳴る。

「実は今の当家は、あなたが契約を交わした時とは少々状況が異なります。」

来た。気を引き締めてリーゼロッテの言葉を待つ。

「2か月前のことです。私の両親が自家用セスナの事故で亡くなりました。なんて言うんでしょうね。時期当主という立場に父はありました。我が家は葡萄畑やワイナリーの他に、町に自動車部品の工場を有していて、父がそれらを継ぐはずだったのです。」

多少フランクになった口調。おそらくこれが彼女の地なのだろう。

「それで、お婆様が事前に考えておられた財産分与の内容が、がらっと変わることになったんですね。その手続きのために、お婆様は弁護士や会計士と何度も話し合いをしていました。父母の葬儀やら、ひっきりなしに訪れる弔問のお客の相手も一緒に。私には、とてもお婆様の代わりはできませんでした。」

実際両親がいきなり死んで、現実を受け止めるのに精いっぱいだったのですから。自嘲気味に、くいっと飲みほしたリーゼロッテのカップへ、再び紅茶が注がれる。給仕を労い、彼女は紅茶にミルクをたらす。

「お婆様が倒れたのは、今から3週間ほど前です。かかりつけの医者からは過労とストレスと言われましたが、回復する様子もなく、再度診察してもらうとお婆様の持病がかなり進行しているとわかったのです。もっと早く診断できただろうに。思わず薮医者と罵ってしまいました。」

このお嬢さん、かなり気性が激しいな。ヒートアップしていく自分を抑えるように、リーゼロッテはドアの方を見やる。

「新しいお医者を探さなくてはならなくなりました。確実に実力のあるお医者様を。」

待て。今の流れはまずい。その医者ここに来てないだろうな。冷汗が噴き出す。無情にも応接室のドアが開く。

「リーゼ、客だと聞いたのだが。」

聞き覚えのある声が…ああ、一気に頭が痛くなってきた。視界に入れたくないなあ。どうしていつもこう俺の鼻先にまとわりつくんだろうな。ブラック・ジャック。

いつものように、激しい罵倒が飛んでくるのを覚悟したのだが、来ない。

拍子抜けして奴を見ると、ぽかんと突っ立っている。いつもなら「ヒトゴロシめ!」だの「殺し屋のなりそこない」だの、きゃんきゃん喚いて飛び掛かってくるのに。おまけになんだ。その服は。BJは一張羅の黒いコートもリボンタイもなく、やわらかい光沢のある白いシャツを身に着けていた。やたらひらひらしているシャツだ。違和感が激しく湧き上がる。

リーゼロッテはBJを招き寄せ、彼女の横へ座らせた。BJは従順に前に出された紅茶を口にしている。その様子を見て、自分の眉間に深いしわが寄っているのに気がつき、意識して強張った体の力を抜いた。とにかく状況を掴むのが先決だ。

イサベラの延命治療をリーゼロッテは求めた。若い彼女がすぐに父の後を継ぐには、イサベラの後ろ盾が必須であり、周囲の人間もそれを望んでいる。そこでBJが呼ばれたわけだ。そこまで聞いたら、労働意欲が半減した。しかし、ひっかかるものがある。無防備に紅茶を飲むBJの姿だ。なぜまだ手術をしていない。俺より先にここへ来ていたのに。

「ブラック・ジャック先生は、いつ手術をする予定なのですか。彼はのんびりとスケジュールを組んで手術をするタイプではない。私にとっては彼がこのようにお茶を飲んでいる姿は、かなり想定外です。」

「やはり、あなた方は面識があるのですね。」

観念したように、リーゼロッテは続ける。

「ブラック・ジャック先生は、一時的な記憶障害に陥っているようなのです。」

耳を疑う。

「依頼をして、すぐにブラック・ジャック先生は来てくれました。手術を明日に控えた夜。2時か3時ころだったと思います。大きな物音がして、皆が駆け付けると、階段の下に頭から血を流した先生が倒れていたのです。」

「殺されかけたのですか。」

「誰かの悪意があったことは間違いありません。」

救急搬送されたBJは翌朝目を覚ましたが、その時にはもう記憶に障害が出ていた。とても手術をできる状態ではなくなってしまっていたのだ。脳に血栓はなかっただの、ショック性のものだと見立てがあるだの、リーゼロッテは言っていたが、この事態が莫大な損失を生んでいることに彼女は全く気付いていない。数多の人間が求める奇跡の指が使えなくなったんだぞ。柄にもなく沸々と怒りが湧いた。

「この事故は当家の不備によるもの。全責任を負う覚悟でいます。」

どんな責任をとるつもりなのか、詰め寄りたくなった。しかしながら、まだ聞きたいことがある。たぎる感情は押し込めたが、機嫌を悪くしているのを隠すのはやめた。

「その様子だと、階段から突き落とした犯人もわかっていないようだな。」

唸るような俺の声に、リーゼロッテは肩を震わせた。

「…ええ。事故があったのは雨のひどい夜で、証拠も証言も乏しく、警察の捜査は難航しているようです。」

「随分と優秀な警察だ。」

沈黙が応接間に満ちた。自分の話をされているのが居心地悪いのだろう。BJは俺とリーゼロッテをちらちらと見やっている。記憶障害か。そんな都合のいい話、あるものかね。何かしらの理由があって演技をしている、とか。カマをかけるつもりで、わざとらしくBJに自己紹介をした。

「初めまして、ではないが、その様子だと私のこともお忘れのようだ。私はキリコ。仕事ではドクターキリコと呼ばれている。」

「ドクター…医者なのですね。」

ぼんやりした顔を向けてくる。

「安楽死専門の医者です。」

奴に一瞬で火をつける単語を出したが、紅茶を手にしたBJは表情すら動かさない。「安楽死」これまでこの言葉を出して、耐えられたBJを見たことがない。きっと俺は驚きを隠せなかったのだと思う。BJは俺に向かって小さな声で謝罪した。

「ごめんなさい。あなたのことを覚えていません。」

うなだれるBJに、リーゼロッテは慰めるような仕草をした。この女性がいるところでは、こいつの本音が聞けないだろう。本当に記憶障害が起こっているか、演技なのか、二人きりで話がしたい。機会がないかと算段する俺に、リーゼロッテはある提案をする。

「お婆様の安楽死の施術については、お断りします。契約書には本人の意思が確認できないときは、後見人に判断を任せると書いてありましたよね。後見人は父の名でしたから、今となってはその立場は私にあります。私はお婆様に生きていて欲しい。」

言いたいことはたくさんあるが、最後まで彼女の言い分を聞くことにした。

「ですからブラック・ジャック先生の記憶が戻るように、あなたに協力をお願いしたいのです。」

「…は?」

頭の芯がキンと冷えた。こいつをこんな目に遭わせておいて。手術ができないBJを手元に置いて、尚も手術させるつもりなのか。

「勝手なことを言っているのは、わかっています。」

いいや。わかってない。

「安楽死の違約金はお支払いします。協力してもらえれば、それに加えてご要望に沿えるようなお礼も出します。」

新兵なら間違いなくぶん殴ってる。

「どうかお願いします。ブラック・ジャック先生と面識がある。それだけであなたは当家にとって必要な方なのです。」

「タバコ吸っていいか。」

更に言い募ろうとするリーゼロッテを軽く制し、許可を待たずにタバコへ火をつけた。煙を深く肺に入れて、神経を落ち着かせる。俺までいきりたってどうする。そもそも俺たちの稼業からして、厄介ごとは付き物だろう。だから俺はBJがどこで死んでもおかしくないし、そうなっても不思議ではないと納得していた。

だが、実際に厄介な状況に陥っているこいつを目の前にしてどうだ。困ったことに、俺は何とかしたいと思ってしまっている。こいつの人生がどうとかいう話じゃない。人類最高峰の外科手術を行える指が、記憶障害なんかで失われるのが、非常に不快なのだ。安楽死の崇高な理念を掲げると同時に、俺も医師の端くれってことか。ふうっとタバコの煙を吐き出した。

戦場で記憶障害を負った兵士は、大概回復しない。その中でも完全とは言い難いが、元の状態に近くなった者はいる。そしてごく稀に、完治する者もいるのだ。こいつみたいに賭けなんて言って案件を引き受けるのは好きじゃない。馬鹿みたいな報酬を請求するのも好きじゃない。だからこれから俺がすることは、イレギュラー中のイレギュラーだ。とことん定石を外してやる。

「10億。」

「え?」

何の数字かわからない様子のリーゼロッテに告げる。

「いいか、小娘。俺は仕事をするためにここへ来た。なのに仕事以外のことをしろとお前は言う。残念ながら慈善事業は大嫌いなんだ。」

とん、と携帯灰皿に灰を落として続ける。

「ついでにそいつは商売敵だ。どうなろうと知ったことじゃない。」

BJに視線をやるが、やはりはっきりしない表情をしている。ホント、こんな状況じゃなけりゃどうでもいい。

「でも、私たちにはあなたの協力が…」

必死にリーゼロッテが食い下がる。若い彼女には打つ手が少ないのだろう。

「だから10億だよ。時間外営業させられるんだ。人件費加算しないと割に合わん。」

「そんなお金……あなたって人は…」

リーゼロッテが唇を震わせる。きっとテーブルの下の拳は固く握られている。

「期限は一週間。他にも仕事があるんでね。嫌なら他所を当たれ。」

突き放したように言うと、リーゼロッテは頷くしかなかった。さあ、ここからが本番だ。小娘。

「一週間経ってもブラック・ジャックの記憶が戻らない場合、俺はイサベラの安楽死を遂行する。」

バン!とテーブルを叩いてリーゼロッテが激高する。

「あなたは何を言っているの!お金を取るだけじゃなくて、お婆様の命も奪うというの?」

「契約書にあった通りだ。『後見人に判断を任せる』と。残念ながら、お前は後見人とは言えないようだ。10億の金を動かすのに、専門の担当者の意見も求めず、独断で目先の利益を優先したな。この城の帳簿を見たことはあるのか。きっとお前は正式な手続きを踏んでもいない。口頭でしか説明できないのだからな。」

応接間にいる給仕が身じろぎしたのがわかった。目の前の若い女が言葉を出せずに硬直しているが、お構いなしに喋る。

「依頼人からの信頼と契約で、俺はこの仕事に携わっている。俺に知らせが届いた段階で、イサベラが安楽死を依頼した事実が確定した。契約書に沿って、俺は彼女に安楽死を施す義務がある。それを覆したければ、正当な後見人及び遺産相続者として、俺に契約の破棄を申し立てろ。」

ぶるぶると震える手でテーブルクロスがぐしゃりと握られる。リーゼロッテは手を握りしめたまま、吊り上がった目で俺を睨みつける。子猫みたいだ。思わず口角が上がってしまう。

「一週間は短すぎるわ。工場の総会を説得するのに、時間がかかる。もう一週間延ばしなさい。」

赤い髪を総毛立てて歯を食いしばっている。こんな場面でもしおらしくならないとは、案外将来があるかもしれないな。

「なめるな、小娘。俺はすでにお前に譲歩している。これ以上はない。」

少しだけ目を眇めてやると、リーゼロッテは面白いくらいに怒りに燃えた。前言撤回。そんな様子じゃ、これから葡萄畑やワイナリー、自動車部品工場の経営なんかできないぞ。若いからなんて大目に見てもらえる時間は短いからな。

リーゼロッテはさっきの俺の言葉が気になるのか、給仕に視線を送っている。給仕がかわいそうだ。たまりかねて給仕は上司を呼んでくると応接間を飛び出していった。昔なら使用人と呼ぶところだろうが、今は何と呼ぶべきなのか。契約社員か従業員が近いかな。ゆっくりと2本目のタバコを咥える。そんな俺の仕草が気に障ったのか、リーゼロッテは乱暴に椅子から立ち上がり、そのまま応接間から出て行った。そのままドアの向こうで意見をまとめてくれ。現在の状況からして、警察、弁護士など手間のかかる手段は選ばないだろう。

細くなびく煙の向こうに、ツートンカラーの髪が見えた。ぼんやりと窓の外の景色を見ている。そう。こいつは俺がリーゼロッテで遊んでいる間、初めこそ内容を理解しようと頑張ってはいたが、途中から諦めてずっと窓の外を見ていたのだ。誰のせいでこんなことになってるんだと、何度も頭を抱えたくなった。結果的に黙っていてくれて良かったが。

火をつけたばかりのタバコを携帯灰皿に押し込んで、席を立つ。そのまま窓の前まで歩き、奴の視界に入ると、BJはゆるやかに俺に視線を合わせて「ああ」と言った。

「お前、本当に記憶がないのか。」

しっかりと確かめなければならない。

「そうみたいです。ぼんやりしていて、わからないというか。」

「じゃあ覚えていることは何だ。」

「シャツの畳み方、簡単な掃除、日常生活で困ったことはありませんから、覚えているんだと思います。それから庭に咲いている花や、日用品の名前はわかります。他の事柄については、どこまで覚えているのか確かめていません。自分に関係することだけが、すっぽりと抜けているようです。」

すらすらと言えるのは、搬送された病院で同じような質問をされたからだろう。表情は驚くほどに真っ新という雰囲気だ。通常運転のあいつの憎たらしい目つきも、邪悪な笑みも、どこかへ消えてしまっている。闇稼業だから多少の腹芸はできるものの、基本的にBJは直情型の男だ。ここまで演技できるものだろうか。

「俺が安楽死専門の医者だと聞いて、どう思った。」

「どう…と言われても。そういう職業もあるのだなあと。」

「安楽死について印象は?」

「うーん。考えたこともありませんでした。よくわかりませんが、お仕事にされているのなら、あなたの手が必要な人がいるのでしょう。」

ざあっと引き潮のように冷たい感覚が身体を走る。これは、誰だ。

「あの、あなたは私のことを知っているのですよね。」

知っている。けれど、お前は誰だ。

「ああ、知っている。」

指よ、震えるな。

「私の手助けをしてくれませんか。記憶を取り戻したいのです。」

手助け、なんて。

「お時間のある時で構いませんから。」

そんなこと。

「本当に忘れてしまったんだな。」

絞りだした俺の乾いた声に、男は「ごめんなさい。」と消え入るように、俯いた。

出された条件を呑むとリーゼロッテが伝えてきたのは、日が傾きかけたころだった。それまでBJと二人きりで応接間に放っておかれたわけだが、俺はどうにもあれ以上BJと会話をする気にならず、お互いに黙りこくったまま今に至る。城での生活についてあれこれと言うリーゼロッテの言葉を適当に流して、一週間世話になる客間へと案内してもらう。イサベラに会いたかったが、リーゼロッテの余裕のない顔を見ていたら、明日でもいい気分になった。今日はこれ以上いじめると、泣くかもしれんしな。

客間はしばらく使われていなかったようで、少々籠ったにおいがしたが、ベッドと窓があれば万々歳だ。視界に入ってくる豪奢な装飾も家具も必要ない。ただ自分の荷物は装備が不足している。案内してくれた小柄な青年に声をかけると、ひきつった笑みを返してきた。どうやらさっきのリーゼロッテとのやりとりの様子で、俺はヤクザ者と同じカテゴリに入ったらしい。紙幣を渡し、必要な着替えなどの買い出しを頼む。恐怖からか涙目になって彼は飛び出していったが、やがてきちんと俺の要望通りの品をそろえてきてくれた。礼を述べてチップを渡すと、彼は少し態度を和らげて去っていった。

今のところ監視はなし。多少の融通も利く。古い城だ。監視カメラなどは後付けになる。額の裏や花瓶の底など、セオリー通りにカメラや盗聴器が隠されていそうな所を探した。無いな。ようやく一息つく気持ちになり、ジャケットを投げ捨てた。

夕闇がせまる窓を開けると、涼しい風が吹き込む。外には一面に葡萄畑が広がり、その遥か先に雪冠を頂く荒涼とした山岳がそびえている。

これからどうしたもんかな。実際俺は一週間でBJの記憶を本気で取り戻そうとは思っていない。無理だろ。記憶障害の治療は基本、あせらず、ゆっくりだ。だから一週間それっぽく過ごして、適当な段階でBJを連れて姿を眩ますのが一番だろう。

応接間であいつの記憶が損傷していると確信した瞬間、きれいなガラス玉みたいな目をして俺を見上げるあいつを、力任せに抱きつぶしたい衝動に駆られた。どこで誰が見ているかわからない環境で、感情的な行動に出るべきではないと、無理矢理取り乱す心を収めた。そもそもあいつは俺のことを、きれいさっぱり忘れているのだ。取り乱す原因すら思い至らないだろう。俺がこの古城に留まる理由が、そこにあるとも知らずに。

ソファへ移動して足を投げ出せば、疲労が背筋にたまっているのを感じた。そのまま目を閉じる。あいつの顔ばかり浮かんでくる。なんだろう。この感情は。ああ、そうか。俺は悔しいのか。

「俺は庭の草木以下かよ。」

悔しまぎれに笑ってやる。草木の名前を憶えているのに、自分の仕事に関係する事柄を覚えていないのは納得がいかない。切ることが人生だと大見得切ったの忘れたか。俺は忘れてないぞ。あまりに滑稽で爆笑したからな。そうさ。あいつは医者馬鹿じゃなけりゃ生きてる価値がない。今のあいつは医者として死にかけてる。死を商うのは俺の専門分野だ。記憶障害に苦しむくらいなら、いつでも楽にしてやる。だが俺の信条として、助かる見込みのない患者にしか安楽死を施さないと決めている。今はまだ、その時ではない。今は、まだ。

【二日目】

翌朝、ずいぶん早くに目が覚めた。老い…とは思いたくないな。昨日買ってきてもらったシャツに腕を通し、城の中を散策する。大きな城だが、生活に使われているエリアは狭そうだ。古い城だから、ところどころ修繕が必要な場所を見かけたけれど、きちんと掃除は行き届いている。あいつの部屋はどこなんだろう。絶対リーゼロッテの部屋の近くだな。

ハウスキーパー達がくるくると働き、厨房らしい部屋からは元気な声が飛び交っている。忙しい朝を邪魔する気はないので、城の庭をぶらぶらしていた。

青い芝生に、整えられた生垣、くっきりと区分けされた花壇。実に几帳面に世話をされている。そんなエリアだけと思いきや、自然の林を彷彿とさせる広葉樹が植えられた場所もあった。ハーブが無造作に花を咲かせている。奥に白木の四阿があるじゃないか。こっちのほうが俺はいいな。そろそろ戻ろうかと城に足を向けたところに、朝食の準備ができたと昨日の青年が呼びに来てくれた。

リーゼロッテが不機嫌な顔で、皿のソーセージにフォークを突き立てる。

「やめとけ。威圧しても、子猫が膨れているようにしか見えん。」

「誰が子猫よ!」

がっしゃんとテーブルの上のグラスが揺れる。オレンジジュースがこぼれそうになるのを回避。

「気に食わないなら、俺と一緒に朝飯食う必要ないだろ。どうして同じテーブルについているんだ。」

「お婆様の教えだからよ。お客様とは一緒に食事をとりなさいって。」

「なるほど。殊勝な心掛けだ。」

「ムカつくわ。」

リーゼロッテは令嬢の仮面を脱ぎ捨てることにしたらしい。着ている服も、がらりと印象を変えている。ジーンズにロックバンドのTシャツ。いや、メタルか?ナイトウィッシュとは、こらまた渋いな。Tシャツの袖を、イライラと彼女は掴んだ。気持ちが落ち着かない時、何かを掴むのは彼女の癖のようだ。隣ではBJが、白パンにぺたぺたとバターを塗っている。

「その話し方だと俺も楽でいい。それで?お前は今日、何をするんだ?」

10億が無駄にならないように、これからリーゼロッテは必死になって奔走するはずだ。その分、城で俺が自由に動ける機会も増える。

「あんたに教える理由はないわ。でも、そうね。今日だけ教えてあげる。昨日言われたように、確かに私はまだまだ多くの人に認められていない。本格的に信頼を得るためには、何年ものスパンでやっていかなくちゃいけないけど、形式だけでも私がお婆様の跡を継ぐってことを認めてもらわないとね。」

カラフルなサラダをきれいに食べると、デザートの果物に手を付ける。

「だから今日は書斎でお勉強するの。お婆様はきちんと記録を残してくれているから、それを頭に入れておく。もっと早くにやっておくべきことだった。あんたに気付かされたのね。ムカつくけど。」

両親が事故で死んで乱れていた心を立て直して、前を向こうとしているのだろうか。彼女が納得しているのなら、俺の言葉をどう解釈しようと彼女の勝手だ。

「授業料として、もう1億請求しようか。」

「本当にいい性格してるわね!」

あんたはどうするのと聞かれて、答えようとした時、食堂のドアが開いた。

陽の光がスポットライトのようにドアに満ちる。光の真ん中に紫紺のスーツを纏った男が立っていた。表現するなら、華やかな男。きらきらと金の髪を揺らして、ずんずん進み入るその男の名を、リーゼロッテは叫んだ。

「カルロおじ様!」

長めの前髪をさらりと揺らして、カルロと呼ばれた男は微笑む。整った彫像のような美貌。年頃の少女なら、お城に住む王子様と信じてしまいそうだ。

「おはよう、リーゼ。元気だったかい!」

王子様スマイルのまま、リーゼロッテを抱きしめる。

「いきなり押しかけてすまないね。連絡するより、直接会った方が早いと思ったんだ。」

「そんな…あの、とても、驚いています。おじ様が生きていると思っていなかったものですから…」

リーゼロッテの眼は大きく見開かれている。「生きていると思っていなかった」とは、どういう意味だ。俺たちの存在に初めて気づいたようなそぶりをして、客の前で話すようなことではないとカルロは場所を変えたがった。これからのことに関係があるからと、リーゼロッテは俺たちをカルロに紹介し、昨日までの顛末を説明する。10億の話の件になると、カルロは大声を出して天を仰いだ。

「リーゼロッテ!君はもっと賢い子だと思っていたのに…どうしてそんな馬鹿な約束をしたんだ。」

「仕方がないとしか言えません。私自身、こんな事態になるのは不本意なのです。だけど、おじ様も生きているのなら、もっと早く知らせてくれても良かったのに!父と母と同じセスナに乗っていたおじ様の遺体は、どんなに捜索しても見つからなかった。お婆様と一緒に、きっと生きてはいないだろうと諦めたのよ。」

苦しそうな顔でリーゼロッテは訴えた。カルロは彼女の肩に手をかけて、宥めるように言葉をかける。

「遅くなったのは悪かった。事故の後、親切な人に助けられて、しばらく山の中で怪我を治していたんだ。ひどい怪我でね、一時期は喋ることさえできなかった。ようやく話ができるようになったが、怪我のせいか声まで変わってしまってね。骨を折って、なんとか妻に連絡を取ることができた。それから屋敷で養生して、やっと動けるようになったんだよ。生きるか死ぬかの瀬戸際で、君に知らせるのはやめようと判断したんだ。きっとイサベラおば様も君も、義兄さん達のことで大変だと思ったから。僕としても最良の選択をしようと必死だったんだ。」

甘い声。ひくり、と震えるリーゼロッテを覗き込んで、優雅に微笑む。

「がんばったね、リーゼ。後は僕に任せてくれないか。君は若いし、女性だから、これからのことに大変な場面も多いだろう。進めている後見人の名義を、僕に置き換えてくれるだけでいい。イサベラおば様もその方が安心だろう。」

それから、とカルロは俺に視線をよこした。

「ドクターキリコと言ったかな。聞いてもらったとおりだ。10億の話は無しにする。可哀想なイサベラおば様の安楽死を施術してくれないか。」

返事はしない。代わりにリーゼロッテが爆発した。

「お婆様の安楽死を認めるってどういうことですか。後継人のことだって、私は納得してない!」

「君が納得するかどうかは、あとでじっくり考えればいいことじゃないか。それよりも苦しんでいるおば様の意思を尊重することの方が先だろう?」

「いいえ、大事なことよ!今、考えずにいつ決めるんですか!」

激しい口論になってきたところで、俺は横でまだもぐもぐしているツギハギの手をひいて食堂を出た。

高くなった日の光に、緑の葉がまぶしい。きれいに掃除された庭の隅。朝の探索で見つけた四阿は、広葉樹に囲まれて、適度に人目を遮ってくれる。その四阿の白いベンチに腰を下ろした。

「……めんどくせえ。」

仕事はできないわ、時間外労働はさせられるわ、その上お家騒動かよ。

「よくわからないけど、大変そうですね。」

お前だ、お前。俺を一番悩ませてるのは。もうこいつをひっ捕まえて、とんずらしようかな。それが一番いい。胃が痛む俺の気持ちなど露知らず、BJはぼんやりした口調で話し出す。

「私は有能な医者だと聞きました。イサベラさんを手術して、治療するために、ここへやって来たと。それは、あなたの眼から見ても真実でしょうか。」

「俺の知っているお前は、間違いなく医者だよ。」

「どんな医者だったのですか。」

こいつなりに記憶を取り戻そうとしているのか。それじゃあ真実を教えてやる。

「お前は医者だが、無免許だ。モグリの医者として、イリーガルな手術をする黒い医者、闇医者なんて呼ばれていたよ。手術の見返りとして、1億、2億と非常に高額な金銭を要求していた。」

俺の主観は抜きにして、できるだけ事実を告げた。彼は顔をこわばらせている。

「有能な医者であったのは、客観的に見て、そうなのだろう。世界中からお前の手術を求めて、依頼人が殺到していた。どんな難病でも可能性があるなら治療しようとする、生きることに執念を燃やした男だよ。」

しばらく見つめあっていたが、BJは困惑に耐えきれなくなったのか目を背けた。無理もない。お前の人生、相当なハードモードだものな。生い立ちとか、俺との関係とか、更に情報を与えるのはやめた。必要以上の混乱をもたらすべきではない。沈黙が満ちた四阿の中を、風が通り抜ける。

やがて決心したようにBJは口を開いた。

「やっぱり、私は自分のことを思い出すべきですね。私を必要としている人がいるのなら、それに応えたい。」

正面を真っ直ぐ見つめるBJは、以前の彼の面差しを彷彿とさせる。自然と頬が緩んだ。わかった。お前がその気になったのなら、俺も本腰を入れよう。この城を巡るいざこざは、当人たちに任せておけばいい。

「どうやらこの城は騒がしくなりそうだぞ。城を出て、静かなところで思い出すのが最良だ。」

「いいえ。イサベラさんが私の手を求めているのなら、城から出るのは納得がいきません。彼女を見捨てることになります。以前の私の感情なのか、それは嫌だと心から思うのです。」

ああ、そうだ。こいつはそういうやつだ。これだけの短い会話で信念を自覚するあたり、脈があるのかもしれないな。

「鞄持って来い。」

「ん?」

「お前の鞄。ごちゃごちゃ刃物やらが入っている、黒い鞄だ。持っているんだろう。」

「ああ、部屋にあります。でも、どうして?」

「それにはお前が仕事で使っていた道具が入っている。花の名前がわかるんだ。道具の名前も覚えているか確かめよう。俺も医者の端くれだ。お前が覚えていなくても、教えてやることはできる。」

ぱっと明るい顔になったBJは駆け出していく。緑の中に消えていく背中を見ながら、タバコを取り出す。とんだお人好しだと自分を嘲りながら、一服ついた。

さて、一応平然と構えてはいるが、さっきから視線を感じるんだよな。BJが出て行ってから、視線を隠す気もないようだ。やがてがさりと手前の茂みが揺れる。ひょこりと現れたのは、痩身の男。狐目に弧を描いて見せ、柔和な表情を作っている。

「あのー、ここ禁煙なんです。タバコ、消してもらっていいですかあ。」

「構わんさ。のぞきが趣味の人間に、マナーを説かれるのは心外だがね。」

誰彼構わずケンカを売るつもりはないが、このくらいはいいだろう。男は首をすくめて、心のこもっていない謝罪をした。

「すみませんねえ。新しいお客さんが、どんな方か知りたかったものですから。あ、僕、このお城の庭師です。アルベルトと言います。」

「どうも、アルベルト。俺はキリコだ。短い間だが、ここに世話になるよ。」

「特に僕がお世話することはないでしょうけど、ひとつお願いが。」

なんだと言葉を促すように、顎を上げた。

「あんまりリーゼロッテお嬢さんを、いじめないでやってくれませんかねえ。イサベラ様が倒れてから、僕たちの雇用を真っ先に保証してくれたのは、お嬢さんなんです。路頭に迷わずに済んだのはお嬢さんのおかげですから、同僚たちも感謝してるんです。」

アルベルトは細い眼の向こうから俺を見据えている。やれやれ子猫の次は狐に威嚇されるのか。リーゼロッテに変な真似をしたら、城の従業員が黙っていないってか。スパッとタバコを大きく吸った。煙の中から言ってやる。

「あの小娘とは話が付いた。俺のすることに口出しをしない限り、俺からアレに接触することはないから安心しろ。お前も俺の夕飯に毛虫をいれようとか、くだらんことを考えるなよ。」

ぎゅっとタバコを押し付けて火を消す俺に「おお怖い」と芝居がかったリアクションをして、アルベルトは庭の奥へ消えていった。その身のこなしは、戦場で見た誰かの姿と重なる気がした。あいつの任務は確か…過去の記憶を探ろうとしたとき、BJが鞄を抱えて戻ってきた。

鞄の中をひっくり返すと、ざらざらと医療器具がテーブル一杯に広がった。あまりの量に、ちょっと寒気がした。隣のBJも絶句している。忘れてても、お前の持ち物だからな。気を取り直して、簡単そうなものから名前を憶えているか質問をした。驚くことに、やつは概ね名前をあてることができた。答えられないものでも、用途を覚えていた。これはひょっとするといけるかもしれない。BJはとても嬉しそうだった。きらきらした瞳で笑顔を向けてくる。直視できない。

「ありがとうございます!あなたのおかげです。もっと教えてください!」

耐えられない。

「あー…それじゃ、敬語使うのやめろ。もともとのお前は酷く口の悪い人間だったんだ。丁寧に喋られると、ムズムズする。」

こてんと首を傾げて、BJはしばらく考え込んでいた。口が悪いってのが、きっと想像つかないんだろうなあ。これ、思い出さなくていいやつかも。でも俺の精神衛生上よろしくない。

「『バッキャロー』って言ってみな。お前、よくそう言って相手を叱りつけてたんだ。」

「ば、ばっきゃろー…?」

「思い切りが足りない。やり直し。」

それからしばらく俺たちは罵倒の練習をした。真っ白なハンカチを泥まみれにしていく気持ちだった。罪悪感でいっぱいになる俺のことなどお構いなしに、BJはまたキレイな笑顔を浮かべて「キリコはいいやつだな。」なんて抜かした。もう、本当に、勘弁してくれ。

【三日目】

次の日も庭の四阿で、医療器具を片手にBJの記憶を探る試みをしていた。

「キリコ、これはこんな使い方であっているか?」

「ああ。持ち方もあっている。」

「体が覚えてるって、こんな感じなんだろうな。」

手ごたえを得て自信が持てたのか、BJはとても満足そうだ。そこへリーゼロッテがバラを抱えてやって来た。庭のバラ園で摘んできたのだろう。棘が刺さるといけないからか、上品な白い手袋をしている。中身はとんでもない子猫のくせに、一応令嬢のたしなみはあるらしい。

「楽しそうな声がしたから、来てみたのよ。何をしているの?」

テーブルの上を見てリーゼロッテは硬直する。木漏れ日の下、俺たちは厨房でもらった鶏を解剖していたのだ。下処理をする前の鶏だから、血塗れの内臓がテーブルに散らかっている。優雅にバラを摘んでいた帰り道に、こんなスプラッタな光景を見るとは夢にも思わなかっただろう。

引きつるリーゼロッテに、BJは嬉々として昨日からの成果を説明した。ぱあっと彼女は破顔して、よかったとか、この調子よとか、今にもBJに抱きつかんばかりに詰め寄った。ほのぼのとした雰囲気が二人の間に満ちる。まあ、そうなるよな。タバコは、禁煙だったか。手持無沙汰な俺にリーゼロッテは向き直り、白い顔に渋面を作った。

「昨日はみっともないところを見せてしまって、ごめんなさい。」

「気にしてない。よくあるからな。」

昨日アルベルトに関わらないと言った手前、そっけなく言葉を返す。ついでにテーブルの鶏も片付ける。下に敷いていたシートごとバケツに入れるだけだ。彼女は言いにくそうに切り出した。

「身内の恥をさらすのだけど、カルロおじ様は借金がたくさんあるのよ。今回、私の代わりに後見人になると言い出したのもお金のため。きっとこの城も畑も売られてしまうわ。お婆さまとの思い出がある場所を失くすなんて、絶対に嫌。」

バラをぎゅっと抱き寄せる。腕に棘が刺さるのは痛くないのだろうか。

「お婆様を亡くすのも嫌。あなたの安楽死の仕事ができないように、私はあらゆる手を使うつもりだから。でもブラック・ジャック先生の記憶を取り戻してくれているのには、純粋に感謝しているわ。これからもよろしくね。」

少しは腹芸ができるようになったか。短い期間で成長できるのは若さだな。ただ俺を相手にするには100年早い。何か言い返されるのを期待していたようだったが、反応が得られないとわかったリーゼロッテは苦笑して、BJの方を向いた。

「応援しているわ。困ったことがあったら、何でも言ってね。」

BJの肩に手を置いて、彼女は城へ戻っていった。あの膨れた子猫が、あんなやさしそうな顔するか。なあ。

「おい、出て来い。お前のとこのお嬢さん、どんな性格してるんだ。」

リーゼロッテの姿が完全に見えなくなってから、茂みの方へ呼びかけた。案の定アルベルトが姿を現す。

「いやあ、僕もびっくりしてます。お嬢さんは昔から大の男嫌いで、万が一手でも触れようものなら徹底的に消毒する程の筋金入り。ご自分から肩に触れるとは、そちらの先生は余程の色男とお見受けしますよお。」

間違っちゃいない。こいつはとにかく女にもてる。関わった患者で、こいつに恋をした女を何人も知っている。物好きが世の中には意外と多いもんだ。あの子猫もその類か。

「あんな調子じゃ困りますねえ…」

柔和な表情を保ったまま、アルベルトはリーゼロッテが去った方向に視線をやる。

「お前、妬いてるのか。」

「まさか!あんなじゃじゃ馬、僕の手には負えません。恐ろしい!」

恩がある雇用主だろ。まあ、あの気性じゃ無理もない。「お嬢様に言わないでくださいね」とアルベルトはウィンクらしきものをした。細い狐目じゃ、片目を瞑っているのか判断に困ったのだ。

「とにかく覗きは、もうやめろ。次やったら、恐ろしいお嬢さんに告げ口するからな。」

「やめてくださいよお。そちらこそ、鶏の始末きちんとして下さいねえ。」

へらへらと庭の奥へ消えていくアルベルトの仕草は、やはりジャングルでの戦友の身のこなし方と同じだった。

俺とアルベルトが話している間、BJは黙りこくっていた。さっきリーゼロッテが落としていった、真っ赤なバラの花びらを摘んで、じっと見つめている。

「バラが、どうかしたのか。」

「うん。多分、なんだが、たくさんの赤いバラの花びらが舞うイメージと、黒っぽい赤の自動車のイメージが重なるんだ。思い出しかけていること、なのかな。」

「その車は誰が運転していた?」

「顔は、わからない。すごく笑ってる男。滅茶苦茶な運転をしているのに、笑っているんだ。」

「それ、俺。」

「えっ?」

BJはにわかに後退った。

以前、昔のよしみのために俺をタクシー代わりにしたから、愛車でぶん回してやったのだ。こいつの記憶の中で、余程俺は異常に見えていたらしい。当然か。あの時はちょっとキレてたし。でもお前が原因なんだぞ。俺たちの関係については適当にぼかして、その時の状況を説明した。BJは釈然としない表情をしている。ひどく情報量が足りてないのはわかるが、言いようがないのだ。

「わかった。お前は何かを隠してる。俺に知られたくないことなのか、言いたくないだけなのかは分からないけど。俺に関する情報を、お前は予想よりたくさん持っているみたいだな。」

ご明察。言いたくない。

「俺はこれからお前につきまとうぞ。嫌だって言っても聞かないからな。こっちも人生かかってるんだ。お前が言葉にすること以外の情報を、行動からも読み取ってやる。そこから絶対に記憶を取り戻す。」

ああ、強引な性格が戻ってきた。嬉しくない。

それから宣言通り、虫かごのカマキリでも観察するように、BJは俺を睨みつけ続けた。そんな状況で食べる夕飯は、全く味がしなかった。

ぐったりして部屋へ戻ると、ドアの隙間に紙切れが挟まれている。何が書かれているのだろうと扉を開けると、ランプの明かりにきらりと光るものがある。ベッドの上だ。近づいてみると、枕に深々とナイフが突き刺さっていた。あからさまな警告だ。紙切れを開くと、タイプされた文字が並んでいる。

〈今夜11時、厩へ来い〉

差出人は、あの人しかいない。用件もわかる。ただ、寝首をかかれるのは困る。本当にめんどくさい。早くこのヤマ片付けたい。しぶしぶ俺は出かける準備をした。

城の南側に古い厩がある。かつては何頭も駿馬が揃っていたのだろう。そこそこの大きさがある。現在、馬が一頭もいない厩は空っぽで、手入れもされず、廃墟のようになっている。防犯上よいとは言えない。この城が建つ穏やかな田舎では、放火や窃盗犯とは縁が薄いようだ。月明かりの下、あえて分かりやすいように足音を立てて、厩の前に立った。やがて人影が向こうからやって来る。予想通りの人物は、ゆったりと夜の挨拶をした。

「こんばんは。ドクターキリコ。約束を守ってくれたんだね。」

「こんばんは。ミスターカルロ。できればもっと丁寧なお手紙が欲しかったですね。」

金の髪を揺らして、くつくつとカルロは笑う。彼の後ろに黒髪の女が立っている。

「善処しよう。ああ、これは妻のエマだ。よろしく。」

月明かりの下でもわかる、脚線美を強調するようなドレスを纏い、大きくあいた胸元を突き出して会釈する。この女、昨日の食堂にもいたな。ご自慢の容姿なら褒めておくか。

「美しい奥様ですね。羨ましい。」

「いやいや、これでもかなりの年増でね。それなのに少女のように私のことが心配で、この場にもついてきてしまった。困ったものだよ。」

カルロはエマの長い黒髪を一房すくう。いちいち気障ったらしい男だが、王子様の容姿にはぴったりだ。俺は適当に相槌を打って、本題に入れとばかりに営業スマイルを貼り付けた。

「リーゼロッテが君に迷惑をかけてしまっているね。私が到着するのが遅かったばかりに、申し訳ない。」

「契約が成立していますから、お気遣いなく。」

「それなのだけどね。君に早くイサベラおば様へ安楽死を施してほしいんだ。今のおば様の様子は、君も知っているだろう。とても痛ましくて、私は見ていられなかったよ。あの気丈な人が…」

言葉を詰まらせるカルロに、エマが寄り添う。

俺はイサベラに会っていなかった。安楽死医という危険人物を、容易にイサベラの部屋へ入れるわけにはいかないと、リーゼロッテが徹底した厳戒体制を敷いたからだ。最初から予想された事態なので、ドアの前に警備員まで配置されれば、無理に面会する利益はない。ただ警備員同伴のもと、城のお抱えの医者がイサベラの部屋へ出入りしているので、その医者から彼女の容態を聞くことはできた。今は小康状態とは言えないが、悪化はしていないらしい。

「リーゼロッテさんにも言いましたが、私はイサベラさんと交わした契約によってここにいます。更に、あのお嬢さんとも個人的に契約を交わし、正式に書面も作成しました。まずはリーゼロッテさんとの間で話し合ってください。城を巡るトラブルは、私には関係のないことです。」

今の俺には大きな枷がついている。記憶障害を起こしたBJだ。当初はあいつを連れ去る予定でいたが、本人がそれを望まず、また俺もBJの記憶を取り戻すことを優先している。

「10億の話か。闇稼業の人間が、金に汚いというのは本当だな。」

そらそら王子様、仮面が剥がれかけてるぜ。

「ドクターキリコ、私は大恩あるイサベラおば様が、これから1週間も無意味に苦しむのが耐えられないんだ。きっとおば様もそうだろう。いいや、間違いない。君に知らせを送ったのだから。どうか早く施術してほしい。リーゼロッテの説得は、私が責任を持つ。」

1週間の期限については、俺も思うところがないわけではない。しかし期日が来れば、必ず契約を果たす。まだイサベラとの契約は有効なのだ。そもそも今回の契約に何の関係もなかったカルロは、イサベラの死期について口出しできる立場にない。なぜ急ぐ。

「君もわかってきているだろうが、リーゼロッテは経営者に向いていない。彼女がもたらすだろう経営の失敗によって、この城の財産に関わる大勢の雇用者を混乱させるわけにはいかないのだよ。私はおば様の後を一日でも早く継いで、城の財産の安定運用に努めたいんだ。そうしなければ、この地方の産業の大きな損失に繋がってしまう。古くからこの地に残る城の血縁として、城の財産を残すことが僕の使命だと信じているよ。」

何か引っかかる。カルロにとって遺産相続者になることと、イサベラが死ぬことは別件だ。イサベラがどんな状態にあろうとも、リーゼロッテと話を付けるだけでいいのだから。大学をでたばかりの小娘が、そんなに脅威なのだろうか。黙ったままの俺に、カルロは眉目を曇らせ、金の前髪を横に振る。

「わかってほしい。報酬の金額についてはさておき、君が安楽死を引き受けてくれるのなら、然るべき待遇を用意する。きっと満足させると約束しよう。」

「ひとつ、質問をしても?」

構わないとカルロは両手を軽く開いた。

「10億を超える謝礼は、具体的にはどのようなものをお考えでしょうか。それを聞かせてもらえませんと、検討ができません。不確定要素を可能な限り排除するのは当然のことでしょう。現地点でのお考えで構いませんので、お答えいただけますか。」

契約云々は抜きにして、どんな対価を示してくるか単純に興味があった。城の財産について、あれ程熱意をもって語るのだ。きちんと管理した虎の子でもあるのかもしれない。だが借金まみれだというこの男が、10億に代わる金品を準備できるかどうか半信半疑だ。俺が話に乗って来たと思ったのだろう。前に進み出たのはカルロの妻だ。

「この周辺の土地を、お好きなだけ。または工場の株式の半分を差し上げても構いませんわ。」

…あー。わかった。

頭使って損した。

さっきまでのシリアスモードが、へなへなと抜けていく。慣れないことするもんじゃないな。

こいつらは城の財産について正確に把握していない。ついでに地価や株式についても、ド素人の知識しかない。金は支払い方に工夫のしようはあるが、土地や株式の売買はそうはいかないのだ。リーゼロッテも似たようなもんだが、あいつは自分なりに財産管理について理解しようと、馬鹿正直に帳簿に向き合った。工場、ワイナリー、葡萄畑の面々に認めてもらおうと走り出している。財産を守ろうとする姿勢だ。だが、こいつらは財産を手放すのに躊躇いがない。イサベラの後を継ぎたいと言いつつ、土地を真っ先に手放すようでは、金目当てだと背中に大きく書いてあるようなものだ。そもそも俺が土地や株をもらって、喜ぶと思っている辺り、非常に残念だ。

目星がつけばカルロがリーゼロッテと対立する構図がわかる。

「失礼ですが、イサベラさんが倒れる前に作成された遺産の生前分与の取り決めに、カルロさんのお名前はありましたか?実はイサベラさんが私の医院に来た時に、遺産についての書類を見せてもらったのです。その中に、あなたのお名前は…どうだったかな。土地に関する項には無かったような…」

金髪の美麗な表情は崩れなかったが、後ろの黒髪の女の顔は歪んだ。かかった。

「そんなことはありませんわ。夫の名前は一番初めに書かれておりました。」

「見落としておりましたか。まさか、初めから財産分与の対象になっていなかったのではと、心配になったのです。そのような立場の方が、イサベラさんの後を継げるはずがありません。重ねて失礼をいたしました。」

茶番だ。そんな書類は見たこともない。こいつらはリーゼロッテよりも、生きていれば必ずリーゼロッテの後ろ盾になるイサベラの存在が怖いのだ。遺産の相続の権利さえない外野が、混乱に乗じて遺産をかすめ取ろうとしているだけ。

「ご理解いただけたかな。イサベラおば様を、天国へ導いてあげてくれ。その後は君の望むままだ。」

〈天国〉〈導く〉下水にでも流したい言葉だ。俺は営業スマイルで胸に手を当てる。そのまま一礼。道化地味た仕草が、我ながらバカバカしい。実際バカにしてるからいいんだが。

「残念ですが、お断りします。あなた様よりご明示いただきました条件では承諾しかねます。僭越ながら、これでも信頼と実績で商売を成り立たせておりますので、何度も契約を更新しますと、私の今後の仕事に障りが出ます。ご期待に沿えず申し訳ございません。」

ここまで話して交渉決裂すると思っていなかったのか、酷く驚いた顔をした直後、カルロは俺を睨みつける。お奇麗な顔立ちのおかげでイマイチ迫力がない。カルロがサッと手を挙げると、厩の裏からゾロゾロと男が現れる。手に棒きれのようなものを持った奴もいる。ちょっとした威嚇か、または本当に痛めつけるつもりか、どちらにしろあまりの短慮にげんなりした。王子様は、おつむが残念だ。それなら俺も合わせてやろう。

「手荒なことはしたくないのだが、よく話し合おうじゃないか。こんなところでは無粋だな。是非我が家へ招待しよう。」

何十回も聞いたテンプレート。笑いをこらえるのに必死だった。「それは困りますなあ。」なんてオーバーリアクションをして、ジャケットから小型のボトルを取り出す。たぷたぷとボトルの中身を見せつけながら、雑草の花を手折る。不思議なものを見るようなカルロたちに花を突きつけ、ボトルの中の液体を垂らした。じゅっと音を立てて、勢いよく花から白い煙が噴き出す。

「強い酸です。あなたのお顔にかけたら、その美貌はどうなるでしょうね。」

黒い眼帯を見せつけるように、カルロの前へ迫る。「ひっ」と悲鳴を上げて、カルロとエマは後退る。後ろの男たちにも牽制をしておく。

「あんたたちも、金をもらってるんなら、もう帰れ。この男は借金まみれだぞ。ボーナスなんか期待するな。すぐに帰るのなら、警備員には黙っておいてやる。それとも酸をかけられてでも、この男に義理を果たす恩があるのか。」

「なあ。」カルロの横に立つ、リーダー格と思しき男に目くばせする。リーダーは黙っていたが、乱杭歯を見せて、にやあっと笑った。すかさず後ろの男たちに合図をすると、彼らは暗闇の中にあっという間に消えていった。

カルロたちは捨て台詞ひとつ言えず、もつれあうように厩の前から逃げ出した。素人が生半可にゴロツキに声をかけるから、こうなるんだよなあ。あいつらは一度掴んだ金蔓を離さない。カルロは連中にしばらく追い回されるだろう。リーダーもその辺わかって撤退したみたいだし。闇稼業の人間は、本当に金に汚いんだよ。

ボトルのキャップを閉めて、ジャケットの中にしまう。中身は手品で使うような液体だ。揮発するときに、派手な煙を立てる。それだけ。本物の酸なんかジャケットに入れられるか。手折った花は瑞々しいまま。せめて一晩だけでも部屋に飾ってやろう。眠気をこらえて城へ戻った。

拍手お返事(6/17)&更新+雑記

拍手お返事から~

***uさま、いつもありがとうございます~拍手はねえ、いついただいても本当にうれしい気持ちになれるんですよ!生きる糧!大げさですか(笑)お心のままに、ぽちっとやっちゃって下さい。どうもです!

ネ**さま、「連雨」描いてよかったあああああ。すてきな感想をいただきまして、まさしく雨のごとく心の涙を流しております。何度も読み返して、お気持ちをキャッチした次第です!キリジャの二人の何が良いって、強さと弱さのアンバランスさだと、ネ**さまの拍手コメを読んでいて感じ入りました。BJ先生の猛烈な行動力の裏には、繊細な幼児期の思い出があって、キリコ先生の業火に焼かれた過去がもたらすのは、人ひとりの人生の終わりを見届ける役目。静と動がもつれあう様が、イイ…語ってしまいました(照)またのんびりと描くと思いますので、見てやってください。ありがとうございます!

*こさま、こちらこそいつもこっそりありがとうございます!(小声)これからも、なんだかんだでやってきます。もうね、このごろはキリジャの二人が並んでるだけで満足してしまいます。世界は平和。また遊びに来てください~

更新

小説というか長い作文を書きました。キリジャです。

一時期、狂ったように乙女系小説を読み漁り、ラノベの世界に根を張り、kindleの無料で読めるものはガンガン読み、続きが知りたきゃ「なろう」に行くところまで行きつきました。ラノベ設定で脳が飽和状態になり、こりゃいかんと宮部みゆき、阿刀田高、夢枕獏に加門七海(共通項:怖い話)で中和した結果、この話がひねり出されたわけです。怖い要素はミリもありません。

絵を描く人間の書く文ですから、スナック感覚でどうぞ。1週間で5万字くらいになったかな。それから推敲して、せっかくだし本当のラノベみたいにイラスト付けたろ!と描いてみたものの、いざレイアウトに入れると何か違うなと。お蔵入りになるのももったいないのでここに貼ったろ!

3Dってすごい。

もともとこの話は漫画にしようと思ってて、いろいろと素材を集めてたんですけど、プロット練ってるうちに「これ、絵にするの時間かかりすぎん…?」となり、じゃあ文字にするかーってキーボードを叩きました。

そんで集めた3D素材がもったいなくて、挿絵に使ってみようかなと。そしたらまあ、3Dってすごい。

いやいやいや、自分のへたった線が際立ってツラくなるんですけど、こいつあ便利。身の程を知らずに多用しそうです。3Dじゃなくちゃなりません!ってならないように、ほどほどに…本当はね、なりたいんですよ。歪んでてもいいから、さらっと本棚とか描ける人に。ただ怖くなっちゃうんですよね。パースが、デッサンがって。好きに描いているくせに、空耳が聞こえる、というか。怖いな。病気か?ハハッ(ミッキー)

上・中・下・SSの4本仕立てになる予定です。

あと、全然関係ないのですが、ツイステ面白いですね。最初はオクタヴィネルに誘われたつもりが、気がつきゃサバナクロー。レオナさん一択。いや、ズルいっしょ。褐色・王様・ライオン。オジマンディアス陛下と属性一緒じゃないですかやだー。落ちない理由ありますうー?ゲームはやってないです。課金しないとダメっぽいんで。イヤ、まじで課金したらもう死んじゃうんですよ、私。

だからFGOにしがみつくしかないんですよね。ホラ、朕様引くのに原チャリ中古で一台分くらいブッ込んだんで、やめられないんですよね。CBC、邪ンヌ、エレちゃん、マーリン、ピックアップくるたびに何人の諭吉先生をくべたことか。エレちゃんだけ来てくれた。マーリン、おめーはダメだ。第三スキルは欲しいけど、超人オリオンにかけてバスタークリティカルどれだけでるかなーって遊びたいだけだ。ウチにはW孔明とスカディ様(宝具2)←がいるしー、エレナ女史だっているしー。とにかくマーリンはもういいっス。

拍手お返事(5/27)&拍手絵更新

拍手お返事~

t***さま、コロナ自粛になったら…って私も妄想してました。キリジャもジャキリ♀も二人とも医者ですから、BJ先生はもちろん治療に躍起になって奇跡を次々と起こしているかもしれません。彼にしかできない独創的な医術の力で。しかし世界中のニュースを見ていると、ほんの一部にしか過ぎない情報量ではありますが、あまりの被害の多さ、状況の過酷さに、キリコ先生の手を求める人も多いのかもしれない、治療の見込みがないと告げられた大切な人の人工呼吸器を外す選択肢を迫られる家族の代わりに彼が外すのかもしれない、そう思ってしまったのです。BJ先生もキリコ先生も思想は全く逆の方向を向いていますが、根底にある「救いたい」という信念は同じ容量なのではないかと、こんな非常事態に腐った脳みそは妄想しておりました。家族パロの面々は、クロオ夫婦は自らの感染リスクとクラスターを起こさないように過ごす緊迫した日々を送っているでしょうね…キリコ兄はロックダウン、黒男は大学が休校になって家事のスキルを上げてそうです(笑)姉さんの偉大さを感じていることでしょう。「連雨」はそんな新型コロナウィルスの感染拡大の様子から妄想してできた話なんですねー。ハグセラピーにかこつけてくっつく二人が描けて、大満足です。突貫で描いたのですが、勢いも大事。彼らはやつれきってますが、ホント、ずっと抱き着いて、こうしててほしい(笑)次はもう少し元気になった二人を描きたいもんです。細かいところまで見てくださって、ありがとうございます!

5/15に拍手を下さった方、「Praise You」何度も読んでくれてうれしいです。ありったけの思いを込めて描いた話でした。幸せな気持ちになっていただけて、私も幸せです。ありがとうございます。

返信不要の方、定型文の方などなど拍手ありがとうございまーす!

それから…結構キリコ姉さんを気に入ってくれている方々もいてくれて…う、うれしいです!

拍手絵を更新しました。元気出していこう!って気持ちを込めて描きました~カラーイラスト描いてないなあ。そもそも下描きのまま数週間放置してるものもあったりして、データ整理してたらこんなの描いてたの?と発掘するのもあったりとか。気が向いたら描こう…なんか、今はあんま難しいこと考えられないですね(笑)ハハハ…京都大作戦も男鹿のナマハゲロックフェスも延期になってしまうし…イヤ、そもそも抽選当たってないッスけどね。

元気出していこう~~~~!!

連雨

キリジャバナー2

世界を覆う長い雨が早くやみますように。医療に携わる方々に深い敬意を。二人の黒い医者。雨の中でもきっと彼らは自分の信念を貫き通す。方向性は違えど、BJ先生は情熱を以って、キリコ先生は冷静さを以って。それでも彼らは機械じゃない。おそらくBJ先生は自分の調子を整えるためには何だって利用するでしょう。たまたま通りがかった死神の化身だって。

最後のモノローグは私がとても落ち込んだ時にかけてもらった素敵な言葉から。感謝。

拍手ありがとうございます!お返事たまってますが、もう少しお待ちください…すみません!

拍手お返事(5/10)

はっ*さま、なんともあたたかいコメントをいただきまして、とてもうれしいです。口元がゆるんでます。私自身ゆるやかなキリジャのようすを描いているときが、一番ほっとするのだなあと感じた話でした。見てくださって、ありがとうございます!またどうぞ遊びに来てください~

t***さま、あつ森のキリコ先生は、今は「ヴィジュアル系」のコスチュームを付け、ヒーローマスクにカラスマスク、黒の編み上げブーツと黒い現場ヘルメットを着けています。カ、カオス…「くんたま」で燻製を始めたキリコ先生、次は何を作るか…貴重なアイディアをいただきました(^▽^)/私の趣味全開で突っ走ると思います。またよろしくです!

ぽ**さま、お久しぶりです!お元気ですか~拙い話ですが、お心を癒すことができて、とてもうれしく思います。また遊びに来てくださいね~

5/6に拍手を下さった方、キリジャは本当にいいですよね。私の漫画があなた様の気持ちを穏やかにすることができたのなら、こんなに喜ばしいことはありません。キリジャでいっしょにぽかぽかしましょう~またどうぞ遊びに来てください~

M*** F******さま、Hello! There were you safely or was anxious whenever I saw news of the United States. Therefore I was very glad that a message arrived. A lot of people infected with coronavirus are in the area where I live in, but I am healthy!! I do it well!! please, you must stay healthy too. It was good to have you like comics of new Kirija. Thank you for always coming to my site!

たくさんの拍手をありがとうございました!

ところで「フェス行きたい2」を描いていて思ったんですが、同じテーマでキリジャ、ジャキリ♀、家族パロをいっしょに描きたいなーってなった時に、独立したカテゴリがあった方がいい気がしてます。自分のサイトなので好きに描きますが、分類上BLOGになってるのもなあ…と。3つのカプを並べて描くと違いが判って、それぞれのカプの可能性を考えられる利点があります。まあ、そのうち、なんとかします。

コロナはこれから後半戦。とっちめてやりましょう!みなさま、どうぞお体に気を付けてくださいね。

フェス行きたい2

びっくりするほど違和感がない

きのこたけのこ戦争

カプ別フェス考

※1 キリジャの場合

キリコ先生:推しだけ見に来ている。時間になるまでビール飲んだり、適当なステージをひやかしてゆるっと過ごす。

BJ先生:推しだけ見に来ている。ひどいときは2ステージ前から好ポジションで地蔵をキメている(超迷惑)見終わったら速攻で帰る。物販は並ぶのが嫌。クロークも面倒なので嫌。

※2 ジャキリ♀の場合

基本的に単独行動。好きなバンドの傾向が似ているので、よくタイテがかぶる。迷った末に違うステージを自然に選んでいる。その後の情報交換も忘れない。その時に相手が悔しがるのが楽しみ。本命のバンドは同じなので、必ず一度は同じステージで一緒に汗だくになっている。

※3 家族パロジャキリ♀の場合

フェスは2回目。初めてのフェスは地方でのんびり楽しめたので、すっかりはまった。大規模フェスの壮絶な物販の列に気後れしてしまうが、気を引き締めて分担してライブTとか買う。クロオは物陰でババッと上半身裸になって購入したTシャツに着替えてしまう。女性用の更衣室があればいいのにとキリコは恨めしく思っている。本当は女性用の更衣室はあるのだが、たいそう心もとないためクロオが教えていない。

しかし彼らは知らない。大規模フェスではレモネード一杯買うのに炎天下で30分以上並ばなければならない事実を…そしてそれを手にした後、座る場所を求めてさまようことを…

★★★この投稿は、おこめの地元のフェスが新型コロナウィルスのせいで潰れた腹いせに作成されたものです★★★

大澤会長がきっちり歌ってくれてました。

フェス行きたい

ライブ行きたい。フェス行きたい。ライブ行きたい。フェス行きたい。ライブ行きたい。フェス行きたい!!!!!!!!!!

軒並みフェスが中止。私にできることは何だ!STAY HOME!それから物販!お布施!YouTubeチャンネルの視聴数を増やす!あと何ができる⁈部屋でヘドバン?

来年へのエネルギーをためるんだ。2年ぶりのフェス会場は絶対にアツイ。楽しみだなあ。だから今を生きる。大切なおもしろいことに無事にたどり着けるように。

ああ、あと大事なこと。

コロナブッ飛ばす!!

くんたま

キリジャバナー2

ふんわりキリジャでした。これくらいの距離の彼らを描くのは久しぶり。楽な気持ちで描けました。ウチのキリジャはキリコ先生のどでかい包容力で成り立ってるなあ、その中を泳いでいこうとするBJ先生かわいいなあと今更な感想を抱きました。