虹の名残(設定とかラクガキとか余談とか)

キリジャバナー2

【三人羽織】

娯楽の少ない教団では、新聞のクロスワードですら黄金並みの価値がある。本当は新聞すら「世俗の汚染された気を取り込む」とかでダメらしいんだけど、〈八枚〉様のキリコのところには必ず届く。

俺はそれを使って、教団の連中との間にコネクションを作ろうとしたのだが、キリコに止められた。なんでもキリコが読み終えた新聞は残さず後藤が回収し、その日のうちに賽の目にされるらしい。日本刀で。お前も同じ目に遭いたくなかったら止めておけってさ。別にポン刀は怖くないけど、新聞ひとつで面倒起こすのもあほらしい。後藤もハサミ使えよ。刀匠が泣くぞ。

で、クロスワードの載ったページを抜き取って、座敷に寝っ転がりながらやってるってわけ。

「えーと、『こ』から始まって『り』で終わる四文字の言葉ってなんだ?アイドルか?」

「知らん」

「使えねえなあ」

キリコは黙って経済欄読んでる。その横顔が癪にさわったので、座敷に胡坐をかくアイツの膝の上に座ってやった。

「こら、新聞が読めない」

「俺にはこっちの方が大事だ。ホラ、『ドラえもんの体重』って何キロなんだ」

「どんなクロスワードなんだよ…ああ、これならわかるぞ。『エコロケーション』だ」

「へえ、お前さん動物に詳しいのか。すごく意外。でもポケモンは無理だろうなあ」

「無理だなあ」

一緒になってやってると、耕太がぱたぱた足音立ててやってきた。最中せびりに来たな。

キリコの膝に入っている俺を見て固まった。違う違う。クロスワードやってるだけだから。

「耕太、お前ポケモン詳しいか」

「剣盾やってた」

「よくわからんが、ちょっと来い。クイズに答えて欲しいんだ」

クイズと聞いて、耕太はやる気だ。こいつもなんだかんだ暇なんだよなあ。お清めが済んだら放置だし。このくらいのガキなら外で駆けずり回っててもおかしくないのに。俺と額をくっつけ合ってクロスワードのマスを覗き込む。

「え、ルカリオって、もう古いのか!?」

「知ってるけど、新しいのはザシアンとかバドレックスとかいるよ。カイオーガは強いから好き」

「カイオーガはかろうじて知ってる!」

「……………」

俺がポケモンをかじってるのは、子どもの患者へのアプローチに必要だったからだ。以前オカルトに詳しいガキを相手にした時と同じように。

ポケモントークをやってたら、耕太は俺の足の間にはさまってきた。おお、そうだな。同じ方向からクロスワードを見た方がいいもんな。

「んー、水ポケモンなのー?」

「五文字。三文字目が『オ』あれ、カイオーガって水ポケモンじゃないのか」

「うん。タイプ水だよ」

「カイオーガでやってみるか。よーし、いいぞ耕太。次はな…」

「……………」

クロスワードは耕太と完成させた。耕太が出て行った後、キリコはぼやいた。二人羽織ってのは知ってたが、それの進化版があるとは知らなかった、だって。なんの話だ?

【最悪の出会いとは】

すっかり薄くなった背中の傷をなぞりながら、BJは俺が一番聞いてほしくなかったことを口にする。

「お前さん、どうしてあの団体の中で馴染んでたんだ」

「…馴染んではいない」

ウッソつけ!と背中をバチンとやられた。

「じゃあ、初めはどんなエンカウントしたんだよ。後藤には切りかかられてるんだろ?」

……………言いたくない。でも教えなきゃ教えないで、ずーっと聞くんだろうなあ。それは想像するだけで頭痛くなる…………言いたくない………

結局渋々俺が初めて教団の人間と接触した時の状況を話した。

BJの反応は、絶句、爆笑、過呼吸起こしかけ、嘔吐起こしかけ、腹筋と背筋の激痛、横隔膜の痙攣…とまあ、想定内の惨状だった。

もう二度と言いたくないので、キーワードだけ示しておく。

・教団の歓喜の叫び

・担ぐ

・剥ぐ

・温泉

・問答無用

【エピローグ没頁】

散々汗をかいて、ベッドの上でごろごろしてると、思い出したようにBJが口を開く。

「アフターケアで会った人でな、蛇に関する宗教観に詳しい人がいたんだよ。その人が言うにはな」

なんだよ、そのニヤニヤが止まらないって顔。

「蛇って精力の象徴でもあるんだってよ」

「……」

「あの三角の頭に長い胴だろ。もう見たまんまの形、男性のシンボル。だから精力の象徴なんだとさ」

言葉もなく天井を見上げる。

「お前さんが精力のシンボル!おかしすぎてヘソが茶ぁ沸かすぜ!カルトどもに変なあだ名付けられて崇められてるのも、最高に笑えたけど、これが一番ひでえ」

ゲラゲラ笑うBJは止まらない。俺が性に対してあまり執着しないのを知っているから。確かに年がら年中サカってるのは御免だし、少しのスキンシップで満足するから激しい欲求が溢れる性分でもない。でもなあ、最近は変わってきてるんだけど、知らないのか。

黙って彼の腰を抱き寄せた。当たっているものに気付いて笑いが止まる。

「前に言ったよな。戻れる気がしないって」

BJは口をパクパクさせている。あの時はぶっ飛んでたから覚えてないかも知れないな。だけど構うものか。事実なんだし。実際お前と付き合うには、いろいろと開き直らないとやっていけない。

「戻れないのはお前のせいなんだから、責任とまでは言わないが、最後まで付き合いなさいね」

BJの顔は赤いんだか青いんだか。俺はと言うと柄にも無く頬が熱い。誤魔化すように再び彼の体に押し入る。

「っあ、やめろ!二ラウンド目なんか聞いてねえ!」

「いちいち言うわけないだろ、そんなの。気分だし」

「も、もう、ああッ!さっきよりデカイの何でだよ、ん、ううっ」

「さあ、煽られたからじゃないか。人を枯れ木みたいに言いやがって。ちなみに知ってるか?」

息を乱して俺を見上げるBJに告げる。きっと悪役みたいに見えるんだろうなあ。

「蛇の交尾は長いってさ。数日間繋がってた例もあるらしいよ。やってみる?」

案の定、BJは悲鳴を上げた。

おかしいな。そんなに乱暴はしてないし、むしろとっても快くしてやってると思うんだけど。

「もう蛇はたくさんだ!お腹いっぱい!お代わりナーシ!」

「お前から振った話題だろうが、そら、よっと」

「ぐえっ」

※イチャイチャエンドにしてもあんまりにも軽いと没にした。

【エントランスでの仕返し】

〈六枚〉が詩人モードを炸裂させた晩、キリコは特別追及してくるそぶりはなかったから、てっきり忘れているものだと思っていたのだ。それからなんやかんやあったし、尚更覚えてるわけないって。

「野良猫君!」

「〈六枚〉!?」

鱗に関する資料が入ったUSBを警察へ提出した帰り、エントランスで〈六枚〉と鉢合わせた。聞けば、教団関係者の顔を確認するために、しばしば警察に呼び出されるそうだ。首実検か。もっといい方法あるだろうに。面倒だなあと二人してため息ついて、コーヒーおごってやることにした。

俺は〈六枚〉の実家の事も彼の爺ちゃんの肩書も知っていたので、事件が〈六枚〉の生活に与える影響については、もう心配はしていなかったのだけど本人はそうじゃなかった。

コーヒーショップのすみっこで、はらはら泣き出した時はこれじゃいかんと、外に連れ出した。近くの街路樹の陰で、彼の懺悔を聞くだけ聞いた。俺に心の治療はできない。今みたいに聞くしかできんが、それでよければいつでも呼べと言った。すると〈六枚〉は俺の肩に額をつけて、頷いて、また泣いた。めそめそすんなこんにゃろうとも今のこいつには言えんので、黙って胸を貸してやった。それだけのことだ。

〈四枚〉がまたタバコを始めた理由と〈六枚〉が泣く理由って、同じところにあるのだろうか。耕太には母ちゃんがいるし、母ちゃんには耕太がいる。お互いが絆創膏になって、生きている。彼らには絆創膏はいるのだろうか。そこまで考えて、俺の領分じゃないと切り替えた。

数日後、また〈六枚〉に会った。

「お前、いつになったら名前教えてくれるんだよ。呼びづらいったらありゃしねえ」

「いいんだよ。野良猫君、君には〈六枚〉って呼んで欲しいから」

「だーかーらー、俺が良くねえんだってば」

少し顔色が良かったからどつきあいをした。ちょっと笑っていたみたいだ。よし。

それからしばらく依頼が立て込んで、やっと時間が取れたから、キリコの家へ飯をたかりにいった。

キリコの家は真っ暗だったから、自宅に戻ってボンカレーを食った。

〈四枚〉の本名を知った。演歌歌手みたいだなって素直な感想を言ったら、G-SHOCK握った拳で殴りかかってきた。今は穴沢の舎弟が彼氏なんだと。大概にしとけよ。

耕太の母ちゃんの喉はとてもいい具合だ。夜も眠れているみたい。ポケモン剣盾をする約束をしていたので、耕太とちょろっとだけする。クッソ、俺もスイッチ買おう。

キリコの家はやっぱり真っ暗だった。まあ、こういう時もあるわな。

帰ろうとしたが、一応ドアノブに手をかけた。かちゃりと玄関のドアが開いた。

不用心だとか、いるんじゃないかとか、いろいろ思ったけど、一番感じたのは「待ってるな」って雰囲気。何か言いたいことでもあるのかね。靴を脱いで上がりこむ。

他人の家だが勝手知ったるなんとやらってやつで、暗がりの中でも簡単にリビングを歩き回れる。一階にいないな。鞄とコートを置いて、二階へ上がる。できるだけ足音をたてないように。

風が吹いてくるのを感じてテラスの方へ向かう。冬空のさっむいテラスで何やってんだか。

緊急を要する事態かも知れないのでと言い訳して、あいつの大事なものが並んでる部屋を突っ切った。この部屋に入るのすごく嫌がるんだよなあ。俺的には変な部族のお面とか絶対にいらんし、転売するほど金に困ってもないし心配しなくてもいいのに。

テラスのデッキチェアにキリコは座っていた。座るというよりは、背もたれを倒して寝てるというか。

なにやってんだか。薄着で風邪ひいちまうぞ。

「おい、寝るならあったかいところで寝ろよ」

「……」

キリコは起きているのに返事をしない。手を掴むと、びっくりするほど冷たかった。死体かと思うくらい。そのままズルズル家の中へ引っ張っていくこともできたのだけど、俺はキリコの手を握ったままデッキチェアの横に座った。吐く息が白く夜空に溶けていく。うーん、ケツが冷たい。

「…なんか、食うか…?」

やっとしゃべった。しまったな。晩飯食ってきた。

「いい。さっきラーメン食ってきた。ここ寒いし熱い茶が飲みたい」

「……」

また黙る。いいや、勝手に喋ろう。

「この前な〈六枚〉に会ったよ。元気かなって思ったけど、そうでもなくてな。生憎俺は心療内科じゃないし、話聞いて、ちょっとちょっかいかけてってくらいしかできなかったけど」

「……」

「相変わらず本名は教えてもらえない。俺はそこまでこだわってるわけじゃないが、あっちがそう思うってことは、何か後ろめたいものをずっと抱えているんじゃないかって」

「…だから、胸を貸したのか」

キリコは空を見つめたまま。胸を貸すって文字通りの姿勢になってたわけなんだけど、コイツ見てたのか?

「泣いてる〈六枚〉と俺を見たのか?」

「いや…それは知らない。俺が見たのは……」

口を噤むキリコ。

おい。今の構図、あの時の逆だぞ。

「お前さん、もしかして妬いてたりするの?」

ニヤニヤしながら聞いてやった。キリコは少しだけ身じろぎして、俺に握られていない手で顔を覆う。照れていたり、悪びれているふうでもない。ゆっくりと額にかかる髪をかき上げると、焦点が合わない視線を虚空に投げて、微かに呟いた。

「わからない」

枕を投げないだけ、こいつは俺よりよっぽどましだ。でもいつだって自分をないがしろにする方向へ進むのは頂けない。今だっていつからここにいたんだか。ちゃんと食ってるかも怪しい。

「俺はな、命にかかわる時以外、誰彼問わず触ったり、触らせたりはしない」

「知っている」

「今は命にかかわる事態になりそうだから、お前さんに触るぞ」

俺があの時感じた嫌悪感をキリコが感じなければいいのだけど。デッキチェアがぎしりと軋んだ。さすがに大人の男二人の体重を支えられそうにないので、キリコの上半身だけ抱きかかえた。

「低体温症になりそうだ。髪の芯まで冷えてる」

冷え切った固い頬を温める。何度も抱え直して、手のひらを冷たいキリコの体に当てていく。

「お前さんには胸なんか貸さねえぞ。これは医療行為!」

いっそのこと懐にこいつの手を突っ込もうかな。

「ああ、冷てえ。なにやったらこんなに冷えるんですかねえ」

「さあ…昨日の晩からここにいた」

「あほ!」

耳元で叫んでやった。

冷え切ったキリコを風呂に叩き込んで、台所に踏み込む。後で怒るんだろうけど、今は緊急事態。カップ麺ができるころには少しキリコは復活してた。でも出禁の台所に入ったことにも、前と保存場所を変えて隠してあったカップ麺を見つけ出したことにも、不平を言わないから…まだって具合かな。

俺は暖炉のつけ方を知らないので、ソファに座ったキリコに毛布をかぶせ、その横に座った。カップ麺は食わないらしい。もったいないな。じゃあ、と体内を温めるためにスープだけはキリコに飲ませ、後は俺が頂戴する。うっぷ。夕飯二回食ったことになるな。食った後に横になると牛になるとか言うけど、腹が膨れすぎて今は動けない。

隣に座るキリコの膝に頭をのせた。

キリコは動かない。俺も動かない。

「…お前といると調子が狂う」

そうですか。

「帰ってくれ」

やなこった。

「……」

ああもう。

「はっきりしねえな。いつもの余裕綽々な喋りはどうした。まだ寒いのか」

「寒い…ああ、寒いみたいだ」

むくっと俺は起き上がり、キリコの膝に乗った。視線が合わねえな。知るか。そのまま抱きついた。さっきもやったけど人間カイロだ。生意気にジャケットが冷たいとか言うので、ベストも一緒に脱いでやる。俺の方が寒いわ。キリコはそろそろと俺の背に腕を回す。

「俺だってお前さんといると、いっつも調子を乱されっぱなしだ。手のひらで転がされてる感があって、腹が立つことも多いし」

「そんなもの、全部壊していくのがお前じゃないか。想定外ばっかりだ」

「そうか?お前さんはそういうところでさえ読んでいる節あるぞ。ホント、嫌な奴」

「嫌な奴はお前だ。自分の内側がお前のせいで混乱して、いつものようにできない。こんな状態の自分だって本当はお前にひとつも見せたくない。今までは上手くやってきたんだ。なのにお前の事になると、どうしてか俺は俺を見失う」

キリコの顔を見ないように、もっと強く抱きついた。嫌がらせだ。ざまあみろ。

「それと〈六枚〉がどう関係するっていうんだよ」

キリコはまた沈黙。普段なら放っておくけど、今はダメだ。しがみついて離れない俺に業を煮やしたのか、キリコはうめくように口を開いた。

「似合ってるなって、思ったんだよ」

なんだそりゃ。俺と〈六枚〉がってことか?

「俺が見たのは警察の前で、小突き合ってるお前たちだ。胸を貸す云々は知らないけど、どうしてだろうな。目を背けてしまうくらい、似合ってたんだよ。多分…そうだな、年恰好が似ているせいかもな」

ううーん。最近年齢でいじってるからな。気にしてたのかなあ。そんなこと気にしないチタン合金の心臓のくせに。ぐりぐり頭をこすりつけてやる。

「あいつと俺は、生きている世界が違いすぎる。今はたまたま教団の件で繋がりがあるだけで、時が過ぎれば、完全に消えてなくなる縁だ。不安定になってる〈六枚〉もそこんとこはわきまえてると思うぜ」

「今は、か」

「〈六枚〉だけじゃなくて、耕太とか他の連中もそうさ。結んだ縁は暗闇の中に隠れて見えなくなるだろうよ。なんせ俺はモグリの黒い医者だ。一般人には追ってこられない場所に生きてる。お前さんも、そうだろ」

キリコのひたいにごちんと俺のをくっつける。

「大体お前さんとしか話せない話題が多いんだよ。テロリストからもらった金をキレイにする方法とか、誰と話せって言うんだよ!」

「違いない」

キリコと目が合う。

「そーゆー訳で、今の俺は話したいことでいっぱいだ。一般人に話せない情報を穴沢からも警察からもたんまり仕入れたからな。ちょっと信憑性のない話もあるから、お前さんの意見を聞きたい」

「わかった」と頷いたので、もう一回抱きついておいた。うん。体が温まって来てるな。よしよし。キリコの抱きしめ返した腕が予想より力強かったので、口から変な声が出た。それを聞いてあいつが少し笑っている気がした。

話していたら、キリコは「めまいがする」って言いだした。検温すると39.2度。ばっかやろう!あんな寒いテラスに丸二日いれば風邪くらいひくわ!一本注射打って、ベッドに放り込んだ。一旦帰ろうかとも思ったが、なんとなくいた方が良い気がして、ソファで毛布をかぶって寝た。

翌朝、キリコは黒いスーツで出かける準備をしている。仕事に行くのかと全身の毛を逆立てる俺に、キリコは「お前も一緒に行くんだ」ってさ。どこに?

到着した場所は警察署。また取り調べかよ。もう全部喋ったってば。小林の話を聞きたいらしい。またかよ。しかしここできちんと話しておかなければ、俺の苦労も水の泡。それはとてももったいない気がするので協力する。渋々別室に向かう俺とは違う方向へキリコは消えていく。

さくさく終わらせてエントランスへ出ていくと、また〈六枚〉と鉢合わせた。

「よくよく会うよな。お前さんとは」

「本当にね。これも何かの縁かな」

「やめとけ、やめとけ。俺なんかともう関わるんじゃねえぞ」

「ふふふ、野良猫君は相変わらずだ」

笑顔の〈六枚〉が何かに気付いたように、言葉を切り上げる。振り返るとキリコがいた。俺の横に立って〈六枚〉と話し出す。

「元気そうだな。体は大丈夫かい」

「ええ。鱗を取る手術の経過も順調で、後数回受診すれば済みそうです。警察に顔を出すのも、おそらく今日が最後になるでしょう」

「どういう意味…ッ」

〈六枚〉に問いかける俺の尻をキリコが掴んだ。そのまま何食わぬ顔で尻を揉む。

「気分転換、というのかな。しばらく祖父の持ち物の別荘で過ごすんだ。ハワイなら気分も晴れるだろうって」

「そいつは羨ましい」

ひとっつも心にないことをぬけぬけとキリコは抜かす。そしてずっと尻を揉んでいる。動きがだんだん怪しくなってきているんだが。当然俺は顔に出すなんてへまはしないけれども。

「俺にはまぶしすぎる場所だ。でも良かったな。楽しんで来いよ」

屈託なく笑って頷いた後、少し言いにくそうに〈六枚〉は俺達に囁いた。

「あのさ…君たちの後ろ、ガラス張りなんだよね。私からも反射で見えてるし、エントランスの向こうの人も、きっと」

ボッと俺の顔が燃え上がっているうちに、〈六枚〉はさっさと退散した。隣のキリコを見れば、全くの知らん顔。嘘つけ、嘘つけ!嘘をつけ!!!!!!てめえ、分かってやってたな!!!!!

「セ!ク!ハ!ラ!」

警察署のエントランスを出るや否や、俺はキリコに殴りかかり、何事かと飛び出してきた警官をまいて走り去る羽目になったのだった。

あとがき:虹の彼方によせて

いかがでしたでしょうか……原作の「白葉さま」からのオマージュを含みつつ、勢いと思い付きで書いただけあって、もうちょっときちんと調べて書けよってとこが多かったですね!

特にミックスジュース温泉とか、白蛇信仰とか。深く考えないでください。私は考えてないです。

あと人名…後藤は完全に思い付きでした。じゃあやっぱり南雲さんも…って小ネタです。それから本田に川崎…バイクだな。

ひたっすら走って壊して暴れまくるBJ先生を書けたのが一番面白かった!湯治場での大立ち回りもさることながら、山の小屋に降り立って3人速攻で倒す彼が好きです。

対して珍しく真正面からの最短距離で自らの仕事を成そうとしたキリコ先生。ふたりのアプローチが全く違い、意外な方向に行ったものだと書いた自分が驚いています。どれだけ行き当たりばったりで書いてるんだか。キリコ先生に鱗が生えまくったのは、体質のせいです。どんな体質だよ(笑)

大師の性格が気に入ってます。彼女が饒舌なのは、久しぶりにまともに話ができる人間に会えて嬉しくなっちゃってるせいです。口調は教団の好みで教え込まれました。

エピローグがイチャイチャで終わるってのもどうかと思ったんですけど、落とし所が見つからなかった。今回キリコ先生元気ですね。

やっぱり私は漫画を描く視点でストーリーを組むので、文体も細かい描写を言語でするのが苦手だとわかりました。読みづらいかとは思いますが、テキストにした方がストーリーを膨らませやすい場合があり、試行錯誤しながら良いものが書けるように研鑽を積みたいです。

それから先日からバグが出まくりのワードプレス 。やらかしてくれます。エラーがでまくり…なんでバナーのサイズ変わっとるんや。

あんま大したことじゃないのですが、この話書いてて長年私が記憶していたものの名前が実は存在しないものだったことがわかったり、思い込みって怖いなあと実感しました。

「虹の彼方に」全体を通してのキーワードが『思い込み』でした。最後に私が思い込みをしていたというオチがついたのでした。

よわったよわった。

この後も少し、本編に入れきれなかったエピソードや、登場人物のラクガキをアップする予定です。裏の方にもとんでもないのが上がります。これはもう。土下座の勢い。やってみたかったとしか言えません。その結果、ウチのキリジャの仲が大変よくなりまして、自分の中で【キリジャ・完】の文字が浮かんだくらいです。ここが天国なのか?ついに自分で作った?

長いテキストでしたが、気持ちよく書きました。最後まで読んでくださってありがとう。少しでも楽しんでもらえたのなら、とてもうれしく思います。

虹の彼方に(八)

キリジャバナー2

※2021/12/11ちょっとだけ改訂

『名湯の湯治場、天然ガスで爆発』

『負傷者多数も死亡者なし』

『カルト教団一斉摘発』

そんな見出しが飽きた頃、やっぱりあいつは現れた。我が家のように押し入り、リビングで新聞を読む俺のところまでドカドカ足音を立てて。

ツートンカラーの長い前髪の隙間から無言で俺を睨んだかと思えば、新聞を奪ってざくっと棒状に掴み、それで俺を殴ってきた。あれだ、ハリセンでしばかれるやつ。スパーンといい音がした。

「少しスッキリしたぜ」

言い放つと問答無用で俺の衣服を剥ぎ出す。

「いきなり殴って裸にするとか、お前は追い剥ぎか」

「バーロー、服だけで済むと思ってんのか。最後の鱗を剥ぎにきたんでい」

ああ、それか。鎖骨の下に生えていた九枚目の鱗を見せる。そこにはもうほんの小さな虫刺され跡のようなものが残っていた。

「あの湯に浸からなくなったら、自然と崩れていったんだ。他のもそう。問題ないよ」

「いいや。まだ全部剥がれてねえはずだ」

…っち。野生の勘だな。野良医者め。

「一番初めのを見せてみろ。他の鱗より一番長い時間湯に浸かり続けた鱗だ。どの鱗よりしつこいに違いない。鱗は育つって言っただろ」

その通り。時間が経っても剥がれない鱗を正直持て余していたので、素直に診させることにした。が。

「痛い。お前麻酔打ったか?」

「打つ訳ねえだろ。俺の恨み思い知れ」

「馬鹿言うなよ。いつお前の恨み買ったっていうのさ。あんなに便宜を図ってやったのに」

「残念だ。二枚麻酔なしで鱗を切除することになった」

「もういい。もういい。やめろ。これは傷害罪に当たる」

「うるせえなあ。黙っとけよ」

それだけ言って、BJは本格的にメスを入れた。冗談じゃねえ。うつ伏せに馬乗りされて、背中に刃物だ。動けるはずがない。メスが鱗の芯を抉るのを脂汗かいて堪えた。実際にやられて分かったが、芯の固い中心部の下は木の根の如く皮下組織に食い込んでいたのだ。これを律儀なあいつは全部取っていく。情けないことに、あまりの痛みで意識が飛ぶかと思った。これをあの〈四枚〉って娘は耐えたのか。

最新の人工皮膚を貼るとかなんとか言って、あいつはテキパキと処置を終え、また暴風のように去っていった。本当に鱗にしか興味がなかったんだな。

その後も経過観察にBJが訪れ、診察と処置だけして帰って行く。

「これで最後だな」

俺の体の鱗を剥がした跡が、すっかり新しい皮膚に覆われているのを見て、BJはいきなりポケットを漁り小さな箱を取り出した。タバコだ。待ちかねたように包装のセロハンを取り、蓋を開け、愛おしそうにタバコを一本摘む。神聖な儀式のように火をつけると、深く煙を肺に入れ、目を瞑って動かない。

無言で一本吸い終わるとクソ真面目に言い放った。

「俺、禁煙無理だ」

いきなり何を言うかと思えば。

「禁煙しようとしてたのか」

「なんとなくな。鱗のアフターケアに飛び回ってたら、患者に女子どもが多くてタバコを吸うのをやめてたんだ。特に子どもはにおいに敏感だから。耕太なんかにおいで俺が診察前に食ってきた昼飯当てるんだぞ。最近は耕太の母ちゃんまで一緒になってくるから参るぜ」

リビングのソファにもたれて、二本目のタバコを存分に味わっている。

「アフターケアね。珍しい」

ふうと大きく煙を吐き出して、BJはテーブルの上にUSBを置いた。

「珍しいついでに今回の症例について、きちんと資料を作ってみた。これを警察に提出すれば、教団を追い詰める効果はあると思うぜ。〈六枚〉の実家も動くそうだし。あいつ本当に最後まで便利な男だったなあ。まだ名乗りたくないみたいだから、任せておくけど」

なんだろうな。〈六枚〉の話になるとモヤっとするのは。

ちょっと眉をしかめた俺などお構いなしに、ヤニをキメたBJは饒舌に語る。

「それにしても久しぶりのヤニは実に効く。〈四枚〉が診察する俺の前でタバコ吸いだしたから、思わず革靴でシバいちまって、すっげえケンカになったんだけど『禁煙がキツイ』って話したらチュッパチャプス一ダースくれた。パチ屋で勝ったんだってよ。それで〈四枚〉と話して分かったんだけどさ、俺らに禁煙は無理。〈四枚〉は三年以上禁煙してたんだから、卒煙すりゃいいのに戻ってる。これはもう、仕方ない」

あれ、そうすっとアイツ中学生からタバコ吸ってる計算になるなとか言いながら二本目を吸い終えて、彼は満足そうに襟を緩め足を投げ出した。

「コート、脱いだら」

「ああ、そうしようか。ひとまずやることはやったし、しばらくラクにしたい」

ばさばさと重苦しい装備を解き、BJはそのままソファに寝転がる。ああ、憎たらしい。そんな俺に気づいた彼は大きく腕を広げる。白い歯を見せて笑うなよ。余計に腹が立つだろ。

「やっとお前さんを構ってやれるぜ。どうした?来ないのか?」

このまま彼の腕の中に収まるのは非常に不本意だ。

しかし長らくほったらかしにされた体が、抵抗する選択のキャンセルボタンを押し続けてる。俺の意地と欲求は、結局争うのを辞めて、そのままBJのつぎはぎにかぶりついた。

雨だれの音が弱まって、光がほんのりとさしてくる。

やがて朧に大きな虹がかかる。

物理的に説明ができる気象だが、どうしてかいつも不思議に見える。

近付けど距離は縮まず、根元を探そうにも見つからない。空虚な存在そのもの。なのに虹を見つければ、人は自然と心が浮き立つ。ラッキーとか、きれいだななんて和んだり。

虹に向かって空に手を伸ばした幼い日を思い出す。きっと虹を掴みたかった人間はたくさんいる。虹の向こうに何かがあるはずと、希望を抱いた人間も。

力尽くで握った虹が本物なんかじゃないことに、きっと誰もが気付いていただろうに。

ぼんやりしていた俺に気が付いたのだろうか。隣で眠っていた白黒が身じろぎする。

ブルー・バードの羽とは程遠いツギハギの腕を伸ばすので、そのまま引っ張られてやる。

冷たい雨と一緒に寒波が押し寄せてるみたいだけど、こいつの肌に触れていると熱くてたまらない。冬眠するなんて選択肢はないな。

あの事件以来どこか自分に貼りついている気がしていた鱗の感覚が、今度こそ剥がれていくのを感じる。

俺もアフターケアの一部に入っていたのかな。だとすれば実に生意気な発想だ。まあ、まともに聞いても答えないのはわかってるから、こっちで勝手にやるけどね。

彼の熱い掌が背に回る。きっとこれから爪を立てるに違いない。そのくらいの痛みならレモン・ドロップのように溶けてなくなるさ。何の問題もないと、絡めた指を一層強く握る。

やわらかい日差しが窓から満ちる。一瞬の晴れ間。

カーテンのない窓から、ゆっくりと淡い虹が彼方へと消えていった。

虹の彼方に(七)

キリジャバナー2

※2021/12/11改訂

むかしむかし、とは言ってもそんなに大昔ではない、むかし

白いへびのかみさまを おまつりしている人たちがいました

みんながいっしょうけんめい おいのりをして おきてをきちんと守るので

白いへびのかみさまは ごほうびに 白い毛皮をくれました

みんなはたいそうよろこび 白い毛皮をたいせつにしていたのですが

どんどん汚れて さいごは黒くなってしまいました

これではいけないと 大師さまをはじめとする人々が

山でとってきた とくべつな薬草を

海であつめた きれいな泡を

土からほりだした 宝石を

ぜんぶあつめて釜にいれ かみさまの湯を つくりました

そこに白い毛皮を入れると なんと にじいろにかがやきだしたのです

毛皮はにじいろのへびのうろこに おおわれて ひかっていました

白いへびのかみさまは おどろいて 自分も湯に入ります

すると かみさまも にじいろのうろこに かわったではありませんか

へびのかみさまは とてもよろこんで みんなにしゅくふくをくれました

みんなが けんこうで たのしく おなかをすかせず 生きていけるように

これからもおきてをまもり ただしく すこやかに おいのりしましょうね

(ある教団の児童向け教本より)

突如BJの背後で爆風が起きる。その勢いのままに転がると、顔を真っ赤にして見下ろす本田と目が合った。

「ここはッ!私が準備した舞台ですッ!」

「そうか。じゃあ、邪魔をしないように俺のしたいことをしていいかい」

「何です、それはッ!」

「お前さん、教団の本当の姿を知っていると言ったな。俺も多少は知っている。だからここに鱗が生えた人間がいると判断した。あれは疾病だ。治すことができる!俺はそんな人々を治療しに来た」

再び起こる爆発。吹き飛ばされたBJは岩にぶつかり、崩れ落ちた。観客からは悲鳴が上がる。爆発音の衝撃が引かぬうち、短躯な身体に燃え立つ憤怒を激らせながらぶんぶんと体ごと首を振り、本田はヒステリックに叫んだ。

「そんなものはどうでもいいんだ!私は友達を救いたい。あなたの事情は知らない!わかるもんか、たったひとりの友達を失う気持ちなど。なんだそんなもんかって、あなたも思うんだろう!」

「いいや。思わないよ」

袖のちぎれたコートを引きずってBJは立ち上がる。

彼の顔の半分を覆う、色が異なる皮膚をさわると、本田に向かって駆け出す。虚を突かれて爆薬をセットする間もなかった本田の立つ岩に飛び乗って、彼の眼前にその褐色の皮膚を指さした。

「ここは俺の友達の皮膚だ。大事な友達の皮膚だよ」

「…友達の」

本田は目を見張る。大きな縫合痕を境にして色が違う。確かにそこから他人の皮膚だと言われても信じざるを得ない。

「そう。俺もその友達に会いたくて、世界中探したよ。だけど結局会えなかった。手紙はもらえたけどね。だから、きっとお前さんの気持ちに近いものを俺も知ってるよ。正直、俺の友達は死んだと思う。この皮膚だけが、彼と過ごした日々の証さ。これがあれば、俺は友達の事を忘れない」

オメガの腕時計の針が震えながら進んでいくのを本田は見ているだろうか。

「お前さんの言った通り、ここはあんたの舞台だったな。邪魔して悪かった。最後まで好きにやるべきだ。ただ病人を治療する時間は俺にくれ。俺もここに来るまでに、いろいろと準備があったもんでな、無駄にはしたくないんだ」

BJの言葉は今の本田の耳には届いてはいない。本田は思考の中に沈んでいる。皮膚が友達の証だなんて、そんなことあるのだろうか。私たちにはそんな証はあっただろうか。思えば一度も考えたこともなかった。本田の胸の内に友と過ごした記憶の欠片が色を纏って蘇る。

「あ…」

やっと本田は腕に着けた時計を見た。

その直前、噴気孔から水蒸気が途絶えた。湯治場の変化に気付くものなどいない。山の小屋から先程まで供給されていた湯が止まったのだ。もともとの湯量はあったとは言え、急激な水量の低下によって地下の湯の流れが弱まる。地下に溜まった湯は地熱で温められ、有毒なガスを発生させつつあった。

パチン

管をひとつ切る。

パチン

「世が世なら…人はお前を〈神殺し〉と呼ぶかもしれんの」

パチン

「ご勘弁を。この件で沢山のあだ名をつけられましたが、一番堪えますね」

「ふふふ、〈七枚〉〈八枚〉〈十〉の方、白の君…」

「ああ、その白のという奴も御免です。社の連中のセンスは良くありませんね」

「仕方あるまい。あの中だけが世界なのだから」

パチン

「そのお体で、よくこれだけの点滴を交換できましたね」

カガシロ様と呼ばれる男の体には無数の点滴の管が付けられていた。どれもこれも彼の延命のために施されたものだ。入るものがあれば出る物もある。人工肛門から出た暗緑色をした液がパックに溜まっていた。これも彼女が交換するのだろう。

喉を診れば酸素を送り込むチューブが刺さっている。そのチューブにさえ虹色の鱗が付着して、岩の一部と化していた。この男は余程鱗が生える体の条件を強く持っていたに違いない。

「カガシロ様は教団のご神体である故、次代の神となる私しか触れられぬ。勤めは果たすものよ。それに、お世話をしておると思い出すのだ。まだカガシロ様がお話ができたころの事を…おもしろい話をたくさんしてくれた。研究が何とかと言うのは私には難しすぎたが、小枝チョコレートを新商品と言い張るのには参ったなあ」

パチン

「お話ができぬようになり、カガシロ様の鱗は一層増えた。教団の者は鱗しか見ておらぬ」

後部のバッテリーを抜く。

「カガシロ様の最後のお言葉が忘れられぬ」

「…処置を終了しました。見届けてくださいますか」

虹色の結晶に閉じ込められた男の顔は、相変わらず眠っているかのよう。いつからそのままだったのだろう。床には流れるままになった点滴の跡が無数に伸びている。

大師と呼ばれる女は、重い体を引きずって男の顔にそっと触れた。結晶化した鱗に阻まれて直にはさわれない。しかし、彼女はやさしく撫で続ける。

「ご苦労様でございました……」

彼女には流す涙がない。涙がもう、出ないのだ。

「貴女はどうなさいます」

二人の銀の髪が向かい合う。片方は不自然なほど鮮やかな虹色に染まった銀。もう一方は底の見えない盲目の黒を隠す銀。虹色の銀は黒の銀に問う。

「あの火花の男は私が生きられると思っていたようじゃ。そなたはどう思う」

黒の銀は暫し押し黙り、はっきりと口にした。

「助かる見込みは、ありませんね」

それを聞くと虹の銀は、固く縛った糸がほどけるように、ふうわりとした笑みを浮かべた。

「では、私からの依頼を受けてくれるな。謝礼は…」

黒の銀は人差し指を口元に立てた。

「先程、私はカガシロ様のお姿を見て取り乱し、みっともない様を晒してしまいました。今回はそれを忘れていただく…ということで、手打ちにはできませんでしょうか」

しばし後、あっははは、軽快な笑い声が暗い洞窟に散っていく。

「もうあの世へ行くモノに手打ちも何もなかろうが。よいよい。そなたがよいなら、それでよい」

虹色の銀の笑顔は無邪気な子どものように見えた。黒の銀はそれを見て眉ひとつ動かさず、ジュラルミンのケースの中からいくつかの薬瓶を取り出し、手慣れた様子でシリンジを構える。

「貴女の体は半分鉱物です。薬がどのように効くのかわかりません。何度か薬を変えるかもしれませんが良いですか」

「よいよい」

虹色の鱗の隙間に注射針が刺さっていく。

「あの方はな、いつも私に自慢するのよ。大事な友達がいると。たった一人の友達だと。私にも友達くらいおると言い返しておった」

遠くを見つめるように暗闇に視線を送る女は、やはりおかしそうに笑っている。

二本目の注射。

脈拍が弱くなっていく。

女の唇が幼い日の輝きを零す。

「会えるかな…小林君……」

もう動くことはない二つの虹色の塊を、黒の銀は暫し見守り、やがて仕事道具の片付けを始めた。

「BJ!鱗の生えた人、みんな一番大きいバラックに集めたよ!」

耕太はBJからバラックにいる湯治客の中で、鱗が生えている者を集める役目を任されていた。湯治場を駆け回るうちに、バラックにつけられた白い紙が鱗が生えた人間のいる目印だと気がつくのに時間は要さなかった。皮肉にも教団がつけた印によって、予想よりもうんと早く行動ができたのはある意味幸運だったと言える。

役目を果たし、バラックの戸を開けて叫ぶ耕太の視線の先に、湯治場の隅を動く人影があった。

長い黒髪を振り乱して、行く手を遮る黄色い岩を登っている。教団の白い着物は乱れ、何度も転んだと思しき袴には血が滲んでいる。

耕太の全身が震える。ぶわりとこみ上げる涙をこらえ、代わりに自分が出せる精一杯の声を張り上げた。

「お母さん!」

耳に届いた声を頼りに、息子の姿を四方に探す南雲の強い意志を持った眼差し。

「お母さん!」

叫び続ける耕太を見つけて、南雲は手を伸ばした。声にならない口の動きが、息子の名前を形にする。足場の悪い斜面を倒れ込むように進み、まだ熱い噴気孔を避けながら、じりじりと耕太がいるバラックへ近付いてくる。しかし崩れた岩に阻まれ、南雲は斜面から滑り落ちてしまう。

〈六枚〉の静止を振り切り、バラックから耕太は飛び出した。

「お母さん!お母さん!お母さん‼」

岩を飛び越え、小石を弾き、少年は会いたくて会いたくてたまらなかった母親のもとへ駆ける。

渾身の力を込めて南雲は削れる指先で岩を掴み、斜面を滑り落ちる体を止めた。砂煙の中に息子の姿を見つけ、赤い指先の手を伸ばす。もう少しで届く。もう少し。

「川崎君…」

項垂れた本田の手から、するりと爆薬が落ちた。かつん、かつんと音を立てて岩の下へ落ちていく。目視できたのはそこまでだった。

青白い炎が火柱となってはじけ飛ぶ。

噴気孔から一斉に吹き出す紫の火花。

桃色の薄い炎の幕が湯治場の斜面をせりあがった。

大音響が空気を引き裂き、荒れ狂う熱風に誰もが絶叫した。

爆薬の火が、溜まったガスに引火したのだ。

「逃げろ!」

「熱い!熱いいっ!」

「中の人は、どうなったの!?」

粉塵を噴き上げ空に突き立つ煙の柱。

黒い煙と白い蒸気につつまれて、湯治場の様子は伺えない。見守る人々は、ただ惨状を想像するだけ。誰一人動けず、固唾を飲んで煙の中を見つめていた。

折しも強い風が煙を払う。

視界に現れた景色を見た人々に緊張が走る。

湯治場の真ん中は真っ黒に焼け焦げて、そこにいたはずの人影はない。真っ二つに割れた岩が爆発の凄まじさを語っている。

いくつか吹き飛んでしまっているバラックは、壁の残骸が散らばり、屋根は潰れて、元の形を留めていない。中には炎上しているものもある。湯治場の所々から、燃える木の看板が細い煙を幾筋も上げていた。

爆発の振動が収まり、黒い煙が薄れた途端、悲鳴と共にバラックから大勢の湯治客が逃げ出す。

皆我先に外へ逃げようと斜面を登る。

動けるものはいい。しかし火傷を負った者、怪我を負った者が残されている。

皆が大混乱に陥る中、真っ先に動き出したのは義侠の心が沸きたったヤクザ達である。

「救急車呼べ!消防車もだ!」

「穴沢さんに連絡しろ!生きてる奴を探せエ!」

「こっちに逃げて来い!そっちの道より安全だ!」

「ザッケンナコラー!そっち行くな、まだ燃えてる!」

威勢よく次々に焼け焦げた湯治場へ飛び込んでいく。

戸惑う商業組合長にヤクザ者がにやりと笑う。

「ここは大事な金蔓だ。無くなっちゃ困る」

「そんなこと言って、貸しを作りたいだけでしょうが」

「うるっせえな!カッコつけて悪いかよ!オラッ動けやゴラァ!スッゾコラー!」

観客たちも我に返る。

町の面々は家に取って返し、なけなしの救急箱やシーツを持ち出してきた。

「で、で、でも、お医者さんはどこにいるんです。かなしろ診療所の先生は、その…」

町の人間は初めて小林がいない事実を現実のものとして捉えた。

湯治場のすり鉢の底、爆心地。

岩の影に動くものがある。岩の裂け目から、黒い塊が這い出して来た。

本田を肩に担いだBJだ。煤と砂埃にまみれてはいるが、彼はまだ動けるようだ。しかし本田はぐったりと体を預けたまま身動き一つしない。息を切らせてBJは炎の影響が少ないところを探して歩く。

「俺をかばう奴があるかい。湯治場の人間全部殺そうってしてたくせによ」

「……君が、もし、川崎君なら…私は、こうするだろうなって、ことを、しただけだ…」

爆発の炎から本田はBJの盾になった。上半身をひどく火傷した状態で、やっと喋っている。

「お前さんも治療するからな」

比較的安全な平たい岩の上に本田を寝かせ、状況を把握する。爆風に飛び散ったバラックが三棟。燃えているバラックが二棟。今は鱗より火傷や怪我を負った人間の治療が先だ。他にもいないか、すばやく哨戒する。

BJの視界の端、赤褐色の岩の近くで白い布が揺れている。あれは教団の着物の色だ。嫌な汗が一気に噴き出しBJは走る。砂埃を上げて駆け寄ると、岩陰に倒れている子どもの足を発見した。

「耕太!」

仰向けに倒れた耕太は手足に大火傷を負っていた。しかし息がある。意識もある。耕太はうわ言に母を呼ぶ。BJがいる斜面の五メートルほど下に、煤けた女が横たわっていた。必死に伸ばした手を親子はまだ掴めていない。不発弾に飛び散った自分の過去がBJに襲い掛かる。

そこへBJの事情など知らない者が来たのは、今の状況では却って良かった。クロコダイルの革靴で岩を避けながらやって来たヤクザの兄貴分がBJに声をかける。

「アンタ、医者か。俺は穴沢ってんだ。火傷や怪我をした人間は、壊れていないバラックに運んでる。救急車が来るまで時間がかかるらしい。それまで様子を診てやってくれ」

「それは依頼か?」

BJは顔を上げない。彼の頭の中はまだ真っ赤のまま。燃える砂浜、ちぎれた身体、四肢を失った母の姿。それを捨てた父の背中。次々に襲いくるフラッシュバックの中、燃え上がりそうな怒りを堪えている。

不穏な様子を感じた穴沢は、彼の背中を片目を眇めて見つめる。

「俺はモグリの医者だ。依頼がなければ仕事は受けない。俺が治療するのは俺が助けると決めた者だけだ」

怒りは、脳の外で燃やせ。

「何言ってんだ!?医者はケガ人や病人を治すもんだろう!?」

「ボランティアじゃねえって言ってるんだ。後で治療費請求するが、それでいいか」

怒りは、腕で、指で燃やせ。

「クソっ!足元見やがって!構わねえ、新聞記者まで居やがるんだ。ここまで来てやめられるかよ。その代わり、絶対に皆治療してみせろ!」

「よし。わかった」

BJはとびきり獰猛に、しかして精錬な笑みをたたえると動き出す。

その顔を見て思わず後退る穴沢は、もう彼の視界にはない。

「重度のけが人は、そこの開けた場所に連れて来い!軽症者はバラックへ!」

湯治場の一角に、酷い火傷の男女が布団に横たわった状態で、ぐるりと円を描いて並べられる。総勢15名。その中には耕太とその母親も入っている。円の中心にいるのはBJ。治療の準備を始めているのを見て、穴沢がヤクザ者特有のドスの効いた声で叫ぶ。

「何しようってんだ!まさかこれだけの人数、いっぺんに診るとか言わねえよな!」

「その通り。時間がねえ。後でな」

「バカなこと言うんじゃねえ!無理だ!重傷者ほど、こんな場所から避難させるのが先だろうが。きちんとした方法とれよ!」

血管が切れそうな勢いで正論を述べるヤクザの横に涼し気な声が響く。

「無駄だよ。『きちんと』の意味が分からないんだから」

ふわりと円の中に着地したのは〈六枚〉だ。

「野良猫君、実はね、私は医学部の学生だったんだ。5年生で教団に拉致されたから、そこまでの知識しかないけど、簡単なお手伝いはしたいな」

「つくづく便利な男だな、お前は!」

BJは手を動かしながら話し続ける。

「お前もボランティアってわけじゃねえんだろ」

「ああ、そんな素敵なものじゃない。これは私の勝手だよ。助けることで、私も救われるかもしれないっていう、思い込みさ」

〈四枚〉を逃がした時の涙。あんなふうに泣いたことは一度もなかった。教団に来て三枚目の鱗を手にしてから、涙を流すことなど忘れてしまっていた。

「泣くと、すっきりするものなんだねえ」

「耕太の気持ちがわかるか。さあ!無駄口はここまでだ!ついて来いよ〈六枚〉!」

BJのメスが光る。見る間に壊死した皮膚を切り取っていく。すさまじい勢いで縫合される傷口。

ヤクザが手配した冷却用のパックとともに医療物品と人工皮膚が届く。物資の補充によってギアが上がり、治療の速度が上昇していく。BJの指先の正確さを誰も目で追うことができない。

「次!」

流れる汗をぬぐって耕太と母親の前に立つ。さっきと同じように幼いころの自分と重なり、憎しみに塗りつぶされそうになる。しかし耕太の鳩尾に光る鱗がBJを引き戻す。

バチン!と自分の頬を叩き、メスを握り直した。まだら模様の皮膚になるが、自分の時より進歩した人工皮膚だ。きれいに治るに違いない。

「次!」

列挫創、刺創、切創、擦過傷

「次!」

Ⅰ度、Ⅱ度、Ⅱ度、Ⅲ度

次にBJの前に横たわるのは本田であった。

爆心地にいたにも拘わらず、彼の火傷と怪我は状況を鑑みれば比較的軽症で済んだ。本来なら炭のように燃え尽きていてもおかしくない。BJを抱えた瞬間、爆風に飛ばされて、岩の隙間に入り込んだ事が幸いしたのだ。しかし上半身が爛れ、意識がなく重篤なのは変わらない。すっかり上がった息を整え、黙々とBJは切除と縫合を繰り返す。

「本田さんよ、あんたは友達を探してここまで来たんだ。会わないといけないんだろ。だったら踏ん張れ」

意識を失った本田に語り掛け、最後の縫合の糸を切った。

やっと救急車が到着し、怪我人を担架で運び出した。ほとんど処置されていることに一様に救急隊員は驚くが、BJの耳にはその感嘆の声など入らない。

「次ィ!!!」

十五人全ての治療を終え、バラックへ駆けだすBJの姿を見送る穴沢は思わず呟く。

「奇跡だ…」

続く〈六枚〉は否定する。

「そんなものはありはしない。いつだって人間の意志と欲望で、世界は動くのだからね。あの人の中には『治したい』って欲望が渦を巻いているのさ。そばで見ていてよくわかった」

灰に汚れた着物の胸元から見えるのは虹色の鱗。正体を聞かれる前に〈六枚〉はBJの後を追った。

BJ達が怪我人が集められたバラックに到着すると、まもなく救急隊員もやってきた。ここは彼らに任せ、BJは本命へと向かう。

この湯治場に存在する、鱗の名残に。

目指すは湯治場の西の崖。

大きな黄色い岩の裏。ここにバラックとは違う、木造の平家が建っている。

外から隠すように置かれた岩の陰から、茶色く錆びた扉が現れた。まるで牢獄だと扉に触れてみれば、容易く開くではないか。固く施錠されているものとばかり思っていたのに。開く扉に当たって、BJの足元に転がってきたものがある。南京錠だ。

やはりここに鱗に関わる人々が閉じ込められていた可能性がある。進むと平屋の全体が見えた。平屋の木製の壁は温泉の蒸気のせいで、すっかり鼠色に変色している。奇妙なのは窓がひとつもないことだ。既存の窓を塞いでいるわけではない。初めから作られていないのだ。この平屋は用途を決めて建てられている。

確信を込めて平家の木戸を開ければ、こちらも施錠されていない。教団が鱗のできた人間を放置しておくはずがないのに。

ひょっとしたら法被の連中がいるかもしれないと身構えて、中に入った途端、酷いにおいにBJは顔をしかめる。温泉の硫黄の臭いとともに、何かが発酵しているような酸い臭い。しかし構っている場合ではない。土足で上がる。

窓がないので中は暗い。手探りで当てた廊下の壁にスイッチがあったのでつけてみる。天井の電球が灯った。まだライフラインが生きているということは、人がいる証拠でもある。気を引き締めるようにBJは後ろに続く〈六枚〉に目くばせして、足を踏み出した。

明かりが照らすのは、なんともノスタルジックな昭和の雰囲気が漂う室内だ。台所部分に貼られたクロスが色あせて物語る。なぜか台所と廊下の境に鉄格子がはまっていたが、理由は分からない。

やがてたどり着いた平屋の中心の大部屋、そこには室内にもかかわらず12畳ほどの土間が広がっていた。これも畳などひく予定がないと言わんばかりに、最初から設計されていたように見える。土間に設置されていたのは格子状に区切られた木製の大きな浴槽。所々朽ちて黒ずみ、結晶化した温泉成分が浴槽のふちに溜まっている。湯は抜かれていたが、浴槽の隅にまだ水分が残っている具合からして、最近まで使用されていた形跡がある。

部屋の角の小上がりには辛うじて畳が敷かれ、薄汚れた布団が隅に積まれていた。それ以外に置かれているものはなく、ただ眠るためだけに存在する場所のようだった。

理解しがたい空間だが、ここで誰かが生活していたのは間違いない。BJはもう疑念を抱かなかった。キリコが話した鱗を生やした人間を選別する場所がここだったのだ。

かなしろ診療所から鱗が増える適性があると見込まれた人々が送られた場所。

だが、耳を澄ませど平屋の中はしんと静まり返り、人の気配を全く感じない。

鱗が二枚になるまで、ここで強制的に生活させられた人々は今、どこへ。

「〈十〉の方が現れたから、ここにいる人間は不要だと判断されたのかもね」

沈痛な面持ちの〈六枚〉が下を向く。彼もここにいたことがあるのだ。

「…あの時のカガイに、連れて行かれたか」

床に小さな靴が片方残されていた。

小林が見つけたものは、きっとここにあったのだろう。どんな様子かは予想しかできないが、その末路を今のBJは知っている。

もう誰もいないとなれば、次に切り替えるしかない。しばし黙祷して、BJは平屋を後にした。

BJと〈六枚〉は耕太が集めてくれた人々がいる大きなバラックに入った。皆一様に不安そうな目をBJ達に向けてくる。老若男女問わず予想以上に鱗の生えた人々が湯治場に存在していた。その数30人弱。かなしろ診療所の機能が失われているうちに、教団の条件に合わない本来はじかれるべき人間が、そのまま放置されていたためだ。

その中に、ひときわ肌が白い娘がいた。

腕には楕円形の虹色の鱗が一枚。脛にも一枚。

BJは有無を言わさず鱗を切除する。穴沢から薬品類を調達したので、鞄の中は万全の状態だ。麻酔のおかげで痛みもなく取れた虹色に光る鱗を、娘は不思議そうに眺める。

「きれいね」

「見た目だけはな」

娘が手のひらに乗せて愛でていた鱗を掴むと、BJは次の患者に向き直る。

また一つ、また一つとBJは鱗を切る。二度と生えないように芯をえぐり取る。

〈六枚〉はそれを全て見ていく。

自分に生えたイチョウ型の鱗と似た形のものを見て、自分に初めて鱗が生えた日の事が思い出された。

肌が弱いと心配して、この湯治場へ連れてきてくれた祖父。生えてきた虹色の鱗を見て、きっといいことがあるんじゃないかなんて笑っていた。その時は自分自身おもしろい物が身体にできたものだと、一緒になって笑った。何も知らずに。

教団に拉致されてからは、ひたすら祖父を恨んだ。同じ虹蛇と鱗を巡って争い憎しみあった。蹴落としてきた者の顔。鱗が生えなくなる事を恐れる日々。それらが鱗が切られるたびに自分の体の外側から、内側へと落ちていく感覚になる。

「おい、手え動かせ〈六枚〉、消毒くらいできるだろうが」

そう。私は〈六枚〉。まだ本名を明かすには遠い。耕太と私は違いすぎる。いつか、名乗れる日は来るだろうか。時間がかかっても、その日を迎えたい。

〈六枚〉に芽生えた、明日を生きる意味であった。

日が傾くころ、湯治場にはまだ救急車のランプが瞬いていた。

ようやく駆け付けた警察もいる。町や観光客から連絡があったのも事実だが、その前に〈四枚〉が警察に保護されていたことから、一気に明るみになった。

BJはついに現れた友引警部にたっぷりと絞られ、道路わきの古い電話ボックスに背中を預けて座っていた。人垣がばらけたころ、ヤクザの兄貴分、穴沢が彼のもとへ歩み寄る。

「これであんたのカタがつくのかい」

血と土埃にまみれた顔でBJは前を見たまま。

「さあな…俺は警察を信用してないし、教団にまで捜査の手が伸びるかどうか。顔を知った警部には全部話したけど、多分、難しいだろう」

「警部じゃなあ…」

「そうだ、約束の治療費なんだが」

今、その話をするのかと怪訝な穴沢に、BJは何でもない事のように告げた。

「教団をこの町から締め出すってことでどうだい」

「何だって?」

「俺の想像なんだが、あんたら教団の弱みを握ってる。まあ、俺もいっぱい知ってるけどさ。だから教団の作った温泉の仕組みに出資して、もっと大掛かりにしたんだろ。そして仕組みの維持にかかる物資を教団に売りつけて儲けてた。町の持ち物である湯治場の入湯料は、直にあんたらの財布には入らないからな。」

パトカーが一台、二人の前を通り過ぎる。何を話しているのか知りもしない。

「教団サイドは町から入湯料をネコババしてたんだろうさ。本田の話だと、町長ですら教団に頭が上がらなかったみたいだし。教団側はミックスジュース温泉のおかげで、自分たちに都合のいい環境ができるは、金は入るは、大満足だったろうよ」

BJは目を擦り、欠伸交じりに続ける。

「今回の件で賀名代温泉のステータスは大きく下がるだろう。一旦仕切り直して新しい温泉を作ってみてもいいんじゃねえの。このままの状態が続いてたら、間違いなく金属中毒で死人が出てたと思うぜ。鱗見ただろ。潮時だ。もうこの町に教団は無くてもいいんだよ。つーか、教団を追い出せば、この町の連中皆喜ぶんじゃねえ?そしたら、今度はあんたらが町と入湯料の分け前を……」

急に黙り込んだBJを穴沢は慌てて覗き込む。さっきまで火を噴くエンジンの如く切りまくって縫いまくっていたのだ。死んだのではないかと長いツートンカラーの前髪を上げると、そこにはぐっすりと眠るBJの寝顔があった。

意外と幼い顔立ちだなと前髪を下げ、穴沢はまだ始末のつかない湯治場を遠く見据えた。

湯治場の騒ぎが落ち着き、初雪が観測される頃。

容態の落ち着いた本田に、川崎の遺体が見つかったと知らせが入る。

遺体の状態など仔細は明かされなかったが、本田はそれでいいと静かにうなずいた。

そもそも本田が教団に目を付けたのは、川崎が行方不明になった時、賀名代温泉に立ち寄ったことが始まりだった。

偶然町の古道具屋で見つけた時計が、本田の止まっていた時間を動かし始める。高級時計なのに格安で、何気なく手にとり、時計盤の裏を見て悲鳴を上げた。そこに彫られていたのはヒュギエイアの文様。盃に巻き付く蛇、薬学のシンボル。自分の研究分野にピッタリだろうと、わざわざオメガの時計の文字盤の裏に彫り、得意げに川崎が見せてきたものと同じだった。こんなもの世の中に2つとしてありはしない。行方が知れなかった川崎は、確かにここにいたに違いないと本田は確信した。

それから腕時計の出所を探れば、すぐに教団に結び付いた。しかしまともに行っても相手などしてもらえない。ならば教団の姿を洗い出すことで、川崎の行方がつかめるような気がした。

本田が奔走する間に長い月日が流れ、周囲の人間は川崎の存在を忘れた。川崎の身内ですら、本田に捜索を続けるのを辞めるよう心配して言ってくる。あまりに強い意志で親友を探す彼を見て、執着が過ぎると顔をしかめる者もいた。あらぬ噂を立てられた時期もあった。

冷たい視線を浴びながら、それでも彼は探し続けた。探し続けなくては生きられなかったのだ。

それだけ彼らの友情は朴直で真摯だった。彼らしかわからない。ひょっとしたら本田にしか分からなかったのかもしれない。川崎が見つからない焦燥、友情への抱いてはいけない疑惑、それらを振り払うために、彼は自分たちの友情が不滅であると思い込んだ。

そうして本田は精神的にも追い詰められ、とうとう命を賭した決心をして、賀名代温泉へ降り立った。

窓の外には雪がちらつき始める。

小さな雪のかけらは冷たい風に吹かれて、あっという間に飛んでいく。

それを見ると、彼がいつも着ていた安物のダッフルコートを思い出す。

普段感情を表に出さない彼が、本田の前だけではよく笑い、よく怒った。自分も同じだった。

腕時計を見せて来た時の彼の屈託のない得意げな笑顔。

それが忘れられない。

「ねえ、身に着けるものにヒュギエイアのマークなんて、些かナルシシズムを拗らせているんじゃないかな。実はずっと思ってたんだ。だってあまりに幼稚じゃないか」

もし彼に言ったなら、きっとすっかりへそを曲げたに違いない。

ああ、楽しかったなあ。

あの頃は本当に楽しかった。

溢れて止まらぬ涙で枕を湿らす本田の元には、動かなくなったオメガの腕時計が、寄り添うように置かれていた。

虹の彼方に(六)

キリジャバナー2

※2021/12/11改訂

いくつかの儀式を経て、俺は装束を身にまとう。

白木の案に載せられたのは俺が指定した衣服。

控えている教団の人間は内心穏やかではないだろうが、知らぬ顔をしている。何せここは奥の院の最深部。一握りの限られた者しか入れないこの神殿は、彼らにとって最上に神聖な場なのだから、取り乱すわけにはいかない。俺が着ている白い着物の襟に手をかけると皆が首を垂れて蹲る。

黒のスーツ、ジュラルミンのケース。

本来の姿を俺は取り戻す。

白い法被を着た連中は掟とやらで顔を上げることを許されない。きっと俺の黒い革靴が見えているだろうに。

南雲の案内で、神殿の更に奥へ続く白木の扉へ向かう。

清らかに整えられた祭壇の白い掛布を踏み、最上段に鎮座する鏡を押しやり、その向こうの扉へと手をかける。

開きかけた扉を影にして、下がろうとする南雲を捕まえ耳打ちした。

「逃げなさい。耕太に七枚目が生えたと知らせがあった。今のうちに逃げないと、あの子も助からない」

ここに来てずっと感情のない機械のように振る舞っていた彼女は、耕太の名を耳にしてみるみるうちに青ざめた。もう俺の存在は眼中にない。不安定な情緒をかき集めるように袴の裾を絡げ、南雲は長い廊下を必死に駆けていった。

それを見送る俺に、扉の向こうの人物が声をかける。

「意外と温情があるのじゃな」

ふ、と口角を歪めた。

「そのようなものではありません。ただのエゴイズムですよ。そのせいで何度も酷い目に遭いましたが、こういうものは耐えると自分に帰ってきますからね」

行先には漆黒の闇しかない扉をくぐる。

「我らを目にしても、同じことが言えるかのう」

「わかりました。初めて会う依頼人の方に失礼のないようにいたしますよ」

敢えて軽い口調にすると、くすくす笑う声が響く。

踏み入れた扉の先には、湿った洞窟が続いている。事前に指示された通り、内側から扉を閉め、外から開けられないように細工をした。どのくらい時間が稼げるかわからないが、これに関しては教団の掟とやらの拘束力の強さを願うばかりだ。

灯をつけることは禁止されたので手探りで進むしかない。しかしどう言う訳か前方がぼんやりと光っている。その他は足元すら見えない暗闇だというのに。

光が漏れる先から大師の声が響く。

「少し、昔話をしよう。そのまま聞け」

言葉の通り、洞窟の中を進みながら耳を傾けた。

「私はこの町に生まれ、虹蛇の資格を持って社に入った。しかしな、鱗が増えず滝から落とされた」

何のこともない様子で告げられたが、些か驚いた。彼女はあの歌垣を生き延びたのか。それだけではなく滝からも助かっただと?どうやって。

「滝の奥にな、洞窟があったのだ。信じられまい?なんとか命拾いはしたが、行きどまりの洞窟でな。いずれ命が尽きるのは必定であった。それでも生き延びようとする人の性根の浅ましさよ。私は岩に生えた苔を舐め、泥を啜った。しゃぶっていれば味がするかと石ころを口に入れたこともあったな。そんな日々が…どれだけ続いたか覚えておらぬ。朝か夕かもわからなくなっていた。やせ細り、動けなくなったころ、偶然天井が崩れてきおったのよ」

洞窟の角を曲がると、つきあたりに虹色の光が満ちている。

「私を救い出したのは、皮肉にもこの教団の者どもであった。小娘一人の顔を覚えておる者もおるまいて。私を見るなり、皆が地にこうべをつけて震えておった。そこで初めて自分の体を見たのよ」

虹色の全身を晒す大師が岩壁にもたれている。人の領域を超えた面立ちで、ふふ、と笑う。

「それが今の私じゃ。理屈は知らぬ。神の思し召しかどうかも知らぬ。この姿になった私は…」

そっと慈しむように、彼女は同じように虹色に輝く岩をなでた。

「ずっとカガシロ様のお世話を任されておる」

俺は、何を見ている?

大師がさわっている物体は何だ。

片目しかないから、正しく認知できないのだろうか。

混乱する頭を整理しようと、思わず下を向いてしまった。

「ふふふ、死神の化身もかたなしじゃのう」

大師の声に震えそうになったが、地面の妙なくぼみが視界に入って、気が逸れた。

これは、足跡か?しかも、革靴の。まさか。

「先程おもしろい男が来てな、こうのたまうのよ。『二人とも鱗を取る手術を受ける気はあるか』とな。『二人』と言うたのよ。一目見ただけのくせに。神は柱で数えるのだと教える気にもならなんだ」

ああ、来たのか。

「白と黒の苛烈な火花のような男であった。私が首を振ると、静かに目を閉じて行ってしまったよ」

大師はそれはおかしそうに笑った。同時にひどく寂しそうでもあった。

彼女の背後には崩れたような穴が空いている。

俺の胸中には激しい衝動が湧き上がっていた。これは不要なもの。ずっと昔に捨てたもの。だからあいつに対して憤る必要などない。俺がしてきたことは、何一つ間違っていない。

「お主も存外に暑苦しいのう」

「みっともない所をお見せしました。あれに関してはどうも」

「よいよい。カガシロ様も喜んでおられよう。最後に賑やかであったと」

気を取り直して、やっと会えた依頼人の前に立つ。

淡く発光する虹色の鱗が幾重にも重なり、岩のように結晶化した中、目を閉じて眠っている男の顔があった。

麓の湯治場に、賀名代温泉を根城にするヤクザ者が集まりだした。

それぞれの手になじんだ獲物を手にした者達、懐に忍ばせた飛び道具をいつだそうか機会をうかがっている者もいる。温泉街の組合長なども引っ張り出されていた。

一方カメラを持った地元の新聞記者も来ている。こちらはガラの悪い連中から遠く離れたところに陣取っていた。

観光客も野次馬根性丸出しで、デバイス片手に忙しくSNSの送信をしている。

彼らが見つめる先には、すり鉢状の湯治場の中心部に立つ本田の姿があった。一体何が始まろうというのか。固唾を飲んで見守る人々の視線を一身に受けて、本田の大演説が始まる。

「まず初めにッ!私のリュックサックの中には、TNTに勝るとも劣らぬ威力の爆薬が入っていると申し上げておきます!こちらのバラックにいる湯治客の方々は、私の人質になって貰いますッ!」

突拍子もない発言に観衆はざわめく。爆薬、人質。およそ耳にすることがない単語を理解しがたい様子でいる。そこまでして何をこの男は訴えたいのだろう。これから何をするのだろう。あるのかどうかも分からない爆薬に対する恐怖よりも好奇心が勝つ雰囲気が満ちる。

目を輝かせる観光客に苛立ち、バカにしているのかと若い鉄砲玉が本田を威圧する。

「ザッケンナコラー!」

ヤクザの声に動じる素振りも見せず、缶ジュースでも開けるかのように本田は爆薬と思しき小さなパックのつまみを捻り、思い切り遠くに放り投げた。時を移さず、炸裂音と共に炎が瞬間的に広がる。細く鋭い恐怖の声が、初めて周囲の人間から上がった。

「これはほんの些細な花火のようなものです。リュックサックの中身はこうはいきません!」

これが花火だというのなら、リュックサック本体はどうなるのだろう。

「ガスだ…温泉から出るガスに引火するんだ…」

ひきつった表情の商業組合長をヤクザの男が押さえつける。そんな話は聞いてないだの知らないだの言い合う連中をよそに、本田は拡声器でも持ってきたかと錯覚するほど大きな声で話し出す。湯治場のすり鉢状の地形が、スタジアムのような効果を生むのだ。

本田の語る内容は30年前まで遡る。

30年前、記録的な豪雨により、この地域は大きな水害に見舞われた。山が崩れ、多くの家や人が流され、田畑は使い物にならなくなった。しかしそれ以上に深刻だったのは、地元の経済を支えてきた賀名代温泉の湯量が激減してしまった状況だった。

皆が悲嘆にくれる中、ある宗教団体が訪れる。

白い蛇を祭神とする小さな講の人々は、ここで会ったのも何かの縁と、水害に遭った人々の復興支援を願い出る。幾許かの訝しむ気持ちはあれど、緊急事態故に人手が足りない。今だけと町の人々は教団の手を借りることにした。やがてその中で教団に入信する住民が現れ、町の混乱の中、教団は温泉街の神社に間借りをする形になった。

復興の目途が立ったころ、温泉街の町長が「助けてくれた礼がしたい。何かできることはないか」と裏口から伝えてきた。教団の幹部はなかなか良い返事をしなかったが、ついに欲しいものがあると口を開いた。「白い生き物」が欲しいというのである。なんだ、そんなものか。ペットでも飼い与えるような気軽さで、白色レグホンを一羽寄与した。しかし教団の幹部は違うと首を振る。「全部」白いものが良いと言うのだ。

首を傾げる町長は、丁度となりの畑で罠にかかった狸を思い出す。毛が真っ白で目が赤かった。ああいう奇妙なものがいいのかと、檻に入った狸を教団に渡した。その時の教団の喜びようは、表現のしようもないほどだったらしい。

教団は温泉のためにと、賀名代温泉の総湯の前で祈祷を行った。

間もなく温泉の湯量が戻る。

祈祷のおかげかもしれないと町の人々は感謝した。

ここまでは人の善意であり、偶然である。

だがこの後ぷつりと教団の姿は町から消える。神社の中に引きこもり、外部に出なくなった。

湯量が戻ったことで温泉も湯治場も復活し、客足も増加の一途。幸先が良いと見込んだ町長は温泉街の規模を広げることにした。いくつも新しい温泉宿ができ、飲食店も増えた。町全体が活気づいたと思っていた矢先である。客が離れだしたのだ。

慌てて調べると、温泉の泉質が著しく落ちている。普通の湯と大差ない、温泉とも呼べない代物。

町に閑古鳥が鳴いても、借金は無くならない。日々取り立てに来るヤクザ者に町長は怯えるしかなかった。不景気と治安の悪化。町全体を暗い雰囲気が覆っていた。

そんな暗雲をものともせず、再び白い蛇を祭る教団は賀名代温泉の総湯の前に祭壇を作り、大規模な祈祷を行う。このころにはすでに〈カガシロ様〉を祭っていたとされる。祭壇の上には犬くらいの大きさをした、くすんだ鱗のようなものが生えた木乃伊があった。

奇跡はもたらされる。

湯の色が変わったのだ。

神経痛に効くとされていた以前の泉質とは異なるが、皮膚病によくきくと評判になり、瞬く間に以前にもまして客が来るようになった。町の人間は諸手を上げて教団に入信していく。皮膚病に効く湯が沸いたのは、脱皮をして再生する蛇の神を祭っているからだと神話めいて語られた。この時、やはり教団は「白い生き物」を欲しがったと言う。

新しい湯で温泉街が賑わうようになって間もなく、町の人間に異変が起きる。

『虹色の鱗』が生える者が現れた。

この町では日常的に温泉の湯を使う。湯と鱗との因果関係に考えが及ぶはずもなく、病気か何かかと騒ぐうちに、鱗が生えた者は忽然と姿を消した。

当然、周囲の人間は必死に探す。しかし行方不明者を探していた男が町の川に浮かんでいた。驚く人々の前に教団の一行がやってくる。「主祭神カガシロ様のご意向」だと言うのだ。

教団曰く「鱗が生えるのは、カガシロ様に気に入られたからであり、光栄なこと」として、川に浮かんだ男は「カガシロ様の怒りに触れた」ため死んだのだと説いた。

教団に入信しているものは受け入れるしかない。反発したものは家にヤクザ者が押しかけ、半死半生の状態にまで追い詰められた。酷い者はやはり川に浮いた。見せしめである。それが続けば警察に知らせるものはいなくなった。地元の派出所に駐在する警官ですら教団の信者なのだから。そもそも証拠と呼べるものがないのだ。『虹色の鱗』の存在は実際に見た者にしか分からない。

『カガシロ様』は温泉の恵みを与えるが恐ろしい神でもあると、町の人間はその名を口にしなくなった。もし教団に逆らって、また温泉の湯がおかしくなれば、今度こそ町は終わりだ。

怯える町に教団から金がばらまかれる。金と言っても毎年買わされる高額な札を無料で配布すると言ったレベルのものだが、明らかに口止め料だ。ほとんどが教団の信者である町は、黙って『カガシロ様』を崇め、畏れた。

高度成長期のさなか、観光客の間で変な噂が立つのも芳しくないと、行政側の判断があったのも事実だ。

賀名代温泉の湯はこんこんと湧く。

また一人、また一人と町人に鱗が生える。生えた者が出た家は必死に隠そうとする。だが狭い町ではすぐに異変に気付かれる。教団に告発すれば、祝福と称した礼金が出た。町の人々は互いに監視し合い、探り合い、偽物の笑顔を貼り付けて一層隣近所との関係を密接にしていく。閉鎖的な息苦しいコミュニティ。

そのガス抜きのために作られたのが「かなしろ診療所」である。

教団側はもう鱗が増える者の条件を掴んでいた。『肌が白いこと』これに当てはまらない人間はいらない。わずかな数ではあるが湯治の客に鱗が生え始めたこともあり、町の人間を含め、かなしろ診療所で篩にかけるシステムを作った。条件に合わない湯治客には「よくあること」で済ませ、町の人間には「助かった」と安堵の気持ちを与えた。

ここから地獄へ落ちる人間もいる。

だが、誰一人目を向けることはない。

賀名代温泉の湯は今日も湧く。

湯治場としての知名度は鰻登り。

黙っていれば町は潤う。生活ができる。

それから10年がたち、温泉街近くの山道で故障した一台の車が発見される。

マツダ・コスモスポーツ。その助手席にはページをちぎった形跡のある地図が残されていた。

「私は!人を探しに来たんだッ」

本田は吠える。

「その車に乗っていたのは、私の友達だッ!私の、一番の、大切な友達なんだ!」

唯一この場にいない教団関係者を探すように、その場でぐるりと一周する。彼の腕に着けられたオメガの時計盤がチカリと光る。興奮した自分を冷ますように大きく深呼吸して、本田は良く通る声で告げた。

「カガシロ様なるものを祭る教団、彼らに友達の川崎良治君は攫われました。彼の開放を要求します。湯治客の皆さんには申し訳ないが、この要求が叶わない時は、ここを爆破します」

集まった人間には本田の意図が全く分からない。唐突すぎる。なぜ教団が川崎某を攫う必要があるというのか。そもそもどうして脅迫する場に湯治場を選んだのか。

「私は長い時間をかけて調べました。教団の本当の姿を知っています。だから川崎君が今も生きていると確信しているのです。『カガシロ様』は生きていることが必要不可欠ですから」

本田の眼鏡の奥が歪む。

「出て来いッ!カルト教団ども!さもなくば湯治場を爆破する!」

そこへ雷鳴の如く走る叫び。

「そいつは困るぜ。こっちが先約でい!」

湯治場の鉱物が覆う黄色い大地を真っすぐに突っ切って駆ける黒い影。

温泉街の者たちがどよめく。悲鳴を上げる者さえいる。

「おい!知ってるのか!あいつは何だ!?」

ヤクザ者に掴みかかられ、しどろもどろに商業組合会長は、その名前を口にする。

「ブラック・ジャック、モ…モグリの医者です!」

堆積した赤、黄色の粉塵を上げて、ブラック・ジャックは岩の上に立つ本田の前に到着した。

「誰だっ!邪魔をするのかっ!」

再び激高した本田は、リュックサックを開けようとする。しかし、あったはずの場所にない!

振り向くとリュックサックを持って走る少年の姿。そしてそれを追いかけて掴む青年。

「でかした、耕太!アイス買ってやるからな!」

「正気か君は!子どもに爆薬の詰まったリュックサックを盗ませるなんて!ああもう、私によこしなさい!」

「わはは、そのためのお前だ〈六枚〉。そっちは頼んだぞ」

どうせ爆薬なんか偽物だろうと踏んでいたBJの横で、次々と野太い野郎の声が慌てふためき交差する。湯治場の上部にいたヤクザが耕太からリュックサックを受け取り、中を検めたのだ。

「これガチなやつだ!」

「ヤバイヤバイヤバイって!!!どこのテロリストから買ったんだよ!」

あら?首を傾げるBJに四方八方から罵声が飛ぶ。

「もし爆発してたらどうすんだ!」

「しかもこんな小さい子に盗ませて!」

「アイスで済ますな!」

石でも投げられそうな勢いだ。

BJは土埃に汚れた黒いコートを翻して、負けじと声を張り上げる。

「うるっせえ!!爆弾が怖い奴は家に帰りやがれ!俺はそんなもんには用がねえんだよ。俺は治療をしに来た!」

何のことを言っているのか、先程からずっと置いてきぼりを食らっている観客たちには分からない。

理解している耕太と〈六枚〉は走り出している。

「患者はどこだ!!!」

虹の彼方に(五)

キリジャバナー2

※2021/12/10改訂

夜が明けるとキリコを連れた大師様御一行は本山へと出立した。出迎えの時とは違い、誰も言葉を発さぬ静寂の中、神輿は社を離れていく。

白い几帳が揺れるのを眺めていると、昨晩のやりとりが脳内に蘇ってきた。キリコは俺に逃げろと言った。その意味は分かるが、あいつまだ俺の性格分かってねえなと舌打ちひとつ。何にせよ、もうその忠告は消費期限切れだ。

山の木立にその姿が見えなくなるや否や、後藤が日本刀を抜いている。

見送りに出ていた法被どもは示し合わせたように姿を消し、俺と後藤と数人の男を残すだけとなっていた。後藤はこめかみに太い血管を浮かび上がらせて俺を睨み、重々しく口を開く。

「もう用済みだ。これまでどれだけお前に苦渋を味わったことか。次の歌垣を待つまでもない。『高いところ』に連れていく」

後藤の合図とともに、たちまち法被の男達に着流しを剥がれ、俺はここに来た時と同じ格好をさせられた。要はスーツもコートも鞄も元通りってことなんだが、後藤的には意趣返しらしい。よくわからん。教団の持ち物ひとつ、お前にくれてやるなどもったいないってことかな。

社の境内の奥に、やっと人ひとり通れるくらいの獣道が山の中へと伸びている。そこを黙って進めと後藤は言う。背中に刀を突きつけられながら山道を歩くこと一時間。ごうごうと空気が震える音が近づくにつれ、だんだんと足元は悪くなり、生い茂る木々の陰からはいくつかの小さな滝が見えた。

のんびりと周りの景色を見ていると、背後から後藤の大きな舌打ちが聞こえた。更に機嫌を悪くしたようだ。いけねえ。ここは怖がる演技でもしておくところだったか。背中の視線と日本刀の気配に俺が何も感じていなかったの、ばれたな。

轟き落ちる鋭い流れ。

垂直に吸い込まれていく水の塊が、いくつも広がり割れていく。こいつは生半可な滝じゃねえ。毎秒何トン流れてるんだろう。水量も豊富、高さも申し分ない。寂れた温泉街には垂涎物の観光スポットになりそうなものを。

白い瀑布を眺める俺に後藤はさらに上へ登れと指図する。バカ言うな。目の前には岩の壁しかないぞと文句が出そうな口を慌てて噤んだ。切り立った崖の一部に、刻み付けられた階段のようなものを見つけたからだ。そこを登れば滝の上に出るのだろうか。ここで後藤に切られるわけにはいかないのだ。そろそろと注意深く心許ない階段もどきを登った。

やがて俺たちは後藤が目的地とする場所へ到着した。滝の頂上を目指すには厳しいものがあったのか、教団の連中は崖に小さなステップのような場所を削り出し、そこから不要になった物や残骸を遺棄しているようだ。見下ろすと高さは…どのくらいかな。滝壺に水しぶきが立ち込めて、見当が付かなかった。そしてここにも虹がかかる。細かな水の粒子に映る小さな虹。やっぱり本物はきれいだ。

「鞄を体に括りつけろ。重い鞄はお前を沈める良い錘だ」

ロープをわたされたので、言われるとおりにする。後藤は俺に滝を背にして立つように指示して、日本刀を上段に構えた。最後にストレス解消で俺をぶった切ろうってか。そこまで追い込んでいたって知らなかった。無表情の後藤の一閃。

「グワーッ!」

切られる瞬間後ろに飛びのいて、そのまま滝に飲まれる。悲鳴を上げてやったのは俺なりの後藤へのサービスだ。世話をかけた自覚はある。もう二度と会いたくないが、そうはいかんだろうな。

何トンもの水と一緒に落ちていく。

ああ、落ちていくとも。俺が目指すのは落ちた先!

地元民が言うように、滝壺から二度と上がってこられないかどうかなんて、確かめてみない事にはわからんだろうがよ!

激しい音と衝撃で滝壺に到達したのを感じた。

鞄から着水するように体勢を変えたが、衝撃の強さに息が止まる。

肺の空気を逃さないよう意識して身体を弛緩させ、続く上からの重い水の流れを利用して、そのまま滝壺の底へ底へと潜っていく。頭上には渦巻く水の圧力。鞄のおかげで早く潜れる。

俺の仮説が正しければ、必ずあるはずなんだ。どこにある。息が切れかけてきたころ、一筋の光が見えた。

「……っぷ、はあっ!」

やっぱりあった。

地底洞窟。

はまると抜けられないって状況は、中でぐるぐる回り続けるのか、どこか別の出口があるのか、どちらかだろうと見当をつけた。実際に滝壺に落ちてみて、別の出口がある予感がした。何故かって?勘だ。俺の勘は当たるんだ。

顔を出した水面から上を見れば亀裂が一筋。ここから光が差している。この光が目印になったおかげで助かった。意外と地表から遠くないところにできた洞窟なのかもしれない。そのまま泳いでいくと、次第に天井が高くなってきた。よしよし。いや、良くない。すさまじい腐敗臭だ。左右を見れば岩壁に襤褸切れのようなものがくっついている。滝壺に飲まれて、自然とこの洞窟にたどりついた物だろうか。きっとそれは社で見た物の残骸かもしれない。

洞窟の天井にはぽつぽつと隙間が空いている。そこから漏れる光を頼りに、俺は先へ先へと泳ぐのだった。

真っ暗な水の中をどれくらいの間進んだだろう。手足が疲労で感覚を失いつつあったころ、やっと洞窟の岸辺にたどりついた。ああ、しんど。命より大事な医療鞄だが、実際自分の命が奪われるかと思うくらい重かった。あの時ロープを渡してくれた後藤に感謝。ロープがなかったら絶対鞄捨ててた。

さて、岸に上がってみても洞窟の中だから漆黒の闇…と言いたいが、やはり天井から光が漏れている。うす暗い中で鞄の中をチェック。ジップロックに入れてあるから、包帯もガーゼも無事だ。常々菓子をくすねていた甲斐あって、社の台所から食品保存用のジップロックもちょろまかしていたのだ。他の医療器具も無事。よしよし。

アオキで二着三万のスーツは雑巾絞りも可能。愛用のコートも同じく。じゃっと水けを切って、身軽になる。木の枝と、包帯、消毒用アルコールで簡易松明完成。ジップロックの中からライターを取り出して簡易松明に着火する。青白い炎が上がり、やがてオレンジに安定するのを確認して、明かりを頼りに洞窟の奥へ進むことにした。進むしかないだろうよ。松明の炎は奥から来る風にゆらいでいる。

そら、洞窟の中のにおいが変わってきた。湿った土のにおい。

立ち止まってぐるりと見回す。

岩にわずかな苔が生えている。ふさふさで緑のあれじゃなくて、もっとべたっとした黒っぽいの。ぐじゅっとした水たまりもある。水と言うか、ほとんど泥だな。上を見れば天井は高く、小さな穴から光が漏れるだけ。うーん、だんだん生きて出られる気、しなくなってきた。うーん。だが進む。

あれ、なんだこれ。洞窟の壁に、ひっかき傷?

松明で照らせば、はっきり見えた。同じ長さのひっかき傷がいくつも並んでる。法則性がある。七つで一周期。一週間をカウントしてる。

生きた人間がここにいたんだ。きっと俺と同じように滝から落とされて、ここまでたどり着いたんだ。尚も壁を観察する。たくさん書かれたひっかき傷はだんだん法則性を失っていく。規則正しかった傷は、最後の方は歪んで間隔も長さもバラバラ。書くのを辞めたのかもしれない。もう少し進んでみよう。

しばらく変わった様子がなかった岩壁に突然変化が起きた。文字が書かれている!

「おかあさん」と岩壁に石で何度も擦り付けて書かれている。他にも「おとうさん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「やおやさん」「でんきやさん」…自分の住む家の近所の人々だったのだろうか。きっと書いた人物は、まだ幼い子どもだ。

奥歯をかみしめながら松明を掲げると、暗がりから見えたひっかき傷。

そこに書かれていた名前は。

「こばやしくん」

神社に植わった大樹の陰、黒い大型トラックが社の横に停まっている。トラックの中からは米袋サイズのパッケージがいくつも運び出され、社の倉庫へ入っていく。

倉庫の奥には所狭しとタンクが置かれている。そこへ雇われた何も知らない男たちが、黙々とパッケージを開けて中身の粉末を注ぐ。タンクの後ろにトロッコのレールが敷かれているのに誰も気付かない。

「後藤、今日はかなり機嫌がいいな」

「分かりますか」

さらさらと達筆で後藤は受領のサインを書く。

その様子を見て、腕に入れ墨がある男はうっそりと笑う。

「あのさ、話変わるんだけど、今A国とC国が主権問題でやりあってるだろ。海上で空母が睨み合ってバチバチやってるってさ。そのアオリ受けて輸入量が減ってんだよ。参っちまうよな。俺らには全然関係ねえってのに!…だからさあ、今月の鉄粉、手に入れるの苦労したのよ。ちょっとばかしそちらの気持ちってのを見せてくれねえと、なあ」

「いいでしょう」

機嫌のいい後藤は気前もいい。

やっと、やっと躾のなっていない野良猫を切り捨てられた。刃に血がついていなかったのは気にかかるが、滝に落ちたのは間違いがないのだ。

これで〈十〉のお方も、もっと素晴らしい高みへ昇られることだろう。後藤は本山に向かって静かに合掌するのだった。

彼は私の一番の友達だった。

からかうと口をきいてくれなくなったこともあったけれど。

それでも彼は笑って許してくれた。

初めてできた友達だった。

だから私は君に会いに行くよ。

何があっても。

どんなことをしても。

湯治場には今日も湯気が上がる。

すり鉢状になったペールトーンの斜面、温泉の成分を表面に受けた白黄色の岩がいくつも転がる。

木も草も生えない大地には、木製の案内板が立つのみだ。それすら温泉の蒸気に当てられて、すっかり脱色している。さながら枯れ木のよう。

生命の気配を感じられるものはほぼない。だからこそ、ただ岩場のそこかしこから噴き出す蒸気が、地下に滾るエネルギーの鼓動を強く感じさせている。

湯治場に点在するバラックの周辺に、硫黄の臭いがする蒸気が噴き出す。その噴出孔には赤褐色の鉱物が堆積している。赤褐色の下に緑、その下に白、黄色。さながら虹色のように縞となり、鉱物の結晶で様々な色の層を成している。同じような縞模様の鉱物の塔が、湯治場にいくつも生えていた。

本来ならば、あり得ない。

ひとつの温泉の成分が短期間で異なることは。

鉱物の塔の色は、その異常を示している。だけど誰も奇妙な事とは思っていない。なぜなら、ここは名湯。病が癒える湯治場と、皆がそう言うからだ。奇跡を生む場所ならば、変わったものがあってもおかしくない。

この湯治場で養生して実際に良くなった人間は確かにいる。しかし、いつかはと信じながら長期間滞在し続ける人もいる。使用料が嵩むにもかかわらずだ。

金銭の話をすると、この湯治場は月ごとに使用料を払う契約になっている。特に初めの契約ではかなりの金額を取られる。その期間の間に湯治場から出られるなら問題はない。しかし、もう少ししたら治るに違いない、もう少しと、追い詰められた人間は一縷の望みにすがり続けてしまうものだ。実際金銭の余裕が病状の進行と改善に影響を及ぼすのは今も昔も変わらない。

金が払えなくなって強制的にバラックを追い出されてしまうまで、それでもなお湯治場に滞在する人々。

彼らは思うのだ。きっといつか病は癒えるはず。だってここは皆が称える名湯。古くから続く名高い湯治場。信じていれば、いつか病を治してくれるに違いない。

湯治客は純粋な希望を心に抱いて、今日も湯に浸かる。

そんな湯治場に再びその男はやって来た。

すり鉢状になった谷を、本田はじっと見つめる。

そっと手を当てたシャツの下には、オメガの腕時計が針を震わせていた。

同じころ、総本山の奥の院。

青い藺草と白檀の香が品よく漂う座敷の四方。御簾の上から白い帳が張られ、外部からの視線を遮っている。

座したキリコは帳の中で大師が来るのを待っていた。彼が纏う羽織には、五色の糸で逆さになった青海波文様が刺繡され、さながら鱗のよう。

まもなく帳の向こうから、悠然と衣擦れの音が近づく。キリコは作法の通りに頭を下げた。やがて彼の前を錦の打掛が通り過ぎ、その後ろに白い足袋が一人続く。

「頭を上げよ」

ゆっくりと正面を向くと、白い布の冠を被った大師が立っている。

「南雲」

重々しく名前を呼べば、喉を潰された女がその冠を外す。打掛を肩から下ろし、白い単衣も女によって解かれていく。

キリコはただ真っ直ぐにその様子を見ていた。

にわかに帳の中が虹色に輝く。

全てを脱ぎ去った大師が、光の中にその体を晒している。

鱗だ。虹色の鱗が隙間なく彼女の体を覆う。

喉と顔がかろうじて人間の皮膚を保っているが、指先からつま先まで、見事なまでに完成された鱗が生えていた。

南雲の手を借りて、ゆっくりと大師は黒檀の椅子に座る。

「南雲はうまくやってくれる。前任はちと気が利かぬ女であった。私は人の手を借りねば動くこともままならぬ。手足の節まで鱗が生えておるからの。それでも時が来れば麓の社まで通い、あの湯に浸からねば鱗が割れてしまう。そなたも知っておろうが、ここに沸く湯と麓の湯は異なる故な。難儀なものじゃ」

キリコは黙ってうなずいた。

そう、知っていた。その上でBJの温泉成分の調査に付き合った。意地が悪いと言われればそうだろうが、真相に近付いていく彼を見ていたかったのだ。なにより謎を解こうとじたばた動く彼の姿が、どうしようもなくまぶしかったから。

「そなたに会わせたいお方のもとへ行くには今しばらく時間がかかる。何、儀式だ何だと付き合ってもらうだけじゃ。形式は大事ゆえな」

かなり砕けた大師の言葉にキリコは少しだけ頬を緩める。

「分かっておるな。私がそなたに姿を見せた理由を。途中で逃げることなどできぬぞ」

高く結い上げた透きとおる銀の髪をひとつも動かさず、大師はキリコの眼を射た。

キリコは心得たと深く頭を下げる。ここでは発言が許可されない。

再び南雲に着替えをさせ、大師と呼ばれる女は出ていく。

依頼された仕事が達成されるまで、あと少しだ。

ちくしょう!

やっと山に登ったかと思ったら、すぐに麓まで取って返す羽目になるたあ思わなかったぜ。キリコのツラを殴ってやりたかったが、優先順位が違う。妙な信仰持ってる奴も、教団で踊り狂ってる奴も、どうでもいい。変に団結してる町の連中も、ヤクザもどうでもいい。

温泉の効能がどうとか、成分がどうとかも関係ない。それが鱗とどう関わっているか突き止めることに意味があると思い込んでいた。

違う!

俺ができるのは切ることだけだ。

もう十分因果関係はわかっている。病の元、それを根こそぎ切り取ってやる。

「くっそ!革靴は山歩きに向かねえな!」

つま先と踵に脱脂綿と包帯を詰め込んで、適当な靴擦れ防止策をとったが、草の生えた山の斜面をずるずるすべる。踏ん張りがきかねえ。小枝がバチバチと顔に当たっても目にさえ入らなけりゃ構わん。転がるように斜面を駆け下りる。

「見えた!」

屋根にでかでかと教団のマークが描かれた小屋。

そこを目がけて飛び降りる。

ガツンと大きな音を立てて屋根に降り立つと、小屋から弾かれたように法被の連中が飛び出てくる。口を開く間すら与えず一人目は屋根からドロップキックで倒す。二人目は鞄を振り回して頭蓋にヒット。逃げ出そうとする三人目をチョークスリーパーで落とす。

「伝統的なプロレス技が一番効くな」

三人まとめて木に括り付け、俺は目的の小屋に入る。

小屋の中には巨大なボイラーが唸っていた。ブンブン喧しくて耳栓が欲しい。汗が噴き出すくらいすごい熱気を出すボイラーの横にはトロッコのレールがある。きっと麓の教団施設と繋がっているのだろう。俺がここにいられる時間も限られる。手早くいかなくては。

振り返ってみると何かの粉が入ったタンクがぞろりと並ぶ。タンクの中身はやっぱり。

硫黄、鉄、塩、石灰。俺が分かるのはこのくらいだが、他にも様々な種類の材料がそろってる。さらに奥へ進むとナンバーと圧力計の付いた大きな金属のタンクが並んでる。そこから小屋の外へ延びる太いパイプ。

小屋の窓からパイプの行方を見れば、一旦全てのパイプの中身が大きなプールに溜められて、もうもうと湯気を上げている。源泉の湯を冷ますのと同じだ。いや、この場合はプールでそれぞれのタンクの中身を馴染ませるのだろう。

プールの先にはまたパイプ。そのまた先には、賀名代温泉の湯治場だ。

「ミックスジュースの温泉とは恐れ入る」

踵を返してタンクを睨む。これが病原だ。

様々な金属が化学反応を起こした湯が詰まっているタンク。それらが教団の意図によって配合され、賀名代温泉に流されている。温泉そのものが病に侵されているのだ。

ならば俺が成すことはひとつ。

タンクのバルブを片っ端から閉めていく。そのうち圧力でどうにかなっちまうだろうから、その前にここから逃げられればいい。バルブを片付けて、ボイラー室に戻る。

後藤がいた。

「…連絡を受けて来てみれば。野良猫が」

先発としてトロッコで来たのだろう。手には愛用の日本刀。心底俺が憎いってツラしてる。いつもの涼しい顔はどうした。

「こんなイカレた装置はぶっ壊すに限るぜ」

「お前にはわからん。神の教えなど」

「そうそう。そこなんだよ。どうして温泉と神とやらがくっついてるんだ。もしかして、お前が言ってる神ってヤクザの方?」

「愚か者があっ!」

切りかかる刃をすり抜ければ、ガキンとパイプに打ち付ける。狭い室内で長物を振り回すのは不利だ。しかし後藤は怯まない。

「この湯に浸かれば虹蛇が生まれる。虹蛇が育てば、大師様のように神に近付くのだ。大師様が神に昇天なされば、次の大師様を虹蛇から選び我らが慈しみ育む。虹の呑尾蛇の如く円環を創造する事こそ、教義の極みよ。故にこの神聖なる湯を科学の力を以ってお創りいたすのだ。我々は神の手足!神とは、不死にて不老、全てを癒し、導くお方!」

「ケッ、カルトのくせによく言うぜ。お前もカガイで踊り狂うクチか」

後藤が鬼の形相に変わる。本性出したな。いいぞ、もっと喚け。

「歌垣も神事である!神をも恐れぬ不届き者め。〈四枚〉を逃がしたくらいで調子づきおって」

そうか。〈四枚〉逃げられたんだな。

「神のお力で我らは生きる。奇跡の印、虹の鱗が何よりの証拠。いつか我らにも安寧の時が訪れるのだ。カガシロ様のお力が世に満ちたとき…」

「うっせえな。講釈垂れんな。眠くならあ」

後藤に向かって次々バケツを蹴っ飛ばす。

「…医者風情が生意気だ。お前たちが治せないものを頼って湯治場に人は集まるのだぞ。神の奇跡によって病が癒えれば、心に信仰の光が灯るのは必定。医者など役立たずは、この神のおわす地に不要!」

「そうかい!」

後藤の一閃を鞄で受ける。

「間違いなく医者でも治せない病気はある。治せなかったときには、何のために医者はいるんだと叫んで来たよ。だがな、その課題に太古から俺達医者は挑み続けてきた」

後ろの部屋でタンクが悲鳴をあげている。時間がない。

「皮肉なことに病と信仰は密接な関係にあるが、今この場所で起きている病はお前たちが作り出したものだろうがよ。神がどうとか関係ない。存在するのは身勝手なてめえらの欲望だけだ。無関係な人間に鱗を生やし、その人生を踏みにじる。ヤクザ者と繋がって、金を湯治場と温泉街から搾り取る。この構図のどこに神の思し召しがあるッてんだ!言ってみろ、後藤!」

パイプから吹き出した熱湯が迫る。ボイラーから金属の割れる音が響く。

「俺は病巣を根絶する」

ぶわっと熱風が巻きあがった。

一番端のタンクから順番に弾けていく。炸裂音、熱と、蒸気と、刺激臭。

それらを全て吹き飛ばし、ボイラーは圧力を抑えきれずに断末魔の悲鳴を上げた。

激しい勢いで迫る蒸気を引き剥がすように、俺は小屋の出口へ一目散。

ボイラーが弾ける轟音から耳を守る。激しく吹き出す高温の蒸気を鞄で受け止める。吹っ飛ばされた後の着地点を探す。ああもう、やること多すぎだ!!

小屋から飛び出した俺は草の上にしたたかに体を打ち付けた。半分受け身は取れたが、足場が悪くて転んだのだ。痛む体を起こして見れば、ミックスジュース温泉の製造場所だった小屋は、壁の一部が飛ばされ、外にはみ出たタンクから煮えた液体が流れ出している。水の元栓は閉めたから、タンクにあった分が出尽くせば止まるだろう。

蒸気が立ち込める中、地面に転がる後藤の姿があった。近付くと、まだ息をしているのがわかった。左半身が濡れている。おそらく火傷を負っていることだろう。鞄から鋏を取り出して、後藤の服を切っていく。

「…私に、さわるな…」

息も絶え絶えなくせに強がるな。火傷の治療をする。

「お前さんも、死ぬってなったときに、心に浮かんだ人がいるだろうよ。その人に、もう一度会いたいとは思わねえのかい」

後藤は空を見上げて、掠れた声で誰かの名前を呼んだ。

「南雲さん…」

誰だか俺は知らない。好いた女なのか、家族なのか。

さあ、次だ。病のもとは絶ったが、まだ現在進行形だ。湯治場へ向かって俺は再び走り出した。

虹の彼方に(四)

キリジャバナー2

※2021/12/5改訂

朝からカガイだ、カガイだと社の中は浮ついている。キリコの言っていた『歌垣』だ。

大師様が山に戻るから、その見送りの宴と、キリコが〈十〉になったことの祝いらしい。

キリコは〈八枚〉様から飛び級で、〈十〉のお方、または〈白の君〉と呼ばれるようになっていた。キリコに鱗が十枚生えたと知らされた時、教団連中の喜びようと言ったら、まあ。踊り出す女はいるし、抱き合う男女はいるし、雄叫びを上げる男はいるし。天地がひっくり返ったような騒ぎだった。後藤に至っては、直立不動で一筋涙を流してた。

カガイが何をするのか知らないが、きっと壮行会のようなものだと見当をつけた。禁欲主義な教団の連中が浮かれることなんて、酒ぐらいしかないだろうよ。

そんなにぎやかしい雰囲気から締め出されたように、俺達の前に〈四枚〉が無表情で座っている。

やおら座敷に三つ指をつくと、深々と頭を下げた。

「〈十〉のお方には、益々のご清栄のこととお喜び申し上げます。この度、お社を辞すこととなりました。おかけ頂いたご温情の数々、感謝の言葉もございません」

虹蛇が社を出される。〈四枚〉はもう鱗が生えないと教団に判断されたのだ。その行く先は〈四枚〉自身がよく知っている。思わずキリコの方を向くと、あいつは一言。

「お務め、ご苦労でした」

〈四枚〉は薄くほほえんで退出した。

俺はというと駆け出していた。なんつーか、あのほほえみは好かないんだ。あーゆーのもいくつも見てきたさ。結局は滅茶苦茶生き延びたくて仕方がない癖に、死ぬのが怖くないってツラして強がってる。〈四枚〉おまえさん、そんなタマじゃねえだろ。黙ってそのまま滝なんかに行かせるかよ。

着流しの裾をまくって走れば、すぐに廊下を歩いている〈四枚〉に追いついた。やっぱり警備が薄い。現に彼女は一人で行動しているし、見張りもいない。

「なに」

俺を睨みつける〈四枚〉おう、こっちの面構えの方が似合うぜ。

「お前さん、その鱗取りたくないか」

その言葉に彼女は目の色を変える。だがすぐに暗く俯く。

「あんた、バカァ?完全に定着してるんだよ。初めにできた鱗はもう3年経ってるし、むしれるレベルじゃないっての」

強引に白い着物の袖をまくり、〈四枚〉の腕の鱗を見た。鱗にも個人差があるのか〈四枚〉の鱗は柳の葉に似ている。これなら人工皮膚はいらない。

小林の死に際の言葉が思い出される。

(まともに、治療が受けられないまま、人が死ぬのは…俺には我慢ができん……)

ああ全く、完全に同意だ。

俺はすっかり忘れていた。これはオカルトなんかじゃない。皮膚が変質した疾病だ。ならば治せる。治療ができる!

「言ってなかったか?俺は医者だ。この鱗は取れるぞ。取ってやるとも!」

表情の抜け落ちた〈四枚〉の顔がくしゃりと歪んだ。ぼろぼろと涙がこぼれだす。

「…取って、こんな鱗、取って……取って!」

善は急げだ。広縁にシーツを敷いて、ポットに湯を沸かす。

「また安請け合いして。メスもないのにどうするのさ」

興味のない様子のキリコは広縁から離れて障子の近くに座った。こちらを見ようともせずに禁煙ガムを噛んでいる。ふん。お前さんからしたら、意味のないことなんだろうさ。だが、この娘と俺にはある。無策でいると思ったか。

「見つけたよ!これだよな!」

「でかした、耕太!」

後ろを振り向くと耕太と〈六枚〉がいた。どうしてオマケがついてくる?

俺は耕太にコートを見つけてくれるように頼んでいたのだ。それが見つかったのに、どうして〈六枚〉が俺のコートを持っているんだ。

まずいな。〈六枚〉は〈四枚〉の立場を知っている。ましてや〈四枚〉や耕太のように、鱗を取りたいとも思っていないはずだ。いくら警備が薄いとはいえ、このままでは…

立ち上がろうとした俺の足元にドサリとコートが投げられる。〈六枚〉は芝居がかった手つきをした。

「私は廊下で重たいコートを運ぶ少年を見つけたから…その手伝いをしただけだよ」

「ううん。すごい勢いで、どこにいくんだ?!〈十〉のお方の部屋かって聞くんだよ。だから一緒に行きますかって」

怯える耕太。そうだよな。お前こいつの詩人モード知らないからな。でも今はそれどころじゃない!

コートの中に仕込んでいたメスや鉗子は大方抜き取られていたが、隠しポケットの存在までは分からなかったらしい。縫合糸、針、局所麻酔のパックが二つ、メスが数本、コートの中から出てきた。あるだけの装備でやるしかない。執刀の準備を整えながら、〈四枚〉に指示をする。

「局所麻酔で切るが、生憎麻酔が少量しかない。痛むと覚悟はしておいてくれ。声が出ないように、タオルを噛みなさい」

〈四枚〉にタオルを渡すと、彼女は強く頷いた。

執刀開始。

鱗に沿ってメスを入れる。皮膚と鱗が癒着している部分を切除すれば、鱗自体は簡単に取れた。しかし、その下には肉の芯がある。魚の目と一緒だ。この芯を取らないと、また鱗が生えてくるかもしれない。温泉に浸からないなら、きっと鱗ではない肉腫になる可能性の方が高そうだが、どちらにせよ切除だ。

芯にメスが当たると〈四枚〉は苦悶に呻いた。麻酔で感覚が鈍っているにも関わらず、タオルを噛んでいても彼女の傷みが聞こえてくる。根元から抉るように芯を摘出。それでも〈四枚〉は耐える。

「耕太、見ておけ。鱗を取るときはこうやるんだ。お前も、この姉ちゃんみたいに我慢するんだぞ」

言葉も出ない耕太は、泣きながら首を縦に振る。漏らしてないな。股間をぎゅーってしてやがる。

切開した部分を手早く縫合。これを後三回するわけだ。巻いていこう。

次の鱗は隣り合わせになっている二枚。芯が癒着していなければ良いと思いながら鱗を剥がせば、やっぱり!二枚分の芯がくっついて団子のような形になっている。

「正念場だぞ。気を確かに持て。〈六枚〉!暇なら〈四枚〉を押さえろ」

「どうして私が」

「どうしてもクソもあるか。俺がやれってんだから、やるんだよ!」

「野良猫君は横暴だなあ」

しぶしぶ〈四枚〉を押さえた〈六枚〉を早々に叱り飛ばすことになる。

「しっかり力入れて押さえろ!細っこい女に腕力負けるのか、てめえはッ!」

「…ッ、こんなに暴れるなんて、聞いてない…」

「暴れたくてしてるわけじゃねえ!痛みに耐えてんだ。耕太、お前も手伝え!」

うん、と涙でぐしゃぐしゃになった耕太が〈四枚〉の腕を掴んだ時だった。

「〈十〉のお方様、失礼いたします」

教団の人間だ!今部屋に入られては困る。

慌てて広縁の障子を閉めるが、誤魔化しきれるものだろうか。少なくとも俺たちは動けない。嫌な汗が流れる。

「すまないが、今着替えているんだ。用件はそこで聞こう」

障子の向こうにいるキリコだ。

「〈四枚〉様はご挨拶に参られましたでしょうか。お姿が見えないようなので、もしや〈十〉のお方のお部屋かと…」

〈四枚〉を探しているのだ。当然だ。挨拶にしては時間がかかりすぎているのだから。一刻を争う。俺は再びメスを握る。

「いいや。彼女は来ていない」

キリコの感情のない声が聞こえてくる。今やあいつは〈十〉の方。教団での権力は大師に次ぐ勢い。あいつがいないって言ったら、いないんだ。

人の気配が無くなって、本格的にメスを入れる。

「んーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!!!」

〈四枚〉が金の髪を振り乱して悶える。麻酔が全然効いてない。時間もない。空に向かって爪を立てる〈四枚〉の腕を〈六枚〉が捕まえた。

「私の腕を掴みなさい。引っ掻いてもいいから」

「…だれが、あんたなんかの……」

タオルを口から落とした〈四枚〉の荒い息とともに吐かれるのは怨嗟の言葉。

「そうだね。君は私が憎いよね。でも今は腕を掴みなさい。暴れるより遥かにマシだ」

「引き、ちぎってやる…」

「望むところだ。気を失うんじゃないよ」

〈六枚〉は泣いていた。〈四枚〉の姿に何を見るのだろう。俺にはわからない。わからなくていい。こいつらの中で納得がいっているのなら、それでいい。

最後の鱗が取れた。〈四枚〉の手が〈六枚〉の傷だらけになった腕から離れ落ちる。血をぬぐい、始末をしていると、新しい着物を持ったキリコが障子を開けた。

自分の血にまみれた着物から手早く着替え〈四枚〉は俺達に頭を下げた。

「この御恩は、一生忘れません…!」

「礼には早い。ここから出るんだ。私が知っている抜け道に案内しよう」

手助けをしようとする〈六枚〉に向かって首を振ると、〈四枚〉は広縁の窓枠に立った。

「これ以上はいい。後は自分でなんとかする。あたしたち、いつもそうだったでしょ」

笑うでも、睨むでもなく、真っ直ぐに二人の虹蛇は見つめ合った。

「そうだったね。私も…」

静かに涙を流し続ける〈六枚〉を背に、〈四枚〉は外へ飛び出していった。

晩秋の色を濃くした夕焼け空。夜が彼女の味方をしてくれるといい。

「あんたも鱗を取るか?」

俺の問いに〈六枚〉はゆっくりと自分の着物の襟を開いて見せる。大きなイチョウの葉に似た鱗が三枚、連なって生えていた。

「…場所が悪いな」

「でしょう?野良猫君のやり方を見ていて思ったよ。これは私には無理だって」

心臓を覆うように光る虹色の鱗。これを摘出するには、設備の整った病院で執刀しなければ助からないだろう。〈六枚〉はそっと襟を戻す。もう涙は止まっている。

「後は自分でなんとかする…か。簡単に言ってくれるなあ」

ぽつりと呟く〈六枚〉を耕太が見上げる。その頭を彼はそっと撫でた。もっと昔に、誰かにしてやりたかったことなのだろうと、なんとなく思った。

〈六枚〉と耕太が東の角部屋から去った後、キリコは俺を連れて社の奥へ向かった。

カガイとやらが始まっているのだろう。社の中に人影はなかった。奥に進むにつれ周りはどんどん暗くなっていく。やがて太鼓の音が聞こえてきた。歌と哄笑。そして…この獣のような声はなんだ?

たどり着いた奥の大部屋は、巨大な木の扉で閉ざされている。カガイの騒ぎ声は扉の向こうからダイレクトに響いてくる。さすがに俺でも歌や笑い声に混じる声が何なのかわかった。生理的に無理なやつかもしれない。変なにおいまでする。

キリコは扉を開けず、その横についている木のはしごを登りだした。ついて来いと手招きするので、好奇心に負けて俺も登った。

梁の隙間から見えた光景。

大部屋の中に護摩焚きを大きくしたような火が燃えていた。すさまじい量の煙を吐き出し、大部屋全体が霞んで見えるほど。

「あれに気持ちがよくなるハーブが入ってる」

ハーブなんて代物なのだろうか。護摩だってここまで効果なんか出ないはずだ。こいつら明らかに常軌を逸している。

もうもうと煙を上げる火の周りで、裸の男女が踊り狂っていた。まぐわっている奴も多い。嬉々として三人同時に相手する女。女を侍らせながら男に穿たれている男。右も左も乱痴気騒ぎばかり。まるでサバトだ。

バカバカしい、こんな趣味は俺にはない。顔をそむけようとした俺の顎をキリコが掴んだ。抵抗する間もなく、驚くほど強い力で首を固定される。目だけ動かしてキリコの表情を窺おうとするが、暗がりと煙が邪魔をして、全く分からなかった。何を見せたいのかと視線を大部屋に戻せば、白い着物を着た男女が隅の方に固まって立っているのが見えた。

白い着物の人間は次々に教団の信者に連れていかれる。その中には中学生くらいの子どももいたし、赤ん坊と大差ない幼子までいた。

「本当は〈四枚〉もあそこにいる予定だったんだ」

白い着物が引き裂かれ、教団の信者が襲い掛かる。

蹂躙と暴虐。狂乱と享楽。

三人がかりで襲われて泣き叫ぶ少女の声は俺には聞こえない。

「鱗に関わった人間は、最後にはここに送られる」

あり得ない方向に腕が曲がった男が、床に転がり動かなくなっていた。

股から血を流した女の首がねじれて、赤いあぶくを吹いている。

床に転がっているのが赤ん坊の頭だと思いたくない。

「ただ滝に落とすなんて、あり得ないだろう。ここですっかりしゃぶられてから捨てられるのさ」

教団の信者の歪んだ笑み。これは捕食行動ですらない。ただ楽しむだけに壊して痛めつけ、快感を吸い上げるだけ吸ったら、残った抜け殻はゴミ扱い。知能がある故に生じる原始的な破壊衝動だ。

床に横たわり天井を見上げる胡乱な女と目が合った。女の腕は折れているようで赤黒く変色している。

俺はあの女を治療すべきなのだろうか。

俺は〈四枚〉を治療した。

治療を……

「お前をここに連れてきたのは、俺のエゴだ。先に戻る」

ただ目の前を見ることしかできない俺を置いて、キリコはさっさと消えてしまった。

冷えた空気に透きとおる星。

吐く息は白い。

手を開いては閉じる。

傷だらけの指を一本ずつ折ってみる。

メスが鱗に当たった瞬間の感触。

〈四枚〉のまなざし。

「逃げろって言ったのに、まだいるのか」

後ろにキリコが立っている。

「よく来られたな」

「手すりにわざわざ足跡がついてりゃ、呼ばれてるって思うさ」

正直上がるのに屋根をぶち抜かないか冷汗かいたってさ。ざまあ。

あいつが側に寄る前に、俺は立ち上がる。

「お前が山に行くのなら、俺は滝に行く」

「……何考えてる」

「お前が教えないから、俺も教えない」

「教えたら教えたで、全部ぶち壊しにかかるだろうがよ、お前は」

その通り。秋の夜の澄んだ空気を吸う。

「俺は俺の道を行く。見たいものを見て、知りたいものを知る。今のままじゃ経過観察しかできないからな。俺の性に合わねえ」

ちッとキリコは舌打ちした。

「社の奥に連れていくんじゃなかった。生意気な鼻っ柱折ってやろうと思ったら、逆にスイッチ入れてるじゃねえかよ」

「俺は想定内かと思ってたぞ」

「…あの光景は、好きじゃない」

そうだろう。だから余計にお前が腹を立てているのが分かった。どうして怒るのか考えた。こいつは義憤など起こさない。俺の視野が狭いことにイラついてるんだ。つまりそれは客観的に見て、俺に今足りないものってことだ。

「俺は見つけるぞ。鱗を根絶する方法を。今日みたいな対処療法ではなく、二度と起こさないレベルでの治療方法を」

ますます機嫌が悪くなるキリコ。珍しく顔に出してる。

「てめえを起こしちまった数時間前の自分を殺したい」

そいつは無理だ。もう遅い。とんとんと屋根を伝って、キリコの目の前へ。

「進行した病は治すのが難しい。ただ何故そうなったか明らかにすることで、治療への道が開けることは間違いなくある。まだまだお前さんが俺に伝えていない情報もあるだろうが、別段それに頼る必要はない。自分で見つけるよ」

「その結果、何が起こってもか」

「おっかねえ顔するなよ」

ぱっと手のひらを開いて見せる。

「結局俺はこの手の分しか治療できない。何があってもそれは増えない。だから問題は手のひらに収まるサイズにしたいのさ」

「理想主義め。事態の大きさも把握してないくせに」

「お前さんこそ、どうして自分の尺度が正しいと言い切れる。そもそもお前さんはストイックすぎる。依頼人の希望を叶えるためなら何だってやるんだから、俺といい勝負だよ」

なあ、とキリコの顔を覗き込む。はためく俺の着物は夜空の色。

「それにしても、教団の連中も見る目がねえなあ。お前さんが〈白の君〉とは笑わせる」

黒い皮の眼帯をなぞる。

「ここが黒いから、周りが引き立って見えるだけで」

おかしくてたまらねえ。キリコは目を見開いて動かない。どうした。金縛りか?

「ははっ、ガワばっかり見て、白いって思い込んでる」

すっかり冷たくなった両手でキリコの固い頬を包む。

「中身は真っ黒!」

大笑いを始めた俺を、キリコは力任せに抱きしめた。

「いてえ、いてえ」と言いながら俺もサバ折りの姿勢に。

ああ、心臓の音が早い。

虹の彼方に(三)

キリジャバナー2

※2021/12/5改訂

朝飯を食うと、キリコはお清めへ。今日もせっせと鱗を育てるわけだ。

相変わらず俺は軟禁。大師様が来てから、俺の監視は一層厳しくなった。大師様の滞在中に不手際があっては一大事ってことなんだろう。俺の存在は不祥事か。なんだかんだキリコがいると監視は緩むんだよなあ。猿芝居と羞恥プレイはキくのな。

ふてくされつつミカンを剥いていると、小さな駆け足と襖を開ける音が響いた。耕太だ。

部屋に入るなり、耕太は涙をいっぱいにためて俺にしがみついて来る。どうした。何があった。

「見て!これ…っ」

白い着物の襟の下、鳩尾のあたりに小さな虹色が光っていた。

「六枚目…」

鱗が増えれば大人たちは喜ぶが、耕太にそんな道理は通らない。

「どうしよう!お母さんに会えなくなっちゃう!ねえ、早く取って!」

俺の袖を引いて耕太は泣きじゃくる。この子どもにとって鱗の意味は理解の外だ。

「落ち着いて、涙を拭きな。騒ぐと皆にバレるぞ」

「でも、でもっ…もうすぐお清めの時間だから、もう、バレちゃうよぅ…」

しゃくりあげる耕太の背中をさする。鱗が増えたこと自体は母親に影響を与えないだろうが、耕太の精神状態を大きく損ねる。今のように生えかけの小さい鱗のうちに切り取ってしまえば、傷も小さくて済むし、うまくいくかも知れない。ただどうしても跡は残るだろう。その跡を見つけた法被どもが騒いで、教団にとっての慶事を損ねた犯人探しになっては面白くない。

「六枚目なんていらないいい!」

ついに耕太は大声で泣きだした。バカ。正直に喚く奴があるか。耕太の口を塞ごうとしてバタバタしていると、呼んでもないのに客が来た。

「耕太、六枚目が生えたのかい?」

グレーの髪の優男。

「〈六枚〉の兄さま…」

大師様と一緒に山を下りてきたコーダのひとりが、俺達を見下ろしていた。年の頃は20代半ばほど。コーダに共通する白い肌を持ち、どこかのアイドルだと紹介されても信じてしまうような容姿をしている。しかしまあ華奢だな。

「見せなさい」

〈六枚〉は微笑んで耕太に手を差し伸べた。

俺の勘が警報を鳴らす。コイツはダメな奴だ!こんな胡散臭い笑顔をいくつ見てきたと思ってんだ。おまけにこの声色。服従させることに長けた人間の、有無を言わさぬ言葉遣いに酷似している。反射的に耕太を背中に庇った。

「お前は、ああ。毛色の変わった野良猫君だね。〈八枚〉様がいないからお留守番か」

白い着流しに松葉色の羽織を着崩して、お奇麗なお顔で優雅に笑う。瞳には仄暗いものが灯っているけど、お生憎様だ。相手してるのが誰だかわかってねえもんな。長年裏街道歩いてきた身としちゃ、そんなツラが吐く言葉なんか吹けば飛ぶような薄っぺらさよん。

「六枚目かどうか、まだ確定はしてねえ。これから後藤に見せに行く。お前さんも来るかい」

不安そうな耕太の肩を抱く。

「もし本物なら、アンタの地位はどうなっちまうのかね。成長しきったアンタの体と、まだまだ育つ耕太の体じゃ、どっちに軍配が上がるのか想像がつきそうだ」

ひくりと微笑が揺れる。

「これから先大事にされるのはどっちなのか、風向き読むのも手のうちだろうが。てめえの身がかわいいなら、ガキいじめてる間にさっさとお清めとやらに行きやがれ!」

啖呵を切ると、表情のなくなった〈六枚〉の後ろから金髪が現れた。〈四枚〉か。

「あんた、バカァ?」

おお、伝説的名台詞。違う違う。

「部外者が偉そうなこと言うなっつーの。虹蛇にとって鱗の枚数は命にかかわる大事なんだから」

〈四枚〉は平坦な胸の前で腕を組んで仁王立ち。

「…部屋に戻るよ。耳障りな声を聞いて頭が痛い」

虚弱な〈六枚〉は退場。こいつら仲良くないのかな。

落雁、栗鹿の子羊羹、最中はもう定番。後はしぶーいお茶。

東の角部屋に呼ばれた法被の女は、人数分の茶と菓子を揃えて出ていった。

俺の右にはすました顔で茶を飲む〈四枚〉左には泣きべそのまま最中を食う耕太。

どうしてこうなった?

…キリコが戻ってくるまで待とう。うん。そしてあいつにぶん投げよう。状況判断してミカンの続きを食おうと手を伸ばすと、タン!と音を立てて湯のみが置かれる。

「礼のひとつも言ったらどうなの」

礼?

「あたし、あんたたちを守ってやったんだけど」

守る?

「その『なんかやっちゃいました?』って顔、やめて」

「えーと?実は俺、コーダとかよく知らなくてな」

フンっと勝気に鼻を鳴らす〈四枚〉。黙ってりゃ美人って言うけど、態度も大事だな。キッと吊り上がった眼が彼女の性格を表しているようだ。よく見りゃ〈六枚〉より若いな。下手すりゃ高校生だぞ。彼女はいつから教団にいるのだろう。

不躾な俺の視線に気付いた〈四枚〉は、舌打ちをひとつして立ち上がった。

「あったりまえでしょ。部外者なんだから知ってるわけないし。一応掟で虹蛇は枚数が上の方には失礼な態度が取れないから、あんたに言っておく」

ビシッと耕太を指さして俺に向かう。

「鱗の枚数が増えると優遇されるようになるけど、同じくらい恨まれるって覚えといて。もう鱗が増えなくなったら、虹蛇には居場所がないの。だから鱗の数一枚が大きな差になる。生えて嫌だって泣くなら、生えなくなった奴はどうすればいい?そこんとこちゃんと考えろっての」

法被どもはコーダを名前で呼ばない。コーダの中での格差。嫌な構図だ。〈四枚〉は耕太に見せつけるように袖をまくった。

引き攣れたような小豆色の傷跡が二つ。

「本当なら、あたしが〈六枚〉だった」

〈四枚〉の口元が歪む。悔しいとか妬ましいとか、言い切れないほどの感情を溢れさせている。耕太は最中を取り落として傷跡に見入る。眉間にしわが寄るのを止められない。

「うかつなことさせるんじゃないよ。むしり取られるからね」

金の髪を揺らして〈四枚〉は出ていった。

ため息をつきたかったが、耕太の手前、気を引き締めた。〈四枚〉から頂戴した金言を、耕太にわかりやすく伝えなくてはならない。教団の掟とかはわからんが、身を守る手段は教えられる。

俺の言葉を耕太は黙って聞き、新たに生えた鱗への見方を変えたらしい。「鱗を増やして、偉くなって、お母さんに会う」という方向へシフトしたのは耕太なりの判断だ。襲われたときの対処も教えた。ともかく身を守ろうという意識が持てれば、第一段階はクリアと言っていい。

あとは大人サイドの庇護が必要なのだが、俺からの言葉では難しい。

キリコが戻ってくる頃、耕太は熟睡していた。俺が今さっき起きたことを簡潔に話すと、キリコは黙りこくってしまった。そして「夜に話す」とだけ言って、耕太を起こして出て行った。

時は少し遡る。

お清めが済んで俺が廊下に出ると、やはり昨日の饅頭頭が騒いでいる。

今度は暴力沙汰になりそうな雰囲気だったので、半ば強引に饅頭頭を庭へ連れて行く。雨が降り出しそうな曇り空の下、彼は興奮気味に唾を飛ばして熱弁した。

「ですからっ!私はこの身を神様に捧げるべく、修行に」

「わかったよ。それで、どうしてここの神様なの。温泉に入って体が治ったこと以外にも理由があるのかな」

すっかりボルテージの上がった饅頭頭は鼻高々といった具合に語りだした。よしよし。

「この土地は実に興味深いっ!温泉街には日本各地の伝承に基づく風習が混在している!中には都市伝説レベルのものもあるようですがなっ。ここの神社もそうです!山岳信仰がいつの間にか白蛇信仰に変わっているんです!実に興味深いッ」

やはり彼は知識がある。饅頭頭は本田と名乗った

「白蛇信仰とは『白い蛇』を御神体に、火難・水難・災難避けを願うもの。最近は金運・商売繁盛にも繋がるようですが、元々は田畑の豊穣を願う水神なのですよ!」

放っておいてもよく喋る。

「これは私の推論ですがっ、三十年前この地域に大規模な水害がありました。多くの犠牲者が出たと聞きます。その時に信仰に何らかの転機が訪れたのかも知れませんな!」

わかった、わかった。だんだん論点がずれてきている上に、無限に話しそうだったので、こちらから聞いてみる。

「コーダってものを知っているか?」

本田はもちろんと胸を張り、水を得た魚の如く生き生きと目を輝かせた。

「虹の蛇と書いて『こうだ』と呼ばれる蛇の神ですな!」

わりとメジャーな神様ですぞ!と知識をひけらかすように喋りまくる。

彼が言うには、虹と蛇を結びつけた神話は世界各地に存在する。特に顕著なのはアボリジニの神話で、更に北アメリカやアフリカ、中国に沖縄まで虹と蛇を関連づける信仰があり、蛇の長い体が空にかかる虹を連想させるからだという研究者が多い。

共通するのは、一様に水に関する神々であること。地域によって洪水を起こしたり、逆に旱魃を起こしたりする。日本の竜神信仰の元にもなっているそうだ。

本来は『こうだ』ではなく『にじへび』と呼称されるらしいが、本田はそこには興味がないようだった。

「私はね、聞いたことがあるのですよ!この御山にはそれはそれは美しく虹色に輝く神様がおられると!ああ、どんなに神々しいお姿でしょうか。お会いしたい!」

「初耳だ。それがカガシロ様なのかな」

思い切って聞いてみた。世界各地の伝承をも網羅する男なら分かるかと一縷の希望をかける。

「カガシロ様はカガシロ様で御座いましょう!」

どう言う意味だ?カガシロ様云々は独自の信仰対象という意味か?カルトにはよくある事だが、本田のエキセントリックな語調のせいで話が進まない。その上喚くように話すので、庭のはじにいても教団の連中に聞かれないかヒヤヒヤする。

「大きな声はマズイ。教団の人間でさえ、滅多にカガシロ様の名前を出さないのに、みだりに唱えるのは貴方の身のためにならない。貴方は入信に来たのに、それを知らないのか?」

『知らない』の一言で本田に火が付いた。鼻息荒くまくし立て、唾が飛ぶ飛ぶ。

「知っておりますとも!如何に秘匿されようとも、そのお名前はまさに自己紹介をするが如くのものでありますので!畏れ多くも、つい!口にしてしまうのですよ!なんせ『カガ』とは実にメジャーな言葉でしてな!古来より蛇をさす言葉なのですっ。古事記にあるように、ヤマカガミ、カガミグサなど蔦の植物の名はまさにそれ!地を這う長いものっ。それに『シロ』が付くと、まさしく白蛇信仰そのもので間違いないでしょう!さらに」

「貴方が博識なのはよくわかったよ。素晴らしい。しかし美しく輝く虹色の神の話は、聞いたことがない」

わんこそば状態のトークにちょっとおなか一杯だ。とたんに本田はしおしおと肩を落とした。

「そうですか…お社の中の方がご存知ないとは、ただの噂なのでしょうかなあ…」

あまりに本田が落胆するので、湯治場へ行けば何か新しいことがわかるかもしれないと水を向けた。実際に耕太の鱗は湯治場で生えた。宗教の知識が豊富な本田が見れば、まじないめいたものに気付くだろう。

「ああ、もうそこには行きました。日帰りにしては高い料金!しかしいい温泉でしたぞ!肌がツルツルです!若いころに買ったガイドブックには、賀名代温泉は神経痛に良いと書いてありましたが、情報が古いのはいけませんなあ!美肌の効果があるとは!」

オッサンのお肌の事情は知らなくていいかな。他になにか気になることはないかと問う。

「そうですなあ…山岳信仰の残る湯治場ではお札が一般的ですが、こちらは湯治の方が住むバラックに白い紙が貼られておりました。一枚だったり二枚だったり。何もないバラックもありましたぞ。まあそっちのほうが断然多かったですな!」

「へえ、俺は一般客の方には行ったことがないんだ。知らなかったよ」

もう時間切れかな。後藤が見ている。ぱらぱらと降り始めた雨の中、立ち上がって本田の方に体を向け、そっと着物の襟を開いて鎖骨の下に生え始めた鱗を見せた。

本田は表情を崩さなかった。

「もうここには来ないほうがいい」

少し俯いた後、彼は勢いよく顔を上げてにっこりと笑った。

「残念ですがそうします。雨も降ってきたことですし、お社を遠くより拝んで、神様に私の思いを届ける事にいたしましょう!」

本田のリュックサックを見送りながら、柄にもなく彼の身の安全が気にかかった。

本田が諦めたことを伝えると、後藤は深々と頭を下げ「さすがは〈八枚〉様、お見事でございます」とかなんとか言ったが、適当にあしらって仕事に戻らせた。後藤も結局ヤクザ側の人間なのだ。気を許してはならない。

部屋に戻ってみれば、こちらも一悶着あったらしく、BJが言う〈四枚〉の話を、やはり彼に詳しく伝える必要があるのだろうと諦めにも似た気持ちになった。

耕太を後藤に引き合わせると、鱗が増えたこと自体に後藤は喜んだが、まだ正式な〈六枚〉にはなれないと耕太に伝えた。この段階ではちょっとした接触などで鱗が剥がれてしまうのだ。鱗が皮膚に定着した段階で、正式に〈六枚〉へと認定される。

そして俺は現在の〈六枚〉のことにはふれず、耕太の警護を厳重にするよう提案をした。これから先、もっと鱗が生える可能性が耕太には十分にある。俺の話を聞き、教団にとって耕太は金の卵になると後藤は理解したらしい。身の安全の確保を約束した。

ついでに俺の生えかけた鱗も報告しておく。鉄面皮の後藤が、腰を抜かしそうになっているのを見て、少しスッキリした。

夕飯を終え、布団が敷かれると早速BJの腕が伸びてきた。ホント現金なやつだよ、お前は。

キリコがはだけた着物の襟から、小さな桜貝のような鱗が見える。貝よりもうんと薄い。そっとふれればぴらぴらと動くくらいだ。

「それくらいのサイズのやつは、擦れたりするとすぐに取れてしまうんだ」

俺の首筋に口付けながらキリコは言う。じゃあ今夜取れちまうかもな。それもいいかと笑い合う。

本田と名乗る男の話をしながらキリコは俺の着物を脱がせていく。その手つきがいつになくもたつくので、ふと見上げると、キリコの顔が暗いのがわかった。

「どうした」

「お前に話すべきか、やっぱり迷ってる」

「何が。そこまで言ったら、話すってのと同じだぜ」

「それもそうか」

キリコが語ったのは、鱗を生やした人間を選別する方法だった。

湯治場に来た人間や、日常的に温泉を使う地元の人間に鱗が現れることは、以前から稀にあったそうだ。耕太は特例で一度に五枚も生えたが、普通は一枚目の初期の段階で見つかる。

一枚目が生えた人間のうち、鱗が増えそうにない条件の者は、かなしろ診療所で鱗を切除する。小林の前任の老医師はその役目だった。よくあるできものですよとか適当に誤魔化して帰すそうだ。

しかし鱗が増える条件が揃ったものは問答無用で教団に拐われる。

その条件は『肌がとびきり白い』こと。

当てはまった者は教団の管理下に置かれ、一日中温泉の湯につかることを要求される。ここで鱗が増えれば次のステージに進む。

〈二枚〉になった者は『お清め』が始まり、非常に好待遇を受けるそうだ。順調に〈三枚〉になれば社に入れる。しかしその数は極めて少ない。

初めは唯一の〈二枚〉だったとしても、しばらくすれば新しい〈二枚〉が現れる。焦っても鱗は増えない。そこでもし新しい〈二枚〉に三枚目の鱗が生えてきたと聞けばどうなる。泣き寝入りしては競争に負ける。ならば寝込みを襲うか、他の仲間がいれば結託して拘束するか。鱗の剝がしあいが始まるのだ。

教団はこの一部始終を把握して放置している。自分の鱗を死守して〈三枚〉になるのなら他より抜きんでた才覚があると判断できるし、鱗を剥がれても次の鱗が生えて〈三枚〉になるのなら更に鱗を生やす可能性があると見込めるからだ。

そんな中を勝ち上がってきたのが〈六枚〉と〈四枚〉だ。

社に上がっても鱗の数を巡る競争は続く。

「もう鱗が増えなくなったら、虹蛇には居場所がないの」

どの地点で教団が見切りをつけるか分からないが、鱗が増えないと判断された虹蛇は社から去る。

教団の秘事を知った虹蛇が社会に戻れるだろうか。

当然、否である。

一番初めに教団に連れ去られ〈二枚〉になれなかった者は、無事に家に帰れただろうか。

これも、否である。

いずれも大きな滝へ連れていかれ、その後のことは杳として知れない。

「…大きな滝、高いところ…そういうわけか…」

小林の話にあった、大瀧から落ちる少女が思い出される。彼女はきっと虹蛇の競争に敗れたんだ。

そんな人間が何人もいる。ふざけた話だ。

「まさにカルトって具合じゃねえか。誘拐、監禁、洗脳、リンチ…とどめは殺人か」

いつの間にかキリコの愛撫は止み、ニコチンガムを噛んでいる。

「〈四枚〉はもう半年ほど新しい鱗が生えていないそうだ」

「見切りの速いお前さんでも、これは読めないか」

「…そうだな。これだけ鱗を生やしておきながら何だが、法則性が見つからない。体質による、なんて適当な見解しか持てんよ。まともな診察もままならん状況ではな」

うつぶせにキリコの隣に寝転んで、俺もガムを噛む。キリコの言葉に俺まで無力感を覚える。いけねえ、こんなところで凹んでる場合じゃねえや。ガムのうっすいニコチンが効いてきた。

「虹蛇の状況といい、お清めといい、教団は虹色の鱗を生やした蛇の人間版を作りたいみたいだな。もしできたら教団に絶大に崇められる御本尊って扱いになりそうだが、鱗が〈八枚〉のお前さんでもこの厚遇だ。お清めして鱗を増やすって方法は、このあたりが限界なのかもしれないな」

ガムを吐き出してキリコはため息をつく。

「そうかもね。俺の鱗が十枚になったら『奥の院』ってところに連れていかれるんだとよ。何させられるんだか」

「おくのいん?」

「やっぱり知らないか。本田に聞いておけばよかった」

ちょっとカチンときた。

「そもそもお前さんの肌がなまっちろいのがいけねえんだ。髪まで白いから教団の好みにドンピシャなんだよ」

「生まれつきなんだから仕方がない。あと白髪みたいに言うな。俺のは銀髪」

俺の頬を雪見だいふくのようにびよんとのばしながらキリコは呟く。

「アルビノの白い皮膚はとてもデリケートだ。本来なら温泉の泉質に注意が必要なこともある。俺は浸かっても何ともないが、他の連中は刺激が強いんじゃないだろうか」

俺の頬はデリケートじゃねえってか。

「耕太は『シュワーってする』って言ってたぞ。炭酸泉じゃないのか?」

「いいや。そんな感覚はないな。ぬるっとする湯だ」

「うーむ。俺も温泉入ってみてえ。鱗の原因調べるのに一番手っ取り早いし、なによりイチ温泉好きとして入浴してないのが悔しすぎる」

布団の上で足をバタバタ。そうなのだ。俺は各地で温泉に入ったり、古傷のために湯治に行ったり、好んで温泉に行くのである。なのに今の今まで温泉地にいながら温泉に入っていない!残酷!

「じゃあ、一緒に入ろうか」

キリコがにやにやしてる。ど、どーゆー意味…

翌日、キリコのお清めに俺は同席していた。

湯けむりの中、白い薄物の湯帷子を着て、六畳ほどの岩でできた風呂場の隅に膝をついている。同じく白い湯帷子の爺さんが、恭しくキリコの着物を脱がせていく。キリコは自分からは動かない。アレだ。良きに計らえって感じ。あ、眼帯とった…

急に面白くなくなった俺の方を見て、キリコは唇の端で笑った。くそ。今夜覚えとけよ。

爺さんの指示で、湯を手桶に汲む。桶と一緒に、わざと手首まで浸けてみる。色は茶褐色、かなり透明度が低い。発泡している様子はなく、確かに炭酸泉とは違う。桶を受け取って、爺さんがキリコの体にかけ湯をする。

茶褐色の湯がキリコの肌を流れていく。

白く乾いた大地に運河ができていくようだ。

引き締まった筋肉に貼りついた鱗が、虹色にきらきらと光る。

爺さんの声にハッとした。慌てて桶を渡すけど、バレたなあ…今更裸なんか見ても何とも思わないけど、見つめすぎてたか。絶対頬が赤いので顔をあげられない。

キリコが湯船につかる気配。ちらっと観察。

肩まで湯につかって合掌してらあ。こいつは後でネタにできるな。つーか、あの顔、頭の中で全然違うこと考えてるときのキリコだ。もうちょっと隠せよ。後ろでは一生懸命に爺さんがゴニョゴニョ唱えて、榊の葉を振っている。

さて、頃合いかな。

「ブッ潰れて死に晒せゴラアアアアア!!!」

大きく拳を振りかぶって俺は浴槽にダイブした。

そして「神聖な儀式の邪魔をした」とかで、ずぶぬれのまま俺の両腕は後ろで縛られて、お清めの前室に正座させられている。これはちょっと想定外だ。後藤が静かにキレている。キリコのとりなしも聞く耳持たず。ここまで怒るとは、信心の足りない身としては理解できん。

「こんな愚か者を〈八枚〉様のお傍に置くなど、これ以上は許せません」

「すまない、後藤さん。俺がこいつを離したくなかったんだよ。どこに行くか心配でさ」

「留守番もできない猫は縊り殺すのが上策です」

「いつもは利口に留守番してるだろう。まあ、怪我もないし」

「お怪我をなさったときは、即刻コレを切り捨てます」

わお、俺、モノ扱い。おい、キリコ、いい加減〈八枚〉様オーラ出せよ。本当に切られるぞ。

濡髪に浴衣を適当に着けてへらへらしてるキリコを睨んでいると、優男がやってきた。〈六枚〉だ。モデルのようなポーズで柱にもたれかかっている。

「ねえ、後藤。こんな乳繰り合いに真面目に相手しちゃダメだよ。お清めにまで情人を連れ込むの、掟としてどうなの?」

いかにも人のよさそうな顔をして、さらっと毒を吐く。確かに今思えば、この設定は無理があった。温泉の水質調査のついでに定期公演の猿芝居も一緒にやろうと思ったのだ。

「………前例がございます」

眉間をこれでもかと顰めて、後藤は呻いた。ただれてんなあ、この教団。ぼおっとしてたら湯帷子の襟首を掴まれた。〈六枚〉が俺を指さして抜かしてる。

「それじゃ、私が猫の躾をしよう。〈八枚〉様はお清めをやり直しになられるだろうから、その間だけ。なに、掟について言い聞かせるだけですよ。構いませんよね」

人畜無害な笑顔を浮かべて、いけしゃあしゃあと。

「いいよ」

「なっ!?」

キリコは笑って〈六枚〉に「どーぞどーぞ」のジェスチャーをした。冗談じゃねえぞ。顔を向ければキリコが俺を見下ろしている。その目がモノを言ってる気がした。

『やってみろ』

俺を試すか。キリコのくせに。

法被の男たちに半ば担がれて、俺は〈六枚〉の座敷に転がされた。

檜のような匂いの香が鼻孔をくすぐる。室内の調度品は拭き漆で統一され、同じ大きさの書箱と文箱が並んでいるのを見れば、長いことここに住まっているのがわかる。男たちが退出した後、タオルを手に〈六枚〉が近寄る。

「やっぱり、脱がせてから連れてくればよかったなあ。畳が…ああ」

濡れた湯帷子は俺の肌にぴったりと貼りついて、そこからぽたぽたと水たまりが広がっていく。

結局〈六枚〉はバスタオルの上に俺を座らせ、手にしたタオルでわしわしと濡れた髪を拭いている。まさしく犬猫に対する扱い。せめて腕の拘束を解けってんだ。くそ。

「すごい傷だねえ」

褒めるような声音でありながら、俺の顔の縫合痕には決して触れないようにしている。お前も耕太と同じで傷が怖いか。

「あの方は、こういうのが好みなのかな」

ぐいと顎を持ち上げられて、視線が〈六枚〉と重なった。ほとんど青に近い灰色がかった瞳。こうして見ると、こいつは本当にきれいな顔してるな。つい見とれてしまった。だから瞳をふちどる長いまつ毛が近付いてきたのに、対応が遅れた。

薄皮一枚。惜しい。

「本当に猫だね。ちょっと味見しただけだってのに」

俺が噛みついた薄く血のにじんだ唇を舐めると、〈六枚〉は俺を蹴飛ばした。お前とするくらいなら畳とキスした方がましだ。何か言い返したいが、奴の足が鳩尾にきれいに入っちまった。息をするので精一杯。

無様に転がる俺の髪を鷲掴みにして、ぱっと離す。畳と二回目のキス。

「お前は汚いね。顔には大きな傷があるし、体もそう。おまけに髪まで白黒の斑と来た。壊れたフィギュアを余ったパーツで何とか形にした…ってレベルの不格好さがあるよね」

おお青年。プラモにも同じ良さがあるんだぜ!例えるならそっちが良いな!

「どうしてお前なんだろうねえ。あの方は不思議だ。毎晩呼んでいた女をあっさり捨てたかと思えば、不細工な野良猫をかわいがるとは…ふふ、そこがミステリアスでいいのかも」

再び髪を掴まれて、今度は〈六枚〉の目の高さまで上げられた。ブチブチ髪が抜ける。嫌になるくらいにキレイな笑顔が視界一杯に広がった。

「私と代わろうよ。あの方の相手は、私の方がいいと思うんだ」

うっとりした〈六枚〉は続ける。

「だって〈八枚〉だよ?今まで聞いたことがない。体全体が白に近い素晴らしい素質の方…傍にいれば私だって…」

灰青の瞳は俺を通してキリコを見ている。キリコの向こうに自分を見ている。自己中野郎が。

これ以上好き勝手出来ると思うなよ。〈六枚〉の力が緩んだところに、俺は背筋を引きつらせて思い切り頭突きをかます。あいつの悲鳴が小さく上がる中、俺の白黒の髪が舞う。禿げてたらてめえのせいだからな!距離を取ったらぴょいとジャンプして起立成功。鳩尾のダメ回復!

「俺と代わりたいなら、いつでもどーぞ。ただあいつのはデカいからな。よーく慣らしといたほうがいーぜ」

「…夜伽の心得はあるよ。心配はいらない」

畳の上に倒れ込んだ〈六枚〉はよろけながら立ち上がる。腕を縛られたまま仁王立ちになっている俺の頬目がけ、細い腕を振り上げてビンタした。そこはグーパンだろうがよ。睨む俺に、またビンタ。

「ペチペチ痒いな。あの野郎が欲しいなら好きにやれよ。自分で口説け。邪魔なんかしねえ。清々する」

一歩踏み出す。向こうは下がる。

「自信がないなら、今夜俺達がいる座敷へ来いよ。あいつのいいとこ全部教えてやる。その後交代しようじゃねえか。おきれいなあんたなら、きっとすぐに上手くできるぜ」

ちくしょう。こんな売女みたいな台詞吐かせやがって。ああもう、下がるんじゃねえ!

「だけどな、ひとつだけあいつに言っとけ。二度と俺にさわるなってな!」

文机にぶつかって〈六枚〉はへたりこんだ。白い顔が一層白くなってやがる。今お清めに行けば効果覿面だぜ、きっと。その分俺の顔は真っ赤になってんだろうけどな。くそ。

しばらくして法被のちょっと偉そうな男が様子を見に来たけれど、〈六枚〉は何も言わなかった。そのまま俺は東の角部屋に送られたのだが、考えてみて欲しい。俺はまだ濡れた湯帷子を着ている。腕も縛られている。季節は雁が飛ぶ頃。

知らん顔して茶を飲むクソ死神に向かって思いっきりくしゃみをしたって、不自然な点など一つもないのだ。

社の最奥、湯けむりが揺れる。

「なにやら元気の良い者がいるようじゃな」

真白い帳の向こうは何人たりとも目にすることは許されない。

「は、申し訳ございません。〈八枚〉の情人が騒ぐようでして…」

頭を上げることは許されない。平服したまま白い法被の女は大師様の問いに答える。その背後には長い黒髪の喉を潰された女が同じように這い蹲る。

「よい。久しぶりににぎやかしいのも悪くない。そろそろ御山に戻ろう。この湯は十分浴びた」

穏やかな主のようすに女は安堵する。大師様はカガシロ様のお側に戻るのだ。すぐに準備を整えなければ。

湯殿の天井には、あざやかな虹が湯を反射して映っていた。

おかしなことになった。いや、ここに来てから全部おかしいのだが。

お清めで暴れた日の晩、東の角部屋に〈六枚〉がやってきた。うわ、こいつマジで来た。ついに衆人プレイをする日が来たかと固めたくもない腹をさすっていたら、だ。

〈六枚〉は感動したとか何とか言って、昼間のキャットファイトの全部をキリコに話してしまった。もちろん俺のセリフの一言一句、違いなく。

俺はそんなこと全部、隠し通すつもりだったのだ。あんな台詞自分でも寒気がする。言っちまったのは勢いだけだ。演劇さながらの身振りで、まだまだ詩人の如く理解不能な言語を垂れ流す〈六枚〉のドタマをシバきたかったけど、なぜだか今日は後藤が控えてて、俺はピクリともできなかった。今動いたら袈裟懸けにバッサリやられるイメージを受信したのだ。

一方からは意味不明な波長のエモーショナル、もう一方からは隠しきれない殺意の波動。正面からは「ふーん」って荒波に揉まれる俺を観察する眼帯。なんだこのトライアングル。解散!かいさーん!

「それで、温泉に入ってみてどうだった?」

げっそり疲れて布団に入ったら、キリコがのん気に聞いてきた。てめえのせいでなあーっと脛を蹴った。あいつは痛いと言いつつ腰に腕を回してきたが、その前にだな、別に本番しなくてもフリだけして話してればいいんじゃないか?

「バレたか」

鼻ねじり切るぞ。痛む鼻の頭をなでるキリコを無視して、俺の考えを述べた。

「あれは初めて浸かる湯だ。硫黄泉のようでもあり、含鉄泉のようでもある。しょっぱいから塩化物泉の可能性は捨てきれない。肌がぬるつくってことは、アルカリ性の成分も入ってるんだろう。きっと他の成分も湯に含まれている気がする」

耕太の手ぬぐいで調べた通り、ありゃ本気で最強温泉かもしれん。だけど変だ。

「学者じゃないから分からんが、あんなに多くの温泉成分が一緒に湧くことがあるのだろうか」

「どういうことだ?」

「イオンの問題だよ。アルカリ性と酸性の特徴を併せ持つ湯なんて存在するのかな。金属の含有量が多すぎる気もする」

「ふうん…本田が言っていたんだが、かつてはこの温泉は神経痛に効くと言われていたそうだぞ。神経痛に効く湯は皮膚病にも効くのか?」

「確かにそんな湯はあるけれど…昔と今が違うってことは、泉質が変わったのかな」

しばし天井を眺めたが、やっぱり専門外だから判断できない。地下から湧くから温泉には違いなかろうが。

唸っているとキリコが尻を揉んでくる。

「やめろ。フリだけで良いって言っただろ。そもそもお前は枯れてるくせに、ここの連中には性欲の権化みたいに思われてるぞ。少なくても〈六枚〉からは」

「そんなのはどうでもいいよ。ただ、ここで他人の名前出されるの、おもしろくないな」

珍しく冷たい声で呟いて、キリコは俺の上に跨った。ゆっくりと浴衣の帯を解く。

鎖骨の下には完全に定着した鱗。九枚目だ。完全に浴衣を脱ぎ、キリコは内股を指さす。

ここにも鱗があった。完成している。

「気が付かないうちにできてたみたいだ。これで十枚目。晴れて俺は〈十〉になった」

低い声が波紋のように広がる。

「明後日、大師が山に帰る時、俺も同行することになった。奥の院とやらに行く。多分大丈夫だと思うが、お前、一人になったらすぐに逃げろよ」

違うだろ。

「鳥居までのルートは知っているよな。でかい灯籠が途中にあるだろ。アレにセンサーがついてるんだ。それを抜ければ、きっとうまく行く」

違うっつってんだろ!

銀の髪を引っ掴んで、噛みつく勢いでキリコの顔面に迫った。

「何を企んでる。そこまでカルト教に入れ込んでる訳ないよな。山まで行ったら帰って来られる可能性が一層低くなるんだぞ。お前は何がしたいんだ」

キリコは俺の後頭部を抱えて、そっと布団に横たわる。抱えられた腕の中、目の前に九枚目の鱗がある。

「真実を言えば、これには俺の仕事が絡んでる。奥の院に行くのは、仕事を成すために有効なプロセスだと踏んだからだ」

「そんな都合のいい…!」

「じゃあ、お前はどうしてここにいる?」

答えがすぐに出なかった。キリコの鱗に俺の目が映る。虹色の鱗。小林の言葉。耕太と母親。温泉と鱗の関係。カルト教団とヤクザ者との繋がり。どれもみんな中途半端だ。

「明日は歌垣だ。警備が緩む。逃げるなら、その時だ」

それきりキリコは黙ってしまい、あいつの素肌を感じながら眠るしかなかった。

虹の彼方に(二)

キリジャバナー2

※2021/12/4改訂

腹に衝撃を喰らって目が覚めた。

重たい頭を上げれば、耕太が布団の上に乗っかっている。

「もう8時だぞ!起きろ!」

やめろ。頭にキンキン響く。

「まだいいじゃねえか。いろいろあって眠いんだよ」

障子から透ける朝の光の中、もぞもぞと再び布団に潜り込もうとするのを耕太は許してくれない。掛け布団を剥ぎ取る暴挙。これだからガキは。

敷布団にあぐらをかいてあくびをすれば、耕太がまじまじと俺の体を観察しているのがわかった。ああ、寝巻きの浴衣がはだけて、昨日より傷が見えるからか。

「もう怖く無いのか?」

ぱりぱり胸元を掻きながら訊く。

「…怖くない」

「嘘つくなって」

「怖く無いったら!」

涙目になって強がるのが面白くて、がおーっと耕太のちびっこい体を捕まえて布団の上に転がった。再びギャン泣き。すまん。

法被を着た連中が詰める台所の隅で朝飯を頂戴して、耕太と一緒に庭へ出る。

庭っつっても神社の境内なんだが、とにかく規模がでかい。社の周辺の日本庭園から奥に行くと、がらりと周囲の印象が変わる。庭と境内の参道とを比較すると、作られた年代にかなりの誤差を感じるせいだろうか。樹齢数百年と言われてもおかしくない巨木がそびえる鎮守の森。その中を綺麗に敷かれた石畳の参道が白く続いている。どうも裏手の山まで神社の敷地は伸びているようだ。

浅葱色の羽織に白い着物で、耕太はぴょんぴょんと石畳を走る。まるで因幡の白兎。石畳は鰐で周りの苔は海だ。

俺は流石に血液がついたスーツを着続けるわけにはいかず、クリーニングを頼んで、今は紺の着流しにいつもの黒いコートを羽織っている。バンカラ学生みたいだな。兎とバンカラ。アンバランスにも程がある。

「この辺でいいかな」

耕太は辺りを見回すと、大きな木の影に俺を呼んだ。かくれんぼかよ。めんどくせえ。のろのろ向かい、木の梢に体をねじ込むと、耕太は俺の襟をつかんだ。

「お前、お医者さんなんだろ」

「おう」

「じゃあ、ぼくを助けろ」

何から助けるって言うんだ。釈然としない俺の前に、耕太は二の腕をさらけ出す。

真っ白な肌に、虹色の鱗。

「これを取って」

まごつきながら裾を捲って腿を見せる。そこにも鱗。

「もっとあるんだ」

着物を全部脱ぎだす勢いだったので止める。

「全部で五枚あるんだな。だからお前は〈五枚〉って呼ばれてる」

「うん…」

梢の陰の中で虹色が妖しく光る。

「どうして取るんだ。お前、その鱗のおかげで威張っていられるんだろう?」

「それは、そうだけど…」

さわさわと木々が揺れる。その音にかき消されるくらいの小さな声が、耕太の口から漏れた。

「…お母さんに会いたい……」

小林に聞いた母子が耕太に重なった瞬間だった。

そもそも俺をこの社に引き摺り込んだのは、俺が医者だと知っての行動だったと言う。

小林の蘇生を行なっていたことが、あっという間に旅館に伝わったように、この社にも知らせが入っていたのだ。ましてや俺の顔は特徴があって覚えやすい。

道理で神社にいた俺を耕太はすぐに見つけた訳だ。血の臭いだなんだと分かりにくいが、小さな頭がよく回るものだと舌を巻いた。

「お母さんは違うところにいるって皆言うんだ。でもぼくは〈五枚〉だから会いに行っちゃダメだって。だからね、鱗がなくなれば、お母さんに会えると思うんだ」

興奮気味に話す耕太。俺は返事ができない。

「よく見せてくれるか」

耕太の母親のことはひとまず置いて、差し出された細い腕に生える鱗をじっくりと診察する。鱗、鱗ね。魚鱗癬の子どもは以前診たことがあるが、それとは違う。この鱗は独立している。大きさは大人の親指くらい。縦に長い菱形の薄い膜のようだ。しかし膜と呼ぶには固すぎる。薄いプラスチックのような感触だ。

「触ると痛いか?」

「表面は痛く無いよ。でも端っこは痛い。何度も鱗を剥がそうとしたけど、血が出ちゃうくらい痛いんだ」

「なるほど」

鱗と周りの皮膚はぴったりと癒着していて、そうだな、爪の構造によく似ている。生爪剥がすとなりゃ拷問に使われるくらいだ。痛かろう。

治療はやはり切除しかないな。できれば人工皮膚が欲しい。手術ができそうな場所はあの診療所しか無さそうだが、人工皮膚の調達はどうしたものか。きちんとした病院で提供してもらうのが最適解だろうが、今の状況では…

「病院で手術すれば、鱗は取れそうだぞ。だが、耕太、お前はここから出られるのか?」

社で我儘が通るくらいに厚遇されている身だ。簡単に解放されることはないと思われた。

「わからない。後藤に聞いてみる」

「やめとけ。そんなことしたら、あのオッサン今度こそ、えーと『高いところ』にお前を連れて行くんじゃないかね。つーか、なんだよ『高いところ』ってのは」

「悪いことしたやつが行くところだって。少ないやつや、もう増えないやつも行くんだ」

ますますわからん。

「〈五枚〉様〜、お清めの時間でございますよ〜」

遠くから耕太を呼ぶ声がする。

「ぼく、行かなくちゃ」

慌てて振り返る耕太に釘を刺す。

「俺と鱗の話をしたことは黙っとけ。それはきっと取れる。他の奴が知ると、お前を一番に手術してやれなくなるかもしれんぞ」

一番。ガキには分かりやすい言葉だ。耕太は強く頷くと、声の方へ駆けて行った。

今見た虹色の鱗。構造は分かったが、どうしてあんな色をしているのだろう。タマムシのような色合いではなかった。オパールのように入り混じった色でもない。透明度の高いグラデーションを作っていた。キリコにもアレが生えているのだろうか。

昨夜のことを思い出してしまい、吐き気がした。会いたくない。

あああ、くそったれ。耕太が行っちまったから、俺はこれからあいつの傷を診るために、あの東の角部屋へ行かなくてはならない。女を抱いたあいつの体に触るのか。手袋三重にしても気持ち悪い。無理。

適当に庭をうろついていれば時間が潰れるかと思ったのに、早速後藤に捕まった。やっぱ俺もガキじゃなくなったって事だねえ。耕太みたいなガキが隠れるところって、絶対に大人には見つからないんだ。そーゆーもんなんだ。

俺は一言も喋らないままキリコの傷を診た。

背中を一閃。薄皮一枚。これは背広のお陰で命拾いしたな。あの後藤ってオッサン、カタギじゃねえ。しかしだ、こんな傷、縫うまでもない。実際皮膚が再生してる。体を動かすときに少しは違和感があるだろうが、痛みに鈍いこいつのことだ。問題はない。大体女とヨロシクやれる身だ。前後運動しても痛くねえってことだろ。

「昨日はあんなに喚いたのに、今日はだんまりか。相変わらず気分屋だな」

うるせえ。ちゃっちゃと診察道具を片付けて部屋を出る。背中越しにあいつの笑い声が聞こえて無茶苦茶腹が立った。

部屋を変えてくれという俺の訴えは届くはずもなく、せめてと襖の隙間を覆うようにシーツを張った。夜がふけ、やっぱりキリコの部屋に誰かが来た気配がした。きっとあの女だろう。昨日と同じように五感を遮断して布団に蹲ることしかできないのが、心底情けなかった。

ああ、診察の時あいつに鱗が生えているか確かめればよかったと、気がついたのが昼過ぎだった。

耕太と適当に遊び、さりげなく「お前の部屋に泊めてくんない?」と頼んだが、絶対に嫌だと拒絶された。解せぬ。さてはお前オネショするな、なんて言っちまったから耕太はカンカンに怒って、三度ギャン泣きした。すまん。図星だったか。

まあ、こんな小さいうちに母親とはぐれて、よく分からん鱗まで生えて、胡散臭い連中に囲まれて…ちったあ泣いたり喚いたりしてえよなあ。しょうがねえ、もう少し遊んでやるか。台所からくすねた饅頭を手に、庭石の影でいじけている耕太のもとへ向かった。

そうこうしていると『お清め』の呼び声がかかる。

「お清めって何するんだ」

「一日二回、お参りして温泉に入るんだよ」

「それだけか」

「うん」

耕太は走り去っていく。

残された俺は湿った苔の上を避け、庭石に尻をひっかける。

『お清め』って何だ?神社だから宗教施設なのはわかるが、ここにいる人間の数といい、妙にカルトな雰囲気を感じるのは俺だけか?

俺は非科学的なものは信じない。だったら科学的に調べるべきだ。

『お清め』と言うなら、きっと肩辺りまで浸かって、しばらくそのままでいるのだろう。湯に素肌全体を浸すわけだよな。鱗との関連性、調べてみる価値はありそうだ。

そうなると温泉の成分が知りたい。ここの連中に「源泉の成分分析結果を教えてくれ」と馬鹿正直に頼んで通るとも思わないので、耕太にお清めの時に体を拭いたタオルが欲しいと頼んだ。変な顔をされたが、ビチョビチョの手ぬぐいを持ってきてくれたので、やっぱこいつは賢いと感心した。

さりとて俺も専門家ってわけじゃない。簡単なことしか調べられんが、まずは色や匂いからやってみよう。

耕太の手ぬぐいをギュッと絞れば、桶にぱたぱたと水溜りができた。これを桶と同じく台所からくすねたガラスのコップに取り、匂いを嗅ぐ。硫黄の臭いだ。光に透かせば白、黄、茶、赤と実に様々な色の粒子が浮いている。温泉には酸化鉄やカルシウムの結晶が混ざることがあるというが、今の俺にはこれらがどんな金属なのか分からない。ただ多くの成分が含まれる温泉とだけ言えるだろう。舐めてみると塩がきつい。

なんだか温泉として体に良さそうなもの盛りだくさんって具合がしてきた。炭酸泉なら満貫だぜ。

「温泉に入ると、シュワーってするよ」

耕太の証言により満貫確定。点棒振るの忘れた。

最強温泉説を唱えた俺はアホらしくなって、キリコの部屋へ行くのを放棄した。あんなもん、もう怪我じゃねえ。

夕暮れの空に雁が飛ぶ。

さすがに肌寒くなって社の中に入ろうとした時、庭の隅の長椅子に人影を見た。キリコと黒髪の美人だった。相変わらず手を取り合って、仲のいいことで。

もう我慢ならん。

帰ろう。

クリーニングから帰ってきたスーツを着て、夜闇に乗じて法被どもの目をかい潜り、脱出成功!…とまあ、簡単にはいかんよな。神社の鳥居を出たときには、俺はすっかり囲まれていたのだった。

「スッゾコラー!」

「ザッケンナコラー!」

あー、そうそう。温泉街にはヤのつく自由業の皆様も付き物でした。ああもう面白くねえ。どいつもこいつも人の邪魔ばっかしやがって。フラストレーションを発散すべくヤの皆様とスポーツを楽しんだ。

「うるっせえ!うさんくせえ連中ばっか集めやがって!」

「スッゾコラー!」

「ガキの相手面白いぞ!くそったれ!」

「ザッケンナコラー!」

「夜くらい普通に寝かせろ!ボケーッ!」

俺の叫びが夜空にこだまする。

しかしながら如何せん多勢に無勢。結局しこたま殴られて、俺は社の前に転がされた。

「後藤、野良猫一匹も見られんのか。きちんと首に縄をかけておけ」

クロコダイルの革靴が俺のこめかみを踏みつける。顎関節がみしみし。後藤は黙って角刈り頭を下げたままだ。言い訳しないのが昔気質って雰囲気だな。ヤクザ者が引き上げた後、後藤からも一発食らった。

「おお、随分と男前になっちゃって」

へらっと言い放ったキリコに殴りかかる俺を、法被のとびきりガタイの良い奴が羽交い絞めにする。

「ざっけんな、殺すぞ!!!!!!!!!!」

喚く口におしぼりをねじ込まれる。せめてビニール取ってくれんかな。鼻呼吸まで止まる。

後藤が静かにキリコへ語りかける。

「あなたはこう言った。あなたの責任下で、この男を保護すると」

「言ったね」

「この男は社から逃げ出そうとしました。この責任をあなたに負って頂かなくてはなりません」

「そうなるか」

キリコは腕を組んで宙を見つめた。

俺からは背中しか見えないが、後藤はヤのつく人独特の重たい空気を出していた。こいつは指を詰めろとでもいいそうだ。

「じゃあ、俺が結果を出せば、その野良猫もどきを解放してくれるかな」

キリコはやおら白い着物の襟を開き、上半身をあらわにして右肩の当たりを指さした。

「八枚目だ」

後藤が駆け寄る。

何度も触って確認している。心なしか興奮しているようだ。

「ああ…本物だ…なんて、なんて素晴らしい…」

俺が殴られるのを眉ひとつ動かさずに見ていた男が震えている。

「どう?」

後藤はキリコの前に恭しく平服した。

「仰せの通りに。〈八枚〉様」

俺の処遇をどうするかはひとまず先送りとなった。もうテッペンすぎてるもんな。とりあえずってことで〈八枚〉様に昇格したキリコと後藤の前で、俺は言上げさせられた。

「勝手に外へ出ません。誰にも言いません」

それでもまだしかめっ面の後藤の前で、キリコは俺の腫れあがった頬をつつく。

「いっっってえ!」

「こいつの顔、ちょっと冷やして消毒してやろうかな。ついでに痛み止めも飲ませておくか。眠くなるタイプの薬だから、朝までぐっすりだ。俺の部屋にコイツの布団持ってきてくれるかい」

困惑する後藤。

「大丈夫。後藤さん、俺も医者の端くれだ」

きっっっっっっざ!この言葉がこんなに気障に聞こえたためしがない。てめえのどこが医者だって言うんだよ!もとよりヒトゴロシのくせに、ここでカルト連中に崇められて美女とヨロシクやって、医者らしいこと一ミリもしてねえじゃねーかよ!

…この心の声を漏らしてしまうほど俺は愚かではない。キリコがじっとりと見つめているが、何のことやら。

後藤は俺を座敷牢に入れたいそうだ。ちょっと待て、ココそんなもんあるの?

今夜はキリコの部屋の前に見張りを置くことで、なんとか折り合いをつけた。後藤たちが去った後、キリコは救急箱を開ける。

「こっち向いて」

嫌だ。

「まだだんまりか。いいけどね」

頬に押し付けられた脱脂綿から消毒液がしたたり落ちる。

「い…っ」

ちくしょう。わざとやってるな。しみて痛えじゃねえかよ。睨みつけようと振り向けば、キリコの隻眼に捕まった。

アイスブルー。近付いてくる。

キスされた。

え?

え?

ちょっと待て、ちょっと待て!今そんな雰囲気じゃなかったよな!

大混乱をきたした俺をキリコは畳の上に組み敷いた。

「なめやがって、この野郎!退きやがれ!」

喚いてもがくも、こちとらさっきの運動の疲れが溜まってる。キリコの体はびくともしない。

「やっと喋ったと思えば、口のきき方がなってない」

また傷に消毒液を押し付けられる。新手のいじめか?治療してるんだか加害してるんだか、訳が分からねえ。

「いってえな!やめろ!」

「ほら、まだ吠える」

キスでふさがれる唇。殴られて切れた唇の端をキリコの舌が舐めていく。途端にかあっと体が熱を持つのが分かった。

「くそ、やめろ…さわるな…っ」

女に触れた手で俺に触るな。同じように俺を抱くな。

怒りが頂点を超え、全力でキリコの下から逃げ出そうともがいた。

畳を引っ掻き、床を蹴った。唸って、叫んだ。

だからきっと廊下の見張りが慌てて中に入ろうとしたんだと思う。キリコが俺にキスをするのと、見張りが障子を開けるタイミングが重なるなんて、最悪だ。

「大丈夫。教え込むから」

すました声で見張りを追い払うあいつが憎い。見せつけたくせに。

今夜は最悪だ。ガワは殴られてボコボコだし、ナカは踏みにじられてボロボロだ。

結局俺は睡眠薬を飲まされ、体の自由を失った。

「な、なあ…お前の名前、ジョージンって言うのか…?」

耕太から聞かれて、初めて自殺を考えた。

返事をする暇もなく、どこからか法被の女が飛んできて、耕太を連れて行ってしまった。

最悪…………

「殺す!!!!!!!!!!!!」

東の角部屋で吠える。

「ハイハイ。まあお座りよ。説明してやろう」

キリコは噛んでいたガムを吐き出して、俺を手招きした。萌黄色の羽織から、手品のように最中が出る。俺は耕太と一緒か。しかし食う。

「あのな、昨夜の状況のままだと、お前は今頃間違いなく後藤の思う通りの処置になっていた」

「座敷牢か。社の人間全員からイロモノ扱いされるよりはマシだ!」

「その辺は俺も同じだ。痛み分けといこうぜ」

全く違う。〈八枚〉様に昇格したこいつは、女も男も食う絶対強者として君臨している。ワリを食ったのは、ヤクザにボコられて仕置きにオカマ掘られたって構図の俺だけだ。

もっと考えろよとキリコは肘をつく。

「座敷牢って、どんなところか知ってるか?まさかお泊りできる鍵付きの和室とでも思ってないよな。ヤクザ者が絡んでるって分かった今なら、もう少し想像力働かせてもいいと思うんだがなあ」

「……把握した」

サンドバッグになるのも、便所になるのも、ウナギに目玉を食われるのも嫌だ。だからって恩を売ろうとするなら願い下げだ。青筋を立てた俺にキリコは死刑宣告をした。

「お前、今日からこの部屋で生活しなさい」

「はああ?!」

最中の粉が飛び散った。キリコは机の上の粉を掌で集めながら続ける。

「俺がお前の首輪になる。後藤の話じゃ、一番求めている条件はお前の行動を制限し、把握することらしいし。なら、俺がその役目をしようかなと…おっと」

俺の拳は空を切った。ついに俺はコートまで奪われたのだ。メスが欲しい。

「全く、血の気が多い奴だな」

「誰にも指図される覚えはねえ。俺は自分で動く」

うんうんと適当に頷いて、キリコは俺の顔の傍まで来た。うわ、またキスするのかよ!そうやって物理的に口封じするの卑怯だぞ!

反射的に目を瞑ったのだが、唇には一向に感触がない。そろそろと目を開けると、笑いを必死にこらえているキリコとかち合った。

「てっめ…」

叫ぼうとしたら、今度こそキスされた。しつっこいくらいに濃厚な奴をかまされて、俺は青息吐息。そのままキリコは俺と額をくっつけて悪戯気にささやいた。

「この距離なら、監視に聞こえない」

手付かずの膳を前に、後藤は静かな視線をよこす。

「食べ物を粗末にするのは、感心致しません。意地を張るのも大概になさい」

俺は黙って窓の外を睨む。今日は水しか飲んでない。夕食を終えたキリコがおっとりと箸を置く。

「私が食べさせよう。口移しなら、食べる?」

宙を舞う膳。汁物がキリコの着物の裾を濡らす。

「ふざけんな!バカにするのもいい加減にしやがれ!」

キリコは振り上げた俺の腕を掴む。

「後藤さん、悪いけど外して。まだ分かってないみたいだから」

「さわるなあっ!」

羽交い絞めにされる俺を軽く睨んで後藤は部屋を出ていく。障子が閉まって数分間、俺はバタバタ音を立てて暴れた。

「……行ったか?」

「行った」

「…こんな感じでいいのかよ。芝居臭くねえ?」

お前はいつもこんな感じ。そう言われて、もう一度本気で暴れたくなった。

「まだまだ後藤はお前を警戒しているからな。逃げ出す気がないアピールをするなら、この猿芝居を定期的に上演して、徐々に牙を折られていく演出をしないとね」

「いきなりお前にデレてると、明らかに怪しいもんな。つーか、そんなの芝居でもできんわ。きも」

「確かにデレたお前は激レアだ」

真面目な顔をして言うから、畳に転がった芋を投げつける。芋をキャッチして、そのまま口に入れるキリコ。やめろ、床に落ちたもん食うんじゃねえ。

「やっぱり食べ物をダメにするのは気が引けるわ」

お前は後藤と一緒かと言いかけて、障子の向こうに人が来る気配を察知。大急ぎで着物の襟を乱した。いかにも乱暴されましたみたいな横座りの姿勢をとり、適当に転がっていたものを口に入れてもぐもぐしておいた。

法被を着た女たちが、散らかった膳を片付けていく。ちらちらと俺を見て、頬を染める奴。露骨に俺とキリコを見比べる奴もいる。キリコはいつの間にか広縁にいて、茶をすすっている。

これってあれだよなあ。悪代官に手籠めにされる村娘…

布団は当たり前のように二組並び、俺は呆然とする。

だって俺は見たのだ。この部屋に女がいるのを。今夜だって来るかもしれない。キリコがデリしてるなら。

ダメだ。無理。

出口の障子目がけてよろける俺。情けねえ。

「どこ行くんだ」

キリコは俺の腕を掴む。俺はそれを振り払う。

「女呼ぶんなら、俺は外で寝る」

ああ、と思い出したように間抜けな顔をした後、口をへの字に曲げて黙ってしまった。

そら見ろ。やましいことあるんじゃねえか。いや…?そもそもやましいもやましくないもあったことあるか?めんどくさ。こいつが誰と寝ようが関係ねー。ただそんな体で俺に触れるのが我慢できないって話だ。第三者の体液媒介されるなんて頭がおかしくなる。急にキリコにキスされた唇がむず痒くなってきた。洗面所に直行して、ひたすらうがい。

「お前は本当に分かりやすいな」

無視無視。

「彼女はもう来ないよ。大師様が帰ってくるらしいから」

そーですか。そーですか。

ふう、とため息が落ちてきて、俺の体は洗面台とキリコにはさまれた。

「あのね、お前と俺と、持っている情報量が違いすぎるんだよ。それをすり合わせるのに今の状況があるんだから、有効に使えよ」

物わかりの悪いガキに言い聞かせるようだったのが癇に障った。

「そーですね。〈八枚〉様に失礼なことをいたしました。あなた様がどんな女と逢瀬をしようとも、俺様には一切かかわりのないことで」

「だから、きちんと話すから聞けって」

キリコの脇をするりと抜ける。通せんぼするから部屋に戻ってやった。肩を掴もうとするから、体をねじって逃げる。さわるな。割とマジで今のお前のこと黴菌扱いしてるからな、俺。つんとそっぽを向こうとして、ふわっと体が浮いたのが分かった。

「体格差で物理的解決を図るのは、ひじょーにひきょーだ!下ろせよ!」

「話聞くなら下ろしてやる」

戦場で鍛えた腕力は未だ健在らしく、キリコは俺を抱きあげている。人種の違いはあれど、貧弱な自分を見せつけられるようで、更に腹が立った。貧弱なのは俺の心だ。認めたくなくて暴れた。一応体は成人男性のソレなので、暴れた効果はあったみたい。キリコの腕が緩んだ隙に布団の上に飛び降りた。あいつは顎を押さえている。ざまあみろ。

「…俺は情報を優先したいが、お前は感情を一番にもってくるわけか」

だから!そういうところに!腹が立つんだ!

枕を引っ掴んで投げた。キリコが避けたので、枕は障子をぶち抜いた。避けんな!もう一個投げる。障子に大穴。黙って穴を見つめるキリコは、なんだか楽しそうだった。少し、冷汗が出た。

大きな体に圧し掛かられる頃には、俺の声は枯れ始めていた。これ以上ないってくらいの悪口を並べた。日本語だけじゃなくて、英語、スペイン語、スワヒリ語。キリコは全部黙って笑って聞いてた。息が切れた俺の上でキリコが言う。

「どこまで見たの」

「…黒髪の女の手を取って、女がお前の肩に寄りかかって…そのまま明かりが消えて…」

しばしの沈黙の後、キリコは初めて見るくらい真面目な顔をした。

「俺がその女と寝てないって言ったら信じる?」

信じられるわけねえだろ。だけどそれと同じくらい、キリコと女が寝たって言える材料を持っていないことに気が付いた。耳まで塞いでいたんだから。これマズイ奴か?ずびっと鼻をすする。

「彼女と寝てないよ」

「信じられるか」

「かわいい妬き方するね。お前って」

妬いてなんかない。何の話だ。わけわからん。

「それで、何が言いたいの」

銀のカーテンが降ってくる。隠せ。隠してしまえよ。俺の泣き顔なんか。

「他の人間抱いた手で、俺にさわるな…ッ」

キリコの額が当たる。

「おでこもダメかい」

「ダメだ」

「困ったな。今はお前にさわりたいんだけど」

「ダメ」

「傷つくなあ。俺は潔白だってのに」

お前が傷つくもんか。超合金チタンのハートに五寸釘打ち付けまくった心臓持ってるくせに。

「お前なんか大嫌いだ」

キリコが俺を見つめている。いつにもないくらい熱っぽい視線。

あいつの腕が俺の体に伸びて、脚が絡んでいく。

「大嫌い」

「知ってる」

こんなときに、こんなところでする気なんかなかったのに。

熱い吐息が部屋を満たす。

あいつが入ってきた瞬間、どうしてだか極まってしまった。

それからはもうぐずぐず。

「…っく、イク、キリコ…ッ」

「いいよ。イって」

「あっ、あっ…」

「声出して。聞きたいから」

耳元で囁かれたとき、あいつの声も震えていた。あっという間に駆け上がる快感。

腹に散る白いしぶきをそのままに、キリコはもっと奥を求める。

やめてほしい。やめないで。ぐるぐると回る思考のまま、キリコの潰れてない方の目を見た。そのまま深くくちづけられる。奥を穿たれて、熱い舌で溶かされて、何度絶頂を味わっただろう。

キリコの背中に爪を立てる。着物の生地を引っ掻くだけ。構わず腕を回して力任せに抱きついた。

ガワなんてどうでもいい。コイツの真ん中を飲み込んでるのは俺だ。俺なんだよ!

「アッ!ああっ!また…っ!」

「ああ…すご…」

イッてる最中にごりごりと奥を擦るから。

「ダメ、やめ、ろ!…っア、止まらなく、なるぅッ」

泣きたい気持ちになって、しがみつく。応えるように抱きしめ返される。

「……どうしよ…と、まんねえ…ずっと、ずっと…っ」

「ん、ずっと、だな…わかるよ…」

「キリコ、奥っ、おくっ」

「…信じないかも、知れないけど、」

「く…あ、あうっ」

「お前を知っちゃったから、戻れる気、しないんだよね…」

「も、戻る、って……どこ、に…?んぅ」

「さあ、どうでもいいよ。戻る気も、ない、…し」

「うあ、あっ!そこだめ、だめっ!あああッ」

「…いい…な…ッ」

止まらない嵐のような感覚が、キリコの一刺しで登りつめ、やがてゆっくり静まっていく。

銀の髪を引っ掴んで、睡魔の渦へ真っ逆さま。

昨夜の痴態は「キリコに従わされつつある俺」を演出するのに効果的だったらしい。後藤がちょっとだけ優しかったから、庭に出るのを許された。もちろん後ろに見張りの法被は控えてるけどさ。この前俺を羽交い絞めにした奴と同じだから、もう名前覚えちまったよ、ガタイのいい岡本君。ああ、息抜きって大事。

池の鯉を眺めて今朝のキリコの話を思い出していた。

「あの女性は耕太の母親だ。耕太には言うなよ」

布団の中でひっそりと告げられる。

「あの女優並みの見た目だろ。それに耕太を助けようと相当暴れたらしくて、俺に会ったのは散々男衆に嬲られた後だった。そのせいで精神的に不安定になってて、喉まで潰されてる。彼女は今、声が出ない。話せないんだ」

同じ社にいながら、耕太が母親に会えないわけが分かった。

「情けをかけたとは言わないが、俺の知らない情報を彼女は持っていたからね。それを知りたくて、夜伽と称して毎晩呼んでいたのさ」

「話せない女と、どうやってやりとりするんだよ」

「こうするの」

俺の手のひらにキリコは指でいくつも線を描いた。ん…指でなぞられた跡を頭の中でたどると…

〈昨日のお前はエロかった〉だと!目を剥いて引っ掻こうとする俺を容易く腕の中にしまって、キリコはくすくす笑う。

「な?すぐに知りたいことが分かるだろ?お前も俺に教えてよ」

「…まだスッキリしねえ。結局同じ布団で寝てたってことだろ」

「お前なかなか独占欲が強いな。知らなかったぞ」

「昨日散々言ったろ!気持ち悪いんだよ!」

むくれる俺の頬をキリコの低い声が撫でる。

「彼女がゆっくり眠れるのはこの部屋しかなかった。いつも布団に倒れ込むようにして寝ていたよ。布団は彼女が使って、俺は広縁で毛布をかぶってた。信じてくれるといいんだけど」

そのままキリコは俺の唇を奪った。また脈絡もなくと憤る間に流されてしまう。俺、チョロすぎないか?それにしても朝イチから濃いキスは堪える。思考を奪われ、小さな電流が身体を巡る。キリコの背に腕を伸ばした時、障子の向こうから声がした。

「〈八枚〉様、お清めの時間でございます」

素早くキスを切り上げて、キリコは体を起こす。

「今行くよ」

大穴が開いた障子からは、中の様子が丸見えだろう。こいつ、また見せつけるためにやったな。意地悪く口角を上げたキリコは俺の頭をわしわしと撫で、乱れた浴衣を適当に整えると部屋から出て行った。

その後、布団を上げに来た女に汚れたシーツを見られるのが、心底嫌だった。どんな罰ゲームだよ。広縁で新聞を読むふりをしながら、気が気じゃなかった。

そこからちょろっと朝飯食って、庭で束の間の独り遊びってわけだ。

ポチャンと池に石を投げ込めば「おやめ下さい」と後ろから岡本君に注意される。ちぇっ、耕太と遊んでた方が一万倍良かった。

ぼんやりしてたら後ろが騒がしい。

「お帰りだ」

「おお、間違いない」

社の中からどんどん人が出てくる。みんな一様に満面の笑顔。手を振る奴もいる。

何か来るのかと振り向けば、裏山の方から神輿のようなものを担いだ一団がやってくる。

神輿と言っても几帳を四方に張ったような作りだ。五色の領巾がたなびいて、錫杖が光る。

担ぎ手が歌う独特の節がある掛け声が、神輿から聞こえてくる。

社の連中も同じ歌を声を合わせて歌い出す。十重二十重の喜びの歌。

俺だけを取り残した非現実的な空間ができあがり、その中をゆったりとなめらかに神輿は進む。

やがて一団は社の前に到着した。

社の連中とは違う真っ白な法被を着た男達が、仰々しく几帳を外す。大きな歓声が上がった。

現れたのは見事な錦の打掛を来た女。幾人もの御付きと思しき男女を引き連れている。異様なのは女が冠を被っていること。冠というのが適当かは分からないが、言ってみれば行灯に似ている構造だ。四角い枠を頭上に戴いて、その枠から長くて白い布が垂れ下がり、顔も髪も全て隠している。よく見りゃ手足も全く露出していない。

後藤が出てきて、地面に頭が着くほど蹲った。それに合わせて周りの連中も同じように平伏した。俺もガタイのいい岡本君に頭を押さえつけられた。

「お帰りなさいませ。大師様」

「お帰りなさいませ」

後藤を始めとした斉唱に、大師様とやらは鷹揚に頷いた。

「〈六枚〉様も〈四枚〉様もご無事のご帰還、安堵いたしておりまする」

錦の打掛の後ろにひと組の男女が立っている。こいつら二人ともアルビノだ!

「耕太は元気…?」

「はい。日々お清めに励んでおられます」

殆ど白に近いグレーの髪の優男が〈六枚〉、耕太の名前を聞いて露骨に顔を顰めた金髪の女が〈四枚〉。あいつらが後藤が言っていた他のコーダってわけか。鱗が生えた奴がこんなにいるのかよ。

広い庭に後藤の声が冴え渡る。

「喜ばしきことを先ず奏上いたします。〈七枚〉様が〈八枚〉様に御転身なさいました」

どよめく一行。

「良き哉」

大師様の声は壮齢の女のようだった。恐縮してますます縮こまる面々の中で、俺だけぽつんと顔を上げている状況になった。変なものを見るようなコーダの連中と目が合っちまった。いけねえ。

大師様とやらは椅子型の輿に乗り換えて、社の中に入っていく。続けてぞろぞろ引き上げる人の波に紛れてトンズラしようかとも思ったが、耕太と虹色の鱗が頭をよぎり、のろのろと一緒に引き上げた。

大師某と会うのは初めてだが、いきなり着物を剥がれるとは思わなかったな。

もう少し丁寧にして欲しかった。

明るい日がさす広間の真ん中で、俺は全裸で立たされていた。

大師と呼ばれる打掛の女は無遠慮に俺の体を扇で指して、鱗を確認している。

昨晩着物を脱がなかった俺、グッジョブ。背中に引っ掻き傷作ってたら、格好がつかない所だった。

「確かに八枚。真物である」

「ははっ」

時代劇のように答える白い法被の男たち。後藤はここには居ない。教団の幹部連中からは下に見られているということか。ヤクザに頼りながら、ヤクザを見下す。強かだ。

「この短期間で〈八枚〉になられるとは、素晴らしいお体でございますな」

「さすがは肌も髪も白に近いお方」

全裸で男どもに笑われるのは、少し不快だな。仕事柄培ったポーカーフェイスは崩さないけれど。

ぱちん、と扇が鳴ると、男たちは口をつぐんだ。

「白に近いほどカガシロ様に寵愛を受けるのだ。解っておろう。この者は、きっと更に虹蛇に近付く。〈十〉になったら奥の院に連れて行く。丁重に扱え」

男たちが一層畏まり、俺は退出を許された。

いろいろと重要そうなワードを聞いたが、残念ながら俺は日本の信仰に明るくない。BJも詳しく無さそうだけど、俺よりは知っているはずだ。今夜のうちに聞きたいが、その前に猿芝居打ったりBJの機嫌とったり、手間がかかるのが問題だ。

まだまだ依頼人には会えそうにないが、ひとつ前進した。そう思うことにしよう。

こんなことなら先にBJに全身を見せておくべきだったかもな。先に誰に見せたとか後で説明するの面倒だなとか思いつつ、秋の陽が差す廊下に出ると、何やら揉めている。またBJかと冷や汗が出る。覗きに行こう。

「あのですね!ワタシはこの温泉で体を治したんですよ!それで温泉に祀られておられる神様のおかげだと、信仰に胸を打たれた者でしてね!」

大きなリュックを背負った中年男性が社の入り口で喚いている。中肉中背、団子鼻に丸眼鏡。饅頭みたいな顔の男だな。

「ぜひともここのお社で、修行に励み!カガシロ様の御為にこの身を捧げたく思いましてね!」

入信希望者ね。ここに滞在する間に何人か見た。こんなに元気のいいのは初めてかなあ。饅頭があんまり勢いよく入り口に募るので、法被の男に突き飛ばされてしまう。地面に尻餅をついた饅頭のリュックから本が飛び出した。

遠くてよく見えなかったが、確かに『日本』『信仰』の二言が見えた。こいつは知識を持つ者かも知れない。

「どいてくれるかな。その人と話がしてみたい」

ウォール・オブ・デス直前のようにザッと人垣が割れる。さすが〈八枚〉の効力は使える。大きな沓脱石に法被の一人が、さっと白い鼻緒の草履を出してくれた。至れり尽くせり。礼を言うと法被は頬を染めて引っ込んだ。深く考えないことにしよう。俺は尻もちをついたままの饅頭頭を立たせ、彼を落ち着かせるように玉砂利の上をゆっくり歩き、庭の端へ向かった。

チェックのネルシャツを着た饅頭頭はひたすら入信したい理由を喋り続け、3ループ目に入ったところで止まった。ひどく興奮しているな。理由は至極真っ当なものだが、神云々より教団に対して熱い感情を向けている。法被の連中のような信仰…ではない?

怪訝な俺に気が付いたのか「また来ますッ」と元気に告げて、饅頭頭は去って行った。会話らしい会話もできなかったな。ああ言う手合いは言いたいことを言いたいだけなので、放っておいたのがよろしくなかったか。また来るのを信じよう。次はもっと積極的にアプローチを試みるか。

戻ってくると後藤が不審な目を饅頭頭の後ろ姿に向けている。

「少し思い込みが激しい人のようだ。信仰心なのか、出歯亀なのか、今日は分からなかったな」

「明日も来ると?」

「そのつもりらしいよ。また来たら、俺を呼んでくれ。ああいう手合いをあしらうのには慣れてるんだ。本当に入信したいと分かったら、あなたに預けるよ」

「そんな!〈八枚〉様のお手をこれ以上煩わせるわけには…!」

焦った後藤の声が尖る。理由は二つ。こいつは本心から信仰を持っている。そのため〈八枚〉になった俺をとりわけ特別扱いして、崇め始めていること。そして同じくらいに体に目に見える変化が出ている俺を、外部の人間と関わらせたくないと思っていること。

背中から日本刀で切りつけられる最悪の出会いを俺としたのを忘れている。あれは俺の準備不足もあったし、事故みたいなもんだから構わないが。何にせよ後藤はこの教団の存続が一番大事なのだ。

「構わないよ。後藤さん、俺の頼みだ。聞いてくれるか」

後藤が頷くしかないのを分かってそう告げた。

布団の中で燃えた後のピロートークが情報交換とは実に色気がないが、こっちの方が本題なんだから仕方がない。

「カガシロ様と言ったのか!」

潜めた声でBJが食いついた。彼から小林という男の話を聞いて、耕太と母親が教団にいる経緯、温泉と鱗の関連性が繋がった。そこに加わるヤクザ者の存在。

「奴らは金が湧くところにしかいない。温泉街は寂れてる。儲けが出るのは湯治場だと思う」

「なるほど。湯治もただじゃない。長期滞在となれば、それなりに費用は嵩む。ましてや治療によく効く温泉となれば、料金高めでも文句は言わんだろうな」

枕元に手を伸ばし、ガムを口に入れる。ニコチンを含んだ禁煙補助のガムだ。BJも欲しいというので一粒口に入れてやる。

「こんな菓子じゃなくてヤニが吸いたい。タバコ取り上げられたんだ」

「俺も。来て当日に没収」

黙ってクチャクチャとガムを噛む。

「なあ、お前の鱗、見せろよ」

来たな。ガムをぺってして、掛け布団を捲った。

「お好きなだけどうぞ。先に大師様に散々見られたけど、減るもんじゃないし、いいでしょ」

「うん」

生返事。つまんないな。あっという間に医者の目になって、俺の身体を診だす。

「一番初めの鱗はどれだ」

「背中の左肩」

BJは撫でたり、弾いたり、鱗の質感を確かめたかと思えば、次は真新しくできた八枚目の鱗を診る。そして何かを確かめるように背中の二枚目と腕の五枚目を診た。やがてフームと唸ると仮説を立てた。

「この鱗は成長する」

「恐ろしいこと言うなよ」

「じゃあ経年劣化」

それも嫌だ。最近BJは俺を年齢でイジってくる。

BJの説明によれば、俺に生えた鱗は古いものと新しいものを比較すると、質感と色が違うらしい。

洗面台の鏡の前に立ち、BJが鏡台を持ち上げて、反射で見せてくれた一枚目は、俺の目から見ても八枚目との違いがわかった。背中の鱗なんて自分じゃ見えない。

更に一枚目の鱗と正常な皮膚が癒着した境目に至っては、鱗の菱形の辺に沿って虹色の薄い膜が広がり出しているそうだ。鱗の隣の皮膚も鱗になってくってことかよ。弱ったな。

この鱗は教団の連中に効果が絶大なので、まだまだ利用できる。だが、どうもこの様子では長期戦になりそうだし、鱗が増えすぎないうちになんとかケリをつけたい。

「お清め」

何かを閃いた様子。ぱっと顔を上げれば少年のような瞳のBJ。

「コーダの連中は皆『お清め』をするんだろう?一日二回、温泉に浸かるって」

黙って肯定する。必ず強要されていた行為だ。試しに一度さぼったら、監視が増えて、ますます身動きが取れなくなった時期があった。

「お清めは鱗を増やしたり、育てたりするための行為なんだ!やはり温泉成分が鱗を作っているに違いない。この鱗はおそらくタンパク質と金属を…うぐ」

BJの頭を布団の中に押し込んだ。

人の気配がする。見張りの交代だろうか。

違う。見張りと何か話している…?

真新しい障子を睨む。BJも雰囲気を感じ取ったのか身構えている。

五分ほどそのまま膠着状態にあっただろうか。まだ人の気配は消えない。だが見張りの存在も感じる。見張りは俺達のボディーガードの役目も担っているから、相手は内部で見張りの上の立場の人間…か。

ここは敢えて出ない方がいい。

「もう寝よう」

「えっ、でも、外が」

「あちらに任せてみよう。力尽くなら、こんなに時間はかけない。話してどうにかなる相手なら、今じゃなくていい」

「そうか?俺は歯にものが挟まったような感覚なんだが」

「いちいち反応してたら、キリないぜ。まだお前は教団の表層にしか触れていないんだから」

BJの目を掌で覆う。こんなことしてもコイツには無意味だってわかっているんだけどな。

俺が見たものが教団の深層部であることを願いたいが、どうもまだ違うルートの暗渠があるようだ。秘匿されたものを全てサーチライトのように暴きだすBJの怖さを、教団の連中は知るはずがない。

どう立ち回れば、俺の仕事を成せるか。選択する時が近付いてきている。

虹の彼方に(一)

キリジャバナー2

※2021/12/4改訂

さて、この光景をどう呼称しよう。

事故現場…妥当だが些か足りない。

地獄……実に陳腐だ。

立ち登る煙の柱の先に、赤や黄の粉塵にまみれた黒いコートがいる。

ここが終着点なんだな。

全部ぶち壊したお前が最後に壊す場所。

やっぱりそこでもお前はメスを翳すのだろう。

俺は観客にはならない。

早く帰って、一服タバコを吸いたい。

参った。

カーラジオの音が大きかったせいか、タイヤが変な音を立ててるのに全く気が付かなかった。ガタガタ車が揺れ出して、慌てて路肩に停めたときにはもう。

バーストしたタイヤがアスファルトにべったり伸びている。懐中電灯の明かりに照らされる光景にボーゼン。

辺りを見渡せば、月のない夜空をのっぺりと黒い山が覆っている。

ドッチラケ状態で呆けていた頭が、じわじわ不安で覚醒する。愛車が無性に憎たらしく見えて、コスモスポーツのバンパーを蹴っ飛ばした。ああ、安月給とは言えセコハンで買うんじゃなかった。

こんな山奥でどうすればいいのだろう。スペアタイヤなんて積んでない。確かなのは今走っていた道の名前くらいだ。国道3桁、通称酷道。地図を見たところ、この酷道を通ればかなりショートカットできると気付き、親友の実家がある隣県の市街地を目指してハンドルを切ったのだ。

走っても走っても周りは暗い森。ヘッドライトが照らす世界だけが全て。信号も対向車もなければ次第に車の速度は上がる。先行が撥ねた小動物の血だまりを踏みつけて、尚も私はアクセルを緩めなかった。

少しはしゃぎすぎていたのだと思う。結果がこれだ。蹴っ飛ばしてごめんと動かなくなった愛車にくっついて暖を取っていたが、最新鋭のロータリーエンジンは冷えていくばかり。まだ日の出には遠く、くたびれた安物のダッフルコートは私を温めてはくれない。やがて冬の気温に歯の根が合わなくなってきた。

ええい、男だろ。覚悟を決めろ!

意を決して私は立ち上がり、助手席にあった地図を必要なページだけ破いてポッケに詰め、懐中電灯を手に歩き出した。体を動かしていれば、少なくとも凍えることはないだろう。それに市街地に近付いていけるのは間違いがないのだから。

私の足音が規則正しく耳に届く。白い息を吐いて呼吸をするたびに、視界の端に黒い靄がふくらんで見えるのは紛れもなく錯覚だ。当り前だ。こんな山奥で遭難しかかっているのだから、神経が正常だと言い切れない。

しかしだ、何とも非科学的なことに、いつの間にか黒い靄は輪郭を伴い、まるで人影のように見えるのだ。いよいよおかしくなってきたらしい。

道の脇の茂み。街灯すらない電柱の影。

正体不明の影は、常に私の視界の端にいて、私に見つかると隠れるようにいなくなる。

さすがに不気味でたまらなくなってきた。

しかし私は大学院に籍を置く研究者。どんなときでも冷静でいなくては。私が思うに実験結果を解析するときに一番邪魔なのは、そう、思い込みだ。

道端のススキに似た枯れ草が風に揺れる。こんなものでさえ、思い込めば恐ろしく見える。干瓢が幽霊に見えた男が昔話にあったくらいだ。くだらない。だから私が見ているものも、恐れているものも、全て思い込みなのだ。

そこまで思考していると、にわかに懐中電灯の明かりが消えた。ああ、電池切れだ!

ずうっと車内に放っておいた懐中電灯だ。いつ電池交換したかなんて覚えてない。悪いことはどうして重なるのだろう。

再び夜闇に取り残された私はしばらく動けなかった。さっきの黒い影が迫ってくるようで、動きたくとも動けない。幽霊なんかじゃない。あれは思い込み。弱虫な私の思い込み。

さっきまで懐中電灯の明かりを見つめていた目は、今となっては周囲の闇を余計に濃く見せる。何かを囁くようにざわざわと揺れる梢の音が不快だった。誰かがそばで見つめているような幻覚を否定した。

そのまま闇に目が慣れるまで待っても、誰も襲ってなど来なかったので、私はまた歩き出した。

ざり、ざり

そういえば親友が現代日本でも山賊が出るなんて冗談を言ってたけれど、本当なのかしら。だったらポッケにある、森永の新商品、小枝チョコレートを渡せば見逃してもらえないだろうか。同じ人間なのだから、あわよくば町に案内してくれるかも。対価はそうだな、もったいないけど右腕にあるオメガの時計なら言うことを聞いてくれるに違いない。

恐怖を紛らわせるために、くだらない事を延々と考えていたのに。

ざり、ざり、

後ろから足音が近付いてくる幻聴。

震えながら振り向いた。

暗闇だけ。

確かに足音が付いてきたと感じたのだが、誰もいない。そう言えば後をついてくるだけの妖怪がいるとか与太話にあった。いいや、まさか。

ざり、ざり、ざり

確かに足音がした。人間に決まってる。

じっと目を凝らすと、わずかな星明りの下、ゆっくりと何かが近付いてくる。

ぶわっと肌が粟立ち、背筋が固まる。

畳一枚分の距離まで来て足音の主は立ち止まった。顔はもちろん真っ暗で見えやしない。もし、もしもだ。人間じゃなかったら。空唾を飲み込んだ。

「あんた、こんなとこで何しとる」

年寄りの声だった。僅かな警戒感はあるが、こちらを心配してくれているような声音。

人間だ!ああ、人間でよかった。

堰を切ったように車がバーストして止まってしまったことを話すと、年寄りは唸った。ここから徒歩で町へ降りるには半日かけても難しいらしい。打ちのめされた私に、せめてもとバス停がある側道へ出る方角を教えてくれた。

それだけでもありがたく、私は勢いよく頭を下げた。すると懐中電灯の明かりが再び輝いた。電池の接触不良でも起こしていたのかもしれない。それが今の振動でうまく戻ったのか。

これは良い兆候だと、懐中電灯を回して辺りを照らしてみていると、初めて声をかけてくれた年寄りの顔が見えた。

男とも女とも取れない風貌の年寄りは、明らかに喜色を満面に溢れさせていた。

そのままずずいと私の顔の真ん前に進み出ると、手をやおら掴んだ。驚くほど力強く。

「あんた、色が白いね」

何のことだか分からず、聞き返す

「色とは、どういうことです?」

「肌の色だよ。真っ白だ。こんなに色白の人は滅多に見ない」

嬉しくない言葉だ。ずっと研究室に閉じこもりなので、私は日に焼けることがない。そもそも太陽は天敵なのだ。日焼けをすると肌が爛れて酷い目に遭う。

日中は研究室で実験に励み、外出するにしても今日のように夜中がほとんど。体つきも貧相で「うらなり君」と私を戯れに呼んだ親友とはしばらく口をきかなかったほど、青白い顔色を指摘されるのは嫌だった。

「懐中電灯に照らされているから、そう見えるだけですよ」

さすがに嫌悪感を覚えて逃げるように身を捩った。そうだ。大体どうしてこんな深夜の山道に年寄りがいたのだろう。非常に不自然なことなのに気が付かなかった。だが年寄りは私の腕を離さない。

「さあさ、ここで出会えたのも何かの縁だ。よかったら家に泊まりなさい」

遠慮すると言う間も与えず年寄りはまくし立てる。

「なあに少し歩けば着くさ。天気予報が言ってたよ。アメダスの数値が高いんだそうだ。このままでは雨が降るに違いない」

この星空で雨なんか降るものか。年寄りの腕を振りほどこうとすると、懐中電灯が地面に落ちた。アスファルトが照らされて、浮かび上がる影に私は絶句した。

足、足、足。

いつの間にか私はぐるりと人の影に囲まれていたのだ。

「…さ、山賊……あ…え、と…」

ひどい混乱の中、命乞いと交渉をしようとした私の口からは情けない掠れ声しか出ず、打って変わって周りの影たちは朗らかに笑った。

「おう、身ぐるみ剥がすぞ!…なーんちゃって、俺らは山賊なんかじゃないよ」

「そうそう。あんたみたいにこの道で車がダメになっちゃう奴って意外と多くてなあ、警察沙汰になる前に保護してるんだ」

「一晩泊めて、朝になってから安全に帰ってもらった方が、ウチの集落としてもありがたいんだわ」

「電話もあるよ。家に来て、一度親御さんにでも連絡しておいたらどうだい」

次々に明かりが増えて、私の周りには幾人もの男衆が立っていると分かった。皆そろいの法被を着ている。きっと地元の青年団なのかもしれない。笑ってかけられる声に、先程迄の年寄りへの不快感も忘れ、私はあっという間に心身の緊張がほどけていくのを感じていた。

なんということだろう。高度成長期で人の心は冷え切ったと言われて久しいのに、こんな山の奥でも人の親切はあるものなのか。遭難しかかって孤独だと思い込んでいた私が愚かだった。

感謝の思いが溢れ、私は彼らの集落へ共に向かったのだった。

『次は、かなしろ、賀名代温泉前です。次はかなしろ、賀名代温泉前です』

ブレーキ音を響かせて、レトロなバスが停まる。温泉街の雰囲気に合わせているわけではない。本当に古いだけなのだ。未だに木の板でできた床を踏みしめ、俺はバスから降りる。バス停の周りはかなり前に閉じたキャバレーや飲食店の空き店舗ばかりで、人影もなく寂れた雰囲気が印象に残った。

バス停からしばらく歩くと目的の診療所が見えた。窓が叩き割られ、外壁には大きな穴がいくつもあいている。まるで廃墟のような建物だ。

かろうじて読める【かなしろ診療所】と書かれたドアを叩くとがなり声。開いてるから勝手に入れとさ。ずんずん中に入っていくと、外見は酷いが中は小綺麗に整えてあるのがわかった。突き当たりの部屋へ入ると、もじゃもじゃと黒い髭を蓄えたプロレスラー体型の男が白衣を着て、どっかりと机の前に座っていた。男は、追い詰められた人間特有の目つきをして、その中に爛々と闘志をみなぎらせている。何に抗っているのか興味が湧く。

「あんたがブラック・ジャックか。俺は小林だ。よく来てくれた」

大きな手がそばの椅子を示すので、そこに座る。

「恩師の縁がある人から便りがあれば動くさ。それに送ってくれたカルテが面白かったからな。象皮病ではないのか?」

「いきなり本題か。まあ、俺もその方がいい。皮膚病に違いはないが、俺は新種の症例だと考えている」

さっぱり豪胆な物言いだ。こんな男は嫌いじゃない。酔っ払ってなければだが。

「ほう。詳しく聞きたいが、あんた酒臭いな。酔っ払いがいうことなんざ半分も信用しかねるぜ」

サイドデスクの上にはウイスキーの瓶が並んでいる。ふん、と俺の言葉を鼻で笑い、新たに酒をグラスに並々と注いで煽る。いつか飲もうと棚にしまっていた特上のウイスキーだとさ。俺にもグラスをよこすので、舐めるふりをした。さあ共犯になってやったぜ。どんな症例か聞かせろよ。

真っ赤になった虚ろな目つきで小林は呻く。

「あんたには信じてもらわなくちゃならねえ。与太話と思うかもしれねえが、俺が話すことは全部事実だ。あいつらにとっちゃ違うんだろうが…事実なんだ」

賀名代温泉は皮膚病の治療に良いとされ、湯治場として名高い。特に効果があると言われるのは、賀名代温泉の総湯から一キロほど離れた場所にある、多くの噴気孔が蒸気をあげる一帯だった。

そこではバラックのような小さな一軒家が貸し出され、家に備え付けられた温泉で湯治をしていく方式だ。醜く病に侵された皮膚を他人の目を気にすることなく温泉の蒸気や湯に浸せると、利用者の希望が後をたたないと言う。

湯治には時間がかかる。短くて一週間。長いと数ヶ月にも及ぶ。利用者が長期間湯治場に滞在するとなると、食品や生活必需品を調達しなくてはならない。そのために総湯近くの温泉街を利用するので、今や一昔前の観光地となり果てた寂れた町の経済は、湯治場のおかげで成り立っていた。

そんな温泉街の端に建つかなしろ診療所を、つい最近小林は心不全で急逝した老医師の代わりに任された。経緯は単純にして強引で、賀名代温泉街に実家があり、そこで幼少期を過ごしていた小林に白羽の矢が立っただけである。

小林にしては突然の申し出に驚くしかなかった。実家ははとうに処分していて随分と長く故郷の街を離れていたし、すでに隣の市で大きな医院に勤務をしていた。もう温泉地は自分には縁がない土地だと何度も断った。何故か温泉街に戻るのを忌避する自分自身すら感じていた。しかし温泉街からの使いは頑として聞き入れず、毎日のように勤務先に訪れて同じ文句を繰り返し、結局地元の頼みだと拝み倒されたのだ。

しぶしぶながら町医者のポストに就いて一週間、薬品棚の中身すら把握できていない小林のもとを一組の母子が訪れた。母子は賀名代温泉の湯治場で養生していると言う。

母の話によると、湯治を始めてすぐは良い具合だったそうだ。湯に浸かるたびに子のアトピーが劇的に改善していった。かゆみを訴えることなく熟睡する我が子を見て、母は安堵の涙を流し、心から喜んだ。

湯治を始めてしばらく経ち、母は改善する体調を実感するが、一方で温泉から出たくても出られない人がいると風のうわさに聞く。温泉から一日も離れられない皮膚とは、一体どんなに酷い姿なのか恐ろしくて考えたくもない。うわさを頭から振り払い、今日の湯につかるため、母は幼い子の服を脱がせた。

「今日も温泉に入って、アトピーを治そうね」

「うん。お母さんのおなかの傷も治そう」

「ありがとう、やさしいね。元気になって来てお母さんうれしい……ん?」

袖から抜けた我が子の腕にきらりと光るものがくっついている。おやつに与えた菓子箱のセロハンかしら。何の気は無しに見つめた。

きらきらと光をはじき虹色に見える。これは何だろう。そっと母は手を伸ばす。

触れればつるりとなめらかで、しかしてプラスチックのように固い。

シールかと思って剝がそうとすると、子は声を上げて痛がった。まるで皮膚の一部のように、虹色のそれはぴったりと貼りついていた。いや、生えていると表現した方が正しい。先程剥がそうとした場所から、うっすらと血が滲んでいるのだ。

我が子の柔い二の腕に、透きとおって光るのは、鱗。

そう。鱗と言って差支えがない物体だった。

子の体中を改めると、腿に、肩に、背に、尻に、それぞれ虹色の鱗が一枚ずつ生えている。母も着物を脱ぎ捨てて自らの体を調べるが、どうやら鱗はないらしい。どうして我が子だけに、こんな鱗が生えてしまったのか。

そして血相を変えて飛び込んだのが、この【かなしろ診療所】だ。

錯乱した様子の母をなだめて子の診察を始め、虹色の鱗を見た瞬間、小林はどこかでこれを見た気がすると、雷に打たれたかの如く直感した。

記憶の中から治療につながる情報を漁る小林の耳に、呼び鈴を鳴らす音が響く。窓から覗くと、診療所の入り口に、そろいの法被を着た男衆が詰めている。先頭に立つ老爺が小林を呼ぶ。

「小林先生、ここへ湯治場の母子が来ましたでしょう。話がありましてな。出てきてもらえませんか」

ああ、商店街の組合長か。返事をして、何事かと表へ出ると、有無を言わさず地面に打ち据えられた。法被の男が四人がかりで小林を押さえつけている。

「すみませんな。あなたは体格が良いので、乱暴な手段に出るしかなかったのです。なに、すぐに済みますからね。ごめんなさいね」

ひょいひょいと老爺が診療所の中に入り、程なくして母子が意識を失った状態で男衆に担がれて行く。小林は口に布を詰められて声が出せない。

「すみませんな。こんな予定ではなかったのですよ。あの母親、見かけによらず過激でしてな…いえ、こちらの話」

町の商業組合長を務める老爺は鼻先の鼈甲眼鏡を押さえ、そのまま小林を一瞥もせず話し続ける。

「ひとつお約束いたしましょう。今の事を忘れるなら慰謝料をお支払いします。こちらにも事前に説明が足りなかった落ち度がありますから。でも深入りするなら町から去ってもらいます。あなたは町でひとりのお医者さん。いなくなると困る人も…いるでしょうな。その人たちのためにも、賢明な判断を願いますよ。ごめんなさいね」

去っていく男たちを小林は見送ることしかできなかった。連れられて行く母子に、思い入れがあるわけでなし。脅しをかけられてまで追いすがる理由も見つからない。関わるなと言うのならそれで…

しかし小林の脳裏に、ある少女の影が映る。

少女に生えた虹色の鱗。

あれを確かに幼い自分は見たのだ。

小林はこの温泉街で生まれ育った。町に点在する温泉宿に勤める大人が多いこの町で、いっしょに遊べる子どもは限られる。仲居を母に持つ子は放課後も忙しかったり、他所からやってきて馴染めない感じの子が多く、遊び仲間にはなってくれなかった。そんな地元の子どもだけの小さな友達グループの中で、虹色の鱗が生えてきた子がいたのである。

新雪の色をした肌に花びらのようにくっついていた、小さな鱗。

肌と同じく色素の薄い色の髪をかきわけて、彼女は首筋に生える鱗をそっと見せてくれたのだった。ほころびかけた梅のつぼみのように色づいた頬の上、長いまつ毛が震えていた。

「神様が私を気に入ったしるしなんだって」

神様?町にあるやたら大きくて古い神社の神様か?そんな話聞いたことがなかった。

「お尻にも生えてるんだけど、見る?」

「み、み、見ねえよ、バーカ!!」

いたずらに笑う彼女の事をきっと好きだったのだと思う。

その後彼女が父親の仕事の都合で転校したと聞いたときは世界が真っ暗になった。だけど、その後町に流れた噂の方がひどかった。彼女の父親が性的虐待を加えていたというのだ。

まことしやかに囁かれる噂を聞くたびに、あったこともない彼女の父親を小林は憎んだ。だからその父親が、町の下手の川で溺れ死んでいたと聞いたとき「ざまあみろ」としか思わなかった。

本当はそこで違和感を持つべきだったのだ。小さな町の限定されたコミュニティの中で繰り返される噂は、思い込みと言うリアリティを纏う。

雪解け初めの晴れた朝。小林は祖母の言いつけで山菜を採りに向かった。この時期は滝のある裏山へ行けばフキノトウが見つかるかもしれない。何年も遊び場にしてきた裏山をすいすい上り、五つ瀧と呼ばれる場所までやって来た。ここは大小合わせて五つの滝が階段状に連なり、特に一番奥の大滝は滝壺が深く、浮かんでこられなくなるため絶対に遊んではいけないと教え込まれている。だから普段大滝まで行く町の人間はいない。

しかし、どうしてなのか、今の小林にもわからないが、あの日は大滝に行ってみようと思ったのだ。

そこで、彼は見た。

白い人影が大滝の上に立っている。

彼女だった。転校したと聞かされていた彼女だ。あの肌、あの髪の色。間違えるものか。

ふらりと倒れるように彼女は大滝に身を投げた。ひどく長い一瞬の中で彼女と目があったのは錯覚なんかじゃない。真っ白な着物を着た彼女は真っ逆さまに滝壺に吸い込まれ、浮かび上がってくることはなかった。

小林は何を見たのか理解できないまま、名残雪の中にしばし立ち尽くした。滝の音だけがいつまでも轟いていた。

やがてぼんやりと山を下り、納屋で作業をしていた祖母にぽつぽつ一部始終を話した。家族に話して安心したかったのかもしれない。話を聞き終わると祖母は小林の肩を抱き、彼の首筋に研がれた鎌を当てた。

「今日見たことは、誰にも言っちゃいけない。それはきっと神様の大切な儀式だ。もし言ったならば、お前をこの世に置いておけなくなる。カガシロ様の事は、誰も口にしちゃいけないんだ」

小林に言い含めるように、自分にも言い聞かせるように、祖母は優しい口調でありながら少しずつ首の皮膚を削る。

「お前はなんにも見なかった。いいね」

ゆっくりとした冷たい鎌の刃の感触が、恐ろしくてたまらなかった。

やっと小林が頷くと、祖母は白い紙で作ったひものようなものを酒に浸し、それを飲み込むように強いた。そして自分も同じように白い紙ひもを飲み込んだ。

「これでお払いができた。さて、畑を手伝いな」

いつもどおりに戻った祖母の様子に戸惑いながら、小林はこれでいいんだと思い始めていた。

転校をしたはずの彼女がまだ町にいたことも、一緒に町を出たはずの父親が町の川で死んでいたことも、瀧で見たことも、虹色の鱗のことも、忘れた方が良いことなんだ。

そうして彼は記憶の蓋を閉じたのだった。

子どもの頃に全て忘れたと思っていたことが、診療所を訪れた母子によって呼び起こされた。

商業組合長に脅しをかけられた事実は一抹の不安を与えたが、小林は諦めなかった。医者としての信念が燃えたのだ。祖母の言葉に頷いた気弱な少年は、医学という武器を得て逞しい男に成長していた。

母子が攫われてから、こっそりと虹色の鱗について調べることにした。疾病としての鱗の姿を洗い出せば、あの日滝壺に沈んだ彼女の真相に繋がる気がしたからだ。あの日祖母が口にした「カガシロ様」についても。

変化はすぐに起きた。町の人間が小林を避けるようになったのだ。町に一軒だけのスーパーに買い物に行くと、問答無用で追い出され食糧すら売ってもらえない。小林が商店街に赴くと、あからさまにどの店もシャッターを下ろすのだ。

あの鼈甲眼鏡の商業組合長が関わっていることは明白だった。

だが医者の視点から、あの鱗をオカルトの域に留めることはできない。虹色の鱗をこの目で見たのは二回しかないが、鱗の正体について彼なりに仮説を立てた。

ひょっとしたらあの母子のように湯治に来た人間の中に、鱗が生えた者がいるかもしれない。それをもう一度見られたら、仮説を決定付けられるに違いない。確信した小林はこっそりと湯治場へ忍び込んだ。

そして自らの仮説を決定付けるものを、いや、それ以上のものを、とうとう小林は見てしまったのだ。

「町の連中の嫌がらせはどんどん酷くなって、診療所がこんな有様なのもあいつらのせいだ。あいつらが大事にして隠そうとしているものを見ちまったからなあ」

小林は再びグラスを煽る。

「あんなもん見たら、まず正気じゃいられねえ。しかし俺も一端の医者として、オカルトを信じるようじゃお終いだ。実際俺はあの鱗を、いくつも見た。そして確信したんだ。あれは間違いなく疾病だ。それに罹患した人間は想像より多くいる」

空になったグラスを見つめて小林は呟く。

「俺はそれを何とかして救いたい。滝壺に沈んだあの子のためにも」

小林の独白を聞いて、俺は無言だった。初めの方はまだ話に整合性があったが、最後の鱗を見た話になるころには小林は完全に酔っており、分かることは少なかった。疾病に関する情報なんて雲をつかむような話しかない。こいつカルテの情報盛ったな。

「それで、あんたは村八分にされて、不貞腐れて昼間っから飲んでるってわけかい」

小林は机の上を顎でしゃくった。机に置かれた紙を手に取ると、新聞や雑誌の文字の切り抜きが貼り付けられて、文章になっているようだ。おやまあ、なんともレトロな脅迫文だこと。

「『町から出ていかなければ殺す』とは物騒だねえ」

「出ていく気なんかねえよ。俺はあの鱗の事を突き止めるんだ。今飲んでるのは、その決起集会だ!」

拳を机に叩きつける。集会って俺も入ってるのか?

「俺は医者だ!治せる患者がいるのなら…グ、ウ…」

拳を振るって叫んだ瞬間、小林は胸を押さえてうずくまる。

「おい!どうした!痛むのか!」

脂汗を滴らせて言葉を絞り出している。

「心臓が……」

「わかった。横になれ。処置をする」

重くて大きい体を床に横たわらせ、襟元を緩めた。その間にも小林はうわごとのように話し続ける。

「俺じゃ解らねえことが多すぎるんだ…頼む、力を貸してくれ…まともに、治療が受けられないまま、人が死ぬのは…俺には我慢ができん……」

それだけ言うと小林の意識が無くなった。心肺蘇生を試みるが、効果が出ない。鞄から即座にメスを取り出し、心臓まで切開して直接マッサージを行った。かつて馮二斉にも行った方法だ。幼子に処置した時はうまくいったのだ。絶対に救って見せる。

しかし、小林の心拍は戻らなかった。

救急車を見送り、警察官に事情を話す。友引警部の知り合いの知り合いがいて、話が早かった。本人が殴りこんでくるのは時間の問題かもしれないが、これだけ辺鄙な田舎町だ。簡単には来られないだろう。鑑識の声に耳を澄ますと、どうもウイスキーにジギタリスが入っていたらしい。病院の棚からごっそりなくなっていたそうだ。

俺も手術で使うが、あれは猛毒だ。摂取しすぎると心筋に影響が出る。そこまで考えると、憎たらしい銀髪の黒い眼帯が思い浮かんだので、面白くない気分が一層強くなってしまった。

小林の最後の言葉を思い出して、更に気分が重くなる。

俺だってアンタの気持ちが解らねえほど落ちちゃいねえよ。

寂れた田舎道を通るバスは、この時間になるともうない。仕方がない宿を取ろうと旅館に入れば、やたらにじろじろ見られた。小林を蘇生するときについた血まみれのシャツが見えないように、コートのボタンは留めてあるのだけど、どこからかはみ出しているのかな。とうとう女将から声をかけられた。

「失礼ですが、お客様はかなしろ診療所にお立ち寄りになりましたか?」

「ああ、さっきまでいたよ。小林先生が倒れてね、私が救命処置をしたのだが、問題でも」

ヒッと上がる悲鳴。おいおいそんなに何を怯えてるってんだ。

「申し訳ございませんが、お泊めするわけにはいきません」

「なんだって⁉」

「聞けばお客様は小林先生の体を切り刻んでいたとか。そんな方を泊めるなんて!どうして警察に逮捕されないのか不思議でございます!」

「バカを言うな。あれはれっきとした医療行為だ!警察だって納得した!」

「そんな方法は聞いたことがございません!」

きりきりと眉を吊り上げて叫ぶ女将と睨み合い、俺がとったのがどんな意味を持つ治療だったのか口を酸っぱくして説明したのだが、全く埒が明かない。「わかる気がない」という鉄壁のガードを崩すのは難しいと思い知った。

それに今さっき起こったことを、もう宿サイドが把握してるって異常な速さじゃないか?この町のネットワークってすげえなあ。ザ・田舎町って具合だ。

そんな訳で宿を放り出された俺は、町の奥にそびえる神社を目指している。古今東西行き倒れになりかけた巡礼者に一宿の施しをしてくれるのは寺と決まっている。まあ、俺は巡礼者じゃねえし、向かってんのも寺じゃねえけど。神社も似たようなもんだろ。軒先で寝てても追い出されることはないだろうさ。

日が落ちかけたころ、たどり着いた神社は、さびれた温泉街に不釣り合いなほど大きかった。【賀名代大社】と刻まれた木版は古く、閉ざされた拝殿は建てられた時代に思いを馳せるほど苔むしていた。

見たこともないくらいに長くて細いしめ縄だけが新しい。いや、どうも拝殿の奥の社務所も最近建てられたかのようだ。まだまだ奥に新しい建物がある。興味のまま覗き込む俺の後ろで声がした。

「血の臭いがする」

反射的に身構えて振り返ると、年のころ7,8歳の男児が夕陽の中に立っていた。白い着物を纏い、髪がオレンジ色に燃えるように光っている。どこから来たんだ、こいつ。

「おい坊主。お前さん、血の臭いがどんなものかわかるのかい」

確かに俺のシャツには血液がついているが、今はコートの下にしっかり隠している。なによりもこんな年端も行かない子どもが、血液の臭いを認識できる訳がない。ガキはチョコレートの匂いでも嗅いでいれば良いんだ。

俺の問いに対して子どもは頷き、ずんずんと近付いてくる。日陰に入った瞬間わかった。この坊主、アルビノの傾向がある。メラニン色素の少ない目が俺を映す。

「そんな臭いをして、神社に入っちゃいけないんだぞ。来い。ぼくがきれいにしてやる」

小さな手が俺の腕を掴み、駆け出していく。

「お、おい」

駆ける足の速さに、勢いよく俺の体はバランスを崩し、足をもつれさせながらついていく羽目になった。

男児は拝殿の裏手に回り込むと、真新しい木戸を叩いて中から開けさせた。木戸の中から顔を出した門番の男は俺を見るなり、男児に詰め寄った。「いけません」「お叱りを受けますよ」などなど俺を中に入れたくないのは丸わかりの反応だったが、卑屈なまでに丁寧な物言いの男に対して男児の態度は年齢に似つかわしくないほど実に尊大であった。

「ぼくが連れて来たんだ。コーダの言うことが聞けないのか」

ぴしゃりと言い放つと、口ごもる門番を押しのけて木戸の中へ入っていく。こいつはおもしろいことになったと俺も後に続いた。

「風呂に入って血を流せ。血の付いた服もよこせ」

檜風呂に押し込まれた俺にコーダと名乗る男児が命令する。

「へいへい。仰せの通りに。だがこのコートだけはダメだ」

商売道具が詰まった黒いコートを脱いで脇に抱えると、血の付いた白いシャツがあらわになる。血の色を前にしてコーダは目つきを変えた。

「本当に血がついてる…はは、分かったんだ。ぼくはちゃんと血の臭いが分かったんだ……」

何度も鼻を触って、何かをやり遂げたように呟く。プラモデルを作り上げたようなものではなく、もっと追い詰められた暗い表情だ。訳アリなのは重々承知だが、目の前でガキがそんなツラをしているのは面白くない。

「まるで今までは臭いが分からなかったような言い草だな」

「うるさいな。お前には関係ない!」

「おいおい、勝手に連れ込んでおいて、関係がないとはつれないねえ。ボクチャン」

「うるさい!ぼくは血を確かめたかっただけなんだ!」

そうそう。ガキはガキらしく癇癪でも起こせばいいんだよ。ぽかぽかと殴りかかって来たので、とっ捕まえて高い高いしてやった。ギャン泣き。何事かと駆け付けた連中に一喝。

「遊びの時間だ。失せやがれ!」

「ぼくはコーダだ!みんなあっち行け!」

俺とコーダの怒鳴り声が重なり、集まった連中は慌てて扉を閉めた。まあ後ろで聞き耳立ててんだろうけど、そんなにおイタはしないから心配すんな。それにしてもコーダはここで随分と強い権力を持っているようだな。こんなガキの言うことを聞くなんて、どんな集団なんだか。俺に抱えられたまま、えぐえぐと鼻水を啜り上げてコーダはわめく。

「ぼくは〈五枚〉なんだぞ。偉いんだぞ。お前なんか、あとでぐちゃぐちゃにしてやるんだからな」

真っ赤になった泣き顔は年相応。きれいな顔してんだから、笑ってた方がいい。床に下ろして、ぐりぐりと頭をなでてやると、俺をぽかんと見上げた。俺はそのままシャツを脱ぎ、上半身に走る縫合痕の全てをさらけ出す。

「〈五枚〉がどうした。なんのことか知らねえが、俺の体には五つじゃ足りねえほど傷がある。数じゃ負けねえ。文句あるか」

ひきつったコーダへ、とどめとばかりに腕の傷を見せつけた。

「ついでにここの皮は他人の皮膚を貼り付けてる。触ってみろ」

ぐいと小さな手を引き寄せ、傷に触れさせようとした時、ガキは火がついたように泣き喚いた。漏らすほど泣いた。過呼吸を起こしかけるほど泣いた。ここが風呂場で本当に良かった。

コーダの尻を湯で洗い、タオルで拭こうとした時、きらりと光るものが目に入った。

これがそうなのか。小林、お前が追っていたものの欠片はこれなんだな。

コーダの尻には、虹色の鱗が一枚生えていた。

血のついたシャツは捨てることにして、ジャケットを素肌に羽織った。どっかの任侠映画みたいで笑える。無闇に傷を見せる気は無いので、ベストも着て、きっちりボタンを掛けた。うん。首元だけ見える感じかな。風呂場の鏡で確認する。

風呂場から出ると、なぜだかコーダは俺の手を掴んで離さない。

黒漆の狭い廊下の左右から、俺達を挟むように法被を着た連中がひしめいている。明らかに俺を見てコソコソ話したり、しかめっ面作ってみたり。言わねえけどさ、俺は自分からココに来てねえからな。ちらりと視線をやるとコーダは下くちびるをきゅっと噛んでいる。あら、やな予感?

コーダの視線の先、囁き合う法被どもを押しのけて、怖い顔した中間管理職めいた男が前に進み出る。短く刈り込まれた頭髪に鋭い目つき。年のころは50かそこら、中年らしさを微塵も感じさせない鍛えられた体躯をしているのが身のこなしからわかる。ああ、めんどくせえの出たなあ。

「どのような理由で、この男を社に入れたのか説明してください」

静かに怒りを押さえた声音にコーダの手が緊張したのがわかった。

「ぼくは〈五枚〉だ」

「そうですね」

中間管理職が着ている藍色の法被には『後藤』と名が入っている。このおっさんの名前は後藤サンでいいようだ。見れば周りの連中も同じような法被を着ている。名前が入っているのは便利だな。侵入者を見つけやすい。俺がきょろきょろしているうちに、厳つい目をした後藤はコーダを問い詰めていく。

「外の者を社に入れることは、掟で禁じられています」

「こいつはぼくが拾った。だからぼくのものだ」

「犬猫とは違います。大師様がご不在だから良いようなものの、本来なら貴方様もこの男も、今すぐ高い所に行かなくてはならないほど大変なことをしたのですよ」

俺と漆喰の白壁の間に隠れるようにしてコーダは押し黙った。高い所ってなんだ?いや、今はどうでもいいか。

「大体、他のコーダの皆様に知られたら…」

太い眉を曇らせて、ため息交じりに後藤が呟く。コーダってこのガキの名前じゃないのか。他にもこんな権力振りかざせるような奴が、この集団にいるって事かよ。ろくでもねえなと格天井を見上げていると、ガキがさも名案を思い付いたかのように叫んだ。

「そうだ!〈七枚〉の兄さまに預けるよ!それなら後藤も安心だよね」

たしなめる言葉を繰り返す後藤の前で、ガキは小さな頭をぴょこぴょこさせて〈七枚〉と繰り返す。枚数増えたぞ。多分その数は…ガキの尻を見て見当を付けた。こいつの全身を見たわけじゃないから確定ではないが、おそらく〈七枚〉の奴も鱗を持っている可能性が高い。接触するメリットはある。兄さまって呼ばれるくらいだから、年嵩は間違いなくこのガキよりは上だ。もしかしたら、きちんと話ができる相手かもしれない。こいつは込み入った話をするには幼すぎる。

ちらっとガキの方を見ると、バチコンと目が合った。その目がにやっと曲がる前に俺達は走り出していた。

「後藤!〈七枚〉の兄さまに聞いてくるね!」

慌てふためく大人を尻目に、風の如く折り返し階段を駆け上り、勢いそのままに良く磨かれた漆の廊下を滑る。

建物の三階部分の東の角部屋。

そこに繋がる大きな襖をガキは勢いよく開け放った。

「〈七枚〉の兄さま!ぼく、お願いがあるんだ!」

部屋に入ると同時に、全速力で駆けてきた俺たちの足はもつれ、二人とも畳の上に転がった。

逆さまになった視界に、大きな窓に面した広縁に置かれた椅子が映る。

その椅子に腰かけていた人物がゆっくりと顔を向けると、白い着物の肩に銀の髪が滑り落ちていく。やがてくっきり見えるのは、なんてこった!

左目を覆う黒い眼帯!

「嘘だろ!てめえ、どうしてここにいやがる!!」

ひっくり返ったまま叫ぶ俺の前に音もなく近付くと、嫌味なほど優雅な所作であいつは腰を下ろした。あああ、ムカつくうううう!

「さあてな。俺も実際よくわからんのだ。何でだと思う?」

ここでてめえを殴らなかった俺を褒めろ。称えろ。謝罪しろ!

本当に、どうしてこんなところにいるんだよ、キリコ。

怒りのままに飛び起きる。その反動でガキがころころと畳の上を転げていってしまった。キリコはさっとガキを立たせると、広縁の机を指さした。

「耕太。俺はこいつと話がしたいから、そこの最中でも食べて待っていてくれるかい」

わかったと素直に頷いて、ガキは広縁に走っていった。コーダだの耕太だの紛らわしい!キリコは廊下に顔を出して、何かを話している。多分後藤だろう。ざわついていた空気が静まったので、連中が引き下がったのがわかった。

「さて、と」

キリコは茶筒を開け、急須を取り出す。

「お忙しいところ、スミマセンねえ。〈七枚〉の兄さま」

返事もせずに奴はさらさらと目分量で茶葉を量る。ピンと針のように細く尖った良い茶葉だ。そのまま食えそう。ずいっと手を伸ばして、ひとつまみ。口に含むと実に爽やか。腐った気持ちがちったあ晴れるってもんよ。

「相変わらずお前の行動は分からないな。ブラック・ジャック」

「本題に入れよ」

「いや?俺はお前に聞きたいことは特にない」

「はああ!?話がしたいって今さっきそこのガキに言っただろうが!!」

視界の隅で最中を抱えたガキが、びくっと震えた。

「すまない、耕太。この男は喧しいんだ。気にしないでくれ」

「怖いけど…ぼくは大丈夫。待ってるね」

キリコにはひたすら従順でかわいそうなボクを演じるガキ…いかん、切れる血管無くなるわ。

気持ちを切り替えて、この賀名代温泉に訪れてから起こったことを話すことにした。…した、が、キリコの視線が廊下に注がれたままなのに気が付いた。監視されている。このまま小林の事を話すのは得策ではない。

「俺は知り合いの紹介で、この町の医者を尋ねてきたんだ。その医者に会うには会えた。しかし彼は急に倒れてしまってな。心肺蘇生を試みたが、助からなかった。」

キリコの視線は動かない。

「帰ろうにもバスがないし、宿泊する当てもなくてな。神社の軒先でも借りて野宿しようかと思っていたところに、この子に会ったんだ」

「ふうん」

キリコは茶を淹れる。今日の出来事を簡略化した言葉にしてみれば、たったこれだけのことだったのか。茶を待つ時間にも満たないとは、とてもとても言い切れない情報量が溢れてるんだがな。ああ、言いてえ。湯のみを勧めながら、俺の気持ちは分かっているとキリコは唇の端で笑った。そうなるとため息をついて茶を啜るしかなかった。

「耕太。この男は神社にいたのかい?」

キリコの言葉に耕太と言う名のガキは頷いた。

「そうだよ。ぼーっと立っててさ、それなのに血の臭いをさせてるから気になって。ねえ、兄さま!ぼく、血の臭いがわかったんだよ!」

「耕太、それはお前の思い込みだって言っているだろうに」

「だって、みんなコーダの方々は血の臭いが分かるっていうんだ。ぼくだけ分からないなんておかしいって。だからね、ぼく」

たしなめるキリコに耕太は食い下がる。そうか。ひそひそ話を聞いちゃったってヤツか。ガキのくせに大人相手にあんな偉そうにしてるんだ。相手してる奴もボヤきたくなるわな。ガキだから嫌味の区別もつかんのだろう。

「俺も遠距離の血の臭いは嗅ぎとれん。気にするな」

「兄さま…」

「おい、こいつは兄さまなんて年齢じゃねえぞ。お父さんでもキツイかもしれん」

俺の眉間に盆が刺さる。にこやかにアンダースロー決めるんじゃねえ!悶絶する俺を意に介さず、キリコは耕太と話し続ける。耕太は耕太で、風呂場でギャン泣きしたことは伏せて、ぬけぬけとキリコにお願いを始めた。

「ぼく、こいつが傍にいてくれたら良いのになあって思う。兄さまからも言ってよ。やかましくて面白いし、こいつの傷がもっと見たいんだ。体の上の方は見せてくれたけど、きっと足もすごいんだろうなあ」

誰がやかましくて面白いだ。大体お前、俺の傷見て漏らしただろうが。否定しようと顔を上げると、絶対零度の風が微笑むキリコの方から吹いている。

「お前、また脱いだんだな」

いかん。キリコは俺が患者の前で服を脱ぐのを、最近良しとしなくなっている。原因は俺にあるので文句は言えんのだが、俺は俺のしたいようにする。それだけだ。

耕太はキリコの袖にすりすりして甘えている。こいつこんなに子どもに慕われる人格者だったか?なんだか共通の絆のようなものを感じる。やはり〈五枚〉〈七枚〉に関係するのだろうか。

キリコは廊下に向かって後藤を呼んだ。まもなく後藤がやって来て、座敷の入り口に控えた。

「後藤さん、彼はブラック・ジャック。モグリの医者だ。俺の責任下で彼を保護するよ。行く当てがないそうだから」

「しかし掟があります。外部の者を社に入れるのは、いくら〈七枚〉様のお言葉でも承諾しかねます」

後藤は譲らない。外部に知られちゃならないことがあるってか。

「そうだね。でも貴方たちはずっと前から、その掟を十分に守ってきた。彼一人紛れ込んだだけで、何か変わると思うかね」

「前例がありません。大師様がご不在の今、受け入れるわけには…」

「じゃあ、こうしよう。後藤さん、あなたが俺につけた刀傷。彼はそれを治療するために来た…という筋書ではどうかな」

後藤の顔色が変わる。

「もちろん言い方は変えるよ。商売柄怪我は付き物だから、古傷が痛むと言うことにして。俺としても適当な治療しかしてもらってない現状に不満なんだ。ここはひとつ譲歩してくれないかな」

黙りこくった後藤を見て、キリコは耕太を呼び寄せる。

「この男、ブラック・ジャックって言うんだけど、昼間はこいつを好きにしていいよ」

「本当!ありがとう、兄さま!」

「だけど夜は俺のところに返すんだよ。昼間もお前のお清めがあるときは、俺が預かるから」

こうして何も口を挟む暇がないほどに、この社での俺の処遇は決まったのだった。

その日は耕太と一緒に飯を食い、戻るとキリコの部屋の続きの間に布団が敷かれていた。ここで寝ろってことなんだろう。めんどくせえなあ。襖一枚隔てた向こうに奴がいるのだ。夜中なら監視も緩むはず、さっき話せなかったことを言ってしまいたい。

漏れ出るわずかな灯を頼りに、キリコの部屋へと続く襖の隙間から中を伺う。

中の光景に思わず息を呑んだ。

女がいた。

行燈の暗い明りに照らされて、長い黒髪の女がキリコの横に座っている。三十路前の女優並みの美人だ。

美人はキリコに手を取られ、時折微笑んでいる。キリコの顔は見えないが、彼女の微笑みに合わせて何やら頷いている。

距離があるから声が聞こえねえ。なにを話しているんだ。

隙間から見つめ続ける俺の存在など知らない素振りで、布団の上に座り二人だけの世界を作っている。

やがて女はキリコの肩にもたれかかった。灯が消える。

俺は弾かれたように襖から離れた。

薄い襖の向こうで起こっていることを知りたくなくて、俺は布団を頭までかぶり、耳を塞いで目を固く閉じた。

朝がいつ来るのかもわからないのに、俺はずっとそのままの姿勢でいた。