My fair villainous lady③

第3章

昨晩、沙織とクルーズ船の中を見て回った帰り道、ひとりの女の子と出会った。

つやつやのミディアムボブをピンクベージュに染めた子。ふわふわのワンピースから伸びる手も脚も細くて、まるで妖精みたいだった。

モデルの仕事をしている時だって、ここまでスタイルのいい子に出会ったことはなかったから、気になって見つめてしまった。その子は俺の視線に気がついたのか、ひらひら手を振ってくれた。

ガツガツしてる奴みたいに見えたら嫌だな。それでもちょっと喋ってみてもいいかなって、さりげなく彼女に近付いた。

間近で彼女の目を見た瞬間、俺は全身にビリビリ”何か”が走った。こんな感覚、沙織と一緒の時も、他の子と一緒の時も感じたことがない。

大きな瞳はキラキラしてて、吸い込まれそう。長いまつ毛はエクステだろうけど、お化粧の上手な子はキライじゃない。だってちゃんとキレイになろうってがんばってる証拠だろう?ほんのり赤いリップはぷるんとしたゼリーみたい。

かわいい。こんなかわいい子、会ったことない…

「ね、ねえ…君の名前、教えてくれない?」

のどがカラカラだ。心臓がドキドキ止まらない。

「あたし、苺愛といいます」

「いちあ…さん」

「苺愛でいいです。アナタは?」

「高薄健斗。俺も健斗でいいよ」

「わかりました。よろしくです。け…健斗」

はにかむように俺を上目遣いで見て、ちょっと噛んじゃってるけど名前を呼んでくれた。それがたまらなくカワイイ。

「あたし一人でこのクルーズに来ることになっちゃって、知ってる人が誰もいないし、不安だったんです。もしよかったらクルーズの間仲良くしてくれますか?」

「もちろん。途中でツアーに参加するつもりなんだ。苺愛もどう?」

「うれしいっ!いいんですか?行きたいです!」

輝くような彼女の笑顔。俺が守らなきゃって思ったんだ。

わかった。

これ、運命だ。

罫線

「さっさと小切手書いてくれねえか」

鈴井から解放された後、俺は久遠寺彰を探しまくった。

冗談じゃねえ。「何か起きたとき、頼りにしてる」?!そんな台詞はセキュリティスタッフかお巡りさんに言え。キリコの仕事の尻ぬぐいなんか真っ平御免。明日のバミューダで俺は絶対に下船する。

つーわけで、やっと見つけた彰は7階ラウンジのデッキチェアにサングラスかけてのんびり座ってたから、非常にイラっと来て、ギリギリ睨みつけながら金の請求をした。

「早いところ金を払ってほしい」

「え…っと、何の話だ…?」

「ふざけんな!手術費だって言ってるだろうが!15億さっさと払えよ!」

「やめないか。周りの人が見ている」

おっとりがついにボケたのかと思いきや、急な塩対応。どうした、やっぱり会社の経営上手く行ってないのか。

彰は少しはだけたシャツのボタンを留めながら、いつものおっとり顔を取り戻した。

「手術費は払う。安心してくれ。ただここは海の上だろう?すぐに換金できるわけでもないし、焦らないでいいんじゃないかな」

焦るんだよ、こっちは!バッチバチに嫌な予感センサーが仕事してんだ。ケツまくって逃げる準備してんだよ!とはいえ、さっきの塩モードになられては話が進まない。

「じゃあせめて念書を書いてくれ。サインがあればいい」

「どうしてもかい?」

「どうしても」

「信用ないなあ」

乙女のようにいじいじとデッキチェアのブランケットを触るおっさんに、どう信用度を高めろというのだろうか。再び罵声が飛び出てきそうな口を噤んでいたら、目の前に可憐な花が一輪。

「お父様、明日バミューダのタクシーツアーに行かないかって、健斗さんからお誘いを受けたんです。行ってきてもよろしいでしょうか…」

控えめに彰に声をかけたのは沙織だ。

「沙織…健斗君と二人きりは、さすがにまだ良いと言えないな」

「いいえ、健斗さんと同じ生徒会のお友達が一緒なんです。昨日健斗さんが船で知り合った女性もいらっしゃるそうで、新しいお友達が増えるかもしれません!」

「友達が増えるのは良いことだね。気をつけて行っておいで」

「はい。行ってまいります」

屈託のない笑顔を見せて、沙織は太陽のまぶしいプールサイドへ向かう。彼女の視線の先で手を振っているのは、きっと健斗だろう。

俺は令嬢と呼べる人間を数人知ってはいるけれど、沙織は群を抜いて別格。振る舞いから言葉遣いから、全部雲上人。本人は素でやってるから、嫌味なところがない。眉目秀麗、頭脳明晰な完全無欠の社長令嬢だ。世間知らずでお人好しなのも含めてだけど、俺が言うことじゃないな。

沙織の後姿を目で追っている僅かな隙に、彰は消えてしまっていた。

逃げられた。

コーヒーバー「スター・ギター」で一服。相変わらず空いてる。

ああやだ。なんもかんも嫌な方向に向かってる気がする。金はもらえない、タダ働きさせられる、そんな状況最悪以外の何物でもない。

「ジャック、疲れてる?」

エディがコーヒーを淹れてくれた。ココナッツクッキー付きで。

「嫌な予感がして、バタバタやってるだけさ。コーヒー、馳走になるぜ」

「予感ね。そういうのは口にしない方が良いって言うよね」

苦笑いのエディの横から、赤い大地の肌をした黒い瞳の女性が顔を出した。

「また私の話をするの?エディ、マネジメントを頼んだ覚えはないわよ」

「話の流れだよ。君があの話をまたしたいなら止めないさ。何度でも言いたいってわめいてたから、ちょこっと僕の脳細胞の隅っこに残ってたってだけ」

「…そう言いたくもなる私の気持ちは分かるでしょ。さっきは銀髪の紳士が尋ねて来たから答えただけ。お客様でも誰彼言うつもりはないの」

「詳しく聞こうじゃないか」

会話に割り込んだ俺の顔を見て戸惑う二人。そうだろうな。自分でもわかる。俺今すっげえイラついた顔してるって。

こういう場には潤滑剤が必要。

「腹減ったな。なんか片手で食えるもんある?えーと、そちらの女性」

「マリベルと言います。サンドイッチかピンチョスはいかがです?」

「いいな、ピンチョスを頼むよ。マリベル」

彼女の手に大盛りのチップ。眼を剥くマリベル。黒曜石の瞳が零れそう。やがて彼女はにっこりと極上の微笑を見せ、大きなヒップを揺らして厨房へ入っていく。その後姿を確認してから、エディにも小銭を握らせる。

「てめえ、いい性格してんな。気に入ったぜ。おもしろい話があったら教えてくれよ」

「ジャックはきっとアクティビティより、人と関わる方が性に合ってる気がしたから。期待に応えられてうれしいよ」

いたずらが成功したように笑うエディの頭を軽く小突いて、俺の驕りで二人分のコーヒーを淹れてくれるように頼んだ。

そうして幾らか出費をして俺が聞き出した話は、9割がた愚痴だった。

「つまり、マリベル、お前さんは死んだ平野の恋人だったってことでいいのか?」

「違うわ。向こうが勝手に恋人だって言ってるだけ。他のクルーにも粉かけてるの知ってるもの。恋人って言っておけば、彼には都合のいいことしかないし」

一度ディナーを一緒に食べただけで恋人認定されるなんて冗談じゃないとマリベルは鼻を鳴らす。だけど案外まんざらでもなさそう。

「ショーマは女を財布だと思ってる」

「ピアノと顔はいいけど、性格最悪」

「酒、ピアノ、酒の生活リズム」

「スパ担当のグアダルーペはショーマに460ドル取られて、図書ラウンジ司書のクララは700ドルあげた。私は890ドルも取られて、もうそれが戻ってこないなんて悪夢」

これでもかと悪口を聞かされたが、おかげで平野星満の人柄が分かってきた。あいつ、根っからのヒモだ。ピアノを弾きつつ女の金で酒飲んで、たまにやさしくしてやれば相手が転ぶコツを知ってる。実際マリベルは文句たれながら目が潤んでるし、同じような女は船の中にまだいるんだろう。

「あんな奴だったし、いつか船から突き飛ばされて死んじゃうんじゃないかって予感があったの。グアダルーペとそんな話、何度もしてたし。でも、でも、本当に死んじゃうとは思わないじゃない」

自己憐憫でいっぱいなマリベルを、エディは心底引いた眼で見ている。

「この話は、銀髪野郎に話したのか?」

俺が聞きたいのは、そこ。

「ええ、全部」

つまらんな。もう一押しほしい。

「マリベル、もう少し濃くて熱いコーヒーが飲みたい。俺のオーダーに応えられたら、そのコーヒーには5倍のチップを渡すけど、できるか?」

「…濃くて、熱いのね…他にオーダーは?お客様」

女豹を思わせる強い視線。いいね、お前さんもおもしろい。黒曜石の瞳をガッチリ捉えて、わざといやらしく笑う。

「身体的特徴…が知りたいかな」

カウンターのエスプレッソマシンがスチームを吹き出し、マリベルが真剣に俺のためのコーヒーを淹れている。作業をしながらマリベルは必死に答えを見つけようと考えているだろう。それだけチップはクルーにとって魅力なのだ。

エディと初日に話していて知ったのだが、彼らの月給は極めて低い。そのままの金額じゃ生活はとても成り立たないくらいに。だからクルー達は、お客のチップで生計を立てている。相場もまちまち、チップを渡す文化がない国のお客だっている。サービスが悪いだの言いがかりをつけられてチップがもらえない事だってある。もらえないリスクを限りなく少なくするように、常にベストな仕事を心がけているそうだ。

日本人でケチな俺はチップの重要性をイマイチわかってはいなかったが、働いているクルー達にとって、チップは死活問題だということはハッキリ理解した。

アッツアツの真っ黒なコーヒーが俺の前に出された。

ソーサーに手を添えて、マリベルは俺のオーダーに応える。

「ショーマは左でも右でも字が書けるわ。ピアニストだから当然だって言ってたけど」

弱い。俺はソーサーから手を離す。

「待って、待って。うなじ、そうよ、うなじにほくろがあるの。3つ並んだオリオンみたいにセクシーなほくろよ!」

「……お前さん、平野星満と1回ディナー食っただけなんだろう?」

マリベルはちっぽけなプライドと引き換えに、コーヒー5杯分のチップを手に入れた。

流麗なドレープの幕と大きなリボンで飾られたメインホール。

スカイブルーから紫、ピンクへとグラデーションを作る照明が、ドレスアップして集うゲストたちを染める。

クリスタルのシャンデリアが乱反射させた小さな光の粒たちは、きらりきらりとホール全体に散らばり、ワイングラスに留まったり、胸元の宝石を輝かせたり。

大きなガラス張りのエレベータータワーを背中に、船長の藤村が乾杯の声を上げた。

豪華客船「コンバーション」のウェルカムパーティの始まりだ。

俺はどうしても今夜中に久遠寺彰の言質が取りたくて、ドレスだのダークスーツの中だのに紛れて、彼を探している。もうひとつ豪華なタダ飯を食らうという重要な用事もあるけど。ビュッフェを回りながら会場をぐるりとしてみたが、どうしても見つからない。来ていないのか?

海老をもぐもぐしていたら、沙織を発見!彰は?側にいるはずだ。

彰の代わりに沙織の横にいたのは、ピンク色の髪をした少女だった。

なんだ…彰じゃないのか…

気分が曇った。どうしてピンクなんだ。あんな髪の色に染める意味あんのか。よく見りゃ他の連中も大概だった。ピンク頭の横にいる筋肉質の男は赤く毛を染めてるし、その前にいる小さい奴は藁半紙みたいな色の毛だ。眼鏡かけた奴は黒髪だけど、変な長さの前髪してるし…いけねえ、俺がそんなこと言えた立場じゃねえや。

沙織が言ってた「健斗と同じ生徒会のオトモダチ」ってのは、彼らの事みたいだ。

しばらくここで張ってたら彰が来るかもしれないな。待ち伏せがてらオトモダチグループを観察することにしよう。

グループの男3人は、フォーマルなパーティが初めてらしい。どぎまぎして緊張してる。貸衣装か知らないが、気慣れないスーツが尚更田舎くさく見えてしまう。沙織は彼らに話しかけたり、飲み物を勧めたり、場になじめるよう自然にエスコートしてる。さすが社長令嬢。堂々としてる。着ている服から違うもんな。今夜の沙織は真っ白な膝丈のドレスに淡い黄色のストールを着けてる。きちんとドレスを着こなして背筋を伸ばすさまは、もう女子高生には見えないくらい大人びて見えた。となりのピンク頭のドレスなんか眼に入らない。

さあ、沙織。早く彰を召喚してくれ。お前にかかってるんだ。俺がタダ働きの憂き目にあうが否かは、お前に___________

健斗が遅れてグループにやって来た。その時だ。

ピンク頭が沙織の背中を押したのだ。

床に倒れ込む沙織。手にしていたグラスが割れる。

男どもはぼんやりしていて動かない。あのアマ、死角でやりやがった。

ぽたぽたと血が滴るのを見て、駆け寄った。

「手を見せな。ガラスで切ったんだろう」

「……は」

ショックで受け答えもままならない沙織を、なかば無理矢理立たせて診る。薬指はパックリ切れていた。縫うほどではなかったのが幸いか。清潔な布で圧迫止血させている間、俺は一応聞いてみることにした。

「おい、そこのピンク色の頭したお嬢ちゃん。あんただよ」

ピンク頭は無表情。その後ろで健斗を含めた男どもが突っ立ってる。

「あんた、どうしてこの子の背中を押したんだ。怪我までさせるのはやりすぎだと思うぜ」

俺の指摘を最後まで聞かず、ピンク頭は火がついたように喚きだした。

「ひ、ひどい!あたし、そんなことしてません!どうしてそんなひどいこと言うんですか?!あたしたち今日初めて友達になったのに、わざとケンカさせたいんですか?!」

涙まで流してヒステリックに「ひどい」と繰り返す。いや、被害者はお前じゃないからな。論点のすり替え180度は男どもに刺さったらしく、ピンク頭に寄り添うようにして俺を睨んでくる。へえ、ひよっこどもにメンチ切られんのか。おもしれえ。

「沙織!来い!」

健斗が俺の背中をすり抜けて、沙織の手を取り人混みの向こうへ駆けていく。あーあ。患者がいなけりゃ医者は用なし。ガキどもはまだ俺を睨んでいるが、落とし前を着けさせることさえできん奴に関わる時間があほくさい。

そのままパーティ会場を出てしまったのだが、しまったな。もっとメシ食っとくべきだった。

「よお、ヒーロー。カッコよかったぜ」

プールサイドデッキでタバコを吸っていると、キリコがやって来た。

「だろ?どうせいい物笑いの種ができたとか思ってるくせに、よく言うぜ」

「意外とハマってた。今度白いコートでやってみたらどう?今度こそ『ごめんなさい、私がやりました』って言うかもよ?」

言うわけねえよ。あの手のガキが。

「まあね、言ったところで、そのころのお前には手遅れだって予想しかつかないな。お前多分、今の手加減が限界なんじゃないの。小僧どもを裏街道の連中と同じように扱ってやるなよ」

キリコは半分呆れながら、俺にチキンレッグが乗った皿を勧める。わかってると言う代わりに、チキンレッグを鷲掴みにして齧り付いた。

「ガキの世界はガキなりに地獄なのさ。あいつらで何とかすればいい。手術費の取りたてさえうまくいけば、俺はすぐにこの船を降りるぜ。関わってる時間なんかないね」

デッキの欄干に背を預けチキンを頬張る俺の横で、キリコは真っ黒の海原を見つめたまま。

「俺はアレサンドロの事を、はっきりさせてから船を降りるよ」

黙りこくった時間が過ぎる。

波音、船のエンジン音、遠くに聞こえる陽気な音楽。

しょうがねえから聞いてみた。

「お前さん、かなり怒ってたりする?」

キリコの銀髪が強い海風に乱される。夜闇の中で、そこだけ白く燃えてるみたいだった。

「…くくっ」

一度漏れ出た声は止まらない。キリコは海に向かって、大きく笑い声を立てた。

滅多にない音量で笑った。それこそトラックにはねられた母子の訃報を聞いたときみたいに。

ひとしきり笑って、キリコは海を見つめたまま。

「怒ってる。すごく怒ってるよ。困ったな」

ひとっつも困っていない、覚悟が決まりきった人間の語調で言ったのだった。

My fair villainous lady②

第2章

最下層のインサイド客室。

船のエンジンの音は響くし、上の階よりも揺れる。なにより外の景色を見る窓がない。当然だ。船の内側にある格安の部屋なのだから。

このクルーズ船「コンバーション」は他の船がそうであるように、外の海原を見渡せる窓がついた部屋を船体の左右に備えている。そして窓がない代わりに、料金を低く設定した部屋が「川」の字の真ん中の画のように並んでいる。その真ん中の部分をインサイド客室と呼ぶそうだ。そのままの意味だが、俺は初めて知った。

このエリアはカジュアル層がクルーズを楽しむために利用することが多く、金持ちとはお世辞にも言い難い印象のゲストが集う。だからアウトロー感満載の闇医者の俺が陣取っても、違和感は少なかっただろう。

俺は金額だけで部屋を決めたことを後悔はしていなかったが、満足はしていなかった。アイボリーの壁と金のラインは高級感があって、同系色のやわらかいベッドはスプリングの感触も文句なし、テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。しかしだ。俺には決して譲れない物が、その部屋には欠けていた。バスタブがないのである。

バスルームを覗いて、その事実を知った俺は黙ってタバコに火をつけて、これから10日も続く航海の日々に思いを馳せた。

それに比べりゃ、薄い壁を突き抜ける、部屋の外で走り回る子どもの声、隣の部屋から聞こえる大きなくしゃみだって、大したことない。

ああ、上手くいかんな。やけっぱちでコートを椅子に投げつけ、そのままベッドに倒れ込む。

金の支払いは不透明。おまけに死神野郎まで同じ船にいて、その依頼人にはシッカリ振られている。正直俺も車椅子の彼にまで手が回るような状況じゃないから仕方がない。ふーっと煙を吐き出せば、寝タバコの灰がシーツに落ちそうになり、もぞもぞと起き上がる。

頭を切り替えよう。これだけ大きな船だ。探せばせめて大浴場くらいあるかもしれない。

もうとっくに日は暮れたが、船の中を探検に出かけようじゃないか。

金のフレームで装飾された案内板のトップ画面を見ると「コンバーション」には実に多くの施設があることがわかる。

豪華なダイニングルーム、図書ラウンジ、フィットネスコーナー、ロッククライミングやバスケットコート、オープンカフェにカジノ。一々挙げてたらキリがないくらいだ。それらをさくさく横目で見ていく。おお、シガレットルームがある!後で来ようっと。しかし風呂場が見つからない。

船内をうろうろしてたら小腹が空いた。客の少ないコーヒーバーがあったので、カウンターに座り注文。入り口にはオオハシのマスコットが並び、オレンジとダークグリーンを基調にした南国風のコーヒーバーの看板には「スター・ギター」と書かれていた。

「今日の豆はコロンビアですよ」

「いいな。いくらだ?」

「コーヒーは無料です。他にもクッキーやシリアルなど軽いものなら、無料でお出しできますよ」

なんだって!無料って言ったか!

人好きのする笑顔をしてコーヒーとクッキーを出してくれたスタッフに、喜びの意を込めてチップを弾む。こんなにくれるのかとびっくりしている。いいんだ。俺がこの船に乗って一番目に起きた良いことなんだから受け取ってくれ。お互いににこにこして名乗り合う。真っ白なシャツにモスグリーンのベストを余裕を持たせて着こなした、チョコレートと同じ色の肌をした彼はエディと呼んでほしいと言った。本名はどこかの王族並みに長いらしい。

「なあ、エディ。風呂場探してんだけど、この船にある?」

「バスルームではなくて?」

「いいや。大きなバスタブがあって、のんびり湯に浸かれるところ」

「そうか。ジャックは日本人だから、お風呂にこだわりがあるんだね。うーん。大きなバスタブ…そうだ、デッキのプールサイドにジャグジーがあるよ。あれはどう?」

「やっぱりそっちになるのか…」

がっくりした俺にエディは申し訳なさそうにしたけれど、君のせいじゃない。

「バルコニーがあるクラスの部屋になると、バスタブがついてるらしいよ」

いいこと聞いた!久遠寺家の連中はきっとそういう部屋に泊まっていそうだ。あのお人好し一家の事だ。風呂くらい貸してくれるだろう。なんならクルーズの期間中、ずっと貸してもらおうか。

そこまで考えて、彼らの部屋番号を知らないことに気がついた。かまわん。船内アナウンス流して呼び出してやる。物騒な目つきでコンシェルジュデスクへ足を向けた俺の前を、若い二人がふわりと通り過ぎていく。

さわやかな笑みとともに、仲良く隣を歩く二人は、たしか沙織と…健斗だったっけ。

二人は当然俺の存在に気がつくはずもなく、ライトアップされたココナッツの木の植え込みが並ぶメインストリートを軽快なテンポで進んでいく。

ちらりと見ればお似合いの二人だが、沙織は生粋のお嬢様。隣に立つ男は相当プレッシャーがあるだろうと、興味本位から健斗を観察することにした。

細身の体に長い手足。フィギュアスケーターと似た体格をしている。こんな顔の俳優がいたかなと思うほど、いわゆるイケメン。外見だけだと健斗は十分に沙織とつり合いが取れるんじゃないだろうか。中身までは知らないが。

高校生の婚約者同士は手を伸ばせばつなげる距離で、お互いの顔を覗き込むようにして、くすくすと無邪気に笑いながら歩いていく。

それは幼馴染の延長のまま、将来までも選んでしまうようで、俺には少々危うく見えた。ちゃんと自分たちの事考えてるのかって。彼らは自分たちの10年後をどんなふうに想像しているんだろう。

まるで俺の人生にこれっぽっちも影響を与えない彼らから目が離せなかったのは、彼らが俺の知らない世界に生きているからだろう。

どうにもおセンチになっちまったので、一旦出直すことにした。部屋の冷蔵庫のビールを思い浮かべながらエレベーターのボタンを押す。モーター音と共にエレベーターが止まり、扉が開くと同時に足を踏み出すと、ごちんと何かにぶつかった。次にうめき声。

「鈴井さん、大丈夫ですか?鼻血が…」

「ああ、大丈夫です。大丈夫です」

足元にひっくり返っている眼鏡の男が鼻血を出している。さっき俺がぶつかったらしい。

「すまない。考え事をしていたんだ。すぐに止血するよ」

立ち上がるために差し出した俺の手を断り、鈴井と呼ばれた男は立ち上がる。

「いいです。私、船医なので、自分でできます」

「よくありません。せめて冷やしましょう。それから、お前は前を見て歩け。BJ」

名を呼ばれてぎょっとした。顔を上げれば、銀髪の隻眼に睨まれてる。

「このエリアに客室はないぞ。お前の部屋はもっと上だ」

深海の水圧を思わせる、有無を言わさぬキリコの雰囲気。攻めるべきが引くべきか。一瞬迷った隙にエレベーターに押し込まれ、俺はデッキタワーのてっぺんまで送られた。

翌朝、せめて飯くらい景色のいい所で食べようと、ビュッフェの最前列に飛び込んで、海側のテラス席をもぎ取った。

バリバリの和食派の俺には少し物足りないが、中華粥と油条にいくつか副菜を足した朝食は旨かった。デザートや果物も充実していて目を楽しませてくれる。だけど今朝は食べるのをやめといた。また今度のお楽しみって奴。クルーズはまだまだ続くのだ。

デッキに出れば真っ青な空に白い雲。さざめく波は朝日にきらめき、美しい。

パラソルの下に陣取り、船内新聞を広げる。別にこれから毎日あるらしいカルチャースクールやイベントに参加しようって気はないけど、どんな催しが予定されているのか知りたかった。なにせ久遠寺彰に会うためだけに、このクルージングに参加しているのだ。事前情報なんか集めてないし、クルーズの日程すら知らない。後先の事はひとまず置いておいて純粋な興味がむくむくと湧く。

今日は一日クルーズの予定。どこにも寄港せず、ひたすら広い海を往く。夜にはウェルカムパーティがメインホールで開かれる。他にはフラのステージがあったり、瞑想のコーチングがあったり、とにかくここが日常とかけ離れた特別な空間であることを感じさせる。

明日はバミューダに寄港するのか。バミューダトライアングルと呼ばれる一帯のイメージが強い土地だが、どんなところだろうか。原因不明のままいくつもの航空機や船舶を消失させてきた三角形の領域は、異次元のミステリアスな雰囲気が満ちる場所かな。空は曇って、雷なんか光っちゃって。

そこまで想像して急に萎えた。バカバカしい。小学生か。俺は自分の目で見たものは信じるが、非科学的なものは信じない。ただ青い血の異星人の存在だって、見たなら信じざるを得ないがね。

明日の日程が俄然気になったところで記事に目を落とすと、新聞の片隅に小さな訃報が乗っていた。

『当船のバンド「ピスタチオ・クイーン」のピアニスト、平野星満(ヒラノ・ショーマ)氏死亡。デッキから転落したものとみられる。事故の可能性』

ふうむ、と唸る。豪華客船の旅は長いものだと1年かけることだってある。旅の間に病や事故で亡くなる人間は当然いるだろう。平野何某には非常に不幸なことではあるが、もし「コンバーション」で急患が出たら儲けるチャンスかもな。金持ちが多そうだし。不謹慎な黒い思考が漏れていたのだろうか、俺のいるパラソルに入ってくる奴がいた。キリコだ。

クルーズの旅気分が一気にしぼむ。無言の抗議をするも、眼帯野郎には通じない。

「見せたいものがある。来てくれるか」

いつもの辛気臭い顔で、俺をエレベーターに載せ、昨晩と同じ階で降りた。鈴井って船医とぶつかったところだ。うす暗い廊下を進んでいくと、立派な医務室があり、キリコがそのドアをノックすると、中から鈴井が顔を出した。申し合わせたように二人とも無言で、俺を医務室の奥へ連れていく。

清潔なミントグリーンの壁の診察室を通り抜け、一番奥の部屋のカーテンを開けると、デスクの上に大きなバット。その中を覗き込んで、さっきまでの浮かれ気分が完全に消し飛んだ。

バットには、人間の腕が乗せられていた。

「この腕が見つかったのは、午前3時頃。整備士が見つけた」

腕は右腕。肩のあたりから指先までが残っている。

「ロープに絡まった状態で船尾から引きずられていたそうだ。腕以外の部分は魚に食われた可能性がある。歯形がいくつもついている」

腕の断面は海水につかっていたためか、魚にかじられたせいか、ふやけて襤褸切れのようだ。

「腕と同じロープに絡まっていたジャケットが、この船のピアニスト、平野氏のものだった事と平野氏が夕べから姿が見えない事を踏まえ、船長を中心にして捜査が行われた。捜査の結果、船はこの遺体が平野氏であると発表した」

腕には紫色の斑点がいくつも浮かんでいる。

「お前、この遺体をどう思う」

静けさが医務室を満たした。

「どうもこうも…薬班が出てる遺体だ。病人だったんだろうとしか言えない」

憶測は避けて、分かることだけを告げた。キリコは黙って目を閉じて、眉間に深い皺を作った。鈴井は額に手を当てて唸っている。

「俺は検死なんかしたこたァないから、冗談程度に聞いてくれりゃいい。例えば爪だ。平野って男はピアニストなんだろ。指先には気を遣うはずだ。だけど、どうしてこの腕の爪はこんなにぼろぼろに脆くなっているんだ。俺が診た中でこの爪に近いのは、病状が悪化して十分に栄養が取れなくなった患者の爪さ。海水に浸かっただけで、ここまで酷い状態になるものかね」

遺体の親指の爪が根元から割れているのを見て、不自然に思ったのだ。まだないかと腕を観察しだした俺を軽く制止して、キリコは鈴井と目で合図した。そしてキリコが語ったのは、昨日プールサイドで別れた後の出来事だった。

俺とプールサイドで話した車椅子の彼の名前はアレサンドロ。彼は指定難病にかかり、何年も闘病した末にキリコのもとを訪れた。キリコの診察を受けて契約を結んだ彼は、安楽死の条件に「海の上で旅立たせてほしい」と加え、自分が海に憧れていることを語った。その純粋な憧れを抱いて、アレサンドロはクルーズにやって来た。

青い空と広い海原に彼は大いに満足し、やってみたいと思ったことはなんでもやりたがった。キリコは彼の介助をしながら、船の中をまわり、希望をひとつひとつかなえていく。アレサンドロは自室のバルコニーに座り、今日が人生最良の日だと、落ちる夕陽をいつまでも眺めていたそうだ。

アレサンドロの容態が急変したのは20時ごろ。キリコが見守る中、彼は望み通り海の上で旅立った。

キリコは予め話を通してあった船医の鈴井に連絡を取り、船の遺体安置室へアレサンドロの亡骸が入ったボディバッグを運んだ。その時に俺とエレベーター前で鉢合わせたわけだ。医務室に戻ったキリコは鈴井の鼻を冷やし、鈴井はアレサンドロの死を合法なものであるという前提で書類を作る。そのまま静かに終わる案件だった。腕が見つかるまでは。

鈴井が太いフレームの黒ぶち眼鏡を直しながら口を開く。

「実は私たちは、この腕が平野氏のものではないと思っています。あなたがおっしゃる通り、この遺体には病人だという証拠が沢山ある。私は平野氏と親しく話したことはないけれど、少なくとも病人ではなかった。医務室に来たこともありませんでしたし」

じゃあ、誰の遺体だなんて、今更なのか。

「この腕は、俺の依頼人、アレサンドロのものだ。俺が記憶している薬班の位置が同じなんだよ。爪の形も、指の長さも。しかし、それらは俺の記憶以上の証拠にはならないんだ」

「おいおい、そんなもん、遺体安置室見ればすぐ分かるだろうが」

「もちろん遺体安置室はすぐに確認しました。遺体はありませんでしたよ。どこにもね」

「なんだよ、それ…死んだ人間が歩いたなんて言わないよな」

言うわけないだろうと鈴井は肩をすくめる。

「船長の藤村は私たちの見解を聞いてはくれました。ただここは海の上、寄港して十分な設備のある病院で調べないと、この腕がアレサンドロさんだと言い切れない」

「同時に平野でないとも言い切れないと?」

俺の問いかけに、鈴井は神妙に頷いた。

「じゃあ、平野って奴はどこに消えたんだよ?!あの腕が平野のものだって証明できる遺留物はジャケットしかないんだろ。それだけで海に落ちて死んだって決めるのは、厳しいんじゃないか」

「目撃情報があるんだ。平野が酷く酔っぱらった状態で、デッキの手すりに寄りかかっている姿を何人ものクルーが見ている。嘔吐していたのか海を覗き込む真似さえしていたそうだ」

キリコの眉間の皺が深くなる。目撃情報の多さと状況証拠の少なさ。どちらが勝つか密室状態の客船の中では、想像に難くなかった。俺まで表情が暗くなったのを察したのか、鈴井が焦った声で迫ってきた。

「貴方に来ていただいたのは、遺体の腕がアレサンドロさんだと確認したかったのが一つ。もうひとつはドクター・キリコの推薦があったからです」

「推薦だあ?!」

素っ頓狂な声を上げてしまった。キリコを睨みつけると、無表情の中の青い光とかち合い、思わず身動きが取れなくなった。鈴井は俺に訴える。

「あなたのお名前は聞いています。闇医者、ブラック・ジャック。荒事も得意な医者はそうそういません。私は嫌な予感がするのです。長い船医人生を送ってきましたが、これはきっと妙なことが起きる前触れです。何か起きたとき、頼りにしてますからね!」

定年退職を控えた鈴井の保身満々の悲鳴が医務室に響いた。

My fair villainous lady①

第一章

自由の女神が立つニューヨーク。

陽光満ちるリバティポートを出発し、マンハッタンの摩天楼はだんだんと霞んでゆく。

進みだした船の名は「コンバーション」全長250m、全幅35m、デッキ数は17階。

美しい流線型の舳先で波をかき分ける8万トンの豪華客船は、目的地のカリブ海目指し、真っ白な船体をきらめかせながら、大海原へ優雅に踊りだしていった。

近年流行の20万トン越えの超大型クラスとは比較にならないが、8万トンの中型船でも十分に揺れは少ない。

ラグジュアリークラスクルーズ「コンバーション」に乗り合わせたゲストたちは、なんの不快感もなく広いプールサイドに集い、全員参加の点呼のもと避難訓練を行った。避難訓練は出航24時間以内に必ず行わなくてはならない決まりである。

訓練の張りつめた空気の後は、皆が期待していた通りに軽快な音楽が奏でられ、デッキパーティが始まった。

プールサイドに飾り付けられた赤、青、白のテープが海風にはためき、午後の柔らかな日差しが波を輝かせる。

その輝きを何度も観てきた熟練の副船長が司会としてクルーと共にゲストの前に立った。副船長の嬉野は柔和な人柄がにじみ出る歓迎の意を表す挨拶をして、出航で緊張していた人々の心をあたためた。挨拶の次はゲームだ。「コンバーション」のクルーたちがゲストを楽しませてくれる。

賑やかしいバンドの演奏に合わせてカクテルグラスを傾ける人々。

長年連れ添った愛しい人の肩へ手を回すペア。未知の刺激に心躍らせる少年。遠く水平線を見つめる若い女性。それぞれがこれからの航海に胸を膨らませ、希望を託そうとしていた。

そこへ、その男は現れた。

カラフルな衣服の人垣を裂いてずんずんと突き進む真っ黒なコート。

風に乱れる前からそうであったと思わせる白髪交じりの黒いくせ毛。

思わず目を背ける者がいるほどに、厳しい眼光とそれを縦断する大きな縫合痕。

それらの持ち主は、ブラック・ジャック。その人である。

パーティに参加していた久遠寺彰は、BJに声をかけられて飛び上がって悲鳴を上げることもなく、おっとりとほほ笑んだ。

「やあ、先生。あなたもこのクルーズに参加していたんですね」

これだからボンボンはやりにくいと出鼻をくじかれたBJは内心舌打ちをする。いきなりツギハギに背後から声をかけられたら普通は少しは驚いたりするものだが、育ちがよくそれなりに善良な彰はそのようなことでは慌てなかった。まだ若さを残す瓜実顔に無駄な贅肉のない体つき。仕立ての良いジャケットの背中を見せて、彼は側にいた妻と娘を呼んだ。

「BJ先生、お義父さまを手術して下さり、ありがとうございました。おかげさまですっかり元気になりましたのよ。私たちがクルージングしている間は、日本でのんびり温泉に浸かっているから行って来いと…それも全部先生のおかげだと喜んでおりました…」

夫に輪をかけて穏やかな口調で話すのは、彰の妻の絹子(まさこ)だ。名に沿うようになめらかな絹糸の髪をゆったりと一つにまとめている。流行を追いかけ過ぎない上品なロングスカートが海の色に良く映える。その傍には彼らの愛娘が楚々として佇んでいた。

どうもBJはこの手の人間と話すのは苦手だ。品の良さと言うのが鼻について堪らなくなる。彼らが悪いわけではない。彼の生き方がそうさせるのであって、誰のせいでもない。だから彼が些か横暴にふるまったとしても仕方のないことなのだが、ここにそれを理解する人間はいない。

「俺が聞きたいのは金の話だよ。あんた、爺様の手術費15億円をいつになったら払うんだ」

不躾にもパーティ会場の真ん中で借金の取り立てに来た横暴な闖入者の言葉に周囲の人はぎょっとしたようだったが、再び明るい笑い声の輪の中に紛れていく。

「ええ?15億だって?」

「ふざけなさんな。証書だってある。とぼけるのはよせ」

ひどく驚いた彰の様子にBJの顔は険しくなる。BJは今回確かに高額な治療費と見合うだけのパフォーマンスをした。そしてそのレートも彼の仕事上規格外と言うほどでもなかった。ましてやBJは彰がいくつもの子会社を持つ、大手の建築企業の3代目社長であることを知っている。年商を以てすれば手術費の捻出など容易いはず。なぜ払わないと無言で詰め寄る。

二人の間にある張りつめた緊張感の風船をぱちんと弾くように、彰の朗らかな声が上がった。

「なあんだ、150億だと勘違いしていたよ!」

びきッとBJのこめかみに血管が浮く。それに気付きもしない彰は恥ずかしそうにぱたぱたと手を振って続ける。

「すまない。全く準備をしていなかったわけじゃないんだ。150億だとさすがに大きい金額だからね、いくつか資産を売らなくてはいけないと選定をしていたんだ。それに時間がかかっちゃって…ああ、恥ずかしい!心配かけたね」

「彰さん、はやとちりなさったのね」

おっとり夫婦が顔を見合わせてもじもじとやっている。善良で、お人好しで、胸やけがする。15億と150億を間違える人間はそうはいない。もうBJは彰との関りをこれきりにしたかった。金さえもらえば二度と会いませんように!とお星さまにお願いしたくなるくらいに。

ちょうどプールサイドステージのバンドが『きらきら星変奏曲』のアレンジを演奏しだした。あまりにタイムリーで思わず振り向けば、東洋人と思しき男性がバンドメンバーの中でひとり背中を向けてピアノを弾いていた。

(できすぎだろ…まだお星さまにお願いするのは、早いっての…)

BJの冷めた視線も受け流して、彰は奇麗に整えられた黒髪の頭をぽりぽり掻いた。

「いや、まいったね。こんなことなら沙織の縁談も焦って進めるんじゃなかった」

沙織と呼ばれた少女を彰は横に招いた。涼やかな眼差しに白磁の肌、濡れ羽色のつややかな髪をハーフアップにしてリボンで留めている。おっとり夫婦から生まれたとは思えないくらい凛々しい姿。

久遠寺沙織は18歳になったばかりの女子高生。私立の名門女子高に通い、3年間主席の成績を維持している。得意な英語では既に英検準一級を取得。部活動では薙刀部に所属し部長としてメンバーを率い、学校創始以来の快挙で国体に出た。また母と共に淑女のたしなみを一通り修め、華道の展覧会で大きな賞を取るほどのセンスを見せている。

親の欲目は差し引いたとしても、文武両道のうら若き才媛が久遠寺沙織という少女だった。しかしながら彼女が口を開いた瞬間「蛙の子は蛙」と認識する羽目になる。

「いずれは健斗さんと結婚する予定だったのですから、少し約束が早くなっただけの事…わたくしはなにも問題ございません」

両親を気遣い、おっとりとほほえむ姿に、BJは一刻も早くここから消えたい気分になった。

消えたいと思うことと、物質的にないものとされることは全く違う。砂糖菓子のように真っ白な家族の姿に辟易としていると、BJの背中がどんと押された。BJは相手を睨みつけようと振り向くが、すかさず大きな声が降ってくる。

「やあやあ、久遠寺さん!楽しんでおられますか?」

見上げると2m近い大男がグラスを片手に笑っている。腕の筋肉の隆起がスーツの上からでもわかる重戦車のような体格。浅黒い肌に鋭い眼光の顔(かんばせ)。短く刈り込んだ頭髪と髭の様子は、さながら歴戦の傭兵のようである。彼が手にしているビアグラスがやたら小さく見えるのはそのせいかもしれない。

「どうも、高薄さん。いい航海になりそうですね」

高薄と呼ばれた男は猛禽類を思わせる目を笑みの形に歪めた。

「同感です。このクルーズはウチの健斗とお宅の沙織さんの婚約記念のようなものですからな。我々にとっても思い出深い旅行にしたいものです!」

そこまでにこにこと聞いて、彰はBJを高薄に紹介した。太々しく会釈するBJの縫合痕を見て、高薄は一瞬怯んだように見えた。しかしすぐに気を取り直し、威圧するように重々しく、一介のサラリーマンから建築会社を立ち上げるまでに至った苦労話を含めた長い自己紹介をした後、彼は高薄浩一郎と名乗った。

そうなのだ。本当はこの反応が正解なのだ。異形のBJを目の当たりにして、驚くか、拒絶するかがリアクションのセオリーである。セオリーから外れた久遠寺一家とは違う高薄の姿にBJは意味のない感慨にふけった。

「婚約記念だなんて、父さん気合入りすぎじゃない?」

BJの思考を中断したのは『コンヤクキネン』という聞き馴染みのない2度目の単語。高薄のはち切れそうな白いスーツの陰から、すらりとした青年が顔を出した。青年はそのまま沙織の前に進み出て、いかにも自然と言った態で彼女の横に収まった。彼が沙織の婚約者、高薄健斗だ。彼もまた家の期待を背負い、十分に応えようとしている。有名校で成績トップクラスでないと入れない生徒会の会長を務めており、生徒からの支持は厚い。また恵まれた容姿でモデル業もこなしている。今回はプライベートの旅行なので、いくつもピアスをつけて、雑誌の切り抜きのような姿だ。

「俺は純粋に沙織とのクルーズを楽しみにしてたんだ。もうただの幼馴染じゃないってことくらい、俺たちもわかってるんだから心配しないでよ」

「ふふ、確かに健斗さんと私はただの幼馴染じゃありませんわね。産まれた病院から一緒ですもの」

「長い付き合いだよね。さあ、船の中を見て回ろうよ。おもしろいものがありそうじゃないか」

そのまま沙織と健斗は連れ立って歩いていく。若さってのはア…とため息つきかけたBJに絹子が飲み物を勧めてくれる。わずかばかり疲弊を覚えていたところだったので、素直にグラスを手にしてビールを一口含んだ。

デッキの手すりに寄りかかった彰と高薄はかちりとグラスを合わせる。彰はほっとしたように語りかけているが、どこか表情が暗い。

「150億は必要なくなったんだ。ちょっと早とちりをしてしまってね、高薄さんにもご心配をおかけした。婚約も早まったかな。健斗くんの事情もあったろうに。健斗君も沙織も幼馴染だし、ずっとこうなるって思っていたみたいだからね。お互いの関係が良好なら、将来の不安が少ないうちに決めてしまった方が、親として言うことはないと焦ってしまった」

「おお、そうですか。150億の件、まずは良かったと言っておきましょう。しかし何度も申し上げているではないですか。婚約と資金提供の件は全く別だと…久遠寺さんが焦げ付きこさえたまま倒産なんて冗談にもなりませんからな!」

「全くおっしゃる通りだ。父に叱られたよ。確かに資金繰りには手間取ったけれど、私達の看板はともかく、高薄さんにご迷惑をおかけするなどとんでもないと」

「いやいや、ご謙遜を。うちなどまだまだ新参者。3代も続く久遠寺コンツェルンに信用していただけるのを誉と思うておりますよ」

がははと大口を開けて笑う高薄浩一郎に、久遠寺彰は目を伏せ、控えめに微笑を作った。

「……今、業界で一番勢いがある高薄さんに、どうやって業績低迷が続く弊社の娘を嫁がせられたのか、このところ毎日のように聞かれるよ」

暮れ始めた空の色を背に、彰の声は少々自嘲を含み、弱弱しく聞こえた。そっと夫を見つめる絹子の目もまた同じ。

BJの頭に大音量の警報が鳴る。

緊急!緊急!さっさと現金回収しないと会社が倒産して不渡りになるぞ!

不渡りだけは絶対に御免だ。

自分が決めて報酬がラーメン一杯やカルシウムの欠片になるのは問題ない。しかし相手が倒産したから手術費はもらえません、お金がないから払えませんというのはBJの信条として許しがたかった。そもそも依頼してくるなと門前払いのレベルである。金が払えない患者にも腹は立つが、一番許せないのはそんな患者を選んだ自分だ。自分で自分の見る目がなかったと認めるのが悔しくて仕様がないのだ。

歯噛みしながらBJは一旦デッキの逆サイドに向かう。パーティのざわめきから離れて、沸騰しかけた頭を冷やしたかった。

だがここでも彼の望みは叶わない。なぜなら視線の先に「奴」がいたからだ。

デッキの隅に佇む銀髪隻眼、黒眼帯の長身の男。

ドクター・キリコ。

彼もまた、この船に乗船していたのだ。

沸騰しかけた頭が爆発した。

ずかずかと周囲の人間など跳ね飛ばすような酷い勢いで、BJはキリコの元へ詰め寄り、思う様暴言をぶちまけた。

「どういうつもりでこんな所にお出ましだ!船の上でもヒトゴロシをしようってのかい」

いつもの定形文をいつもと違う場所で浴びたキリコはまるで動じない。彼は表情筋を動かすことなく、BJをアイスブルーの隻眼で見据える。

「人聞きの悪い言葉は止してもらおう。その言葉は彼への侮辱にも当たる」

キリコの背に隠れた車椅子。そこに座る男性が不安気な顔を覗かせた。顔色はこれ以上ないと言うほどに良くない。薬の副作用か頭髪がすっかりと抜け、薄手のブランケットから覗く手足は小刻みに震えている。彼が何らかの病に侵されていると判断するには十分だった。恐らく彼は今回キリコに安楽死の依頼をした人間なのだろう。

「心配しないでください。この男は私が嫌いで仕方がないのです。さあ、もう中へ入りましょう。風が冷たくなってきた」

「ああ…ドクター、その、彼は?」

依頼人がおずおずとキリコに訊く。

「ブラック・ジャック、一応医者です。無免許ですがね」

訊かれた本人が答えるより早くBJは自ら名乗った。キリコは黙っている。これ幸いとBJは依頼人へ病状を尋ね、治療すれば生きられる可能性があるかもしれないと、目をギラギラとさせて迫った。しかし依頼人の反応は芳しくなかった。

「僕がこのクルーズに参加したのは、一度も海を見たことがない僕のわがままをドクター・キリコが叶えてくれたからなんだ。人生で初めてのクルージングだ。楽しい気分のままで過ごしたい。僕の心は決まっている。そっとしておいてくれないか。その、ええと…ブラック・ジャックさん…」

BJはそっとなどしておけなかった。だけど何故か「しかし」だの「それでも」だのと彼に詰め寄る気持ちになれなかった。キリコの依頼人である彼の瞳が、これから向かうカリブ海の色と似ていたからかもしれない。

それに海に焦がれた気持ちは、何となくわかる気がした。自らが車椅子で過ごした少年期に抱いた海への憧憬は、まさしく依頼人の感情と類似していたのだから。

BJが追憶に沈んでいる間に、キリコは静かに車椅子を押して船内に消えていってしまった。

憎たらしい銀髪の姿が完全に見えなくなり、BJは手の中でぬるくなりつつあるビールを一気に煽った。

自分のすることを整理する。何も初めと変わっちゃいない。手術費15億円を久遠寺彰から取り立てるのだ。彼に小切手かきちんと金を支払う意志があるサインの類をもらわないと、納得できない。

ただ状況が不安定なのはわかった。久遠寺コンツェルンは斜陽の時期にあるらしい。そこでコンツェルン相手にトラストまがいの手が打てるほど勢いのある高薄の会社が、久遠寺に資金提供の話を持ち出した。両家は昔から付き合いがあったのだろう。しかも両家の息子と娘が婚約関係にあるならば、盤石ではないか。しかし久遠寺彰の顔は冴えなかった。

「あのやろう、婚約に乗り気じゃねえとか言い出さねえよな…」

BJの呟きもかき消される周囲のざわめきの中、東洋人が奏でるピアノの激しく陽気な旋律が響いていた。

【BLOG】長い話が始まります

カタカタキーボードを叩いてたやつをアップします。

タイトルは『My fair villainous lady』(意訳:私の悪役令嬢)

名画「マイ・フェア・レディ」がタイトルのオマージュになってます。内容もちょっとね!

テーマは「悪役令嬢の断罪ものをキリジャでやろう」と、なんともハードルの高いものを設定しましたよ。そこに豪華客船を持ってきて、ピンク頭のヒロイン、仮面舞踏会、BJ先生7変化、クルージングは最高だね!旅気分もちょっとね!と自分でも何言ってるかわかんないです。

13万字超えたので、6000~15000字くらいで分けてあげていきます。12章まであります。

その他回収し損ねたネタがあるので、追加SSもこれから書こうと思います。

下手の横好きですが、ちょっと読んでみようかと思われましたらどうぞ~

毎朝6時に更新です。

▼イメージ画。真ん中の子が今回のメインキャラクターの一人、沙織さん

※ネタバレしたくない人はバック!と言っても超初期設定…こ、こんなこと考えとったんか我…※

【BLOG】136502

先月からカタカタやってた作文が、ようやっとラストシーンまで書けました。まだ推敲したり、誤字脱字チェックがあるんで、アップには至りません。もう少しお待ちを。

それでチェック用にパソコンで打ったものを印刷してみたんですよ。

厚さ、裏表印刷で7,8ミリある。

やばい。これデジタル化する前の会議資料とかと一緒やん。

怖いもの見たさで文字カウント計算…

136502文字…

10万字超えたかーーーーはちゃーーーーー

構想練ってるうちに、それがとぐろを巻きだして、気が付きゃおせちの重箱状態。

いいんかな…

書いてもうたしな…

イメージ画もできました。フルカラーのは全部いいのになってからにします。

ブランケットの闇

隣で眠る銀色の髪を指で梳く。

あんなに乱れた後だと言うのに、するすると元通りにほどけていく。

なんだかつまらない気持ちになって、髪をぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。

両手で頭を掴んだ時、背中から腕が伸びてきて、ぎゅうと抱きしめられた。

「人をおもちゃにするんじゃない」

深い息と共に懐へすっぽりと片付けられてしまう。俺はそれも面白くない。

腕をほどいて背中を向ける。

わかってる。こんなの間違ってるって。

キリコが今回こだわってるのはアレサンドロの名誉と尊厳で、アレサンドロ自身に関してどうとかいうのとは違うって事。

だからキリコがあんなにも真剣に怒るのは、あいつのクソみたいな信念のせいで、アレサンドロのせいじゃないって事。

そんなわかりきったことのせいで、俺がもやもやするのは違うんだ。必要のないことなんだ。

少し日焼けした腕が俺の背中に伸びる。

「寒いよ。こっちおいで」

厚手のパイルブランケットからはみ出した俺の脚に傷のない長い脚が交ざる。

背中にあいつの胸板が当たるのをそのままにして、俺はブランケットを思いっきり顔の前に引っ張り上げた。

「顔見せてくれないの」

ぶんぶんと頭だけ振る。

そのままあいつはブランケットごと俺を捕まえて、力任せに抱きしめた。力が込められた腕が痛くて、息をするのが苦しいほどに。

その力がやがて弛緩し、俺の体が自由になる。

あいつの力の強さが残る腕で、ブランケットをそっと広げた。

俺の隣でうずくまるあいつにブランケットをすっぽりとかぶせて、俺もその中にもぐりこんだ。

ブランケットの中身は真っ暗闇。

さわった物しかわからない。ぺたぺたと俺の掌は、あいつの体を見つけ出す。脈がとくとくと動いているのが、俺の胸をあたためる。小さな呼吸の熱に、確かにいのちの息吹を感じる。あいつの体に生きている証を見つけることがこんなにも俺の心を動かすなんて。

冷たい額に唇を当てた。すこうし、そこが温かくなった気がしたから、頬骨のあたりにも口づけした。おもしろくなって、何度か繰り返した時だった。

天地がひっくり返って、ブランケットの暗闇は飛んでいった。

銀の怪獣が俺の唇に食らいついてる。

未だ舞い散る銀の髪は、俺の頬に、肩に、腕にふりつもる。

あいつをひっぺがして、その目を見てやる。

白い面立ちにひとつだけのアイスブルー。纏ろう銀糸は青い炎に焼かれて消えそう。

ああ、そうだ。俺を見てる。

憤怒とか自責とか寂寞とか、もうぐっちゃぐちゃになってるけど、お前は俺を見てる。

じゃあ、それでいいや。

ふ、と笑みの形に俺の唇が崩れたのを合図に、今度こそ銀の怪獣は貪りついた。

今、ウンウン唸りながら書いてる奴の没パートです。固有名詞とか、詳しい事情は後ほど本編を上げたときにわかるはず…最後の詰めがまだ書けない。仕事忙しい。モチベを上げるために投稿。

凍狂フレンドパーク(小ネタ)

関口宏「あなたはブラック・ジャックがお好きだそうで」

おこめ「はい」

関口宏「好きな話は?」

おこめ「『死への一時間』とか」

関口・渡辺「『死への一時間』」

おこめ「?!」

関口宏「『死への一時間』を含む、ドクター・キリコの登場回を9話すべて答えよ」

渡辺正行「走って!」

【BLOG】ドビーはできる子!

できる子!できる子!ドビーはできる子!

(自分の頭をシバきながら)

新年度、逃げたい気持ちでいっぱい。

できる子!できる子!ドビーはできる子!

キーボードカタカタ

6万字

まだだ。まだやってない。7合目くらい。

キーワード「豪華客船」「女装」見覚えのある方もいらっしゃるだろうか…

追加キーワード「悪役令嬢」

キリジャで悪役令嬢するよ。

できる子!できる子!ドビーはできる子!

カタカタカタ

あと、何万字いいいいいいいいいいいいい!!!!!?????パキッ

書いてる時は平気なのに突如襲いくるフラッシュバック。だから新年度って嫌い!

できる子!できる子!ドビーはできる子!

自己暗示

【BLOG】予想外

先日サイトが落ちました。サーバー側のダウンだったみたいですが、アクセスできない間、気が気じゃありませんでした。予想外に長い時間ダウンしていたので、驚いた方もいたかもしれませんね。イヤ、ホント、勘弁してほしいですね。

予想外はもう一個。今キーボードをカタカタやってるんですが…どうしてだか進まない。

アイディアも流れも頭の中にあるし、いくつもメモをこさえて資料も準備した。なのにどうして全くキャラクターが動いてくれない。

『虹の彼方に』は2徹して75000字一気に書き上げましたが、今回はまだ6000字にも満たなくて、それで描きたいことの2割にもなってなくて…なんだろう、これ。

ええい、情報が多いんだな。特殊な舞台にしちゃったので、調べたこととにかく説明したくて手間取ってるのかな。くそう。とっちめてやる。

月末連休をもぎ取ったので頑張ってみるかね。えいえいおー。

【BLOG】これからしようとしていること

まだバケツ塗りの段階ですが、この絵がメインイメージになる話を考えてます。構想はだいぶ固まってきた気がします。

出力始めるにはもうちょい詰めが必要です。構想を練る準備段階がこんなに楽しいのは初めてでは?だからってハードル上げる気はないのですが、真っ新なところに「大好き」と「やってみたい」をぶつけて、どざーっと砂場のようになったところから、大事なピースを拾い上げて、砂を篩にかけて…残った砂に水かけて捏ねて形を作り、少し固まったら次の展開に紐づけて、そこから生まれるキャラクターに色つけて…

創作してるー!って感じしますね。ウンウン。早く形にしたい。

その前にまだ読まなくてはいけない資料があったり、考えなきゃいけない重要なやりとりなんかあったりするので、がんばるぞ。

お披露目がいつになるかは皆目見当もつきません。入れたい要素がてんこ盛り。寝かせる時間もあるだろうし、嫌んなっちゃって違う話先に出すこともあるだろうし。

うん!楽しくやろう。