【BLOG】M.F.V.L「私の悪役令嬢」あとがき

長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。なんとか最後まで書き切りました。この話は昨年の夏の投票で負けた「海」の話になります。資料集めがかなり進んでいたので、もったいなくてテキストの形で表現しました。結局負けも作っちゃいましたが、約一年越しなので勘弁してください。

今回テーマを「悪役令嬢」に決めたことで、「悪意」を各所に散りばめて書くことになり、かなり胸糞展開が続いて私の精神衛生がよろしくなかったなあ。いかにヘイトを溜めてスッキリさせるかが難しい!

特に沙織とピンク頭の一団に関してのいざこざは、悪役令嬢ものにありがちなテンプレの内容を意識してみました。舞台を豪華客船に設定したのも、なんちゃってヨーロッパな悪役令嬢ものの雰囲気を、違和感少なく現代劇に表現できるかなと思いついたためです。何度もパーティがあったりしますし、ドレスコードが厳しい船もあるし。

パーティと言えば仮面舞踏会の場面がバリバリ気合入りました。今回ころころと衣装が変わるBJ先生でしたが、まさか女装させられるとは思ってもみなかったでしょうね。やってみたかった、それだけです。対してキリコ先生は、いろんな背景を持つ依頼人と最後の時を過ごすことが多いんだろうなという妄想のもと、タキシードも着こなすし、エスコートだってお手のものって完璧超人になってしまいましたが、いつもの事ですね。でもビーチで上半身裸にしたのはやりすぎた。これは反省してます。

基本的に子どもの喧嘩に割り込んでいると黒医者2人はよく理解して動いています。精神年齢が近い(とは言え一回りは違う、と思う)BJ先生はやらかしかけてますが、そっちは追加SSでどうぞ。

キリコ先生が「ロッキー・ロード」と名乗っているのは、アイスのフレーバーから来ているのはもちろんなのですが「kiriko」をアナグラムにして「rokkii」としたことが始まりです。うーん、安直。

一番初めから最後まで登場する羽目になった平野星満については、もっと上手い登場の仕方とかあっただろうなと課題が残るキャラクターになりました。悪役令嬢を超える、濃い悪意。それを描こうとすると、どうにも彼を道徳性の低い、利己的で執念深い人間像にせざるを得ませんでした。浅い書き方になってしまったので、もっと伏線の張り方とか、情報の取り出し方とか、もっと翻弄できる方法があったのではないかと、一番の後悔になっています。いやはや、難しい。

沙織が最後にした選択については、読者の方にお任せします。

いつもさっぱり系で終わることが多いので、ちょっともやる方にしてみました。

あとは小ネタがほんの少し入ってますけど、私の趣味です。

タバコに関するこだわりなのですが、キリコ先生が愛煙している「チェリー」は東日本大震災を境に販売が終了している品名です。各界の著名人が吸っていたことで有名らしい。私の場合は大した事情ではありませんが、幼いころからこれの煙を嗅ぐことが多かったんですね。今でもタバコと言えばチェリーの煙を思い出します。今の時代にはそぐわないほどの重いタール値がキリコ先生には合う気がして、現在は入手が不可能なタバコを彼に吸わせています。BJ先生は今回ラークを吸ってますが、もともとはマイセンくらい軽いのが好きなんだろうと思ってます。パッケージだけで選べばECHOでもいいかも。今より金に汚い時代は絶対ECHO吸ってたって!(偏見)彼は原作でパイプをよく使用していますが、パイプについてはまだ不勉強なので、当面シガレットで勘弁してもらいたいです。

追加SSで触れることになるのですが、今回鈴井が担っていた立場、船医と言えばブラック・ジャックでは一人しかいないでしょう。なんですが、ごめんなさい。私、彼女が嫌いです。名前を出すのも嫌なくらい。腐海の森に棲んでいる土壌はあるかとも思いますが、人としてお前どうなんと憤ることが原作読んでてありまして。その辺もキリコ先生に代弁させてしまっています。公式グッズ、どうして彼女を入れるんだろうなあ。

まあそういうのは後付けの感情でして、本編通して楽しんで書きました。

追加SSの後は、ペンタブを握りたいですね~しばらく描いてない~

最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございました!

My fair villainous lady⑫

俺は無理矢理、沙織から場の主導権を引き剥がした。

理由はいくつかあるが、現行のシナリオで不可解な点が出てきたことが大きい。俺達が前提にしていたものが、存在しないように見受けられる。これを沙織に暴かせるのは、ちと寝覚めが悪い。

カツンと革靴を鳴らして、平野に向き直る。

黒いコートをマントのように翻し、顔面の縫合痕を隠しもしない俺は、紳士淑女の皆様にはとびきり邪悪に見えるらしい。慌てて人垣の向こうへ隠れる奴もいる。大袈裟なことで。それじゃあ、ご期待に応えて悪役らしくやろうかね。

「おう、平野。お前さんの部屋は俺の隣の部屋なんだよ。毎晩ひどい物音で参っちまったぜ。今夜からは安眠できると思うと嬉しくてたまらねえ」

俺の言葉に敏感に反応すると、平野は黒で塗りつぶされた目を瞬きひとつせずに俺に向ける。まぶたのない魚類を思わせる視線だった。

「随分と熱烈だったぜ?全部ここでミナサマに説明してやろうか?」

芝居がかって手を広げて見せれば、平野の顔はわかりやすく不快にひきつった。

「お前は、誰だ?」

「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はブラック・ジャック。モグリの医者さ。そこの久遠寺さんと関りがあってここにいる」

平野程度の半端者だと俺の名前は知らないだろう。もうちょっと深い所を歩くようになれば、俺の肩書きくらいは聞くだろうがね。案の定、平野はピンと来ていない表情で俺と彰を見比べている。それでいいさ。お前さんの経歴を俺が訊かないように、俺の事も適当にしておいてくれ。

「なあ、平野。お前さんの久遠寺彰への執着は異常だ。愛玩しようとしてみたり、弑逆しようとしてみたり。破綻してるよ。ピアノのせいか?」

歯に衣なんか着せねえ。そのままぶすりと突きつけると、一瞬怯んだようだったが、平野は俺の言葉に応じた。

「そう、そうだ。彰のピアノは至高の調べだ。失われてはいけないものだった。俺はそれを自分のものだけにしたかった。それだけだ」

「分らんことを言うなあ。指を潰しておいて、どうやって演奏させる気だったんだ?」

「はは…演奏なんかしなくていい。指がなければ、新しい音を彰は奏でられないだろう。彰のピアノの音は全部俺の頭の中にあるんだ。ほらまた俺は思い出したぞ!10月3日のコンクールで彰が弾いたエチュードを!」

久遠寺彰の静かな顔を見つめながら、嬉々として平野は語る。ダメだな。早めに片付けるか。

「そうかい!じゃあどうして彰になり代わった?お前さんはいつもコンクールの中間の順位だったらしいじゃないか。コンクールで優勝する彰が羨ましかったから、入れ替わってみたのかい」

「違う!入れ替わってはみたが、彰の暮らしは窮屈で面白くもなかった。船乗りのピアニストの方が何倍もマシだ」

俺を射殺さんばかりの視線に対して、憐れみを含ませた嘲笑で応えてやれば、分かりやすく平野は怒りに震えた。そうそう。そっちの線で行こうぜ、ご同輩。

「へえ、窮屈かい。金に不自由しない船旅だっただろう?お前さんと同じ顔なのに、彰はファーストクラス。お前さんは最下層のインサイド客室だ。もっと豪華な部屋を楽しめばよかったのに」

「窮屈だと言っただろう!」

「おっと、血圧上がるぜ?同じ顔なのに、ピアノの才能だけじゃなくて暮らしぶりまで違いがありすぎるなんて、さぞかし残念だっただろうなあと思っちまったんだ」

ぴたりと宙の一点を見つめて、平野は呟く。

「…違い…違いね…判ってる。金の面で言えば、俺は船上のピアニスト、彰は久遠寺コンツェルンの3代目。砂粒とダイヤモンドの違い。ピアノの才能だって、俺は正確に把握してる。自惚れちゃいない。彰の才能は空を飛ぶ鳥と同じだ。ピアノを弾くことが当たり前で、自然なんだ。俺みたいなイミテーションとは違う」

煽り続ける俺の言葉に反発するばかりだったのが、急に冷静になり、自分と彰を比較しだす。魚類の瞳に理性の光が灯るよう。きっとこれまでに何度も何度も比べ続けてきたに違いない。さあ、肚の内を吐いてもらおうじゃねえか。

「なあ、ブラック・ジャックって言ったっけな。あんたは俺が金のためだけに彰と入れ替わろうとしたと思ってるんだろう。確かに金はあるに越したことはないが、金でどうしようもならないものもある。金持ちの生活が羨ましいとか、俺もああだったらよかったのにとか、そういうものを超えてるんだ。俺の彰への感情は、ピアノのコンクールで出会って今日まで30年の間に、愛…そう、愛に変わったんだよ…」

うつむき加減に話していた平野は、じわじわと顔を上げて俺の眼前に迫る。

久遠寺彰とよく似ているはずなのに、そこには暑苦しいまでの熱量を持ち正体不明に変化した、彼とは似ても似つかぬ満面の笑みがあった。

「この船で偶然にも彰と再会した時の俺の気持ちが分かるか?十数年ぶりに会う彰は、変わらず穏やかに微笑んでいて、ほのかに光っているようにすら俺には見えたんだ。俄然俺は彰を俺のものにしたくなった。膨らんだ蕾が開くのが当り前のように、なんていうかなあ、欲情したんだ。彰と一緒になろう。ならなきゃいけないってな。同じ顔なのに俺はどうしたって彰になれないし、彰だってそうだ。それなら二人でひとつになれたら、彰の全てを俺は独占できるだろう?」

俺は平野の思考を理解する気がなかったが、ただ言葉だけ鼓膜を通過はさせていた。ピアノに狂わされた男の独白。愛だの何だのは尚の事、相手の全てを独占したいなどという執念は、俺にとって嫌悪の極みだった。口を挟まないのを肯定と受け取ったのか、平野は機嫌よく話し続ける。

「平野星満は死んだことにして、俺たちは二人で久遠寺彰として生きていく。俺は彰の顔の代わりをするし、彰は俺の相手だけしてくれたらいい。そのためには彰からピアノを奪った腐った久遠寺コンツェルンなんか滅びればよかった。彰を縛るものはどれもこれも捨てて、全部済んだら俺は船を降りて、彰と二人で暮らすつもりだったんだ…カリブ海の島でもいいし、ニューヨークの裏路地でもよかった。素敵だろ?俺がピアノを弾いて、隣に彰がいる。誰にもばれずに船から彰を降ろす計画までしてたってのに、この頭でっかちのバカ娘がぶち壊しやがった…娘、ああ、これも運命なんだな!俺達はやっぱり運命なんだよ!」

いくつかの共通点と、積もり積もった恨み言。そこへどんな言葉で愛を語ろうと、どんな絵空事を描こうと、平野がしたかったことは結局久遠寺彰の幽閉に過ぎなかった。相手を無視した歪んだ愛の告白と共に、平野は両手を翳して天を仰ぐ。

「同じ顔をして、同じようにピアノを愛し、同じように娘までいる。ははっ、そいつが彰の娘をいびり抜いたって聞いたときは笑いが止まらなかった。俺は高薄のバカ息子をひっかけろって言っただけなのに。最高の運命じゃないか」

「娘?」

『彰の娘をいびり抜いた』ことに該当する人物は一人しかいない。

全員の視線が苺愛に向いた。

苺愛は不穏な空気が掴み切れない様子で口を開く。

「…娘って、誰?」

俺は仮説の検証を始める。

「おい、苺愛だったっけか。お前さん、この男を知ってるのか?」

ポーチからコンパクトを取り出していた苺愛は、関係ないと言わんばかりに化粧を直している。

「めんどくさ…こいつはあたしの同居人?みたいなやつ。あたしのママが死んだら、いきなり来た知らないオヤジ。そのときのあたしは小さかったし、こいつについていくしかなくて、船に乗ってあっちこっち付いてったってだけ。あたしが自分で稼げるようになったら、金を貸せってうるさいから、月イチで金を貸してたの。でも、ここまで頭おかしい奴だとは思ってなかったわ。キモい」

パチンとコンパクトのミラーを閉じて、苺愛はそっぽを向いた。

俺は平野の焦点の合わない目と向き合う。

「平野、どうして苺愛に自分の娘だと伝えないんだ」

「どういうことよ!あたしが?!そのクズと親子?ぜんっぜん笑えないし、気持ち悪い」

キンキンと喚く苺愛を放って、これまで沈黙を貫いてきたキリコが動いた。

「ところが、体は…と言うかね、遺伝子は嘘をつかない」

キリコは沙織から扇子を借りると、それでスッと平野のうなじを差した。そこにはオリオンのベルトのように並んだほくろが3つ。

「ほくろは遺伝するんだ」

弾かれたように苺愛は自分のうなじに手を当てた。いつもはミディアムボブのピンクの髪の毛の下に隠れているが、プールに落ちたとき、彼女のうなじにほくろが3つ並んでいたのを俺は覚えていた。彼女とベッドを共にした男どもも同じだろう。

「嘘!嘘って言ってんだろ!そんなでたらめ…!」

「医学的な証拠はある」

淡々とキリコは続ける。

「ほくろの遺伝子が、親から子へ伝わるのは証明されている。ほくろの多い親から生まれた子は、自然とほくろができやすい体になるんだよ。同じ場所にまでできるケースは実に稀だが、ない話ではない」

機械的に言葉を紡ぐ様子に苺愛はだんだんと気圧されていく。

「君たち二人を並べて、外見的特徴から親子と見出せる条件はきっと他にもあるのだろうね。例えば、ピアニストは手が大きい人や指の関節がやわらかい人が多いと言うし、君もそう言われたことがあるんじゃないか?」

苺愛の手からポーチが落ちる。化粧道具が散らばる音が響く中、苺愛は真っ青な唇を震わせた。

「…ありえないし……実の父親と…って、あたし……」

俺が書いたシナリオの前提条件の中に「平野と苺愛が血縁関係である」というものがあった。最下層のインサイド客室に監禁された彰に、平野が事細かく沙織や苺愛の事を知らせられるのは、苺愛と平野の間に密接な関係があるから。ほくろの一致から閃いた与太書きではあるが、密接な関係とは何かを予想させるには十分のおまじないだった。

尚且つ沙織と健斗の婚約が破棄されて、沙織の後釜に座るのが苺愛になったなら、その恩恵にあずかるポストに平野がいるべきだとして考えると、平野と苺愛が血縁関係にあると仮定した方が分かりやすかったのだ。

しかし、沙織が悪役令嬢として断罪劇を始めてから、俺は違和感を覚え始めていた。苺愛は平野の動きを全く意識していないのだ。完全に断罪され、4人のナイトから見放されても、苺愛は平野に助けを求めなかった。

苺愛は平野と自分の関係を適切に把握していない。これが俺の中に立った第2の仮説。するとぞろぞろと嫌な想像が広がりだした。これを沙織に始末させるのは荷が重い。場の掌握を図り、平野の心情を引きずり出し、結果、俺は最悪のカードを引き当てた。

平野は膝をついて震える苺愛に向かって平坦な声で言った。

「金を稼いでくれる今までは良かったが、ヘタに父親だなんて明かして、船から下りた後もコイツについて来られたら邪魔だろ?…顔だけはアイツに似てるんだよな。こいつが生まれたときに、自分で人生で一番の当たりくじ引いたなんて言ってて意味わかんなかったけどよ。まあ、でも蛙の子は蛙だ。色々手管を仕込んでいくうちに分かったが、中身は俺そっくりで」

「それ以上口にするのは、控えてもらおう。おそらく聞くに堪えんだろうからね」

ぴしりと平野の口元を扇子で差し、言葉を止めたキリコは、ばらりと扇子を広げて埃でも払うかのように仰ぎ、扇子を沙織に返却した。

「さあ、これで平野星満の生存が確認できたことですし、アレサンドロの件について聞いても構いませんか。藤村船長」

キリコは藤村に問うが、回答は最初から決まっていたようだ。

「わかった。続きは船長室で行おう」

平野を見下ろす位置に立ったキリコは穏やかに告げる。

「聞こえたとおりだ。一緒に船長室へ来てもらおう」

「…俺がまだ何をしたって言うんだよ」

「遺体を自分の身代わりに使っただろう。その件で聞きたいことがある」

ひゃははははと平野の哄笑が響く。体をくの字に折り曲げて笑い続ける男は、獣のよう。まともな神経をしているようには見えなかった。

「ああ、そうだ。これも運命だって思ったことのひとつだった!彰が俺のいる船に乗ってきた運命!だけど入れ替わって彰を手にいれようなんて、絶対に不可能だった。なのに俺の運命の歯車はまだ動いていた!船の中で新鮮な遺体が手に入るなんてな。これを運命とせずになんと言えばいい?すべてが俺のために動いてくれたのは、あの気味の悪い死体のおかげなんだ。魚の餌に…」

平野の言葉はそこで途切れた。

表情のないキリコの顔を見たまま、動きを完全に止めている。

「言いたいことは、それだけか」

キリコからは何の感情も溢れては来なかった。ただ落ち着いた声で平野へ告げる。それなのに場の空気は凍りつく。

「これから法的な手段で、君を裁くことになるだろう。私怨として君の存在を消すことは実に簡単だ。しかし時間をかけて、君を罪の中に閉じ込めておく方を俺は選択するよ。大好きなピアノとも、久遠寺彰氏ともお別れだ」

「い、いやだ!」

『お別れ』というわかりやすい単語が平野には届いたようだ。焦ってキリコにすがろうとするが、どうしてもキリコに近付けない。強い拒絶の視線が氷の色をした隻眼から放たれている。

「アレサンドロの尊厳を守るために、俺は君の全てを奪うよ」

己を断罪する冷たい意志を受けて、これからどうなるか理解した平野は、未練がましく同じ顔をした彰にすがる。すでにセキュリティスタッフが間に立ちふさがっているため、近寄ることはできなかったが、あらん限りの力を込めて喉を張り上げる。

「彰!彰!分かってくれるよな!俺がお前を愛してるって!」

なりふり構わず歪んだ愛を押し付けようとする平野の思いは、彰の微笑で砕かれる。

おっとりと人のいい笑顔を、少しだけ困ったように曇らせて、久遠寺彰は申し訳なさそうに口を開いた。

「すまない。君のピアノの音を覚えていないんだ」

この一言。

たった一言で、平野は全ての力を失ったかのように、ぷつりと床に崩れ落ちた。

天の至高の音を追い求めて、様々な犠牲を払った挙句、手に入れられたのは彰の体でも心でもなかった。久遠寺彰の中に平野が奪えるものなど初めから存在していなかったのだ。

何をもってして運命と呼ぶのかはわからない。

思い込みが運命に感じられることはままある。

平野にはその思い込みが、自分だけの妄想だと受け入れることは難しいだろう。

ただ彰の記憶にすら残らなかった自分を、どのように見るのか。それは彼自身の課題であり、塀の向こうでずっと考え続ける事に違いはなかった。

セキュリティスタッフが藤村の指示で動き、速やかに平野を拘束し、メインダイニングの外へ連れて行く。

仕切り直しのアナウンスが流れ、まだまだゲストたちの中にざわめきが止まない中、クルーが準備したビンゴゲームが始まろうとしている。さきほどまで劇の一幕を見せられたような観衆は、とまどいながらも通常のフォーマルナイトの気分を取り戻そうとしていた。

その会場の片隅で、震えていた苺愛に沙織は話しかける。

なんと声を掛けたらよいものか、散々考えあぐねていたようだったが、やはり彼女の性格から黙って放置する選択はできなかったようだ。

「苺愛さん、わたくし誤解しておりましたの。平野星満とあなたのことを…」

聞きたくないと言わんばかりに、苺愛は立ち上がり、メインダイニングを足早に駆けていく。沙織もその後に続く。

「…悪の先生として、ゆだねるべきか、見守るべきか」

「どっちにしろ、口を出す気はないじゃないか」

二人を見送ると、キリコがやって来た。

「お前さん、平野のところに行かなくていいのか」

「俺に捜査権限はないよ。できることはアレサンドロの代わりに、彼を裁判所に訴えることだけさ。調書や何やらは船長が作るだろう」

「それで…お前さんの気は晴れるのか」

「晴れるも何も、まだやることは山積みさ。束の間の休息になるかもしれないから、デッキに出よう。タバコが吸いたい」

俺とキリコは連れ立って、デッキへ向かう階段を上る。

嵐が過ぎ去った夜の闇で、そのピンクの髪は色を失くして風に舞うしかなかった。

マーメイドテールの膝丈ドレスは、今夜のドレスコードにはまったくそぐわない装いだったが、彼女が着れば儚い妖精のように見える。胸の内には強かなものを抱え、苺愛は追いついてきた沙織に思い切り毒づいた。

「どこまでバカにすれば気が済むんだよ!のこのこ付いてきやがって!追いかけてくるのが健斗じゃなくて、あんただってのがサイアク。頭おかしいだろ!」

結った髪を海風に散らされながら、デッキの甲板を一歩、沙織は苺愛に近付く。

「わたくしは、この騒動に関わった全てを知っておく必要があると思ったので来ました。苺愛さんが話したくないなら構いません。ですがわたくしは、あなたのことで誤解していたことがあるので勝手に話します。平野星満とあなたが親子であることを前提に、今日の場面を設けましたが、あなたは知らなかったのですよね?」

「……」

「わたくし、謝りません」

「…別に、あんたに謝られて、なにか得するわけでもないし。相変わらずエラソーでむかつく」

「……」

「なんか言えっての」

「お話をして下さいますの?初めてちゃんと話せる気がします」

「…あんたが知らない、クズの娘に生まれたサイアクな話をしてやるから、聞けよ」

しばらく苺愛は沙織と話すだけ話してデッキから去った。

去り際に俺達とすれ違う。

「よお、落ち着いたか。一本やるよ」

タバコを差し出すと苺愛は嫌悪の表情を作った。

「やめてよね。今回は『愛され系』でやってんの。イメージ壊れる。だいたいラークとかおっさんじゃん」

「どいて」と苺愛は船内に戻った。俺はラークがおっさんと言われたことに地味にショックを覚えてはいたが、隣の眼帯はチェリーという古代種を未だ愛煙しているので、黙っておくことにした。

カンカンとわざと足音をたてて、沙織のもとへ。

夜の海を見つめたまま、彼女は無言だった。

おそらく苺愛から、彼女の生い立ちや、父だという事実を隠したまま接してきた平野の行いについて、事細かく聞いたのだろう。

俺達に気付いた沙織は、ぽつりと呟いた。

「わたくし、世間知らずでしたのね」

寂しいような、哀しいような。

「まーだまだ、お前さんなんか知らねえことが世の中にはいっぱいあるんだぜ。いちいち気にしてる暇があったら、それをしっかり理解して、次に生かせ」

お前が言うな、とぼそりと呟いて、キリコは少し離れた欄干に寄りかかる。

「久遠寺を背負うんだろう?」

俺の問いかけに、沙織ははっきりと首肯した。

「もちろんです。当面はお父様、お爺様に教えを請いながら、必ずや久遠寺コンツェルンを立て直して見せますわ」

「高薄の後始末が先だぞ」

「もう始めております」

にこりとスマートフォンを見せる沙織は、経営者として小さな一歩を踏み出し始めたのを、俺に感じさせるのに十分だった。にやりと笑って釘を刺す。

「15億、忘れんなよ」

「ええ、もちろんです」

このまま終われば、華麗に断罪劇をやりこめた悪役令嬢の物語として終結したはずだった。

ところが、深夜になって事態は急変する。

医務室で眠る彰を平野が刺したのだ。

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お父様が刺されたと聞いたとき、もうベッドに入っていたわたくしは、お母様と一緒にガウンを掴んで医務室へ走りました。

医務室にはセキュリティスタッフの方々が床に犯人を押し付けて、身柄を拘束しています。荒げた声が行き交う中、お父様はどこにいるのかと医務室を見回した時、おびただしい血痕がベッドについているのを見たのです。しかしお父様はそのベッドにはいません。

「沙織!」

わたくしを呼ぶ声は、BJ先生。隣のカーテンを開けると、手術台でしょうか。特殊なベッドの上に寝かされたお父様の傍にBJ先生はいました。駆け寄れば、お父様の腹部は血にまみれて、ベッドにまで血が滴っています。真っ白になったお顔で弱弱しく息を吐くお父様。頭が混乱を極めて来た時、BJ先生はこうおっしゃいます。

「平野の野郎、刺した後で刃を中でぐちゃぐちゃに掻きまわしやがったんだ。五分五分だが、今すぐ手術をすれば助かるかもしれん」

反対に立っていたドクター・キリコは違うことを。

「これ以上の苦しみは、久遠寺彰さんにとって不要です。手は潰され、介護なしでは生きられない。刺し傷以外の内臓の損壊だってある。今後の彰さんのことを鑑みても、今の傷はとても助からない。安楽死をおすすめします」

ああ、もうこの先生方は『悪の先生』の顔をしていませんでした。

「黙れ、キリコ。まだ彰は助かる可能性がある。勝手に見切るのはやめろ!」

血しぶきを浴び、猛虎の如く牙を剥いて叫ぶ黒衣。

「勝手はそっちではないのか。見ろ、傷が内臓にまで達している。出血量も多い。無駄なことさ」

解をひとつしか持たない、氷結のまなざし。

「時間がない!手術をするぞ!」

「お父さんを苦しませる必要はない。安楽死を」

ああ、人の命を、まるで玩具を取り合うかのように争う二人は。

まさしく、『悪』でございました。

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毎日聞こえていた波音がようやく耳から離れて、日差しがまぶしくなってきたころ、一通の手紙が届いた。メールではないところがらしいなと思う。

俺は椅子に座り、樫の木のペーパーナイフで封を切る。かさりと便箋が数枚。

拝啓

新緑の頃、先生におかれましては ますますご繁栄のこととお慶び申し上げます。

先日の株主総会で満場一致の支持を得て、わたくしが久遠寺コンツェルンの4代目として立つことが決定いたしました。当面は祖父が後見人として、わたくしの補佐を務めてくださいます。

高薄グループを傘下に加える体制も整い、皆様のご協力を賜るありがたさを強く感じております。

長らくお待たせ致しましたが、これで先生への報酬をお支払いできる準備ができました。あの時担保にした「わたくしの未来」を小切手に変えてお渡ししたく存じます。後日、担当の者がそちらへご連絡差し上げますので、お手続きをお願いいたします。

ただ…今でもわたくしは自分が下した決断に、これでよかったのかと思う瞬間があるのです。

きっとあの時、どちらの選択肢を選んでも、後で同じように迷ったでしょう。

「久遠寺を背負う」この言葉の重みを日々感じているところでございます。

木の芽時の体調を崩しやすき時期です。先生もどうかお身体をおいといください。

敬具

久遠寺沙織

My fair villainous lady⑪

嵐の中を「コンバーション」は進む。

船の外は荒れ狂っていても、船内は明るく、賑やかな航海最後のフォーマルナイトを迎えようとしていた。

ビッグバンドの演奏が華やかに響き渡るメインダイニングには、既にカリブ海の美しい島々の景色がプロジェクターから映し出され、間接照明とメタリックな輝きのバルーンの装飾がなされていた。

美しく着飾ったパートナーをエスコートするペアはもとより、こういった催しには参加してこなかった一匹狼だって正装して、グラスを傾けている。シャンパンは飲み放題。

クルー達が踊るようにフロアを巡り、ゲスト全員にグラスが行き届いた頃、船長の藤村がフォーマルナイトの始まりの挨拶をした。続いてシェフの大泉が今夜のディナーの説明をジョークを交えてしてくれる。テーブルには立食パーティとしては規格外の豪華な料理が並んでいた。

やがて藤村の一言で掲げられるグラス。乾杯だ。

ぐいっと一口飲むと、隣の銀色は沈黙したまま。

「どうした。少し顔色が悪いか?」

「少しばかり徹夜をね。この年齢には応えるよ。昔は何ともなかったのに」

例のモノを仕上げていたからだろう。ぶつくさいうけれど、超合金チタンの心臓に五寸釘打ち付けまくったハートの持ち主なんだ。なんともないさ。眉を下げた俺の顔を指差して

キリコは言う。

「お前は、やっぱりその服装がしっくりくるよ」

ああ、と思い出したように自分の姿を見る。真っ黒のスリーピースに、同じく黒のコート、コバルトブルーのタイを締めれば闇医者ブラック・ジャックの復活だ。キリコも揃えの黒いスーツに身を包み、一部の隙も無いような様でいる。

そこへ悪役令嬢の登場だ。

「先生方お揃いで。ふふ、やはり悪の先生はこうでなくては」

エディが贈った黒い扇子がすっかり気に入った沙織は、豊かな黒髪を結い上げ、ぴったりとした黒いレースの袖に、ドレープが美しい黒のイブニングドレス。ざっくりと開いた背中は新雪が降り積もったばかりのように白かった。

「お前さんも、悪役令嬢がすっかり板についたな」

「ご指導のおかげです」

沙織の後ろでは絹子がそっと頭を下げた。

さあ、幕が上がる。

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ジャズの生演奏が終り、プロジェクションマッピングが派手な幾何学模様を描き出す、ディスコタイムが始まったばかりの時だった。

ステージ上から高薄健斗の場違いなほど大きな声がメインダイニングに響きわたる。

「久遠寺沙織、貴様のような女には愛想が尽きた!俺はおまえとの婚約を破棄する!」

断罪劇の始まりだ。

健斗が指をさす方向に、ばっくりと人垣が割れる。

その先にいるのは沙織。

それを受けて立とうと言わんばかりに、沙織はおっとりと微笑を浮かべた。

「理由をお聞かせいただいても?」

ピンク頭の一団が怒りもあらわに揃って沙織を睨みつける。苺愛だけが悲劇のヒロインのようなしぐさで、健斗の白いスーツの腕につかまっていた。

周囲の人間が呆然と見つめる中、健斗はマイクを手にして、沙織を指さし声を張り上げた。

「いいだろう。これまでお前が積みかさねてきた悪事について明らかにしようではないか。それを示せば、お前がいかに俺の婚約者にふさわしくないかが分かるだろう。守!」

「はい。ここにいる苺愛嬢に対する嫌がらせ行為について報告します。

・苺愛嬢の私物を無理矢理奪い取り、破損した

・苺愛嬢の交友関係に嫉妬し、自身の生まれ育ちを笠に着て、暴言を吐いた

・苺愛嬢を故意にプールに突き落とし、辱めた

・高薄健斗氏の婚約者である立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした

非常に大きな問題行為です」

沙織は扇子を口元に当てて黙って聞いていたが、守からそれ以上の言葉がないので、拍子抜けしたように口を開いた。

「まあまあ。それだけでよろしいの?皆様、もっとわたくしに対していつも怒っていらしたでしょう?理由はこれだけですの?」

「なにっ」

いきり立つ健斗の後ろに小動物めいてびくびくと隠れる苺愛。今日の装いはギリギリのラインまで落としたオフショルダーのドレスだ。スパンコールが縫い付けられた薄桃色のフィッシュテールの裾は膝が見える丈にわざと調整している。

「では、わたくしからも事情をお話しさせてくださいな」

「黙れ!お前など」

「一方の意見だけ聞いて判断するのは、経営者としての資質に関わりますわよ」

経営者としてと告げられると健斗は押し黙る。

「一点目『私物を無理矢理奪い取り、破損した』との事ですが、ホースシュー・ベイで起こった事案でしたら、苺愛さんからわたくしにネックレスを渡してきたのです。それを手にした瞬間に泥棒呼ばわり。何が起きているのか、理解できませんでしたわ。その他もそう。全ては苺愛さんから始まるのです。奪い取る状況ではございませんでした」

「ひどい!こんな大勢の前でも嘘を吐くの…」

沙織は苺愛の言葉には答えず続ける。

「お次は『自分の生まれ育ちを笠に着て、暴言を』…そうですか。皆様にはあれが暴言に当たるのですね。いくつもありすぎてわたくしも覚えきれておりませんが、触ってはいけないディスプレイに触れるのを注意するのも暴言、アイスクリームショップの前で長々とおしゃべりを続け営業妨害にあたるので場所を移動しようと提案するのも暴言なのですね。前を歩く小さなお子様に気をつけるように配慮を促すのも暴言となると、これ、生まれ育ちと関係あります?」

「き、君は事実と異なることを言っている!証拠がない!」

口角に泡を溜めて守は喚くが、沙織はどこ吹く風だ。

「それを言い出しますと、すべての項目がわたしくしを責める要素として成り立ちませんわよ。それでよろしくて?」

「じゃあ、苺愛をプールに突き落としたのはどうなんだよ!あれはたくさんの人が見ている前での出来事だったろ!」

「突き落とした?」

進み出た飛田を前に、沙織はぱちんと扇子を閉じる。

「わたくしは決して、苺愛さんを突き落としてはおりません。大体わたくしはプールから一番遠い場所にいたのです。あなたがたの輪から遠ざけられて。どうして苺愛さんの側に行けましょう。その場にいたあなたがたは、わたくしの腕が苺愛さんを押すのを見たのですか?」

「そ、それは苺愛が…」

「だそうですよ」

尻すぼみになった飛田の言葉を続けるように、ピンク頭の一団に問いかけるが、言い返せるものはいない。

「あの件については、わたくしも思うところがありますのよ。誰に足をひっかけられたなどと些細なこと。わたくしもプールに落とされましたわ。ですが、その時あなたがたはどうなさいました?水の中に沈んだ私物を拾い上げるわたくしを見て笑うばかり。あんな屈辱、生涯忘れることはございません」

仄暗い炎を灯しだした沙織の視線に飛田は怯む。代わりに飛び出てきたのは小網だ。壇上から下りようとするのを、沙織は扇子をビッと指して止める。

「小網さん、近寄らないでくださいませ。わたくしはあなたに乱暴されたのを忘れてはいませんわよ。身の安全のために、それ以上わたくしに近寄らないで」

室内の照明が落ち、額縁も何もない壁にプロジェクターが向きを変える。激しい幾何学模様から映像が切り替わったプロジェクターには、ある動画が流される。

場所はプエルトリコのカフェに面した路地。カフェの中から撮影されたと思しきそれには

『もう許せねえ!』

小網から発せられる怒号から、沙織が椅子ごと押し倒され、胸倉をつかまれる一部始終が映っていた。

あまりの乱暴な振る舞いに瞠目する紳士。見ていられないと視線を外す淑女。ざわめきが広がり、周囲の視線は小網に向いた。三度彼はこそこそと健斗たちの一番後ろに隠れた。

「それから『高薄健斗氏の婚約者と言う立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした』という件ですが、以前にお話しした通り、わたくしは仲間の内に入れていただいていたとは露ほども知りませんでした。当初は無理を承知で健斗さんの婚約者として輪の中に入ろうと努力はいたしましたが、皆さんと苺愛さんとの結束があまりにも強く、毎日「来るな」と言われましては…それからは、一度も皆さんに近付いてはおりません。わたくし一人の力で苺愛さんを仲間外れにしようなどと、とても」

「関わっただろ!ビーチでも、ダイニングでも!僕たちをバカにして、小網を無理矢理謝らせたくせに!」

飛田は小さな体を思い切り背伸びして訴える。

「喚かなくてはお話しできませんの?どちらもわたくしは近付いていません。そちらから来たのです。バカにしたとは不躾な言い方ですこと。不当に貶められれば、謝罪を求めるのは当然の事。それ以外に何があると言うのです」

きっぱりとした沙織の物言いに、眼鏡をくいっと上げて、守が飛田の前に出た。飛田は幼い顔に悔しさをにじませて、一旦引き下がる。

「では、我々も不当に貶められた申し立てを行おう」

「あらまあ、あなたから?いつもお仲間から不当に扱われているあなたから?」

「どういうことだ?!」

「ああ…ごめんなさい。御自覚が無かったのですね。しかも皆様の前で…わたくしったら配慮が足りず、忘れてくださいませ」

本気で『やってしまった』顔を作って、透かし彫りの入った竹の扇子をぱっと広げ、顔を隠す沙織。

「何が言いたいんだ。私が不当に?みんなから?詳しく教えてもらおうじゃないか」

「そうですか…気が進みませんが…では、事実から。わたくしたちが参加したツアーの自由時間、皆様、苺愛さんと二人きりになる時間がありますわよね。その時間が、守さんは一番短いのです。何をなさっているのか、わたくしにはわかりかねることですが、とにかく守さんが一番苺愛さんといる時間が短いのです。みなさんそれをよくわかっておられるようでしたよ。ねえ、飛田さん」

「へっ?あっ?いやっ、そんなことは」

「ちょっと待て、その前に皆、苺愛と二人きりになっているのか?」

「鷗介、知らなかったの?」

やいやいやりだした連中を置いて、沙織は扇子をふわふわと仰ぐ。

「ぼくに苺愛は言ってたんだ。健斗はお金で言うことを聞かせようとするし、小網は力が強いから怖くて逆らえないって。鷗介のことは、その、かわいそうだからって…」

「か、かわいそう…」

プライドの高さだけが全てのインテリ眼鏡は、よろけて演台にぶつかった。幾分申し訳なさそうなポーズをとりながら、飛田はふくらんだ小鼻に勝ち誇った優越感を隠せない。そんな彼に沙織は問う。

「あなたはどう思われているか、気になりませんの?」

「え…っ、僕は苺愛からいつも相談されているし、信頼されてるから」

「相談、信頼…そう言えば、飛田さんが苺愛さんに贈られたお土産類、余程大事にされていますのね。今までの贈り物を苺愛さんが身に着けてらしたお姿を拝見したことがありませんもの。健斗さんが送った腕時計はキャッシュ決済する前に着けて、それきり肌身離さず。それと違って飛田さんからの贈り物は、お互いの信頼の証…きっと宝石箱の中に大切にとってあるのでしょう。飛田さんと苺愛さんの絆の深さがわかりますわ」

扇子の向こうで、ころころと鈴を転がすように笑う沙織。飛田の顔色は目に見えて悪くなった。セント・トーマスのビーチで贈ったピアスの事でも思い出しているのだろう。守はぶつぶつと壁に向かって喋っている。

「まあまあ、お二人とも、お話は済みまして?」

守と飛田を難なく退けた沙織の向こう側で、小網が息を吹き返した。

「ちょっと待てよ。俺は『怖くて逆らえない』?どういうことだ、苺愛」

「コアミー、飛田君が勘違いしてるだけだよ~」

「苺愛、そんなふうに言うの?」

4股もすれば、こんな修羅場にもなるだろう。お友達ごっこが瓦解しようとする中、健斗が生徒会長オーラを全開にして立ち上がった。

「みんな!論点をすり替えられているぞ!俺達は沙織の悪事を暴くためにここへ来たんじゃないのか?!些細なことは後にして、今はあの悪女をやっつけるんだ!」

沙織は悪役令嬢から悪女にランクアップ。再び一致団結したピンク頭の一団は沙織を口々に責め立てた。

「お前の言ったことは間違いだ。可憐な苺愛が自作自演なんかするはずがない」

「結局お前がしたいことは、健斗の気を引くことだけだ。それが上手くいかないから苺愛に嫉妬をしている。見苦しい真似をいつまで続ける気だ」

「俺達は間違ったことは何もしていない。一々真面目に注意してくるお前が鬱陶しいんだ。この船に乗った俺たちは客だぞ?客としてサービスを受けることに何の文句があるんだ!」

口々に沙織を罵った後、奇妙な静寂がメインダイニングに満ちた。

ここまでの彼らのやりとりは、全て彼ら自身の主観によって語られている。客観的な証拠は何一つ出てこなかった。謂わば他のゲストは寸劇を見せられているのも同様で、彼らのどちらに信用を置くべきか、一切の価値基準を持ち得ていなかったのである。

そこへ一石を投じる者がいた。

「誰か、そのお嬢さんの助けをしてあげなさい」

船長の藤村である。『お嬢さん』としか彼は言わなかった。ピンクか黒かは、指定していない。

しかし、メインダイニングの隅で手が上がった。

「船長、発言の許可を」

「構わない」

挙手をした彼女の周りにざっと人がはけて、スペースができる。

「ファニチャーショップ担当のリンジーです。彼らはいつも店頭に展示してあるソファに座りたがり、私は再三注意しましたが改善されませんでした。一番初めに注意してくれたのは沙織さんです。彼女は辛抱強く、なぜいけないのかを説明しましたが、決して暴言などではありません。私はそれを証言します」

対角線上に大きな手が上がる。

「船長、許可を」

「ああ。今後私が止めるように言うまで、皆、自由に発言して構わない。」

「どうも。メインダイニング、給仕のオズワルドです。苺愛さんがカトラリーがないと騒いだ日、私がテーブルメイクをしました。カトラリーが全て揃っているのを私は確認しています。彼らがテーブルを離れた後、床にフォークが一本落ちていました。私にわかることはこれだけですが、沙織嬢がテーブルにいた全員から糾弾される原因がフォーク一本から始まったのを、とても残念に思っています」

「同じくメインダイニング担当のラーヒズヤです。そちらのピンクの髪のお嬢さんが来た時のダイニングの雰囲気は酷いものでした。辺り構わず喚き散らして、他のゲストの皆様への多大なるご迷惑になってしまい、クルーとしても忸怩たる思いでした。僕はどちらが良いとかは言えませんが、いつも騒動の原因はピンクの髪のお嬢さんがたにあったということは事実として申し上げておきます」

「メインダイニング・メートルディのデボネアです。今朝起こった事件を話します。苺愛さんが沙織さんの頭にオレンジジュースをかけ、彼女を嘲笑した事件がありました。その後沙織さんも紅茶をかけてやり返したので、どちらも同じなのですが、沙織さんの側からは後に謝罪がダイニングクルーに向けてありました。これまで何度も起きた騒動に加え、今朝の件を含めて、彼らの保護者であるミスター高薄に正式に苦情申し立ていたします」

デボネアはここで言葉を切ったが、苺愛側がどうだったのか周囲のゲストにはすぐに分かっただろう。

「船長、図書ラウンジのクララです。航海3日目に苺愛さんがその赤い髪の男性と図書ラウンジの隅で性的に不適切な行動をとっていたので、退出するように注意をしました」

どよめくメインダイニング。隠し玉を温存していたクララだ。

「せ、せ、船長。キーパーのアナです。その、4人の青年の部屋の掃除が、あの、えっと、大変です……性的な意味で…」

ぶはっと吹き出すゲストがいる。それを汚らしいものを見る目で追い払うゲストの妻。

「コーヒーバーのマリベルです。店内からエレベーターホールが見えるのですが、そこで苺愛さんのグループをよく見かけました。彼らの中で婚約者として振舞っていたのは沙織さんではなく、苺愛さんの方でした。健斗さんの腕に常に彼女は抱きついていましたから。それに沙織さんはいつも最後尾をひとりで歩いていました。グループの中で発言権があったようには見えませんでした」

「同じくエディです!とても個人的な意見になりますが、僕は悪役令嬢が、いえ、沙織さんが間違った行動をしているとは思いません!ちょっとやりかたは不器用だけど、彼女の行動は常識的です。ひとりで4人もの男性を独占しようとする女性とは違います!」

「もうわかった。クルーの諸君、ここまでにしよう」

藤村は切り上げたが、今度はゲストの方へ漣が広がりだした。

「そういえば、あの青年たちをいつもカジノで見かけるぞ。高額なベットをしていたが、あの金はどこから出ているんだ。まだほんの子どもから青年になったばかりと言ったふうじゃないか」

「家族で来ていると聞いた。親は知っているのだろうか。私と妻が買おうか悩んでいた限定品のペアウォッチを一括で購入していたぞ」

「余程の富豪なのでしょう。あの女の子にピンクゴールドのブレスレットを何本もプレゼントしていたし」

「だいたいあのピンクの髪の女の子は何なんだ。4人もの青年を侍らせて」

「あの子たちが来た時のダイニングは、確かにひどかったわね」

さわさわ、ざわざわと人の口は止まらない。

メインダイニングの中ほどにいた高薄浩一郎は、健斗たちの振る舞いがここまでの騒ぎになるとは思ってもみなかった。こんなふうになるのなら、もっと序盤の方で止めるべきだった。

そうしなかったのは久遠寺彰が再三再四に渡り、健斗と沙織の婚約を破棄するように求めてきていたからだ。理由は沙織の人格が健斗に不適格だと言う主張ばかり。自分の娘をそこまで貶めて話すのは、何か意図があるのかと訝しんだからこそ今がある。

隣で静観していた久遠寺彰も最初こそ平然としていたものの、今は得体の知れない顔つきで壇上を見据えている。

「久遠寺さん」

浩一郎が呼びかければ、座った眼で返された。彼は一言も発しない。ますます剣呑な雰囲気を感じながら、提案をひとつした。

「このまま息子たちに任せておけば、場はもっと荒れてしまう。今のうちに治めてしまいましょう」

彰ははっきりしない返事だったが、構うものかと浩一郎はメインダイニングのステージ目がけて歩き出した。それを遮るように健斗の大声が響く。

「うるさい!うるさい!外野は黙っておけ!」

健斗は苺愛の腰を抱き寄せると、高らかに宣言した。

「俺は間違ってなどいない!苺愛と結婚する!だからお前なんかに用はない!とっとと失せろ、沙織!」

「健斗ぉ~、あたし、あたしっ、うれしい…」

「ああ、俺のかわいい苺愛。もうお前を悲しませたりしない」

べっとりと甘い蜜菓子のような二人のやりとりを見て、沙織はぱちぱちと手を叩いた。

「はい。わたくしも婚約破棄を申し入れたかったのです。受け入れてくださいますね?」

「…?お、おう。受け入れよう」

すっかり立場が逆転したことに気が付かない健斗は、そのまま沙織の笑顔を見つめ続ける。

「さあさ、皆様方も祝福なさってくださいな。苺愛さんは健斗さんとご結婚なさるのですって」

呆然と健斗と苺愛の後ろに立つ3人に向けて、沙織はにこにこと話しかける。先程中断された話題の再燃だ。

「…待てよ。俺は苺愛が健斗と結婚するなんて聞いてねえ。苺愛は俺と相性が一番いいから、ずっと一緒にいたいってあの夜言ったよな。健斗には金で言うこと聞かされてるって」

「僕にもそういったよね。苺愛、君を一番思ってるのは僕だよ!他の奴らの言葉に騙されちゃダメだ!」

「私をかわいそうなどと表現するなんて、冗談がきつい。だって君は私の全てを捧げた女性なんだ。やさしく包容力に満ちた純情な君が、他の男に…」

3人はそこまで口にして、違いの顔を見合った。たっぷり時間をかけて、ようやく理解をする。よろしく兄弟、と言い合えるほどの度量を誰もが持ち合わせていなかった。

間抜けな表情の男子高校生3人へ、沙織は笑顔のまま続ける。

「どうなさったの?急に元気をなくして。あなたがた、誰のために怒ってらしたの?」

苺愛のため、苺愛が喜ぶから。

だけどその前提条件は崩れた。自分は苺愛の一番じゃない。だったらこれ以上彼女のために尽くすのは意味があるのだろうか。そう疑い出せば、恋に燃える炎はやせ細る。

結局彼らは、しぼむようにして壁際へ下がった。心ここにあらず、といった具合で。

「それでは、わたくし、お二人の門出のために動画を作っていただきましたの!ご覧になってくださいませ!」

明るい沙織の声を合図にして、再びプロジェクターが動き出す。壁に映し出されたのはSNSに投稿されたと思われる写真の繫ぎ合わせだった。ロマンティックな音楽と共に、おそらく二人の出会いであろう自撮りのツーショットから、ビーチで遊ぶ苺愛の水着姿、きわどい肌の写真。朝日の中で白いシーツに沈む裸の健斗。キスをする写真まであった。まるで結婚式のなれそめムービーのようだが、決定的に違うカットが入ってきた。

『動画なんか撮るなよ』

健斗の声。画面には豪奢な黒と金の装飾がされた部屋が映っている。

『だって~スイートルームなんて~簡単に入れないし~、アップしたら、バズるかもだし~』

携帯のカメラと思しき画面は部屋のあちこちを映してる。天井のシャンデリア、高価な革張りのソファ。バスルームまで撮影していく。

『いいから、こっち、こっち』

『すごお~い』

『父さんたちの部屋は一番グレードが高いから、ほら書斎まであるんだぜ』

『かっこいい~』

カメラは書斎の中をぐるりと一周する。

ムービーはここで急にスローモーションになる。

再び通常のスピードで再生されるムービー。書斎の椅子に座って笑う健斗。

『俺も将来ここに座るかもな』

『じゃあ~あたしは?』

カメラの向きが変わる。ここでムービーはストップ。画面には机の上に置かれた紙が写っている。何かの罫線と数字。

ムービーが再生されて、苺愛は健斗の膝の上に乗っていちゃついている。携帯は机の上に置かれたまま。さっきと違う角度から書類が見える。

次のカットでムービーは真っ暗に切り替わり、ぽつり、ぽつりとさっきの断片的に映された数字や書類の欠片が画面に現れる。スローモーションから切り取られた画像も繋ぎ合わせれば、一枚の書類が出来上がった。

〈〇〇市体育館増築工事〉

〈入札価格〉

〈A社 1億3000万円〉

〈B社 1億6000万円〉

〈C社・・・

高薄浩一郎の背中は汗でびっしょりになっていた。

どうしてあんなものが、ここで晒されている。

あれは誰にも見られてはいけないもの。

妙な動悸がして耳鳴りさえする。

なぜ、息子にカードキーを求められたときに熟慮しなかった。

なぜ、息子の後ろにいるピンクの髪の少女に気が付かなかった。

あんなところに書類を置きっぱなしにした自分にも腹が立つが、やすやすと他人を部屋にいれた息子の軽率さにも腹が立っていた。

なぜ、なぜと繰り返しても、現実として書類は壁面に映し出されてしまっている。

しかし、ここは海の上。書類のことなど知らないと言い切ってしまえば乗り切れるように思えた。

浩一郎は何も気づいていないようなそぶりで、拍手をした。

「いやあ、臨場感たっぷりの映像だったね」

令嬢の微笑で沙織は返す。

「ええ、こんなに愛が溢れたお二人の姿を目の当たりにしては、わたくしから婚約破棄を申し入れるほかありませんわ」

「それなのだがね、沙織さん。今はここだけの話にしておいてくれるかい」

「まあ、どうしてですの?後半部分はよくわからない映像になっておりましたが、その他は健斗さんと苺愛さんの愛を育む過程ではありませんか。二人のお祝いになるかと思い、わたくしお友達に動画を送ってしまいました」

「なにっ…」

扇子で顔を隠した沙織に迫ろうとした浩一郎の携帯が鳴る。なかなか鳴りやまないそれを忌々し気に受け取り、彼は見る間に顔色を失くした。

海の上で電話は通じない。だけどもWi-Fiの普及でメールは可能になった。浩一郎の携帯にはメールがひっきりなしに届き続けている。

2m近いがっしりとした体格の男は、ただ画面を埋めていくメールの抜粋を見つめて、岩のように固まってしまっていた。

「父さん、どうしたんだよ。父さん?」

浩一郎の様子がおかしいことに健斗は焦る。何が原因で父が取り乱しているのかは知らないが、ただならぬ様子にこの騒ぎでこれまでしてきた悪事が父に一気にバレるのではないかと冷汗をかいていた。

すでに父の部屋に勝手に入ったことはバレた。ではクレジットカードを盗んで使っていたことは隠し通さなければならない。そんなことは明細を調べればすぐに分かるのだが、愚かな健斗には少し先の未来さえ見えていなかった。

父の拳が彼の頬を殴る未来さえ。

動画に高薄の持つ書類の映像を混ぜ込むよう提案したのは、沙織だった。

知り合った初日に、沙織を含めた6人は苺愛の提案で半ば強制的に連絡先を交換し、沙織は自分のスマートフォンに初めてSNSのアプリを入れた。その夜、自室で四苦八苦して自分のアカウントの設定をして、教えられた苺愛のアカウントを覗いたとき、沙織は思わずスマートフォンを取り落としてしまった。

健斗と苺愛のツーショットが記事のトップに固定されていたからだ。

その後も苺愛の投稿は続く。きらきらと輝く腕時計を着けた苺愛の横には、揃いの腕時計をつけた健斗の姿。「ねおき」と題された投稿に写るのは、肌もあらわな苺愛の姿と昨日健斗が着ていた柄のシャツ。

見るのがつらくて、それきりアプリは開いていなかった。

しかし彼女の悪の教師たちはそれを許さなかった。ミモザの木の陰でそんな上手いエサがあるなら初めから出せと言われたときには、流石に泣きそうになった。デバイスから必要な情報を引き出すと、銀髪の悪の教師はあっという間に動画を作り上げ、白黒の悪の教師は動画から得られた情報を公開するシナリオを書き上げた。

そのシナリオには沙織の希望通り婚約破棄が盛り込まれていた。

高薄浩一郎は久遠寺との婚姻をあきらめない。それは沙織の目からしても決定事項だった。

平野は高薄と久遠寺を引き剥がしたい。理由は婚約破棄になれば、久遠寺が高薄から資金援助を得られず、破滅へと追い込まれると平野が信じているからだった。

沙織は健斗との関係が修復不可能なのを理解していた。婚約者がありながら、苺愛とここまで親しくなった男性を夫と見ることはできない。したがって婚約破棄は願ってもない事態。だが、ただ婚約破棄するのでは平野の思うつぼである。

このクルーズが終わると同時に、業界全体に久遠寺が高薄から見放された存在だと言う事実が作られてしまう。久遠寺のプライドは地に落ちる。

あの畜生にも劣る所業の男を喜ばせるのは、少しでも許せなかった。

地下で苦しみに耐え抜いている父の意地に報いたかった。

そこで、平野の思惑を破るためには、高薄を価値のないものに変える必要があった。

苺愛が沙織への嫌がらせ以外の意図をせずに、SNSに上げていた動画に映っていたのは、高薄が関わる公共事業の入札価格。極秘の資料だ。それを持っていただけで、談合の疑いを持たれかねない。いいや、疑いでは済まないかもしれない。

高薄がここまで積み重ねてきた信用は、この談合疑惑で崩れるだろう。

そこまで高薄が憎かったか。違う。

そこまで健斗を恨んでいたか。違う。

違うのだ。

高薄と久遠寺彰を天秤にかけて、迷うことなく沙織は父を、彰を取った。

それだけなのだ。

だがそれを人は悪意と呼ぶだろう。打算的で、独善的。

目的のために他者を陥れ、地獄を見せる明確な悪意。

沙織はそれを一生背負う覚悟をした。

「ねえ、なにがあったのよ~健斗ぉ~おじ様、どうしちゃったの?」

殴られた頬を押さえながら、とぎれとぎれに現状を整理しようと健斗は必死に頭を回転させている。

「ウチの会社が、まずいことになった。多分、父さんの様子じゃ、かなり酷い損失が出るんだと思う」

「なにそれ」

「苺愛?」

「健斗の会社、倒産するの?」

「そこまではわからない。ただ、まずい状態だってのは…」

「なにそれ!なにそれ!なにそれ!」

苺愛はヒステリックに叫んだ。

「意味ね―じゃん!金持ちじゃなけりゃ、落とした意味ねーよ!バカじゃねーの?!」

醜悪な形に顔を破壊して、口から次々に刺々しい悪態をつく。そこにはピンク頭の一団が恋焦がれた、可憐な少女はすっかり姿を消してしまっていた。

「あんたなんか金持ちじゃなけりゃ、ただの世間知らずのバカ息子じゃん。あーまじ、時間損した!」

地団太を踏んで、喚き散らす姿は鬼女のよう。しかし、何かに気が付いたようにそれをころりと変えて、にんまりと破顔する。

「あ、そうだ~コアミーのお家、不動産たくさん持ってるんだよね~。ねーねー、あたし、健斗に騙されてたの~コアミーなら」

ターゲットを変えて苺愛は小網にしなだれかかる。だが流石に先程の豹変を見せられて、うんと頷くほど彼は目が曇ってはいなかった。

「俺の事も財産目当てだったのか」

「違うよ~あたしは~健斗にだまされて~~」

「いったいどの顔で騙されていたなどと言うのか。私の実家が老舗の旅館だと言うことも嗅ぎつけて近付いていたのでしょう」

「結局苺愛が見ていたのはお金だったんだね…」

取り巻きどもが完全に自分から離れていくのを感じながら、苺愛はあがく。

「みんな、ひどい~楽しんだのは同じでしょ~~」

誰も口を開かない。気味の悪いものを見るように苺愛を退けようとしていた。流石にこれ以上は無駄だと判断したのだろう。苺愛は仮面を完全に脱ぎ捨てた。

「あーっ、もう!どいつもこいつも使えない奴ばっか!ヘタクソだし!気が利かないし!根性ないし!気分悪。帰るわ。どいて」

壇上から下りようとする苺愛の行く手を遮るものがある。沙織だ。

「まあまあ、苺愛さん。もう少し、あなたに見せたいものがありますの。お付き合いなさって」

「チッ、誰がテメーの言うこと聞くんだよ。気取りやがって」

扇子を耳元に当てて、苺愛に沙織はそっと囁く。

「あなたをよく知る男性に関係していて、ひょっとしたらこの先あなたのお金に関係するかも…と申し上げても?」

沙織はこれまでと同じように微笑を絶やさなかった。しかし、苺愛は対照的にすべての表情が抜け落ちた。

「あんた…」

その後の苺愛の言葉は聞き取れなかったが、彼女はその場に立ち尽くす方を選択した。

覚悟を持った悪役令嬢の暗い瞳が、父の形をした悪意の源に向かう。

「観念なさい。平野星満。あなたの目論みは全て砕けましてよ」

びしりと扇子で指した先には久遠寺彰〈だった〉人物がひとり。

どうやら悪あがきをする気もない様子で、短く唸り声を上げ、男は髪をかき上げる。とたんに整髪料で固めた前髪は崩れ、同じ顔でも全く印象の違う風貌が現れた。

柔和な目じりは吊り上がり、微笑を絶やさなかった頬はニヒルに歪められている。

長らく久遠寺彰のふりをしてきた平野星満が、本来の姿を見せたのだ。

「ショーマ!」

悲鳴に近い叫びを上げたのはマリベルだ。

マリベルの声を全く無視して、平野は沙織に向き直る。

「ああ、ああ、面白い見世物だった。で、俺はトリか」

毅然として沙織は平野に立ち向かう。

「はい。これがお父様の望みですから」

「彰の望み…?そんなものどうしてお前が知っている」

「娘ですもの。お父様が、久遠寺のプライドを守り通そうとすることくらい、わたくしにもわかります。そのために、わたくしは婚約破棄の汚名を被ることも、高薄さんの手を取らない選択にも躊躇いはありません」

「へええ…プライドで腹が膨れるのか。会社がどうなっても良いって?」

変形する節足動物のように、平野の顔に憎悪の皺が刻まれていく。

「それとこの問題はすでに別件です。確かにわが社は現在資金繰りに喘ぎ、追い詰められてはいますが、別のルートでの解決法を見つけています。ねえ、お母様」

黙っていた絹子が沙織に寄り添い、彼女をかばうように平野を見据える。

「ええ。高薄さんと我が家は長いお付き合いがあったからこそ、資金提供の話がすぐに出ましたが、長期的に見れば何も高薄さんに拘る話ではないのです。すでに日本で義父が動き出しています。あなたの思い通りにはなりません」

はは…と砂のように軽い平野の笑い声。ゆらりと幽鬼の如く沙織に近寄るのを、絹子は必死の形相で食い止めようとする。

「金、金…ああ、俺はこんなに金に苦労しているのに、あるところにはあるもんだよなあ。これも俺と彰の違いだ。全く忌々しいぜ」

「わたくしは平野星満、あなたを訴えます」

「あーっはっは!何の罪状だ?彰に入れ替わっていたことが、そんなに罪になるのかい。俺は確かに高薄にお前の婚約を取り消すように、資金提供を止めるように再三告げ口はしたけれどな、とどめを刺したのは、お前自身だぞ?俺の動きなど些細なものだ。何もしていないに等しい」

絹子を容易く押しのけ、狂人のそれとよく似た瞳で、平野は沙織の顔を覗き込む。

「ええ。おっしゃる通り。ですがお父様自身に対してはどうでしょう。わたくしが何も知らないとお思い?」

「………彰の事、だと」

フロアに満ちていた幾何学模様のダンスが止んだ。

メインダイニングの入り口付近から、車椅子が近づいてくる。キリコに押された車椅子は、沙織にほど近い場所で停まる。

車椅子に座っていたのは久遠寺彰、本人だった。

茶色のガウンを身にまとい、身なりを清潔にしてはいたが、手は包帯で巻かれ、痛々しく。平野と瓜二つの顔に浮かぶ痣は、見るに堪えず。

ついに夫と再会した絹子はその場で泣き崩れてしまった。

妻を労わった後、彰は沙織と目を合わせた。加害されてもなお、彰には憂いの表情はなかった。そればかりか固く結んだ口元を、僅かに笑みの形にして頷き、沙織の背中を押したのだ。

それに応えるように頷き、毅然として沙織は平野に対峙した。

決意を相貌にみなぎらせ、久遠寺の意地を全身に背負って。

固く拳を握り、両の脚でフロアを踏みしめる。

沙織の怒りが仄暗い瞳の底から沸き立ち、彼女がこれまでに抑え込んできた激情が迸った。

「わたくしが訴えるのはお父様の命と体を傷つけた罪!そして、我々久遠寺を貶めたあなた方親子への名誉棄損の罪!知らぬとは言わせません!」

「親子?!」

浩一郎に殴られて、壇上の隅に座り込んでいた健斗が、沙織にすがるように駆け寄った。

「親子って、俺と父さんの事か?あの、俺は確かにお前に酷いことをしたかもしれない。でも父さんは違うだろう?父さんなりの思惑はあったけど、絶対にお前を貶めようとか、そんなつもりじゃなかったと思うんだ」

「分かっていますよ、健斗さん。高薄さんのことではございません」

「じゃあ、親子って一体…」

おろおろとさまよう健斗の視線は、下を向く平野と、無表情の苺愛で止まった。

「さあ、悪役令嬢。上出来だ。ここからは本物の悪役の出番だぜ」

その声と共に沙織の前で背を向ける一人の男。

ばさりと真っ黒のコートが舞った。

My fair villainous lady⑩

第10章

最下層のインサイド客室。

幽霊が出ると噂の部屋からは、またうめき声が聞こえる。

船のエンジン音にかき消される程度の物音ではある。しかし部屋から漏れ出る音が、時折言語になることがあると、クルーの間で噂になっていた。

クルー達は知る由もない。捜査され、誰もいないと結論付けられたこの部屋で、倒錯的な愛を囁く男がいることを。

「…忘れられないんだ。俺が16の時のコンクールで、お前が演奏したエチュード…あんなふうに弾けたらって…その次のコンクールでは意識して弾いてみたんだ。あの時も同じブロックにいたんだし、聞いてくれてただろう?」

「………」

「そんなふうに言うなよ。神のいたずらか何かで同じ顔に生まれた同士じゃないか。気味が悪いほど似てるよな、俺達は。なのにピアノの音は全然違う」

「…………」

「当り前?そうだよ、当り前だ。だけど俺はそれが許せない。お前の音は全部覚えてるよ…紛れもない天才っているんだと死ぬほど思い知らされた音だから」

「……」

「どんなに俺が血反吐を吐いて鍵盤をたたいても、お前はその遥か高みへ翼が生えたように飛んでいくんだ」

がつん、と鈍い衝撃。

「なあ、なあ!なあ!どうしてピアノを辞めた?!神が与えた才能を、どうして世に知らしめないまま、ピアノを辞めたんだ!家を継ぐため?知らないね。お前はピアノを弾き続けるべきだったんだ!輝く海のような旋律、渡る風のような諧調、お前の指が奏でる音は、この世界から、なにひとつ、どれも失われてはいけなかったんだ!」

「…………」

「ああ、謝らないで。彰。違う。お前が選べなかったのはわかる。いや、わからない」

「…」

「忘れられないんだ。お前の音が、どれもこれも。全部愛おしくて記憶から消したくない。あの音を再現したいんだ。俺の指で。なのにどうしても上手くいかなくて、俺はこんな船の上で、お前の音をずっとずっと追い求め続けて、ああ、アリア、アリア…」

「………」

「おかしくなりそうだよ。お前のせいだ」

「…」

「ちょっと入れ替わってみたけど、お前の生活は金がかかって窮屈なだけじゃないか。お前の妻も面白みがない。少し色目を使っただけで逃げ出した。せっかくお前と兄弟になれるかと思ったのに。可哀そうな彰。指は動かないし、もう俺なしじゃ生活できないもんな。俺は全部してやるよ。お前のしたいこと全部かなえてあげる。愛してるよ、彰。愛してる…」

平野の執着がある限り、久遠寺彰は命が残される。

五体満足の保証はない。

ただ久遠寺彰自身が、平野の怨念を受け止める覚悟をして、救出を拒否した。言い換えるなら、自らの身の安全より、久遠寺コンツェルンの存続を取ったのだ。娘の沙織に全てを託して。

平野星満の目的は久遠寺彰の破滅。

本人の身柄を拘束しても、まだ消えない怨嗟の炎は、彼からピアノを奪った久遠寺コンツェルンそのものに向かっている。

彰に化けて、高薄に不信感を抱かせるような振る舞いをしたり、わざと沙織を貶して婚約を邪魔してみたり。平野の行動自体は地味だが、事実は平野の思い通りになりつつある。

ここまで状況が悪化したのは一人の存在があったからだ。

BJはその人物に関する情報を整理する。こんな情報を切り札にするなんて、エビデンスは弱いし、ハッタリに近い。おまじないみたいなもんだが、BJはこれに賭けると決めた。

平野は間違いなく船上で久遠寺コンツェルンの息の根を止めに来る。

そのときに、このおまじないが効かなければ、15億円は泡と消える。

罫線

明かりのない廊下を歩き、操舵室へ向かう。

立ち入り禁止なんて書いてあったけど、文字だけじゃ俺の足を止める理由にならない。操舵室の奥に船長室があると聞いた。そこを目指しているのだが、どうやら先客がいるようだ。

タコ墨のような暗がりに、一筋の光。

ドアから漏れている光のもとが船長室だ。

「私は今回の事を遺体損壊事故だと捉えています」

聞きなれた声に驚く。キリコだ。

ドアの隙間から窺えば、キリコが髭の生えた丸顔の男と向き合っているのが見えた。あの男が船長の藤村か。藤村は、まあまあとキリコをなだめるような仕草をして、こう言った。

「あなたのお気持ちはわかります。ドクター・キリコ。ミスター・アレサンドロの遺体がどこに行ってしまったか説明できないのは、当船の大きな失態です。しかし私には捜査の権限がある。海の上では私が警察の役目をします。捜査した結果、海から上がったあの腕はミスター・アレサンドロと言い切れなかった。そう申し上げているのです」

「捜査?」

キリコの顔が苦々しく歪む。

「状況証拠だけ並べて、まともな鑑識もできない状況でよくもそんなことを。あなたは一番大事なことを疎かにしている。平野星満が本当に死んだのか、はっきり言えるだけの証拠を持ち得ていないのでしょう?その証拠を、腕が見つかって以来、探そうともしていない。これを職務の怠慢と呼ばずして、何と言うのです」

「捜査は続けています」

船の威信をかけて藤村は一言に重みを持たせる。

「では何故、船内新聞に平野の訃報が出たのを取り消さないのです」

藤村は黙ったまま、キリコを見つめている。その沈黙は肯定であるのか否や。

「あなたがたクルーの間で、平野が扱いにくい人物であったのは理解します。ですがそれは、アレサンドロには関係がない!」

語調を荒げてキリコは藤村に詰め寄る。

「アレサンドロはこの船に乗れたことを、心から楽しんでいた。人生最良の日だと、沈む夕日をいつまでも見つめていた。彼がこの船に乗ったのは、海の藻屑と化すためでは断じてない!彼の尊厳を失う行動しかとれない「コンバーション」は最低の船だと、私は法的な手段に出ることも厭いません」

「待ってください。ドクター・キリコ、まだ捜査は継続中だと申し上げたではありませんか」

「ではバミューダの鑑識に至急問い合わせてください。あの腕がアレサンドロのものだと、もう結果は出ているはずです。クルーの健康管理をする鈴井さんなら平野の血液型くらい知っているでしょう。あの腕は薬班が浮かび、爪には病人特有の症状が表れていた。この状況証拠もあなたに初めに申し上げたはずだ」

キリコは止まらない。こいつがこの一件に関わる全てがアレサンドロの名誉のためだからだ。硬質な銀の髪の奥のアイスブルーが煌々と怒りに燃えていた。

「例えあの腕がアレサンドロのものでなかったとしても、この船で彼の遺体の行方がわからなくなった事実は確定しているのです。遺体安置室に誰もが入れる状況であった点、杜撰なセキュリティ。あなたが言う通りに、この船の大きな失態だ。これらの責任をどう取られるつもりなのです」

藤村は生き馬の目を抜くような男だと聞いたが、キリコの怒りの前では、髭が生えた顎を何度も撫で「できることをしましょう」と言うのが現状の最適解のようだった。

「私はあなたを信用していない。ただこの船で集めた情報は別だ。あの腕がアレサンドロのものだと証明できる情報を私は得ている。今ここでは行わないが、情報の開示の際には最大限の便宜を図っていただきますよ」

ちらりとキリコはドアの方を見た。

「おまえも、それでいいな」

黙って室内に入る。藤村は二人目の来訪者に驚きを隠せなかった様子だが、俺は構わず言いたいことだけ言う。

「構わない。特に俺はクルーの力を借りて、ここまで来た。彼らに咎めが行くことだけは避けてほしい」

「クルーが?あなたたちは何をしようとしているのです?」

「秘密だよ。藤村艦長。この男が気にしている、アレサンドロの腕についても、平野の生死についても明らかにしたいと思っている。だから邪魔をしないでくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」

藤村は眼鏡の奥から日本刀のような視線を俺に向けた。

「わざわざ私に伝えに来たのであれば、当然、ゲストの皆様とクルー一員の身の安全は保障されるのでしょうな。いいや、安全だけでは不十分だ。ゲストの皆様が不快になるような出来事ならば見過ごすわけには行きませんよ」

不快感については絶対の保証はしかねるが、こればっかりは受け取る側の問題だ。

「ああ、余興だと思ってくれ。細工は流々仕上げを御覧じろって奴だ」

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ママはくじ運がなかった。

なのにギャンブルばっかりして借金作って。

自分の口紅は買うのに、あたしの靴下一足買ってくれたことない。

ママはくじ運がなかったけど、美人だった。

お客はいつもママにキレイなジュエリーを贈ってくれる。

ジュエリーがママを飾るのは一度だけ。次には質屋に流れてる。

ママはくじ運がなかった。

最後に引っかかったのは年下の花売り。

よせばいいのに籍まで入れて、あたしが10になったら死んじゃった。

ママが死んだ後に、変なピアニストがやって来た。

部屋の荷物を全部売っぱらって、札束を数えてる。

ピアニストはそのままいなくなるかと思ったけど、あたしの顔を見てこう言うの。

「顔だけはアイツに似てるんだよなあ。もっと育てばイイ女になるだろう」

そのままあたしは連れて行かれて、ピアニストと一緒に暮らしだす。

こいつもかなりのクズだったけど、他に行くところがないんだから仕方がない。

女にされた次の日に客を取らせようとしたから蹴飛ばした。

あたしを安売りするんじゃねえ。

あたしにはママそっくりのキレイな顔がある。ママにはない若さがある。

あんた、それで儲けたいんでしょ。じゃあ、無い知恵絞れよ。

それじゃあと、ピアニストはあたしに男の悦ばせ方を教えた。

ピアニストと船に乗って、自分で客を取った。

次の日、初めて自分のお金でダイヤの付いたネックレスを買った。

ぞくぞくしてたまらなかった。

ダイヤってなんてキレイなの。キラキラしててずっと見ていられる。

もっとキラキラしたいって心の底から思ったの。

あたしはかわいいし、スタイルいいし、いい性格してるし。

 キラキラした世界があたしを待っているはずだもの。

もっとあたしがちやほやされて、みんながあたしをうらやましがる世界があるはずよ。

王子様がいれば最高ね。

あたしはママみたいにくじ運が悪い訳じゃない。

引かないのよ。くじなんか。

これだってわかる金持ちにしか寄らないの。それが一番、効率がいい。

さっさと儲けて、自由になるの。

船から船へ。渡るたびあたしはキレイになる。

もっと、もっとキラキラしたい。

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ぽたり、ぽたり。

オレンジ色の雫が床に落ちていく。

「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」

頭からオレンジジュースをかぶった沙織と、その頭の上でコップを逆さまにして笑う苺愛。

今朝のビュッフェでの出来事である。

これまでの航海の中、全く崩れなかった天候が今日はよろしくない。

強い北風がデッキに吹き付け、分厚い黒い雲が視界一杯に広がっていた。

少しばかり揺れを感じる気がするが、不快になるほどではない。デリケートなゲストには酔い止めを求める人がいるようだ。あまり酷いようなら診てやらんこともないが、如何せん船酔いでは対処療法しかできないし、何より船医に勝る治療ができるとも思えなかった。鈴井に任せよう。

モーニングビュッフェのテラス席は閉鎖。代わりに船内のレストランで朝食をとろうとするゲスト達の長蛇の列があちこちにできていた。

「並ぶの、だるいなあ。ルームサービスにしようぜ」

「そうですわね…この込みようは、想定外です」

行列にげんなりした俺と沙織の声を、キリコはやんわりと否定する。

「ルームサービスにしても、きっと厨房はてんやわんやさ。俺達と同じ思考の人間がたくさんいるだろう。いつになるかわからないルームサービスを待つより、ここで済ませてしまった方が見通しが持てていいと、俺は思うがね」

それもそうだと沙織はキリコを見ながら、やはり部屋から出てこなかった絹子の心配をした。

「母も連れてきた方が良かったでしょうか」

「本人は嫌がったんだろう?」

昨夜明かした久遠寺彰の事実は、少なからず妻の絹子の精神を揺さぶった。そのショックが抜けきらず、ベッドから起き上がるのが精一杯だったというから仕方がないと言えばそうなのだろう。

「いえ…わたくしが、お部屋にいてくださるように頼みました。母を平野に会わせたくなくて…正しい判断をした、と思います。今は…」

俺達が並ぶ行列の先、ビュッフェコートに高薄浩一郎と同席する平野の姿があった。平野は彰の私物であろうジャケットを着崩し、サングラスをかけていた。おそらくクルーに顔を見られたくないからだろう。天候が悪いのにサングラスとは…

「余計に目立つとは思わんのか」

「思ったらしいぞ。ほら」

平野は慇懃に礼をして、高薄浩一郎の座るテーブルから離れた。そのままするりとフロアーに出て、あっという間に消えてしまう。

「勝手知ったる我が船って感じだな」

「高薄のおじ様に何を話していたのでしょう」

「どうせロクでもねえことさ。お前さんの婚約を白紙にしたいだの、資金提供はいらないだの、その当たりだろ」

3人でブツブツやってたら、意外と早く席が空いた。

ビュッフェのフロアを区切るパーテーションの役目をしたテーブルヤシの植え込みのすぐそばに、俺達は席を確保した。

キリコを荷物持ちにしている間に、俺と沙織はビュッフェのごちそうへ。メニューが多くて正直迷う。そうだな、昨日の晩は創作系のフレンチだったから、今朝はアジアの飯が食いたい。

「ガパオ、ガパオ」

「中華粽もありますよ」

「食う。一個くれ」

実は沙織は結構食べる。この細っこい体のどこに納まるのかと思うくらいに。だからついつい皿に料理を盛るのがおもしろくなっちまって、注意が足りなかったんだが、ピンク頭の一団が俺達の後ろをついてきていた。

キリコと交代して、先に食べ始める。

沙織はみんなそろってから食べるべきだと主張したが、お生憎様、『悪の先生』はそんなことはしないのだ。さっさと食ってお代わりしたいが、向こう側に雰囲気の悪いピンク頭の一団が見え隠れしている。ここで沙織をひとりにしてはいけない。昨日は赤髪のガキに飛び掛かられたのだ。シッカリ教育的指導をしたので次はないだろうが、奴のほかにも錯乱した奴がいるかもしれんし。

「後ろに、いらっしゃいますの?」

「あんな奴らに尊敬語使うなよ。『あいつら、いる?』でいいだろ」

「長年染みついた言葉遣いですもの。すぐには…」

整った眉を少し曇らせるのが憎めなくて、意地の悪い質問をしてやった。

「お前さんの話し言葉は、実に古臭いねえ。時代劇のお姫さんみたいだ」

「わかります?」

沙織の返答は予想外だった。

「小さいころお爺様が好んで見てらした時代劇に登場する姫が大好きだったのです。『あんなお姫様に私もなる』と口調を真似し始めたのが切欠なのです。これでも、まだマシになりましたのよ?学友も同じような口調でしたから、これでもう大丈夫だと思っておりましたが…うう、まだなのですね」

まいったね。本気でお姫さんか。かわいらしいやら、方向性ずれまくってるやらで、けらけらと笑ってしまった。つられて沙織も笑う。そして俺の目は健斗の視線を拾う。焦って顔を背けたけれど、そんなに沙織が気になるか。

キリコがテーブルに戻って来たから、俺はようやくお代わりに旅立てる。

初日に我慢した分、甘いものも食べてみようか。シフォンケーキにカスタードクリーム、スコーンにクロテッドクリーム。ザッハトルテにたっぷりのホイップもいい。

甘い思考に浸っていた俺を現実に引き戻したのは、視界の隅を動くピンク頭の存在だった。

ピンク頭の一団は赤髪のガキを場所取りにして、あいつ以外のメンバーで料理を皿にとっていた。

「はあ~、こんなん食えって言うの?野菜ばっかじゃん」

「青虫になった気分です。空になった皿は多いし、肉はハムだけ。後は魚料理がほとんど」

「なんの料理かさえ分らんな。メニューくらい日本語つけろ」

文句ばかりの男どもをピンク頭は無視して、オレンジジュースを手に取る。

「苺愛、もういいの?」

「うん、あたし朝はあんまり食べないんだ~。先に戻るね~」

そのままビュッフェコーナーを曲がり、ピンク頭はあらぬ方向へ足を進める。沙織の席へ一直線。

キリコは、と振り返るけれどいない。沙織ひとりだけが、俺達の席についている。

そこへ高々とオレンジジュースのグラスを乗せたトレイを掲げ、ピンク頭は沙織の真後ろに立った。

テーブルヤシの植え込みに躓いたふりをして、よろけたピンク頭のトレイからオレンジジュースが零れ落ち、残さず沙織の頭の上に降りかかった。

オレンジジュースの雫が、ぽたぽたと床に落ちる。

「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」

頭からオレンジジュースをかぶった沙織は、運悪く今朝は白いブラウスを着ていた。胸までびっしょりとオレンジ色の液体で濡れている。しばらく言葉が出ない様子で呆然としてはいたが、相手が誰か分かると気持ちの切り替えをしたようだ。

沙織はべたべたになった前髪をかき上げ、ハンカチで顔を拭いた。その間ピンク頭はニヤニヤと勝ち誇ったような哄笑を顔いっぱいに浮かべていた。鏡で見せてやりたいほどに醜く歪んでいる。

「たぁいへ~ん!かわいいブラウス、汚れちゃったね~~やっぱりぃ、いじわるする人には~バチが当たるってことじゃないかなあ~」

性格の悪さが前面に出た含み笑いをして、ピンク頭は聞くに堪えない甘ったるい声音で意味不明な事を抜かす。

「あはは!結局ひとりじゃ、あんた何もできないじゃない~みじめ~~」

ピンク頭が笑い終わる瞬間。

その顔面には紅茶が叩きつけられていた。

「冷めた紅茶でようございましたわね」

空になったティーカップを何事もなかったかのように、音ひとつ立てずソーサーに戻す。

「これで、お揃いですわね」

にっこりと令嬢の微笑をたたえる沙織の前で、紅茶を浴びたピンク頭は怒りに震えていた。

「てめえ…調子こきやがって…」

さっきまでの間延びした口調が別人のようだ。これはこれでおもしろい。もっと見物してやろうと腹を決めたときだ。

「苺愛!どうしたんだ!」

「ふええ…健斗お…ひどいの、沙織さんが~あたしに~~~」

ばたばたと4人のナイトのお出ましだ。

今後の展開が読めたので、さっさと退散。

剥き出しの悪意に、こめかみがチリチリとする。

キリコは沙織から離れたベーカリーのコーナー付近にいた。手には皿なんか持っちゃいねえ。あいつ、わざと離れたな。

沙織は着替えるため、すぐにエレベーターへ乗った。今度はもちろんキリコ付きで。

俺はメートルディ(給仕長)に事情を話して、床やテーブルを汚したことを謝る。その分も含めてチップを渡すと、メートルディはこの航海で如何にピンク頭の一団に迷惑を被っているかを鼻息荒く語った。正式なルートで抗議を入れると言っていたが、いましばらく待ってくれるように頼んだ。もっと効果的な場面で抗議をしてもらおう。

罫線

シャワーを浴びて、ようやくほっとした沙織は図書ラウンジへと足を向けていた。借りていた英文学の本を返却するためだ。さすがに四六時中黒医者と一緒ではない。

向かう途中で沙織は、廊下の角にいる人物に気が付いた。健斗だった。

気分は曇ったけれど、これといって話すこともない。そのまま通り過ぎようとした時だ。健斗の方から沙織の前に立ちふさがるように、近付いてきたのだ。

「…沙織」

幼馴染の顔を沙織は見上げる。健斗の整った顔立ちは、幼馴染としては何の効果もなかったのだけれど、喜怒哀楽は読みやすかった。

「健斗さん、どうして哀しそうなのですか」

「どうして…か。お前のせいかもって言ったら、どう思う?」

どうもこうも、お互い様ですねとしか言えない。仕返しをされるようになったから、被害者ぶるのは卑怯にも程がある。ふつふつと沙織が怒りを覚えていると、彼女の沈黙を誤解したらしい健斗が語りだした。

「わかってる。俺が苺愛を好きになったから、お前は居場所を失くしたんだよな。でも俺は本気なんだ。苺愛のことが本当に好きなんだ」

「…はあ」

「お前とのこともわかってるつもりだよ。婚約者なんて古臭いって笑われるけれど、父さんの意志は固いみたいだし、お前とは一応結婚してやるよ。だから今朝みたいに苺愛をいじめるのはやめろよ」

「…はあ」

「それと、お前と結婚しても、俺は苺愛と付き合うからな。家同士のしがらみがあるから、どうしてもお前には高薄の家に入ってもらわないといけないらしい。そっちの付き合いとかは任せるから、好きにしろよ。俺は苺愛とタワーマンションにでも住むからさ」

「……」

健斗は拗ねた幼馴染にお願いをするような口ぶりで、つぎつぎと自分の欲望を言葉にする。沙織は言葉を失っていたが、いま言わずにいつ言うのかと、思いのたけを口にした。

「一度きちんと申し上げたかったのですが、健斗さんはご自分の振る舞いを今一度見直した方がよろしいかと」

「どういうことだ?」

「どこの世界に妻にしてやるから妾を認めろなどと、求婚前に言う人がいるのですか?妾と便宜上申しましたが、妾と別宅に住むから、本宅で社交をせよと。どの時代の思考回路なのです」

「めかけ…苺愛のことをそう呼ぶのか?違うぞ、苺愛は恋人だ。男には妻がいても恋人を持つ人がいるんだ。問題なんかない」

本格的な頭痛がし始めた沙織は、ややおざなりに健斗に質問した。

「もし、苺愛さんが恋人じゃいやだ、お嫁さんになりたいと言い出したら、どういたしますの?」

健斗はしばし悩むふりをして、いや悩んだのだろうか。想定内の答えを出した。

「そうしたら、沙織は代わってくれるだろう?幼馴染だし、わかるよな」

「…もうこの話はやめにしましょう。悲しくなります」

実際沙織は長年そばで過ごしてきた幼馴染の健斗が、ここまで恋に狂うとは思っていなかった。しかし今の問答で呆れを通り越して悲しくなったのだ。何もわかっていないと。

「俺が頼んだのに、聞けないのか」

「そういうことではないのです」

「分かるように話せよ。ああ、またこれか。お前の得意な、どうせあなたにはわからないでしょうけどってやつだ」

「そのようなつもりは…」

ないとは言えなかった。

「チッ、せっかく丸く収めてやろうと思ったのに。お前には俺の心なんか分からないんだよ」

妙にずきりと胸に刺さった。

「その言葉、お返しします」

痛みの正体が今まで傷つけられてきた自分の心にあるのか、これから傷つけるだろう人々に向かうものなのか、沙織には区別がつけられなかった。ただ確実なのは、幼馴染と完全に道が分かたれたことだけだった。

My fair villainous lady⑨

第9章

クルーズも残すところ三日となった。

今日の寄港地はプエルトリコ。

キューバ・ジャマイカ・ドミニカ共和国と続く、大アンティル諸島の東端。

あの「エル・モロ要塞」がある島だ。

この島にも美しい景勝とは程遠く、侵略と虐殺、抵抗と革命の血なまぐさい歴史がある。

現在はアメリカ合衆国の自治領として落ち着いてはいるが、自治政府のデフォルト、ハリケーンによる自然災害など、ここに暮らす人々は楽園に住まうとは思ってもいないだろう。

どこにだって戦いは存在する。

クルーズ船の中だって。

罫線

「ねえ、健斗ぉ。どうして、こんな狭いバスで行かなきゃいけないのお~!」

苺愛のかわいい声がぷりぷりしている。

今日、俺達はプエルトリコの観光地を巡るバスツアーに参加した。かなりの人数が乗ったバスの中、苺愛を真ん中に一番後ろのシートに並んで座る。

「こういうのも旅の醍醐味だ。ほら、苺愛。もっとこっちへおいで」

本当はリムジンタクシーを借りるプランもあったんだけど、父さんにバレるとまずいからこっちにした。リムジンタクシーがわざわざ港まで迎えに来るサービスなんか、冗談じゃない。そもそも俺の小遣いじゃ全然足りないし。

そんなことも知らない生徒会の連中に言いたいこともあるけれど、あいつらは完全にプエルトリコの高級ホテルが並ぶ街並みに圧倒されてる。

小網も昨日のダイニングでのことがあったからか表情は冴えなかった。だけど小網はダイニングを出た後、別行動をしたときに何があったのか絶対に言わない。俺達に言えないような失敗でもしたのかな。もしかして一人であいつらの所へ行った、とか。何となくそんな雰囲気を感じるけど、俺達はそれを見て見ぬふりをしている。

それにしても昨日の事は、思い出すだけで腹が立つ。沙織は何様のつもりなんだ。俺のそばから勝手に離れて、好き勝手にやるなんて!

バスが発車すると、ダイニングでの出来事を誰かから聞いたらしい苺愛が小網を慰める。

「コアミー、昨日、あいつのせいで大変だったって聞いたんだけど…大丈夫?」

「あいつ?」

「あ、ああ!沙織さん。ゴメン、ムカついちゃって、あいつなんて言っちゃった~」

「いいよ。あいつで。可愛げなんかひとつもないし、女の子扱いする気もなくなった」

図書ラウンジでの沙織の顔を思い出して、嫌な気持ちになる。俺の方を一度も見なかった。

「あいつさあ~ビーチで変なオヤジとつるんでたでしょ~アレ、あやしくない?」

苺愛は不思議なことを見つけた子どものような声で言った。

昨日のビーチ、図書ラウンジ、ダイニング。どこにいても沙織はあの奇妙な二人と一緒だった。一人は白髪交じりの髪に、刃物のような目つき。体中に傷跡があるヤクザのような男。もう一人は外国人で黒い眼帯が怖かったけど、それより見えている方の眼からかかる圧が半端ない。沙織とは生まれたときから一緒だったけれど、あんな奴ら、俺の記憶にはない。

「ホント!気持ち悪ィオヤジ達だよな!よく一緒にいられるぜ」

いきり立って小網が苺愛の言葉に続く。

「沙織もお嬢様みたいな素振りして、結局あんな奴らといるってことは、あいつも相当趣味悪いね」

「全くです。おそらく金で雇っているのではないですか?」

「うーん、そっかあ…」

次々と文句を並べ立てる飛田と守に、急に不安そうな顔になって自分の肩を抱く苺愛。

「どうした、苺愛?」

きゅるんと音がしそうなくらい大きな目を潤ませて、俺達の顔を見つめる苺愛は、ほっと安心したようなため息と一緒に笑顔になった

「あたしだったら、絶対無理だなあって思ったの~。いくら楽しいツアーでも変なオヤジとずっと一緒にいるのは無理~。あたし、皆と一緒でよかったあ」

こてんと首を傾けて、俺達を見上げる苺愛は何てかわいいんだろう。

「おう!俺も苺愛と一緒でよかったぜ」

「ああ、俺もだ」

「みんなぁ~なんでそんなにやさしいの~~?うれしいよ~」

全員で言うと、苺愛は隣に座る俺と飛田の腕をぎゅっと抱きしめた。うすいTシャツ越しに腕に伝わるふよんとやわらかい彼女の胸の感触。これは沙織にはないものだ。多分。

気を取り直して今日もツアーを楽しもう。そして苺愛と思い出を作ろう。それがどんなに楽しいか、俺の人生に必要なのか、父さんにきちんと説明すれば分かってもらえる。

バスの次の行き先がどこなのか知らなかったけど、空は青かった。

「ぶへっくしょい!」

「へぷち」

「くしゅん」

サンファン大聖堂の側のカフェ。俺達は三人いっぺんにくしゃみをした。

「おい…寒くないか?」

「カリブ海で何言ってんだ。つーか、お前さんのくしゃみ、なんだよ。『へぷち』って」

「わたくしも、なにやら胸元がスースーといたします…風邪でしょうか」

今日の沙織の服装は黒のかっちりとしたブラウスに、ハイウエストのモノトーンスカート。手にはエディからプレゼントされた透かし彫りが入った竹の真っ黒な扇子。髪は高い所でポニーテールにしてまとめ『悪役令嬢らしく』装ってきたとのこと。やる気があって大変よろしい。

しかし旅先で風邪は良くないと、簡単な問診をする。当然風邪じゃない。

あたたかいものでも頼みましょうと沙織が示したメニューには「ホットラム」。いいなあ。カリブ海はラム酒の宝庫。ここプエルトリコだってラム酒が名産だ。沙織がいなけりゃ、一杯ひっかけるのもアリだったんだが、今は大人しくしておこう。キリコは土産に買えるラム酒がないか訊いてくると、カフェの奥に消えた。独り占めはずるいぞ。俺も続く。

いってらっしゃいませとのんびり言うものだから、俺達は沙織をひとりカフェの道沿いの席に残した。すぐ戻るつもりだったし。

そこへツアーバスがやって来たとは、この時の俺は気がつかなかった。

大勢のツアー客が、サンファン大聖堂の真白い壁に歓声を上げる。

門をくぐれば、500年前に作られた黄金色の装飾がまばゆいゴシック調の祭壇が迎えてくれるのだ。ツアーマップでしっかり予習した観光客たちは、どきどきした顔つきでサンファン大聖堂へと向かう。その中に彼らもいた。

「あ~、あの子だ~」

甘ったるいキャンディみたいな声。

「ひとりなのか」

訝しむ声。

「ははァ、結局こうなるってことだ」

アッタマ悪そうな声。

カフェから出ようとして、沙織がピンク頭の一団に囲まれているのがわかった。しまったな。かと言ってすぐに俺達が出るのも不自然だ。しばらく静観しようと、俺とキリコはカフェの中の席に座った。

「おい、沙織。あの気味の悪ィおっさんどうしたんだよ」

赤髪のガキが懲りずにニヤニヤ沙織に突っかかる。

「昨夜の謝罪はなんだったのですか、小網さん。そのような言い方はお止しになって」

凛とした沙織の言葉に対する反応は二つ。

「昨夜の謝罪?」

「んなっ…なんでもねえよ!適当なこと言ってるんだ。気にするな!」

鼻っ柱を折られた赤髪は、健斗の後ろへ。沙織はその様子をただ見ていた。

「ひとりで来ているのか?」

幼馴染を気遣うような雰囲気で尋ねる健斗だが、その腕には苺愛が巻き付いている。

「あはは!ひょっとしてえ~おじさんにも逃げられちゃったの~?」

「お答えする必要はありません。わたくしも健斗さんに誰と来ているかなど、訊きませんもの」

「そんな言い方をするな。沙織、何を拗ねているのかわからないけれど、このクルーズで俺達は一緒に行動して来ただろう?どうしていきなり仲間の絆を壊すようなことをするんだ」

正義のヒーローのような顔つきで『絆』なるものを主張する。

「まあ、わたくし、そのような重要なポストに就いておりましたの。皆さんを繋ぎとめる大層なお役目とは露知らず。ですが毎日『来るな』と言われれば、行かなくなるのも当然でしょう?このお話、前にもしましたね、健斗さん」

ばらりと黒い扇子を広げ、沙織は口元を隠す。話したくないという意思表示なのだが、通じる相手ではない。

「子どもみたいな事を言うな。俺はお前をまた仲間に入れてやろうと思ってるんだぞ」

小網を初めとした面々が寝耳に水といったような反応をする。健斗は王子様ムーブ全開だ。

「せっかくのクルーズじゃないか。みんなで楽しもう。婚約者のお前だから、俺はここまで言ってるんだ」

「健斗ぉ~やっさしい~~」

生徒会長で培った、薄い博愛主義に、偏った価値基準。それを分厚い自己愛で包み込めば、表面だけキラキラした友情ごっこの舞台ができる。だがお生憎様だ。

「ご遠慮します。またあんな目に遭うのなら、ひとりで構いません。それに健斗さん」

沙織は健斗の目を見ずに言う。

「婚約者がある男性の腕にしがみついたままで平気な方と行動を共にするのは、わたくしには難しすぎる課題です」

「ひどい!沙織さん…そんなにあたしのこと…きらいなの」

健斗の腕を抱きしめて、苺愛はピンクの頭を振り振り泣き顔を作った。

「またお前は苺愛に酷いことを言いやがって!」

「そうだよ!苺愛はなにも悪くないじゃないか」

「あなた方は人の言葉をもっとよく聞く練習をなさいませ。短慮にも程があります」

扇子をぱちんと閉じて、沙織は彼らに向き直る。それだけでにじみ出る令嬢の雰囲気に守はデリケートに反応した。

「君は嫉妬をしている」

分をわきまえろと言わんばかりに沙織はため息をつき、面倒くさそうに対応する。

「どういうことですの?思い当たる節がございません」

きらりと南国の日差しを眼鏡に反射させ、得意げに守は続ける。

「自覚がないのか。では客観的に私が見た見解を述べよう。まず結論として、君は苺愛に嫉妬をしている。なぜなら婚約者である健斗に見向きもされていないからだ。先日まで君は健斗の気を引こうと必死だったじゃないか。苺愛をいじめてまで!それが上手くいかなくなったから、離れるそぶりをして健斗に振り向いてもらおうと必死なんだろう。幼稚な嫉妬だ。見苦しいことこの上ないよ」

にやりと笑ってQ.E.Dとも言い出しそうな守を無感情に見据えて沙織は反駁する。

「確かに、わたくしは婚約者として健斗さんにふさわしくあろうと努力していた時期はありました。それは否定しません」

小さく冷たい微笑を沙織は守に向けた。

「健斗さんが何度もおっしゃっている通り、わたくし達の関係は家同士の決めた政略的婚約。会社を背負うものとして、当事者であっても決められない事項がございますの。ですから、いくら健斗さんが婚約者を放って違う女性に現を抜かそうと、わたくしにはどうする権利もございません。ですから嫉妬などとは、お門違いも甚だしい指摘でしてよ。その路線の論を主張なさるのなら、我が久遠寺コンツェルンと健斗さんの高薄グループへの侮辱としても取れますから、その辺でお止しになった方が賢明です」

久遠寺コンツェルンの名前を聞いて、守は言葉に詰まった。一般庶民の彼でさえ、その名をCMやTVで耳にすることがあるからだ。沙織はその隙を逃さない。

「大体、わたくしは苺愛さんをいじめたことなどありません。その場にふさわしくあるように、ご助言したことはありますが、どれも聞き入れられたことはありませんし。そうですね。会話すらまともに成立したことがないかもしれません」

沙織の言葉に心底傷ついた顔をして、涙を一杯にためる苺愛は男どもの庇護欲を一気にかき立てた。

「そんな高飛車な態度が苺愛の心を傷つけて苦しめるんだ!」

飛田が苺愛をかばうように立ちふさがる。

「おまえなんかより、苺愛はうんと女の子らしくてやさしい。僕の心に寄り添ってくれる思いやりのある子なんだ。そんな風に言うのはやめてよ」

険しい顔の飛田。やりこめられた守も復活して、眉間の皺も色濃く口を開く。

「私も苺愛の明るい笑顔に何度救われたか。苺愛の可憐な笑顔は、君のような冷徹な視線とは違うのだよ」

そうですか。そうですかと沙織は呆れたように肩をすくめる。

「安心しましたわ。誰彼構わず股を開くような方と一緒にされるなんて、耐えられませんもの」

真実を貫こうとする沙織の視線は苺愛に刺さる。それに対する苺愛の反応も予想の範囲を出なかった。

「ひどい!ひどい!あたし、こんなにひどい事言われたことない!ただ、皆と仲良くなりたくて、あたし、あたし…っ」

苺愛はわあわあ泣き出した。まるで悲劇のヒロインそのままに。

「もう許せねえ!」

飛び出してきた赤髪が掴みかかってきた衝撃で、沙織の座る椅子が倒れる。

がたんと大きな音は立てたが、沙織自身はうまく手をついて怪我を避けた。そこへ赤髪は馬乗りになって、沙織のブラウスの胸倉を掴み、無理矢理にでも立たせようとしている。

そんなことをしなくても立てると、沙織は扇子で軽く赤髪の腕を叩く。

健斗からも諫められ、赤髪は沙織から手を放すが、全く感情が収まっていない。

「沙織、俺を困らせるな」

「間違ったことは申し上げておりません。何も知らないというのも、経営者の資質として問題になる点ですわよ。健斗さん」

「お前はこんなに酷い人間だったのか」

「何度も言わせないでくださいませ。わたくしは間違ったことは申し上げておりません」

平行線の二人の雰囲気に焦れて、赤髪が喚く。

「おい!もういいだろ!あの気持ち悪ィオヤジ共もいねえんだ。一発殴って分からせて…」

ガランガランとドアベルに大きな音を立てさせて、通りに出る。

俺の姿を見て動けなくなる赤髪。

「待たせたな。ラム酒は蒸留所で買ってくれってさ。ここじゃ売れねえらしい」

沙織の手に清潔なハンカチを差し出す。受け取る彼女の手のひらににじむ血を、それで拭いてくれればいい。

ぱっとピンク頭たちの方へ向き直ると、赤髪はひどい顔になっていた。怒りたいのか、逃げたいのか、後悔してるのか。全部だな。二回目は許さねえ。

「よお、君は昨日の友達思いの彼じゃないか。また謝りに来てくれたのか。手間が省ける。俺の分も謝ってくれるんだろう?さっき『気持ち悪ィオヤジ』って呼んだの、聞こえたぜ?」

あの時、健斗の目を見ない代わりに、カフェのドアのガラス越しで沙織は店内の俺を見た。

『やってみせます』

決意を感じ取ったから、今まで黙ってたんだが、この辺でTKO。ここから先は場外乱闘。

後から出てきたキリコに沙織を任せ、俺は赤髪と特訓だ。もちろん『ごめんなさい』の。

「もっと気持ち込めろー伝わんねーぞー」

「ごめんなさいっ」

「君の気持ちがーわからなーい」

「ごめんなさいいっ!」

「絆ってのはーそんなにもろいのかー」

「ごめんなさいっっ!!」

「伝わってこなーい」

喉がかれて、ぼろぼろになった赤髪は、汗だのなんだのいろんな体液でどろどろだ。そのままバスに乗られちゃ他の観光客に悪いから、頭っからバケツ一杯水かけて洗ってやった。目が覚めたようだから、にっこりお目覚めのあいさつを。また倒れた。虚弱な奴。

健斗達とピンク頭?知るか。いつのまにかいなくなってた。

大きなミモザの木が、そよぐ風に梢を揺らす。

サンファン大聖堂の周りに立ち並ぶ高級ホテル。その庭の片隅で沙織は震えていた。

さっきのピンク頭の一団のやりとりを終えると、張りつめていた緊張の糸が切れるように、彼女の体から力が抜け、道の真ん中でへたりこんでしまったのだ。それをなんとかここまで連れてきた。

これまでの生い立ちから、男にあんなふうに殴りかかられる経験などなかっただろう。

彼女は涙こそ見せなかったものの、動揺を隠せないでいた。その動揺を言葉にして吐き出させるべく、キリコは沙織に向き合った。こういうのはこいつが適任だ。俺じゃない。

庭の隅で小さな話し声が聞こえるのをそのままに俺は時計を見ていた。

「そろそろ行くぞ。船が出ちまう」

「は、はい」

気を取り直したように見える沙織が顔を上げる。

「台本はもう佳境だぜ。今夜動くか、明日の朝か。覚悟を決めておけよ。今みたいにへたってちゃ、お話にならねえ」

俺の強い語調に、沙織は少しショックを受けたようだったが、黙って強く頷いた。

石畳を彼女は一歩一歩自分の意志で歩く。心細いようであり、心配ないと言い聞かせるようであり。俺達はその後に続くだけ。これは彼女の問題なのだ。俺達の問題は、その後でなければ片付けられない。

「悪の先生は、随分とお優しい」

「抜かせ。てめえも気合入れろよ。大一番がもうすぐだ」

「ああ。おもしろい情報が手に入ったから、今日の映像と一緒に、プレゼン画像でも作ろうかな」

すいすいとスマートフォンを操作しながら、キリコはちっともおもしろくなさそうに言った。何を見ているのかと画面を覗こうとしたら、すげー嫌な顔をして避けられた。

「コンバーション」に戻って、しばらく様子を見たが、今夜は動きがない模様。

それじゃあと沙織の部屋へエスコートに向かう。今夜は沙織の母、絹子も一緒だ。散々渋ったのを、なんとか沙織が説き伏せて連れ出してくれた。

これから大事な話をせにゃならんので、オーバーチャージしてハイクラスのレストラン「ザ・サーモン・ダンス」に入店。あのピンク頭の一団に邪魔されることだけは避けたい。

つまり目立つことも避けたいと言うわけで、俺はキリコと沙織に徹底的にコーディネートされた。曰く、俺はいるだけで目立つとのこと。ああそうですか。

パリッとした黒のディナージャケットにセミワイドカラーの白いシャツ。黒いボウタイは慣れているようだけれども座りが悪い。あんまりかっちりしすぎても逆によろしくないと、カマーバンドを巻かれた。もうお手上げ。俺にはわからん。仕舞いには、ハードワックスをしっかりとなじませたキリコの手で、前髪もろとも後ろに流されてチョンとしっぽのように襟足を括られた。

うんうんと頷くキリコは仮面舞踏会で着ていたタキシード一式。タイの色をシルバーに変えている。沙織は深い紺色のイブニングドレス。上品でいて、スカート部分に重なるチュールが娘らしい。ひきこもりからやっと出てきた絹子は、やっぱり気乗りしないのか一番地味な黒の装飾が少ないドレスだった。

なぜかエスコートに慣れたキリコが絹子を連れて先導し、俺はぎくしゃくとキリコの真似をしながら沙織を連れ、黒い革のストレートチップシューズで繊細な柄の絨毯を踏みしめながら席へ移動する。

バロック調に統一されたヨーロッパ風の店内には、天井から吊り下げられた豪奢な燭台と、その下に手入れが行き届いた飴色のテーブルセットが並べられている。

よく磨かれた燭台はあたたかみのある輝きを灯し、ただただまぶしく綺羅綺羅しいシャンデリアがあるメインダイニングとは対照的に、深い交流を育んだ相手とゆっくりと食事を楽しむ雰囲気を大切にしている。

チェリストが奏でるバッハが静かに響く中、さざめきのようにゲストたちの会話が流れていく。

オーダーが済んで、アペリティフを待つまでの間、絹子は隣の沙織と俺達を何度も見比べて、どこで接点を持ったのか不思議でしょうがない様子だ。

小さく乾杯したのを皮切りに、沙織は俺達を紹介していく。

「お母様、こちらの方はご存じですよね」

「ええ…BJ先生、見間違えましたわ…」

無理もない。本人も見間違えてる。眉を下げて降参のポーズをとると、絹子は少し肩の力を抜いた。次はと沙織が口を開きかけると、遮るようにキリコが自己紹介を始めた。

「初めまして。久遠寺さん、私はロッキー・ロードと申します。BJ先生とは古い付き合いでして、そのご縁でここに同席させていただいております」

こいつ、今回はとことんロッキー・ロードで行くつもりらしい。

強面の黒眼帯を前にしても、久遠寺コンツェルンの社長夫人は優雅に微笑み、挨拶を交わした。内心はどきどきしまくってるだろうが、そこはさすがだな。

前菜の「サーモンの燻製・サワークリームソース・ブリオッシュトーストのせ」をキレイに食し、次の料理「ズッキーニのグラッセ、小エビとミカンのソース、キンレンカのムースを添えて」にフォークを入れたばかりの絹子は、久しぶりに外で食べる夕食にやっと慣れてきたようだ。

しばらく当たり障りのない話をしていたが、沙織は意を決して絹子に語りだした。

「お母様、どんなことがあっても、わたくしの味方をしてくださいますか?」

「ええ、私は沙織さんの味方です。どうしたの?急にそんなことを言い出して」

「今からわたくしが話すことを信じていただきたいからです。驚くかもしれませんが、どうかそのまま聞いてくださいませ」

メインの「牛フィレ肉の胡椒ソース」がすっかり冷めてしまうまで、絹子は一切話さず沙織の話を聞いた。健斗達の振る舞い、そして苺愛の存在。

「そんなことが、あったなんて…」

絹子はハンカチから手が離せない。

「まあ、食べましょう。腹が膨れていないと、きちんと思考もできませんからね」

「お前が言うと説得力があるな」

にゃろうとキリコを睨みつける俺に、絹子はそっと頭を下げた。

「BJ先生、ミスター・ロッキー・ロード、娘を助けてくださったのですね。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。どうもありがとうございます。正式なものはまた後ほど…」

「いい。俺達は俺達で目的がある。沙織自身も言っただろう。俺達は互いに利用し合っているビジネス関係なんだ」

「後ほど要らない詮索をかけてくる人間がいるかもしれないから言っておくけれど、俺達は沙織さんと行動をともにする時間は長かったが、指一本触れていないことを誓うよ」

「そうなんですよ、お母様。わたくしがつまづいて転んでしまっても、ひとつも手を貸してくれないのですから!」

「自力で起き上がれる奴に手なんか貸すかよ」

「お前はもう…ものの例えだ。真に受けるな」

俺達のやりとりを聞いて、絹子は安心したように笑った。

その笑みを暗闇に叩き落とすことはしたくはなかったが、さっき沙織に話させなかった部分。最下層のインサイド客室に監禁されている彰について、そして平野星満について、俺は絹子に告げた。できるだけ、情報を絞って。

「……」

真っ青な顔をして絹子は言葉が出ない。悲鳴など上げずに、そのまま黙っていて欲しい。ハイクラスのレストランを選んだのはそういう理由もある。ルームサービスを頼んだ沙織の部屋で話をすると、絹子が大きく錯乱するかもと一分の心配があったのだ。沙織も悲痛な面持ちで、テーブルの下の絹子の手を握る。

「わたくし達は、明日、なにか大きな出来事があると予想しています。それがお父様の解放、久遠寺コンツェルンの維持に向かうよう準備をしているところです。失敗は許されません。お母様にはこのことを知っていて欲しかったのです」

豊かな黒髪を揺らして絹子は沙織に問いかける。

「沙織さん、失敗した時のことは考えているの?」

「今は考えていません。可能な限りの下準備とリスクヘッジは済ませてあります」

母を見つめる沙織の目は、どこまでも真っ直ぐだ。

「高薄さんとのご縁がなくなっても、あなたはいいのね?」

「はい。お父様を失うよりは、遥かに」

「私にできることはあるかしら」

「わたくしの味方をして下さいませ」

絹子は泣き笑いのような顔で、沙織の頬を軽くつねる真似をした。

「…もう止めても無駄なところで打ち明けるなんて、お義父様にそっくり。本当に、この子ったら…」

絹子の涙が乾くころ、デザートの「キャラメリゼマンゴーとバジリコ風味のゼリーとソルベ、ココナッツ風味のサブレと共に」を俺は完食した。

船は後二日でニューヨークへ戻る。

寄港は一切なし。最終日は下船準備も含めるので、時間がない。

なにかアクションが起こるなら明日しかないはずだ。

俺達の予想が確かなら、平野と苺愛を一遍に釣れる。

ディナーを終えて、風呂に入りたかったが、やっぱり寄っておくことにした。

コーヒーバー「スター・ギター」

絶望的なほど客がいない店内で、エディはショーケースのガラスを磨いていた。

「よお、エディ。今日の豆なんだ?」

「はい、お客様…って、ジャック?!」

俺のきっちりコーデを見て、顎が外れそうなほど驚いてる。そんな彼を見てるとサイコーに笑えたけど、お前普通に「お客様」って言えたんだな。俺にも初めは言ってたかな。ほんの数分だけど。

「本日の豆は『キリマンジャロ』です。黒い魔法使い様」

「苦しゅうない」

「ははっ」

エディ、時代劇もできる。

「ジャックはこの二日、船を降りてたの?」

どかりとカウンター席に腰を下ろし、ジャケットのボタンを外す。

「ああ、ちょいと陸が恋しくなったのさ」

「またまた。悪役令嬢と一緒だったんでしょ。何かあった?」

「本当に娯楽に飢えてるんだな。この船の連中は」

「仕方がないでしょ。ゲストがショーを楽しむように、僕たちだってゲストから得るものがあったっていいじゃない」

魚心あれば水心ってやつかな。まあいい。エディに情報を流しておくと有益なのは実証済みだ。熱いコーヒーを淹れてくれた彼に、少しだけこの二日の旅程を伝えると、思ったとおり、エディはセント・トーマスのビーチとプエルトリコの話に食らいついた。沙織の立ち振る舞いについて説明している下りになると、エディはうっとりとした表情で聞き入っていた。

「いいよね。悪役令嬢!この話、クララやマリベルには?」

「まだしてない。お前が最初だよ」

やったー!と喜ぶ明るい声とは正反対の胡散臭い声がした。

「まだやってるみたいだな。俺にもコーヒーを一杯頼むよ」

タキシードのジャケットを小脇に抱えたキリコが俺の横に滑り込むようにして座った。

「はい、お客様。『キリマンジャロ』がおススメですよ」

「ではそれを。タバコはいい?」

この時間帯ならとエディは灰皿を出してくれた。俺には出してくれたことなかったくせに。堅苦しくていかんとベストまで脱いでしまったキリコは、白いサスペンダーを着けていた。奴はそのままエディと親し気に話し出す。なにを我が物顔でくつろいでんだ。ここは俺が先に見つけたんだぞ。急に面白くなくなって、キリコの正体をバラすことにした。

「こいつ、黒い魔法使いその2」

「ええっ!」

ひっくり返りそうなポーズで固まるエディのおかげで、ちょっと気が晴れる。

「俺の扱い、雑だな」

不服そうな声のキリコ。あったりめーじゃねーか。『その2』が『その1』に敵うはずがなかろーが。従って扱いが不当だと申し立てるなど以ての外。なんか俺、今夜は芝居がかってるな。

「ど、どういうこと?ジャック、彼とはどんな関係なの?」

「お友達ではないから安心しろい」

興奮するエディは置いといて、どんな関係だなんて聞かれて内心どきっとしたのは絶対に隣の陰険眼帯ヤローに悟られてはいけない。

「なに、もともと顔見知りでね。おもしろいことをするから付き合えって誘われたんだよ。俺も暇だったし」

嘘ではないが本当でもない。適当なことを言って、キリコはタバコに火をつけた。

「ちょっと聞きたいんだけど、明日のフォーマルナイトはメインダイニングでするんだよな」

「はい。この航海最後のフォーマルナイトになります。最終日は僕たちクルーのパレードですから!」

「へえ!パレードなんかするのか。そいつはいいウチワ持って応援してやろうか」

ウチワに興味を示したエディへジャパニーズ・ハンサムボーイ・グループの応援の仕方を教えると、是非やって欲しいと破顔した。ウチワに書く文字は『なげチュウして』に決定。

「話が進まない。お前はちょっと黙ってなさい」

口に火のついていないタバコを突っ込まれる。うえ、お前の重いから嫌なんだけどなあ。でも俺は手持ちがないし、仕方がねえ。店のマッチで火をつける。

「今までの航海で、最後のフォーマルナイトでしたことがあるイベントは何がある?」

「そんなこと聞いてどうするんだ。どんな出し物があるかわくわくしてるって訳じゃねえよな」

「…もう、10秒も黙っていられないのか…」

「俺の事は放っておけ」

話の腰を折られまくったキリコは、額に手を当てたままコーヒーを飲む。

「えっと…前回はバルーンアートでしたよ。ライトアップした風船のタワーと、ダンサーのショーがメインで、グリッターがたくさん舞って掃除が大変だった。ああ、そうじゃないですね。その前はプロジェクションマッピングでした。ダイニングの壁一面にカリブ海の景色を映して行くんです。朝焼けのタイムラプス映像がゲストの皆さんには好評だったなあ」

「メインダイニングにプロジェクターがあるのか」

気を遣ったエディが慌てて記憶を掘り起こす中、キリコは食い気味にプロジェクターに反応した。

「え、ええ。今年新しいものに変えたって聞いたから、あると思います」

「良いことを聞けた。ありがとう」

がたりとキリコは席を立つ。とっとと行っちまえ。

「ああ、そうだ。この豆のロースト、俺は気に入ったよ。500g買うから、後で俺の部屋に届けて」

そう言ってキリコはエディの手にチップを渡した。そのまま風のようにキリコは行ってしまう。エディのやたら気合の入った「おまかせ下さい!」って声が響いて止まなかった。

My fair villainous lady⑧

第8章

いい気分!天気は良いし、ビーチはキレイだし、なによりあのお嬢様はいないし。

やっとわかったんだ。いくらしがみついてみても健斗は私を選んでるって。おっせーっつーの。健斗は出来のいいお嬢様にずっとコンプレックス?があったんだって。よく知らんけど。「そのままのあなたでいい」って言ったら秒で落ちた。

今日だって明け方まで離してくれないから、シャワーできなかったし。同じ年頃の男子って体力だけはあるから、何度もガッついて来られて、いい加減気持ちいい演技するの疲れる。気付けよって思うけど、健斗の一生懸命な顔見てたら許せた。イケメンなのはいいよね~

小網君はそういう意味では、マイナス点かな~でもアッチのサイズ一番大きいから、気持ちいい所に当たるし、皆の中では一番相性いいかも。でもあんまり顔が好みじゃないんだよねえ。セフレならいいかなあ。彼も変な悩みをもっててでかい図体のくせにウジウジしててムカついたから「あたしはあなたの味方だよ~」って思ってもないこと言ってみたら、その日のうちにベッドに入っちゃった。チョロすぎ。

もりもりは思ってた通りむっつり君で、ちょっと肌に触れさせてやったら、ぐいぐい来て笑いを堪えるのがきつかったあ。「あなたはもっと価値のある人」って昨日見た広告のキャッチコピー言ってみたら泣き出しちゃって、かなり引いた。彼の童貞奪っちゃったときとか思い出してもウケる。中に入れた途端に出ちゃうとか本当にあるんだって笑えた。あの時の真っ赤な顔、普段のインテリぶった顔と違って、めちゃめちゃおもしろかった。

るあくんは、いつも女の子みたいって言われるのが嫌なんだって。あたしの前で無理に男らしくしようとするから「すごい、すごい」って褒め続けてたら、やっと落ちた。手間かけさせやがって。でも、へこへこ必死に腰振ってる姿を見てると、ボセイホンノーみたいなのをくすぐられる?がんばれっがんばれって心の中で応援してる。全然気持ちよくないけど(笑)

「苺愛ー」

ほら、健斗があたしを呼んでる。お金持ちの、あたしの王子サマ。

ビーチを歩く水着姿のあたしは皆にどう見えてる?かわいい?当然だよね。

みんなに求められて、愛されてる私はさいこーにキラキラしてる。

もう、みんなまたエッチなこと考えてる顔。順番に相手してあげるから、それまでおあずけね。いい子にして待ってて。

罫線

夕暮れ、コーヒーバー「スター・ギター」

ここのスタッフに沙織を紹介した。エディはどストレートに「悪役令嬢が来たー!」と喜んでしまい、マリベルからどつかれていた。俺は沙織から聞いた、彼女がピンク頭の一団にされていた行為について全部話した。途中からクララもやって来て、知らないクルーも顔を出していた。それだけ彼らにとって【ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト】は魅力的な話題なのだろう。

俺が話し終えると、クルーから沙織への質問コーナーが始まった。主にピンク頭が主張していたことと沙織の話した内容の乖離についてだったが、トラブルが起こった当時に同じ場所にいたクルーがどこかに必ずいて、状況のすり合わせをすれば沙織の主張が正しいと理解してくれた。集まって話を聞いてくれたクルーが沙織の状況を分かってくれたところで、彼らに提案する。

「今日、ここで話したことを船内に広めてくれないか?実は俺達は明日から反撃に出る。悪役令嬢がどんなふうにヒロインをやり込めるか、見てみたくないか?」

「見たい!どんなふうにするか、ヒントをちょうだい」

食いついてきたのはマリベルだ。

「まだ仕上げには程遠いが、毎日少しずつ変化を起こしていくつもりだ。それも楽しんでもらいたい」

「【黒い魔法使い】は出るの?」

「もちろん。【黒い魔法使いその2】もいる」

誰それ―っ?!と歓声が上がる。ほんっとうに暇なんだな。

「あのねジャック、この子ルームキーパーのアナよ」

「やあ、アナ」

クララから突然の紹介。英語が堪能な沙織はまだクルーと話してる。

「私、ずっと言いたかったことがあったの。あの、私の周りはピンクのヒロイン派が多くて言い出せなかったんだけど、あの子たちの夜の過ごし方が、その、ちょっと行き過ぎてて、あの、私頭に来てて!」

「落ち着いて、アナ。俺には話してくれて大丈夫だよ」

ふうふうと一息ついて、アナは健斗の部屋や、その他の男子高生の部屋が、どんな有様なのか教えてくれた。

「シーツが汚れるのは構わないわ。そういうものですもの。でも、あの、毎回彼らの部屋のダストボックスを片付けるのは本当に嫌になるの…毎日よ…あの、スキンの口を縛るのってそんなに面倒?」

「あのピンクのヒロインが部屋に来た日はすぐにわかるわ。あの…えっと、シーツに彼女の毛が散らばってるし、部屋中、あの、ぐちゃぐちゃなんだもの」

「特に健斗の部屋の掃除が大変。ベッドだけじゃなくて、あの、ソファも壁も、すぐに拭かないとシミになるし消毒だって必要なの。男子高生だから、えっと、あの、性に対して興味があるのはわかるけれど、やりすぎよ」

マリベルがアナの声を遮る。

「ちょっと待って。それって、ピンクのヒロインは4人のナイト全員とベッドに入ってるって事?」

店内がしんと静まり返り、全員の視線が沙織に向いた。

沙織は黙って前を向いたままだった。

だけど、目じりから一粒の涙が落ちたのを見逃した者はいなかった。

「…あ、あの、私が言ったってことは、秘密にしてね。えっと、あの、船長にばれたら、叱られちゃう」

今更アナが自己弁護に走った。さっと飛び出た無表情のクララが回収してくれたので、俺は大きくため息をついて皆の方に向き直る。

「今日は俺達の話を聞いてくれてありがとう。貴重な仕事時間を奪ってしまったから、夕食を取り損ねた人もいるんじゃないかな。お詫びになるかどうかはわからないけれど、ここのドーナッツを奢るよ。なかなかうまかった」

そう言って、その場にいる人間にドル札を掴ませていく。「俺はやっぱりピンクのヒロインの顔が好みだ」とか言いつつ嬉しそうに金を持って行く人もいれば、それがなくても自分は悪役令嬢の味方だと言って去る人もいた。もちろん無言で金だけ持って行くやつがほとんどだったけど。すべてのクルーがいなくなった後、残されたエディが心配そうに問う。

「ジャック、大丈夫なの?」

「ああ、手の内はまるで明かしてない。問題ないさ」

「違うよ。悪役令嬢の方だよ」

振り向いて沙織の方へ近付くと、彼女はやっぱり真っ直ぐ前を向いたまま。目じりが真っ赤になって、まぶた一杯に涙がたまっていた。

「…健斗の事、こんな形で知りたくはなかったよな」

こくんと頷く沙織。ぽろぽろ涙の粒がこぼれだす。

「胸を貸そうか」

ふるふるとかぶりを振る。

「じゃあ、お前の涙が乾くまで、コーヒーでも飲んでるよ」

カウンターの奥へ消えるエディ。

静まり返ったコーヒーバーの店内、俺だけに聞こえる声で沙織は幼馴染への思いを告げた。

「家同士の結婚と割り切っていたはずですのに、婚約破棄をしようと心に決めておりましたのに、どうして涙が出るのでしょう」

「さあ、それだけ純粋に信じていたからじゃないかね」

「…ええ、そうです。わたくし、信じていました…」

「もう婚約者と名乗らなくていいぜ。裏切ったのはあっちだ」

俺の言葉に、沙織は返事をしなかった。

翌日、寄港したのはセント・トーマス。

美しいサンゴ礁が広がる、魅惑のクリスタルブルーの海。熱帯魚の色も鮮やかで、ここはシュノーケリングスポットとしても有名だ。

健斗たちは早々に水着を持ってビーチへ向かう。沙織はもう彼らに付いていくことはなかった。だが水着の準備はしている。

ぎゅっとバッグを握りしめて、沙織は船のタラップを降りた。

ビーチはフェンスで区切られて、料金を払った観光客以外は入れない。ここまでしないといけないものかと呆れる気持ちはあれど、これがビーチの治安を守ってくれていると思えば、納得するより他はない。ともあれビーチの中に入ってしまえば、フェンスは視界の外だ。

乾燥した晴天に照らされたエメラルドグリーンの海とどこまでも続く白い砂のコントラストがまばゆい。カリブ海の絶景を臨むビーチにずらりと並んだチェアに座って、観光客たちはめいめいに日光浴を楽しんだり、シュノーケリングをするために海へ向かっていく。

ピンク頭たちは今日も喧しい。彼らのそばにチェアを購入した観光客がつぎつぎと場所を変えていくのに、きっと気がつきもしないのだろう。気付いたところで何もしないと思うけれど。

「今日の水着…どうかな、ちょっと大胆…だったかな」

ピンク頭はヒョウ柄のモノキニビキニを着ている。

「おう!似合ってるぜ、苺愛!」

「も~コアミーったら~いきなり水着プレゼントされても困っちゃうよ~」

「でも着てくれたじゃん。すっげかわいいって」

「ねえねえ、僕の送ったピアスは着けてくれた?」

「あれは~かわいすぎて、ビーチで落としたらショックだし、夜に着けるね」

「そ、そっか…」

「がっかりしないで~大事に使いたいだけなの!るあくんが買ってくれたものだから!」

あそこまで露骨に貢いでますアピールをして恥ずかしくないものだろうか。俺が俺がで一人の女にマーキング合戦だ。頭正常か?

「BJ、顔に出てる。手を動かせ」

「おう。つくづく娑婆には理解の及ばんものがあると思ってな」

ピンク頭から程よく離れたヤシの木陰に、俺達はチェアを購入した。同時にサイドテーブルと、ドリンクを3つ。

俺はいつものコートを剥がれ、半袖の開襟シャツを着させられている。せめてと抵抗したので色は黒。だけどボタンは全開。ハーフパンツと相まって、体中に走る縫合痕の4割は見せていることになる。

いつもは脱ぐなって言うくせに…とキリコを見ると「時と場合による」とのこと。じゃあ俺だって時と場合によるわ。

そのキリコは、なんと上半身裸でいる。肌を焼く気まんまんじゃねーか。

「俺も初めはシャツを着るつもりだったんだよ。だけどまあ、この天気だ。絶対に日焼けして半袖の跡が残るって想像したら、もういいかなって」

「昼過ぎには日焼けで背中が真っ赤になって、夜は痛くて眠れない方に300ドル」

「お、じゃあ、結局我慢できなくなって開襟シャツ脱いで海に入る方に300ドル」

バカな話をやってたら、後ろにようやく人の気配がした。

「おせえぞ、沙織。ドリンクの氷が溶けちまう」

あうあうと沙織の目はまわりそうな勢いだ。

「待ってくださいまし…あの、どこを見たらいいのか…こ、困ります…」

俺とキリコは顔を見合わせる。

「沙織さん、俺みたいなおじさんの体だ。大根だと思いなさい」

にっこりと笑い、沙織の緊張をほぐそうとするキリコ。だけど俺は沙織の気持ちがちょっとわかる。キリコの体は皮下脂肪が少ない。つまりは筋繊維がバッキバキに見えるってことで、大胸筋から腹筋、腹斜筋にかけての陰影がえげつない。深窓のお嬢さんに、これを意識するなと言うのは無理があろう。

「隣のツギハギは座布団だとでも思って」

俺も人の事言えなかったわ。

「そうだぞ、沙織。これはただ遊びに来ているわけじゃねーんだ」

「そ、そうでしたわね。これも『戦い』でしたわね」

そう。ピンク頭の一団に挑む戦いのはじまり。沙織はここから反旗を翻すのだ。

意を決した沙織はそろそろと陽の下に姿を表した。

つややかな黒髪を頭のてっぺんでお団子にしている顔はあどけなく、緊張のせいか頬が赤い。真っ白のビーチガウンが陽光に映え、その下には黒のギンガムチェックのワンピース水着。ジュートヒールのサンダルで、カリブ海の砂浜に降り立つ沙織の肌は、何より透きとおり輝いて見えた。

「あの…どこか、おかしいでしょうか…」

キリコは俺の頭に一発チョップを入れた。

「良く似合っているよ。この男は君があまりに可憐なので、言葉を失っているのさ。ほら、気の利いたことでも言いなさい。言えないだろうけど」

あーとかうーとか言ってる間に、キリコはさっさと沙織を3つ並んだチェアの真ん中に座らせた。彼女にドリンクを勧め、日焼け止めは塗ったか、虫刺されは平気かと聞くキリコの姿は完全に親戚のおっさんだった。

俺は俺で準備した小道具を身に着ける。ハイブランドのサングラスに、同じく24金のぶっといネックレス。趣味の悪いきんきらの腕時計。これらはレンタルだ。それなりに金はかかったけど、買うよりははるかに安い。ガキどもが金かけて貢ぎ合っているもんだから、ヘタクソなものは準備できなかったのだ。くそ。

さて仕掛けはできた。後はいつ引っかかるか待つだけだ。

真昼の太陽が照りつける中、ピンク頭の一団は海に入っていった。水の掛け合いなんかして、きゃあきゃあ言ってる。それだけならかわいらしいと笑えるんだが。ピンク頭のボディタッチがうざったらしいことこの上ない。水がかかったと、隣の男に胸を押し付け、水をかけるふりをして男の腕に飛び込む。……あ、一人こっち見た。

「食いつくかな?」

「まだまだ」

ピンク頭の一団を見て、ちょっと暗くなってる沙織。声をかけると無防備に顔を上げた。その口にドリンクについていたサクランボを入れてやる。

はわわ…と頭から湯気が出そうになっている沙織と、向こうで額に手を当てるキリコ。なんだ?俺、なんかやったか?

結果、いきなり本命が釣れた。

「何をしている?!」

海から走ってきたのだろう。体中に水滴をつけて、息を切らせた健斗が俺達の前に立っていた。

「…誰?」

これも想定のうち。

「さあ…沙織、知り合いなのか?」

上半身を起こすと、金のネックレスがじゃらりと音を立てる。必然的に健斗の目は俺の胸元に走る大きな縫合痕へ。

「何見てんだよ」

サングラス越しに睨むと、健斗は後退る。しかし沙織が目の前にいる。後ろではピンク頭の一団が様子を窺っている。しっぽを巻くに巻けなくなった健斗は喚くしかなかった。

「さ、沙織は俺の婚約者だ!」

「だから?」

キリコの声が冷たく響く。

「俺と言う婚約者がありながら、こんな二人も男と一緒にいるなんて、ふ、ふしだらにも程があるぞ!」

勇敢な健斗。ああ、勇敢だ。沙織に向かって『ふしだら』だと、お前が言うのか。耐えきれなくなって、台本にはないが大声で笑ってしまった。

笑われた健斗は大いに自尊心を傷つけられたらしい。乱暴に沙織の手を掴んだ。

「来い!」

「痛…っ」

沙織の悲鳴に反応したのはキリコだ。ゆっくりと立ち上がると、健斗を完全に見下ろす形になる。強靭な肉体に隻眼の眼光。勇敢な健斗は白いビーチに尻もちをついた。何も言えずに、口をぱくぱくさせている。そんな健斗から興味を失ったようにキリコはおもむろに口を開く。

「沙織さん、海へ行こう。波打ち際に貝が落ちているかもしれない」

「ああ、それがいい。魚も見られるかもな」

「……はい!」

台本通りに俺達は海へ向かう。

健斗だけ残して。

「どういうつもりだ、沙織!」

午後の図書ラウンジで過ごしていた俺達の所へ、健斗がひどい剣幕でやって来た。

「お静かに」

カウンターにいるクララが無表情で注意する。いささか勢いをそがれた健斗だが、諦めはしなかった。小声で沙織に言い募る。

「いつも俺達と一緒にいたじゃないか。どうして来なくなったんだ」

「来なくてよいと毎回言われておりましたので、その通りにいたしました。それが、なにか?」

沙織は手にした英字文学から視線を外さない。

「じゃあ、俺が来いって言ったら、来るんだな!今すぐ俺と一緒に来い!」

「お断りいたします。わたくし、読書の途中ですの」

「なっ…な…!」

おそらく沙織から反発されるのが初めての健斗は、真っ赤な顔でしどろもどろになった。そこへ視線を送ってやる。俺の視線をキャッチした健斗は、更に顔を赤くする。ばっと音がするくらいの勢いで振り向けば、キリコも同じように健斗を見ている。

「おま、お前たちは、沙織の何なんだ!」

無視。

「説明しろ、沙織!」

「ああもう、やかましくて本が読めませんわ。あの方々は船内でひとりきりの私が安全に過ごせるように、一緒にいてくださる善意の方です。健斗さん達のような関係ではありませんから、ご心配なく」

それきり沙織は一言も発さず、読書に没頭した。

健斗はクララに図書ラウンジを追い出されるまで、ずっと何か沙織に言い続けていたが、同じことを繰り返しているだけだった。

「なぜ、自分といっしょにいないのだ」と。

台本通り黒いスーツとコートはしばらく封印。めったに着ることがないアイボリーのジャケットを着ると妙に笑えて、同じくライトグレーのジャケットを着たキリコと、しばらくお互いの姿を見て爆笑し合った。

黒い衣装を着るのは沙織だと決めている。

ディナーの席では魚群が釣れた。

おっと、ちなみに今日のディナーは

・季節の野菜のテリーヌ

・サラダ(クレソン、ラディッシュ、リーフレタス、アスパラガス)

・コンク・フリッター

・ゴート・チーズのニョッキ

・ジャーク・チキン/カジキマグロのステーキ

・ナッツケーキ

そのジャーク・チキンを味わっている途中で、健斗が取り巻きを引き連れて俺達のテーブルにやって来たのだ。

「恥知らずな女だ。どこの誰ともわからない男と食事をとるなんて、見損なったよ」

「あら、どこの誰ともわからない女性と親しくされている皆様にご注意いただくなんて…思ってもみませんでした」

沙織は音を立てずにカトラリーを使う。

「苺愛の事を悪く言うな!」

急に発せられた怒号にメイン・ダイニングがさっと静まり返った。すぐにざわめきを取り戻すが、またあいつらかと肩をすくめる人間は少なくなかった。

口の中のジャーク・チキンをすっかり咀嚼して味わった後、俺はさも今初めて気がついたように、のんびりと疑問を投げかける。

「若年だからと黙っていたが、君たちはいったい誰だ?」

「俺は、沙織の婚約者だ」

「それは聞いた。あとの3人は?」

「俺の高校の生徒会のメンバー、同級生だ」

「へえ、沙織。彼らとは友達なのかい?」

「いいえ。初めはお友達になれるかもと思っていたのですが、皆さん、私とは関わりたくないと」

「なるほど。では婚約者殿と無関係の御三人、改めて訊くが、何か用か?」

すこうし圧を込めて言ってやる。ガキどもは面白いくらい縮み上がった。

「おい、あんまりかわいがるな。怖がってる」

くつくつとキリコは笑う。

「ああ、まさかこれくらいでビビるとは思ってなかった」

わかりきったことをわざわざ口にして笑うと、ガキどもの連携は崩れ出した。赤い頭はいきり立つが、眼鏡とちびは及び腰だ。ああ、めんどくせえ。だからガキの相手は嫌なんだ。

「てめえらこそ、誰なんだよ!」

暴言を吐く赤い髪をじっと見つめる。

「それは、誰に言っている」

「てめえだよ!」

「人間の言語を話せるようになってから来るんだな」

側にいたクルーに合図すると、健斗を含めた4人はダイニングから追い出された。

だが、執念深い赤髪は俺達が夕食を済ませて、ダイニングから出てくるのを待っていた。

3人してエレベーターホールへ向かう途中、視界の端に赤い髪が見えて、まだ一日が終わらないのを知る。

お構いなしに、ずんずんとホールを突っ切って歩く。

「待てよ、コラァ!」

待つ謂れなどない。アホかな。無視して行くと、向こうの知的レベルも下がっていくようだ。背中から聞き捨てならない言葉が聞こえた。

「ははァ、沙織。お前、健斗に相手にされないからって、他の男と一緒にいるのを見せつけたいんだろう。でもな、そんな気味の悪ィ眼帯のおっさん連れてても、逆効果だっての!ぎゃはははは!」

思考より体が動く。

拳が振るわれるのをコマ送りになる視界で捉えていた。

だが俺の体の前に差し出された強い腕で押しとどめられる。

それがキリコの腕だと認識するのに数秒。

この腕がもう少し遅れていたら、間違いなくあのガキの前歯を全部折っていただろう。やっちまうところだった。ばれないように小さくため息をついて感情を落ち着ける。

俺の代わりに前に立ったのは沙織。

「小網さん、今のはいけません。ミスター・ロッキー・ロードに謝罪を」

「はあ?俺が?冗談だろ、そんな」

「それ以上の醜い言葉はお止しになって。その方の人柄もよく知らないのに、失礼な事を口にするのは、いけません。幼稚舎の子どもでも解かることですわ。さあ、謝罪を」

赤髪は怒りに燃えた。つーか、俺の方が怒ってんだ、このクソガキ!

「相手にされないから見せつける。そのような発想はありませんでした。わたくしの行動は全て健斗さんのためにしているわけではないからです。でも小網さん、あなたは健斗さんのために尽くされる方でしたね。だから先程恥をかいた健斗さんの代わりにここにいる」

「な…なにを…」

「まあ、失礼を。わたくしったら、そのことに全く気がつかず通り過ぎてしまうところでした!小網さんが後ろから声をかけて下さらなければ。ええ、ええ」

赤髪は沙織の言葉を全く理解できていない。目を白黒させて、自分の状況を図りかねている。沙織はおっとりと言葉を続ける。

「先程のダイニングで起こした騒動を、健斗さんの代わりに謝罪して下さるために、私たちを待っていてくださったのですね」

「は、はあ?どうして俺が…っ」

「健斗さんも幸せなお方です。こんなに思ってくれるお友達がいらっしゃるなんて、ねえ」

いつの間にか俺達の周りには、遠巻きに人垣ができている。赤髪は逃げられない。沙織は畳みかける。

「真心こめた謝罪でしたら、受け取りますわ。もちろん、ミスター・ロッキー・ロードの分も」

ざわざわとどよめく周囲の人間の視線が赤髪の小僧に突き刺さる。興味、嫌悪、愉悦。

赤髪はだらだらと冷汗をかいている。ここで無理矢理人垣を破って脱出すれば、健斗の恥を上塗りにする形になる。逃げ帰ったと仲間に責められるのは確実だ。かと言って、自分が頭を下げさせられる事態は想定していなかった。どうして俺が、そればかりが頭で回っているんだろう。思考の袋小路。

やがて耐えきれなくなって、赤髪は唯一自分に残された道を選んだ。

赤髪は震えながら頭を下げる。

「ごめんなさい、が聞こえません」

『♪』が語尾に付きそうな口調で沙織は責める手を休めない。

蚊の鳴くような声で赤髪が「ごめんなさい」というと、沙織は「よくできました」と笑った。

その日、コーヒーバーの床をモップ掛けしていたエディは仲間のクルーから話を聞き、モップを放り投げて喝采した。

「本物の、本物の悪役令嬢の誕生だー!」

ブラック・ジャック先生、ドクター・キリコ。わたくしの悪の先生方。

お二人は用心深く、わたくしを部屋の前まで送って下さった。おやすみなさいの挨拶をすると、ブラック・ジャック先生は口の端を持ち上げて。

「お疲れさん。明日はもっとハードだ。よく休みな」

そう言って、静かにドアを閉めました。

先生の言う通り、まだまだ台本には続きがあります。お父様が安心できるまで、引き返すことなど有り得ません。ですが…わかっては、いるのです。

「沙織さん、おかえりなさい。ディナーはおいしかった?」

ベッドルームに入って、お母様の姿を見ると、わたくしの心は悲鳴を上げそうになります。

「はい。コンクのフリットが、とても美味しかったです。お母様もダイニングへ、今度一緒に参りましょう?」

「え、ええ…そうね。でもルームサービスも悪くないのよ」

お母様は、まるで避難するようにわたくしの部屋へやって来ました。何かに怯えるように、何かから逃げるように。いつも温和な、怒ると怖いですけれど、取り乱すことなどほとんどないお母様のあんな表情は初めて見ました。

今なら、その理由がわかります。あの男は、お父様ではない。

お母様もそれを感じ取ったのだと思います。滅多にお部屋から出ずに、人とあまり会わないようにして過ごしています。高薄のおじ様には、体の具合が悪いとお話ししました。その時のおじ様の表情は、非常にがっかりされていたのを覚えています。

お父様に化けたあの男は、お父様の部屋に陣取ってはいるようですが、高薄のおじ様を避けるように意図的に部屋を空けることもあるようです。その時はどこにいるのか掴めません。これまでは家族ごっこのようにわたくしに接触してくることがありましたが、それもあの男は疲れたのでしょう。お母様もあの男のせいで身の危険にさらされている。高薄のおじ様には、このようなことを知られるわけには参りません。

健斗さんの事も…

「なにか考え事かしら?難しい顔をして」

お母様がわたくしのほおをそっと撫でます。

ふいに胸の内から澱が溜まるように、黒いものが降り積もりました。

ひとひら、ひとひらと。

ごめんなさい。

この口は今日たくさんの酷いことを言いました。

ごめんなさい。

この眼は今日何人もの人を睨みつけました。

ごめんなさい。

この耳は心無い言葉を聞き続けました。

わたくしは悪い娘です。もう戻らないのです。

「まあ、もう18になったと言うのに甘えたいの?仕方がない沙織さん」

やさしい手がわたくしの肩を撫でてくれます。泣きそうになるのを堪えるわたくしを今だけ許してください。

明日からは台本の通り悪役令嬢の顔に戻りますから。

この時間があれば、わたくしは戦えます。

どうか許してください。

My fair villainous lady⑦

第7章

デッキタワーの先端ほど近く。黒と金で装飾された最上級のスイートルームで葉巻を咥える男が一人。ボックスソファの置かれた広いリビングに、先程騒ぎを起こした息子と婚約者の娘、そしてその両親が揃っていた。

「高薄さん、先程は大きな騒ぎになってしまい、申し訳なかった」

「いえいえ、若いころにはよくある話ですよ」

鷹揚に応えながら高薄浩一郎は、この頃の久遠寺彰の振る舞いに疑問を抱いていた。

クルーズ初日はアクティビティにもディナーにも、一緒に参加できたのだ。しかし2日目からは、全くと言っていいほど顔を会わさなくなった。何のためにこのクルーズに参加しているのか、理解をしていないとでも言わんばかり。高薄と久遠寺がより親しくなる旅行でなくてはいけないのに、久遠寺彰が高薄浩一郎を避けているようにしか思えない。宿泊している部屋を尋ねても不在。妻の絹子でさえ、動向を掴めていないらしい。

加えて沙織の振る舞いである。彼も多少は船内の噂を耳にしている。健斗たちに連れ立って、いちいち文句を言うのだとか。高薄浩一郎は、この少女が幼い頃から苦手だった。大の男が高校生相手に怯む必要はないのだが、遺伝とは恐ろしいもの。沙織からは浩一郎がどうしても敵わなかった先代社長、久遠寺和機の雰囲気が漂うのだ。ぼんやりした両親から生まれたとは思えないくらいに、利発な才媛。

「私も今日の事でいろいろ考えました…やはり沙織は健斗君にはふさわしくない」

浩一郎の思考は、突然の彰の一言で打ち切られた。

「待ってくださいよ。そんなに大ごとではありません。だれも怪我などしていないし、船から苦情が来たわけでもない」

「そうは言っても、そちらの健斗君の心は、もう違う女性にあるらしいじゃないですか。いや、全く、親の私がしっかりしていないから、沙織を面白みのない娘に育ててしまった。これまでの事は、健斗君の心を掴んでいられなかった娘の落ち度です。ほら、沙織、謝りなさい」

急に謝れと言われて、戸惑う沙織。騒ぎになってしまったのは申し訳ないけれど、どうして自分が謝らなくてはならないのか。しかも相手は高薄家、ひいては健斗である。筋違いにも程があるのではないか。

「彰さん…」

「お前は黙っていなさい」

娘の動揺を察した絹子が夫を諫めようとするも、一喝されてしまう。絹子は沙織以上の箱入り娘。社長夫人として内助の功を尽くしてきたが、今回の彰の行動は乱暴で驚くばかりだ。2人きりになると必ずベッドに誘われる。散々言い訳して逃げ回り、今ではほとんどの時間を沙織の部屋で過ごしている有様。夫が知らない人間に思えて、ただ怖かった。

「失礼を。娘も娘なら、母親もそうだ。躾が失敗したとしか言いようがない」

「まあまあ、落ち着きましょう。騒ぎの後だ、まともに思考がまとまらない事だってあるでしょう。我々、高薄は昔からの付き合いのある、沙織お嬢さんを婚約者に迎えたいのです。いきなり現れた者にそのポストは譲りませんよ」

「父さん、俺は苺愛と」

いきり立つ息子をひと睨みすれば、健斗はすごすごと浩一郎の大きな背中の陰に隠れた。

浩一郎はどうしても息子と沙織を結婚させたかった。

久遠寺と血縁関係になりたかった。

裸一貫から会社を立ち上げ、海外の大きなコンペティションを勝ち抜いたことで、彼は業界のトップの一角に登った。しかし上を見ればきりがない。浩一郎は絶対に自分が超えられない壁の存在に気がついたのだ。

どんなに努力しても報われない。最初から持っているものと、持たざる者の差。

それを息子たちの結婚で、やっと自分も手に入れられるのだ。「どこの高薄さん」ではなく「あの高薄さん」と、高級クラブで自分を蔑んだ連中に呼ばせたいのだ。

だから健斗と沙織の婚約破棄は絶対に認めない。それは高薄浩一郎の決定事項だった。

息子が旅先の恋に現を抜かすとは予想外だったが、健斗から聞く沙織の対応にも問題があるように思えた。自分が指摘するよりはと、隣に座る妻の重美に視線をやった。勘のいい妻は、沙織に健斗にどのように接してほしいか、懇々と言い含めた。

曰く「おおらかな目で」「妻になるのだから忍耐も必要」「男は多少は遊ぶもの」

浩一郎にとって最後のひとつは肝が冷えたが、沙織は黙って重美の言葉を聞いていた。

久遠寺一家が部屋から去った後、健斗は父に食って掛かった。

「どうしてあんなことを言うんだ!父さん、俺はもう沙織と結婚なんかしない!苺愛と一緒になりたいんだ」

愚かな息子に頭痛がし始めた浩一郎は、どうしてこの結婚が会社のために必要なのかを再三再四説明する気にならなかった。重美が側にいないことを確認して、息子に一言告げる。

「世の中には、妻のほかに恋人を持つ男がいる。お前がうまくやるなら、ない話ではないぞ」

その『うまく』の意味を、息子はきちんと理解しなかった。

罫線

夜が明ける前に、俺達はベッドから這い出し、あたたかいコーヒーを持ってバルコニーに出た。

ペールブルーの空が橙色に染まりだす。やがて現れる粒ほどの強力な光線。ちぎれた小さな雲の影が太陽に飛ばされていく。

朝日が空をあたたかく覆うまでの間、コーヒーを二人だけの沈黙の中で味わう。

それもなくなって、すっかり空が明るくなったころ、朝食を取ろうとキリコは俺の手をひいた。

〈本日の朝食・ルームサービス〉

・フレンチトースト

・カリカリベーコン

・ハム2種

・プチヴェールのソテー

・温野菜サラダ

・チーズの盛り合わせ

・マッシュルームのポタージュ

・フルーツ(りんご、キウイ)

・オレンジジュース/コーヒー

「共闘戦線を張ろう」

むぐっと口にしたチーズが喉に詰まりかけた。

「どういう意味だよ。共闘戦線なんて」

「そのまま。昨日話していて分かった。このヤマ情報が多すぎる。一人で情報集めて分析してたら、あっという間にクルーズが終わっちまう。そうしたらもう、解決する機会はほぼないと言ってもいい。酷ければ全部無かったことになってしまうだろう」

キリコは静かにハムを切ってる。

「バミューダでアレサンドロの腕を鑑識してくれるように頼んだけれど、何の知らせも来ない。クルーズが終わる前に証明できないと、本当にあの腕が平野のものだってことになってしまう。俺はとても我慢できない」

静かな顔で顔でフレンチトーストをきれいに食べてるけど、腸煮えくり返ってるんだろうなあ。だってずっと怒ってるって珍しく言ってたし、昨夜もいつになく激しかった…俺、何考えてるんだろう。

オレンジジュースをごくごく飲む俺をよそに、ゆっくりとキリコは席を立ち、背中から長い腕で覆いかぶさるようにして俺を抱きしめた。

「オキシトシンの発生源を確保しておきたいという思惑もある」

「なんだかお前さんにばかり都合のいいことに聞こえるんだが」

「俺も悪役令嬢を助ける黒い魔法使いその2になるよ」

「うまくいくかねえ」

「行かせてみせるさ。俺が見えていないものが、お前に見えることはあるだろうし、その逆もあるだろう。違う視点で見えてくるものがきっとある。昨晩のように、それを共有したい。有事の際は手を貸すこともやぶさかでない。そう言う意味の共闘だよ」

キリコの考えは分かった。依頼人への感情も分かる。だけど馴れ合うのは、俺たちには合わない気がする。それに15億円の一部を報酬に寄越せって言われても困るし。そうキリコに伝えると、奴は唇の端で笑った。

「もちろん期間限定さ。期限はクルーズが終わるまででどうかな。俺はアレサンドロの尊厳を守るため、お前は15億を手にするため。そのために一時的な共闘戦線を張るのさ」

「よし、決まりだ」

俺はオレンジジュースのコップで、キリコはコーヒーカップで、かちりと乾杯をした。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の真相を確かめるべく、俺達は行動を始めた。

キリコはセキュリティスタッフのオフィスへ行き、俺は先にインサイド客室へ向かう。エレベーターホールまでの長い廊下を歩き、コーヒーバー「スター・ギター」の前を通りかかった時だ。

「ジャック!」

エディの悲鳴が聞こえた。何事かと顔を出すと、相変わらず客のいない店内で、3人の女が仁王立ちして睨み合っている。マリベルとクララと……昨日の写真で見た顔だ。たしかグアダルーペ?

「どうしたんだ」

小声でエディに尋ねる。

「変な噂があって、僕がそれをマリベルに話したら、こうなっちゃって」

かわいそうなくらいエディは震えてる。

「噂?」

「前に話しただろ【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の話。あれの続きさ。今までは唸り声だか喘ぎ声だか、意味の分からない声しかしてなかったんだけど、とうとう人間の言葉になってるのを聞いたって奴が出たんだよ!」

なんだって?詳しく続きを聞こうとしたら、女性陣の方が口火を切って揉めだした。

「ショーマが『愛してる』って言ったのは私よ」

「どうして決めつけられるわけ?あの部屋で愛し合ったのは私」

「私だってそうよ!あんただけじゃないわ!あの夜『愛してる』ってショーマは何度も言ってくれた!」

バチバチと雷電が飛ぶ険悪な雰囲気の中、3人の女性が一度に叫んだ。

「「「死んだショーマが『愛してる』って言ったのは私の事よ!」」」

ドゴーンとでっかい落雷の幻影が見えた。

どうやら【最下層のインサイド客室】こと死んだ平野星満の部屋から聞こえていた声が言語になったらしい。それが『愛してる』という言葉だったと。

それにどんな意味があるんだ。死んだ人間が喋ってるなんて妄想がそもそもおかしいし、今更愛を囁かれたって何の得にもなりゃしねえ。それなのにお互いマウントを取り合うくらい、彼女たちはショーマに惚れてたって事か。勝手にしろい。

「待って、ジャック!行かないで!」

涙目のエディがすがるけど、悪いな、俺もその幽霊が出る部屋に用がある。

「今度、目の手術タダでやってやるって言ってやれ。かなり目が曇ってるみたいだから」

「ジャック、お医者さんなの?!」

そうだよ、と背中で手をひらひら振って、今度こそ目的地へ向かう。

すぐに行くはずだった。

だけど流れでもう一人連れていくことになってしまった。

エレベーターを降りて、いくつか階段を下りる。船内の様子はだんだんと変わって行き、照明はぼんやりとして、こもった匂いがしてきた。船の巨大なエンジンの音が鈍く響く。

最下層のインサイド客室、俺の部屋の隣、平野星満の部屋の前にはすでにキリコがいた。

うす暗い廊下で俺達に気がついたキリコは不審な眼を向ける。

「どうしてお嬢さんもいるんだ」

「まあ、途中で拾ったんだ」

そう、俺は沙織と一緒に来ていた。

数分前、エレベーターホールで下行きのエレベーターを待っていると、俺の前のエレベーターの扉が開き、中から喧しい奴らがそろって降りてきたのに遭遇した。

ピンク頭の一団だ。朝っぱらから嫌なもんに会ったなと、表情筋が歪むのを堪えられずにいたら、やっぱり沙織は一番後ろで黙って歩いていた。真っ直ぐ前を見つめる瞳は、まだ彼女が戦っていることを示していたし、手を貸す予定はなかった。

通り過ぎ様、俺に気付いて顔をこわばらせた奴もいたけれど、一瞥するとサッと目を逸らした。タマ無しめ。しかしだ、その時、吐き気を催す香水の臭いの中に、人間のある分泌液が出す特有のニオイを感じ取って青ざめた。振り返ると最後尾の沙織が通り過ぎるところだったから、彼女からこのニオイがするのかと、非常に慌てて手を掴み、そのまま下りのエレベーター連れ込んでしまった。

エレベーターの中、沙織は非常に困惑した様子で小さくなっていた。

「すまん。ちょいと不躾な真似をするけれど、勘弁してくれ」

彼女を壁際に押しやって、手を触れずに、その場で深呼吸。変態くさい?うるせえ。

沙織からそのニオイはしなかった。そうだよな。当然だよな。

俺が感じた人間の分泌液のニオイ。それは男の精液の臭いだった。

そんなもん垂れ流してるのはピンク頭しかいねえじゃねえかよ。見当違いにも程があるぞ、俺。つーか、あのメスガキ、健斗を食ってるってことか。周りの連中もそれを知ってつるんでるのか?精神構造理解しがたい。したくもねえ。

どんどんエレベーターは一直線に最下層へ降りていく。

「あの…困ります…」

見上げる沙織の訴える気持ちは分かる。けれど、俺の目には彼女が今にもポッキリいってしまいそうに見えた。さっきの真っ直ぐ前を見つめる姿は、彼女なりの虚勢だったと思えるほどに。

「疲れたか?」

「えっ」

「あの連中相手にしてて、疲れたかって訊いたんだ」

沙織は黙ってうつむいた。

意地の悪い質問をした自分に苦笑して、罪滅ぼしとばかりに彼女に提案した。

「これから幽霊が出る部屋に肝試しに行くのさ。気分転換に一緒にどうだい。お嬢さん」

「ええかっこしい」

ぼそりと方言で呟くと、キリコは沙織に念を押した。

「望んでここに来たのではないのは理解した。どうもこの男は君を案内したいみたいだし、実はこの部屋と君は無関係ではないと俺も思っている。是非とも一緒に来てほしい。そしてここで見たこと聞いたことを口外しないと約束してほしい」

「どういう意味です…?わたくしはこの部屋に来たことはありません」

「そうだろうね。でも、部屋の中に、君が知っている何かがあるかもしれない。それが具体的に何かは我々も知らないがね、気になったことがあれば教えてくれないか」

少しでも情報が欲しいキリコの思惑は分かった。平野の部屋の中はほとんど何もない状態だと聞かされていたから、この探索が空振りになる可能性もある。その可能性を少しでも引き下げたいのだろう。

「俺からも頼む。巻き込んだのは悪かった。ただ俺達はお前さんの親父さんについて調べていることがあるんだ」

沙織の顔色が変わる。思い当たる節があるのだろうか。更に口を開こうとすると、廊下の向こうからがやがやと声がする。

「さあ、中に入るぞ。見つかるとまずい」

キリコがカードキーを素早くスキャンし、【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の現場、平野星満の部屋の扉が開いた。

ぱちりとスイッチを入れれば、室内が明るく照らされる。

高級感のあるアイボリーの壁と金のライン。同系色のやわらかいベッドは部屋の真ん中。テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。そう、俺の部屋と全く同じだ。

違うのはトランクがひとつ残されていること。

「手分けして探そうにも、ワンルームじゃなあ」

「ワンルームをなめんな。俺はクロゼットを探すぜ。お嬢さん、俺と一緒に見てくれねえか」

「お嬢さんでは落ち着きません。どうか、沙織と」

「わかった。沙織、お前の親父さんと関係しそうなものがあったら教えてくれ」

その時だ。

部屋の中に唸り声が満ちたのだ。

これか。これが幽霊と噂される現象か。どこからするのか確かめようとすると、ぱたりと声は止んでしまった。

「部屋のどこから声がしたのか、分かったか?」

「バスルームではなかったな」

「わたくしの後ろの方でしたように思います」

再び唸り声。今度は明らかに俺の後方でしたのが判った。

クロゼットを探していた俺たちの後ろには、ベッドしかない。キリコが掛け布団をめくったが、当然のように何もいない。声を上げるのだから、少なくとも動物だ。さっきの声は布団の隙間に隠れられるような小さい生き物が出す声の大きさではなかった。

敷布団もめくり、マットレスに耳をつける。

誰も声を出さない沈黙の中、俺の耳は何かが蠢くような小さな音を拾った。

「キリコ、聞いてみろ。何かが中にいるかも知れない」

キリコも耳を澄ませ、確かに物音がすると言った。ベッドの周りを調べると、少しだけマットレスが浮いている。アイコンタクトをしてキリコと一緒にマットレスに手をかけて力を入れると、がこんと音を立てて、マットレスが下の板ごと外れた。

邪魔だからと気を利かせたのか、沙織は部屋の隅でじっとしている。

そろそろとマットレスの付いた板を壁際に移動させると、ベッドの木枠の中に何かが詰まっているのが分かった。

「見るな!」

すぐに沙織に告げた。

木枠の中にいるのは男。

胎児のようにうずくまる形で、横たわっている。

体中に鬱血痕。虐待の痕だとすぐに知れた。酷いのは指だ。どの指もまともな形をしていない。ちぎれてはいないものの、あらぬ方向へ曲げられ、爪を剥がれ、ペンチのようなもので執拗に痛めつけられているのが分かる。

キリコがジャケットを脱ぎ、男の丸出しの下半身にかける。男の性器もまた虐待されていた。同時に肛門からの出血もあるようだった。

人のいい、おっとりとした笑顔が、血色の悪い今の顔と同じ人間だとは想像もつかない。

久遠寺彰が、そこにいた。

かまされていた猿轡を放すと、彰はやっと人間の言葉を話した。

「…やあ……」

壁にくっついたまま、様子を窺っていた沙織が反応する。

「お父様…ですか……」

彰は大きくため息を吐いた。

「まさか、娘に発見されるとは……情けないな…」

傷だらけの彰にじりじりと近寄る沙織は、彼の体を見て小さく悲鳴を上げた。上半身が露だったことに気付き、俺のコートを肩からかけて彰の体をすっかり覆った。

「どうしてこんなことに……!わ、わたくしたちが先程まで一緒だったのは、誰なんですか?」

「沙織、俺達が分かっていることを順番に話す。最後まで、落ち着いて聞いてくれ」

アレサンドロの腕から始まり、平野星満という男が久遠寺彰になり替わっている事実を沙織に伝えた。沙織は辛抱強く聞いていたが、とうとう最後には泣き出してしまった。初めて見る彼女の涙だった。

「お父様が、どうして、こんな酷い目に遭わなくてはならないのです!」

「それは…私が原因なんだ……」

諦めにも似た、自嘲を含んだ彰の声。

「大体予想がついてるから、詳しくは後で聞こう。今はここから出ることが先だ」

立ち上がるように彰の肩を抱えたが、彼は首を振った。

「私がここからいなくなったら、平野は間違いなく家族を害する」

「その前にセキュリティスタッフに平野の身柄を拘束してもらえ」

「ううん…そうするのは簡単なんだけど、私にも意地がある。仮に今、私が君たちに救出されて、平野が捕まったとしよう。誰が得をするだろうか」

「損得勘定してる場合かよ。手前の命がかかってんだろ」

いきり立つ俺の目をじっと見て、彰はにこりと傷だらけの顔で微笑のかたちを作った。

「高薄か」

「そう」

キリコの言葉に応える彰。その声は静かで強い意志を感じさせた。

「愚かにも犯罪者の手に落ちた久遠寺の3代目は無能だと吹聴し、事件当事者しか知りえない情報に領巾を着けてふれまわるだろう。私が対応するより早くね。だってほら、今の私はちょっと入院が必要な体だろう?」

「…ム」

「父も対処はしてくれるだろうが、なにぶん高齢だ。うかうかしていると…」

「久遠寺は高薄に食われると」

無言で彰は頷いた。

「おそらく平野はそこまで読んでいる。平野の望みは久遠寺の破滅だ」

『破滅』と沙織は鸚鵡返しに呟いた。きっとそのままの意味なのだろう。世襲制の会社が社長の不始末で身代を傾けた事例は、古今東西良くある話だ。彰が今まで命を取られず生かされているのは、久遠寺を潰す過程を見せるためだけ。「まだまだ苦しめ」と加害されている途中なのだ。

「私が望むのは、高薄も、久遠寺と一緒に事件に巻き込まれたというシナリオだ」

「なんだって?同じ船に乗ってて、お前さんと平野の違いに気が付きませんでした。平野に騙されましたって段階で十分巻き込まれたと言えると思うが、それ以上の状況なんて、簡単に用意できるか?」

「すでに用意されていると、私は思うよ。憶測にも満たない妄想だけれども」

沙織、と娘を彰は呼んだ。

「平野はね、私に沙織と健斗君の事を詳しく聞かせるんだ。今日はなにがあったとか、その前はこんなことをしていたとか…私が平野から聞いた話をするから、本当かどうか答えてくれるかい」

ウェルカムパーティでの出来事、タクシーツアー、ホースシュー・ベイでの事件、仮面舞踏会での事件、中には俺達が知らないものまで、いくつもいくつも彰は沙織と健斗、ピンク頭の一団との間に起きた事柄を挙げた。

沙織は二つほど否定はしたが、その他は黙って頷き、肯定した。

「そうか…そうか……」

ほろほろと彰は落涙した。

「娘が、こんな酷い目に遭っているのに、親が何もできずにいるなんて……」

「お、お父様」

「どうか何も言わないでくれ、沙織」

涙を拭いもせずに彰は続けた。

「平野が沙織たちの事を私に告げるのは明確な悪意があるからだ。だけど私はずっと不思議だったんだ。どうしてこんなにトラブルが起こるんだろうって。それをどうして平野は余すところなく知っているんだろうって」

「確かに…あのピンク頭、やたら沙織に突っかかるよな。健斗狙いだからライバル扱いしてるのと思ったけど、まだ何かあるのか」

「私にもわからない。だけどきっと仕掛けがあるんだと思う。この船の上で久遠寺と高薄をつなぐ一番大きな綱は、沙織と健斗君の婚約だからね…いけない、時間がない」

彰は部屋の時計を見て焦りだした。

「平野はいつも12時から15時までの間はここに来るんだ。もうすぐ12時になる。私を元に戻して、部屋から出るんだ」

「そんなことできません!お怪我の手当てをしないと!お父様、わたくしは家を失ってもお父様を失くすのはいやです!」

「いいから、沙織。私は大丈夫だ。お前が私を思ってくれるように、私もお前を思っているよ。お前は絹子を、お母さんを守ってあげてくれ。私は私のできる方法で久遠寺を破滅から救って見せる。平野は私を殺さない確信がある。船が港につけば、きっと解放される」

「その時には、久遠寺は中からも外からも食いつぶされているわけか」

虚勢を張った彰の言葉を看破するキリコの独白は親子に突き刺さる。彰は唇を噛みしめ、沙織は震えている。

「カードキーは手に入った。必要ならまた来られる。時間がない今は久遠寺氏の言う通りにしよう。さあ、コートとジャケットをどかすから、君は下がっていなさい」

「見せてください」

彰とキリコ、俺の3人の視線が沙織に集まる。

「お父様が、私とお母さまを守るために、どんな苦しみに耐えてくださっているのか、私は知るべきだと思います」

澄み切った瞳に対して、俺は無言でコートを彰の体から外した。上半身に散らばる大小の鬱血痕。そして、手。沙織は彰に駆け寄り、触ると痛かろうと震える手をうろうろとさせながら、大粒の涙をこぼした。

「ゆ、指が…お父様のピアノが、わたくしは大好きでしたのに…痛むでしょう…ああ、痣がこんなに……こんなこと、こんなことって…!」

彰はできるだけ痛みを隠した笑顔を作り、ぼろぼろになった手で沙織の頭を撫で「大丈夫だから」と繰り返した。

彰を再びベッドの下に隠し、そっと廊下に出た。さっさと移動すべきなのだが、沙織が動かない。彼女の葛藤はわかるが、ここで平野と鉢合わせるわけにもいかない。石のように固まった彼女を引きずって、その場を後にした。

「どう思う」

「どうっつってもな」

プールデッキの端っこでぼそぼそやってる俺とキリコ。そこからちょっと離れたところに沙織。お互い作戦会議中。沙織には何が自分にできるか考えてみろって漠然とした宿題を出した。

「平野の彰に対する執着は異常だ」

体を痛めつけ、犯し、ピアノを奏でた指を徹底的に潰している。私怨の域をとっくに超えているように思えた。

「だから『愛してる』なのか」

「俺にはわからない」

「わかる必要もないさ。状況が変わったから整理するが、15億を久遠寺から取り立てたいお前にとっては、久遠寺が潰れないことが一番でいいな?俺にとっては平野の正体を暴くことが一番。それがアレサンドロの腕の証明に必要不可欠だから。ただ、俺の場合は久遠寺彰氏に救出を拒まれたことで、振出しに戻った感があるがね」

「おう、久遠寺が高薄に食われたんじゃ15億どころの話じゃなくなる。久遠寺が生き残る可能性を探るためには、平野とピンク頭の関連性を洗う必要があるか…気が進まねえ。俺、ああいう類のサルは嫌いなんだ。今日だって男の精液の臭い、プンプンさせてたんだぜ」

「お前はそういうところ潔癖だからね」

じっと片目で見つめられて言葉に詰まる。

顔をしかめた俺のところへ近付く影があった。沙織だ。

「宿題の答えは出たか?」

俺の言葉を受けて、沙織は胸の前で両手を会わせて組んだ。それは何かに縋る殉教者のように見えて。海風に乱される長い黒髪をそのままに、沙織は思い切ったように口を開いた。

「わたくしに、悪の作法を教えてくださいませ」

しばし、海風と波の音しかしなかった。

沈黙が何年も続くように思われたころ、俺は耐えきれなくなって、大声を上げて笑ってしまった。

「よく考えたのです!どうしてそう結論付けたか聞いてから、思う存分笑ってくださいな!」

「ああ、ああ、すまんな。話は聞こう。その前に十分面白すぎてな」

笑いすぎて涙が出る。その様子を見て、沙織はむむっと俺をかわいい顔で睨む。

「適材適所だ、沙織さん。よくもこんな当たりくじを引くもんだ」

キリコの声に、どういう意味かわからないと首を傾げる沙織。

「ちなみに沙織、俺が誰だか知っているか」

「ブラック・ジャック先生。お医者様でしょう?治療費がとても高額なのは存じております。治る見込みがないと匙を投げられたおじいさまの病気を治して下さったのですもの、素晴らしい技術をお持ちなのもわかっています」

はは、と乾いた笑いが口から洩れる。

「それが俺の正体だと思うか?」

「えっ?」

キリコは俺の前に出ると、わざと紳士ぶって沙織に尋ねた。

「では、私の職業はなんでしょう。当ててごらんなさい」

沙織は戸惑うしかない。そりゃそうだ。こんな人相の悪い隻眼黒眼帯、おまげにザンバラの銀髪が海風に散らばってる。表街道の人間に見えるはずがない。

「間違っていたら、ごめんなさい…その、海賊…ですか?」

今度こそキリコは腹を抱えて笑った。俺も爆笑。沙織は泣きそうになっている。馬鹿にしているわけじゃない、ちょっと落ち着く時間をくれと言って、なんとか呼吸を整えた。

「すまん。うん。大丈夫だ。話をしよう」

「では改めて自己紹介を。私はキリコ、ドクター・キリコと呼ばれることが多いですね。安楽死専門の医者をしています」

「安楽死…」

耳慣れない言葉を沙織は反芻した。

「安楽死なんて言うが、要はヒトゴロシだ。まだ生きられる人間を勝手に見切って殺してる。俺には我慢ならん思想の持ち主だ」

喚いて見せるがキリコは知らん顔。そういうふうに誤解する者は稀にいます、だとよ。沙織は「人殺し」というワードが刺さったらしい、眼を見開いたまま動けなくなっている。

「自己紹介が済んだところで、いつも通りに喋っていいか。話が進まなくなりそうだ」

「ええかっこしいはお前じゃないか」

「言われたくないね。お前の自己紹介はまだ途中だろ、きっちり名乗ってやりな」

そうは言ってもなあ、どう自己紹介したもんかねえ。今更だけど、自分で言うのも格好つけててやだな。でもキリコに任せると、最悪のパターンしか思いつかんので、観念して言うことにした。

「俺は無免許医だよ。黒医者、闇医者なんて呼ばれることもある。金さえ積めば、どんな後ろ暗い奴でも手術台に上げる。金がすべての外科医さ」

捕捉説明したいらしいキリコは笑っていたが、余計な口は挟まないと決めたようだった。

「さあて、沙織お嬢さん。我々から何を学びたい?」

びくりと沙織の肩が揺れ、俺の背後のキリコを凝視している。振り向かなかったけれど、あいつがどんな顔をして沙織を見ているのか判った。裏街道の連中と同じに扱ってやるなと言ったのはお前さんじゃないか。それじゃあと、俺も裏街道の夜道を往く闇医者ブラック・ジャックの顔を見せる。これもテストだぜ。沙織お嬢さん。

白い顔を更に白くして沙織は後退り、華奢な体を縮こまらせながらも逃げ出さずに何とか立っている。まあ、こんなもんか。ぱっと表情を変えてやる。

「さあ、しっかり立ちな。今度はお前さんの番だ。俺達に何をさせたいのか話してくれ」

すっかり震えあがった沙織を連れて、キリコの部屋へと向かった。

このくらいはさせてほしいと、沙織はそれはきれいな所作で緑茶を淹れてくれた。急須などはキリコが船から借りていたらしい。たまにコーヒーだけじゃ味気なくなるそうだ。日本に毒されてるぞ、お前さん。キリコに呆れつつ茶を口に含んだけれど、今まで飲んできた茶と比べ物にならないくらい旨かった。

「驚いたな。同じ茶葉だろう?ここまで違うものなのか」

キリコも同意見のようだった。二人して褒めると、沙織は初めて年相応のはにかんだ笑顔を見せてくれた。

「さっきお父様が話していた、私が苺愛さんたちから受けた行動なのですが…」

切り出した沙織の言葉に耳を傾ける。彼女はピンク頭の一団と行動を共にしていて、どんなことがあったか具体例を交えながら話すから、自分の認識違いもあるだろうし公正な視点で聞いてほしいと前置きして始めた。彼女が挙げた点は以下の通りだ。

・バミューダのツアーでペンダントを渡されたことが『無理矢理奪った』ことになった

・苺愛の私物のペンを沙織が拾ったことが『壊した』ことになった

・沙織が他の男子高校生と話していると、苺愛を『仲間外れにしている』ことになった

・苺愛が健斗と距離を縮めると同時に、男子高校生3人とも急激に近しくなった

・ショップで使用禁止の札がついている高級ソファに座ってはしゃぐ苺愛に注意をしたところ『金持ちだから苺愛を馬鹿にしている』と責められた

・下船した土地でも船内の高級ブティックでも、とにかく苺愛に言われるまま高額なアクセサリーなどを買い与える健斗に、高薄の父は知っているのかと心配したら『健斗の金を目当てにした嫉妬』『相手にしてもらえないので惨めな気の引き方しかできない』と非難された

・なにか起きれば、必ず沙織一人を原因と決めつけて、全員で糾弾する

・皆で出かけている時、必ず苺愛と男子一名が姿を消す時間がある。20分ほどで戻ってくるが、何をしていたかそれぞれが誤魔化している

後はウェルカムパーティで背中を押され、指を切るけがをしたこと、仮面舞踏会で苺愛のドレスを破いた犯人だと思われていること、彼女を押してプールに突き落とした濡れ衣を着させられたこと、プールの底に散らばった私物を集める様子を嘲笑されたこと…それだけで十分な侮辱だが、きっと沙織が言っていない小さな害意がもっとあるのだろうと予想はできた。

「明らかにお前さんを蹴落としにかかってるな。本命は健斗なんだろうけど、まわりの男どもだって完全にピンク頭に服従してる。まともじゃねえよ。俺ならいちゃもん付けられた3回目くらいでぶん殴ってるな」

「嘘を吐くな。1回目でアウトだろう」

「てめえだって似たようなもんだろ。すぐに楽にしてやってたんじゃねえのかよ」

「とんでもない。楽にならないようにしていたさ」

物騒なやりとりを続ける俺達を見て、沙織はぽんと自分の膝を叩いた。

「それです!お二人のお話のやりとりを、わたくしもできるようになりたいのです」

きらきらと名案を思い付いたような沙織の顔を、俺達は全く言葉の通じないエイリアンに会った時のような気持ちで見た。

「これまで健斗さんにも苺愛さんにも、他の皆さんにも、わたくしはどうにかして仲良くしたいと行動してまいりました…ですが、どれもうまくいかず、嫌われるばかり。嫌味を言われていることくらいは、わたくしにもわかりましたが、どう言葉を返せばいいのか判断に迷い、熟慮して返事をしても状況が悪化するばかり。わたくしには、悪意に対する反応のしかたが分からなかったのです」

「ふうん、それで?」

「俺達に口喧嘩の方法を教えろと言うことでいいのかな」

違う、と沙織は首を振る。

彼女の目に仄暗い炎が灯るのを、俺は見た。

「平野が私たちの間に起こったことを詳しく知っているとお父様は言われましたが、それは実に不自然だと言わざるを得ません。加えて、苺愛さんの行動は明らかにわたくしを『悪役』にしたい様子の振る舞いでした。お父様の言葉を踏まえれば、平野が苺愛さんと何らかの関係があり、久遠寺を貶めようとしている…」

幼馴染を奪われる寂しさを炎の中にくべて燃やす沙織の瞳には、決意と言う熱量が確かに宿りだしていた。

「お父様のあの姿を見て決めました…わたくしは平野と言う男を許さない。久遠寺を破滅へと導こうとするもの、それらを全て断罪して見せます」

「断罪とは、大きく出たな」

「そのくらいの覚悟がなくて、どうして久遠寺を支えられましょう。お母さまはおそらく平野に脅されているか、何か恐怖を与えられていると推測します。今夜しっかりお話して、事実を確認いたしますが、まだお母さまに全てをお話しするわけにはまいりません」

「俺も同意見だ。お前さんの母ちゃんは線が細すぎる。下手に情報を渡すと流されかねん」

神妙な面持ちで頷く沙織。彼女は父と母を同時に守る気なのだ。

「わたくしが受けた仕打ち…屈辱と言い換えましょう。今までは認めたくなかったのですが、ええ、これは屈辱以外の何物でもありません。それを糾弾すれば、全て納まるでしょうか。高薄のおじさまに健斗さんにこんなことをされましたと訴えれば済むでしょうか」

俺達は黙って沙織をみる。仄暗い炎はじわじわと彼女の身体を焼いてゆく。

「お父様に化けた平野を偽物だと暴けば、それで済むでしょうか。そこで平野が謝り、警察に捕まればお終い?いいえ、いいえ。そんな時期はもう過ぎました。愚かなわたくしのプライドが許せば、事が終息する時期は過ぎたのです」

微動だにしなかったキリコが口を開いた。

「それで、どうするんだ」

射干玉の黒髪がさらりと揺れる。久遠寺コンツェルンの意地の全てを背負った乙女は、きっぱりと言い切った。

「健斗さんとの婚約破棄。これ以外にありません」

彼女は続ける。

「一見平野の思惑通りに見えるでしょうが、こちらから切り出すか、あちらから切り出すかは大違いなのです。平野は高薄のおじ様から婚約破棄を伝えてくることを目論んでいる。ですがわたくしはそれより先に自分から伝えます。健斗さんと苺愛さんのふるまい、平野の犯罪を暴き、それらを踏まえた上で高薄のおじ様も承諾せざるを得ないような状況を作ります。もちろん十分な情報が必要ですから、今すぐにとはいきませんが…必ず」

わずか数分で、この少女はプライドと言う炎の片鱗を見せた。その炎は、俺は嫌いじゃない。だがそんなか細い炎で俺が動くと思うなよ。

「俺達に報復の手伝いをしろと言うわけか」

「はい。黒医者に安楽死医…これ以上ない『悪』の先生にご指導賜りたいのです。ご心配なく、動くのはこのわたくし。先生方が手を煩わせることはございませんわ」

ふふ、とキリコの底意地が悪い笑い声がする。

「ご冗談を。その細い腕で何ができるんだ」

「あら、わたくしの腕が頼りないのであれば、先生方が鍛えてくれればよいのです」

「ほお、良いことを教えてあげよう。俺は慈善事業が大嫌いだ。なぜ君の腕を俺が鍛えなければいけないのかな」

「俺も同意見だ。確かにお前さんの現状は不穏当なものだとは思う。ピンク頭の一団に嫌悪感を持っているのも同じだ。しかし、それだけでは俺は動かない」

「報酬が必要、ということですね」

黙って俺達は頷く。裏街道を歩む者にふさわしく、佞悪に、そして傲然と。

「では、こういうものではいかがでしょう。今のわたくしにはペン一本自由になるものはありませんの。全て両親が与えてくれたものですから。なのでわたくしがある程度自分の財産を自由にできるようになってから、報酬をお支払いいたします」

「出世払いか。話にならんね」

足を投げ出した俺に、沙織は低い声で続きを話す。

「わたしくしは久遠寺コンツェルンの全てを賭けて、あなた方にご協力を賜りたいのです。その報酬に具体的な金額をお示しできないのを、非常に心苦しく思いますが、逆にここで150億などと申し上げても信じていただけないでしょう?」

それはそうだ。返済能力のない女子高生に150億と言われても、嘘だと笑うしかない。

「ですから、わたくしが今、貴方様がたにお支払いできるものは『わたくしの未来』です。今回の事件を受け、わたくしがお父様の跡を継ぐのも、そう遠くないでしょう。その時、久遠寺コンツェルンがまだ息をしていましたら、遠慮なくお好きな金額を請求なさいませ。久遠寺コンツェルン4代目の威信にかけて、一括でお支払いいたしますわ」

沙織の瞳に灯った炎が、覚悟を持って俺達を焼こうとしている。

「それも叶わぬ時は『わたくしの未来』そのものをお渡ししましょう。奴隷のように使役なさるも良し、新鮮な血や内臓を提供する人形と扱うも良し、お望みのままに」

しばし沈黙が続いたのち、俺とキリコは顔を見合わせた。

「この辺が落としどころか」

「まあ、及第点だろう」

ぽかんとする沙織に、俺達それぞれの目的を伝えると、彼女は顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。

「初めから利害が一致していたのでしたら、そう言ってくださればいいのに!」

「これも悪の心得さ。簡単に腹のうちは晒しちゃいけねえ」

「俺達は君を利用する。君も俺達を利用すればいい。その関係を築くには、君の覚悟をはかる必要があったのさ。悪気はないよ。ちょっと意地悪したのは認めるけれど」

「まあ、俺の15億円は別料金だから彰に即金で払ってもらうとして、久遠寺コンツェルンの4代目に支払う意思があると分かっただけで十分としよう」

緊張感がすっかり抜けた室内で、俺とキリコはからからと笑った。真っ赤になってむくれているのは沙織だけだ。

「それじゃあ、昼飯食いながら作戦会議といこう。ルームサービス頼んでいいか」

「いいよ。でもメニューは沙織さんに決めてもらおう」

「わ、わたくしが、ですか?」

キリコはニヤニヤしてる。

「まさかルームサービスひとつできない子が、俺達の報酬を払ってくれるとは思えないからねえ」

「できますとも!ええ!」

沙織は力いっぱい受話器を握り、人生初のルームサービスのオーダーをした。

My fair villainous lady⑥

第6章

久遠寺彰に会う舞台にキリコが指定したのは、今夜のマスカレード・パーティだった。

仮面舞踏会なら久遠寺彰も沙織もピンク頭の一団も、一度に全部見られるだろうとキリコは提案した。素顔は見られないのに?と疑問を投げかけると、身体的特徴を把握したいだけだから構わないとのこと。何か考えがある様子だけど、今は言えないと口を閉じた。

分かったことがあったら教えるように念を押す。俺だって今の状況を変える手掛かりが欲しいんだ。お互いに理がありそうだったから、了承した。

夜のプールサイドは昼間とまるで違う顔をしていた。

紫のグラデーションでライトアップされたイミテーションのヤシの木。ワイヤーに釣り下がる妖しい光を放つオーナメント。夜闇に響く賑やかなカリプソ・ビートの合奏。

そこに集うドレスアップした仮面の紳士淑女。

今夜のドレスコードはフォーマルナイトよりは少し砕けた印象かな。男性陣はタキシードをきっちりと着こなしている人がいる一方、ダークスーツにネクタイを締めて、カジュアルになりすぎない服装の人々もそれなりにいた。

対して女性陣は極めて華やかだ。背中の大きくあいた開放的なドレス。レースたっぷりのビスクドールのようなドレス。民族衣装を着た女性もいる。そんなに着込んで暑くないのかと聞きたくなるが、海風があるのでそこまで暑苦しさを感じないようだ。

そして皆、仮面をつけているわけだ。

いつもと違う雰囲気が一層強いパーティ会場は、沢山の男女が集い、興奮と熱気に包まれていた。

そこに俺もいるのだが、全く納得がいかない形で、引きずられるように立たされている。

「ほら、背筋伸ばして。余計に目立つよ」

俺を覗き込むのは、三つ揃えの真っ黒のタキシードに白いウィングカラーシャツ。紺色のアスコットタイをシンプルなシルバーのリングで留め、ザンバラの髪を後ろで結ったキリコ。なんつったっけ、泡パ行った時にこんな髪形してたな。あの時は半分だけ結ってたけど、今夜は全部まとめてる。オマケに顔の半分を覆うチャコールグレーのマスクが妙に似合う。眼帯も外してるし、別人みてえ。

「マンバンね。お前はもっと別人みたいなんだから、開き直れよ」

そう。今の俺は完全に別人。

数時間前、キリコはもっともらしい理屈をこねた。

キリコは久遠寺一家の顔も、ピンク頭の一団の顔触れも知らない。目立つピンク頭はすぐわかるだろうけれど、後のメンツは俺の案内がほしいと勝手を言う。

案内さえあれば久遠寺彰には会える。だけど沙織にも会おうとすると、健斗や他の連中に顔が割れている俺が近付けば、きっと遠巻きにされてしまう。それだとピンク頭の一団を近くで見たいと言うキリコの目的が果たされない。キリコは「俺は悪役令嬢のファンなんだ」など真剣なツラで嘘くさいことを言う。

だからって、こんな状態は聞いてないし、認めてない!!

そんなおっかけみたいな真似なら、俺をこんな格好にさせる意味なくね?

白黒の髪を隠すようにかぶせられたのは、ミルクティー色したロングヘア―のウイッグ。

ブラウンピンクのアイシャドウに健康的なコーラルのグロス。べたべたしてなんかやだ。つけまつげはいらないらしく、代わりにマスカラを上下3回ずつ塗られた。

スタイリストの渾身のメイクで、俺の顔の傷は余すところなくコンシーラーとやらで隠され、顔半分を覆う真っ白なレースのマスクを装着。どうせなら隠しきる布地の方が良いんじゃないかと言ったけど、スタイリストはこの方が視線が分散されていいのだと主張した。元が良いんだから隠したくないとも呟いてたけど何のことだかさっぱりわかんねえ。

同じく縫合痕が走る腕を隠すように白いレースがふんわりとしたロングスリーブ。指先も白い手袋でカバー。胸元に詰め物をして、すとんと落ちるような重みのある生地で作られたAラインのドレスを着て、男の広い肩幅にストールを纏って誤魔化せば、鏡の中の俺は完全に女性になっていた。

スタイリストはジャラジャラとアクセサリーの類を俺に着けながら、今までで一番の出来だと胸を張った。どうも非日常感覚をもっと強烈なものにしようと、女装を頼んでくるゲストは少なくないらしい。だけど、それがどうした。1ミリも嬉しくねえよ。キリコへの殺意だけが湧く。

「馬子にも衣裳だ。似合っているよ。レディ」

へらりと抜かすキリコの足を、ぺったんこのソールの靴で踏みつける。悶絶するキリコ。気が晴れねえな。もう片一方も踏むかと足を上げたところで、パラソルの付いたグラスを勧められた。

「これでも飲んで落ち着きなさい。黙ってれば本当に女性に見えるから」

グラスをひったくるようにして受け取り、ロングカクテルをぐびぐび飲んだ。

「教えるから、とっととこんな茶番は終わらせろ。ほら、今カクテル・バーからライムの付いたショートグラス持ってった黒いマスクの男がいるだろ。あいつが久遠寺彰だ」

「ふうん」

彰はエスコートすべき絹子の側に行かず、デッキの隅でひとりカクテルを飲んでいた。タイも緩めて、どこかやさぐれてる。夫婦喧嘩でもしてるのかな。夜の営みを拒否されて、そこから拗れてるとか。

キリコは俺の手を引いて彰のもとへ向かう。待てってば!バレたら悲惨だ。やーめーろーよー!

俺の心の絶叫を完全に無視して、デッキの手すりに寄りかかる彰にキリコは声をかけた。

「こんばんは。久遠寺さん、楽しんでいますか?」

「あ、ああ。それなりに楽しんでいるよ。失礼だが、どこかで会ったかな」

仮面舞踏会で実名を呼ぶ無粋に、彰は怯んだみたい。なんのための仮面なんだと俺も思う。

「ええ。かなり前の事ですから、お忘れになっていても仕方ありません。日本の御社で一度お会いしています。ロッキー・ロードと申します」

それはアイスのフレーバーだろ!俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。彰の視線を感じたので、ポーカーフェイスは引っ込めて、すぐに淑女らしくニコリと笑って見せた。キリコはキリコでそれはキレイに笑った。二人して胡散臭いこと限りねえ。

「それで、ロッキーさん。何か御用かな。実は少し具合が悪くてね。風に当たっているところなんだ」

「気がつかずすみません。少しお話したかっただけなんです。ピアノはもう弾かれていないのかと思って。素晴らしかったなあ。コンクールでのあなたの演奏は。群を抜いて輝いていた」

「…ピアノね…多分もう弾けないよ」

「そうですか。もう随分とお弾きになっていない?」

「いいじゃないか。ピアノの話は。失礼するよ」

彰は不機嫌になったのを隠しもせずに、人垣の中に紛れて行ってしまった。

「な?バレなかっただろう?」

「ひやひやしたぜ。それにしても、おい、ロッキー・ロード。どうして久遠寺彰にピアノの話をしたんだ。俺は知らなかったぞ、あいつがピアノを弾けるなんて」

「俺も知らなかった」

「えっ」

「さあ、次は愉快な〈ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉を教えてくれ。こっちは話すことはないけど、近くで見たいかな」

どんな思惑がキリコにあるのかまだつかめない。だけどこのパーティで分かることがあれば、共有する約束になっているので信じるしかない。もたもたと足にまとわりつくドレスに苦心しながら、沙織たちに近付こうとするけれど、レースのマスクで視界が悪い。見かねたキリコが俺の腕を取って歩いてくれた。完全にエスコートされる女だ…どんな風に見えるのか想像してげんなり。

黄色にライトアップされたプールにほど近い所に〈ピンクの美少女と黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉達は陣取っていた。相変わらず苺愛が中心にいて、男どもはそれに追従する逆転したハーレムみたいな雰囲気だ。沙織はたまに話しかけられても、意地の悪い顔で苺愛がそれを見ているので、あまり良い話題ではないのだろうと推測できた。それでも沙織は下を向かず、高薄健斗の婚約者として気丈に振舞っていた。

キリコはそんな様子を黙って見ていたが、沙織ではなく苺愛に興味を示した。側で彼女を見たいと言うので、勝手に行けよと手を放すけど、お前も一緒に行くんだと強引に引っ張っていく。さすがにバレそうな位置までは近付かず、キリコに小声で取り巻きたちの名前と特徴を教える。

今夜の苺愛はハイブランドのマークが入ったドレスを着ている。蛍光ピンクの大きな羽飾りのついたマスク、首にはダイヤのチョーカー、腕には高そうな時計、靴は踏まれると甲が貫通するんじゃないかと思うくらいのピンヒール。正直、俺の好みじゃない。ウェルカムパーティの衣装とはかなり違う気がする。よく見てなかったけど。

「健斗ぉ、このドレス気に入っちゃった!買ってくれてありがとう~」

ああ、やっぱり貢がせたのね。

「ダイヤのチョーカーもかわいいし、時計も、靴も、全部キラキラしてすてきだよう。みんな、ありがとう!私、きちんとしたドレス、持ってなかったから…」

「気にすんなよ、苺愛。まさか自分のドレスがズタズタに引き裂かれるなんて、誰も予想しねえよ。犯人は誰なんだかなあ、鷗介」

「ええ、うまく証拠を隠してありますからね。犯人に突き付けられないのが残念でたまりません。全く苺愛のかわいらしさに嫉妬しての行動でしょうが、見苦しい」

「もういいよ、もりもり~みんなにキレイにしてもらったんだし、あたしはサイコーに幸せだよ~」

「苺愛はもっと欲張っていいよ。本当に謙虚なんだから。それに比べてずうずうしいったらないよね、あの子。なんで僕たちのところにまだいるわけ?」

「るあくん、やさしい…私、私っ…」

なんだろう、この三文芝居。このシナリオもクララの言う通りピンク頭が作っているんだろうか。ドレスを破いた犯人にされているのは、きっと沙織だ。そこへ金のマスクを着け王子様の如く語りだした健斗は、ピンク頭と同じマークの入ったハイブランドのスーツを着ている。

「まあ、そこまで言ってやるな。一応これでも俺の婚約者だ。あまり邪険にすると会社の経営に響くんだ。なに、金だけの都合さ。俺の心はもう決まってる」

苺愛の腰を慣れた手つきで引き寄せ、キスでもできそうな距離で苺愛にほほ笑みかける健斗。

「父さんが言っていたんだ。こいつは俺の会社の金が欲しい。俺の会社はこいつの会社が持つネームバリューが欲しい。ギブ&テイクさ。愛なんかなくって良い」

沙織の顔は真っ青だ。自分だけじゃなくて家族まで貶められるとは思いもよらなかっただろう。流石にやりすぎだと一歩踏みだしたら、長いドレスの裾を踏んでしまい、前にいたご婦人の背中にぶつかった。その衝撃はドミノのように伝わり、最後は苺愛にまで到達し、彼女はプールにドボンと重量のある水柱を上げて落ちた。

ばちゃばちゃと派手な水音を立てて苺愛はきゃんきゃん喚いている。豪華なドレスが重いのか、なかなか自力で上がってこられない。セキュリティスタッフが走って来て、ようやく苺愛をプールサイドに引き上げた。

「ひどい!高いドレスを水びだしにするなんて!靴もアクセも濡れちゃった!メイクも台無しよ!」

苺愛が初めに口に出したのは、助けてもらったスタッフへの礼でもなく、突っ立っているだけで何の役にも立たなかった男どもへの文句でもなく、自分が如何に損をしたかと言うアピールだった。そしてその矛先は当然沙織へ向かう。

「あんたが私を押したんでしょう!見たんだからね!」

無理にも程があった。沙織はプールから一番遠い所にいたのだから。慌てて苺愛に最後にぶつかった女性が、沙織ではなく自分だと釈明してもピンク頭は聞く耳を持たなかった。

「いいえ、いいえ、もういいんです!いつもこうして私に意地悪をするんです。もう、あたし、あたしっ、耐えられない…」

顔を覆ってしくしくと泣くピンク頭は、悲劇のヒロインそのものだった。あらわになったうなじは細く、庇護欲を掻き立てさせるのだろう。男どもは一様に胸に迫る何かを味わっている模様。俺はそこにできている3つ並んだほくろが気になったけれど。

そんなピンク頭に近寄るものがいる。沙織だ。

今のタイミングで、そんな爆発物に近付くな!

おい、待て!

「わたくしは押しておりません。さあ、ハンカチで顔をお拭きになって」

純度の高い善意で差し出されたハンカチが、苺愛に届くことはなかった。

誰かが沙織の足元に革靴のつま先を伸ばした。引っかかった沙織は足をもつれさせ、そのままプールへ。激しい水音に彼女を助けようと飛び出しかけた俺をキリコは掴んで離さない。

巻き起こる嘲笑。ピンク頭の一団だ。すっかり濡れ鼠になった沙織は自力でプールから上がる。持っていたクラッチバッグの中身がプールの底に散らばっているのを見て、彼女は再び水の中に戻る。セキュリティスタッフの手を借りずに、一人でひとつひとつプールの底から持ち物を拾う沙織を、ピンク頭の一団はずっと下品な鶏のような声で笑い続けていた。

もう勘弁ならんと、何度連中に飛び掛かろうとしたことだろう。だけどキリコが腕を離さない。鉄の手錠がついたような感覚に、一層無力感が募った。キリコを睨みつけると、あいつは頬を蝋のように固め、場にいる人間の様子をひたすら観察し続けていた。

やがて騒ぎを聞きつけた高薄夫妻と、絹子がやってきて、健斗は苺愛と取り巻きどもと引き下がり、沙織は絹子に連れられて船内に戻り、場は納まった。

すぐにカリプソ・バンドが陽気な音を奏でだし、ゲストたちは再びマスカレード・パーティの喧騒を取り戻す。

周囲に誰もいなくなったのをきっかけに、俺はキリコの腕を思いっきり振りほどいた。

「何故邪魔をする!あのクソガキども一発殴ってやる!」

淑女の格好をして怒鳴るんじゃないよと、俺が聞くはずもない忠告をしてキリコは目を眇める。

「殴って、それからどうする」

「……俺の気が済むだけだよ」

「そのとおり。何も解決しない」

だからって…と言いかけて、何も言えなくなった。俺は何ができる?このままじゃ健斗と沙織の婚約は破綻に向かう一方だし、そんな中で15億円をどうやって取り立てたらいいんだ。八方ふさがりだ。

「レディ、俺の部屋へ来ないか。俺が今日の夜で理解したことや憶測が正しいか、お前に聞いてもらいたい。きっとお互いにとって問題を打開できるポイントが見えるはずさ」

きつく握りしめられた俺の拳を、キリコはそっと取った。頷くよりほかは、俺には無かった。

デッキタワーの中頃にあるバルコニー付きの一室。薄い水色で統一された家具が夜の静けさの中で沈黙を保つ。

その部屋へ俺を招き入れたキリコは、部屋の中にある小さなキッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。

「タワーの上の方に行けば、もっとハイクラスな客室になるんだけどね。揺れが酷いんだよ。どうして金持ちは高い所へ登りたがるんだろうか」

「さあな、高薄とか久遠寺の連中はもっと上にいるかもしれねえ」

「上には上がいる。それを受け入れられるかどうかが問題なのかもね」

熱い紅茶をテーブルに置いて、キリコはソファに座った。対面するソファを勧められたが、俺は立ったまま。正直早くこのドレスを脱ぎたい。

「早く話して、楽な格好になりたいって顔をしてるな。いいよ、俺から話そう。さっきのパーティで俺が確かめたかったことは、幾つかあったんだが…一番の収穫は久遠寺彰氏についての疑問が晴れたことかな」

「疑問?」

「ああ、久遠寺氏は最近どこか変わったところはなかったか?」

「変わったと分かるほど親しくしていないから、正確とは言いにくいぞ。ただ、確実に以前より行方が掴みにくくなったな。夫婦仲も上手くいっていないみたいだ」

「夫婦仲か。具体的に知っているか?」

「船に乗った開放感からか、彰が激しく求めてくるもんで、絹子は怖いんだってよ。夜は娘の部屋で寝てるってさ」

「ふうん…まるで別人みたいに?」

「あん?」

キリコはまだ熱い紅茶を飲み、たっぷりと時間をおいて、口を開いた。

「久遠寺彰氏は別の人間に入れ替わっている可能性がある」

俺は言葉が出なかった。荒唐無稽すぎる。久遠寺彰とは彼の親父を手術してからというもの何度も会っている。顔も声も、さっきの仮面舞踏会で会った彼と、俺の記憶の彼は何も変わらない。キリコは本気で言っているのだろうか。

「世の中には3人は同じ顔の人間がいるらしい。そのうち2人が同じ船に乗っていたというだけのホラ話なら、大して面白くもない。しかし、実際に今夜の久遠寺彰氏に会って、俺は確信に近いものを感じた」

キリコは立ち上がり、ライティングデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。それは写真だった。うす暗い室内で撮られたと思しき写真には、二人の男女が写っていた。『ショーマ&グアダルーペ』赤いペンで大きく書かれたサインの上で、はち切れんばかりの喜色を表している女性と、カメラから少し視線を外して苦笑いしている東洋人の男性。

「こんなことってあるのかよ…」

ショーマこと平野星満は久遠寺彰にそっくりだった。

2人を並べて、間違い探しでもすれば、どこか違う点が見つかるかもしれない。しかしどちらか一方しかいない状況になると、普通の人間には見分けがつかないだろう。髪形や服装を同じに整えられたら、きっともう分からない。それくらい彼らは似ていた。

「俺はアレサンドロを海の藻屑に変えた奴は、平野星満に違いないとあたりを付けた。動機を探るには彼の人間性を知る必要がある。そこで船内のクルーに話を聞けば、誰も彼もあいつはクズだと言うのさ。でも女性陣の中には彼との一夜の恋が忘れられない人もいてね、この写真はその中の一人から借りた」

他の女には見せないように厳重注意されたよ、そう言ってキリコは写真を俺の手からテーブルの上へと移動させる。

「一卵性の双子のように彼らはそっくり。だけど生き方は真逆。久遠寺彰氏はコンツェルンの3代目社長として華々しく太陽の下を歩み、かたや平野は船上ピアニストとして酒と借金と女遊びの日々。どちらがいいかなんて俺は知らんがね、とにかく平野にとっちゃ久遠寺彰氏は、さぞかし羨ましい存在だったんじゃないかって思ったんだ」

いや、いやいやいや、いろいろ棚上げして羨むのはいいとしてだ、いくらそっくりだからって普通入れ替わろうとするものだろうか。

入れ替わろうってからには、今の自分を全部捨てるくらいの気概がいるだろう。そんなエネルギーをどこから持ってくる?

「アレサンドロの腕が見つかったのは、出航して二日目の明け方だろう?遺体の偽装をするなら日付をまたぐ前に行動を起こしていた可能性もある。久遠寺家が乗船して24時間も経っていない。そんな短い時間で、彰は平野に会って、入れ替わってやろうなんて害意を持たれるような振る舞いをしたんだろうか。あのおっとり男が、そこまで相手を怒らせるか、俺は疑問だ」

「そこだよ。アレサンドロの遺体を損壊して、自分の存在を無いものにしてまで、久遠寺彰氏になり替わろうとするなら、そこにはもっと根深い動機があるはずだ。たまたま自分が働くクルーズ船に自分にそっくりな金持ちが乗って来て、よし入れ替わろうなんて思う奴がいたら脳の構造をじっくり調べたいね。初対面で、久遠寺彰氏が船に乗って来てすぐに行動するのは、実に不自然だ」

ほとんど紅茶を飲み終えたキリコは、シュガーポットから角砂糖を取り出し、カップの中へひとつ入れた。そして、その上にまたひとつ。また、ひとつ。

わずかに残った紅茶の水分で、一番下の角砂糖が溶け、積み木の砂糖は崩れた。

「長年積もりに積もった恨みがあれば別、だがね」

「どういうことだ。彰と平野は過去に面識があったって言うのか」

「おそらく」

仮面舞踏会でキリコと彰がやりとりしていた様子を思い出す。俺が知らなかった彰の情報。

「…だから『ピアノ』なのか。ミスター・ロッキー・ロード。平野と彰を結びつけるなら、平野が最も執着している物から線を引けばいい」

「ご明察。案の定、ビンゴだったよ。お前も見ていた通りさ。きっと何度もピアノコンクールで競い合った仲だったのだろう。平野は久遠寺彰氏のことをよーく覚えていて、今も忘れられなかった」

だけどなあ、とキリコはため息をついて、髪を束ねていた紐を解いた。ばさりと広がった髪をぐしゃぐしゃと乱して、新しい疑問を口にした。

「本物の久遠寺彰はどこに消えたんだ?もう海に突き落とされた後なのか?だとしたら平野が本物のふりをしてる意味がなくなる。だって『久遠寺彰は事故死しました』って船内新聞に載せて、自分は船内のどこかに逃げおおせていれば、それで済むんだ。そうすれば無理矢理セレブな生活に自分を合わせる必要もないし、久遠寺家の妻や娘に自分が偽物でないと怪しまれないように骨を折る必要もない。久遠寺彰のふりを続けるのはリスクばかりだ」

「現に絹子は警戒してる。沙織は…それどころじゃないな」

「今までだって、寄港した港で逃げる機会はいくらでもあっただろうに。どうしてまだ船に残っている。目的を果たしきってないから、今も久遠寺彰氏の真似をしているのか?平野がしたいことのゴールが分からない」

うーんと唸って、お手上げと両手を広げるキリコ。

平野の目的…彰の存在を奪っただけじゃ足りない感情が、平野の中にあるんだろう。それがまだ消えていない。彼らの因縁は、本当にピアノだけなんだろうか。

彰と平野の過去なんてどう探ればいいのか。すっかり頭が倦んだからウイッグを外そうと手をやるけど、ぎっちりピンで留めてあって一人じゃ外せない。キリコも手伝ってくれて、二人でちくちくピンを取る。髪の毛が解放されていくにつれて、俺の脳にエディから聞いた2つ目の噂が思い出された。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】

それをキリコに告げると、平野が生きているのなら、その部屋を使っていても不思議はない、本当に中には誰もいないのか自分の目で確かめたいという意見になった。

「カードキーはどうすればいいだろう」

外れたウイッグをライティングデスクの上に置く。キリコはストールを外して、きちんと畳んでる。

「セキュリティスタッフに話を通そう。伝手がある」

背中のフックが外され、ジッパーを下ろされて、やっとドレスが脱げる。

「いくらばらまいてるんだよ」

「かなり。でも惜しくない。アレサンドロをあんな目に遭わされて、平気でいられるほど俺の心は広くないから」

胸の詰め物が取れて床に落ちた。

俺の体に残るのはレースの仮面と手袋、そして沢山のアクセサリーたち。

「下着は男性用なんだな」

「こんなのもありますって、レースの付いた猫の額ほどもない紐パン勧められたぜ。男用でもあんなのあるんだな」

「履いてくれてもいいのに」

「死んでもお断り。よっし、風呂かしてくれ。バスタブついてんだろ」

化粧の付いた顔が痒くてしようがないんだ。

あーーーーーー

やっぱり風呂に浸かるって大事ーーーー

アメニティにある化粧落としを使って顔を洗い、すっきりさっぱり。湯船につかってほこほこした体で、つくづく日本人だと実感しながら風呂から出た。

「お前さんも入って来いよ。スッキリするぜ」

キリコを浴室へ見送ってテーブルの方を向くと、さっきまで俺がつけてたアクセサリーがきちんと並んで置かれてる。こーゆーところが几帳面と言うか、なんつーか。

ネックレスをひとつ手に取ってみると、スワロフスキーの存在感がすごい。これで喉仏を隠せって言われたんだよなあ。まるで首輪のようなそれは置いておいて、重ね付けをした金とスワロフスキークリスタル、パールの3連ネックレスを手にした。留め具を見ていたら自分でも留められるか興味が湧いて、バスタオルを腰に巻いたままあーでもないこーでもないと格闘して何とか着けられた。なるほど、なるほどね。

それじゃあと興味の向くままにブレスレットにも手を伸ばす。中指のリングから網目のようにチェーンが広がり手首のブレスレットで留まるデザイン。うーん。重いし冷たい。スタイリストが悪乗りして持ってきたレッグチェーンも着けてみる。傷だらけの脚に良く映える…わけねえだろあほらしい。

「なにやってんの」

「ぎゃあ」

後ろから声をかけられて現実に戻されたけど、こんな姿になるなんてのは滅多にないからキリコにも感想を求めてみよう。

「見てみろよ。古代の王族みたいじゃねえ?」

「あー、エジプトとかメソポタミアとか?他に身に着けてるのがバスタオルだけだから余計に説得力あるな」

「ひれ伏せ!」

「下剋上」

キリコはひょいと俺を抱えてベッドへ連れていく。上から覆いかぶさられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。たっぷり10秒数えてキリコは重いため息をついた。

「オキシトシンが出てるのを感じるよ…」

「1分1万円」

バスローブを着たキリコの背中に腕を回す。

「セロトニンが欲しいな」

「明日、一番に朝日を浴びよう。しばらく何も考えずにホライズンを眺めるんだ」

「いいな」

キリコが俺の前髪をかき上げる。

「やっぱり、お前の傷が見える方がいい」

なにを分かり切ったことをと半目になった俺の唇に、笑うキリコの唇が重なった。

My fair villainous lady⑤

第5章

沙織はいろいろがんばった。

がんばったけど。

結論を言うと、上手く行ってない。

事実と違うなら徹底的に反論しろと言ったのは俺だ。それを沙織はきっちりやってのけた。

苺愛が「沙織にいじめられた」とお涙頂戴劇場を始めれば、ぴしぱしと鞭で小枝を弾くように沙織は反論して、苺愛の矛盾を露にする。普通はそこでハイ、おしまいなのだが、そうは行かなかった。

苺愛は女として沙織より上手だった。一枚も二枚も、百枚くらい差があるかもしれない。

女の武器を使って苺愛は男どもを完全に自分の味方にしてしまったのだ。健斗も骨抜き状態。

男4人が苺愛の言うことに大きなリアクションを取って、沙織を糾弾する事件がバスケットコートで起きたのが今日の朝。

健斗の婚約者の立場を守ろうとする沙織は、どこまでも孤独に見えた。

せめて保護者が出てやればいいものを、久遠寺彰はどこへ行ったのか。どういうわけか俺は彼を全く捕まえられなくなっていた。家族には最低限顔を見せてはいるようだけれど居場所が掴めない。絹子も妙だ。妙におどおどして何かに怯えている。

どうしたもんか考えあぐねてコーヒーバー「スター・ギター」へ足を向ける。俺を見つけたエディがすぐにオーダーを取りに来た。何を頼むか迷っていると、エディはミックスナッツを皿に出しながら「知ってる?」と切り出したのだ。

それは「コンバーション」船内で話題になっている2つの噂だった。

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1つ目の噂【ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト】

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誰だよ。そんな噂流したの。間違いなく健斗と沙織を含めたピンク頭の一団じゃねえか。

「あのグループさあ、外見も派手だし、声もデカいしさあ。注目集めちゃって、クルーの中で積極的にウォッチしにいく奴が出て来たんだ」

「この船って労働環境超絶ホワイトだったんだな」

仕事しながらだよなんてエディは言うけど、どこまで本当だか。暇すぎてクルーの間で連絡網でも作ってんのかね。ナッツの入った皿を奪い、ペカンナッツを口に入れる。

「ねえ、ジャックはどっち派なの?ピンクの美少女派?それとも黒髪の悪役令嬢?」

「意味わかんねえ単語出てきたな。『アクヤクレイジョー』って何だ」

「うっそ、ジャック知らないの?!本当に日本人?」

急にマリベルが割り込んできた。マリベルと話してた白人の女性も突撃してくる。

「悪役令嬢を知らない日本人がいるなんて信じられないわ。どこかの洞窟にいたのかしら」

くいくいと金縁眼鏡を上げながらヒトを原始人扱いする白人女性。初対面だよな。初対面の女に、こんな言われようされる覚えは…覚えは…多分ない。俺に何らかの因縁はあるとしても名乗るべきだ。血管がビキビキ浮きそうなのを堪えて、ひとまず話をしよう。

「えーと、マリベル。こちらの女性は?」

「クララよ。下の図書ラウンジで司書をしてるの」

ああ、ショーマに700ドルあげたクララね!とは言わずにおいてやる。やせっぽっちのクララはにこりともせずに手を振った。

「それで、悪役令嬢ってどんな意味?」

待ってましたとばかりにマリベルとクララはスゲー早口で悪役令嬢が何たるかを俺にレクチャーしてくれた。

なになに?公爵や侯爵みたいな権力がある金持ちの家の娘で、ヒロインに対して言いがかりをつけてはいじめる役のことを悪役令嬢って呼ぶのか。大体わかった。わかったけれど。

「それは沙織に当てはまらないぞ。沙織は自分にかけられた疑いを晴らしているだけだ。相手に嫉妬したり、権力を笠に着てワガママ言ってるわけじゃない」

「でも、周りからはそう思われてるよ。あのピンクの美少女、声が高くて響くんだよね」

エディは人差し指を立てて耳のあたりでグルグル円を描き、軽く肩をすくめた。

「悪役令嬢の態度も良くないんじゃない?いくら自分が正しくても、それを突きつければ皆分かってくれるかって言えば違うし」

「もっと柔軟性がある方が、ドラマ的にはおもしろいわね」

クララが求めるドラマが何なのかはわからなかったけれど、彼女は沙織の振る舞いの良くないところをいくつか指摘した。俺は口を閉じるしかなかった。まさにその通りだったからだ。

沙織は育ちがいい。両親含め周囲の人間は、きっと沙織を大切に育てたのだ。やさしく諭し、教え、導き。それが結果として、彼女を他人の悪意に疎くさせてしまった。『きちんと話せば解り合える』と信じてしまうほどに。

話し合っても理解できない奴は一生できないし、そんな奴は山ほどいる。だけどそう言ってばかりもいられないから、人と人は時に力技に出てみたり、譲歩したり、相手の出方を窺いながら意見の着地点を探すのだ。その過程で嘘を吐く奴もいる。自分の利益を出そうと狡猾な手段に出る奴もいる。意見の違う人間と清濁併せて相互理解を図ろうとするのがコミュニケーションだ。

これまで本気で自分を害しようとする悪意に遭遇したことがなかった沙織は、悪意に対するコミュニケーションを取れずにいたのだ。

「例えばよ、昨日のメインダイニングであったことなのだけど、ピンク頭の美少女…ヒロインって呼ぼうかしら。美少女かどうか私は微妙だし。話戻すわ、そのピンク頭のヒロインが自分だけカトラリーが少ないって言いだしたの。それで黒髪の悪役令嬢が『カトラリーはもともと席にセッティングされているものだから、係の人にお願いして新しいものを足してもらえばいい』って、側にいたクルーに声をかけた。そしたらヒロインが『ひどい!私が世間知らずだからって、そんな偉そうにお店の方をこき使うなんて!』って騒ぎ出したんですって」

「意味が分からん。どうしてカトラリーが少ないことが、ピンク頭が『世間知らず』だってことに繋がって、クルーを『こき使う』ことになるんだ」

「それがヒロインのストーリーだからよ」

クララは抑揚のない声で話す。

「ヒロインは自分が悪役令嬢と違って庶民的だってアピールをして、男性陣の支持を一気に得たわ。同時に思いやりのある子とも思われたかったのかしらね。とにかく悪役令嬢はテーブルで孤立してしまった。そこで負けないのが彼女よ」

少し離れて聞いていたエディも俺達の輪の中に入ってきた。そろってカウンターで鼻突き合わせている中で、クララは見てきたように続きを話す。

「『では、わたくしがカトラリーを貰ってきます』って言ったの」

あちゃ~~~~~~~

俺、エディ、マリベルは一様に天を仰いだ。

「火に油よ。悪役令嬢がテーブルを離れた途端、ヒロインは『施しを与える気だ』って泣くし、周りの男の子たちはヒロインに同情してちやほやしだすし、彼女がいないからって悪口のオンパレードだったみたい。悪役令嬢が戻ってきたら、男の子たちは彼女を糾弾し始め、結局ディナーどころじゃなくなってクルーにメインダイニングから退出を促された…そこまでが私の知ってる話」

息苦しく気まずい空気がカウンターに満ちた。子どもの拙いケンカには違いないが、後味が悪い。その話、時系列的に俺が花瓶の陰で沙織に檄を飛ばした直後の事だろう。俺のせいでもあるのかなあ。いいや、違う。発端はピンク頭だ。

「実際カトラリーは本当に足りなかったの?」

怪訝な口調のエディを横目に、クララは無表情だけど、どこか面白がるように言った。

「テーブルの下にフォークが一本落ちてたそうよ」

うわあ…のけぞるエディ。

「その話聞いたら、僕は断然悪役令嬢派になるよ。いくら美少女でも性格が悪いのは嫌だ」

「最初から落ちていたか、ピンクのヒロインがわざと落としたのかわからないのに?そうね。結局は好みになるのよ。どっちが正しいとか、あんまり重要じゃないの」

まあ、ダイニング担当のオズワルドは自分が最後に確認した時、カトラリーは全部あったって怒ってるけど。興味なさげにクララは呟き、皿から一番大きいブラジルナッツを摘んで口に放り込んだ。ぼりぼりとナッツの砕かれる音がする中、黙りこくった俺にマリベルが興味津々の目を向けてくる。

「ジャック、ピンクのヒロインと黒髪の悪役令嬢の事、あなた詳しく知ってるんじゃないの~?悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使いの噂、聞いてるんだけどなあ」

「なにそれ!なにそれ!」

すっげえ食いつきのクララ。ほんっとうに暇なんだな、この女。あとで教えてやるから、2つ目の噂の話を聞かせろと促すと、マリベルとクララはジト目で引き下がった。僕から話すねとエディが申し訳なさそうに笑って彼女たちの前に出た。

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2つ目の噂【最下層のインサイド客室に出る幽霊】

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これはまた聞きのまた聞きだから、全然信用できないんだけどねと前置きして、エディはオカルトな噂の全容を教えてくれた。

最下層のインサイド客室に、深夜になると唸り声や小さな喘ぎ声が聞こえてくる部屋があるらしい。別にそれだけならば問題ない。騒音として悩まされているなら訴えればいいし、それでケンカになるならセキュリティスタッフの出番だし。ただ今回の場合、セキュリティスタッフは役には立たなかったとエディは言う。

物音がする部屋は、誰もいないはずの〈死んだ平野星満の部屋〉だからだ。

不慮の事故で亡くなった平野の霊が、まだ部屋に留まっていると誰かが言い出し、噂はあっという間に船中に広まった。

平野が使っていた部屋が何故まだあるのかと問えば、平野の持ち物があるから、彼が使っていた当時のままになっているそうだ。いくら航海中に死んだとはいえ、彼の私物を船側が勝手に処分することはなく、航海が終われば遺族が部屋にあるものを引き取る手はずになっているという。そもそも船のクルーである平野の部屋が客室と同じエリアにあることが不思議なのだが、彼と船の雇用契約の関係上そうせざるを得なかったとか。俺には素行の悪い平野をクルー達のプライベートゾーンから引き剥がしたかったようにしか思えんが。

「誰か部屋の中に入って、原因が何か確かめたのか?」

「うん。僕の友達の知り合いがセキュリティスタッフのヤスダとトツギに訊いたんだけど、クロゼットの中も、シャワールームの中も、何にもなかったって。もともとショーマは持ち物が少なくて、部屋の中はキレイだったって言うから、逆に怖いよねえ」

「そんな部屋、物がねえなら、さっさと片付けちまえよ」

うーん…とエディはマリベルとクララに、ちらっと視線をやった。

「そんなに慌てて片付けることもないか」

「僕もそう思う」

「エディ、喋りすぎて喉乾いた。皆もそうだろうから、コーヒー4つ淹れてくれ。ブレンドでいいか」

「オーケー、ジャック。奢ってくれてありがとう!」

わざとらしい俺達のやりとりなど耳に入らない様子で、マリベルもクララも般若と化している。平野の部屋に入るチャンスがあれば、奴の私物を売り飛ばして貢いだ金を少しでも回収しようと考えているか、私物を手元に置いて最後の思い出にしようとしているか。とにかく邪な考えが頭にあると容易に知れた。

こんな女が他にもいるんだ。下手に平野の部屋に誰かが出入りしようものなら、あちこちで女の戦いが起こりそうだ。被弾する奴も出るかもな。

それにしても幽霊が出るのは、俺が寝泊まりしてるエリアじゃねえか。そんな変な雰囲気してたかなあ。気になって部屋の番号を訊いてみた。うげ、俺の隣の部屋!

今日はセントマーティンに寄港。

ガイドによれば、この小さな島は中央の山脈を境に、フランス領とオランダ領に分かれているそうだ。セントマーティンだけじゃない。このカリブ海に浮かぶ島々は、大航海時代の勢力図そのままに列強各国の領地になっている。

1493年にコロンブスが到達してから、カリブ海の島々にはアフリカ系黒人の奴隷が定住し、先住民は追いやられた。言語も、音楽も、何もかも侵食され、今のカリブ海に先住民の面影を見ることはほとんどない。人類史の暗い一面だ。

ただ、俺は一点だけコロンブスに感謝している。それはカリブ海の自然体系に価値を見出さなかったことだ。もしあの男が15世紀に観光ツアーをカリブ海で行おうなどと考えたら、現在の白い砂浜と青い海の景観は残されていなかっただろう。

この自然の美しさを前にすれば、どんな黄金も霞むだろうに。

いや、黄金は欲しいけどよ。

あんまり閉じこもってばかりも健康に良くないので、少しの間、島に上陸することにした。この陽気じゃコートやジャケットはお呼びじゃない。何かあったとしても、その時考えよう。

タラップをカンカンと降りると、凶暴なまでの日差しがまぶしい。うーん、暑い。長袖着てるの俺くらいだ。船のショップで半袖シャツでも買えばよかった。

炎天下で煮えていたせいか、足元に突進してきた小さなイノシシに気がつくのに遅れた。べちょ、と冷たすぎる不快な感触がして見ると、俺のシャツの腹に蛍光イエロー、ブルーとグリーンのトロピカルフレーバーの花が咲いていた。

ぶつかってきた小さなイノシシは、手にしたアイスクリームが俺のシャツに食われたのを呆然と見ている。ギャン泣きまでカウントダウン…1,2,3

わかった。新しいアイス買ってやるから泣き止めコノヤロウ。小さなイノシシのパパが見つけてくれるまで、二人でアイスを舐めつつアイスクリーム屋の前で待った。

イノシシの親子が去った後、もうべたべたになってしまったシャツを持て余していると、前から見慣れたアイツが歩いてくるのが見えた。今日は下船してたんだな。チャンス到来。

俺が声をかけるより先に向こうの方が気付いたみたい。くるっと回転して反対方向へ逃げようとするから、全力ダッシュで捕獲した。

「アイスでシャツが汚れたのと、俺は全く無関係じゃないか」

ど正論を述べるキリコ。

「まあ、そうだよな。関係ない。だから俺は汚れたシャツを脱いで、捨てていこうと思っているんだ」

人通りの少ない路地で、シャツのボタンをぷつぷつ外す。うわー、下着のシャツにまで染みてたか。まいったな。オーバーに困ったなアピールをすると、キリコはクソデカため息を吐いた。カツアゲ成功。

ディスカウントストアでキリコにTシャツを買わせ、店のバックヤードで着替えさせてもらった。汚れたシャツはサヨウナラ。

「このTシャツやたらでかくて、生地がぺらぺらなんだが」

「文句言うなら、もう一個アイスを腹で食わせてやるが、どうだ?」

「しょうがねえなあ…色は黒だし、それに免じて良しとしとくか」

「こんなにふてぶてしいタカリも珍しい」

ぼやくキリコの横顔は、なんだか顔色が悪かった。アレサンドロの事がこたえているのだろうか。こいつの性格からして黙っているだけのはずがないから、真相を明らかにしようと動き出しているんだろう。それがきっとまだ解決できていないのだ。

俺も15億と沙織の事が上手くいってねえし…なんてもやもやしてたら、急にキリコが立ち止まった。

「シャツ買ってやったよな」

「お、おう」

「対価に久遠寺彰に会わせてくれ」

「はあ?!どうしてだ。久遠寺家にお前さんの世話になりそうな人間はいないぞ」

「いないだろうな。俺の個人的な興味からだ。もっと言うと〈黒髪の悪役令嬢〉にも会いたい」

ぐええ…こいつ絶対知ってるやつだ…

「頼むぜ、〈悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使い〉殿よ」

にやにやするキリコはすっかりいつもの通りだった。ちょっと気遣った数分前の俺に謝れ!

割に合わない価値になってしまったシャツの裾をぴらぴらさせながら追いかけると、キリコはするりと駆けていく。いい齢こいたおっさん二人で、南国なのにヨーロッパ調の街並みを追いかけっこした。

あほくさくて、最高にスッキリした。

My fair villainous lady④

第4章

死んだら人間はどうなるか。死体になる。

その後はどうなるか。しかるべき手順で埋葬されるべきだ。

埋葬は残された者のためのセレモニー。同時に死んだ人間に対するリスペクト。

俺はそのリスペクトには敬意を払う。

だから俺は間違っても「遺体を海の藻屑にされる」ために仕事をしたわけではないのだ。

アレサンドロの腕と一緒に見つかったジャケットの持ち主、平野星満はいったい何者なのか。

それを知るであろう船内のクルーに彼の人柄や素行について聞いて回った。

聞き込みをした結果、彼はよくいるクズの一種に分類されるとわかった。女性陣は態のいい寄生先にされていて、金を貢がされたり、肉体関係を築いたり、都合よく利用されていたようだ。それが5人を超えた段階で、この船大丈夫かと若干心配になった。

男性陣からは興味深い事実が聞けた。平野の訃報が載った船内新聞は、船長のゴーサインが出る前のフライング記事だったという。

どうも新聞部に平野へ個人的な恨みを持っている人間がいたらしく、上がった遺体が平野らしいと耳にした瞬間、腹いせとばかりに記事にして載せてしまったらしい。道理で記事が早すぎると思ったんだ。こんな嫌がらせをされるほど、平野は一部のクルーから疎まれていたのか。原因は彼の素行にあるので、俺から言うことはない。

金遣いの荒い、女好きの酒浸りピアニスト。平野星満の評価は以上だ。

「ショーマのピアノは嫉妬の音がするヨ」

一日の終わりに立ち寄ったカウンターバー「ゴールデン・パス」

マスターの東南アジア系の男性は訛りのある英語でそう言った。

「嫉妬の音って、どんなふうなんだい。俺は音楽に詳しくないから教えてくれよ」

慣れた手つきでリキュールをメジャーカップに注ぎ、シェーカーを手にして彼は続けた。

「ワタシ、6つの頃からピアノやってた。だからわかる。コンクールに出て、勝てないライバルがいたとき、あんな音出してタ」

キンキン・カンカンとピアノの音を口真似して、シェイカーを振る。

「それはとても聞けたものじゃないな」

シャムロックが俺の前に出される。

「そうネ。でもそれわかるの少しだけ。ミンナ、ショーマのピアノを褒めるよ。ショーマはそれしか取り柄がないから」

あとは甘いマスク!とマスターは自分の顔を指さした。それがやけにチャーミングだったので、気分が少しほぐれた。シャムロックの次にもう一杯頼もうか。

平野星満が勝てなかった相手は誰なんだろう。船でピアニストをしていても、皆から褒められても満たされない承認欲求。余程ライバルに執着していたはずだ。そんなに重い感情を向けられるのは、たまったもんじゃないなとシャムロックを飲み干した。

罫線

でっかいくしゃみをして飛び起きた。

インサイド客室じゃ、いつ朝日が昇ったかなんてわからねえ。おまけに昨夜は隣の部屋でカップルが盛ってたらしく、夜更けまでアンアン聞かされて散々だった。

部屋に長居する気にならず、適当に顔を洗って廊下に出る。コートもジャケットも置いていこう。身軽になってデッキに上がると、得も言われぬ景色が俺を迎えてくれた。

まばゆい朝日がミルク色の空を染める。あたたかな太陽の色。きらめく海の穏やかさ。間違いなく俺は生きていることを感じる。

デッキには似たような人が何人もいて、隣の老夫婦は多幸感に満ちた表情で寄り添う。朝日に向かって何度もシャッターを切っている若者。それぞれにリラックスした様子で、美しい時間を過ごしている。しばらくの間、俺は思う存分朝焼けの空に見惚れていた。

すっかりいい気分になった俺は、そのままの足で朝食をとろうとビュッフェへ向かう。

あ!今日は和食がある!

〈本日の朝食メニュー〉

・白米(インディカ)

・豆腐の味噌汁

・茄子のしぎ焼き

・鮭のレモン焼き

・水菜のサラダ

鮭の塩焼きが食いたかった…少々がっかりはしたが、久しぶりの白米に心が躍る。どこに座ろうか、ぐるりと見回すと、2人掛けのテラス席に1席空いているのを発見した。突撃してやれ。

きれいな箸遣いで食事をするキリコの前にトレイを置いた。

「いい朝だな。相席、構わねえよな」

キリコは眼を剥いたが、やがてそっと瞼を伏せて「平野のライバルの気持ちが分かる」とかぼやいた。何のことだ?

午前8時「コンバーション」はバミューダへ寄港する。今日の昼間はここに停泊。ゲストたちは船から下りて、バミューダで思う存分観光する。たっぷり楽しんだら船は18時に出航。この時間は厳守。18時までに船に乗っていないと置いていかれるそうだ。遅刻なんてもってのほか。普段のサービスの良さから、もっとおおらかなのかと思っていたら、非常にシビアで驚いた。

沙織はタクシーツアーに参加すると、昨日のウェルカムパーティの面子で出かけて行った。タクシーツアーとは耳慣れないが、エディに訊くとバミューダは道路が狭くバスでは移動ができないため、タクシーと称したミニバンで観光地を回るツアーがあるのだとか。もちろん一人ひとり参加費用は掛かる。安い金額では無かろうに、高校生でツアーに参加できる連中は贅沢だねえ。

さてと、さっさと今日中に手術費用の支払いしてもらわねえとな。まずは館内アナウンスで脅しをかけてやるかと、コンシェルジュデスクに向かう途中、久遠寺彰の妻、絹子を見かけた。おお、チャンスだ!

絹子に声をかけると沙織を見送った帰りだと言う。相変わらずのおっとりとした口調だが、何やら複雑な表情をしている。言いたいことがありそうな雰囲気。いいさ、手術費取り立てへの苦情でもなんでも今の状況が変わるなら構わない。絹子をオープンカフェへ誘い、話をすることにした。

頼んだダージリンがテーブルに置かれても、絹子は口を閉じたまま。会話を切り出すチャンスを待っているというよりか、自分が話す内容の精査をしている。それじゃあ無駄話でもしようかと、昨日のパーティでの出来事を話した。

絹子はまず沙織の手当てをしてくれたことに礼を言ったが、娘が故意に背中を押されたことにショックを隠せないでいた。

「そんな…背中を押されたなんて、私には言いませんでした」

「心配かけたくなかったんですかね。まあ、今日も一緒にツアーに行ってるわけですし、何もないといいですが。ところで彼らは誰なんです?こんな豪華客船に高校生だけで来ているなんて、少し目立ちますな」

「あの子たちは、健斗さんのお友達です。高薄さんが保護者の代理として、あの子たちの旅費を出していると聞きました。なんでも健斗さんが『自分たちの婚約の立会人になってもらうため』とお願いしたとか…かわいらしいと言うか…」

絹子は少しだけ苦笑して、紅茶にそっと角砂糖を入れた。

「そうそう赤い髪の子が小網さん、背の小さな子が飛田さん、眼鏡をかけた子が守さん…もう一人、かわいらしい女の子が苺愛さんというお名前なのですって。昨夜、沙織が教えてくれましたの。」

とても嬉しそうに話してくれたのに…と絹子はティーカップに口をつける。

「昨夜はたくさんお嬢さんとお話ししたんですね。あの年頃になると、親と距離を置きたがるっていうけれど、そちらは当てはまらないみたいだ」

「……昨日は沙織の部屋で寝ましたから…」

おっと、聞いちゃいけねえ夫婦の話か。訊くけどな。

「環境が変わると夫婦でも緊張しますか」

意地の悪い質問に絹子は少し頬を染めた。そしてしばらく言いにくそうに、ティーカップを上げたり下げたりした後、重い口を開いた。

「…夫が…彰さんが、いつもと違って…あまりに激しいので…怖くなって……沙織の部屋に逃げました…」

自分で聞いといて何だけど、知りたくねえなあ。夫婦の夜の事情ってのは。いつもはどうなんだとか、いらん想像が始まってしまう。その後、男はいつもと違うベッドだと興奮するのかとか、海の上だと開放的になるのかとか、医学的なエビデンスはないかとか、おっとりとした口調で尋ねられた。絹子にとって俺と話したい本題はこっちのようだった。さっきやたらもじもじしてたのはこれのせいか。俺は医者っぽく適当な返事をして、早々に席を立った。お前さんの旦那の性癖は知らん。

しまった。15億の話するの忘れた。

オープンカフェを乾いた偏西風が通り抜けていった。

結局絹子も朝食をとった後の彰の居場所は知らないと言うので、俺は気分転換も含めてランドリールームに来ている。たまった洗濯物を備え付けの洗濯機で洗うのだ。

すでにほとんどの洗濯機はうまっていて、赤いタイマーのデジタル表示ばかりが並んでいる。ようやく一番端の洗濯機が空いているのを見つけ、下着や靴下をドラムの中に入れていく。ついでだから今着ているやつも洗おうかな。

誰もいないことを確認し、素早くカッターシャツのボタンを外して、中に着ていた半袖のシャツを脱ぐ。それを洗濯機の中に突っ込んで、スイッチ押して、カッターシャツを…

ランドリールームの入り口に手提げ袋を持ったキリコがいた。

いたっつーか、立ち尽くしてるっつーか。

「全部見てたか?」

「…見た」

上半身裸のままシャツを握りしめる俺。キリコの目が…えーと…その、怖い。

「人前で脱ぐなって言ったよな」

「今は人がいないの、ちゃんと確認した!」

「俺に見つかってる。他の人間だった可能性は大きい」

言い返したいけどできない。こいつが怒る理由は真っ当なものだから。あの時は仕方なかったんだ。

ちょっと前に、なかなか手術に踏み切らない患者の説得に俺の体の縫合痕を見せたら、患者の親父が欲情して襲い掛かってきた事故があった。それが裏街道の情報網を巡り巡ってキリコの耳に入ってしまい、それ以来キリコは俺が人目の付きそうな所で脱ぐのを嫌がる。だからって俺が自分のやり方を変えたりはしないって分かってるだろうに、ヒトを露出狂みたいに扱うのはやめろよな。俺だって襲われたいから脱いでるわけじゃない。

「俺の体見て欲情する変態は、あのオヤジくらいだから、極めてレアケースだ。お前が構うことじゃねえよ」

キリコは黙って俺を見てる。また、地雷踏んだか?俺…

「じゃあ、俺も変態か」

キリコはタイマーが止まった自分の洗濯機を開けると、手提げ袋にばさばさと洗濯物を突っ込み、ランドリールームから出ていった。

「なんなんだよ…あいつ…」

もぞもぞとシャツを着つつ、自分がとんでもないことを口走ったのに気がついた。

訂正しようと廊下に飛び出たけど、当然のようにキリコの姿はなかった。

脱力して歩いていると、前から賑やかな一団がやってくる。ツアーから帰ってきたゲストたちだ。「ヘイドン・トラスト・チャペル」は雰囲気が良かったとか「ギブスヒル・ライトハウス」からの眺めは最高だったとか、口々に感想を言い合って興奮してる。

そんな中に、あいつらもいた。健斗たちだ。

…おい、どうなってる。

どうして健斗の腕にピンク頭の腕が巻き付いてるんだ。

周りの連中もピンク頭を囲むように、きゃらきゃらと騒いで喧しい。

その輪からはじき出された沙織は、うつむき加減で後ろを歩いてる。

俺に気がついたガキどもの視線に構ってる場合じゃない。見ていられない様の沙織の手を引いて、人目の少ないラウンジの花瓶の陰に連れて行った。

なにがあったか聞くと、沙織はなにもないと言い張ったが、絹子が心配していることを告げると「お母さまには内緒にしてください」とツアーであった出来事を、ぽつりぽつりと話し出した。

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健斗と沙織を含む6人は、タクシーツアーのミニバンに揃って乗車し、景色を楽しんでいた。とは言え、昨日会ったばかりの健斗の友人たち男子高校生3人と沙織は、お互いの距離を測りながら、僅かに緊張していた。男子高校生3人は健斗の婚約者と言う立場の沙織に、どう接すればいいのか分からなかったようだ。一方沙織は今まで女子ばかりの学校に通っていたため、健斗以外の同じ年頃の男子と話す機会がなく、共通の話題が見つけられずにいた。

そんな初心な緊張感を、苺愛という少女は天真爛漫ともいえる行動で壊していった。

「小網君さあ、かなり筋肉ついてるよねー。ねえ、腕さわっていい?うわー!かったーい!すごーい!」

「るあっていう名前なんだ。飛田君って。ううん!そんなことないよー。あたしだって苺愛(いちあ)って変わった読み方する名前だし!いっしょだねっ」

「すごーい、どうしてそんなに物知りなの?もっといろんなこと教えてよー。そうだ、もうみんな仲良くなったしあだ名で呼ぼうよー。守くんの事、もりもりって呼んでいい?」

あっという間に男子高校生3人は苺愛にばかり話しかけるようになった。沙織はそれを少し寂しく思ったが、同じく輪に入っていない健斗と話をすればよいと、ミニバンの隣の席に座っている彼の方を見た。

健斗の眼差しは、苺愛にそそがれていた。

それは幼いころから見てきた健斗のどの表情とも違って。

「ねえ、健斗ぉ、次はどこにいくの?」

無邪気に笑いかける苺愛に健斗も笑いかける。どうして彼女は婚約者を呼び捨てにするのだろうと自然な疑問が起こったが、とりあえず今は自分も笑った方がいいのかと、沙織は微笑を作ってみた。一瞬苺愛に睨まれた気がしたが、それは自意識過剰だろうと心に収めた。

トラブルが起きたのはホースシュー・ベイの砂浜だった。ピンク色をした砂のビーチを眺めていた沙織のところへ苺愛がやって来た。

「きれいな砂浜だね~あたしの髪の色とそっくり~」

明るく話しかけられて、沙織はほっとして笑顔になれた。にこにこしながら苺愛は続ける。

「健斗ってカッコイイよねえ。モデルやってるだけあって、スタイルいいし、趣味いいし~。あたしと考えかた似てるところもあって、話しやすいんだよね~。すっごく気が合うって言うかあ…あっ、沙織さんが婚約者なのは知ってるよ」

知ってはいるのか。それならそれで余計に問題がある気がする。

「家同士が決めた婚約なんでしょう?健斗から聞いたよ~」

そんなことまで話しているのかと、沙織は曖昧に頷いた。

「でも健斗はそのこと納得してるのかな…だってあんなに…」

苺愛は急に口を噤み、沙織に背中を見せる。

「あんなに、なんです?」

意味深な言葉に沙織は首を傾げる。その雰囲気を誤魔化したかったのか、作為的なものなのか、ぱっと振り返った苺愛は話題を変える。

「ううん!なんでもない~。あ、そうそう、私がつけてるペンダントなんだけど、ダイヤがとってもかわいいでしょ!でも最近留め具が壊れかけてるみたいで…沙織さん見てくれる?」

是か非か沙織が答える間もなく、苺愛は沙織の手に自分のペンダントを乗せた。そして叫んだのである。

「ひどい!そのペンダントはママがプレゼントしてくれた、大事なものなの!返して!」

沙織は状況が掴めなかった。代わりに拡大解釈したのは男子高校生3人だ。

いつの間にか苺愛のペンダントを沙織が「無理矢理奪い」安物だ、不釣り合いだなどと「罵り」、苺愛を「いじめた」ことになってしまったのだ。

男子高校生から、しかも複数人から睨まれ、これまでそんな体験をしたことがない沙織はすっかり委縮して、何も言えなくなってしまった。

それを見ていた健斗が苺愛の肩を抱いて、クルーズ船に戻ったら船のショップで新しいペンダントを買ってやると言い出し、苺愛は見ていて「早くイエスと言え」と促したくなるほどに遠慮した挙句、健斗からペンダントを買ってもらう約束をした。

帰り道のミニバンで、健斗の横には苺愛が座っていた。

沙織の横には誰も座らなかった。

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「もりもりはねえな…」

話し終えた沙織はうつむいたまま。それがカチンと来ちまった。

「おい、沙織お嬢さんよ。お前さん、今日の一番の失敗が何かわかるか」

そっと顔を上げた沙織の目じりは赤くなっている。きっと頭の中で細かく思い出しては、あれもこれも皆失敗だなんて考えてるんだろう。沙織が口を開く前に、答えをぴしゃりと叩きつける。

「ペンダント盗られたって騒がれたときに、黙ってた事だよ。事実と違うなら徹底的に反論しやがれ。言われるままになっちまってどうするよ」

「反論……」

ひょっとして口喧嘩をしたことないとか言い出さないよな。お嬢様に分かりやすいように言い換える。

「ガッコでディベートやったことあるだろ。あれと同じだ」

「ああ!ありますわ。一度大会に出ました…でも少し苦手です…」

「苦手もヘチマもあったもんかい。自分の立場きちんと考えろ」

ぐいぐい迫る俺に沙織は顔を引きつらせる。すまんが、状況が変わりつつある。その要になるのはお前さんだ。

「もし健斗が苺愛にかまけて、お前さんと関係が悪くなったら?」

「…婚約解消があるかもしれませんわ。もう健斗さんと苺愛さんは、かなり親しい様子でしたもの」

「最悪、そうなったとしてだ。お前の家はどうなる。高薄からの援助がないとやっていけないらしいじゃないか。お前さんと健斗の仲が破綻すれば、久遠寺コンツェルンは終りなんだよ」

「そんな…」

後退りする沙織の背中に、花瓶から枝垂れた凌霄花がふれる。

「怖がらせたいわけじゃねえ。ただお前さんたちの婚約は、大人側の事情もかなりあるんだ。好いた惚れたの話で済むレベルじゃあない」

「それは…わかります。健斗さんとの婚約は、お互いの家の利益のためだと…言葉にはしませんでしたが、健斗さんも私も同じ気持ちでした」

うつむく白い頬にさらさらと黒髪の房が落ちる。

「…ですが、会社の状況は知りませんでした。お父様は家でお仕事の話をほとんどなさいませんから、てっきり今までと変わらないものだとばかり」

おっとり夫婦に育てられりゃこうなるよな。だがもう高校生。教えられなくても家業について分かっていていい事もあるんだぞ。

「状況が分かったところで訊くぞ。お嬢さん、健斗が完全にお前さんから離れたらゲームオーバーだ。これからの時間をどう使う。部屋でめそめそやりたいなら止めないがね」

突き放すように告げると沙織の顔つきが変わる。友達から仲間外れにされた女子高生から、大企業の社長令嬢に。気弱な少女から、薙刀で鍛えた凛とした精神を持つ乙女へ。

「しっかりしないといけませんわね。このくらいのことで、ええ、情けない」

きりっとしたイイ顔してるじゃないか。頼むぞ、俺の15億円のためにも。