My fair villainous lady⑧

第8章

いい気分!天気は良いし、ビーチはキレイだし、なによりあのお嬢様はいないし。

やっとわかったんだ。いくらしがみついてみても健斗は私を選んでるって。おっせーっつーの。健斗は出来のいいお嬢様にずっとコンプレックス?があったんだって。よく知らんけど。「そのままのあなたでいい」って言ったら秒で落ちた。

今日だって明け方まで離してくれないから、シャワーできなかったし。同じ年頃の男子って体力だけはあるから、何度もガッついて来られて、いい加減気持ちいい演技するの疲れる。気付けよって思うけど、健斗の一生懸命な顔見てたら許せた。イケメンなのはいいよね~

小網君はそういう意味では、マイナス点かな~でもアッチのサイズ一番大きいから、気持ちいい所に当たるし、皆の中では一番相性いいかも。でもあんまり顔が好みじゃないんだよねえ。セフレならいいかなあ。彼も変な悩みをもっててでかい図体のくせにウジウジしててムカついたから「あたしはあなたの味方だよ~」って思ってもないこと言ってみたら、その日のうちにベッドに入っちゃった。チョロすぎ。

もりもりは思ってた通りむっつり君で、ちょっと肌に触れさせてやったら、ぐいぐい来て笑いを堪えるのがきつかったあ。「あなたはもっと価値のある人」って昨日見た広告のキャッチコピー言ってみたら泣き出しちゃって、かなり引いた。彼の童貞奪っちゃったときとか思い出してもウケる。中に入れた途端に出ちゃうとか本当にあるんだって笑えた。あの時の真っ赤な顔、普段のインテリぶった顔と違って、めちゃめちゃおもしろかった。

るあくんは、いつも女の子みたいって言われるのが嫌なんだって。あたしの前で無理に男らしくしようとするから「すごい、すごい」って褒め続けてたら、やっと落ちた。手間かけさせやがって。でも、へこへこ必死に腰振ってる姿を見てると、ボセイホンノーみたいなのをくすぐられる?がんばれっがんばれって心の中で応援してる。全然気持ちよくないけど(笑)

「苺愛ー」

ほら、健斗があたしを呼んでる。お金持ちの、あたしの王子サマ。

ビーチを歩く水着姿のあたしは皆にどう見えてる?かわいい?当然だよね。

みんなに求められて、愛されてる私はさいこーにキラキラしてる。

もう、みんなまたエッチなこと考えてる顔。順番に相手してあげるから、それまでおあずけね。いい子にして待ってて。

罫線

夕暮れ、コーヒーバー「スター・ギター」

ここのスタッフに沙織を紹介した。エディはどストレートに「悪役令嬢が来たー!」と喜んでしまい、マリベルからどつかれていた。俺は沙織から聞いた、彼女がピンク頭の一団にされていた行為について全部話した。途中からクララもやって来て、知らないクルーも顔を出していた。それだけ彼らにとって【ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト】は魅力的な話題なのだろう。

俺が話し終えると、クルーから沙織への質問コーナーが始まった。主にピンク頭が主張していたことと沙織の話した内容の乖離についてだったが、トラブルが起こった当時に同じ場所にいたクルーがどこかに必ずいて、状況のすり合わせをすれば沙織の主張が正しいと理解してくれた。集まって話を聞いてくれたクルーが沙織の状況を分かってくれたところで、彼らに提案する。

「今日、ここで話したことを船内に広めてくれないか?実は俺達は明日から反撃に出る。悪役令嬢がどんなふうにヒロインをやり込めるか、見てみたくないか?」

「見たい!どんなふうにするか、ヒントをちょうだい」

食いついてきたのはマリベルだ。

「まだ仕上げには程遠いが、毎日少しずつ変化を起こしていくつもりだ。それも楽しんでもらいたい」

「【黒い魔法使い】は出るの?」

「もちろん。【黒い魔法使いその2】もいる」

誰それ―っ?!と歓声が上がる。ほんっとうに暇なんだな。

「あのねジャック、この子ルームキーパーのアナよ」

「やあ、アナ」

クララから突然の紹介。英語が堪能な沙織はまだクルーと話してる。

「私、ずっと言いたかったことがあったの。あの、私の周りはピンクのヒロイン派が多くて言い出せなかったんだけど、あの子たちの夜の過ごし方が、その、ちょっと行き過ぎてて、あの、私頭に来てて!」

「落ち着いて、アナ。俺には話してくれて大丈夫だよ」

ふうふうと一息ついて、アナは健斗の部屋や、その他の男子高生の部屋が、どんな有様なのか教えてくれた。

「シーツが汚れるのは構わないわ。そういうものですもの。でも、あの、毎回彼らの部屋のダストボックスを片付けるのは本当に嫌になるの…毎日よ…あの、スキンの口を縛るのってそんなに面倒?」

「あのピンクのヒロインが部屋に来た日はすぐにわかるわ。あの…えっと、シーツに彼女の毛が散らばってるし、部屋中、あの、ぐちゃぐちゃなんだもの」

「特に健斗の部屋の掃除が大変。ベッドだけじゃなくて、あの、ソファも壁も、すぐに拭かないとシミになるし消毒だって必要なの。男子高生だから、えっと、あの、性に対して興味があるのはわかるけれど、やりすぎよ」

マリベルがアナの声を遮る。

「ちょっと待って。それって、ピンクのヒロインは4人のナイト全員とベッドに入ってるって事?」

店内がしんと静まり返り、全員の視線が沙織に向いた。

沙織は黙って前を向いたままだった。

だけど、目じりから一粒の涙が落ちたのを見逃した者はいなかった。

「…あ、あの、私が言ったってことは、秘密にしてね。えっと、あの、船長にばれたら、叱られちゃう」

今更アナが自己弁護に走った。さっと飛び出た無表情のクララが回収してくれたので、俺は大きくため息をついて皆の方に向き直る。

「今日は俺達の話を聞いてくれてありがとう。貴重な仕事時間を奪ってしまったから、夕食を取り損ねた人もいるんじゃないかな。お詫びになるかどうかはわからないけれど、ここのドーナッツを奢るよ。なかなかうまかった」

そう言って、その場にいる人間にドル札を掴ませていく。「俺はやっぱりピンクのヒロインの顔が好みだ」とか言いつつ嬉しそうに金を持って行く人もいれば、それがなくても自分は悪役令嬢の味方だと言って去る人もいた。もちろん無言で金だけ持って行くやつがほとんどだったけど。すべてのクルーがいなくなった後、残されたエディが心配そうに問う。

「ジャック、大丈夫なの?」

「ああ、手の内はまるで明かしてない。問題ないさ」

「違うよ。悪役令嬢の方だよ」

振り向いて沙織の方へ近付くと、彼女はやっぱり真っ直ぐ前を向いたまま。目じりが真っ赤になって、まぶた一杯に涙がたまっていた。

「…健斗の事、こんな形で知りたくはなかったよな」

こくんと頷く沙織。ぽろぽろ涙の粒がこぼれだす。

「胸を貸そうか」

ふるふるとかぶりを振る。

「じゃあ、お前の涙が乾くまで、コーヒーでも飲んでるよ」

カウンターの奥へ消えるエディ。

静まり返ったコーヒーバーの店内、俺だけに聞こえる声で沙織は幼馴染への思いを告げた。

「家同士の結婚と割り切っていたはずですのに、婚約破棄をしようと心に決めておりましたのに、どうして涙が出るのでしょう」

「さあ、それだけ純粋に信じていたからじゃないかね」

「…ええ、そうです。わたくし、信じていました…」

「もう婚約者と名乗らなくていいぜ。裏切ったのはあっちだ」

俺の言葉に、沙織は返事をしなかった。

翌日、寄港したのはセント・トーマス。

美しいサンゴ礁が広がる、魅惑のクリスタルブルーの海。熱帯魚の色も鮮やかで、ここはシュノーケリングスポットとしても有名だ。

健斗たちは早々に水着を持ってビーチへ向かう。沙織はもう彼らに付いていくことはなかった。だが水着の準備はしている。

ぎゅっとバッグを握りしめて、沙織は船のタラップを降りた。

ビーチはフェンスで区切られて、料金を払った観光客以外は入れない。ここまでしないといけないものかと呆れる気持ちはあれど、これがビーチの治安を守ってくれていると思えば、納得するより他はない。ともあれビーチの中に入ってしまえば、フェンスは視界の外だ。

乾燥した晴天に照らされたエメラルドグリーンの海とどこまでも続く白い砂のコントラストがまばゆい。カリブ海の絶景を臨むビーチにずらりと並んだチェアに座って、観光客たちはめいめいに日光浴を楽しんだり、シュノーケリングをするために海へ向かっていく。

ピンク頭たちは今日も喧しい。彼らのそばにチェアを購入した観光客がつぎつぎと場所を変えていくのに、きっと気がつきもしないのだろう。気付いたところで何もしないと思うけれど。

「今日の水着…どうかな、ちょっと大胆…だったかな」

ピンク頭はヒョウ柄のモノキニビキニを着ている。

「おう!似合ってるぜ、苺愛!」

「も~コアミーったら~いきなり水着プレゼントされても困っちゃうよ~」

「でも着てくれたじゃん。すっげかわいいって」

「ねえねえ、僕の送ったピアスは着けてくれた?」

「あれは~かわいすぎて、ビーチで落としたらショックだし、夜に着けるね」

「そ、そっか…」

「がっかりしないで~大事に使いたいだけなの!るあくんが買ってくれたものだから!」

あそこまで露骨に貢いでますアピールをして恥ずかしくないものだろうか。俺が俺がで一人の女にマーキング合戦だ。頭正常か?

「BJ、顔に出てる。手を動かせ」

「おう。つくづく娑婆には理解の及ばんものがあると思ってな」

ピンク頭から程よく離れたヤシの木陰に、俺達はチェアを購入した。同時にサイドテーブルと、ドリンクを3つ。

俺はいつものコートを剥がれ、半袖の開襟シャツを着させられている。せめてと抵抗したので色は黒。だけどボタンは全開。ハーフパンツと相まって、体中に走る縫合痕の4割は見せていることになる。

いつもは脱ぐなって言うくせに…とキリコを見ると「時と場合による」とのこと。じゃあ俺だって時と場合によるわ。

そのキリコは、なんと上半身裸でいる。肌を焼く気まんまんじゃねーか。

「俺も初めはシャツを着るつもりだったんだよ。だけどまあ、この天気だ。絶対に日焼けして半袖の跡が残るって想像したら、もういいかなって」

「昼過ぎには日焼けで背中が真っ赤になって、夜は痛くて眠れない方に300ドル」

「お、じゃあ、結局我慢できなくなって開襟シャツ脱いで海に入る方に300ドル」

バカな話をやってたら、後ろにようやく人の気配がした。

「おせえぞ、沙織。ドリンクの氷が溶けちまう」

あうあうと沙織の目はまわりそうな勢いだ。

「待ってくださいまし…あの、どこを見たらいいのか…こ、困ります…」

俺とキリコは顔を見合わせる。

「沙織さん、俺みたいなおじさんの体だ。大根だと思いなさい」

にっこりと笑い、沙織の緊張をほぐそうとするキリコ。だけど俺は沙織の気持ちがちょっとわかる。キリコの体は皮下脂肪が少ない。つまりは筋繊維がバッキバキに見えるってことで、大胸筋から腹筋、腹斜筋にかけての陰影がえげつない。深窓のお嬢さんに、これを意識するなと言うのは無理があろう。

「隣のツギハギは座布団だとでも思って」

俺も人の事言えなかったわ。

「そうだぞ、沙織。これはただ遊びに来ているわけじゃねーんだ」

「そ、そうでしたわね。これも『戦い』でしたわね」

そう。ピンク頭の一団に挑む戦いのはじまり。沙織はここから反旗を翻すのだ。

意を決した沙織はそろそろと陽の下に姿を表した。

つややかな黒髪を頭のてっぺんでお団子にしている顔はあどけなく、緊張のせいか頬が赤い。真っ白のビーチガウンが陽光に映え、その下には黒のギンガムチェックのワンピース水着。ジュートヒールのサンダルで、カリブ海の砂浜に降り立つ沙織の肌は、何より透きとおり輝いて見えた。

「あの…どこか、おかしいでしょうか…」

キリコは俺の頭に一発チョップを入れた。

「良く似合っているよ。この男は君があまりに可憐なので、言葉を失っているのさ。ほら、気の利いたことでも言いなさい。言えないだろうけど」

あーとかうーとか言ってる間に、キリコはさっさと沙織を3つ並んだチェアの真ん中に座らせた。彼女にドリンクを勧め、日焼け止めは塗ったか、虫刺されは平気かと聞くキリコの姿は完全に親戚のおっさんだった。

俺は俺で準備した小道具を身に着ける。ハイブランドのサングラスに、同じく24金のぶっといネックレス。趣味の悪いきんきらの腕時計。これらはレンタルだ。それなりに金はかかったけど、買うよりははるかに安い。ガキどもが金かけて貢ぎ合っているもんだから、ヘタクソなものは準備できなかったのだ。くそ。

さて仕掛けはできた。後はいつ引っかかるか待つだけだ。

真昼の太陽が照りつける中、ピンク頭の一団は海に入っていった。水の掛け合いなんかして、きゃあきゃあ言ってる。それだけならかわいらしいと笑えるんだが。ピンク頭のボディタッチがうざったらしいことこの上ない。水がかかったと、隣の男に胸を押し付け、水をかけるふりをして男の腕に飛び込む。……あ、一人こっち見た。

「食いつくかな?」

「まだまだ」

ピンク頭の一団を見て、ちょっと暗くなってる沙織。声をかけると無防備に顔を上げた。その口にドリンクについていたサクランボを入れてやる。

はわわ…と頭から湯気が出そうになっている沙織と、向こうで額に手を当てるキリコ。なんだ?俺、なんかやったか?

結果、いきなり本命が釣れた。

「何をしている?!」

海から走ってきたのだろう。体中に水滴をつけて、息を切らせた健斗が俺達の前に立っていた。

「…誰?」

これも想定のうち。

「さあ…沙織、知り合いなのか?」

上半身を起こすと、金のネックレスがじゃらりと音を立てる。必然的に健斗の目は俺の胸元に走る大きな縫合痕へ。

「何見てんだよ」

サングラス越しに睨むと、健斗は後退る。しかし沙織が目の前にいる。後ろではピンク頭の一団が様子を窺っている。しっぽを巻くに巻けなくなった健斗は喚くしかなかった。

「さ、沙織は俺の婚約者だ!」

「だから?」

キリコの声が冷たく響く。

「俺と言う婚約者がありながら、こんな二人も男と一緒にいるなんて、ふ、ふしだらにも程があるぞ!」

勇敢な健斗。ああ、勇敢だ。沙織に向かって『ふしだら』だと、お前が言うのか。耐えきれなくなって、台本にはないが大声で笑ってしまった。

笑われた健斗は大いに自尊心を傷つけられたらしい。乱暴に沙織の手を掴んだ。

「来い!」

「痛…っ」

沙織の悲鳴に反応したのはキリコだ。ゆっくりと立ち上がると、健斗を完全に見下ろす形になる。強靭な肉体に隻眼の眼光。勇敢な健斗は白いビーチに尻もちをついた。何も言えずに、口をぱくぱくさせている。そんな健斗から興味を失ったようにキリコはおもむろに口を開く。

「沙織さん、海へ行こう。波打ち際に貝が落ちているかもしれない」

「ああ、それがいい。魚も見られるかもな」

「……はい!」

台本通りに俺達は海へ向かう。

健斗だけ残して。

「どういうつもりだ、沙織!」

午後の図書ラウンジで過ごしていた俺達の所へ、健斗がひどい剣幕でやって来た。

「お静かに」

カウンターにいるクララが無表情で注意する。いささか勢いをそがれた健斗だが、諦めはしなかった。小声で沙織に言い募る。

「いつも俺達と一緒にいたじゃないか。どうして来なくなったんだ」

「来なくてよいと毎回言われておりましたので、その通りにいたしました。それが、なにか?」

沙織は手にした英字文学から視線を外さない。

「じゃあ、俺が来いって言ったら、来るんだな!今すぐ俺と一緒に来い!」

「お断りいたします。わたくし、読書の途中ですの」

「なっ…な…!」

おそらく沙織から反発されるのが初めての健斗は、真っ赤な顔でしどろもどろになった。そこへ視線を送ってやる。俺の視線をキャッチした健斗は、更に顔を赤くする。ばっと音がするくらいの勢いで振り向けば、キリコも同じように健斗を見ている。

「おま、お前たちは、沙織の何なんだ!」

無視。

「説明しろ、沙織!」

「ああもう、やかましくて本が読めませんわ。あの方々は船内でひとりきりの私が安全に過ごせるように、一緒にいてくださる善意の方です。健斗さん達のような関係ではありませんから、ご心配なく」

それきり沙織は一言も発さず、読書に没頭した。

健斗はクララに図書ラウンジを追い出されるまで、ずっと何か沙織に言い続けていたが、同じことを繰り返しているだけだった。

「なぜ、自分といっしょにいないのだ」と。

台本通り黒いスーツとコートはしばらく封印。めったに着ることがないアイボリーのジャケットを着ると妙に笑えて、同じくライトグレーのジャケットを着たキリコと、しばらくお互いの姿を見て爆笑し合った。

黒い衣装を着るのは沙織だと決めている。

ディナーの席では魚群が釣れた。

おっと、ちなみに今日のディナーは

・季節の野菜のテリーヌ

・サラダ(クレソン、ラディッシュ、リーフレタス、アスパラガス)

・コンク・フリッター

・ゴート・チーズのニョッキ

・ジャーク・チキン/カジキマグロのステーキ

・ナッツケーキ

そのジャーク・チキンを味わっている途中で、健斗が取り巻きを引き連れて俺達のテーブルにやって来たのだ。

「恥知らずな女だ。どこの誰ともわからない男と食事をとるなんて、見損なったよ」

「あら、どこの誰ともわからない女性と親しくされている皆様にご注意いただくなんて…思ってもみませんでした」

沙織は音を立てずにカトラリーを使う。

「苺愛の事を悪く言うな!」

急に発せられた怒号にメイン・ダイニングがさっと静まり返った。すぐにざわめきを取り戻すが、またあいつらかと肩をすくめる人間は少なくなかった。

口の中のジャーク・チキンをすっかり咀嚼して味わった後、俺はさも今初めて気がついたように、のんびりと疑問を投げかける。

「若年だからと黙っていたが、君たちはいったい誰だ?」

「俺は、沙織の婚約者だ」

「それは聞いた。あとの3人は?」

「俺の高校の生徒会のメンバー、同級生だ」

「へえ、沙織。彼らとは友達なのかい?」

「いいえ。初めはお友達になれるかもと思っていたのですが、皆さん、私とは関わりたくないと」

「なるほど。では婚約者殿と無関係の御三人、改めて訊くが、何か用か?」

すこうし圧を込めて言ってやる。ガキどもは面白いくらい縮み上がった。

「おい、あんまりかわいがるな。怖がってる」

くつくつとキリコは笑う。

「ああ、まさかこれくらいでビビるとは思ってなかった」

わかりきったことをわざわざ口にして笑うと、ガキどもの連携は崩れ出した。赤い頭はいきり立つが、眼鏡とちびは及び腰だ。ああ、めんどくせえ。だからガキの相手は嫌なんだ。

「てめえらこそ、誰なんだよ!」

暴言を吐く赤い髪をじっと見つめる。

「それは、誰に言っている」

「てめえだよ!」

「人間の言語を話せるようになってから来るんだな」

側にいたクルーに合図すると、健斗を含めた4人はダイニングから追い出された。

だが、執念深い赤髪は俺達が夕食を済ませて、ダイニングから出てくるのを待っていた。

3人してエレベーターホールへ向かう途中、視界の端に赤い髪が見えて、まだ一日が終わらないのを知る。

お構いなしに、ずんずんとホールを突っ切って歩く。

「待てよ、コラァ!」

待つ謂れなどない。アホかな。無視して行くと、向こうの知的レベルも下がっていくようだ。背中から聞き捨てならない言葉が聞こえた。

「ははァ、沙織。お前、健斗に相手にされないからって、他の男と一緒にいるのを見せつけたいんだろう。でもな、そんな気味の悪ィ眼帯のおっさん連れてても、逆効果だっての!ぎゃはははは!」

思考より体が動く。

拳が振るわれるのをコマ送りになる視界で捉えていた。

だが俺の体の前に差し出された強い腕で押しとどめられる。

それがキリコの腕だと認識するのに数秒。

この腕がもう少し遅れていたら、間違いなくあのガキの前歯を全部折っていただろう。やっちまうところだった。ばれないように小さくため息をついて感情を落ち着ける。

俺の代わりに前に立ったのは沙織。

「小網さん、今のはいけません。ミスター・ロッキー・ロードに謝罪を」

「はあ?俺が?冗談だろ、そんな」

「それ以上の醜い言葉はお止しになって。その方の人柄もよく知らないのに、失礼な事を口にするのは、いけません。幼稚舎の子どもでも解かることですわ。さあ、謝罪を」

赤髪は怒りに燃えた。つーか、俺の方が怒ってんだ、このクソガキ!

「相手にされないから見せつける。そのような発想はありませんでした。わたくしの行動は全て健斗さんのためにしているわけではないからです。でも小網さん、あなたは健斗さんのために尽くされる方でしたね。だから先程恥をかいた健斗さんの代わりにここにいる」

「な…なにを…」

「まあ、失礼を。わたくしったら、そのことに全く気がつかず通り過ぎてしまうところでした!小網さんが後ろから声をかけて下さらなければ。ええ、ええ」

赤髪は沙織の言葉を全く理解できていない。目を白黒させて、自分の状況を図りかねている。沙織はおっとりと言葉を続ける。

「先程のダイニングで起こした騒動を、健斗さんの代わりに謝罪して下さるために、私たちを待っていてくださったのですね」

「は、はあ?どうして俺が…っ」

「健斗さんも幸せなお方です。こんなに思ってくれるお友達がいらっしゃるなんて、ねえ」

いつの間にか俺達の周りには、遠巻きに人垣ができている。赤髪は逃げられない。沙織は畳みかける。

「真心こめた謝罪でしたら、受け取りますわ。もちろん、ミスター・ロッキー・ロードの分も」

ざわざわとどよめく周囲の人間の視線が赤髪の小僧に突き刺さる。興味、嫌悪、愉悦。

赤髪はだらだらと冷汗をかいている。ここで無理矢理人垣を破って脱出すれば、健斗の恥を上塗りにする形になる。逃げ帰ったと仲間に責められるのは確実だ。かと言って、自分が頭を下げさせられる事態は想定していなかった。どうして俺が、そればかりが頭で回っているんだろう。思考の袋小路。

やがて耐えきれなくなって、赤髪は唯一自分に残された道を選んだ。

赤髪は震えながら頭を下げる。

「ごめんなさい、が聞こえません」

『♪』が語尾に付きそうな口調で沙織は責める手を休めない。

蚊の鳴くような声で赤髪が「ごめんなさい」というと、沙織は「よくできました」と笑った。

その日、コーヒーバーの床をモップ掛けしていたエディは仲間のクルーから話を聞き、モップを放り投げて喝采した。

「本物の、本物の悪役令嬢の誕生だー!」

ブラック・ジャック先生、ドクター・キリコ。わたくしの悪の先生方。

お二人は用心深く、わたくしを部屋の前まで送って下さった。おやすみなさいの挨拶をすると、ブラック・ジャック先生は口の端を持ち上げて。

「お疲れさん。明日はもっとハードだ。よく休みな」

そう言って、静かにドアを閉めました。

先生の言う通り、まだまだ台本には続きがあります。お父様が安心できるまで、引き返すことなど有り得ません。ですが…わかっては、いるのです。

「沙織さん、おかえりなさい。ディナーはおいしかった?」

ベッドルームに入って、お母様の姿を見ると、わたくしの心は悲鳴を上げそうになります。

「はい。コンクのフリットが、とても美味しかったです。お母様もダイニングへ、今度一緒に参りましょう?」

「え、ええ…そうね。でもルームサービスも悪くないのよ」

お母様は、まるで避難するようにわたくしの部屋へやって来ました。何かに怯えるように、何かから逃げるように。いつも温和な、怒ると怖いですけれど、取り乱すことなどほとんどないお母様のあんな表情は初めて見ました。

今なら、その理由がわかります。あの男は、お父様ではない。

お母様もそれを感じ取ったのだと思います。滅多にお部屋から出ずに、人とあまり会わないようにして過ごしています。高薄のおじ様には、体の具合が悪いとお話ししました。その時のおじ様の表情は、非常にがっかりされていたのを覚えています。

お父様に化けたあの男は、お父様の部屋に陣取ってはいるようですが、高薄のおじ様を避けるように意図的に部屋を空けることもあるようです。その時はどこにいるのか掴めません。これまでは家族ごっこのようにわたくしに接触してくることがありましたが、それもあの男は疲れたのでしょう。お母様もあの男のせいで身の危険にさらされている。高薄のおじ様には、このようなことを知られるわけには参りません。

健斗さんの事も…

「なにか考え事かしら?難しい顔をして」

お母様がわたくしのほおをそっと撫でます。

ふいに胸の内から澱が溜まるように、黒いものが降り積もりました。

ひとひら、ひとひらと。

ごめんなさい。

この口は今日たくさんの酷いことを言いました。

ごめんなさい。

この眼は今日何人もの人を睨みつけました。

ごめんなさい。

この耳は心無い言葉を聞き続けました。

わたくしは悪い娘です。もう戻らないのです。

「まあ、もう18になったと言うのに甘えたいの?仕方がない沙織さん」

やさしい手がわたくしの肩を撫でてくれます。泣きそうになるのを堪えるわたくしを今だけ許してください。

明日からは台本の通り悪役令嬢の顔に戻りますから。

この時間があれば、わたくしは戦えます。

どうか許してください。

My fair villainous lady⑦

第7章

デッキタワーの先端ほど近く。黒と金で装飾された最上級のスイートルームで葉巻を咥える男が一人。ボックスソファの置かれた広いリビングに、先程騒ぎを起こした息子と婚約者の娘、そしてその両親が揃っていた。

「高薄さん、先程は大きな騒ぎになってしまい、申し訳なかった」

「いえいえ、若いころにはよくある話ですよ」

鷹揚に応えながら高薄浩一郎は、この頃の久遠寺彰の振る舞いに疑問を抱いていた。

クルーズ初日はアクティビティにもディナーにも、一緒に参加できたのだ。しかし2日目からは、全くと言っていいほど顔を会わさなくなった。何のためにこのクルーズに参加しているのか、理解をしていないとでも言わんばかり。高薄と久遠寺がより親しくなる旅行でなくてはいけないのに、久遠寺彰が高薄浩一郎を避けているようにしか思えない。宿泊している部屋を尋ねても不在。妻の絹子でさえ、動向を掴めていないらしい。

加えて沙織の振る舞いである。彼も多少は船内の噂を耳にしている。健斗たちに連れ立って、いちいち文句を言うのだとか。高薄浩一郎は、この少女が幼い頃から苦手だった。大の男が高校生相手に怯む必要はないのだが、遺伝とは恐ろしいもの。沙織からは浩一郎がどうしても敵わなかった先代社長、久遠寺和機の雰囲気が漂うのだ。ぼんやりした両親から生まれたとは思えないくらいに、利発な才媛。

「私も今日の事でいろいろ考えました…やはり沙織は健斗君にはふさわしくない」

浩一郎の思考は、突然の彰の一言で打ち切られた。

「待ってくださいよ。そんなに大ごとではありません。だれも怪我などしていないし、船から苦情が来たわけでもない」

「そうは言っても、そちらの健斗君の心は、もう違う女性にあるらしいじゃないですか。いや、全く、親の私がしっかりしていないから、沙織を面白みのない娘に育ててしまった。これまでの事は、健斗君の心を掴んでいられなかった娘の落ち度です。ほら、沙織、謝りなさい」

急に謝れと言われて、戸惑う沙織。騒ぎになってしまったのは申し訳ないけれど、どうして自分が謝らなくてはならないのか。しかも相手は高薄家、ひいては健斗である。筋違いにも程があるのではないか。

「彰さん…」

「お前は黙っていなさい」

娘の動揺を察した絹子が夫を諫めようとするも、一喝されてしまう。絹子は沙織以上の箱入り娘。社長夫人として内助の功を尽くしてきたが、今回の彰の行動は乱暴で驚くばかりだ。2人きりになると必ずベッドに誘われる。散々言い訳して逃げ回り、今ではほとんどの時間を沙織の部屋で過ごしている有様。夫が知らない人間に思えて、ただ怖かった。

「失礼を。娘も娘なら、母親もそうだ。躾が失敗したとしか言いようがない」

「まあまあ、落ち着きましょう。騒ぎの後だ、まともに思考がまとまらない事だってあるでしょう。我々、高薄は昔からの付き合いのある、沙織お嬢さんを婚約者に迎えたいのです。いきなり現れた者にそのポストは譲りませんよ」

「父さん、俺は苺愛と」

いきり立つ息子をひと睨みすれば、健斗はすごすごと浩一郎の大きな背中の陰に隠れた。

浩一郎はどうしても息子と沙織を結婚させたかった。

久遠寺と血縁関係になりたかった。

裸一貫から会社を立ち上げ、海外の大きなコンペティションを勝ち抜いたことで、彼は業界のトップの一角に登った。しかし上を見ればきりがない。浩一郎は絶対に自分が超えられない壁の存在に気がついたのだ。

どんなに努力しても報われない。最初から持っているものと、持たざる者の差。

それを息子たちの結婚で、やっと自分も手に入れられるのだ。「どこの高薄さん」ではなく「あの高薄さん」と、高級クラブで自分を蔑んだ連中に呼ばせたいのだ。

だから健斗と沙織の婚約破棄は絶対に認めない。それは高薄浩一郎の決定事項だった。

息子が旅先の恋に現を抜かすとは予想外だったが、健斗から聞く沙織の対応にも問題があるように思えた。自分が指摘するよりはと、隣に座る妻の重美に視線をやった。勘のいい妻は、沙織に健斗にどのように接してほしいか、懇々と言い含めた。

曰く「おおらかな目で」「妻になるのだから忍耐も必要」「男は多少は遊ぶもの」

浩一郎にとって最後のひとつは肝が冷えたが、沙織は黙って重美の言葉を聞いていた。

久遠寺一家が部屋から去った後、健斗は父に食って掛かった。

「どうしてあんなことを言うんだ!父さん、俺はもう沙織と結婚なんかしない!苺愛と一緒になりたいんだ」

愚かな息子に頭痛がし始めた浩一郎は、どうしてこの結婚が会社のために必要なのかを再三再四説明する気にならなかった。重美が側にいないことを確認して、息子に一言告げる。

「世の中には、妻のほかに恋人を持つ男がいる。お前がうまくやるなら、ない話ではないぞ」

その『うまく』の意味を、息子はきちんと理解しなかった。

罫線

夜が明ける前に、俺達はベッドから這い出し、あたたかいコーヒーを持ってバルコニーに出た。

ペールブルーの空が橙色に染まりだす。やがて現れる粒ほどの強力な光線。ちぎれた小さな雲の影が太陽に飛ばされていく。

朝日が空をあたたかく覆うまでの間、コーヒーを二人だけの沈黙の中で味わう。

それもなくなって、すっかり空が明るくなったころ、朝食を取ろうとキリコは俺の手をひいた。

〈本日の朝食・ルームサービス〉

・フレンチトースト

・カリカリベーコン

・ハム2種

・プチヴェールのソテー

・温野菜サラダ

・チーズの盛り合わせ

・マッシュルームのポタージュ

・フルーツ(りんご、キウイ)

・オレンジジュース/コーヒー

「共闘戦線を張ろう」

むぐっと口にしたチーズが喉に詰まりかけた。

「どういう意味だよ。共闘戦線なんて」

「そのまま。昨日話していて分かった。このヤマ情報が多すぎる。一人で情報集めて分析してたら、あっという間にクルーズが終わっちまう。そうしたらもう、解決する機会はほぼないと言ってもいい。酷ければ全部無かったことになってしまうだろう」

キリコは静かにハムを切ってる。

「バミューダでアレサンドロの腕を鑑識してくれるように頼んだけれど、何の知らせも来ない。クルーズが終わる前に証明できないと、本当にあの腕が平野のものだってことになってしまう。俺はとても我慢できない」

静かな顔で顔でフレンチトーストをきれいに食べてるけど、腸煮えくり返ってるんだろうなあ。だってずっと怒ってるって珍しく言ってたし、昨夜もいつになく激しかった…俺、何考えてるんだろう。

オレンジジュースをごくごく飲む俺をよそに、ゆっくりとキリコは席を立ち、背中から長い腕で覆いかぶさるようにして俺を抱きしめた。

「オキシトシンの発生源を確保しておきたいという思惑もある」

「なんだかお前さんにばかり都合のいいことに聞こえるんだが」

「俺も悪役令嬢を助ける黒い魔法使いその2になるよ」

「うまくいくかねえ」

「行かせてみせるさ。俺が見えていないものが、お前に見えることはあるだろうし、その逆もあるだろう。違う視点で見えてくるものがきっとある。昨晩のように、それを共有したい。有事の際は手を貸すこともやぶさかでない。そう言う意味の共闘だよ」

キリコの考えは分かった。依頼人への感情も分かる。だけど馴れ合うのは、俺たちには合わない気がする。それに15億円の一部を報酬に寄越せって言われても困るし。そうキリコに伝えると、奴は唇の端で笑った。

「もちろん期間限定さ。期限はクルーズが終わるまででどうかな。俺はアレサンドロの尊厳を守るため、お前は15億を手にするため。そのために一時的な共闘戦線を張るのさ」

「よし、決まりだ」

俺はオレンジジュースのコップで、キリコはコーヒーカップで、かちりと乾杯をした。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の真相を確かめるべく、俺達は行動を始めた。

キリコはセキュリティスタッフのオフィスへ行き、俺は先にインサイド客室へ向かう。エレベーターホールまでの長い廊下を歩き、コーヒーバー「スター・ギター」の前を通りかかった時だ。

「ジャック!」

エディの悲鳴が聞こえた。何事かと顔を出すと、相変わらず客のいない店内で、3人の女が仁王立ちして睨み合っている。マリベルとクララと……昨日の写真で見た顔だ。たしかグアダルーペ?

「どうしたんだ」

小声でエディに尋ねる。

「変な噂があって、僕がそれをマリベルに話したら、こうなっちゃって」

かわいそうなくらいエディは震えてる。

「噂?」

「前に話しただろ【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の話。あれの続きさ。今までは唸り声だか喘ぎ声だか、意味の分からない声しかしてなかったんだけど、とうとう人間の言葉になってるのを聞いたって奴が出たんだよ!」

なんだって?詳しく続きを聞こうとしたら、女性陣の方が口火を切って揉めだした。

「ショーマが『愛してる』って言ったのは私よ」

「どうして決めつけられるわけ?あの部屋で愛し合ったのは私」

「私だってそうよ!あんただけじゃないわ!あの夜『愛してる』ってショーマは何度も言ってくれた!」

バチバチと雷電が飛ぶ険悪な雰囲気の中、3人の女性が一度に叫んだ。

「「「死んだショーマが『愛してる』って言ったのは私の事よ!」」」

ドゴーンとでっかい落雷の幻影が見えた。

どうやら【最下層のインサイド客室】こと死んだ平野星満の部屋から聞こえていた声が言語になったらしい。それが『愛してる』という言葉だったと。

それにどんな意味があるんだ。死んだ人間が喋ってるなんて妄想がそもそもおかしいし、今更愛を囁かれたって何の得にもなりゃしねえ。それなのにお互いマウントを取り合うくらい、彼女たちはショーマに惚れてたって事か。勝手にしろい。

「待って、ジャック!行かないで!」

涙目のエディがすがるけど、悪いな、俺もその幽霊が出る部屋に用がある。

「今度、目の手術タダでやってやるって言ってやれ。かなり目が曇ってるみたいだから」

「ジャック、お医者さんなの?!」

そうだよ、と背中で手をひらひら振って、今度こそ目的地へ向かう。

すぐに行くはずだった。

だけど流れでもう一人連れていくことになってしまった。

エレベーターを降りて、いくつか階段を下りる。船内の様子はだんだんと変わって行き、照明はぼんやりとして、こもった匂いがしてきた。船の巨大なエンジンの音が鈍く響く。

最下層のインサイド客室、俺の部屋の隣、平野星満の部屋の前にはすでにキリコがいた。

うす暗い廊下で俺達に気がついたキリコは不審な眼を向ける。

「どうしてお嬢さんもいるんだ」

「まあ、途中で拾ったんだ」

そう、俺は沙織と一緒に来ていた。

数分前、エレベーターホールで下行きのエレベーターを待っていると、俺の前のエレベーターの扉が開き、中から喧しい奴らがそろって降りてきたのに遭遇した。

ピンク頭の一団だ。朝っぱらから嫌なもんに会ったなと、表情筋が歪むのを堪えられずにいたら、やっぱり沙織は一番後ろで黙って歩いていた。真っ直ぐ前を見つめる瞳は、まだ彼女が戦っていることを示していたし、手を貸す予定はなかった。

通り過ぎ様、俺に気付いて顔をこわばらせた奴もいたけれど、一瞥するとサッと目を逸らした。タマ無しめ。しかしだ、その時、吐き気を催す香水の臭いの中に、人間のある分泌液が出す特有のニオイを感じ取って青ざめた。振り返ると最後尾の沙織が通り過ぎるところだったから、彼女からこのニオイがするのかと、非常に慌てて手を掴み、そのまま下りのエレベーター連れ込んでしまった。

エレベーターの中、沙織は非常に困惑した様子で小さくなっていた。

「すまん。ちょいと不躾な真似をするけれど、勘弁してくれ」

彼女を壁際に押しやって、手を触れずに、その場で深呼吸。変態くさい?うるせえ。

沙織からそのニオイはしなかった。そうだよな。当然だよな。

俺が感じた人間の分泌液のニオイ。それは男の精液の臭いだった。

そんなもん垂れ流してるのはピンク頭しかいねえじゃねえかよ。見当違いにも程があるぞ、俺。つーか、あのメスガキ、健斗を食ってるってことか。周りの連中もそれを知ってつるんでるのか?精神構造理解しがたい。したくもねえ。

どんどんエレベーターは一直線に最下層へ降りていく。

「あの…困ります…」

見上げる沙織の訴える気持ちは分かる。けれど、俺の目には彼女が今にもポッキリいってしまいそうに見えた。さっきの真っ直ぐ前を見つめる姿は、彼女なりの虚勢だったと思えるほどに。

「疲れたか?」

「えっ」

「あの連中相手にしてて、疲れたかって訊いたんだ」

沙織は黙ってうつむいた。

意地の悪い質問をした自分に苦笑して、罪滅ぼしとばかりに彼女に提案した。

「これから幽霊が出る部屋に肝試しに行くのさ。気分転換に一緒にどうだい。お嬢さん」

「ええかっこしい」

ぼそりと方言で呟くと、キリコは沙織に念を押した。

「望んでここに来たのではないのは理解した。どうもこの男は君を案内したいみたいだし、実はこの部屋と君は無関係ではないと俺も思っている。是非とも一緒に来てほしい。そしてここで見たこと聞いたことを口外しないと約束してほしい」

「どういう意味です…?わたくしはこの部屋に来たことはありません」

「そうだろうね。でも、部屋の中に、君が知っている何かがあるかもしれない。それが具体的に何かは我々も知らないがね、気になったことがあれば教えてくれないか」

少しでも情報が欲しいキリコの思惑は分かった。平野の部屋の中はほとんど何もない状態だと聞かされていたから、この探索が空振りになる可能性もある。その可能性を少しでも引き下げたいのだろう。

「俺からも頼む。巻き込んだのは悪かった。ただ俺達はお前さんの親父さんについて調べていることがあるんだ」

沙織の顔色が変わる。思い当たる節があるのだろうか。更に口を開こうとすると、廊下の向こうからがやがやと声がする。

「さあ、中に入るぞ。見つかるとまずい」

キリコがカードキーを素早くスキャンし、【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の現場、平野星満の部屋の扉が開いた。

ぱちりとスイッチを入れれば、室内が明るく照らされる。

高級感のあるアイボリーの壁と金のライン。同系色のやわらかいベッドは部屋の真ん中。テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。そう、俺の部屋と全く同じだ。

違うのはトランクがひとつ残されていること。

「手分けして探そうにも、ワンルームじゃなあ」

「ワンルームをなめんな。俺はクロゼットを探すぜ。お嬢さん、俺と一緒に見てくれねえか」

「お嬢さんでは落ち着きません。どうか、沙織と」

「わかった。沙織、お前の親父さんと関係しそうなものがあったら教えてくれ」

その時だ。

部屋の中に唸り声が満ちたのだ。

これか。これが幽霊と噂される現象か。どこからするのか確かめようとすると、ぱたりと声は止んでしまった。

「部屋のどこから声がしたのか、分かったか?」

「バスルームではなかったな」

「わたくしの後ろの方でしたように思います」

再び唸り声。今度は明らかに俺の後方でしたのが判った。

クロゼットを探していた俺たちの後ろには、ベッドしかない。キリコが掛け布団をめくったが、当然のように何もいない。声を上げるのだから、少なくとも動物だ。さっきの声は布団の隙間に隠れられるような小さい生き物が出す声の大きさではなかった。

敷布団もめくり、マットレスに耳をつける。

誰も声を出さない沈黙の中、俺の耳は何かが蠢くような小さな音を拾った。

「キリコ、聞いてみろ。何かが中にいるかも知れない」

キリコも耳を澄ませ、確かに物音がすると言った。ベッドの周りを調べると、少しだけマットレスが浮いている。アイコンタクトをしてキリコと一緒にマットレスに手をかけて力を入れると、がこんと音を立てて、マットレスが下の板ごと外れた。

邪魔だからと気を利かせたのか、沙織は部屋の隅でじっとしている。

そろそろとマットレスの付いた板を壁際に移動させると、ベッドの木枠の中に何かが詰まっているのが分かった。

「見るな!」

すぐに沙織に告げた。

木枠の中にいるのは男。

胎児のようにうずくまる形で、横たわっている。

体中に鬱血痕。虐待の痕だとすぐに知れた。酷いのは指だ。どの指もまともな形をしていない。ちぎれてはいないものの、あらぬ方向へ曲げられ、爪を剥がれ、ペンチのようなもので執拗に痛めつけられているのが分かる。

キリコがジャケットを脱ぎ、男の丸出しの下半身にかける。男の性器もまた虐待されていた。同時に肛門からの出血もあるようだった。

人のいい、おっとりとした笑顔が、血色の悪い今の顔と同じ人間だとは想像もつかない。

久遠寺彰が、そこにいた。

かまされていた猿轡を放すと、彰はやっと人間の言葉を話した。

「…やあ……」

壁にくっついたまま、様子を窺っていた沙織が反応する。

「お父様…ですか……」

彰は大きくため息を吐いた。

「まさか、娘に発見されるとは……情けないな…」

傷だらけの彰にじりじりと近寄る沙織は、彼の体を見て小さく悲鳴を上げた。上半身が露だったことに気付き、俺のコートを肩からかけて彰の体をすっかり覆った。

「どうしてこんなことに……!わ、わたくしたちが先程まで一緒だったのは、誰なんですか?」

「沙織、俺達が分かっていることを順番に話す。最後まで、落ち着いて聞いてくれ」

アレサンドロの腕から始まり、平野星満という男が久遠寺彰になり替わっている事実を沙織に伝えた。沙織は辛抱強く聞いていたが、とうとう最後には泣き出してしまった。初めて見る彼女の涙だった。

「お父様が、どうして、こんな酷い目に遭わなくてはならないのです!」

「それは…私が原因なんだ……」

諦めにも似た、自嘲を含んだ彰の声。

「大体予想がついてるから、詳しくは後で聞こう。今はここから出ることが先だ」

立ち上がるように彰の肩を抱えたが、彼は首を振った。

「私がここからいなくなったら、平野は間違いなく家族を害する」

「その前にセキュリティスタッフに平野の身柄を拘束してもらえ」

「ううん…そうするのは簡単なんだけど、私にも意地がある。仮に今、私が君たちに救出されて、平野が捕まったとしよう。誰が得をするだろうか」

「損得勘定してる場合かよ。手前の命がかかってんだろ」

いきり立つ俺の目をじっと見て、彰はにこりと傷だらけの顔で微笑のかたちを作った。

「高薄か」

「そう」

キリコの言葉に応える彰。その声は静かで強い意志を感じさせた。

「愚かにも犯罪者の手に落ちた久遠寺の3代目は無能だと吹聴し、事件当事者しか知りえない情報に領巾を着けてふれまわるだろう。私が対応するより早くね。だってほら、今の私はちょっと入院が必要な体だろう?」

「…ム」

「父も対処はしてくれるだろうが、なにぶん高齢だ。うかうかしていると…」

「久遠寺は高薄に食われると」

無言で彰は頷いた。

「おそらく平野はそこまで読んでいる。平野の望みは久遠寺の破滅だ」

『破滅』と沙織は鸚鵡返しに呟いた。きっとそのままの意味なのだろう。世襲制の会社が社長の不始末で身代を傾けた事例は、古今東西良くある話だ。彰が今まで命を取られず生かされているのは、久遠寺を潰す過程を見せるためだけ。「まだまだ苦しめ」と加害されている途中なのだ。

「私が望むのは、高薄も、久遠寺と一緒に事件に巻き込まれたというシナリオだ」

「なんだって?同じ船に乗ってて、お前さんと平野の違いに気が付きませんでした。平野に騙されましたって段階で十分巻き込まれたと言えると思うが、それ以上の状況なんて、簡単に用意できるか?」

「すでに用意されていると、私は思うよ。憶測にも満たない妄想だけれども」

沙織、と娘を彰は呼んだ。

「平野はね、私に沙織と健斗君の事を詳しく聞かせるんだ。今日はなにがあったとか、その前はこんなことをしていたとか…私が平野から聞いた話をするから、本当かどうか答えてくれるかい」

ウェルカムパーティでの出来事、タクシーツアー、ホースシュー・ベイでの事件、仮面舞踏会での事件、中には俺達が知らないものまで、いくつもいくつも彰は沙織と健斗、ピンク頭の一団との間に起きた事柄を挙げた。

沙織は二つほど否定はしたが、その他は黙って頷き、肯定した。

「そうか…そうか……」

ほろほろと彰は落涙した。

「娘が、こんな酷い目に遭っているのに、親が何もできずにいるなんて……」

「お、お父様」

「どうか何も言わないでくれ、沙織」

涙を拭いもせずに彰は続けた。

「平野が沙織たちの事を私に告げるのは明確な悪意があるからだ。だけど私はずっと不思議だったんだ。どうしてこんなにトラブルが起こるんだろうって。それをどうして平野は余すところなく知っているんだろうって」

「確かに…あのピンク頭、やたら沙織に突っかかるよな。健斗狙いだからライバル扱いしてるのと思ったけど、まだ何かあるのか」

「私にもわからない。だけどきっと仕掛けがあるんだと思う。この船の上で久遠寺と高薄をつなぐ一番大きな綱は、沙織と健斗君の婚約だからね…いけない、時間がない」

彰は部屋の時計を見て焦りだした。

「平野はいつも12時から15時までの間はここに来るんだ。もうすぐ12時になる。私を元に戻して、部屋から出るんだ」

「そんなことできません!お怪我の手当てをしないと!お父様、わたくしは家を失ってもお父様を失くすのはいやです!」

「いいから、沙織。私は大丈夫だ。お前が私を思ってくれるように、私もお前を思っているよ。お前は絹子を、お母さんを守ってあげてくれ。私は私のできる方法で久遠寺を破滅から救って見せる。平野は私を殺さない確信がある。船が港につけば、きっと解放される」

「その時には、久遠寺は中からも外からも食いつぶされているわけか」

虚勢を張った彰の言葉を看破するキリコの独白は親子に突き刺さる。彰は唇を噛みしめ、沙織は震えている。

「カードキーは手に入った。必要ならまた来られる。時間がない今は久遠寺氏の言う通りにしよう。さあ、コートとジャケットをどかすから、君は下がっていなさい」

「見せてください」

彰とキリコ、俺の3人の視線が沙織に集まる。

「お父様が、私とお母さまを守るために、どんな苦しみに耐えてくださっているのか、私は知るべきだと思います」

澄み切った瞳に対して、俺は無言でコートを彰の体から外した。上半身に散らばる大小の鬱血痕。そして、手。沙織は彰に駆け寄り、触ると痛かろうと震える手をうろうろとさせながら、大粒の涙をこぼした。

「ゆ、指が…お父様のピアノが、わたくしは大好きでしたのに…痛むでしょう…ああ、痣がこんなに……こんなこと、こんなことって…!」

彰はできるだけ痛みを隠した笑顔を作り、ぼろぼろになった手で沙織の頭を撫で「大丈夫だから」と繰り返した。

彰を再びベッドの下に隠し、そっと廊下に出た。さっさと移動すべきなのだが、沙織が動かない。彼女の葛藤はわかるが、ここで平野と鉢合わせるわけにもいかない。石のように固まった彼女を引きずって、その場を後にした。

「どう思う」

「どうっつってもな」

プールデッキの端っこでぼそぼそやってる俺とキリコ。そこからちょっと離れたところに沙織。お互い作戦会議中。沙織には何が自分にできるか考えてみろって漠然とした宿題を出した。

「平野の彰に対する執着は異常だ」

体を痛めつけ、犯し、ピアノを奏でた指を徹底的に潰している。私怨の域をとっくに超えているように思えた。

「だから『愛してる』なのか」

「俺にはわからない」

「わかる必要もないさ。状況が変わったから整理するが、15億を久遠寺から取り立てたいお前にとっては、久遠寺が潰れないことが一番でいいな?俺にとっては平野の正体を暴くことが一番。それがアレサンドロの腕の証明に必要不可欠だから。ただ、俺の場合は久遠寺彰氏に救出を拒まれたことで、振出しに戻った感があるがね」

「おう、久遠寺が高薄に食われたんじゃ15億どころの話じゃなくなる。久遠寺が生き残る可能性を探るためには、平野とピンク頭の関連性を洗う必要があるか…気が進まねえ。俺、ああいう類のサルは嫌いなんだ。今日だって男の精液の臭い、プンプンさせてたんだぜ」

「お前はそういうところ潔癖だからね」

じっと片目で見つめられて言葉に詰まる。

顔をしかめた俺のところへ近付く影があった。沙織だ。

「宿題の答えは出たか?」

俺の言葉を受けて、沙織は胸の前で両手を会わせて組んだ。それは何かに縋る殉教者のように見えて。海風に乱される長い黒髪をそのままに、沙織は思い切ったように口を開いた。

「わたくしに、悪の作法を教えてくださいませ」

しばし、海風と波の音しかしなかった。

沈黙が何年も続くように思われたころ、俺は耐えきれなくなって、大声を上げて笑ってしまった。

「よく考えたのです!どうしてそう結論付けたか聞いてから、思う存分笑ってくださいな!」

「ああ、ああ、すまんな。話は聞こう。その前に十分面白すぎてな」

笑いすぎて涙が出る。その様子を見て、沙織はむむっと俺をかわいい顔で睨む。

「適材適所だ、沙織さん。よくもこんな当たりくじを引くもんだ」

キリコの声に、どういう意味かわからないと首を傾げる沙織。

「ちなみに沙織、俺が誰だか知っているか」

「ブラック・ジャック先生。お医者様でしょう?治療費がとても高額なのは存じております。治る見込みがないと匙を投げられたおじいさまの病気を治して下さったのですもの、素晴らしい技術をお持ちなのもわかっています」

はは、と乾いた笑いが口から洩れる。

「それが俺の正体だと思うか?」

「えっ?」

キリコは俺の前に出ると、わざと紳士ぶって沙織に尋ねた。

「では、私の職業はなんでしょう。当ててごらんなさい」

沙織は戸惑うしかない。そりゃそうだ。こんな人相の悪い隻眼黒眼帯、おまげにザンバラの銀髪が海風に散らばってる。表街道の人間に見えるはずがない。

「間違っていたら、ごめんなさい…その、海賊…ですか?」

今度こそキリコは腹を抱えて笑った。俺も爆笑。沙織は泣きそうになっている。馬鹿にしているわけじゃない、ちょっと落ち着く時間をくれと言って、なんとか呼吸を整えた。

「すまん。うん。大丈夫だ。話をしよう」

「では改めて自己紹介を。私はキリコ、ドクター・キリコと呼ばれることが多いですね。安楽死専門の医者をしています」

「安楽死…」

耳慣れない言葉を沙織は反芻した。

「安楽死なんて言うが、要はヒトゴロシだ。まだ生きられる人間を勝手に見切って殺してる。俺には我慢ならん思想の持ち主だ」

喚いて見せるがキリコは知らん顔。そういうふうに誤解する者は稀にいます、だとよ。沙織は「人殺し」というワードが刺さったらしい、眼を見開いたまま動けなくなっている。

「自己紹介が済んだところで、いつも通りに喋っていいか。話が進まなくなりそうだ」

「ええかっこしいはお前じゃないか」

「言われたくないね。お前の自己紹介はまだ途中だろ、きっちり名乗ってやりな」

そうは言ってもなあ、どう自己紹介したもんかねえ。今更だけど、自分で言うのも格好つけててやだな。でもキリコに任せると、最悪のパターンしか思いつかんので、観念して言うことにした。

「俺は無免許医だよ。黒医者、闇医者なんて呼ばれることもある。金さえ積めば、どんな後ろ暗い奴でも手術台に上げる。金がすべての外科医さ」

捕捉説明したいらしいキリコは笑っていたが、余計な口は挟まないと決めたようだった。

「さあて、沙織お嬢さん。我々から何を学びたい?」

びくりと沙織の肩が揺れ、俺の背後のキリコを凝視している。振り向かなかったけれど、あいつがどんな顔をして沙織を見ているのか判った。裏街道の連中と同じに扱ってやるなと言ったのはお前さんじゃないか。それじゃあと、俺も裏街道の夜道を往く闇医者ブラック・ジャックの顔を見せる。これもテストだぜ。沙織お嬢さん。

白い顔を更に白くして沙織は後退り、華奢な体を縮こまらせながらも逃げ出さずに何とか立っている。まあ、こんなもんか。ぱっと表情を変えてやる。

「さあ、しっかり立ちな。今度はお前さんの番だ。俺達に何をさせたいのか話してくれ」

すっかり震えあがった沙織を連れて、キリコの部屋へと向かった。

このくらいはさせてほしいと、沙織はそれはきれいな所作で緑茶を淹れてくれた。急須などはキリコが船から借りていたらしい。たまにコーヒーだけじゃ味気なくなるそうだ。日本に毒されてるぞ、お前さん。キリコに呆れつつ茶を口に含んだけれど、今まで飲んできた茶と比べ物にならないくらい旨かった。

「驚いたな。同じ茶葉だろう?ここまで違うものなのか」

キリコも同意見のようだった。二人して褒めると、沙織は初めて年相応のはにかんだ笑顔を見せてくれた。

「さっきお父様が話していた、私が苺愛さんたちから受けた行動なのですが…」

切り出した沙織の言葉に耳を傾ける。彼女はピンク頭の一団と行動を共にしていて、どんなことがあったか具体例を交えながら話すから、自分の認識違いもあるだろうし公正な視点で聞いてほしいと前置きして始めた。彼女が挙げた点は以下の通りだ。

・バミューダのツアーでペンダントを渡されたことが『無理矢理奪った』ことになった

・苺愛の私物のペンを沙織が拾ったことが『壊した』ことになった

・沙織が他の男子高校生と話していると、苺愛を『仲間外れにしている』ことになった

・苺愛が健斗と距離を縮めると同時に、男子高校生3人とも急激に近しくなった

・ショップで使用禁止の札がついている高級ソファに座ってはしゃぐ苺愛に注意をしたところ『金持ちだから苺愛を馬鹿にしている』と責められた

・下船した土地でも船内の高級ブティックでも、とにかく苺愛に言われるまま高額なアクセサリーなどを買い与える健斗に、高薄の父は知っているのかと心配したら『健斗の金を目当てにした嫉妬』『相手にしてもらえないので惨めな気の引き方しかできない』と非難された

・なにか起きれば、必ず沙織一人を原因と決めつけて、全員で糾弾する

・皆で出かけている時、必ず苺愛と男子一名が姿を消す時間がある。20分ほどで戻ってくるが、何をしていたかそれぞれが誤魔化している

後はウェルカムパーティで背中を押され、指を切るけがをしたこと、仮面舞踏会で苺愛のドレスを破いた犯人だと思われていること、彼女を押してプールに突き落とした濡れ衣を着させられたこと、プールの底に散らばった私物を集める様子を嘲笑されたこと…それだけで十分な侮辱だが、きっと沙織が言っていない小さな害意がもっとあるのだろうと予想はできた。

「明らかにお前さんを蹴落としにかかってるな。本命は健斗なんだろうけど、まわりの男どもだって完全にピンク頭に服従してる。まともじゃねえよ。俺ならいちゃもん付けられた3回目くらいでぶん殴ってるな」

「嘘を吐くな。1回目でアウトだろう」

「てめえだって似たようなもんだろ。すぐに楽にしてやってたんじゃねえのかよ」

「とんでもない。楽にならないようにしていたさ」

物騒なやりとりを続ける俺達を見て、沙織はぽんと自分の膝を叩いた。

「それです!お二人のお話のやりとりを、わたくしもできるようになりたいのです」

きらきらと名案を思い付いたような沙織の顔を、俺達は全く言葉の通じないエイリアンに会った時のような気持ちで見た。

「これまで健斗さんにも苺愛さんにも、他の皆さんにも、わたくしはどうにかして仲良くしたいと行動してまいりました…ですが、どれもうまくいかず、嫌われるばかり。嫌味を言われていることくらいは、わたくしにもわかりましたが、どう言葉を返せばいいのか判断に迷い、熟慮して返事をしても状況が悪化するばかり。わたくしには、悪意に対する反応のしかたが分からなかったのです」

「ふうん、それで?」

「俺達に口喧嘩の方法を教えろと言うことでいいのかな」

違う、と沙織は首を振る。

彼女の目に仄暗い炎が灯るのを、俺は見た。

「平野が私たちの間に起こったことを詳しく知っているとお父様は言われましたが、それは実に不自然だと言わざるを得ません。加えて、苺愛さんの行動は明らかにわたくしを『悪役』にしたい様子の振る舞いでした。お父様の言葉を踏まえれば、平野が苺愛さんと何らかの関係があり、久遠寺を貶めようとしている…」

幼馴染を奪われる寂しさを炎の中にくべて燃やす沙織の瞳には、決意と言う熱量が確かに宿りだしていた。

「お父様のあの姿を見て決めました…わたくしは平野と言う男を許さない。久遠寺を破滅へと導こうとするもの、それらを全て断罪して見せます」

「断罪とは、大きく出たな」

「そのくらいの覚悟がなくて、どうして久遠寺を支えられましょう。お母さまはおそらく平野に脅されているか、何か恐怖を与えられていると推測します。今夜しっかりお話して、事実を確認いたしますが、まだお母さまに全てをお話しするわけにはまいりません」

「俺も同意見だ。お前さんの母ちゃんは線が細すぎる。下手に情報を渡すと流されかねん」

神妙な面持ちで頷く沙織。彼女は父と母を同時に守る気なのだ。

「わたくしが受けた仕打ち…屈辱と言い換えましょう。今までは認めたくなかったのですが、ええ、これは屈辱以外の何物でもありません。それを糾弾すれば、全て納まるでしょうか。高薄のおじさまに健斗さんにこんなことをされましたと訴えれば済むでしょうか」

俺達は黙って沙織をみる。仄暗い炎はじわじわと彼女の身体を焼いてゆく。

「お父様に化けた平野を偽物だと暴けば、それで済むでしょうか。そこで平野が謝り、警察に捕まればお終い?いいえ、いいえ。そんな時期はもう過ぎました。愚かなわたくしのプライドが許せば、事が終息する時期は過ぎたのです」

微動だにしなかったキリコが口を開いた。

「それで、どうするんだ」

射干玉の黒髪がさらりと揺れる。久遠寺コンツェルンの意地の全てを背負った乙女は、きっぱりと言い切った。

「健斗さんとの婚約破棄。これ以外にありません」

彼女は続ける。

「一見平野の思惑通りに見えるでしょうが、こちらから切り出すか、あちらから切り出すかは大違いなのです。平野は高薄のおじ様から婚約破棄を伝えてくることを目論んでいる。ですがわたくしはそれより先に自分から伝えます。健斗さんと苺愛さんのふるまい、平野の犯罪を暴き、それらを踏まえた上で高薄のおじ様も承諾せざるを得ないような状況を作ります。もちろん十分な情報が必要ですから、今すぐにとはいきませんが…必ず」

わずか数分で、この少女はプライドと言う炎の片鱗を見せた。その炎は、俺は嫌いじゃない。だがそんなか細い炎で俺が動くと思うなよ。

「俺達に報復の手伝いをしろと言うわけか」

「はい。黒医者に安楽死医…これ以上ない『悪』の先生にご指導賜りたいのです。ご心配なく、動くのはこのわたくし。先生方が手を煩わせることはございませんわ」

ふふ、とキリコの底意地が悪い笑い声がする。

「ご冗談を。その細い腕で何ができるんだ」

「あら、わたくしの腕が頼りないのであれば、先生方が鍛えてくれればよいのです」

「ほお、良いことを教えてあげよう。俺は慈善事業が大嫌いだ。なぜ君の腕を俺が鍛えなければいけないのかな」

「俺も同意見だ。確かにお前さんの現状は不穏当なものだとは思う。ピンク頭の一団に嫌悪感を持っているのも同じだ。しかし、それだけでは俺は動かない」

「報酬が必要、ということですね」

黙って俺達は頷く。裏街道を歩む者にふさわしく、佞悪に、そして傲然と。

「では、こういうものではいかがでしょう。今のわたくしにはペン一本自由になるものはありませんの。全て両親が与えてくれたものですから。なのでわたくしがある程度自分の財産を自由にできるようになってから、報酬をお支払いいたします」

「出世払いか。話にならんね」

足を投げ出した俺に、沙織は低い声で続きを話す。

「わたしくしは久遠寺コンツェルンの全てを賭けて、あなた方にご協力を賜りたいのです。その報酬に具体的な金額をお示しできないのを、非常に心苦しく思いますが、逆にここで150億などと申し上げても信じていただけないでしょう?」

それはそうだ。返済能力のない女子高生に150億と言われても、嘘だと笑うしかない。

「ですから、わたくしが今、貴方様がたにお支払いできるものは『わたくしの未来』です。今回の事件を受け、わたくしがお父様の跡を継ぐのも、そう遠くないでしょう。その時、久遠寺コンツェルンがまだ息をしていましたら、遠慮なくお好きな金額を請求なさいませ。久遠寺コンツェルン4代目の威信にかけて、一括でお支払いいたしますわ」

沙織の瞳に灯った炎が、覚悟を持って俺達を焼こうとしている。

「それも叶わぬ時は『わたくしの未来』そのものをお渡ししましょう。奴隷のように使役なさるも良し、新鮮な血や内臓を提供する人形と扱うも良し、お望みのままに」

しばし沈黙が続いたのち、俺とキリコは顔を見合わせた。

「この辺が落としどころか」

「まあ、及第点だろう」

ぽかんとする沙織に、俺達それぞれの目的を伝えると、彼女は顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。

「初めから利害が一致していたのでしたら、そう言ってくださればいいのに!」

「これも悪の心得さ。簡単に腹のうちは晒しちゃいけねえ」

「俺達は君を利用する。君も俺達を利用すればいい。その関係を築くには、君の覚悟をはかる必要があったのさ。悪気はないよ。ちょっと意地悪したのは認めるけれど」

「まあ、俺の15億円は別料金だから彰に即金で払ってもらうとして、久遠寺コンツェルンの4代目に支払う意思があると分かっただけで十分としよう」

緊張感がすっかり抜けた室内で、俺とキリコはからからと笑った。真っ赤になってむくれているのは沙織だけだ。

「それじゃあ、昼飯食いながら作戦会議といこう。ルームサービス頼んでいいか」

「いいよ。でもメニューは沙織さんに決めてもらおう」

「わ、わたくしが、ですか?」

キリコはニヤニヤしてる。

「まさかルームサービスひとつできない子が、俺達の報酬を払ってくれるとは思えないからねえ」

「できますとも!ええ!」

沙織は力いっぱい受話器を握り、人生初のルームサービスのオーダーをした。

My fair villainous lady⑥

第6章

久遠寺彰に会う舞台にキリコが指定したのは、今夜のマスカレード・パーティだった。

仮面舞踏会なら久遠寺彰も沙織もピンク頭の一団も、一度に全部見られるだろうとキリコは提案した。素顔は見られないのに?と疑問を投げかけると、身体的特徴を把握したいだけだから構わないとのこと。何か考えがある様子だけど、今は言えないと口を閉じた。

分かったことがあったら教えるように念を押す。俺だって今の状況を変える手掛かりが欲しいんだ。お互いに理がありそうだったから、了承した。

夜のプールサイドは昼間とまるで違う顔をしていた。

紫のグラデーションでライトアップされたイミテーションのヤシの木。ワイヤーに釣り下がる妖しい光を放つオーナメント。夜闇に響く賑やかなカリプソ・ビートの合奏。

そこに集うドレスアップした仮面の紳士淑女。

今夜のドレスコードはフォーマルナイトよりは少し砕けた印象かな。男性陣はタキシードをきっちりと着こなしている人がいる一方、ダークスーツにネクタイを締めて、カジュアルになりすぎない服装の人々もそれなりにいた。

対して女性陣は極めて華やかだ。背中の大きくあいた開放的なドレス。レースたっぷりのビスクドールのようなドレス。民族衣装を着た女性もいる。そんなに着込んで暑くないのかと聞きたくなるが、海風があるのでそこまで暑苦しさを感じないようだ。

そして皆、仮面をつけているわけだ。

いつもと違う雰囲気が一層強いパーティ会場は、沢山の男女が集い、興奮と熱気に包まれていた。

そこに俺もいるのだが、全く納得がいかない形で、引きずられるように立たされている。

「ほら、背筋伸ばして。余計に目立つよ」

俺を覗き込むのは、三つ揃えの真っ黒のタキシードに白いウィングカラーシャツ。紺色のアスコットタイをシンプルなシルバーのリングで留め、ザンバラの髪を後ろで結ったキリコ。なんつったっけ、泡パ行った時にこんな髪形してたな。あの時は半分だけ結ってたけど、今夜は全部まとめてる。オマケに顔の半分を覆うチャコールグレーのマスクが妙に似合う。眼帯も外してるし、別人みてえ。

「マンバンね。お前はもっと別人みたいなんだから、開き直れよ」

そう。今の俺は完全に別人。

数時間前、キリコはもっともらしい理屈をこねた。

キリコは久遠寺一家の顔も、ピンク頭の一団の顔触れも知らない。目立つピンク頭はすぐわかるだろうけれど、後のメンツは俺の案内がほしいと勝手を言う。

案内さえあれば久遠寺彰には会える。だけど沙織にも会おうとすると、健斗や他の連中に顔が割れている俺が近付けば、きっと遠巻きにされてしまう。それだとピンク頭の一団を近くで見たいと言うキリコの目的が果たされない。キリコは「俺は悪役令嬢のファンなんだ」など真剣なツラで嘘くさいことを言う。

だからって、こんな状態は聞いてないし、認めてない!!

そんなおっかけみたいな真似なら、俺をこんな格好にさせる意味なくね?

白黒の髪を隠すようにかぶせられたのは、ミルクティー色したロングヘア―のウイッグ。

ブラウンピンクのアイシャドウに健康的なコーラルのグロス。べたべたしてなんかやだ。つけまつげはいらないらしく、代わりにマスカラを上下3回ずつ塗られた。

スタイリストの渾身のメイクで、俺の顔の傷は余すところなくコンシーラーとやらで隠され、顔半分を覆う真っ白なレースのマスクを装着。どうせなら隠しきる布地の方が良いんじゃないかと言ったけど、スタイリストはこの方が視線が分散されていいのだと主張した。元が良いんだから隠したくないとも呟いてたけど何のことだかさっぱりわかんねえ。

同じく縫合痕が走る腕を隠すように白いレースがふんわりとしたロングスリーブ。指先も白い手袋でカバー。胸元に詰め物をして、すとんと落ちるような重みのある生地で作られたAラインのドレスを着て、男の広い肩幅にストールを纏って誤魔化せば、鏡の中の俺は完全に女性になっていた。

スタイリストはジャラジャラとアクセサリーの類を俺に着けながら、今までで一番の出来だと胸を張った。どうも非日常感覚をもっと強烈なものにしようと、女装を頼んでくるゲストは少なくないらしい。だけど、それがどうした。1ミリも嬉しくねえよ。キリコへの殺意だけが湧く。

「馬子にも衣裳だ。似合っているよ。レディ」

へらりと抜かすキリコの足を、ぺったんこのソールの靴で踏みつける。悶絶するキリコ。気が晴れねえな。もう片一方も踏むかと足を上げたところで、パラソルの付いたグラスを勧められた。

「これでも飲んで落ち着きなさい。黙ってれば本当に女性に見えるから」

グラスをひったくるようにして受け取り、ロングカクテルをぐびぐび飲んだ。

「教えるから、とっととこんな茶番は終わらせろ。ほら、今カクテル・バーからライムの付いたショートグラス持ってった黒いマスクの男がいるだろ。あいつが久遠寺彰だ」

「ふうん」

彰はエスコートすべき絹子の側に行かず、デッキの隅でひとりカクテルを飲んでいた。タイも緩めて、どこかやさぐれてる。夫婦喧嘩でもしてるのかな。夜の営みを拒否されて、そこから拗れてるとか。

キリコは俺の手を引いて彰のもとへ向かう。待てってば!バレたら悲惨だ。やーめーろーよー!

俺の心の絶叫を完全に無視して、デッキの手すりに寄りかかる彰にキリコは声をかけた。

「こんばんは。久遠寺さん、楽しんでいますか?」

「あ、ああ。それなりに楽しんでいるよ。失礼だが、どこかで会ったかな」

仮面舞踏会で実名を呼ぶ無粋に、彰は怯んだみたい。なんのための仮面なんだと俺も思う。

「ええ。かなり前の事ですから、お忘れになっていても仕方ありません。日本の御社で一度お会いしています。ロッキー・ロードと申します」

それはアイスのフレーバーだろ!俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。彰の視線を感じたので、ポーカーフェイスは引っ込めて、すぐに淑女らしくニコリと笑って見せた。キリコはキリコでそれはキレイに笑った。二人して胡散臭いこと限りねえ。

「それで、ロッキーさん。何か御用かな。実は少し具合が悪くてね。風に当たっているところなんだ」

「気がつかずすみません。少しお話したかっただけなんです。ピアノはもう弾かれていないのかと思って。素晴らしかったなあ。コンクールでのあなたの演奏は。群を抜いて輝いていた」

「…ピアノね…多分もう弾けないよ」

「そうですか。もう随分とお弾きになっていない?」

「いいじゃないか。ピアノの話は。失礼するよ」

彰は不機嫌になったのを隠しもせずに、人垣の中に紛れて行ってしまった。

「な?バレなかっただろう?」

「ひやひやしたぜ。それにしても、おい、ロッキー・ロード。どうして久遠寺彰にピアノの話をしたんだ。俺は知らなかったぞ、あいつがピアノを弾けるなんて」

「俺も知らなかった」

「えっ」

「さあ、次は愉快な〈ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉を教えてくれ。こっちは話すことはないけど、近くで見たいかな」

どんな思惑がキリコにあるのかまだつかめない。だけどこのパーティで分かることがあれば、共有する約束になっているので信じるしかない。もたもたと足にまとわりつくドレスに苦心しながら、沙織たちに近付こうとするけれど、レースのマスクで視界が悪い。見かねたキリコが俺の腕を取って歩いてくれた。完全にエスコートされる女だ…どんな風に見えるのか想像してげんなり。

黄色にライトアップされたプールにほど近い所に〈ピンクの美少女と黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉達は陣取っていた。相変わらず苺愛が中心にいて、男どもはそれに追従する逆転したハーレムみたいな雰囲気だ。沙織はたまに話しかけられても、意地の悪い顔で苺愛がそれを見ているので、あまり良い話題ではないのだろうと推測できた。それでも沙織は下を向かず、高薄健斗の婚約者として気丈に振舞っていた。

キリコはそんな様子を黙って見ていたが、沙織ではなく苺愛に興味を示した。側で彼女を見たいと言うので、勝手に行けよと手を放すけど、お前も一緒に行くんだと強引に引っ張っていく。さすがにバレそうな位置までは近付かず、キリコに小声で取り巻きたちの名前と特徴を教える。

今夜の苺愛はハイブランドのマークが入ったドレスを着ている。蛍光ピンクの大きな羽飾りのついたマスク、首にはダイヤのチョーカー、腕には高そうな時計、靴は踏まれると甲が貫通するんじゃないかと思うくらいのピンヒール。正直、俺の好みじゃない。ウェルカムパーティの衣装とはかなり違う気がする。よく見てなかったけど。

「健斗ぉ、このドレス気に入っちゃった!買ってくれてありがとう~」

ああ、やっぱり貢がせたのね。

「ダイヤのチョーカーもかわいいし、時計も、靴も、全部キラキラしてすてきだよう。みんな、ありがとう!私、きちんとしたドレス、持ってなかったから…」

「気にすんなよ、苺愛。まさか自分のドレスがズタズタに引き裂かれるなんて、誰も予想しねえよ。犯人は誰なんだかなあ、鷗介」

「ええ、うまく証拠を隠してありますからね。犯人に突き付けられないのが残念でたまりません。全く苺愛のかわいらしさに嫉妬しての行動でしょうが、見苦しい」

「もういいよ、もりもり~みんなにキレイにしてもらったんだし、あたしはサイコーに幸せだよ~」

「苺愛はもっと欲張っていいよ。本当に謙虚なんだから。それに比べてずうずうしいったらないよね、あの子。なんで僕たちのところにまだいるわけ?」

「るあくん、やさしい…私、私っ…」

なんだろう、この三文芝居。このシナリオもクララの言う通りピンク頭が作っているんだろうか。ドレスを破いた犯人にされているのは、きっと沙織だ。そこへ金のマスクを着け王子様の如く語りだした健斗は、ピンク頭と同じマークの入ったハイブランドのスーツを着ている。

「まあ、そこまで言ってやるな。一応これでも俺の婚約者だ。あまり邪険にすると会社の経営に響くんだ。なに、金だけの都合さ。俺の心はもう決まってる」

苺愛の腰を慣れた手つきで引き寄せ、キスでもできそうな距離で苺愛にほほ笑みかける健斗。

「父さんが言っていたんだ。こいつは俺の会社の金が欲しい。俺の会社はこいつの会社が持つネームバリューが欲しい。ギブ&テイクさ。愛なんかなくって良い」

沙織の顔は真っ青だ。自分だけじゃなくて家族まで貶められるとは思いもよらなかっただろう。流石にやりすぎだと一歩踏みだしたら、長いドレスの裾を踏んでしまい、前にいたご婦人の背中にぶつかった。その衝撃はドミノのように伝わり、最後は苺愛にまで到達し、彼女はプールにドボンと重量のある水柱を上げて落ちた。

ばちゃばちゃと派手な水音を立てて苺愛はきゃんきゃん喚いている。豪華なドレスが重いのか、なかなか自力で上がってこられない。セキュリティスタッフが走って来て、ようやく苺愛をプールサイドに引き上げた。

「ひどい!高いドレスを水びだしにするなんて!靴もアクセも濡れちゃった!メイクも台無しよ!」

苺愛が初めに口に出したのは、助けてもらったスタッフへの礼でもなく、突っ立っているだけで何の役にも立たなかった男どもへの文句でもなく、自分が如何に損をしたかと言うアピールだった。そしてその矛先は当然沙織へ向かう。

「あんたが私を押したんでしょう!見たんだからね!」

無理にも程があった。沙織はプールから一番遠い所にいたのだから。慌てて苺愛に最後にぶつかった女性が、沙織ではなく自分だと釈明してもピンク頭は聞く耳を持たなかった。

「いいえ、いいえ、もういいんです!いつもこうして私に意地悪をするんです。もう、あたし、あたしっ、耐えられない…」

顔を覆ってしくしくと泣くピンク頭は、悲劇のヒロインそのものだった。あらわになったうなじは細く、庇護欲を掻き立てさせるのだろう。男どもは一様に胸に迫る何かを味わっている模様。俺はそこにできている3つ並んだほくろが気になったけれど。

そんなピンク頭に近寄るものがいる。沙織だ。

今のタイミングで、そんな爆発物に近付くな!

おい、待て!

「わたくしは押しておりません。さあ、ハンカチで顔をお拭きになって」

純度の高い善意で差し出されたハンカチが、苺愛に届くことはなかった。

誰かが沙織の足元に革靴のつま先を伸ばした。引っかかった沙織は足をもつれさせ、そのままプールへ。激しい水音に彼女を助けようと飛び出しかけた俺をキリコは掴んで離さない。

巻き起こる嘲笑。ピンク頭の一団だ。すっかり濡れ鼠になった沙織は自力でプールから上がる。持っていたクラッチバッグの中身がプールの底に散らばっているのを見て、彼女は再び水の中に戻る。セキュリティスタッフの手を借りずに、一人でひとつひとつプールの底から持ち物を拾う沙織を、ピンク頭の一団はずっと下品な鶏のような声で笑い続けていた。

もう勘弁ならんと、何度連中に飛び掛かろうとしたことだろう。だけどキリコが腕を離さない。鉄の手錠がついたような感覚に、一層無力感が募った。キリコを睨みつけると、あいつは頬を蝋のように固め、場にいる人間の様子をひたすら観察し続けていた。

やがて騒ぎを聞きつけた高薄夫妻と、絹子がやってきて、健斗は苺愛と取り巻きどもと引き下がり、沙織は絹子に連れられて船内に戻り、場は納まった。

すぐにカリプソ・バンドが陽気な音を奏でだし、ゲストたちは再びマスカレード・パーティの喧騒を取り戻す。

周囲に誰もいなくなったのをきっかけに、俺はキリコの腕を思いっきり振りほどいた。

「何故邪魔をする!あのクソガキども一発殴ってやる!」

淑女の格好をして怒鳴るんじゃないよと、俺が聞くはずもない忠告をしてキリコは目を眇める。

「殴って、それからどうする」

「……俺の気が済むだけだよ」

「そのとおり。何も解決しない」

だからって…と言いかけて、何も言えなくなった。俺は何ができる?このままじゃ健斗と沙織の婚約は破綻に向かう一方だし、そんな中で15億円をどうやって取り立てたらいいんだ。八方ふさがりだ。

「レディ、俺の部屋へ来ないか。俺が今日の夜で理解したことや憶測が正しいか、お前に聞いてもらいたい。きっとお互いにとって問題を打開できるポイントが見えるはずさ」

きつく握りしめられた俺の拳を、キリコはそっと取った。頷くよりほかは、俺には無かった。

デッキタワーの中頃にあるバルコニー付きの一室。薄い水色で統一された家具が夜の静けさの中で沈黙を保つ。

その部屋へ俺を招き入れたキリコは、部屋の中にある小さなキッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。

「タワーの上の方に行けば、もっとハイクラスな客室になるんだけどね。揺れが酷いんだよ。どうして金持ちは高い所へ登りたがるんだろうか」

「さあな、高薄とか久遠寺の連中はもっと上にいるかもしれねえ」

「上には上がいる。それを受け入れられるかどうかが問題なのかもね」

熱い紅茶をテーブルに置いて、キリコはソファに座った。対面するソファを勧められたが、俺は立ったまま。正直早くこのドレスを脱ぎたい。

「早く話して、楽な格好になりたいって顔をしてるな。いいよ、俺から話そう。さっきのパーティで俺が確かめたかったことは、幾つかあったんだが…一番の収穫は久遠寺彰氏についての疑問が晴れたことかな」

「疑問?」

「ああ、久遠寺氏は最近どこか変わったところはなかったか?」

「変わったと分かるほど親しくしていないから、正確とは言いにくいぞ。ただ、確実に以前より行方が掴みにくくなったな。夫婦仲も上手くいっていないみたいだ」

「夫婦仲か。具体的に知っているか?」

「船に乗った開放感からか、彰が激しく求めてくるもんで、絹子は怖いんだってよ。夜は娘の部屋で寝てるってさ」

「ふうん…まるで別人みたいに?」

「あん?」

キリコはまだ熱い紅茶を飲み、たっぷりと時間をおいて、口を開いた。

「久遠寺彰氏は別の人間に入れ替わっている可能性がある」

俺は言葉が出なかった。荒唐無稽すぎる。久遠寺彰とは彼の親父を手術してからというもの何度も会っている。顔も声も、さっきの仮面舞踏会で会った彼と、俺の記憶の彼は何も変わらない。キリコは本気で言っているのだろうか。

「世の中には3人は同じ顔の人間がいるらしい。そのうち2人が同じ船に乗っていたというだけのホラ話なら、大して面白くもない。しかし、実際に今夜の久遠寺彰氏に会って、俺は確信に近いものを感じた」

キリコは立ち上がり、ライティングデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。それは写真だった。うす暗い室内で撮られたと思しき写真には、二人の男女が写っていた。『ショーマ&グアダルーペ』赤いペンで大きく書かれたサインの上で、はち切れんばかりの喜色を表している女性と、カメラから少し視線を外して苦笑いしている東洋人の男性。

「こんなことってあるのかよ…」

ショーマこと平野星満は久遠寺彰にそっくりだった。

2人を並べて、間違い探しでもすれば、どこか違う点が見つかるかもしれない。しかしどちらか一方しかいない状況になると、普通の人間には見分けがつかないだろう。髪形や服装を同じに整えられたら、きっともう分からない。それくらい彼らは似ていた。

「俺はアレサンドロを海の藻屑に変えた奴は、平野星満に違いないとあたりを付けた。動機を探るには彼の人間性を知る必要がある。そこで船内のクルーに話を聞けば、誰も彼もあいつはクズだと言うのさ。でも女性陣の中には彼との一夜の恋が忘れられない人もいてね、この写真はその中の一人から借りた」

他の女には見せないように厳重注意されたよ、そう言ってキリコは写真を俺の手からテーブルの上へと移動させる。

「一卵性の双子のように彼らはそっくり。だけど生き方は真逆。久遠寺彰氏はコンツェルンの3代目社長として華々しく太陽の下を歩み、かたや平野は船上ピアニストとして酒と借金と女遊びの日々。どちらがいいかなんて俺は知らんがね、とにかく平野にとっちゃ久遠寺彰氏は、さぞかし羨ましい存在だったんじゃないかって思ったんだ」

いや、いやいやいや、いろいろ棚上げして羨むのはいいとしてだ、いくらそっくりだからって普通入れ替わろうとするものだろうか。

入れ替わろうってからには、今の自分を全部捨てるくらいの気概がいるだろう。そんなエネルギーをどこから持ってくる?

「アレサンドロの腕が見つかったのは、出航して二日目の明け方だろう?遺体の偽装をするなら日付をまたぐ前に行動を起こしていた可能性もある。久遠寺家が乗船して24時間も経っていない。そんな短い時間で、彰は平野に会って、入れ替わってやろうなんて害意を持たれるような振る舞いをしたんだろうか。あのおっとり男が、そこまで相手を怒らせるか、俺は疑問だ」

「そこだよ。アレサンドロの遺体を損壊して、自分の存在を無いものにしてまで、久遠寺彰氏になり替わろうとするなら、そこにはもっと根深い動機があるはずだ。たまたま自分が働くクルーズ船に自分にそっくりな金持ちが乗って来て、よし入れ替わろうなんて思う奴がいたら脳の構造をじっくり調べたいね。初対面で、久遠寺彰氏が船に乗って来てすぐに行動するのは、実に不自然だ」

ほとんど紅茶を飲み終えたキリコは、シュガーポットから角砂糖を取り出し、カップの中へひとつ入れた。そして、その上にまたひとつ。また、ひとつ。

わずかに残った紅茶の水分で、一番下の角砂糖が溶け、積み木の砂糖は崩れた。

「長年積もりに積もった恨みがあれば別、だがね」

「どういうことだ。彰と平野は過去に面識があったって言うのか」

「おそらく」

仮面舞踏会でキリコと彰がやりとりしていた様子を思い出す。俺が知らなかった彰の情報。

「…だから『ピアノ』なのか。ミスター・ロッキー・ロード。平野と彰を結びつけるなら、平野が最も執着している物から線を引けばいい」

「ご明察。案の定、ビンゴだったよ。お前も見ていた通りさ。きっと何度もピアノコンクールで競い合った仲だったのだろう。平野は久遠寺彰氏のことをよーく覚えていて、今も忘れられなかった」

だけどなあ、とキリコはため息をついて、髪を束ねていた紐を解いた。ばさりと広がった髪をぐしゃぐしゃと乱して、新しい疑問を口にした。

「本物の久遠寺彰はどこに消えたんだ?もう海に突き落とされた後なのか?だとしたら平野が本物のふりをしてる意味がなくなる。だって『久遠寺彰は事故死しました』って船内新聞に載せて、自分は船内のどこかに逃げおおせていれば、それで済むんだ。そうすれば無理矢理セレブな生活に自分を合わせる必要もないし、久遠寺家の妻や娘に自分が偽物でないと怪しまれないように骨を折る必要もない。久遠寺彰のふりを続けるのはリスクばかりだ」

「現に絹子は警戒してる。沙織は…それどころじゃないな」

「今までだって、寄港した港で逃げる機会はいくらでもあっただろうに。どうしてまだ船に残っている。目的を果たしきってないから、今も久遠寺彰氏の真似をしているのか?平野がしたいことのゴールが分からない」

うーんと唸って、お手上げと両手を広げるキリコ。

平野の目的…彰の存在を奪っただけじゃ足りない感情が、平野の中にあるんだろう。それがまだ消えていない。彼らの因縁は、本当にピアノだけなんだろうか。

彰と平野の過去なんてどう探ればいいのか。すっかり頭が倦んだからウイッグを外そうと手をやるけど、ぎっちりピンで留めてあって一人じゃ外せない。キリコも手伝ってくれて、二人でちくちくピンを取る。髪の毛が解放されていくにつれて、俺の脳にエディから聞いた2つ目の噂が思い出された。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】

それをキリコに告げると、平野が生きているのなら、その部屋を使っていても不思議はない、本当に中には誰もいないのか自分の目で確かめたいという意見になった。

「カードキーはどうすればいいだろう」

外れたウイッグをライティングデスクの上に置く。キリコはストールを外して、きちんと畳んでる。

「セキュリティスタッフに話を通そう。伝手がある」

背中のフックが外され、ジッパーを下ろされて、やっとドレスが脱げる。

「いくらばらまいてるんだよ」

「かなり。でも惜しくない。アレサンドロをあんな目に遭わされて、平気でいられるほど俺の心は広くないから」

胸の詰め物が取れて床に落ちた。

俺の体に残るのはレースの仮面と手袋、そして沢山のアクセサリーたち。

「下着は男性用なんだな」

「こんなのもありますって、レースの付いた猫の額ほどもない紐パン勧められたぜ。男用でもあんなのあるんだな」

「履いてくれてもいいのに」

「死んでもお断り。よっし、風呂かしてくれ。バスタブついてんだろ」

化粧の付いた顔が痒くてしようがないんだ。

あーーーーーー

やっぱり風呂に浸かるって大事ーーーー

アメニティにある化粧落としを使って顔を洗い、すっきりさっぱり。湯船につかってほこほこした体で、つくづく日本人だと実感しながら風呂から出た。

「お前さんも入って来いよ。スッキリするぜ」

キリコを浴室へ見送ってテーブルの方を向くと、さっきまで俺がつけてたアクセサリーがきちんと並んで置かれてる。こーゆーところが几帳面と言うか、なんつーか。

ネックレスをひとつ手に取ってみると、スワロフスキーの存在感がすごい。これで喉仏を隠せって言われたんだよなあ。まるで首輪のようなそれは置いておいて、重ね付けをした金とスワロフスキークリスタル、パールの3連ネックレスを手にした。留め具を見ていたら自分でも留められるか興味が湧いて、バスタオルを腰に巻いたままあーでもないこーでもないと格闘して何とか着けられた。なるほど、なるほどね。

それじゃあと興味の向くままにブレスレットにも手を伸ばす。中指のリングから網目のようにチェーンが広がり手首のブレスレットで留まるデザイン。うーん。重いし冷たい。スタイリストが悪乗りして持ってきたレッグチェーンも着けてみる。傷だらけの脚に良く映える…わけねえだろあほらしい。

「なにやってんの」

「ぎゃあ」

後ろから声をかけられて現実に戻されたけど、こんな姿になるなんてのは滅多にないからキリコにも感想を求めてみよう。

「見てみろよ。古代の王族みたいじゃねえ?」

「あー、エジプトとかメソポタミアとか?他に身に着けてるのがバスタオルだけだから余計に説得力あるな」

「ひれ伏せ!」

「下剋上」

キリコはひょいと俺を抱えてベッドへ連れていく。上から覆いかぶさられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。たっぷり10秒数えてキリコは重いため息をついた。

「オキシトシンが出てるのを感じるよ…」

「1分1万円」

バスローブを着たキリコの背中に腕を回す。

「セロトニンが欲しいな」

「明日、一番に朝日を浴びよう。しばらく何も考えずにホライズンを眺めるんだ」

「いいな」

キリコが俺の前髪をかき上げる。

「やっぱり、お前の傷が見える方がいい」

なにを分かり切ったことをと半目になった俺の唇に、笑うキリコの唇が重なった。

My fair villainous lady⑤

第5章

沙織はいろいろがんばった。

がんばったけど。

結論を言うと、上手く行ってない。

事実と違うなら徹底的に反論しろと言ったのは俺だ。それを沙織はきっちりやってのけた。

苺愛が「沙織にいじめられた」とお涙頂戴劇場を始めれば、ぴしぱしと鞭で小枝を弾くように沙織は反論して、苺愛の矛盾を露にする。普通はそこでハイ、おしまいなのだが、そうは行かなかった。

苺愛は女として沙織より上手だった。一枚も二枚も、百枚くらい差があるかもしれない。

女の武器を使って苺愛は男どもを完全に自分の味方にしてしまったのだ。健斗も骨抜き状態。

男4人が苺愛の言うことに大きなリアクションを取って、沙織を糾弾する事件がバスケットコートで起きたのが今日の朝。

健斗の婚約者の立場を守ろうとする沙織は、どこまでも孤独に見えた。

せめて保護者が出てやればいいものを、久遠寺彰はどこへ行ったのか。どういうわけか俺は彼を全く捕まえられなくなっていた。家族には最低限顔を見せてはいるようだけれど居場所が掴めない。絹子も妙だ。妙におどおどして何かに怯えている。

どうしたもんか考えあぐねてコーヒーバー「スター・ギター」へ足を向ける。俺を見つけたエディがすぐにオーダーを取りに来た。何を頼むか迷っていると、エディはミックスナッツを皿に出しながら「知ってる?」と切り出したのだ。

それは「コンバーション」船内で話題になっている2つの噂だった。

罫線枠うえ

1つ目の噂【ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト】

罫線枠した

誰だよ。そんな噂流したの。間違いなく健斗と沙織を含めたピンク頭の一団じゃねえか。

「あのグループさあ、外見も派手だし、声もデカいしさあ。注目集めちゃって、クルーの中で積極的にウォッチしにいく奴が出て来たんだ」

「この船って労働環境超絶ホワイトだったんだな」

仕事しながらだよなんてエディは言うけど、どこまで本当だか。暇すぎてクルーの間で連絡網でも作ってんのかね。ナッツの入った皿を奪い、ペカンナッツを口に入れる。

「ねえ、ジャックはどっち派なの?ピンクの美少女派?それとも黒髪の悪役令嬢?」

「意味わかんねえ単語出てきたな。『アクヤクレイジョー』って何だ」

「うっそ、ジャック知らないの?!本当に日本人?」

急にマリベルが割り込んできた。マリベルと話してた白人の女性も突撃してくる。

「悪役令嬢を知らない日本人がいるなんて信じられないわ。どこかの洞窟にいたのかしら」

くいくいと金縁眼鏡を上げながらヒトを原始人扱いする白人女性。初対面だよな。初対面の女に、こんな言われようされる覚えは…覚えは…多分ない。俺に何らかの因縁はあるとしても名乗るべきだ。血管がビキビキ浮きそうなのを堪えて、ひとまず話をしよう。

「えーと、マリベル。こちらの女性は?」

「クララよ。下の図書ラウンジで司書をしてるの」

ああ、ショーマに700ドルあげたクララね!とは言わずにおいてやる。やせっぽっちのクララはにこりともせずに手を振った。

「それで、悪役令嬢ってどんな意味?」

待ってましたとばかりにマリベルとクララはスゲー早口で悪役令嬢が何たるかを俺にレクチャーしてくれた。

なになに?公爵や侯爵みたいな権力がある金持ちの家の娘で、ヒロインに対して言いがかりをつけてはいじめる役のことを悪役令嬢って呼ぶのか。大体わかった。わかったけれど。

「それは沙織に当てはまらないぞ。沙織は自分にかけられた疑いを晴らしているだけだ。相手に嫉妬したり、権力を笠に着てワガママ言ってるわけじゃない」

「でも、周りからはそう思われてるよ。あのピンクの美少女、声が高くて響くんだよね」

エディは人差し指を立てて耳のあたりでグルグル円を描き、軽く肩をすくめた。

「悪役令嬢の態度も良くないんじゃない?いくら自分が正しくても、それを突きつければ皆分かってくれるかって言えば違うし」

「もっと柔軟性がある方が、ドラマ的にはおもしろいわね」

クララが求めるドラマが何なのかはわからなかったけれど、彼女は沙織の振る舞いの良くないところをいくつか指摘した。俺は口を閉じるしかなかった。まさにその通りだったからだ。

沙織は育ちがいい。両親含め周囲の人間は、きっと沙織を大切に育てたのだ。やさしく諭し、教え、導き。それが結果として、彼女を他人の悪意に疎くさせてしまった。『きちんと話せば解り合える』と信じてしまうほどに。

話し合っても理解できない奴は一生できないし、そんな奴は山ほどいる。だけどそう言ってばかりもいられないから、人と人は時に力技に出てみたり、譲歩したり、相手の出方を窺いながら意見の着地点を探すのだ。その過程で嘘を吐く奴もいる。自分の利益を出そうと狡猾な手段に出る奴もいる。意見の違う人間と清濁併せて相互理解を図ろうとするのがコミュニケーションだ。

これまで本気で自分を害しようとする悪意に遭遇したことがなかった沙織は、悪意に対するコミュニケーションを取れずにいたのだ。

「例えばよ、昨日のメインダイニングであったことなのだけど、ピンク頭の美少女…ヒロインって呼ぼうかしら。美少女かどうか私は微妙だし。話戻すわ、そのピンク頭のヒロインが自分だけカトラリーが少ないって言いだしたの。それで黒髪の悪役令嬢が『カトラリーはもともと席にセッティングされているものだから、係の人にお願いして新しいものを足してもらえばいい』って、側にいたクルーに声をかけた。そしたらヒロインが『ひどい!私が世間知らずだからって、そんな偉そうにお店の方をこき使うなんて!』って騒ぎ出したんですって」

「意味が分からん。どうしてカトラリーが少ないことが、ピンク頭が『世間知らず』だってことに繋がって、クルーを『こき使う』ことになるんだ」

「それがヒロインのストーリーだからよ」

クララは抑揚のない声で話す。

「ヒロインは自分が悪役令嬢と違って庶民的だってアピールをして、男性陣の支持を一気に得たわ。同時に思いやりのある子とも思われたかったのかしらね。とにかく悪役令嬢はテーブルで孤立してしまった。そこで負けないのが彼女よ」

少し離れて聞いていたエディも俺達の輪の中に入ってきた。そろってカウンターで鼻突き合わせている中で、クララは見てきたように続きを話す。

「『では、わたくしがカトラリーを貰ってきます』って言ったの」

あちゃ~~~~~~~

俺、エディ、マリベルは一様に天を仰いだ。

「火に油よ。悪役令嬢がテーブルを離れた途端、ヒロインは『施しを与える気だ』って泣くし、周りの男の子たちはヒロインに同情してちやほやしだすし、彼女がいないからって悪口のオンパレードだったみたい。悪役令嬢が戻ってきたら、男の子たちは彼女を糾弾し始め、結局ディナーどころじゃなくなってクルーにメインダイニングから退出を促された…そこまでが私の知ってる話」

息苦しく気まずい空気がカウンターに満ちた。子どもの拙いケンカには違いないが、後味が悪い。その話、時系列的に俺が花瓶の陰で沙織に檄を飛ばした直後の事だろう。俺のせいでもあるのかなあ。いいや、違う。発端はピンク頭だ。

「実際カトラリーは本当に足りなかったの?」

怪訝な口調のエディを横目に、クララは無表情だけど、どこか面白がるように言った。

「テーブルの下にフォークが一本落ちてたそうよ」

うわあ…のけぞるエディ。

「その話聞いたら、僕は断然悪役令嬢派になるよ。いくら美少女でも性格が悪いのは嫌だ」

「最初から落ちていたか、ピンクのヒロインがわざと落としたのかわからないのに?そうね。結局は好みになるのよ。どっちが正しいとか、あんまり重要じゃないの」

まあ、ダイニング担当のオズワルドは自分が最後に確認した時、カトラリーは全部あったって怒ってるけど。興味なさげにクララは呟き、皿から一番大きいブラジルナッツを摘んで口に放り込んだ。ぼりぼりとナッツの砕かれる音がする中、黙りこくった俺にマリベルが興味津々の目を向けてくる。

「ジャック、ピンクのヒロインと黒髪の悪役令嬢の事、あなた詳しく知ってるんじゃないの~?悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使いの噂、聞いてるんだけどなあ」

「なにそれ!なにそれ!」

すっげえ食いつきのクララ。ほんっとうに暇なんだな、この女。あとで教えてやるから、2つ目の噂の話を聞かせろと促すと、マリベルとクララはジト目で引き下がった。僕から話すねとエディが申し訳なさそうに笑って彼女たちの前に出た。

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2つ目の噂【最下層のインサイド客室に出る幽霊】

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これはまた聞きのまた聞きだから、全然信用できないんだけどねと前置きして、エディはオカルトな噂の全容を教えてくれた。

最下層のインサイド客室に、深夜になると唸り声や小さな喘ぎ声が聞こえてくる部屋があるらしい。別にそれだけならば問題ない。騒音として悩まされているなら訴えればいいし、それでケンカになるならセキュリティスタッフの出番だし。ただ今回の場合、セキュリティスタッフは役には立たなかったとエディは言う。

物音がする部屋は、誰もいないはずの〈死んだ平野星満の部屋〉だからだ。

不慮の事故で亡くなった平野の霊が、まだ部屋に留まっていると誰かが言い出し、噂はあっという間に船中に広まった。

平野が使っていた部屋が何故まだあるのかと問えば、平野の持ち物があるから、彼が使っていた当時のままになっているそうだ。いくら航海中に死んだとはいえ、彼の私物を船側が勝手に処分することはなく、航海が終われば遺族が部屋にあるものを引き取る手はずになっているという。そもそも船のクルーである平野の部屋が客室と同じエリアにあることが不思議なのだが、彼と船の雇用契約の関係上そうせざるを得なかったとか。俺には素行の悪い平野をクルー達のプライベートゾーンから引き剥がしたかったようにしか思えんが。

「誰か部屋の中に入って、原因が何か確かめたのか?」

「うん。僕の友達の知り合いがセキュリティスタッフのヤスダとトツギに訊いたんだけど、クロゼットの中も、シャワールームの中も、何にもなかったって。もともとショーマは持ち物が少なくて、部屋の中はキレイだったって言うから、逆に怖いよねえ」

「そんな部屋、物がねえなら、さっさと片付けちまえよ」

うーん…とエディはマリベルとクララに、ちらっと視線をやった。

「そんなに慌てて片付けることもないか」

「僕もそう思う」

「エディ、喋りすぎて喉乾いた。皆もそうだろうから、コーヒー4つ淹れてくれ。ブレンドでいいか」

「オーケー、ジャック。奢ってくれてありがとう!」

わざとらしい俺達のやりとりなど耳に入らない様子で、マリベルもクララも般若と化している。平野の部屋に入るチャンスがあれば、奴の私物を売り飛ばして貢いだ金を少しでも回収しようと考えているか、私物を手元に置いて最後の思い出にしようとしているか。とにかく邪な考えが頭にあると容易に知れた。

こんな女が他にもいるんだ。下手に平野の部屋に誰かが出入りしようものなら、あちこちで女の戦いが起こりそうだ。被弾する奴も出るかもな。

それにしても幽霊が出るのは、俺が寝泊まりしてるエリアじゃねえか。そんな変な雰囲気してたかなあ。気になって部屋の番号を訊いてみた。うげ、俺の隣の部屋!

今日はセントマーティンに寄港。

ガイドによれば、この小さな島は中央の山脈を境に、フランス領とオランダ領に分かれているそうだ。セントマーティンだけじゃない。このカリブ海に浮かぶ島々は、大航海時代の勢力図そのままに列強各国の領地になっている。

1493年にコロンブスが到達してから、カリブ海の島々にはアフリカ系黒人の奴隷が定住し、先住民は追いやられた。言語も、音楽も、何もかも侵食され、今のカリブ海に先住民の面影を見ることはほとんどない。人類史の暗い一面だ。

ただ、俺は一点だけコロンブスに感謝している。それはカリブ海の自然体系に価値を見出さなかったことだ。もしあの男が15世紀に観光ツアーをカリブ海で行おうなどと考えたら、現在の白い砂浜と青い海の景観は残されていなかっただろう。

この自然の美しさを前にすれば、どんな黄金も霞むだろうに。

いや、黄金は欲しいけどよ。

あんまり閉じこもってばかりも健康に良くないので、少しの間、島に上陸することにした。この陽気じゃコートやジャケットはお呼びじゃない。何かあったとしても、その時考えよう。

タラップをカンカンと降りると、凶暴なまでの日差しがまぶしい。うーん、暑い。長袖着てるの俺くらいだ。船のショップで半袖シャツでも買えばよかった。

炎天下で煮えていたせいか、足元に突進してきた小さなイノシシに気がつくのに遅れた。べちょ、と冷たすぎる不快な感触がして見ると、俺のシャツの腹に蛍光イエロー、ブルーとグリーンのトロピカルフレーバーの花が咲いていた。

ぶつかってきた小さなイノシシは、手にしたアイスクリームが俺のシャツに食われたのを呆然と見ている。ギャン泣きまでカウントダウン…1,2,3

わかった。新しいアイス買ってやるから泣き止めコノヤロウ。小さなイノシシのパパが見つけてくれるまで、二人でアイスを舐めつつアイスクリーム屋の前で待った。

イノシシの親子が去った後、もうべたべたになってしまったシャツを持て余していると、前から見慣れたアイツが歩いてくるのが見えた。今日は下船してたんだな。チャンス到来。

俺が声をかけるより先に向こうの方が気付いたみたい。くるっと回転して反対方向へ逃げようとするから、全力ダッシュで捕獲した。

「アイスでシャツが汚れたのと、俺は全く無関係じゃないか」

ど正論を述べるキリコ。

「まあ、そうだよな。関係ない。だから俺は汚れたシャツを脱いで、捨てていこうと思っているんだ」

人通りの少ない路地で、シャツのボタンをぷつぷつ外す。うわー、下着のシャツにまで染みてたか。まいったな。オーバーに困ったなアピールをすると、キリコはクソデカため息を吐いた。カツアゲ成功。

ディスカウントストアでキリコにTシャツを買わせ、店のバックヤードで着替えさせてもらった。汚れたシャツはサヨウナラ。

「このTシャツやたらでかくて、生地がぺらぺらなんだが」

「文句言うなら、もう一個アイスを腹で食わせてやるが、どうだ?」

「しょうがねえなあ…色は黒だし、それに免じて良しとしとくか」

「こんなにふてぶてしいタカリも珍しい」

ぼやくキリコの横顔は、なんだか顔色が悪かった。アレサンドロの事がこたえているのだろうか。こいつの性格からして黙っているだけのはずがないから、真相を明らかにしようと動き出しているんだろう。それがきっとまだ解決できていないのだ。

俺も15億と沙織の事が上手くいってねえし…なんてもやもやしてたら、急にキリコが立ち止まった。

「シャツ買ってやったよな」

「お、おう」

「対価に久遠寺彰に会わせてくれ」

「はあ?!どうしてだ。久遠寺家にお前さんの世話になりそうな人間はいないぞ」

「いないだろうな。俺の個人的な興味からだ。もっと言うと〈黒髪の悪役令嬢〉にも会いたい」

ぐええ…こいつ絶対知ってるやつだ…

「頼むぜ、〈悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使い〉殿よ」

にやにやするキリコはすっかりいつもの通りだった。ちょっと気遣った数分前の俺に謝れ!

割に合わない価値になってしまったシャツの裾をぴらぴらさせながら追いかけると、キリコはするりと駆けていく。いい齢こいたおっさん二人で、南国なのにヨーロッパ調の街並みを追いかけっこした。

あほくさくて、最高にスッキリした。

My fair villainous lady④

第4章

死んだら人間はどうなるか。死体になる。

その後はどうなるか。しかるべき手順で埋葬されるべきだ。

埋葬は残された者のためのセレモニー。同時に死んだ人間に対するリスペクト。

俺はそのリスペクトには敬意を払う。

だから俺は間違っても「遺体を海の藻屑にされる」ために仕事をしたわけではないのだ。

アレサンドロの腕と一緒に見つかったジャケットの持ち主、平野星満はいったい何者なのか。

それを知るであろう船内のクルーに彼の人柄や素行について聞いて回った。

聞き込みをした結果、彼はよくいるクズの一種に分類されるとわかった。女性陣は態のいい寄生先にされていて、金を貢がされたり、肉体関係を築いたり、都合よく利用されていたようだ。それが5人を超えた段階で、この船大丈夫かと若干心配になった。

男性陣からは興味深い事実が聞けた。平野の訃報が載った船内新聞は、船長のゴーサインが出る前のフライング記事だったという。

どうも新聞部に平野へ個人的な恨みを持っている人間がいたらしく、上がった遺体が平野らしいと耳にした瞬間、腹いせとばかりに記事にして載せてしまったらしい。道理で記事が早すぎると思ったんだ。こんな嫌がらせをされるほど、平野は一部のクルーから疎まれていたのか。原因は彼の素行にあるので、俺から言うことはない。

金遣いの荒い、女好きの酒浸りピアニスト。平野星満の評価は以上だ。

「ショーマのピアノは嫉妬の音がするヨ」

一日の終わりに立ち寄ったカウンターバー「ゴールデン・パス」

マスターの東南アジア系の男性は訛りのある英語でそう言った。

「嫉妬の音って、どんなふうなんだい。俺は音楽に詳しくないから教えてくれよ」

慣れた手つきでリキュールをメジャーカップに注ぎ、シェーカーを手にして彼は続けた。

「ワタシ、6つの頃からピアノやってた。だからわかる。コンクールに出て、勝てないライバルがいたとき、あんな音出してタ」

キンキン・カンカンとピアノの音を口真似して、シェイカーを振る。

「それはとても聞けたものじゃないな」

シャムロックが俺の前に出される。

「そうネ。でもそれわかるの少しだけ。ミンナ、ショーマのピアノを褒めるよ。ショーマはそれしか取り柄がないから」

あとは甘いマスク!とマスターは自分の顔を指さした。それがやけにチャーミングだったので、気分が少しほぐれた。シャムロックの次にもう一杯頼もうか。

平野星満が勝てなかった相手は誰なんだろう。船でピアニストをしていても、皆から褒められても満たされない承認欲求。余程ライバルに執着していたはずだ。そんなに重い感情を向けられるのは、たまったもんじゃないなとシャムロックを飲み干した。

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でっかいくしゃみをして飛び起きた。

インサイド客室じゃ、いつ朝日が昇ったかなんてわからねえ。おまけに昨夜は隣の部屋でカップルが盛ってたらしく、夜更けまでアンアン聞かされて散々だった。

部屋に長居する気にならず、適当に顔を洗って廊下に出る。コートもジャケットも置いていこう。身軽になってデッキに上がると、得も言われぬ景色が俺を迎えてくれた。

まばゆい朝日がミルク色の空を染める。あたたかな太陽の色。きらめく海の穏やかさ。間違いなく俺は生きていることを感じる。

デッキには似たような人が何人もいて、隣の老夫婦は多幸感に満ちた表情で寄り添う。朝日に向かって何度もシャッターを切っている若者。それぞれにリラックスした様子で、美しい時間を過ごしている。しばらくの間、俺は思う存分朝焼けの空に見惚れていた。

すっかりいい気分になった俺は、そのままの足で朝食をとろうとビュッフェへ向かう。

あ!今日は和食がある!

〈本日の朝食メニュー〉

・白米(インディカ)

・豆腐の味噌汁

・茄子のしぎ焼き

・鮭のレモン焼き

・水菜のサラダ

鮭の塩焼きが食いたかった…少々がっかりはしたが、久しぶりの白米に心が躍る。どこに座ろうか、ぐるりと見回すと、2人掛けのテラス席に1席空いているのを発見した。突撃してやれ。

きれいな箸遣いで食事をするキリコの前にトレイを置いた。

「いい朝だな。相席、構わねえよな」

キリコは眼を剥いたが、やがてそっと瞼を伏せて「平野のライバルの気持ちが分かる」とかぼやいた。何のことだ?

午前8時「コンバーション」はバミューダへ寄港する。今日の昼間はここに停泊。ゲストたちは船から下りて、バミューダで思う存分観光する。たっぷり楽しんだら船は18時に出航。この時間は厳守。18時までに船に乗っていないと置いていかれるそうだ。遅刻なんてもってのほか。普段のサービスの良さから、もっとおおらかなのかと思っていたら、非常にシビアで驚いた。

沙織はタクシーツアーに参加すると、昨日のウェルカムパーティの面子で出かけて行った。タクシーツアーとは耳慣れないが、エディに訊くとバミューダは道路が狭くバスでは移動ができないため、タクシーと称したミニバンで観光地を回るツアーがあるのだとか。もちろん一人ひとり参加費用は掛かる。安い金額では無かろうに、高校生でツアーに参加できる連中は贅沢だねえ。

さてと、さっさと今日中に手術費用の支払いしてもらわねえとな。まずは館内アナウンスで脅しをかけてやるかと、コンシェルジュデスクに向かう途中、久遠寺彰の妻、絹子を見かけた。おお、チャンスだ!

絹子に声をかけると沙織を見送った帰りだと言う。相変わらずのおっとりとした口調だが、何やら複雑な表情をしている。言いたいことがありそうな雰囲気。いいさ、手術費取り立てへの苦情でもなんでも今の状況が変わるなら構わない。絹子をオープンカフェへ誘い、話をすることにした。

頼んだダージリンがテーブルに置かれても、絹子は口を閉じたまま。会話を切り出すチャンスを待っているというよりか、自分が話す内容の精査をしている。それじゃあ無駄話でもしようかと、昨日のパーティでの出来事を話した。

絹子はまず沙織の手当てをしてくれたことに礼を言ったが、娘が故意に背中を押されたことにショックを隠せないでいた。

「そんな…背中を押されたなんて、私には言いませんでした」

「心配かけたくなかったんですかね。まあ、今日も一緒にツアーに行ってるわけですし、何もないといいですが。ところで彼らは誰なんです?こんな豪華客船に高校生だけで来ているなんて、少し目立ちますな」

「あの子たちは、健斗さんのお友達です。高薄さんが保護者の代理として、あの子たちの旅費を出していると聞きました。なんでも健斗さんが『自分たちの婚約の立会人になってもらうため』とお願いしたとか…かわいらしいと言うか…」

絹子は少しだけ苦笑して、紅茶にそっと角砂糖を入れた。

「そうそう赤い髪の子が小網さん、背の小さな子が飛田さん、眼鏡をかけた子が守さん…もう一人、かわいらしい女の子が苺愛さんというお名前なのですって。昨夜、沙織が教えてくれましたの。」

とても嬉しそうに話してくれたのに…と絹子はティーカップに口をつける。

「昨夜はたくさんお嬢さんとお話ししたんですね。あの年頃になると、親と距離を置きたがるっていうけれど、そちらは当てはまらないみたいだ」

「……昨日は沙織の部屋で寝ましたから…」

おっと、聞いちゃいけねえ夫婦の話か。訊くけどな。

「環境が変わると夫婦でも緊張しますか」

意地の悪い質問に絹子は少し頬を染めた。そしてしばらく言いにくそうに、ティーカップを上げたり下げたりした後、重い口を開いた。

「…夫が…彰さんが、いつもと違って…あまりに激しいので…怖くなって……沙織の部屋に逃げました…」

自分で聞いといて何だけど、知りたくねえなあ。夫婦の夜の事情ってのは。いつもはどうなんだとか、いらん想像が始まってしまう。その後、男はいつもと違うベッドだと興奮するのかとか、海の上だと開放的になるのかとか、医学的なエビデンスはないかとか、おっとりとした口調で尋ねられた。絹子にとって俺と話したい本題はこっちのようだった。さっきやたらもじもじしてたのはこれのせいか。俺は医者っぽく適当な返事をして、早々に席を立った。お前さんの旦那の性癖は知らん。

しまった。15億の話するの忘れた。

オープンカフェを乾いた偏西風が通り抜けていった。

結局絹子も朝食をとった後の彰の居場所は知らないと言うので、俺は気分転換も含めてランドリールームに来ている。たまった洗濯物を備え付けの洗濯機で洗うのだ。

すでにほとんどの洗濯機はうまっていて、赤いタイマーのデジタル表示ばかりが並んでいる。ようやく一番端の洗濯機が空いているのを見つけ、下着や靴下をドラムの中に入れていく。ついでだから今着ているやつも洗おうかな。

誰もいないことを確認し、素早くカッターシャツのボタンを外して、中に着ていた半袖のシャツを脱ぐ。それを洗濯機の中に突っ込んで、スイッチ押して、カッターシャツを…

ランドリールームの入り口に手提げ袋を持ったキリコがいた。

いたっつーか、立ち尽くしてるっつーか。

「全部見てたか?」

「…見た」

上半身裸のままシャツを握りしめる俺。キリコの目が…えーと…その、怖い。

「人前で脱ぐなって言ったよな」

「今は人がいないの、ちゃんと確認した!」

「俺に見つかってる。他の人間だった可能性は大きい」

言い返したいけどできない。こいつが怒る理由は真っ当なものだから。あの時は仕方なかったんだ。

ちょっと前に、なかなか手術に踏み切らない患者の説得に俺の体の縫合痕を見せたら、患者の親父が欲情して襲い掛かってきた事故があった。それが裏街道の情報網を巡り巡ってキリコの耳に入ってしまい、それ以来キリコは俺が人目の付きそうな所で脱ぐのを嫌がる。だからって俺が自分のやり方を変えたりはしないって分かってるだろうに、ヒトを露出狂みたいに扱うのはやめろよな。俺だって襲われたいから脱いでるわけじゃない。

「俺の体見て欲情する変態は、あのオヤジくらいだから、極めてレアケースだ。お前が構うことじゃねえよ」

キリコは黙って俺を見てる。また、地雷踏んだか?俺…

「じゃあ、俺も変態か」

キリコはタイマーが止まった自分の洗濯機を開けると、手提げ袋にばさばさと洗濯物を突っ込み、ランドリールームから出ていった。

「なんなんだよ…あいつ…」

もぞもぞとシャツを着つつ、自分がとんでもないことを口走ったのに気がついた。

訂正しようと廊下に飛び出たけど、当然のようにキリコの姿はなかった。

脱力して歩いていると、前から賑やかな一団がやってくる。ツアーから帰ってきたゲストたちだ。「ヘイドン・トラスト・チャペル」は雰囲気が良かったとか「ギブスヒル・ライトハウス」からの眺めは最高だったとか、口々に感想を言い合って興奮してる。

そんな中に、あいつらもいた。健斗たちだ。

…おい、どうなってる。

どうして健斗の腕にピンク頭の腕が巻き付いてるんだ。

周りの連中もピンク頭を囲むように、きゃらきゃらと騒いで喧しい。

その輪からはじき出された沙織は、うつむき加減で後ろを歩いてる。

俺に気がついたガキどもの視線に構ってる場合じゃない。見ていられない様の沙織の手を引いて、人目の少ないラウンジの花瓶の陰に連れて行った。

なにがあったか聞くと、沙織はなにもないと言い張ったが、絹子が心配していることを告げると「お母さまには内緒にしてください」とツアーであった出来事を、ぽつりぽつりと話し出した。

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健斗と沙織を含む6人は、タクシーツアーのミニバンに揃って乗車し、景色を楽しんでいた。とは言え、昨日会ったばかりの健斗の友人たち男子高校生3人と沙織は、お互いの距離を測りながら、僅かに緊張していた。男子高校生3人は健斗の婚約者と言う立場の沙織に、どう接すればいいのか分からなかったようだ。一方沙織は今まで女子ばかりの学校に通っていたため、健斗以外の同じ年頃の男子と話す機会がなく、共通の話題が見つけられずにいた。

そんな初心な緊張感を、苺愛という少女は天真爛漫ともいえる行動で壊していった。

「小網君さあ、かなり筋肉ついてるよねー。ねえ、腕さわっていい?うわー!かったーい!すごーい!」

「るあっていう名前なんだ。飛田君って。ううん!そんなことないよー。あたしだって苺愛(いちあ)って変わった読み方する名前だし!いっしょだねっ」

「すごーい、どうしてそんなに物知りなの?もっといろんなこと教えてよー。そうだ、もうみんな仲良くなったしあだ名で呼ぼうよー。守くんの事、もりもりって呼んでいい?」

あっという間に男子高校生3人は苺愛にばかり話しかけるようになった。沙織はそれを少し寂しく思ったが、同じく輪に入っていない健斗と話をすればよいと、ミニバンの隣の席に座っている彼の方を見た。

健斗の眼差しは、苺愛にそそがれていた。

それは幼いころから見てきた健斗のどの表情とも違って。

「ねえ、健斗ぉ、次はどこにいくの?」

無邪気に笑いかける苺愛に健斗も笑いかける。どうして彼女は婚約者を呼び捨てにするのだろうと自然な疑問が起こったが、とりあえず今は自分も笑った方がいいのかと、沙織は微笑を作ってみた。一瞬苺愛に睨まれた気がしたが、それは自意識過剰だろうと心に収めた。

トラブルが起きたのはホースシュー・ベイの砂浜だった。ピンク色をした砂のビーチを眺めていた沙織のところへ苺愛がやって来た。

「きれいな砂浜だね~あたしの髪の色とそっくり~」

明るく話しかけられて、沙織はほっとして笑顔になれた。にこにこしながら苺愛は続ける。

「健斗ってカッコイイよねえ。モデルやってるだけあって、スタイルいいし、趣味いいし~。あたしと考えかた似てるところもあって、話しやすいんだよね~。すっごく気が合うって言うかあ…あっ、沙織さんが婚約者なのは知ってるよ」

知ってはいるのか。それならそれで余計に問題がある気がする。

「家同士が決めた婚約なんでしょう?健斗から聞いたよ~」

そんなことまで話しているのかと、沙織は曖昧に頷いた。

「でも健斗はそのこと納得してるのかな…だってあんなに…」

苺愛は急に口を噤み、沙織に背中を見せる。

「あんなに、なんです?」

意味深な言葉に沙織は首を傾げる。その雰囲気を誤魔化したかったのか、作為的なものなのか、ぱっと振り返った苺愛は話題を変える。

「ううん!なんでもない~。あ、そうそう、私がつけてるペンダントなんだけど、ダイヤがとってもかわいいでしょ!でも最近留め具が壊れかけてるみたいで…沙織さん見てくれる?」

是か非か沙織が答える間もなく、苺愛は沙織の手に自分のペンダントを乗せた。そして叫んだのである。

「ひどい!そのペンダントはママがプレゼントしてくれた、大事なものなの!返して!」

沙織は状況が掴めなかった。代わりに拡大解釈したのは男子高校生3人だ。

いつの間にか苺愛のペンダントを沙織が「無理矢理奪い」安物だ、不釣り合いだなどと「罵り」、苺愛を「いじめた」ことになってしまったのだ。

男子高校生から、しかも複数人から睨まれ、これまでそんな体験をしたことがない沙織はすっかり委縮して、何も言えなくなってしまった。

それを見ていた健斗が苺愛の肩を抱いて、クルーズ船に戻ったら船のショップで新しいペンダントを買ってやると言い出し、苺愛は見ていて「早くイエスと言え」と促したくなるほどに遠慮した挙句、健斗からペンダントを買ってもらう約束をした。

帰り道のミニバンで、健斗の横には苺愛が座っていた。

沙織の横には誰も座らなかった。

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「もりもりはねえな…」

話し終えた沙織はうつむいたまま。それがカチンと来ちまった。

「おい、沙織お嬢さんよ。お前さん、今日の一番の失敗が何かわかるか」

そっと顔を上げた沙織の目じりは赤くなっている。きっと頭の中で細かく思い出しては、あれもこれも皆失敗だなんて考えてるんだろう。沙織が口を開く前に、答えをぴしゃりと叩きつける。

「ペンダント盗られたって騒がれたときに、黙ってた事だよ。事実と違うなら徹底的に反論しやがれ。言われるままになっちまってどうするよ」

「反論……」

ひょっとして口喧嘩をしたことないとか言い出さないよな。お嬢様に分かりやすいように言い換える。

「ガッコでディベートやったことあるだろ。あれと同じだ」

「ああ!ありますわ。一度大会に出ました…でも少し苦手です…」

「苦手もヘチマもあったもんかい。自分の立場きちんと考えろ」

ぐいぐい迫る俺に沙織は顔を引きつらせる。すまんが、状況が変わりつつある。その要になるのはお前さんだ。

「もし健斗が苺愛にかまけて、お前さんと関係が悪くなったら?」

「…婚約解消があるかもしれませんわ。もう健斗さんと苺愛さんは、かなり親しい様子でしたもの」

「最悪、そうなったとしてだ。お前の家はどうなる。高薄からの援助がないとやっていけないらしいじゃないか。お前さんと健斗の仲が破綻すれば、久遠寺コンツェルンは終りなんだよ」

「そんな…」

後退りする沙織の背中に、花瓶から枝垂れた凌霄花がふれる。

「怖がらせたいわけじゃねえ。ただお前さんたちの婚約は、大人側の事情もかなりあるんだ。好いた惚れたの話で済むレベルじゃあない」

「それは…わかります。健斗さんとの婚約は、お互いの家の利益のためだと…言葉にはしませんでしたが、健斗さんも私も同じ気持ちでした」

うつむく白い頬にさらさらと黒髪の房が落ちる。

「…ですが、会社の状況は知りませんでした。お父様は家でお仕事の話をほとんどなさいませんから、てっきり今までと変わらないものだとばかり」

おっとり夫婦に育てられりゃこうなるよな。だがもう高校生。教えられなくても家業について分かっていていい事もあるんだぞ。

「状況が分かったところで訊くぞ。お嬢さん、健斗が完全にお前さんから離れたらゲームオーバーだ。これからの時間をどう使う。部屋でめそめそやりたいなら止めないがね」

突き放すように告げると沙織の顔つきが変わる。友達から仲間外れにされた女子高生から、大企業の社長令嬢に。気弱な少女から、薙刀で鍛えた凛とした精神を持つ乙女へ。

「しっかりしないといけませんわね。このくらいのことで、ええ、情けない」

きりっとしたイイ顔してるじゃないか。頼むぞ、俺の15億円のためにも。

My fair villainous lady③

第3章

昨晩、沙織とクルーズ船の中を見て回った帰り道、ひとりの女の子と出会った。

つやつやのミディアムボブをピンクベージュに染めた子。ふわふわのワンピースから伸びる手も脚も細くて、まるで妖精みたいだった。

モデルの仕事をしている時だって、ここまでスタイルのいい子に出会ったことはなかったから、気になって見つめてしまった。その子は俺の視線に気がついたのか、ひらひら手を振ってくれた。

ガツガツしてる奴みたいに見えたら嫌だな。それでもちょっと喋ってみてもいいかなって、さりげなく彼女に近付いた。

間近で彼女の目を見た瞬間、俺は全身にビリビリ”何か”が走った。こんな感覚、沙織と一緒の時も、他の子と一緒の時も感じたことがない。

大きな瞳はキラキラしてて、吸い込まれそう。長いまつ毛はエクステだろうけど、お化粧の上手な子はキライじゃない。だってちゃんとキレイになろうってがんばってる証拠だろう?ほんのり赤いリップはぷるんとしたゼリーみたい。

かわいい。こんなかわいい子、会ったことない…

「ね、ねえ…君の名前、教えてくれない?」

のどがカラカラだ。心臓がドキドキ止まらない。

「あたし、苺愛といいます」

「いちあ…さん」

「苺愛でいいです。アナタは?」

「高薄健斗。俺も健斗でいいよ」

「わかりました。よろしくです。け…健斗」

はにかむように俺を上目遣いで見て、ちょっと噛んじゃってるけど名前を呼んでくれた。それがたまらなくカワイイ。

「あたし一人でこのクルーズに来ることになっちゃって、知ってる人が誰もいないし、不安だったんです。もしよかったらクルーズの間仲良くしてくれますか?」

「もちろん。途中でツアーに参加するつもりなんだ。苺愛もどう?」

「うれしいっ!いいんですか?行きたいです!」

輝くような彼女の笑顔。俺が守らなきゃって思ったんだ。

わかった。

これ、運命だ。

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「さっさと小切手書いてくれねえか」

鈴井から解放された後、俺は久遠寺彰を探しまくった。

冗談じゃねえ。「何か起きたとき、頼りにしてる」?!そんな台詞はセキュリティスタッフかお巡りさんに言え。キリコの仕事の尻ぬぐいなんか真っ平御免。明日のバミューダで俺は絶対に下船する。

つーわけで、やっと見つけた彰は7階ラウンジのデッキチェアにサングラスかけてのんびり座ってたから、非常にイラっと来て、ギリギリ睨みつけながら金の請求をした。

「早いところ金を払ってほしい」

「え…っと、何の話だ…?」

「ふざけんな!手術費だって言ってるだろうが!15億さっさと払えよ!」

「やめないか。周りの人が見ている」

おっとりがついにボケたのかと思いきや、急な塩対応。どうした、やっぱり会社の経営上手く行ってないのか。

彰は少しはだけたシャツのボタンを留めながら、いつものおっとり顔を取り戻した。

「手術費は払う。安心してくれ。ただここは海の上だろう?すぐに換金できるわけでもないし、焦らないでいいんじゃないかな」

焦るんだよ、こっちは!バッチバチに嫌な予感センサーが仕事してんだ。ケツまくって逃げる準備してんだよ!とはいえ、さっきの塩モードになられては話が進まない。

「じゃあせめて念書を書いてくれ。サインがあればいい」

「どうしてもかい?」

「どうしても」

「信用ないなあ」

乙女のようにいじいじとデッキチェアのブランケットを触るおっさんに、どう信用度を高めろというのだろうか。再び罵声が飛び出てきそうな口を噤んでいたら、目の前に可憐な花が一輪。

「お父様、明日バミューダのタクシーツアーに行かないかって、健斗さんからお誘いを受けたんです。行ってきてもよろしいでしょうか…」

控えめに彰に声をかけたのは沙織だ。

「沙織…健斗君と二人きりは、さすがにまだ良いと言えないな」

「いいえ、健斗さんと同じ生徒会のお友達が一緒なんです。昨日健斗さんが船で知り合った女性もいらっしゃるそうで、新しいお友達が増えるかもしれません!」

「友達が増えるのは良いことだね。気をつけて行っておいで」

「はい。行ってまいります」

屈託のない笑顔を見せて、沙織は太陽のまぶしいプールサイドへ向かう。彼女の視線の先で手を振っているのは、きっと健斗だろう。

俺は令嬢と呼べる人間を数人知ってはいるけれど、沙織は群を抜いて別格。振る舞いから言葉遣いから、全部雲上人。本人は素でやってるから、嫌味なところがない。眉目秀麗、頭脳明晰な完全無欠の社長令嬢だ。世間知らずでお人好しなのも含めてだけど、俺が言うことじゃないな。

沙織の後姿を目で追っている僅かな隙に、彰は消えてしまっていた。

逃げられた。

コーヒーバー「スター・ギター」で一服。相変わらず空いてる。

ああやだ。なんもかんも嫌な方向に向かってる気がする。金はもらえない、タダ働きさせられる、そんな状況最悪以外の何物でもない。

「ジャック、疲れてる?」

エディがコーヒーを淹れてくれた。ココナッツクッキー付きで。

「嫌な予感がして、バタバタやってるだけさ。コーヒー、馳走になるぜ」

「予感ね。そういうのは口にしない方が良いって言うよね」

苦笑いのエディの横から、赤い大地の肌をした黒い瞳の女性が顔を出した。

「また私の話をするの?エディ、マネジメントを頼んだ覚えはないわよ」

「話の流れだよ。君があの話をまたしたいなら止めないさ。何度でも言いたいってわめいてたから、ちょこっと僕の脳細胞の隅っこに残ってたってだけ」

「…そう言いたくもなる私の気持ちは分かるでしょ。さっきは銀髪の紳士が尋ねて来たから答えただけ。お客様でも誰彼言うつもりはないの」

「詳しく聞こうじゃないか」

会話に割り込んだ俺の顔を見て戸惑う二人。そうだろうな。自分でもわかる。俺今すっげえイラついた顔してるって。

こういう場には潤滑剤が必要。

「腹減ったな。なんか片手で食えるもんある?えーと、そちらの女性」

「マリベルと言います。サンドイッチかピンチョスはいかがです?」

「いいな、ピンチョスを頼むよ。マリベル」

彼女の手に大盛りのチップ。眼を剥くマリベル。黒曜石の瞳が零れそう。やがて彼女はにっこりと極上の微笑を見せ、大きなヒップを揺らして厨房へ入っていく。その後姿を確認してから、エディにも小銭を握らせる。

「てめえ、いい性格してんな。気に入ったぜ。おもしろい話があったら教えてくれよ」

「ジャックはきっとアクティビティより、人と関わる方が性に合ってる気がしたから。期待に応えられてうれしいよ」

いたずらが成功したように笑うエディの頭を軽く小突いて、俺の驕りで二人分のコーヒーを淹れてくれるように頼んだ。

そうして幾らか出費をして俺が聞き出した話は、9割がた愚痴だった。

「つまり、マリベル、お前さんは死んだ平野の恋人だったってことでいいのか?」

「違うわ。向こうが勝手に恋人だって言ってるだけ。他のクルーにも粉かけてるの知ってるもの。恋人って言っておけば、彼には都合のいいことしかないし」

一度ディナーを一緒に食べただけで恋人認定されるなんて冗談じゃないとマリベルは鼻を鳴らす。だけど案外まんざらでもなさそう。

「ショーマは女を財布だと思ってる」

「ピアノと顔はいいけど、性格最悪」

「酒、ピアノ、酒の生活リズム」

「スパ担当のグアダルーペはショーマに460ドル取られて、図書ラウンジ司書のクララは700ドルあげた。私は890ドルも取られて、もうそれが戻ってこないなんて悪夢」

これでもかと悪口を聞かされたが、おかげで平野星満の人柄が分かってきた。あいつ、根っからのヒモだ。ピアノを弾きつつ女の金で酒飲んで、たまにやさしくしてやれば相手が転ぶコツを知ってる。実際マリベルは文句たれながら目が潤んでるし、同じような女は船の中にまだいるんだろう。

「あんな奴だったし、いつか船から突き飛ばされて死んじゃうんじゃないかって予感があったの。グアダルーペとそんな話、何度もしてたし。でも、でも、本当に死んじゃうとは思わないじゃない」

自己憐憫でいっぱいなマリベルを、エディは心底引いた眼で見ている。

「この話は、銀髪野郎に話したのか?」

俺が聞きたいのは、そこ。

「ええ、全部」

つまらんな。もう一押しほしい。

「マリベル、もう少し濃くて熱いコーヒーが飲みたい。俺のオーダーに応えられたら、そのコーヒーには5倍のチップを渡すけど、できるか?」

「…濃くて、熱いのね…他にオーダーは?お客様」

女豹を思わせる強い視線。いいね、お前さんもおもしろい。黒曜石の瞳をガッチリ捉えて、わざといやらしく笑う。

「身体的特徴…が知りたいかな」

カウンターのエスプレッソマシンがスチームを吹き出し、マリベルが真剣に俺のためのコーヒーを淹れている。作業をしながらマリベルは必死に答えを見つけようと考えているだろう。それだけチップはクルーにとって魅力なのだ。

エディと初日に話していて知ったのだが、彼らの月給は極めて低い。そのままの金額じゃ生活はとても成り立たないくらいに。だからクルー達は、お客のチップで生計を立てている。相場もまちまち、チップを渡す文化がない国のお客だっている。サービスが悪いだの言いがかりをつけられてチップがもらえない事だってある。もらえないリスクを限りなく少なくするように、常にベストな仕事を心がけているそうだ。

日本人でケチな俺はチップの重要性をイマイチわかってはいなかったが、働いているクルー達にとって、チップは死活問題だということはハッキリ理解した。

アッツアツの真っ黒なコーヒーが俺の前に出された。

ソーサーに手を添えて、マリベルは俺のオーダーに応える。

「ショーマは左でも右でも字が書けるわ。ピアニストだから当然だって言ってたけど」

弱い。俺はソーサーから手を離す。

「待って、待って。うなじ、そうよ、うなじにほくろがあるの。3つ並んだオリオンみたいにセクシーなほくろよ!」

「……お前さん、平野星満と1回ディナー食っただけなんだろう?」

マリベルはちっぽけなプライドと引き換えに、コーヒー5杯分のチップを手に入れた。

流麗なドレープの幕と大きなリボンで飾られたメインホール。

スカイブルーから紫、ピンクへとグラデーションを作る照明が、ドレスアップして集うゲストたちを染める。

クリスタルのシャンデリアが乱反射させた小さな光の粒たちは、きらりきらりとホール全体に散らばり、ワイングラスに留まったり、胸元の宝石を輝かせたり。

大きなガラス張りのエレベータータワーを背中に、船長の藤村が乾杯の声を上げた。

豪華客船「コンバーション」のウェルカムパーティの始まりだ。

俺はどうしても今夜中に久遠寺彰の言質が取りたくて、ドレスだのダークスーツの中だのに紛れて、彼を探している。もうひとつ豪華なタダ飯を食らうという重要な用事もあるけど。ビュッフェを回りながら会場をぐるりとしてみたが、どうしても見つからない。来ていないのか?

海老をもぐもぐしていたら、沙織を発見!彰は?側にいるはずだ。

彰の代わりに沙織の横にいたのは、ピンク色の髪をした少女だった。

なんだ…彰じゃないのか…

気分が曇った。どうしてピンクなんだ。あんな髪の色に染める意味あんのか。よく見りゃ他の連中も大概だった。ピンク頭の横にいる筋肉質の男は赤く毛を染めてるし、その前にいる小さい奴は藁半紙みたいな色の毛だ。眼鏡かけた奴は黒髪だけど、変な長さの前髪してるし…いけねえ、俺がそんなこと言えた立場じゃねえや。

沙織が言ってた「健斗と同じ生徒会のオトモダチ」ってのは、彼らの事みたいだ。

しばらくここで張ってたら彰が来るかもしれないな。待ち伏せがてらオトモダチグループを観察することにしよう。

グループの男3人は、フォーマルなパーティが初めてらしい。どぎまぎして緊張してる。貸衣装か知らないが、気慣れないスーツが尚更田舎くさく見えてしまう。沙織は彼らに話しかけたり、飲み物を勧めたり、場になじめるよう自然にエスコートしてる。さすが社長令嬢。堂々としてる。着ている服から違うもんな。今夜の沙織は真っ白な膝丈のドレスに淡い黄色のストールを着けてる。きちんとドレスを着こなして背筋を伸ばすさまは、もう女子高生には見えないくらい大人びて見えた。となりのピンク頭のドレスなんか眼に入らない。

さあ、沙織。早く彰を召喚してくれ。お前にかかってるんだ。俺がタダ働きの憂き目にあうが否かは、お前に___________

健斗が遅れてグループにやって来た。その時だ。

ピンク頭が沙織の背中を押したのだ。

床に倒れ込む沙織。手にしていたグラスが割れる。

男どもはぼんやりしていて動かない。あのアマ、死角でやりやがった。

ぽたぽたと血が滴るのを見て、駆け寄った。

「手を見せな。ガラスで切ったんだろう」

「……は」

ショックで受け答えもままならない沙織を、なかば無理矢理立たせて診る。薬指はパックリ切れていた。縫うほどではなかったのが幸いか。清潔な布で圧迫止血させている間、俺は一応聞いてみることにした。

「おい、そこのピンク色の頭したお嬢ちゃん。あんただよ」

ピンク頭は無表情。その後ろで健斗を含めた男どもが突っ立ってる。

「あんた、どうしてこの子の背中を押したんだ。怪我までさせるのはやりすぎだと思うぜ」

俺の指摘を最後まで聞かず、ピンク頭は火がついたように喚きだした。

「ひ、ひどい!あたし、そんなことしてません!どうしてそんなひどいこと言うんですか?!あたしたち今日初めて友達になったのに、わざとケンカさせたいんですか?!」

涙まで流してヒステリックに「ひどい」と繰り返す。いや、被害者はお前じゃないからな。論点のすり替え180度は男どもに刺さったらしく、ピンク頭に寄り添うようにして俺を睨んでくる。へえ、ひよっこどもにメンチ切られんのか。おもしれえ。

「沙織!来い!」

健斗が俺の背中をすり抜けて、沙織の手を取り人混みの向こうへ駆けていく。あーあ。患者がいなけりゃ医者は用なし。ガキどもはまだ俺を睨んでいるが、落とし前を着けさせることさえできん奴に関わる時間があほくさい。

そのままパーティ会場を出てしまったのだが、しまったな。もっとメシ食っとくべきだった。

「よお、ヒーロー。カッコよかったぜ」

プールサイドデッキでタバコを吸っていると、キリコがやって来た。

「だろ?どうせいい物笑いの種ができたとか思ってるくせに、よく言うぜ」

「意外とハマってた。今度白いコートでやってみたらどう?今度こそ『ごめんなさい、私がやりました』って言うかもよ?」

言うわけねえよ。あの手のガキが。

「まあね、言ったところで、そのころのお前には手遅れだって予想しかつかないな。お前多分、今の手加減が限界なんじゃないの。小僧どもを裏街道の連中と同じように扱ってやるなよ」

キリコは半分呆れながら、俺にチキンレッグが乗った皿を勧める。わかってると言う代わりに、チキンレッグを鷲掴みにして齧り付いた。

「ガキの世界はガキなりに地獄なのさ。あいつらで何とかすればいい。手術費の取りたてさえうまくいけば、俺はすぐにこの船を降りるぜ。関わってる時間なんかないね」

デッキの欄干に背を預けチキンを頬張る俺の横で、キリコは真っ黒の海原を見つめたまま。

「俺はアレサンドロの事を、はっきりさせてから船を降りるよ」

黙りこくった時間が過ぎる。

波音、船のエンジン音、遠くに聞こえる陽気な音楽。

しょうがねえから聞いてみた。

「お前さん、かなり怒ってたりする?」

キリコの銀髪が強い海風に乱される。夜闇の中で、そこだけ白く燃えてるみたいだった。

「…くくっ」

一度漏れ出た声は止まらない。キリコは海に向かって、大きく笑い声を立てた。

滅多にない音量で笑った。それこそトラックにはねられた母子の訃報を聞いたときみたいに。

ひとしきり笑って、キリコは海を見つめたまま。

「怒ってる。すごく怒ってるよ。困ったな」

ひとっつも困っていない、覚悟が決まりきった人間の語調で言ったのだった。

My fair villainous lady②

第2章

最下層のインサイド客室。

船のエンジンの音は響くし、上の階よりも揺れる。なにより外の景色を見る窓がない。当然だ。船の内側にある格安の部屋なのだから。

このクルーズ船「コンバーション」は他の船がそうであるように、外の海原を見渡せる窓がついた部屋を船体の左右に備えている。そして窓がない代わりに、料金を低く設定した部屋が「川」の字の真ん中の画のように並んでいる。その真ん中の部分をインサイド客室と呼ぶそうだ。そのままの意味だが、俺は初めて知った。

このエリアはカジュアル層がクルーズを楽しむために利用することが多く、金持ちとはお世辞にも言い難い印象のゲストが集う。だからアウトロー感満載の闇医者の俺が陣取っても、違和感は少なかっただろう。

俺は金額だけで部屋を決めたことを後悔はしていなかったが、満足はしていなかった。アイボリーの壁と金のラインは高級感があって、同系色のやわらかいベッドはスプリングの感触も文句なし、テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。しかしだ。俺には決して譲れない物が、その部屋には欠けていた。バスタブがないのである。

バスルームを覗いて、その事実を知った俺は黙ってタバコに火をつけて、これから10日も続く航海の日々に思いを馳せた。

それに比べりゃ、薄い壁を突き抜ける、部屋の外で走り回る子どもの声、隣の部屋から聞こえる大きなくしゃみだって、大したことない。

ああ、上手くいかんな。やけっぱちでコートを椅子に投げつけ、そのままベッドに倒れ込む。

金の支払いは不透明。おまけに死神野郎まで同じ船にいて、その依頼人にはシッカリ振られている。正直俺も車椅子の彼にまで手が回るような状況じゃないから仕方がない。ふーっと煙を吐き出せば、寝タバコの灰がシーツに落ちそうになり、もぞもぞと起き上がる。

頭を切り替えよう。これだけ大きな船だ。探せばせめて大浴場くらいあるかもしれない。

もうとっくに日は暮れたが、船の中を探検に出かけようじゃないか。

金のフレームで装飾された案内板のトップ画面を見ると「コンバーション」には実に多くの施設があることがわかる。

豪華なダイニングルーム、図書ラウンジ、フィットネスコーナー、ロッククライミングやバスケットコート、オープンカフェにカジノ。一々挙げてたらキリがないくらいだ。それらをさくさく横目で見ていく。おお、シガレットルームがある!後で来ようっと。しかし風呂場が見つからない。

船内をうろうろしてたら小腹が空いた。客の少ないコーヒーバーがあったので、カウンターに座り注文。入り口にはオオハシのマスコットが並び、オレンジとダークグリーンを基調にした南国風のコーヒーバーの看板には「スター・ギター」と書かれていた。

「今日の豆はコロンビアですよ」

「いいな。いくらだ?」

「コーヒーは無料です。他にもクッキーやシリアルなど軽いものなら、無料でお出しできますよ」

なんだって!無料って言ったか!

人好きのする笑顔をしてコーヒーとクッキーを出してくれたスタッフに、喜びの意を込めてチップを弾む。こんなにくれるのかとびっくりしている。いいんだ。俺がこの船に乗って一番目に起きた良いことなんだから受け取ってくれ。お互いににこにこして名乗り合う。真っ白なシャツにモスグリーンのベストを余裕を持たせて着こなした、チョコレートと同じ色の肌をした彼はエディと呼んでほしいと言った。本名はどこかの王族並みに長いらしい。

「なあ、エディ。風呂場探してんだけど、この船にある?」

「バスルームではなくて?」

「いいや。大きなバスタブがあって、のんびり湯に浸かれるところ」

「そうか。ジャックは日本人だから、お風呂にこだわりがあるんだね。うーん。大きなバスタブ…そうだ、デッキのプールサイドにジャグジーがあるよ。あれはどう?」

「やっぱりそっちになるのか…」

がっくりした俺にエディは申し訳なさそうにしたけれど、君のせいじゃない。

「バルコニーがあるクラスの部屋になると、バスタブがついてるらしいよ」

いいこと聞いた!久遠寺家の連中はきっとそういう部屋に泊まっていそうだ。あのお人好し一家の事だ。風呂くらい貸してくれるだろう。なんならクルーズの期間中、ずっと貸してもらおうか。

そこまで考えて、彼らの部屋番号を知らないことに気がついた。かまわん。船内アナウンス流して呼び出してやる。物騒な目つきでコンシェルジュデスクへ足を向けた俺の前を、若い二人がふわりと通り過ぎていく。

さわやかな笑みとともに、仲良く隣を歩く二人は、たしか沙織と…健斗だったっけ。

二人は当然俺の存在に気がつくはずもなく、ライトアップされたココナッツの木の植え込みが並ぶメインストリートを軽快なテンポで進んでいく。

ちらりと見ればお似合いの二人だが、沙織は生粋のお嬢様。隣に立つ男は相当プレッシャーがあるだろうと、興味本位から健斗を観察することにした。

細身の体に長い手足。フィギュアスケーターと似た体格をしている。こんな顔の俳優がいたかなと思うほど、いわゆるイケメン。外見だけだと健斗は十分に沙織とつり合いが取れるんじゃないだろうか。中身までは知らないが。

高校生の婚約者同士は手を伸ばせばつなげる距離で、お互いの顔を覗き込むようにして、くすくすと無邪気に笑いながら歩いていく。

それは幼馴染の延長のまま、将来までも選んでしまうようで、俺には少々危うく見えた。ちゃんと自分たちの事考えてるのかって。彼らは自分たちの10年後をどんなふうに想像しているんだろう。

まるで俺の人生にこれっぽっちも影響を与えない彼らから目が離せなかったのは、彼らが俺の知らない世界に生きているからだろう。

どうにもおセンチになっちまったので、一旦出直すことにした。部屋の冷蔵庫のビールを思い浮かべながらエレベーターのボタンを押す。モーター音と共にエレベーターが止まり、扉が開くと同時に足を踏み出すと、ごちんと何かにぶつかった。次にうめき声。

「鈴井さん、大丈夫ですか?鼻血が…」

「ああ、大丈夫です。大丈夫です」

足元にひっくり返っている眼鏡の男が鼻血を出している。さっき俺がぶつかったらしい。

「すまない。考え事をしていたんだ。すぐに止血するよ」

立ち上がるために差し出した俺の手を断り、鈴井と呼ばれた男は立ち上がる。

「いいです。私、船医なので、自分でできます」

「よくありません。せめて冷やしましょう。それから、お前は前を見て歩け。BJ」

名を呼ばれてぎょっとした。顔を上げれば、銀髪の隻眼に睨まれてる。

「このエリアに客室はないぞ。お前の部屋はもっと上だ」

深海の水圧を思わせる、有無を言わさぬキリコの雰囲気。攻めるべきが引くべきか。一瞬迷った隙にエレベーターに押し込まれ、俺はデッキタワーのてっぺんまで送られた。

翌朝、せめて飯くらい景色のいい所で食べようと、ビュッフェの最前列に飛び込んで、海側のテラス席をもぎ取った。

バリバリの和食派の俺には少し物足りないが、中華粥と油条にいくつか副菜を足した朝食は旨かった。デザートや果物も充実していて目を楽しませてくれる。だけど今朝は食べるのをやめといた。また今度のお楽しみって奴。クルーズはまだまだ続くのだ。

デッキに出れば真っ青な空に白い雲。さざめく波は朝日にきらめき、美しい。

パラソルの下に陣取り、船内新聞を広げる。別にこれから毎日あるらしいカルチャースクールやイベントに参加しようって気はないけど、どんな催しが予定されているのか知りたかった。なにせ久遠寺彰に会うためだけに、このクルージングに参加しているのだ。事前情報なんか集めてないし、クルーズの日程すら知らない。後先の事はひとまず置いておいて純粋な興味がむくむくと湧く。

今日は一日クルーズの予定。どこにも寄港せず、ひたすら広い海を往く。夜にはウェルカムパーティがメインホールで開かれる。他にはフラのステージがあったり、瞑想のコーチングがあったり、とにかくここが日常とかけ離れた特別な空間であることを感じさせる。

明日はバミューダに寄港するのか。バミューダトライアングルと呼ばれる一帯のイメージが強い土地だが、どんなところだろうか。原因不明のままいくつもの航空機や船舶を消失させてきた三角形の領域は、異次元のミステリアスな雰囲気が満ちる場所かな。空は曇って、雷なんか光っちゃって。

そこまで想像して急に萎えた。バカバカしい。小学生か。俺は自分の目で見たものは信じるが、非科学的なものは信じない。ただ青い血の異星人の存在だって、見たなら信じざるを得ないがね。

明日の日程が俄然気になったところで記事に目を落とすと、新聞の片隅に小さな訃報が乗っていた。

『当船のバンド「ピスタチオ・クイーン」のピアニスト、平野星満(ヒラノ・ショーマ)氏死亡。デッキから転落したものとみられる。事故の可能性』

ふうむ、と唸る。豪華客船の旅は長いものだと1年かけることだってある。旅の間に病や事故で亡くなる人間は当然いるだろう。平野何某には非常に不幸なことではあるが、もし「コンバーション」で急患が出たら儲けるチャンスかもな。金持ちが多そうだし。不謹慎な黒い思考が漏れていたのだろうか、俺のいるパラソルに入ってくる奴がいた。キリコだ。

クルーズの旅気分が一気にしぼむ。無言の抗議をするも、眼帯野郎には通じない。

「見せたいものがある。来てくれるか」

いつもの辛気臭い顔で、俺をエレベーターに載せ、昨晩と同じ階で降りた。鈴井って船医とぶつかったところだ。うす暗い廊下を進んでいくと、立派な医務室があり、キリコがそのドアをノックすると、中から鈴井が顔を出した。申し合わせたように二人とも無言で、俺を医務室の奥へ連れていく。

清潔なミントグリーンの壁の診察室を通り抜け、一番奥の部屋のカーテンを開けると、デスクの上に大きなバット。その中を覗き込んで、さっきまでの浮かれ気分が完全に消し飛んだ。

バットには、人間の腕が乗せられていた。

「この腕が見つかったのは、午前3時頃。整備士が見つけた」

腕は右腕。肩のあたりから指先までが残っている。

「ロープに絡まった状態で船尾から引きずられていたそうだ。腕以外の部分は魚に食われた可能性がある。歯形がいくつもついている」

腕の断面は海水につかっていたためか、魚にかじられたせいか、ふやけて襤褸切れのようだ。

「腕と同じロープに絡まっていたジャケットが、この船のピアニスト、平野氏のものだった事と平野氏が夕べから姿が見えない事を踏まえ、船長を中心にして捜査が行われた。捜査の結果、船はこの遺体が平野氏であると発表した」

腕には紫色の斑点がいくつも浮かんでいる。

「お前、この遺体をどう思う」

静けさが医務室を満たした。

「どうもこうも…薬班が出てる遺体だ。病人だったんだろうとしか言えない」

憶測は避けて、分かることだけを告げた。キリコは黙って目を閉じて、眉間に深い皺を作った。鈴井は額に手を当てて唸っている。

「俺は検死なんかしたこたァないから、冗談程度に聞いてくれりゃいい。例えば爪だ。平野って男はピアニストなんだろ。指先には気を遣うはずだ。だけど、どうしてこの腕の爪はこんなにぼろぼろに脆くなっているんだ。俺が診た中でこの爪に近いのは、病状が悪化して十分に栄養が取れなくなった患者の爪さ。海水に浸かっただけで、ここまで酷い状態になるものかね」

遺体の親指の爪が根元から割れているのを見て、不自然に思ったのだ。まだないかと腕を観察しだした俺を軽く制止して、キリコは鈴井と目で合図した。そしてキリコが語ったのは、昨日プールサイドで別れた後の出来事だった。

俺とプールサイドで話した車椅子の彼の名前はアレサンドロ。彼は指定難病にかかり、何年も闘病した末にキリコのもとを訪れた。キリコの診察を受けて契約を結んだ彼は、安楽死の条件に「海の上で旅立たせてほしい」と加え、自分が海に憧れていることを語った。その純粋な憧れを抱いて、アレサンドロはクルーズにやって来た。

青い空と広い海原に彼は大いに満足し、やってみたいと思ったことはなんでもやりたがった。キリコは彼の介助をしながら、船の中をまわり、希望をひとつひとつかなえていく。アレサンドロは自室のバルコニーに座り、今日が人生最良の日だと、落ちる夕陽をいつまでも眺めていたそうだ。

アレサンドロの容態が急変したのは20時ごろ。キリコが見守る中、彼は望み通り海の上で旅立った。

キリコは予め話を通してあった船医の鈴井に連絡を取り、船の遺体安置室へアレサンドロの亡骸が入ったボディバッグを運んだ。その時に俺とエレベーター前で鉢合わせたわけだ。医務室に戻ったキリコは鈴井の鼻を冷やし、鈴井はアレサンドロの死を合法なものであるという前提で書類を作る。そのまま静かに終わる案件だった。腕が見つかるまでは。

鈴井が太いフレームの黒ぶち眼鏡を直しながら口を開く。

「実は私たちは、この腕が平野氏のものではないと思っています。あなたがおっしゃる通り、この遺体には病人だという証拠が沢山ある。私は平野氏と親しく話したことはないけれど、少なくとも病人ではなかった。医務室に来たこともありませんでしたし」

じゃあ、誰の遺体だなんて、今更なのか。

「この腕は、俺の依頼人、アレサンドロのものだ。俺が記憶している薬班の位置が同じなんだよ。爪の形も、指の長さも。しかし、それらは俺の記憶以上の証拠にはならないんだ」

「おいおい、そんなもん、遺体安置室見ればすぐ分かるだろうが」

「もちろん遺体安置室はすぐに確認しました。遺体はありませんでしたよ。どこにもね」

「なんだよ、それ…死んだ人間が歩いたなんて言わないよな」

言うわけないだろうと鈴井は肩をすくめる。

「船長の藤村は私たちの見解を聞いてはくれました。ただここは海の上、寄港して十分な設備のある病院で調べないと、この腕がアレサンドロさんだと言い切れない」

「同時に平野でないとも言い切れないと?」

俺の問いかけに、鈴井は神妙に頷いた。

「じゃあ、平野って奴はどこに消えたんだよ?!あの腕が平野のものだって証明できる遺留物はジャケットしかないんだろ。それだけで海に落ちて死んだって決めるのは、厳しいんじゃないか」

「目撃情報があるんだ。平野が酷く酔っぱらった状態で、デッキの手すりに寄りかかっている姿を何人ものクルーが見ている。嘔吐していたのか海を覗き込む真似さえしていたそうだ」

キリコの眉間の皺が深くなる。目撃情報の多さと状況証拠の少なさ。どちらが勝つか密室状態の客船の中では、想像に難くなかった。俺まで表情が暗くなったのを察したのか、鈴井が焦った声で迫ってきた。

「貴方に来ていただいたのは、遺体の腕がアレサンドロさんだと確認したかったのが一つ。もうひとつはドクター・キリコの推薦があったからです」

「推薦だあ?!」

素っ頓狂な声を上げてしまった。キリコを睨みつけると、無表情の中の青い光とかち合い、思わず身動きが取れなくなった。鈴井は俺に訴える。

「あなたのお名前は聞いています。闇医者、ブラック・ジャック。荒事も得意な医者はそうそういません。私は嫌な予感がするのです。長い船医人生を送ってきましたが、これはきっと妙なことが起きる前触れです。何か起きたとき、頼りにしてますからね!」

定年退職を控えた鈴井の保身満々の悲鳴が医務室に響いた。

My fair villainous lady①

第一章

自由の女神が立つニューヨーク。

陽光満ちるリバティポートを出発し、マンハッタンの摩天楼はだんだんと霞んでゆく。

進みだした船の名は「コンバーション」全長250m、全幅35m、デッキ数は17階。

美しい流線型の舳先で波をかき分ける8万トンの豪華客船は、目的地のカリブ海目指し、真っ白な船体をきらめかせながら、大海原へ優雅に踊りだしていった。

近年流行の20万トン越えの超大型クラスとは比較にならないが、8万トンの中型船でも十分に揺れは少ない。

ラグジュアリークラスクルーズ「コンバーション」に乗り合わせたゲストたちは、なんの不快感もなく広いプールサイドに集い、全員参加の点呼のもと避難訓練を行った。避難訓練は出航24時間以内に必ず行わなくてはならない決まりである。

訓練の張りつめた空気の後は、皆が期待していた通りに軽快な音楽が奏でられ、デッキパーティが始まった。

プールサイドに飾り付けられた赤、青、白のテープが海風にはためき、午後の柔らかな日差しが波を輝かせる。

その輝きを何度も観てきた熟練の副船長が司会としてクルーと共にゲストの前に立った。副船長の嬉野は柔和な人柄がにじみ出る歓迎の意を表す挨拶をして、出航で緊張していた人々の心をあたためた。挨拶の次はゲームだ。「コンバーション」のクルーたちがゲストを楽しませてくれる。

賑やかしいバンドの演奏に合わせてカクテルグラスを傾ける人々。

長年連れ添った愛しい人の肩へ手を回すペア。未知の刺激に心躍らせる少年。遠く水平線を見つめる若い女性。それぞれがこれからの航海に胸を膨らませ、希望を託そうとしていた。

そこへ、その男は現れた。

カラフルな衣服の人垣を裂いてずんずんと突き進む真っ黒なコート。

風に乱れる前からそうであったと思わせる白髪交じりの黒いくせ毛。

思わず目を背ける者がいるほどに、厳しい眼光とそれを縦断する大きな縫合痕。

それらの持ち主は、ブラック・ジャック。その人である。

パーティに参加していた久遠寺彰は、BJに声をかけられて飛び上がって悲鳴を上げることもなく、おっとりとほほ笑んだ。

「やあ、先生。あなたもこのクルーズに参加していたんですね」

これだからボンボンはやりにくいと出鼻をくじかれたBJは内心舌打ちをする。いきなりツギハギに背後から声をかけられたら普通は少しは驚いたりするものだが、育ちがよくそれなりに善良な彰はそのようなことでは慌てなかった。まだ若さを残す瓜実顔に無駄な贅肉のない体つき。仕立ての良いジャケットの背中を見せて、彼は側にいた妻と娘を呼んだ。

「BJ先生、お義父さまを手術して下さり、ありがとうございました。おかげさまですっかり元気になりましたのよ。私たちがクルージングしている間は、日本でのんびり温泉に浸かっているから行って来いと…それも全部先生のおかげだと喜んでおりました…」

夫に輪をかけて穏やかな口調で話すのは、彰の妻の絹子(まさこ)だ。名に沿うようになめらかな絹糸の髪をゆったりと一つにまとめている。流行を追いかけ過ぎない上品なロングスカートが海の色に良く映える。その傍には彼らの愛娘が楚々として佇んでいた。

どうもBJはこの手の人間と話すのは苦手だ。品の良さと言うのが鼻について堪らなくなる。彼らが悪いわけではない。彼の生き方がそうさせるのであって、誰のせいでもない。だから彼が些か横暴にふるまったとしても仕方のないことなのだが、ここにそれを理解する人間はいない。

「俺が聞きたいのは金の話だよ。あんた、爺様の手術費15億円をいつになったら払うんだ」

不躾にもパーティ会場の真ん中で借金の取り立てに来た横暴な闖入者の言葉に周囲の人はぎょっとしたようだったが、再び明るい笑い声の輪の中に紛れていく。

「ええ?15億だって?」

「ふざけなさんな。証書だってある。とぼけるのはよせ」

ひどく驚いた彰の様子にBJの顔は険しくなる。BJは今回確かに高額な治療費と見合うだけのパフォーマンスをした。そしてそのレートも彼の仕事上規格外と言うほどでもなかった。ましてやBJは彰がいくつもの子会社を持つ、大手の建築企業の3代目社長であることを知っている。年商を以てすれば手術費の捻出など容易いはず。なぜ払わないと無言で詰め寄る。

二人の間にある張りつめた緊張感の風船をぱちんと弾くように、彰の朗らかな声が上がった。

「なあんだ、150億だと勘違いしていたよ!」

びきッとBJのこめかみに血管が浮く。それに気付きもしない彰は恥ずかしそうにぱたぱたと手を振って続ける。

「すまない。全く準備をしていなかったわけじゃないんだ。150億だとさすがに大きい金額だからね、いくつか資産を売らなくてはいけないと選定をしていたんだ。それに時間がかかっちゃって…ああ、恥ずかしい!心配かけたね」

「彰さん、はやとちりなさったのね」

おっとり夫婦が顔を見合わせてもじもじとやっている。善良で、お人好しで、胸やけがする。15億と150億を間違える人間はそうはいない。もうBJは彰との関りをこれきりにしたかった。金さえもらえば二度と会いませんように!とお星さまにお願いしたくなるくらいに。

ちょうどプールサイドステージのバンドが『きらきら星変奏曲』のアレンジを演奏しだした。あまりにタイムリーで思わず振り向けば、東洋人と思しき男性がバンドメンバーの中でひとり背中を向けてピアノを弾いていた。

(できすぎだろ…まだお星さまにお願いするのは、早いっての…)

BJの冷めた視線も受け流して、彰は奇麗に整えられた黒髪の頭をぽりぽり掻いた。

「いや、まいったね。こんなことなら沙織の縁談も焦って進めるんじゃなかった」

沙織と呼ばれた少女を彰は横に招いた。涼やかな眼差しに白磁の肌、濡れ羽色のつややかな髪をハーフアップにしてリボンで留めている。おっとり夫婦から生まれたとは思えないくらい凛々しい姿。

久遠寺沙織は18歳になったばかりの女子高生。私立の名門女子高に通い、3年間主席の成績を維持している。得意な英語では既に英検準一級を取得。部活動では薙刀部に所属し部長としてメンバーを率い、学校創始以来の快挙で国体に出た。また母と共に淑女のたしなみを一通り修め、華道の展覧会で大きな賞を取るほどのセンスを見せている。

親の欲目は差し引いたとしても、文武両道のうら若き才媛が久遠寺沙織という少女だった。しかしながら彼女が口を開いた瞬間「蛙の子は蛙」と認識する羽目になる。

「いずれは健斗さんと結婚する予定だったのですから、少し約束が早くなっただけの事…わたくしはなにも問題ございません」

両親を気遣い、おっとりとほほえむ姿に、BJは一刻も早くここから消えたい気分になった。

消えたいと思うことと、物質的にないものとされることは全く違う。砂糖菓子のように真っ白な家族の姿に辟易としていると、BJの背中がどんと押された。BJは相手を睨みつけようと振り向くが、すかさず大きな声が降ってくる。

「やあやあ、久遠寺さん!楽しんでおられますか?」

見上げると2m近い大男がグラスを片手に笑っている。腕の筋肉の隆起がスーツの上からでもわかる重戦車のような体格。浅黒い肌に鋭い眼光の顔(かんばせ)。短く刈り込んだ頭髪と髭の様子は、さながら歴戦の傭兵のようである。彼が手にしているビアグラスがやたら小さく見えるのはそのせいかもしれない。

「どうも、高薄さん。いい航海になりそうですね」

高薄と呼ばれた男は猛禽類を思わせる目を笑みの形に歪めた。

「同感です。このクルーズはウチの健斗とお宅の沙織さんの婚約記念のようなものですからな。我々にとっても思い出深い旅行にしたいものです!」

そこまでにこにこと聞いて、彰はBJを高薄に紹介した。太々しく会釈するBJの縫合痕を見て、高薄は一瞬怯んだように見えた。しかしすぐに気を取り直し、威圧するように重々しく、一介のサラリーマンから建築会社を立ち上げるまでに至った苦労話を含めた長い自己紹介をした後、彼は高薄浩一郎と名乗った。

そうなのだ。本当はこの反応が正解なのだ。異形のBJを目の当たりにして、驚くか、拒絶するかがリアクションのセオリーである。セオリーから外れた久遠寺一家とは違う高薄の姿にBJは意味のない感慨にふけった。

「婚約記念だなんて、父さん気合入りすぎじゃない?」

BJの思考を中断したのは『コンヤクキネン』という聞き馴染みのない2度目の単語。高薄のはち切れそうな白いスーツの陰から、すらりとした青年が顔を出した。青年はそのまま沙織の前に進み出て、いかにも自然と言った態で彼女の横に収まった。彼が沙織の婚約者、高薄健斗だ。彼もまた家の期待を背負い、十分に応えようとしている。有名校で成績トップクラスでないと入れない生徒会の会長を務めており、生徒からの支持は厚い。また恵まれた容姿でモデル業もこなしている。今回はプライベートの旅行なので、いくつもピアスをつけて、雑誌の切り抜きのような姿だ。

「俺は純粋に沙織とのクルーズを楽しみにしてたんだ。もうただの幼馴染じゃないってことくらい、俺たちもわかってるんだから心配しないでよ」

「ふふ、確かに健斗さんと私はただの幼馴染じゃありませんわね。産まれた病院から一緒ですもの」

「長い付き合いだよね。さあ、船の中を見て回ろうよ。おもしろいものがありそうじゃないか」

そのまま沙織と健斗は連れ立って歩いていく。若さってのはア…とため息つきかけたBJに絹子が飲み物を勧めてくれる。わずかばかり疲弊を覚えていたところだったので、素直にグラスを手にしてビールを一口含んだ。

デッキの手すりに寄りかかった彰と高薄はかちりとグラスを合わせる。彰はほっとしたように語りかけているが、どこか表情が暗い。

「150億は必要なくなったんだ。ちょっと早とちりをしてしまってね、高薄さんにもご心配をおかけした。婚約も早まったかな。健斗くんの事情もあったろうに。健斗君も沙織も幼馴染だし、ずっとこうなるって思っていたみたいだからね。お互いの関係が良好なら、将来の不安が少ないうちに決めてしまった方が、親として言うことはないと焦ってしまった」

「おお、そうですか。150億の件、まずは良かったと言っておきましょう。しかし何度も申し上げているではないですか。婚約と資金提供の件は全く別だと…久遠寺さんが焦げ付きこさえたまま倒産なんて冗談にもなりませんからな!」

「全くおっしゃる通りだ。父に叱られたよ。確かに資金繰りには手間取ったけれど、私達の看板はともかく、高薄さんにご迷惑をおかけするなどとんでもないと」

「いやいや、ご謙遜を。うちなどまだまだ新参者。3代も続く久遠寺コンツェルンに信用していただけるのを誉と思うておりますよ」

がははと大口を開けて笑う高薄浩一郎に、久遠寺彰は目を伏せ、控えめに微笑を作った。

「……今、業界で一番勢いがある高薄さんに、どうやって業績低迷が続く弊社の娘を嫁がせられたのか、このところ毎日のように聞かれるよ」

暮れ始めた空の色を背に、彰の声は少々自嘲を含み、弱弱しく聞こえた。そっと夫を見つめる絹子の目もまた同じ。

BJの頭に大音量の警報が鳴る。

緊急!緊急!さっさと現金回収しないと会社が倒産して不渡りになるぞ!

不渡りだけは絶対に御免だ。

自分が決めて報酬がラーメン一杯やカルシウムの欠片になるのは問題ない。しかし相手が倒産したから手術費はもらえません、お金がないから払えませんというのはBJの信条として許しがたかった。そもそも依頼してくるなと門前払いのレベルである。金が払えない患者にも腹は立つが、一番許せないのはそんな患者を選んだ自分だ。自分で自分の見る目がなかったと認めるのが悔しくて仕様がないのだ。

歯噛みしながらBJは一旦デッキの逆サイドに向かう。パーティのざわめきから離れて、沸騰しかけた頭を冷やしたかった。

だがここでも彼の望みは叶わない。なぜなら視線の先に「奴」がいたからだ。

デッキの隅に佇む銀髪隻眼、黒眼帯の長身の男。

ドクター・キリコ。

彼もまた、この船に乗船していたのだ。

沸騰しかけた頭が爆発した。

ずかずかと周囲の人間など跳ね飛ばすような酷い勢いで、BJはキリコの元へ詰め寄り、思う様暴言をぶちまけた。

「どういうつもりでこんな所にお出ましだ!船の上でもヒトゴロシをしようってのかい」

いつもの定形文をいつもと違う場所で浴びたキリコはまるで動じない。彼は表情筋を動かすことなく、BJをアイスブルーの隻眼で見据える。

「人聞きの悪い言葉は止してもらおう。その言葉は彼への侮辱にも当たる」

キリコの背に隠れた車椅子。そこに座る男性が不安気な顔を覗かせた。顔色はこれ以上ないと言うほどに良くない。薬の副作用か頭髪がすっかりと抜け、薄手のブランケットから覗く手足は小刻みに震えている。彼が何らかの病に侵されていると判断するには十分だった。恐らく彼は今回キリコに安楽死の依頼をした人間なのだろう。

「心配しないでください。この男は私が嫌いで仕方がないのです。さあ、もう中へ入りましょう。風が冷たくなってきた」

「ああ…ドクター、その、彼は?」

依頼人がおずおずとキリコに訊く。

「ブラック・ジャック、一応医者です。無免許ですがね」

訊かれた本人が答えるより早くBJは自ら名乗った。キリコは黙っている。これ幸いとBJは依頼人へ病状を尋ね、治療すれば生きられる可能性があるかもしれないと、目をギラギラとさせて迫った。しかし依頼人の反応は芳しくなかった。

「僕がこのクルーズに参加したのは、一度も海を見たことがない僕のわがままをドクター・キリコが叶えてくれたからなんだ。人生で初めてのクルージングだ。楽しい気分のままで過ごしたい。僕の心は決まっている。そっとしておいてくれないか。その、ええと…ブラック・ジャックさん…」

BJはそっとなどしておけなかった。だけど何故か「しかし」だの「それでも」だのと彼に詰め寄る気持ちになれなかった。キリコの依頼人である彼の瞳が、これから向かうカリブ海の色と似ていたからかもしれない。

それに海に焦がれた気持ちは、何となくわかる気がした。自らが車椅子で過ごした少年期に抱いた海への憧憬は、まさしく依頼人の感情と類似していたのだから。

BJが追憶に沈んでいる間に、キリコは静かに車椅子を押して船内に消えていってしまった。

憎たらしい銀髪の姿が完全に見えなくなり、BJは手の中でぬるくなりつつあるビールを一気に煽った。

自分のすることを整理する。何も初めと変わっちゃいない。手術費15億円を久遠寺彰から取り立てるのだ。彼に小切手かきちんと金を支払う意志があるサインの類をもらわないと、納得できない。

ただ状況が不安定なのはわかった。久遠寺コンツェルンは斜陽の時期にあるらしい。そこでコンツェルン相手にトラストまがいの手が打てるほど勢いのある高薄の会社が、久遠寺に資金提供の話を持ち出した。両家は昔から付き合いがあったのだろう。しかも両家の息子と娘が婚約関係にあるならば、盤石ではないか。しかし久遠寺彰の顔は冴えなかった。

「あのやろう、婚約に乗り気じゃねえとか言い出さねえよな…」

BJの呟きもかき消される周囲のざわめきの中、東洋人が奏でるピアノの激しく陽気な旋律が響いていた。

【BLOG】長い話が始まります

カタカタキーボードを叩いてたやつをアップします。

タイトルは『My fair villainous lady』(意訳:私の悪役令嬢)

名画「マイ・フェア・レディ」がタイトルのオマージュになってます。内容もちょっとね!

テーマは「悪役令嬢の断罪ものをキリジャでやろう」と、なんともハードルの高いものを設定しましたよ。そこに豪華客船を持ってきて、ピンク頭のヒロイン、仮面舞踏会、BJ先生7変化、クルージングは最高だね!旅気分もちょっとね!と自分でも何言ってるかわかんないです。

13万字超えたので、6000~15000字くらいで分けてあげていきます。12章まであります。

その他回収し損ねたネタがあるので、追加SSもこれから書こうと思います。

下手の横好きですが、ちょっと読んでみようかと思われましたらどうぞ~

毎朝6時に更新です。

▼イメージ画。真ん中の子が今回のメインキャラクターの一人、沙織さん

※ネタバレしたくない人はバック!と言っても超初期設定…こ、こんなこと考えとったんか我…※

【BLOG】136502

先月からカタカタやってた作文が、ようやっとラストシーンまで書けました。まだ推敲したり、誤字脱字チェックがあるんで、アップには至りません。もう少しお待ちを。

それでチェック用にパソコンで打ったものを印刷してみたんですよ。

厚さ、裏表印刷で7,8ミリある。

やばい。これデジタル化する前の会議資料とかと一緒やん。

怖いもの見たさで文字カウント計算…

136502文字…

10万字超えたかーーーーはちゃーーーーー

構想練ってるうちに、それがとぐろを巻きだして、気が付きゃおせちの重箱状態。

いいんかな…

書いてもうたしな…

イメージ画もできました。フルカラーのは全部いいのになってからにします。