やきそば食べたい

起きたら昼どきで、焼きそば作って食べようと。

もう一品できるかなと算段してる間に、もういいから食わせろと近づくツギハギ。

色彩感覚ゼロにつき、いろいろいじくってたらわけわかんなくなった。キリコ先生の肌の不健康さよ…!トランクスにもっとマグナム感を持たせたかった…!焼きそば難しいナー全部難しいナー

G 強引にキリジャをイチャイチャさせるウィーク Wをお過ごしの皆さん。

おこめは今日出勤です。いってきます。明日の絵描けるといいナー

唯一の冴えたやり方

ウチのキリコ先生、機械いじりとかに没頭すると寝食を忘れるとか言う謎の設定が生まれまして、それを無理矢理にでもやめさせようとするBJ先生の唯一の冴えたやり方…なんつって。

久々にポーズ資料集からのイラスト。文字ばかり書いていたから、ペンに腕を戻さないと。どっちも楽しい。GW中に何枚描けるかなあ~

M.F.V.L追加SS

【船医】

「そんな名前の船医は、知りませんね」

鈴井の反応は俺を満足させるものではなかった。

俺の知っている船医は一人だけ。もう二度と会うことはないだろうと思ってはいたが、こうして確認すると、なんとも味気なかった。

デッキに出るとキリコが海を眺めている。

ぼんやりしているように見えるのが妙にイラついて、奴にぶつかるようにして隣に陣取った。

「機嫌悪いな」

「そんなわけあるか」

「当ててやろうか。誰かに振られたんだろう?」

あれも振られたって言うんだろうか。でも相手は人間じゃないし。

「うそだろ。ビンゴかよ」

しまったと横を見ると、キリコが片目をこれでもかと見開いて固まっている。しかし腹黒陰険眼帯野郎は、とっとと再起動し、ニヤニヤと笑いながら抜かすのだ。

「さあ、おじさんに話してみなさい、青年よ。そういうのはさっさと誰かに話して、馬鹿にされるのが手っ取り早いぞ」

馬鹿にはされたくなかったが、もやもやしてるのは尚更馬鹿馬鹿しい気がしたから、俺の知っている船医について話した。彼女がどうして船医になったかも含め、余すところなく。

キリコは最後まで黙って聞いて、馬鹿だなあと呟いた。そう言われるのが前提で話したんだから、怒ったりするのは筋違いだけど、意外と俺は冷静だった。

あの時は一瞬の中に永遠を確かに見たのだ。若かったし、今思えば違う選択肢があったように思う。だから今ここに俺がいるかどうかの分岐点が、あの一瞬の中にあったのだとすれば、とても複雑な気分だ。

「子宮を取っただけで、女性を辞めなくちゃいけないなら、世の中にどのくらいそんな女性がいると思うんだ。女性らしさを完全に失うなんてことはないし、結局彼女も男性にはなれなかったと思う。他の機能は女性のものなんだから」

キリコはタバコに火をつけた。時代遅れのタール値の煙が、隣から海風に乗って届く。

「で、結局女性として彼女に惚れた青年を、お前の家に行くようにしかけたって?」

「しかけたとは人聞きが悪いな」

「大差ない」

言葉の違いはあれ、そういうことがあったのは事実だから頷いた。あのガキは最後まで恵に惚れていた、と思う。

「俺は自分が感じたままの事を言うから、気に食わなければ一回だけ殴っていい。お前にとって、かなりセンシティブな部分についてなのは分かってる」

キリコはそう前置きして、つけたばかりのタバコを携帯灰皿に突っ込む。殴られるための準備なんだろうか。

「忘れちまえ、そんな女。時間を割く価値もない」

心臓が止まるかと思った。

「お前が彼女への思いを告げる瞬間が手術台の上でしかなかったとしても、彼女にとってはそうだったんだろうか。俺にしたら、お前たち二人は意気地なしの大馬鹿者だよ。若かった、その一言しかないね」

キリコは淡々と、やや早口で続ける。

「二度と会わないくらいの覚悟をして別れたはずなのに、彼女はお前と何度もコンタクトを取ってる。十分に未練があるじゃないか。お前にも未練があるのを彼女はわかってる。だから自分に惚れてる青年をお前の所へ行かせたりするんだよ。しかも手紙付きで。彼女に馬鹿にされてるのと同じだよ、お前は」

かっとなって頬が熱くなる。キリコの方へ向き直ると、あいつは海を見つめたまま話してる。欄干にもたれかかって、遥か彼方の水平線へ視線を投げながら。その様子を見ていたら、何故だか熱くなった頬は冷めていった。

「彼女との一瞬をダイヤモンドのように輝かせて胸に抱くのはいい。そういうのも人生だと俺は思うから。だけど輝きを引きずることで、汚れたものに変わっていく場合もあるんだ。今のお前はそっちに傾いてる気がして、おもしろくないね。なんだ、ブラック・ジャックなんていっても、昔の女にいつまでもめそめそしてんのかって」

長いため息と一緒にキリコは俺の方へ体を開いた。さあ、どうぞって感じで。

「以上、俺の感想。殴りたきゃ殴れ」

キリコの方が殴って欲しそうに見えた。だけど俺の脳みそは冷静に言葉の意味を拾っていた。間違っちゃいないと、素直に感じられたのが思っても見なくて、少し困ったほどだ。これでいいかって。

「いい。殴らない。冷静になっちまって、そんな気分じゃねえや」

あの一瞬を胸の中に持っていてもいいってこいつが言ったせいかもしれない。俺はどこかそれを罪悪感のように思っていたのではないか。裏街道を歩くのに、そんなものはいらないと突っ張って、もうそれを俺は知っているから十分だと思い込んで。だけど、恵以外にも心を動かされた人間はいたし、一瞬の輝きがひと種類ではないのを幾許か齢を重ねた今ならわかる。ダイヤモンドの輝きも、光が当たる角度によって変わるように。

「殴った方が良さそうな顔してるけどなあ」

「煽るな。俺なりに考えて、納得しようとしているんだから」

「直情的でないお前も珍しいね。そんなに触れてほしくない話題だったか」

「どうだろう。少なくとも、船に乗るまでは忘れていた話だよ。でも、多分、うん。お前さんみたいな他人の視点から話されるのは初めてだ。人にするのも初めての話だったかもしれない。客観視するのはこんなにも重要なんだな」

「どうしたの。殊勝すぎて気持ち悪い」

ぽすんと、キリコの肩に軽くグーパン。

あの一瞬はそのままに、心の中のボックスに入れちまおう。そんなボックスが俺の人生にはもうとっくにいくつもできている。

「俺の方は、なんだかスッキリしちまったんだけど、今度はお前さんの機嫌が悪そうだ」

キリコを見ると、いつもの辛気臭い顔だが、眉間にうっすら皺が寄っている。目つきも険しい。こいつの微妙な心情の変化がわかるようになったのも、人生にボックスが増えたことと関係があるんだろうか。だけど、こいつはボックスになんか入らない。

「俺が海なら、お前は空さ」

ぼそりと呟いたのが、あいつの耳に入らなければいい。

ボックスに収めるにはでかすぎて、長すぎるんだ。俺達は水平線。決して交わらない。

聞こえたのか聞こえなかったのかは分からないけれど、キリコは再びタバコに火をつけた。スパスパと煙を吐きながら海を眺めてる。

俺は雲の具合が気になって、そっと空を見上げると、何羽も海鳥が飛んでいる。付近の無人島から飛んできたのだろうか。そこではっとして気が付いた疑問を俺は口にしてしまっていた。

「俺も嫉妬した方が良いのか?」

「待って」

ここは黙っておくのが絵になるところだろうがとキリコは頭を抱えてる。

「お前の頭の中は俺の常識から場外ホームラン飛ばしたところにあるから、一応聞かせてくれ。『どうして』お前が『誰に』嫉妬なんかするんだ?」

「え…どうしてって、そう思ったから」

「端折るな!端折るな!こんな展開になるなら二度とセンシティブな会話しねえぞ!俺はちゃんと人間の言葉でコミュニケーション図ろうとしてるの。珍しく相互理解しようとしてるの。その意思をねじ切るのはやめなさい。自分の考えを言語化しなさい。今だけでいいから」

必死に訴えられて、何か今の答えがまずかったのだけは分かった。うーん。自分の考えを言語化…えーと。

「海鳥」

「うん」

「空にさ、海鳥が点々と飛んでるのを見て思ったんだよ。お前さんにもきっと俺みたいに捨てられない一瞬があるんだろうなって。そんでそういうのがあるってことに俺は嫉妬した方が良いのかなって」

「…言語化にチャレンジしたのは褒めてやる。内容の理解については時間をくれ」

キリコはそのまま黙ってタバコを一本吸い、フィルターを携帯灰皿に突っ込んで片付けた。その間俺はずっと空を見てたのだけれど、島から離れてしまったのか、海鳥はみんな巣に帰っていた。

しっかり時間をかけて俺の言いたいことを理解したであろうキリコは、ぽんと俺の頭をタッチして、俺達の間の距離を縮めた。

「俺にもそれなりに、お前の言う一瞬ってやつがあったと思う。だけど強がりや冗談でなく、もうそれを思い出しても俺の心には何の変化も反応も齎さないんだ。だから、お前が嫉妬するようなものは残っていないよ」

そっと微笑むこけた頬に嘘を見つけるのは難しかった。

「ふうん」

それだけを言うと、キリコはわしわしと俺の頭を撫でた。ガキ扱いするなっての。

【エレベーターホールを出て】

沙織を部屋に送り届け、俺達は長い廊下を歩く。スイートルームがあるフロアだけあって、人通りはほとんどない。選ばれた人間しか来ない雰囲気。

厚い絨毯は俺達の靴音すら吸収して、ただ沈黙だけが続く。少し気まずささえ覚えだしたころ、キリコが隣で呟いた。

「さっき、殴りかかろうとしただろ」

エレベーターホールで赤髪のガキにしようとしたことを言われていると分かって、言葉に詰まった。あれは俺の完全な失策だった。キリコに止められてなければ、今頃全て台無しになっていただろう。

「…お前さんに礼は言いたくないが、正直助かった。あのまま殴っていたら、どんなシナリオを書いても詰んでた」

きっと揶揄われるだろうと思ったのに、キリコから笑う気配はしなかった。不思議に思って横を向くと、キリコは下に向かうエレベーターのボタンを押していた。

エレベーターが着いて、誰もいない中に二人で入る。キリコは自分の部屋があるフロアのボタンを押し、俺はそのもっと下にあるボタンを押そうとした。けれど、手を掴まれてボタンを押せないままにエレベーターのドアが閉まる。

どうして、と聞けないうちにエレベーターは降りだし、ガラス張りの壁からメインホールの輝きが差し込む。それが無くなった瞬間、俺は壁際に閉じ込められた。

「どうして、あんなことしたの」

長い銀の髪が俺の頬にかかる。どうしてなんて言えるはずがない。キリコの顔が見られなくて、下を向いてしまう。

「あのガキに腹が立っただけだ」

「そう」

まるで信じていない軽い返事をして、キリコは指でするりと俺の首筋を撫でた。ぞくりと体の中にさざめきを感じたとき、あいつは後ろに下がり、反対側の壁に寄りかかった。

「エレベーターには監視カメラがあるからね」

なんでもないことのように告げられた内容が、ひどく色めいて聞こえた。監視カメラが無かったら?二人きりのエレベーターの中で何を?知能指数の低い思考が頭の中をすっかり独占してしまう。

ずっと続くかと思われたエレベーターのモーター音が止まり、ドアが開く。

ついていく必要はないのに、俺の足は勝手にキリコを追う。カードキーがスライドされる様子が、やたら背徳的で見るに堪えず、つい足元に視線を移してしまった。もう今夜は何度床を見ただろう。あいつの視線すらまともに受けられないなんて。

そんな俺を放ってさっさとドアの向こうへ消えるあいつとは違って、どうしても足がもたつく。来るべきじゃなかった?今から何を話す?引き返すなら今かと足が止まった瞬間、逃がさないとばかりに暗闇から手が伸びて、ドアの隙間に引きずり込まれた。

壁に背を押し付けられて、激しく唇を奪われる。手首を両方とも掴まれて、俺が抵抗できるのは僅かに身を捩ることだけ。ただ翻弄されて、口の中で繋がるあいつの舌を感じるしかなかった。上あごを舐められて、うなじの毛が逆立つ。

どうして俺が殴りかかろうとしたのか、キリコにはすっかりバレている気がした。

あのガキが眼帯の事を口にしなければ俺はあそこまで激昂しなかった。それだけ俺の中でキリコの眼帯が大きな存在になっているなんて、俺自身初めて意識した。これまで眼帯の下を見たがったりしたけれど、それは目の傷をどう切ればきれいに治るだろうかなどと不毛な想像をするためのことが多かったし、何よりいつも秘されている部分を見られる優越感を得ていたのかもしれない。

だけど今回はっきりとわかった。俺は俺以外の人間があの眼帯を貶めるのが許せないのだ。何も知らない人間に触れさせたくなどない領域になっているのだ。あいつの思想は黒い眼帯が全部語っている。それを尊重するとかそんな話じゃない。片目を失ってから、きっとキリコが同じ景色しか見ていないことに、耐えられないほど苛つくのだ。その事実を黒い眼帯は俺に突き付ける。あいつは死ぬまでそうなんだろうか。

俺達は水平線。俺が海なら、お前は空。どこまでいっても絶対に交わらない。お前はきっと何もない空しか見てない。だけど俺は海もある世界を見せたかった。欲を言えば島も、鳥も、木や花も見せたかった。

その片目にはひとつの決まりきったものしか映らないとしても。

「俺は欲張りなんだ」

暗闇の中で無理矢理くちびるを離す。

「知ってるよ」

固くて広い背中に腕を回して、あいつの耳元に直接。

「お前さんが思うより、ずっと欲深くて、諦めが悪いんだ」

長い腕が俺を抱きしめる。じわじわと力がこもっていく充足感を、たやすく俺の脳細胞は受け入れて、全身に通達する。すっかり二人の体に隙間がなくなるころ、キリコは鼻先で俺の首筋をくすぐる。

「面白いこと言うじゃない。随分と俺を過小評価してくれる」

「過小評価かどうかは、後で後悔するんだな」

この感情にどんな名前がつくのか判らない。名前なんかなくても禄でもないものなのは判ってる。この男に何かさせたいと思っただけで無意味だし、執着自体が俺の悪い癖だ。悪い癖のついでに、こいつの片方しかない目に俺の見た世界を見せたかった。

「…今までと、変わらんな」

愚かだと思った。この男が簡単に変容することなどないのに、勝手に追いかけてる。部屋が真っ暗闇なのを心から歓迎した。きっと酷い顔をしている。誰にも見せたくないほど。

「………変わったよ。少なくとも俺は。お前のせいで」

「嘘つけ、あっても小指の爪の先程だろ」

キリコの言葉を信じなかった。俺の自信のなさの裏返し。こんなの俺じゃないみたいだ。

「信じなくていいよ」

ゆっくりとやわらかい感触がくちびるを覆う。なんども角度を変えてふれる温度に泣きたくなる。求められる前に口を少し開いた。俺の方から閉じたままのキリコのくちびるをなめて、舌先を隙間にすべらせた。相変わらず体温の低い口内は少しひんやりしたけれど、俺が熱くしてやれば問題ないんだ。

あいつが応えてくれるまで随分時間がかかった気がする。拙くても、技巧が足りなくても、俺ができる精一杯をくちびるが伝えた。

深く、深く、キリコの舌が俺の舌にからみつくまで、ずっと。

【BLOG】M.F.V.L「私の悪役令嬢」あとがき

長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。なんとか最後まで書き切りました。この話は昨年の夏の投票で負けた「海」の話になります。資料集めがかなり進んでいたので、もったいなくてテキストの形で表現しました。結局負けも作っちゃいましたが、約一年越しなので勘弁してください。

今回テーマを「悪役令嬢」に決めたことで、「悪意」を各所に散りばめて書くことになり、かなり胸糞展開が続いて私の精神衛生がよろしくなかったなあ。いかにヘイトを溜めてスッキリさせるかが難しい!

特に沙織とピンク頭の一団に関してのいざこざは、悪役令嬢ものにありがちなテンプレの内容を意識してみました。舞台を豪華客船に設定したのも、なんちゃってヨーロッパな悪役令嬢ものの雰囲気を、違和感少なく現代劇に表現できるかなと思いついたためです。何度もパーティがあったりしますし、ドレスコードが厳しい船もあるし。

パーティと言えば仮面舞踏会の場面がバリバリ気合入りました。今回ころころと衣装が変わるBJ先生でしたが、まさか女装させられるとは思ってもみなかったでしょうね。やってみたかった、それだけです。対してキリコ先生は、いろんな背景を持つ依頼人と最後の時を過ごすことが多いんだろうなという妄想のもと、タキシードも着こなすし、エスコートだってお手のものって完璧超人になってしまいましたが、いつもの事ですね。でもビーチで上半身裸にしたのはやりすぎた。これは反省してます。

基本的に子どもの喧嘩に割り込んでいると黒医者2人はよく理解して動いています。精神年齢が近い(とは言え一回りは違う、と思う)BJ先生はやらかしかけてますが、そっちは追加SSでどうぞ。

キリコ先生が「ロッキー・ロード」と名乗っているのは、アイスのフレーバーから来ているのはもちろんなのですが「kiriko」をアナグラムにして「rokkii」としたことが始まりです。うーん、安直。

一番初めから最後まで登場する羽目になった平野星満については、もっと上手い登場の仕方とかあっただろうなと課題が残るキャラクターになりました。悪役令嬢を超える、濃い悪意。それを描こうとすると、どうにも彼を道徳性の低い、利己的で執念深い人間像にせざるを得ませんでした。浅い書き方になってしまったので、もっと伏線の張り方とか、情報の取り出し方とか、もっと翻弄できる方法があったのではないかと、一番の後悔になっています。いやはや、難しい。

沙織が最後にした選択については、読者の方にお任せします。

いつもさっぱり系で終わることが多いので、ちょっともやる方にしてみました。

あとは小ネタがほんの少し入ってますけど、私の趣味です。

タバコに関するこだわりなのですが、キリコ先生が愛煙している「チェリー」は東日本大震災を境に販売が終了している品名です。各界の著名人が吸っていたことで有名らしい。私の場合は大した事情ではありませんが、幼いころからこれの煙を嗅ぐことが多かったんですね。今でもタバコと言えばチェリーの煙を思い出します。今の時代にはそぐわないほどの重いタール値がキリコ先生には合う気がして、現在は入手が不可能なタバコを彼に吸わせています。BJ先生は今回ラークを吸ってますが、もともとはマイセンくらい軽いのが好きなんだろうと思ってます。パッケージだけで選べばECHOでもいいかも。今より金に汚い時代は絶対ECHO吸ってたって!(偏見)彼は原作でパイプをよく使用していますが、パイプについてはまだ不勉強なので、当面シガレットで勘弁してもらいたいです。

追加SSで触れることになるのですが、今回鈴井が担っていた立場、船医と言えばブラック・ジャックでは一人しかいないでしょう。なんですが、ごめんなさい。私、彼女が嫌いです。名前を出すのも嫌なくらい。腐海の森に棲んでいる土壌はあるかとも思いますが、人としてお前どうなんと憤ることが原作読んでてありまして。その辺もキリコ先生に代弁させてしまっています。公式グッズ、どうして彼女を入れるんだろうなあ。

まあそういうのは後付けの感情でして、本編通して楽しんで書きました。

追加SSの後は、ペンタブを握りたいですね~しばらく描いてない~

最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございました!

My fair villainous lady⑫

俺は無理矢理、沙織から場の主導権を引き剥がした。

理由はいくつかあるが、現行のシナリオで不可解な点が出てきたことが大きい。俺達が前提にしていたものが、存在しないように見受けられる。これを沙織に暴かせるのは、ちと寝覚めが悪い。

カツンと革靴を鳴らして、平野に向き直る。

黒いコートをマントのように翻し、顔面の縫合痕を隠しもしない俺は、紳士淑女の皆様にはとびきり邪悪に見えるらしい。慌てて人垣の向こうへ隠れる奴もいる。大袈裟なことで。それじゃあ、ご期待に応えて悪役らしくやろうかね。

「おう、平野。お前さんの部屋は俺の隣の部屋なんだよ。毎晩ひどい物音で参っちまったぜ。今夜からは安眠できると思うと嬉しくてたまらねえ」

俺の言葉に敏感に反応すると、平野は黒で塗りつぶされた目を瞬きひとつせずに俺に向ける。まぶたのない魚類を思わせる視線だった。

「随分と熱烈だったぜ?全部ここでミナサマに説明してやろうか?」

芝居がかって手を広げて見せれば、平野の顔はわかりやすく不快にひきつった。

「お前は、誰だ?」

「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はブラック・ジャック。モグリの医者さ。そこの久遠寺さんと関りがあってここにいる」

平野程度の半端者だと俺の名前は知らないだろう。もうちょっと深い所を歩くようになれば、俺の肩書きくらいは聞くだろうがね。案の定、平野はピンと来ていない表情で俺と彰を見比べている。それでいいさ。お前さんの経歴を俺が訊かないように、俺の事も適当にしておいてくれ。

「なあ、平野。お前さんの久遠寺彰への執着は異常だ。愛玩しようとしてみたり、弑逆しようとしてみたり。破綻してるよ。ピアノのせいか?」

歯に衣なんか着せねえ。そのままぶすりと突きつけると、一瞬怯んだようだったが、平野は俺の言葉に応じた。

「そう、そうだ。彰のピアノは至高の調べだ。失われてはいけないものだった。俺はそれを自分のものだけにしたかった。それだけだ」

「分らんことを言うなあ。指を潰しておいて、どうやって演奏させる気だったんだ?」

「はは…演奏なんかしなくていい。指がなければ、新しい音を彰は奏でられないだろう。彰のピアノの音は全部俺の頭の中にあるんだ。ほらまた俺は思い出したぞ!10月3日のコンクールで彰が弾いたエチュードを!」

久遠寺彰の静かな顔を見つめながら、嬉々として平野は語る。ダメだな。早めに片付けるか。

「そうかい!じゃあどうして彰になり代わった?お前さんはいつもコンクールの中間の順位だったらしいじゃないか。コンクールで優勝する彰が羨ましかったから、入れ替わってみたのかい」

「違う!入れ替わってはみたが、彰の暮らしは窮屈で面白くもなかった。船乗りのピアニストの方が何倍もマシだ」

俺を射殺さんばかりの視線に対して、憐れみを含ませた嘲笑で応えてやれば、分かりやすく平野は怒りに震えた。そうそう。そっちの線で行こうぜ、ご同輩。

「へえ、窮屈かい。金に不自由しない船旅だっただろう?お前さんと同じ顔なのに、彰はファーストクラス。お前さんは最下層のインサイド客室だ。もっと豪華な部屋を楽しめばよかったのに」

「窮屈だと言っただろう!」

「おっと、血圧上がるぜ?同じ顔なのに、ピアノの才能だけじゃなくて暮らしぶりまで違いがありすぎるなんて、さぞかし残念だっただろうなあと思っちまったんだ」

ぴたりと宙の一点を見つめて、平野は呟く。

「…違い…違いね…判ってる。金の面で言えば、俺は船上のピアニスト、彰は久遠寺コンツェルンの3代目。砂粒とダイヤモンドの違い。ピアノの才能だって、俺は正確に把握してる。自惚れちゃいない。彰の才能は空を飛ぶ鳥と同じだ。ピアノを弾くことが当たり前で、自然なんだ。俺みたいなイミテーションとは違う」

煽り続ける俺の言葉に反発するばかりだったのが、急に冷静になり、自分と彰を比較しだす。魚類の瞳に理性の光が灯るよう。きっとこれまでに何度も何度も比べ続けてきたに違いない。さあ、肚の内を吐いてもらおうじゃねえか。

「なあ、ブラック・ジャックって言ったっけな。あんたは俺が金のためだけに彰と入れ替わろうとしたと思ってるんだろう。確かに金はあるに越したことはないが、金でどうしようもならないものもある。金持ちの生活が羨ましいとか、俺もああだったらよかったのにとか、そういうものを超えてるんだ。俺の彰への感情は、ピアノのコンクールで出会って今日まで30年の間に、愛…そう、愛に変わったんだよ…」

うつむき加減に話していた平野は、じわじわと顔を上げて俺の眼前に迫る。

久遠寺彰とよく似ているはずなのに、そこには暑苦しいまでの熱量を持ち正体不明に変化した、彼とは似ても似つかぬ満面の笑みがあった。

「この船で偶然にも彰と再会した時の俺の気持ちが分かるか?十数年ぶりに会う彰は、変わらず穏やかに微笑んでいて、ほのかに光っているようにすら俺には見えたんだ。俄然俺は彰を俺のものにしたくなった。膨らんだ蕾が開くのが当り前のように、なんていうかなあ、欲情したんだ。彰と一緒になろう。ならなきゃいけないってな。同じ顔なのに俺はどうしたって彰になれないし、彰だってそうだ。それなら二人でひとつになれたら、彰の全てを俺は独占できるだろう?」

俺は平野の思考を理解する気がなかったが、ただ言葉だけ鼓膜を通過はさせていた。ピアノに狂わされた男の独白。愛だの何だのは尚の事、相手の全てを独占したいなどという執念は、俺にとって嫌悪の極みだった。口を挟まないのを肯定と受け取ったのか、平野は機嫌よく話し続ける。

「平野星満は死んだことにして、俺たちは二人で久遠寺彰として生きていく。俺は彰の顔の代わりをするし、彰は俺の相手だけしてくれたらいい。そのためには彰からピアノを奪った腐った久遠寺コンツェルンなんか滅びればよかった。彰を縛るものはどれもこれも捨てて、全部済んだら俺は船を降りて、彰と二人で暮らすつもりだったんだ…カリブ海の島でもいいし、ニューヨークの裏路地でもよかった。素敵だろ?俺がピアノを弾いて、隣に彰がいる。誰にもばれずに船から彰を降ろす計画までしてたってのに、この頭でっかちのバカ娘がぶち壊しやがった…娘、ああ、これも運命なんだな!俺達はやっぱり運命なんだよ!」

いくつかの共通点と、積もり積もった恨み言。そこへどんな言葉で愛を語ろうと、どんな絵空事を描こうと、平野がしたかったことは結局久遠寺彰の幽閉に過ぎなかった。相手を無視した歪んだ愛の告白と共に、平野は両手を翳して天を仰ぐ。

「同じ顔をして、同じようにピアノを愛し、同じように娘までいる。ははっ、そいつが彰の娘をいびり抜いたって聞いたときは笑いが止まらなかった。俺は高薄のバカ息子をひっかけろって言っただけなのに。最高の運命じゃないか」

「娘?」

『彰の娘をいびり抜いた』ことに該当する人物は一人しかいない。

全員の視線が苺愛に向いた。

苺愛は不穏な空気が掴み切れない様子で口を開く。

「…娘って、誰?」

俺は仮説の検証を始める。

「おい、苺愛だったっけか。お前さん、この男を知ってるのか?」

ポーチからコンパクトを取り出していた苺愛は、関係ないと言わんばかりに化粧を直している。

「めんどくさ…こいつはあたしの同居人?みたいなやつ。あたしのママが死んだら、いきなり来た知らないオヤジ。そのときのあたしは小さかったし、こいつについていくしかなくて、船に乗ってあっちこっち付いてったってだけ。あたしが自分で稼げるようになったら、金を貸せってうるさいから、月イチで金を貸してたの。でも、ここまで頭おかしい奴だとは思ってなかったわ。キモい」

パチンとコンパクトのミラーを閉じて、苺愛はそっぽを向いた。

俺は平野の焦点の合わない目と向き合う。

「平野、どうして苺愛に自分の娘だと伝えないんだ」

「どういうことよ!あたしが?!そのクズと親子?ぜんっぜん笑えないし、気持ち悪い」

キンキンと喚く苺愛を放って、これまで沈黙を貫いてきたキリコが動いた。

「ところが、体は…と言うかね、遺伝子は嘘をつかない」

キリコは沙織から扇子を借りると、それでスッと平野のうなじを差した。そこにはオリオンのベルトのように並んだほくろが3つ。

「ほくろは遺伝するんだ」

弾かれたように苺愛は自分のうなじに手を当てた。いつもはミディアムボブのピンクの髪の毛の下に隠れているが、プールに落ちたとき、彼女のうなじにほくろが3つ並んでいたのを俺は覚えていた。彼女とベッドを共にした男どもも同じだろう。

「嘘!嘘って言ってんだろ!そんなでたらめ…!」

「医学的な証拠はある」

淡々とキリコは続ける。

「ほくろの遺伝子が、親から子へ伝わるのは証明されている。ほくろの多い親から生まれた子は、自然とほくろができやすい体になるんだよ。同じ場所にまでできるケースは実に稀だが、ない話ではない」

機械的に言葉を紡ぐ様子に苺愛はだんだんと気圧されていく。

「君たち二人を並べて、外見的特徴から親子と見出せる条件はきっと他にもあるのだろうね。例えば、ピアニストは手が大きい人や指の関節がやわらかい人が多いと言うし、君もそう言われたことがあるんじゃないか?」

苺愛の手からポーチが落ちる。化粧道具が散らばる音が響く中、苺愛は真っ青な唇を震わせた。

「…ありえないし……実の父親と…って、あたし……」

俺が書いたシナリオの前提条件の中に「平野と苺愛が血縁関係である」というものがあった。最下層のインサイド客室に監禁された彰に、平野が事細かく沙織や苺愛の事を知らせられるのは、苺愛と平野の間に密接な関係があるから。ほくろの一致から閃いた与太書きではあるが、密接な関係とは何かを予想させるには十分のおまじないだった。

尚且つ沙織と健斗の婚約が破棄されて、沙織の後釜に座るのが苺愛になったなら、その恩恵にあずかるポストに平野がいるべきだとして考えると、平野と苺愛が血縁関係にあると仮定した方が分かりやすかったのだ。

しかし、沙織が悪役令嬢として断罪劇を始めてから、俺は違和感を覚え始めていた。苺愛は平野の動きを全く意識していないのだ。完全に断罪され、4人のナイトから見放されても、苺愛は平野に助けを求めなかった。

苺愛は平野と自分の関係を適切に把握していない。これが俺の中に立った第2の仮説。するとぞろぞろと嫌な想像が広がりだした。これを沙織に始末させるのは荷が重い。場の掌握を図り、平野の心情を引きずり出し、結果、俺は最悪のカードを引き当てた。

平野は膝をついて震える苺愛に向かって平坦な声で言った。

「金を稼いでくれる今までは良かったが、ヘタに父親だなんて明かして、船から下りた後もコイツについて来られたら邪魔だろ?…顔だけはアイツに似てるんだよな。こいつが生まれたときに、自分で人生で一番の当たりくじ引いたなんて言ってて意味わかんなかったけどよ。まあ、でも蛙の子は蛙だ。色々手管を仕込んでいくうちに分かったが、中身は俺そっくりで」

「それ以上口にするのは、控えてもらおう。おそらく聞くに堪えんだろうからね」

ぴしりと平野の口元を扇子で差し、言葉を止めたキリコは、ばらりと扇子を広げて埃でも払うかのように仰ぎ、扇子を沙織に返却した。

「さあ、これで平野星満の生存が確認できたことですし、アレサンドロの件について聞いても構いませんか。藤村船長」

キリコは藤村に問うが、回答は最初から決まっていたようだ。

「わかった。続きは船長室で行おう」

平野を見下ろす位置に立ったキリコは穏やかに告げる。

「聞こえたとおりだ。一緒に船長室へ来てもらおう」

「…俺がまだ何をしたって言うんだよ」

「遺体を自分の身代わりに使っただろう。その件で聞きたいことがある」

ひゃははははと平野の哄笑が響く。体をくの字に折り曲げて笑い続ける男は、獣のよう。まともな神経をしているようには見えなかった。

「ああ、そうだ。これも運命だって思ったことのひとつだった!彰が俺のいる船に乗ってきた運命!だけど入れ替わって彰を手にいれようなんて、絶対に不可能だった。なのに俺の運命の歯車はまだ動いていた!船の中で新鮮な遺体が手に入るなんてな。これを運命とせずになんと言えばいい?すべてが俺のために動いてくれたのは、あの気味の悪い死体のおかげなんだ。魚の餌に…」

平野の言葉はそこで途切れた。

表情のないキリコの顔を見たまま、動きを完全に止めている。

「言いたいことは、それだけか」

キリコからは何の感情も溢れては来なかった。ただ落ち着いた声で平野へ告げる。それなのに場の空気は凍りつく。

「これから法的な手段で、君を裁くことになるだろう。私怨として君の存在を消すことは実に簡単だ。しかし時間をかけて、君を罪の中に閉じ込めておく方を俺は選択するよ。大好きなピアノとも、久遠寺彰氏ともお別れだ」

「い、いやだ!」

『お別れ』というわかりやすい単語が平野には届いたようだ。焦ってキリコにすがろうとするが、どうしてもキリコに近付けない。強い拒絶の視線が氷の色をした隻眼から放たれている。

「アレサンドロの尊厳を守るために、俺は君の全てを奪うよ」

己を断罪する冷たい意志を受けて、これからどうなるか理解した平野は、未練がましく同じ顔をした彰にすがる。すでにセキュリティスタッフが間に立ちふさがっているため、近寄ることはできなかったが、あらん限りの力を込めて喉を張り上げる。

「彰!彰!分かってくれるよな!俺がお前を愛してるって!」

なりふり構わず歪んだ愛を押し付けようとする平野の思いは、彰の微笑で砕かれる。

おっとりと人のいい笑顔を、少しだけ困ったように曇らせて、久遠寺彰は申し訳なさそうに口を開いた。

「すまない。君のピアノの音を覚えていないんだ」

この一言。

たった一言で、平野は全ての力を失ったかのように、ぷつりと床に崩れ落ちた。

天の至高の音を追い求めて、様々な犠牲を払った挙句、手に入れられたのは彰の体でも心でもなかった。久遠寺彰の中に平野が奪えるものなど初めから存在していなかったのだ。

何をもってして運命と呼ぶのかはわからない。

思い込みが運命に感じられることはままある。

平野にはその思い込みが、自分だけの妄想だと受け入れることは難しいだろう。

ただ彰の記憶にすら残らなかった自分を、どのように見るのか。それは彼自身の課題であり、塀の向こうでずっと考え続ける事に違いはなかった。

セキュリティスタッフが藤村の指示で動き、速やかに平野を拘束し、メインダイニングの外へ連れて行く。

仕切り直しのアナウンスが流れ、まだまだゲストたちの中にざわめきが止まない中、クルーが準備したビンゴゲームが始まろうとしている。さきほどまで劇の一幕を見せられたような観衆は、とまどいながらも通常のフォーマルナイトの気分を取り戻そうとしていた。

その会場の片隅で、震えていた苺愛に沙織は話しかける。

なんと声を掛けたらよいものか、散々考えあぐねていたようだったが、やはり彼女の性格から黙って放置する選択はできなかったようだ。

「苺愛さん、わたくし誤解しておりましたの。平野星満とあなたのことを…」

聞きたくないと言わんばかりに、苺愛は立ち上がり、メインダイニングを足早に駆けていく。沙織もその後に続く。

「…悪の先生として、ゆだねるべきか、見守るべきか」

「どっちにしろ、口を出す気はないじゃないか」

二人を見送ると、キリコがやって来た。

「お前さん、平野のところに行かなくていいのか」

「俺に捜査権限はないよ。できることはアレサンドロの代わりに、彼を裁判所に訴えることだけさ。調書や何やらは船長が作るだろう」

「それで…お前さんの気は晴れるのか」

「晴れるも何も、まだやることは山積みさ。束の間の休息になるかもしれないから、デッキに出よう。タバコが吸いたい」

俺とキリコは連れ立って、デッキへ向かう階段を上る。

嵐が過ぎ去った夜の闇で、そのピンクの髪は色を失くして風に舞うしかなかった。

マーメイドテールの膝丈ドレスは、今夜のドレスコードにはまったくそぐわない装いだったが、彼女が着れば儚い妖精のように見える。胸の内には強かなものを抱え、苺愛は追いついてきた沙織に思い切り毒づいた。

「どこまでバカにすれば気が済むんだよ!のこのこ付いてきやがって!追いかけてくるのが健斗じゃなくて、あんただってのがサイアク。頭おかしいだろ!」

結った髪を海風に散らされながら、デッキの甲板を一歩、沙織は苺愛に近付く。

「わたくしは、この騒動に関わった全てを知っておく必要があると思ったので来ました。苺愛さんが話したくないなら構いません。ですがわたくしは、あなたのことで誤解していたことがあるので勝手に話します。平野星満とあなたが親子であることを前提に、今日の場面を設けましたが、あなたは知らなかったのですよね?」

「……」

「わたくし、謝りません」

「…別に、あんたに謝られて、なにか得するわけでもないし。相変わらずエラソーでむかつく」

「……」

「なんか言えっての」

「お話をして下さいますの?初めてちゃんと話せる気がします」

「…あんたが知らない、クズの娘に生まれたサイアクな話をしてやるから、聞けよ」

しばらく苺愛は沙織と話すだけ話してデッキから去った。

去り際に俺達とすれ違う。

「よお、落ち着いたか。一本やるよ」

タバコを差し出すと苺愛は嫌悪の表情を作った。

「やめてよね。今回は『愛され系』でやってんの。イメージ壊れる。だいたいラークとかおっさんじゃん」

「どいて」と苺愛は船内に戻った。俺はラークがおっさんと言われたことに地味にショックを覚えてはいたが、隣の眼帯はチェリーという古代種を未だ愛煙しているので、黙っておくことにした。

カンカンとわざと足音をたてて、沙織のもとへ。

夜の海を見つめたまま、彼女は無言だった。

おそらく苺愛から、彼女の生い立ちや、父だという事実を隠したまま接してきた平野の行いについて、事細かく聞いたのだろう。

俺達に気付いた沙織は、ぽつりと呟いた。

「わたくし、世間知らずでしたのね」

寂しいような、哀しいような。

「まーだまだ、お前さんなんか知らねえことが世の中にはいっぱいあるんだぜ。いちいち気にしてる暇があったら、それをしっかり理解して、次に生かせ」

お前が言うな、とぼそりと呟いて、キリコは少し離れた欄干に寄りかかる。

「久遠寺を背負うんだろう?」

俺の問いかけに、沙織ははっきりと首肯した。

「もちろんです。当面はお父様、お爺様に教えを請いながら、必ずや久遠寺コンツェルンを立て直して見せますわ」

「高薄の後始末が先だぞ」

「もう始めております」

にこりとスマートフォンを見せる沙織は、経営者として小さな一歩を踏み出し始めたのを、俺に感じさせるのに十分だった。にやりと笑って釘を刺す。

「15億、忘れんなよ」

「ええ、もちろんです」

このまま終われば、華麗に断罪劇をやりこめた悪役令嬢の物語として終結したはずだった。

ところが、深夜になって事態は急変する。

医務室で眠る彰を平野が刺したのだ。

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お父様が刺されたと聞いたとき、もうベッドに入っていたわたくしは、お母様と一緒にガウンを掴んで医務室へ走りました。

医務室にはセキュリティスタッフの方々が床に犯人を押し付けて、身柄を拘束しています。荒げた声が行き交う中、お父様はどこにいるのかと医務室を見回した時、おびただしい血痕がベッドについているのを見たのです。しかしお父様はそのベッドにはいません。

「沙織!」

わたくしを呼ぶ声は、BJ先生。隣のカーテンを開けると、手術台でしょうか。特殊なベッドの上に寝かされたお父様の傍にBJ先生はいました。駆け寄れば、お父様の腹部は血にまみれて、ベッドにまで血が滴っています。真っ白になったお顔で弱弱しく息を吐くお父様。頭が混乱を極めて来た時、BJ先生はこうおっしゃいます。

「平野の野郎、刺した後で刃を中でぐちゃぐちゃに掻きまわしやがったんだ。五分五分だが、今すぐ手術をすれば助かるかもしれん」

反対に立っていたドクター・キリコは違うことを。

「これ以上の苦しみは、久遠寺彰さんにとって不要です。手は潰され、介護なしでは生きられない。刺し傷以外の内臓の損壊だってある。今後の彰さんのことを鑑みても、今の傷はとても助からない。安楽死をおすすめします」

ああ、もうこの先生方は『悪の先生』の顔をしていませんでした。

「黙れ、キリコ。まだ彰は助かる可能性がある。勝手に見切るのはやめろ!」

血しぶきを浴び、猛虎の如く牙を剥いて叫ぶ黒衣。

「勝手はそっちではないのか。見ろ、傷が内臓にまで達している。出血量も多い。無駄なことさ」

解をひとつしか持たない、氷結のまなざし。

「時間がない!手術をするぞ!」

「お父さんを苦しませる必要はない。安楽死を」

ああ、人の命を、まるで玩具を取り合うかのように争う二人は。

まさしく、『悪』でございました。

罫線

毎日聞こえていた波音がようやく耳から離れて、日差しがまぶしくなってきたころ、一通の手紙が届いた。メールではないところがらしいなと思う。

俺は椅子に座り、樫の木のペーパーナイフで封を切る。かさりと便箋が数枚。

拝啓

新緑の頃、先生におかれましては ますますご繁栄のこととお慶び申し上げます。

先日の株主総会で満場一致の支持を得て、わたくしが久遠寺コンツェルンの4代目として立つことが決定いたしました。当面は祖父が後見人として、わたくしの補佐を務めてくださいます。

高薄グループを傘下に加える体制も整い、皆様のご協力を賜るありがたさを強く感じております。

長らくお待たせ致しましたが、これで先生への報酬をお支払いできる準備ができました。あの時担保にした「わたくしの未来」を小切手に変えてお渡ししたく存じます。後日、担当の者がそちらへご連絡差し上げますので、お手続きをお願いいたします。

ただ…今でもわたくしは自分が下した決断に、これでよかったのかと思う瞬間があるのです。

きっとあの時、どちらの選択肢を選んでも、後で同じように迷ったでしょう。

「久遠寺を背負う」この言葉の重みを日々感じているところでございます。

木の芽時の体調を崩しやすき時期です。先生もどうかお身体をおいといください。

敬具

久遠寺沙織

My fair villainous lady⑪

嵐の中を「コンバーション」は進む。

船の外は荒れ狂っていても、船内は明るく、賑やかな航海最後のフォーマルナイトを迎えようとしていた。

ビッグバンドの演奏が華やかに響き渡るメインダイニングには、既にカリブ海の美しい島々の景色がプロジェクターから映し出され、間接照明とメタリックな輝きのバルーンの装飾がなされていた。

美しく着飾ったパートナーをエスコートするペアはもとより、こういった催しには参加してこなかった一匹狼だって正装して、グラスを傾けている。シャンパンは飲み放題。

クルー達が踊るようにフロアを巡り、ゲスト全員にグラスが行き届いた頃、船長の藤村がフォーマルナイトの始まりの挨拶をした。続いてシェフの大泉が今夜のディナーの説明をジョークを交えてしてくれる。テーブルには立食パーティとしては規格外の豪華な料理が並んでいた。

やがて藤村の一言で掲げられるグラス。乾杯だ。

ぐいっと一口飲むと、隣の銀色は沈黙したまま。

「どうした。少し顔色が悪いか?」

「少しばかり徹夜をね。この年齢には応えるよ。昔は何ともなかったのに」

例のモノを仕上げていたからだろう。ぶつくさいうけれど、超合金チタンの心臓に五寸釘打ち付けまくったハートの持ち主なんだ。なんともないさ。眉を下げた俺の顔を指差して

キリコは言う。

「お前は、やっぱりその服装がしっくりくるよ」

ああ、と思い出したように自分の姿を見る。真っ黒のスリーピースに、同じく黒のコート、コバルトブルーのタイを締めれば闇医者ブラック・ジャックの復活だ。キリコも揃えの黒いスーツに身を包み、一部の隙も無いような様でいる。

そこへ悪役令嬢の登場だ。

「先生方お揃いで。ふふ、やはり悪の先生はこうでなくては」

エディが贈った黒い扇子がすっかり気に入った沙織は、豊かな黒髪を結い上げ、ぴったりとした黒いレースの袖に、ドレープが美しい黒のイブニングドレス。ざっくりと開いた背中は新雪が降り積もったばかりのように白かった。

「お前さんも、悪役令嬢がすっかり板についたな」

「ご指導のおかげです」

沙織の後ろでは絹子がそっと頭を下げた。

さあ、幕が上がる。

罫線

ジャズの生演奏が終り、プロジェクションマッピングが派手な幾何学模様を描き出す、ディスコタイムが始まったばかりの時だった。

ステージ上から高薄健斗の場違いなほど大きな声がメインダイニングに響きわたる。

「久遠寺沙織、貴様のような女には愛想が尽きた!俺はおまえとの婚約を破棄する!」

断罪劇の始まりだ。

健斗が指をさす方向に、ばっくりと人垣が割れる。

その先にいるのは沙織。

それを受けて立とうと言わんばかりに、沙織はおっとりと微笑を浮かべた。

「理由をお聞かせいただいても?」

ピンク頭の一団が怒りもあらわに揃って沙織を睨みつける。苺愛だけが悲劇のヒロインのようなしぐさで、健斗の白いスーツの腕につかまっていた。

周囲の人間が呆然と見つめる中、健斗はマイクを手にして、沙織を指さし声を張り上げた。

「いいだろう。これまでお前が積みかさねてきた悪事について明らかにしようではないか。それを示せば、お前がいかに俺の婚約者にふさわしくないかが分かるだろう。守!」

「はい。ここにいる苺愛嬢に対する嫌がらせ行為について報告します。

・苺愛嬢の私物を無理矢理奪い取り、破損した

・苺愛嬢の交友関係に嫉妬し、自身の生まれ育ちを笠に着て、暴言を吐いた

・苺愛嬢を故意にプールに突き落とし、辱めた

・高薄健斗氏の婚約者である立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした

非常に大きな問題行為です」

沙織は扇子を口元に当てて黙って聞いていたが、守からそれ以上の言葉がないので、拍子抜けしたように口を開いた。

「まあまあ。それだけでよろしいの?皆様、もっとわたくしに対していつも怒っていらしたでしょう?理由はこれだけですの?」

「なにっ」

いきり立つ健斗の後ろに小動物めいてびくびくと隠れる苺愛。今日の装いはギリギリのラインまで落としたオフショルダーのドレスだ。スパンコールが縫い付けられた薄桃色のフィッシュテールの裾は膝が見える丈にわざと調整している。

「では、わたくしからも事情をお話しさせてくださいな」

「黙れ!お前など」

「一方の意見だけ聞いて判断するのは、経営者としての資質に関わりますわよ」

経営者としてと告げられると健斗は押し黙る。

「一点目『私物を無理矢理奪い取り、破損した』との事ですが、ホースシュー・ベイで起こった事案でしたら、苺愛さんからわたくしにネックレスを渡してきたのです。それを手にした瞬間に泥棒呼ばわり。何が起きているのか、理解できませんでしたわ。その他もそう。全ては苺愛さんから始まるのです。奪い取る状況ではございませんでした」

「ひどい!こんな大勢の前でも嘘を吐くの…」

沙織は苺愛の言葉には答えず続ける。

「お次は『自分の生まれ育ちを笠に着て、暴言を』…そうですか。皆様にはあれが暴言に当たるのですね。いくつもありすぎてわたくしも覚えきれておりませんが、触ってはいけないディスプレイに触れるのを注意するのも暴言、アイスクリームショップの前で長々とおしゃべりを続け営業妨害にあたるので場所を移動しようと提案するのも暴言なのですね。前を歩く小さなお子様に気をつけるように配慮を促すのも暴言となると、これ、生まれ育ちと関係あります?」

「き、君は事実と異なることを言っている!証拠がない!」

口角に泡を溜めて守は喚くが、沙織はどこ吹く風だ。

「それを言い出しますと、すべての項目がわたしくしを責める要素として成り立ちませんわよ。それでよろしくて?」

「じゃあ、苺愛をプールに突き落としたのはどうなんだよ!あれはたくさんの人が見ている前での出来事だったろ!」

「突き落とした?」

進み出た飛田を前に、沙織はぱちんと扇子を閉じる。

「わたくしは決して、苺愛さんを突き落としてはおりません。大体わたくしはプールから一番遠い場所にいたのです。あなたがたの輪から遠ざけられて。どうして苺愛さんの側に行けましょう。その場にいたあなたがたは、わたくしの腕が苺愛さんを押すのを見たのですか?」

「そ、それは苺愛が…」

「だそうですよ」

尻すぼみになった飛田の言葉を続けるように、ピンク頭の一団に問いかけるが、言い返せるものはいない。

「あの件については、わたくしも思うところがありますのよ。誰に足をひっかけられたなどと些細なこと。わたくしもプールに落とされましたわ。ですが、その時あなたがたはどうなさいました?水の中に沈んだ私物を拾い上げるわたくしを見て笑うばかり。あんな屈辱、生涯忘れることはございません」

仄暗い炎を灯しだした沙織の視線に飛田は怯む。代わりに飛び出てきたのは小網だ。壇上から下りようとするのを、沙織は扇子をビッと指して止める。

「小網さん、近寄らないでくださいませ。わたくしはあなたに乱暴されたのを忘れてはいませんわよ。身の安全のために、それ以上わたくしに近寄らないで」

室内の照明が落ち、額縁も何もない壁にプロジェクターが向きを変える。激しい幾何学模様から映像が切り替わったプロジェクターには、ある動画が流される。

場所はプエルトリコのカフェに面した路地。カフェの中から撮影されたと思しきそれには

『もう許せねえ!』

小網から発せられる怒号から、沙織が椅子ごと押し倒され、胸倉をつかまれる一部始終が映っていた。

あまりの乱暴な振る舞いに瞠目する紳士。見ていられないと視線を外す淑女。ざわめきが広がり、周囲の視線は小網に向いた。三度彼はこそこそと健斗たちの一番後ろに隠れた。

「それから『高薄健斗氏の婚約者と言う立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした』という件ですが、以前にお話しした通り、わたくしは仲間の内に入れていただいていたとは露ほども知りませんでした。当初は無理を承知で健斗さんの婚約者として輪の中に入ろうと努力はいたしましたが、皆さんと苺愛さんとの結束があまりにも強く、毎日「来るな」と言われましては…それからは、一度も皆さんに近付いてはおりません。わたくし一人の力で苺愛さんを仲間外れにしようなどと、とても」

「関わっただろ!ビーチでも、ダイニングでも!僕たちをバカにして、小網を無理矢理謝らせたくせに!」

飛田は小さな体を思い切り背伸びして訴える。

「喚かなくてはお話しできませんの?どちらもわたくしは近付いていません。そちらから来たのです。バカにしたとは不躾な言い方ですこと。不当に貶められれば、謝罪を求めるのは当然の事。それ以外に何があると言うのです」

きっぱりとした沙織の物言いに、眼鏡をくいっと上げて、守が飛田の前に出た。飛田は幼い顔に悔しさをにじませて、一旦引き下がる。

「では、我々も不当に貶められた申し立てを行おう」

「あらまあ、あなたから?いつもお仲間から不当に扱われているあなたから?」

「どういうことだ?!」

「ああ…ごめんなさい。御自覚が無かったのですね。しかも皆様の前で…わたくしったら配慮が足りず、忘れてくださいませ」

本気で『やってしまった』顔を作って、透かし彫りの入った竹の扇子をぱっと広げ、顔を隠す沙織。

「何が言いたいんだ。私が不当に?みんなから?詳しく教えてもらおうじゃないか」

「そうですか…気が進みませんが…では、事実から。わたくしたちが参加したツアーの自由時間、皆様、苺愛さんと二人きりになる時間がありますわよね。その時間が、守さんは一番短いのです。何をなさっているのか、わたくしにはわかりかねることですが、とにかく守さんが一番苺愛さんといる時間が短いのです。みなさんそれをよくわかっておられるようでしたよ。ねえ、飛田さん」

「へっ?あっ?いやっ、そんなことは」

「ちょっと待て、その前に皆、苺愛と二人きりになっているのか?」

「鷗介、知らなかったの?」

やいやいやりだした連中を置いて、沙織は扇子をふわふわと仰ぐ。

「ぼくに苺愛は言ってたんだ。健斗はお金で言うことを聞かせようとするし、小網は力が強いから怖くて逆らえないって。鷗介のことは、その、かわいそうだからって…」

「か、かわいそう…」

プライドの高さだけが全てのインテリ眼鏡は、よろけて演台にぶつかった。幾分申し訳なさそうなポーズをとりながら、飛田はふくらんだ小鼻に勝ち誇った優越感を隠せない。そんな彼に沙織は問う。

「あなたはどう思われているか、気になりませんの?」

「え…っ、僕は苺愛からいつも相談されているし、信頼されてるから」

「相談、信頼…そう言えば、飛田さんが苺愛さんに贈られたお土産類、余程大事にされていますのね。今までの贈り物を苺愛さんが身に着けてらしたお姿を拝見したことがありませんもの。健斗さんが送った腕時計はキャッシュ決済する前に着けて、それきり肌身離さず。それと違って飛田さんからの贈り物は、お互いの信頼の証…きっと宝石箱の中に大切にとってあるのでしょう。飛田さんと苺愛さんの絆の深さがわかりますわ」

扇子の向こうで、ころころと鈴を転がすように笑う沙織。飛田の顔色は目に見えて悪くなった。セント・トーマスのビーチで贈ったピアスの事でも思い出しているのだろう。守はぶつぶつと壁に向かって喋っている。

「まあまあ、お二人とも、お話は済みまして?」

守と飛田を難なく退けた沙織の向こう側で、小網が息を吹き返した。

「ちょっと待てよ。俺は『怖くて逆らえない』?どういうことだ、苺愛」

「コアミー、飛田君が勘違いしてるだけだよ~」

「苺愛、そんなふうに言うの?」

4股もすれば、こんな修羅場にもなるだろう。お友達ごっこが瓦解しようとする中、健斗が生徒会長オーラを全開にして立ち上がった。

「みんな!論点をすり替えられているぞ!俺達は沙織の悪事を暴くためにここへ来たんじゃないのか?!些細なことは後にして、今はあの悪女をやっつけるんだ!」

沙織は悪役令嬢から悪女にランクアップ。再び一致団結したピンク頭の一団は沙織を口々に責め立てた。

「お前の言ったことは間違いだ。可憐な苺愛が自作自演なんかするはずがない」

「結局お前がしたいことは、健斗の気を引くことだけだ。それが上手くいかないから苺愛に嫉妬をしている。見苦しい真似をいつまで続ける気だ」

「俺達は間違ったことは何もしていない。一々真面目に注意してくるお前が鬱陶しいんだ。この船に乗った俺たちは客だぞ?客としてサービスを受けることに何の文句があるんだ!」

口々に沙織を罵った後、奇妙な静寂がメインダイニングに満ちた。

ここまでの彼らのやりとりは、全て彼ら自身の主観によって語られている。客観的な証拠は何一つ出てこなかった。謂わば他のゲストは寸劇を見せられているのも同様で、彼らのどちらに信用を置くべきか、一切の価値基準を持ち得ていなかったのである。

そこへ一石を投じる者がいた。

「誰か、そのお嬢さんの助けをしてあげなさい」

船長の藤村である。『お嬢さん』としか彼は言わなかった。ピンクか黒かは、指定していない。

しかし、メインダイニングの隅で手が上がった。

「船長、発言の許可を」

「構わない」

挙手をした彼女の周りにざっと人がはけて、スペースができる。

「ファニチャーショップ担当のリンジーです。彼らはいつも店頭に展示してあるソファに座りたがり、私は再三注意しましたが改善されませんでした。一番初めに注意してくれたのは沙織さんです。彼女は辛抱強く、なぜいけないのかを説明しましたが、決して暴言などではありません。私はそれを証言します」

対角線上に大きな手が上がる。

「船長、許可を」

「ああ。今後私が止めるように言うまで、皆、自由に発言して構わない。」

「どうも。メインダイニング、給仕のオズワルドです。苺愛さんがカトラリーがないと騒いだ日、私がテーブルメイクをしました。カトラリーが全て揃っているのを私は確認しています。彼らがテーブルを離れた後、床にフォークが一本落ちていました。私にわかることはこれだけですが、沙織嬢がテーブルにいた全員から糾弾される原因がフォーク一本から始まったのを、とても残念に思っています」

「同じくメインダイニング担当のラーヒズヤです。そちらのピンクの髪のお嬢さんが来た時のダイニングの雰囲気は酷いものでした。辺り構わず喚き散らして、他のゲストの皆様への多大なるご迷惑になってしまい、クルーとしても忸怩たる思いでした。僕はどちらが良いとかは言えませんが、いつも騒動の原因はピンクの髪のお嬢さんがたにあったということは事実として申し上げておきます」

「メインダイニング・メートルディのデボネアです。今朝起こった事件を話します。苺愛さんが沙織さんの頭にオレンジジュースをかけ、彼女を嘲笑した事件がありました。その後沙織さんも紅茶をかけてやり返したので、どちらも同じなのですが、沙織さんの側からは後に謝罪がダイニングクルーに向けてありました。これまで何度も起きた騒動に加え、今朝の件を含めて、彼らの保護者であるミスター高薄に正式に苦情申し立ていたします」

デボネアはここで言葉を切ったが、苺愛側がどうだったのか周囲のゲストにはすぐに分かっただろう。

「船長、図書ラウンジのクララです。航海3日目に苺愛さんがその赤い髪の男性と図書ラウンジの隅で性的に不適切な行動をとっていたので、退出するように注意をしました」

どよめくメインダイニング。隠し玉を温存していたクララだ。

「せ、せ、船長。キーパーのアナです。その、4人の青年の部屋の掃除が、あの、えっと、大変です……性的な意味で…」

ぶはっと吹き出すゲストがいる。それを汚らしいものを見る目で追い払うゲストの妻。

「コーヒーバーのマリベルです。店内からエレベーターホールが見えるのですが、そこで苺愛さんのグループをよく見かけました。彼らの中で婚約者として振舞っていたのは沙織さんではなく、苺愛さんの方でした。健斗さんの腕に常に彼女は抱きついていましたから。それに沙織さんはいつも最後尾をひとりで歩いていました。グループの中で発言権があったようには見えませんでした」

「同じくエディです!とても個人的な意見になりますが、僕は悪役令嬢が、いえ、沙織さんが間違った行動をしているとは思いません!ちょっとやりかたは不器用だけど、彼女の行動は常識的です。ひとりで4人もの男性を独占しようとする女性とは違います!」

「もうわかった。クルーの諸君、ここまでにしよう」

藤村は切り上げたが、今度はゲストの方へ漣が広がりだした。

「そういえば、あの青年たちをいつもカジノで見かけるぞ。高額なベットをしていたが、あの金はどこから出ているんだ。まだほんの子どもから青年になったばかりと言ったふうじゃないか」

「家族で来ていると聞いた。親は知っているのだろうか。私と妻が買おうか悩んでいた限定品のペアウォッチを一括で購入していたぞ」

「余程の富豪なのでしょう。あの女の子にピンクゴールドのブレスレットを何本もプレゼントしていたし」

「だいたいあのピンクの髪の女の子は何なんだ。4人もの青年を侍らせて」

「あの子たちが来た時のダイニングは、確かにひどかったわね」

さわさわ、ざわざわと人の口は止まらない。

メインダイニングの中ほどにいた高薄浩一郎は、健斗たちの振る舞いがここまでの騒ぎになるとは思ってもみなかった。こんなふうになるのなら、もっと序盤の方で止めるべきだった。

そうしなかったのは久遠寺彰が再三再四に渡り、健斗と沙織の婚約を破棄するように求めてきていたからだ。理由は沙織の人格が健斗に不適格だと言う主張ばかり。自分の娘をそこまで貶めて話すのは、何か意図があるのかと訝しんだからこそ今がある。

隣で静観していた久遠寺彰も最初こそ平然としていたものの、今は得体の知れない顔つきで壇上を見据えている。

「久遠寺さん」

浩一郎が呼びかければ、座った眼で返された。彼は一言も発しない。ますます剣呑な雰囲気を感じながら、提案をひとつした。

「このまま息子たちに任せておけば、場はもっと荒れてしまう。今のうちに治めてしまいましょう」

彰ははっきりしない返事だったが、構うものかと浩一郎はメインダイニングのステージ目がけて歩き出した。それを遮るように健斗の大声が響く。

「うるさい!うるさい!外野は黙っておけ!」

健斗は苺愛の腰を抱き寄せると、高らかに宣言した。

「俺は間違ってなどいない!苺愛と結婚する!だからお前なんかに用はない!とっとと失せろ、沙織!」

「健斗ぉ~、あたし、あたしっ、うれしい…」

「ああ、俺のかわいい苺愛。もうお前を悲しませたりしない」

べっとりと甘い蜜菓子のような二人のやりとりを見て、沙織はぱちぱちと手を叩いた。

「はい。わたくしも婚約破棄を申し入れたかったのです。受け入れてくださいますね?」

「…?お、おう。受け入れよう」

すっかり立場が逆転したことに気が付かない健斗は、そのまま沙織の笑顔を見つめ続ける。

「さあさ、皆様方も祝福なさってくださいな。苺愛さんは健斗さんとご結婚なさるのですって」

呆然と健斗と苺愛の後ろに立つ3人に向けて、沙織はにこにこと話しかける。先程中断された話題の再燃だ。

「…待てよ。俺は苺愛が健斗と結婚するなんて聞いてねえ。苺愛は俺と相性が一番いいから、ずっと一緒にいたいってあの夜言ったよな。健斗には金で言うこと聞かされてるって」

「僕にもそういったよね。苺愛、君を一番思ってるのは僕だよ!他の奴らの言葉に騙されちゃダメだ!」

「私をかわいそうなどと表現するなんて、冗談がきつい。だって君は私の全てを捧げた女性なんだ。やさしく包容力に満ちた純情な君が、他の男に…」

3人はそこまで口にして、違いの顔を見合った。たっぷり時間をかけて、ようやく理解をする。よろしく兄弟、と言い合えるほどの度量を誰もが持ち合わせていなかった。

間抜けな表情の男子高校生3人へ、沙織は笑顔のまま続ける。

「どうなさったの?急に元気をなくして。あなたがた、誰のために怒ってらしたの?」

苺愛のため、苺愛が喜ぶから。

だけどその前提条件は崩れた。自分は苺愛の一番じゃない。だったらこれ以上彼女のために尽くすのは意味があるのだろうか。そう疑い出せば、恋に燃える炎はやせ細る。

結局彼らは、しぼむようにして壁際へ下がった。心ここにあらず、といった具合で。

「それでは、わたくし、お二人の門出のために動画を作っていただきましたの!ご覧になってくださいませ!」

明るい沙織の声を合図にして、再びプロジェクターが動き出す。壁に映し出されたのはSNSに投稿されたと思われる写真の繫ぎ合わせだった。ロマンティックな音楽と共に、おそらく二人の出会いであろう自撮りのツーショットから、ビーチで遊ぶ苺愛の水着姿、きわどい肌の写真。朝日の中で白いシーツに沈む裸の健斗。キスをする写真まであった。まるで結婚式のなれそめムービーのようだが、決定的に違うカットが入ってきた。

『動画なんか撮るなよ』

健斗の声。画面には豪奢な黒と金の装飾がされた部屋が映っている。

『だって~スイートルームなんて~簡単に入れないし~、アップしたら、バズるかもだし~』

携帯のカメラと思しき画面は部屋のあちこちを映してる。天井のシャンデリア、高価な革張りのソファ。バスルームまで撮影していく。

『いいから、こっち、こっち』

『すごお~い』

『父さんたちの部屋は一番グレードが高いから、ほら書斎まであるんだぜ』

『かっこいい~』

カメラは書斎の中をぐるりと一周する。

ムービーはここで急にスローモーションになる。

再び通常のスピードで再生されるムービー。書斎の椅子に座って笑う健斗。

『俺も将来ここに座るかもな』

『じゃあ~あたしは?』

カメラの向きが変わる。ここでムービーはストップ。画面には机の上に置かれた紙が写っている。何かの罫線と数字。

ムービーが再生されて、苺愛は健斗の膝の上に乗っていちゃついている。携帯は机の上に置かれたまま。さっきと違う角度から書類が見える。

次のカットでムービーは真っ暗に切り替わり、ぽつり、ぽつりとさっきの断片的に映された数字や書類の欠片が画面に現れる。スローモーションから切り取られた画像も繋ぎ合わせれば、一枚の書類が出来上がった。

〈〇〇市体育館増築工事〉

〈入札価格〉

〈A社 1億3000万円〉

〈B社 1億6000万円〉

〈C社・・・

高薄浩一郎の背中は汗でびっしょりになっていた。

どうしてあんなものが、ここで晒されている。

あれは誰にも見られてはいけないもの。

妙な動悸がして耳鳴りさえする。

なぜ、息子にカードキーを求められたときに熟慮しなかった。

なぜ、息子の後ろにいるピンクの髪の少女に気が付かなかった。

あんなところに書類を置きっぱなしにした自分にも腹が立つが、やすやすと他人を部屋にいれた息子の軽率さにも腹が立っていた。

なぜ、なぜと繰り返しても、現実として書類は壁面に映し出されてしまっている。

しかし、ここは海の上。書類のことなど知らないと言い切ってしまえば乗り切れるように思えた。

浩一郎は何も気づいていないようなそぶりで、拍手をした。

「いやあ、臨場感たっぷりの映像だったね」

令嬢の微笑で沙織は返す。

「ええ、こんなに愛が溢れたお二人の姿を目の当たりにしては、わたくしから婚約破棄を申し入れるほかありませんわ」

「それなのだがね、沙織さん。今はここだけの話にしておいてくれるかい」

「まあ、どうしてですの?後半部分はよくわからない映像になっておりましたが、その他は健斗さんと苺愛さんの愛を育む過程ではありませんか。二人のお祝いになるかと思い、わたくしお友達に動画を送ってしまいました」

「なにっ…」

扇子で顔を隠した沙織に迫ろうとした浩一郎の携帯が鳴る。なかなか鳴りやまないそれを忌々し気に受け取り、彼は見る間に顔色を失くした。

海の上で電話は通じない。だけどもWi-Fiの普及でメールは可能になった。浩一郎の携帯にはメールがひっきりなしに届き続けている。

2m近いがっしりとした体格の男は、ただ画面を埋めていくメールの抜粋を見つめて、岩のように固まってしまっていた。

「父さん、どうしたんだよ。父さん?」

浩一郎の様子がおかしいことに健斗は焦る。何が原因で父が取り乱しているのかは知らないが、ただならぬ様子にこの騒ぎでこれまでしてきた悪事が父に一気にバレるのではないかと冷汗をかいていた。

すでに父の部屋に勝手に入ったことはバレた。ではクレジットカードを盗んで使っていたことは隠し通さなければならない。そんなことは明細を調べればすぐに分かるのだが、愚かな健斗には少し先の未来さえ見えていなかった。

父の拳が彼の頬を殴る未来さえ。

動画に高薄の持つ書類の映像を混ぜ込むよう提案したのは、沙織だった。

知り合った初日に、沙織を含めた6人は苺愛の提案で半ば強制的に連絡先を交換し、沙織は自分のスマートフォンに初めてSNSのアプリを入れた。その夜、自室で四苦八苦して自分のアカウントの設定をして、教えられた苺愛のアカウントを覗いたとき、沙織は思わずスマートフォンを取り落としてしまった。

健斗と苺愛のツーショットが記事のトップに固定されていたからだ。

その後も苺愛の投稿は続く。きらきらと輝く腕時計を着けた苺愛の横には、揃いの腕時計をつけた健斗の姿。「ねおき」と題された投稿に写るのは、肌もあらわな苺愛の姿と昨日健斗が着ていた柄のシャツ。

見るのがつらくて、それきりアプリは開いていなかった。

しかし彼女の悪の教師たちはそれを許さなかった。ミモザの木の陰でそんな上手いエサがあるなら初めから出せと言われたときには、流石に泣きそうになった。デバイスから必要な情報を引き出すと、銀髪の悪の教師はあっという間に動画を作り上げ、白黒の悪の教師は動画から得られた情報を公開するシナリオを書き上げた。

そのシナリオには沙織の希望通り婚約破棄が盛り込まれていた。

高薄浩一郎は久遠寺との婚姻をあきらめない。それは沙織の目からしても決定事項だった。

平野は高薄と久遠寺を引き剥がしたい。理由は婚約破棄になれば、久遠寺が高薄から資金援助を得られず、破滅へと追い込まれると平野が信じているからだった。

沙織は健斗との関係が修復不可能なのを理解していた。婚約者がありながら、苺愛とここまで親しくなった男性を夫と見ることはできない。したがって婚約破棄は願ってもない事態。だが、ただ婚約破棄するのでは平野の思うつぼである。

このクルーズが終わると同時に、業界全体に久遠寺が高薄から見放された存在だと言う事実が作られてしまう。久遠寺のプライドは地に落ちる。

あの畜生にも劣る所業の男を喜ばせるのは、少しでも許せなかった。

地下で苦しみに耐え抜いている父の意地に報いたかった。

そこで、平野の思惑を破るためには、高薄を価値のないものに変える必要があった。

苺愛が沙織への嫌がらせ以外の意図をせずに、SNSに上げていた動画に映っていたのは、高薄が関わる公共事業の入札価格。極秘の資料だ。それを持っていただけで、談合の疑いを持たれかねない。いいや、疑いでは済まないかもしれない。

高薄がここまで積み重ねてきた信用は、この談合疑惑で崩れるだろう。

そこまで高薄が憎かったか。違う。

そこまで健斗を恨んでいたか。違う。

違うのだ。

高薄と久遠寺彰を天秤にかけて、迷うことなく沙織は父を、彰を取った。

それだけなのだ。

だがそれを人は悪意と呼ぶだろう。打算的で、独善的。

目的のために他者を陥れ、地獄を見せる明確な悪意。

沙織はそれを一生背負う覚悟をした。

「ねえ、なにがあったのよ~健斗ぉ~おじ様、どうしちゃったの?」

殴られた頬を押さえながら、とぎれとぎれに現状を整理しようと健斗は必死に頭を回転させている。

「ウチの会社が、まずいことになった。多分、父さんの様子じゃ、かなり酷い損失が出るんだと思う」

「なにそれ」

「苺愛?」

「健斗の会社、倒産するの?」

「そこまではわからない。ただ、まずい状態だってのは…」

「なにそれ!なにそれ!なにそれ!」

苺愛はヒステリックに叫んだ。

「意味ね―じゃん!金持ちじゃなけりゃ、落とした意味ねーよ!バカじゃねーの?!」

醜悪な形に顔を破壊して、口から次々に刺々しい悪態をつく。そこにはピンク頭の一団が恋焦がれた、可憐な少女はすっかり姿を消してしまっていた。

「あんたなんか金持ちじゃなけりゃ、ただの世間知らずのバカ息子じゃん。あーまじ、時間損した!」

地団太を踏んで、喚き散らす姿は鬼女のよう。しかし、何かに気が付いたようにそれをころりと変えて、にんまりと破顔する。

「あ、そうだ~コアミーのお家、不動産たくさん持ってるんだよね~。ねーねー、あたし、健斗に騙されてたの~コアミーなら」

ターゲットを変えて苺愛は小網にしなだれかかる。だが流石に先程の豹変を見せられて、うんと頷くほど彼は目が曇ってはいなかった。

「俺の事も財産目当てだったのか」

「違うよ~あたしは~健斗にだまされて~~」

「いったいどの顔で騙されていたなどと言うのか。私の実家が老舗の旅館だと言うことも嗅ぎつけて近付いていたのでしょう」

「結局苺愛が見ていたのはお金だったんだね…」

取り巻きどもが完全に自分から離れていくのを感じながら、苺愛はあがく。

「みんな、ひどい~楽しんだのは同じでしょ~~」

誰も口を開かない。気味の悪いものを見るように苺愛を退けようとしていた。流石にこれ以上は無駄だと判断したのだろう。苺愛は仮面を完全に脱ぎ捨てた。

「あーっ、もう!どいつもこいつも使えない奴ばっか!ヘタクソだし!気が利かないし!根性ないし!気分悪。帰るわ。どいて」

壇上から下りようとする苺愛の行く手を遮るものがある。沙織だ。

「まあまあ、苺愛さん。もう少し、あなたに見せたいものがありますの。お付き合いなさって」

「チッ、誰がテメーの言うこと聞くんだよ。気取りやがって」

扇子を耳元に当てて、苺愛に沙織はそっと囁く。

「あなたをよく知る男性に関係していて、ひょっとしたらこの先あなたのお金に関係するかも…と申し上げても?」

沙織はこれまでと同じように微笑を絶やさなかった。しかし、苺愛は対照的にすべての表情が抜け落ちた。

「あんた…」

その後の苺愛の言葉は聞き取れなかったが、彼女はその場に立ち尽くす方を選択した。

覚悟を持った悪役令嬢の暗い瞳が、父の形をした悪意の源に向かう。

「観念なさい。平野星満。あなたの目論みは全て砕けましてよ」

びしりと扇子で指した先には久遠寺彰〈だった〉人物がひとり。

どうやら悪あがきをする気もない様子で、短く唸り声を上げ、男は髪をかき上げる。とたんに整髪料で固めた前髪は崩れ、同じ顔でも全く印象の違う風貌が現れた。

柔和な目じりは吊り上がり、微笑を絶やさなかった頬はニヒルに歪められている。

長らく久遠寺彰のふりをしてきた平野星満が、本来の姿を見せたのだ。

「ショーマ!」

悲鳴に近い叫びを上げたのはマリベルだ。

マリベルの声を全く無視して、平野は沙織に向き直る。

「ああ、ああ、面白い見世物だった。で、俺はトリか」

毅然として沙織は平野に立ち向かう。

「はい。これがお父様の望みですから」

「彰の望み…?そんなものどうしてお前が知っている」

「娘ですもの。お父様が、久遠寺のプライドを守り通そうとすることくらい、わたくしにもわかります。そのために、わたくしは婚約破棄の汚名を被ることも、高薄さんの手を取らない選択にも躊躇いはありません」

「へええ…プライドで腹が膨れるのか。会社がどうなっても良いって?」

変形する節足動物のように、平野の顔に憎悪の皺が刻まれていく。

「それとこの問題はすでに別件です。確かにわが社は現在資金繰りに喘ぎ、追い詰められてはいますが、別のルートでの解決法を見つけています。ねえ、お母様」

黙っていた絹子が沙織に寄り添い、彼女をかばうように平野を見据える。

「ええ。高薄さんと我が家は長いお付き合いがあったからこそ、資金提供の話がすぐに出ましたが、長期的に見れば何も高薄さんに拘る話ではないのです。すでに日本で義父が動き出しています。あなたの思い通りにはなりません」

はは…と砂のように軽い平野の笑い声。ゆらりと幽鬼の如く沙織に近寄るのを、絹子は必死の形相で食い止めようとする。

「金、金…ああ、俺はこんなに金に苦労しているのに、あるところにはあるもんだよなあ。これも俺と彰の違いだ。全く忌々しいぜ」

「わたくしは平野星満、あなたを訴えます」

「あーっはっは!何の罪状だ?彰に入れ替わっていたことが、そんなに罪になるのかい。俺は確かに高薄にお前の婚約を取り消すように、資金提供を止めるように再三告げ口はしたけれどな、とどめを刺したのは、お前自身だぞ?俺の動きなど些細なものだ。何もしていないに等しい」

絹子を容易く押しのけ、狂人のそれとよく似た瞳で、平野は沙織の顔を覗き込む。

「ええ。おっしゃる通り。ですがお父様自身に対してはどうでしょう。わたくしが何も知らないとお思い?」

「………彰の事、だと」

フロアに満ちていた幾何学模様のダンスが止んだ。

メインダイニングの入り口付近から、車椅子が近づいてくる。キリコに押された車椅子は、沙織にほど近い場所で停まる。

車椅子に座っていたのは久遠寺彰、本人だった。

茶色のガウンを身にまとい、身なりを清潔にしてはいたが、手は包帯で巻かれ、痛々しく。平野と瓜二つの顔に浮かぶ痣は、見るに堪えず。

ついに夫と再会した絹子はその場で泣き崩れてしまった。

妻を労わった後、彰は沙織と目を合わせた。加害されてもなお、彰には憂いの表情はなかった。そればかりか固く結んだ口元を、僅かに笑みの形にして頷き、沙織の背中を押したのだ。

それに応えるように頷き、毅然として沙織は平野に対峙した。

決意を相貌にみなぎらせ、久遠寺の意地を全身に背負って。

固く拳を握り、両の脚でフロアを踏みしめる。

沙織の怒りが仄暗い瞳の底から沸き立ち、彼女がこれまでに抑え込んできた激情が迸った。

「わたくしが訴えるのはお父様の命と体を傷つけた罪!そして、我々久遠寺を貶めたあなた方親子への名誉棄損の罪!知らぬとは言わせません!」

「親子?!」

浩一郎に殴られて、壇上の隅に座り込んでいた健斗が、沙織にすがるように駆け寄った。

「親子って、俺と父さんの事か?あの、俺は確かにお前に酷いことをしたかもしれない。でも父さんは違うだろう?父さんなりの思惑はあったけど、絶対にお前を貶めようとか、そんなつもりじゃなかったと思うんだ」

「分かっていますよ、健斗さん。高薄さんのことではございません」

「じゃあ、親子って一体…」

おろおろとさまよう健斗の視線は、下を向く平野と、無表情の苺愛で止まった。

「さあ、悪役令嬢。上出来だ。ここからは本物の悪役の出番だぜ」

その声と共に沙織の前で背を向ける一人の男。

ばさりと真っ黒のコートが舞った。

My fair villainous lady⑩

第10章

最下層のインサイド客室。

幽霊が出ると噂の部屋からは、またうめき声が聞こえる。

船のエンジン音にかき消される程度の物音ではある。しかし部屋から漏れ出る音が、時折言語になることがあると、クルーの間で噂になっていた。

クルー達は知る由もない。捜査され、誰もいないと結論付けられたこの部屋で、倒錯的な愛を囁く男がいることを。

「…忘れられないんだ。俺が16の時のコンクールで、お前が演奏したエチュード…あんなふうに弾けたらって…その次のコンクールでは意識して弾いてみたんだ。あの時も同じブロックにいたんだし、聞いてくれてただろう?」

「………」

「そんなふうに言うなよ。神のいたずらか何かで同じ顔に生まれた同士じゃないか。気味が悪いほど似てるよな、俺達は。なのにピアノの音は全然違う」

「…………」

「当り前?そうだよ、当り前だ。だけど俺はそれが許せない。お前の音は全部覚えてるよ…紛れもない天才っているんだと死ぬほど思い知らされた音だから」

「……」

「どんなに俺が血反吐を吐いて鍵盤をたたいても、お前はその遥か高みへ翼が生えたように飛んでいくんだ」

がつん、と鈍い衝撃。

「なあ、なあ!なあ!どうしてピアノを辞めた?!神が与えた才能を、どうして世に知らしめないまま、ピアノを辞めたんだ!家を継ぐため?知らないね。お前はピアノを弾き続けるべきだったんだ!輝く海のような旋律、渡る風のような諧調、お前の指が奏でる音は、この世界から、なにひとつ、どれも失われてはいけなかったんだ!」

「…………」

「ああ、謝らないで。彰。違う。お前が選べなかったのはわかる。いや、わからない」

「…」

「忘れられないんだ。お前の音が、どれもこれも。全部愛おしくて記憶から消したくない。あの音を再現したいんだ。俺の指で。なのにどうしても上手くいかなくて、俺はこんな船の上で、お前の音をずっとずっと追い求め続けて、ああ、アリア、アリア…」

「………」

「おかしくなりそうだよ。お前のせいだ」

「…」

「ちょっと入れ替わってみたけど、お前の生活は金がかかって窮屈なだけじゃないか。お前の妻も面白みがない。少し色目を使っただけで逃げ出した。せっかくお前と兄弟になれるかと思ったのに。可哀そうな彰。指は動かないし、もう俺なしじゃ生活できないもんな。俺は全部してやるよ。お前のしたいこと全部かなえてあげる。愛してるよ、彰。愛してる…」

平野の執着がある限り、久遠寺彰は命が残される。

五体満足の保証はない。

ただ久遠寺彰自身が、平野の怨念を受け止める覚悟をして、救出を拒否した。言い換えるなら、自らの身の安全より、久遠寺コンツェルンの存続を取ったのだ。娘の沙織に全てを託して。

平野星満の目的は久遠寺彰の破滅。

本人の身柄を拘束しても、まだ消えない怨嗟の炎は、彼からピアノを奪った久遠寺コンツェルンそのものに向かっている。

彰に化けて、高薄に不信感を抱かせるような振る舞いをしたり、わざと沙織を貶して婚約を邪魔してみたり。平野の行動自体は地味だが、事実は平野の思い通りになりつつある。

ここまで状況が悪化したのは一人の存在があったからだ。

BJはその人物に関する情報を整理する。こんな情報を切り札にするなんて、エビデンスは弱いし、ハッタリに近い。おまじないみたいなもんだが、BJはこれに賭けると決めた。

平野は間違いなく船上で久遠寺コンツェルンの息の根を止めに来る。

そのときに、このおまじないが効かなければ、15億円は泡と消える。

罫線

明かりのない廊下を歩き、操舵室へ向かう。

立ち入り禁止なんて書いてあったけど、文字だけじゃ俺の足を止める理由にならない。操舵室の奥に船長室があると聞いた。そこを目指しているのだが、どうやら先客がいるようだ。

タコ墨のような暗がりに、一筋の光。

ドアから漏れている光のもとが船長室だ。

「私は今回の事を遺体損壊事故だと捉えています」

聞きなれた声に驚く。キリコだ。

ドアの隙間から窺えば、キリコが髭の生えた丸顔の男と向き合っているのが見えた。あの男が船長の藤村か。藤村は、まあまあとキリコをなだめるような仕草をして、こう言った。

「あなたのお気持ちはわかります。ドクター・キリコ。ミスター・アレサンドロの遺体がどこに行ってしまったか説明できないのは、当船の大きな失態です。しかし私には捜査の権限がある。海の上では私が警察の役目をします。捜査した結果、海から上がったあの腕はミスター・アレサンドロと言い切れなかった。そう申し上げているのです」

「捜査?」

キリコの顔が苦々しく歪む。

「状況証拠だけ並べて、まともな鑑識もできない状況でよくもそんなことを。あなたは一番大事なことを疎かにしている。平野星満が本当に死んだのか、はっきり言えるだけの証拠を持ち得ていないのでしょう?その証拠を、腕が見つかって以来、探そうともしていない。これを職務の怠慢と呼ばずして、何と言うのです」

「捜査は続けています」

船の威信をかけて藤村は一言に重みを持たせる。

「では何故、船内新聞に平野の訃報が出たのを取り消さないのです」

藤村は黙ったまま、キリコを見つめている。その沈黙は肯定であるのか否や。

「あなたがたクルーの間で、平野が扱いにくい人物であったのは理解します。ですがそれは、アレサンドロには関係がない!」

語調を荒げてキリコは藤村に詰め寄る。

「アレサンドロはこの船に乗れたことを、心から楽しんでいた。人生最良の日だと、沈む夕日をいつまでも見つめていた。彼がこの船に乗ったのは、海の藻屑と化すためでは断じてない!彼の尊厳を失う行動しかとれない「コンバーション」は最低の船だと、私は法的な手段に出ることも厭いません」

「待ってください。ドクター・キリコ、まだ捜査は継続中だと申し上げたではありませんか」

「ではバミューダの鑑識に至急問い合わせてください。あの腕がアレサンドロのものだと、もう結果は出ているはずです。クルーの健康管理をする鈴井さんなら平野の血液型くらい知っているでしょう。あの腕は薬班が浮かび、爪には病人特有の症状が表れていた。この状況証拠もあなたに初めに申し上げたはずだ」

キリコは止まらない。こいつがこの一件に関わる全てがアレサンドロの名誉のためだからだ。硬質な銀の髪の奥のアイスブルーが煌々と怒りに燃えていた。

「例えあの腕がアレサンドロのものでなかったとしても、この船で彼の遺体の行方がわからなくなった事実は確定しているのです。遺体安置室に誰もが入れる状況であった点、杜撰なセキュリティ。あなたが言う通りに、この船の大きな失態だ。これらの責任をどう取られるつもりなのです」

藤村は生き馬の目を抜くような男だと聞いたが、キリコの怒りの前では、髭が生えた顎を何度も撫で「できることをしましょう」と言うのが現状の最適解のようだった。

「私はあなたを信用していない。ただこの船で集めた情報は別だ。あの腕がアレサンドロのものだと証明できる情報を私は得ている。今ここでは行わないが、情報の開示の際には最大限の便宜を図っていただきますよ」

ちらりとキリコはドアの方を見た。

「おまえも、それでいいな」

黙って室内に入る。藤村は二人目の来訪者に驚きを隠せなかった様子だが、俺は構わず言いたいことだけ言う。

「構わない。特に俺はクルーの力を借りて、ここまで来た。彼らに咎めが行くことだけは避けてほしい」

「クルーが?あなたたちは何をしようとしているのです?」

「秘密だよ。藤村艦長。この男が気にしている、アレサンドロの腕についても、平野の生死についても明らかにしたいと思っている。だから邪魔をしないでくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」

藤村は眼鏡の奥から日本刀のような視線を俺に向けた。

「わざわざ私に伝えに来たのであれば、当然、ゲストの皆様とクルー一員の身の安全は保障されるのでしょうな。いいや、安全だけでは不十分だ。ゲストの皆様が不快になるような出来事ならば見過ごすわけには行きませんよ」

不快感については絶対の保証はしかねるが、こればっかりは受け取る側の問題だ。

「ああ、余興だと思ってくれ。細工は流々仕上げを御覧じろって奴だ」

罫線

ママはくじ運がなかった。

なのにギャンブルばっかりして借金作って。

自分の口紅は買うのに、あたしの靴下一足買ってくれたことない。

ママはくじ運がなかったけど、美人だった。

お客はいつもママにキレイなジュエリーを贈ってくれる。

ジュエリーがママを飾るのは一度だけ。次には質屋に流れてる。

ママはくじ運がなかった。

最後に引っかかったのは年下の花売り。

よせばいいのに籍まで入れて、あたしが10になったら死んじゃった。

ママが死んだ後に、変なピアニストがやって来た。

部屋の荷物を全部売っぱらって、札束を数えてる。

ピアニストはそのままいなくなるかと思ったけど、あたしの顔を見てこう言うの。

「顔だけはアイツに似てるんだよなあ。もっと育てばイイ女になるだろう」

そのままあたしは連れて行かれて、ピアニストと一緒に暮らしだす。

こいつもかなりのクズだったけど、他に行くところがないんだから仕方がない。

女にされた次の日に客を取らせようとしたから蹴飛ばした。

あたしを安売りするんじゃねえ。

あたしにはママそっくりのキレイな顔がある。ママにはない若さがある。

あんた、それで儲けたいんでしょ。じゃあ、無い知恵絞れよ。

それじゃあと、ピアニストはあたしに男の悦ばせ方を教えた。

ピアニストと船に乗って、自分で客を取った。

次の日、初めて自分のお金でダイヤの付いたネックレスを買った。

ぞくぞくしてたまらなかった。

ダイヤってなんてキレイなの。キラキラしててずっと見ていられる。

もっとキラキラしたいって心の底から思ったの。

あたしはかわいいし、スタイルいいし、いい性格してるし。

 キラキラした世界があたしを待っているはずだもの。

もっとあたしがちやほやされて、みんながあたしをうらやましがる世界があるはずよ。

王子様がいれば最高ね。

あたしはママみたいにくじ運が悪い訳じゃない。

引かないのよ。くじなんか。

これだってわかる金持ちにしか寄らないの。それが一番、効率がいい。

さっさと儲けて、自由になるの。

船から船へ。渡るたびあたしはキレイになる。

もっと、もっとキラキラしたい。

罫線

ぽたり、ぽたり。

オレンジ色の雫が床に落ちていく。

「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」

頭からオレンジジュースをかぶった沙織と、その頭の上でコップを逆さまにして笑う苺愛。

今朝のビュッフェでの出来事である。

これまでの航海の中、全く崩れなかった天候が今日はよろしくない。

強い北風がデッキに吹き付け、分厚い黒い雲が視界一杯に広がっていた。

少しばかり揺れを感じる気がするが、不快になるほどではない。デリケートなゲストには酔い止めを求める人がいるようだ。あまり酷いようなら診てやらんこともないが、如何せん船酔いでは対処療法しかできないし、何より船医に勝る治療ができるとも思えなかった。鈴井に任せよう。

モーニングビュッフェのテラス席は閉鎖。代わりに船内のレストランで朝食をとろうとするゲスト達の長蛇の列があちこちにできていた。

「並ぶの、だるいなあ。ルームサービスにしようぜ」

「そうですわね…この込みようは、想定外です」

行列にげんなりした俺と沙織の声を、キリコはやんわりと否定する。

「ルームサービスにしても、きっと厨房はてんやわんやさ。俺達と同じ思考の人間がたくさんいるだろう。いつになるかわからないルームサービスを待つより、ここで済ませてしまった方が見通しが持てていいと、俺は思うがね」

それもそうだと沙織はキリコを見ながら、やはり部屋から出てこなかった絹子の心配をした。

「母も連れてきた方が良かったでしょうか」

「本人は嫌がったんだろう?」

昨夜明かした久遠寺彰の事実は、少なからず妻の絹子の精神を揺さぶった。そのショックが抜けきらず、ベッドから起き上がるのが精一杯だったというから仕方がないと言えばそうなのだろう。

「いえ…わたくしが、お部屋にいてくださるように頼みました。母を平野に会わせたくなくて…正しい判断をした、と思います。今は…」

俺達が並ぶ行列の先、ビュッフェコートに高薄浩一郎と同席する平野の姿があった。平野は彰の私物であろうジャケットを着崩し、サングラスをかけていた。おそらくクルーに顔を見られたくないからだろう。天候が悪いのにサングラスとは…

「余計に目立つとは思わんのか」

「思ったらしいぞ。ほら」

平野は慇懃に礼をして、高薄浩一郎の座るテーブルから離れた。そのままするりとフロアーに出て、あっという間に消えてしまう。

「勝手知ったる我が船って感じだな」

「高薄のおじ様に何を話していたのでしょう」

「どうせロクでもねえことさ。お前さんの婚約を白紙にしたいだの、資金提供はいらないだの、その当たりだろ」

3人でブツブツやってたら、意外と早く席が空いた。

ビュッフェのフロアを区切るパーテーションの役目をしたテーブルヤシの植え込みのすぐそばに、俺達は席を確保した。

キリコを荷物持ちにしている間に、俺と沙織はビュッフェのごちそうへ。メニューが多くて正直迷う。そうだな、昨日の晩は創作系のフレンチだったから、今朝はアジアの飯が食いたい。

「ガパオ、ガパオ」

「中華粽もありますよ」

「食う。一個くれ」

実は沙織は結構食べる。この細っこい体のどこに納まるのかと思うくらいに。だからついつい皿に料理を盛るのがおもしろくなっちまって、注意が足りなかったんだが、ピンク頭の一団が俺達の後ろをついてきていた。

キリコと交代して、先に食べ始める。

沙織はみんなそろってから食べるべきだと主張したが、お生憎様、『悪の先生』はそんなことはしないのだ。さっさと食ってお代わりしたいが、向こう側に雰囲気の悪いピンク頭の一団が見え隠れしている。ここで沙織をひとりにしてはいけない。昨日は赤髪のガキに飛び掛かられたのだ。シッカリ教育的指導をしたので次はないだろうが、奴のほかにも錯乱した奴がいるかもしれんし。

「後ろに、いらっしゃいますの?」

「あんな奴らに尊敬語使うなよ。『あいつら、いる?』でいいだろ」

「長年染みついた言葉遣いですもの。すぐには…」

整った眉を少し曇らせるのが憎めなくて、意地の悪い質問をしてやった。

「お前さんの話し言葉は、実に古臭いねえ。時代劇のお姫さんみたいだ」

「わかります?」

沙織の返答は予想外だった。

「小さいころお爺様が好んで見てらした時代劇に登場する姫が大好きだったのです。『あんなお姫様に私もなる』と口調を真似し始めたのが切欠なのです。これでも、まだマシになりましたのよ?学友も同じような口調でしたから、これでもう大丈夫だと思っておりましたが…うう、まだなのですね」

まいったね。本気でお姫さんか。かわいらしいやら、方向性ずれまくってるやらで、けらけらと笑ってしまった。つられて沙織も笑う。そして俺の目は健斗の視線を拾う。焦って顔を背けたけれど、そんなに沙織が気になるか。

キリコがテーブルに戻って来たから、俺はようやくお代わりに旅立てる。

初日に我慢した分、甘いものも食べてみようか。シフォンケーキにカスタードクリーム、スコーンにクロテッドクリーム。ザッハトルテにたっぷりのホイップもいい。

甘い思考に浸っていた俺を現実に引き戻したのは、視界の隅を動くピンク頭の存在だった。

ピンク頭の一団は赤髪のガキを場所取りにして、あいつ以外のメンバーで料理を皿にとっていた。

「はあ~、こんなん食えって言うの?野菜ばっかじゃん」

「青虫になった気分です。空になった皿は多いし、肉はハムだけ。後は魚料理がほとんど」

「なんの料理かさえ分らんな。メニューくらい日本語つけろ」

文句ばかりの男どもをピンク頭は無視して、オレンジジュースを手に取る。

「苺愛、もういいの?」

「うん、あたし朝はあんまり食べないんだ~。先に戻るね~」

そのままビュッフェコーナーを曲がり、ピンク頭はあらぬ方向へ足を進める。沙織の席へ一直線。

キリコは、と振り返るけれどいない。沙織ひとりだけが、俺達の席についている。

そこへ高々とオレンジジュースのグラスを乗せたトレイを掲げ、ピンク頭は沙織の真後ろに立った。

テーブルヤシの植え込みに躓いたふりをして、よろけたピンク頭のトレイからオレンジジュースが零れ落ち、残さず沙織の頭の上に降りかかった。

オレンジジュースの雫が、ぽたぽたと床に落ちる。

「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」

頭からオレンジジュースをかぶった沙織は、運悪く今朝は白いブラウスを着ていた。胸までびっしょりとオレンジ色の液体で濡れている。しばらく言葉が出ない様子で呆然としてはいたが、相手が誰か分かると気持ちの切り替えをしたようだ。

沙織はべたべたになった前髪をかき上げ、ハンカチで顔を拭いた。その間ピンク頭はニヤニヤと勝ち誇ったような哄笑を顔いっぱいに浮かべていた。鏡で見せてやりたいほどに醜く歪んでいる。

「たぁいへ~ん!かわいいブラウス、汚れちゃったね~~やっぱりぃ、いじわるする人には~バチが当たるってことじゃないかなあ~」

性格の悪さが前面に出た含み笑いをして、ピンク頭は聞くに堪えない甘ったるい声音で意味不明な事を抜かす。

「あはは!結局ひとりじゃ、あんた何もできないじゃない~みじめ~~」

ピンク頭が笑い終わる瞬間。

その顔面には紅茶が叩きつけられていた。

「冷めた紅茶でようございましたわね」

空になったティーカップを何事もなかったかのように、音ひとつ立てずソーサーに戻す。

「これで、お揃いですわね」

にっこりと令嬢の微笑をたたえる沙織の前で、紅茶を浴びたピンク頭は怒りに震えていた。

「てめえ…調子こきやがって…」

さっきまでの間延びした口調が別人のようだ。これはこれでおもしろい。もっと見物してやろうと腹を決めたときだ。

「苺愛!どうしたんだ!」

「ふええ…健斗お…ひどいの、沙織さんが~あたしに~~~」

ばたばたと4人のナイトのお出ましだ。

今後の展開が読めたので、さっさと退散。

剥き出しの悪意に、こめかみがチリチリとする。

キリコは沙織から離れたベーカリーのコーナー付近にいた。手には皿なんか持っちゃいねえ。あいつ、わざと離れたな。

沙織は着替えるため、すぐにエレベーターへ乗った。今度はもちろんキリコ付きで。

俺はメートルディ(給仕長)に事情を話して、床やテーブルを汚したことを謝る。その分も含めてチップを渡すと、メートルディはこの航海で如何にピンク頭の一団に迷惑を被っているかを鼻息荒く語った。正式なルートで抗議を入れると言っていたが、いましばらく待ってくれるように頼んだ。もっと効果的な場面で抗議をしてもらおう。

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シャワーを浴びて、ようやくほっとした沙織は図書ラウンジへと足を向けていた。借りていた英文学の本を返却するためだ。さすがに四六時中黒医者と一緒ではない。

向かう途中で沙織は、廊下の角にいる人物に気が付いた。健斗だった。

気分は曇ったけれど、これといって話すこともない。そのまま通り過ぎようとした時だ。健斗の方から沙織の前に立ちふさがるように、近付いてきたのだ。

「…沙織」

幼馴染の顔を沙織は見上げる。健斗の整った顔立ちは、幼馴染としては何の効果もなかったのだけれど、喜怒哀楽は読みやすかった。

「健斗さん、どうして哀しそうなのですか」

「どうして…か。お前のせいかもって言ったら、どう思う?」

どうもこうも、お互い様ですねとしか言えない。仕返しをされるようになったから、被害者ぶるのは卑怯にも程がある。ふつふつと沙織が怒りを覚えていると、彼女の沈黙を誤解したらしい健斗が語りだした。

「わかってる。俺が苺愛を好きになったから、お前は居場所を失くしたんだよな。でも俺は本気なんだ。苺愛のことが本当に好きなんだ」

「…はあ」

「お前とのこともわかってるつもりだよ。婚約者なんて古臭いって笑われるけれど、父さんの意志は固いみたいだし、お前とは一応結婚してやるよ。だから今朝みたいに苺愛をいじめるのはやめろよ」

「…はあ」

「それと、お前と結婚しても、俺は苺愛と付き合うからな。家同士のしがらみがあるから、どうしてもお前には高薄の家に入ってもらわないといけないらしい。そっちの付き合いとかは任せるから、好きにしろよ。俺は苺愛とタワーマンションにでも住むからさ」

「……」

健斗は拗ねた幼馴染にお願いをするような口ぶりで、つぎつぎと自分の欲望を言葉にする。沙織は言葉を失っていたが、いま言わずにいつ言うのかと、思いのたけを口にした。

「一度きちんと申し上げたかったのですが、健斗さんはご自分の振る舞いを今一度見直した方がよろしいかと」

「どういうことだ?」

「どこの世界に妻にしてやるから妾を認めろなどと、求婚前に言う人がいるのですか?妾と便宜上申しましたが、妾と別宅に住むから、本宅で社交をせよと。どの時代の思考回路なのです」

「めかけ…苺愛のことをそう呼ぶのか?違うぞ、苺愛は恋人だ。男には妻がいても恋人を持つ人がいるんだ。問題なんかない」

本格的な頭痛がし始めた沙織は、ややおざなりに健斗に質問した。

「もし、苺愛さんが恋人じゃいやだ、お嫁さんになりたいと言い出したら、どういたしますの?」

健斗はしばし悩むふりをして、いや悩んだのだろうか。想定内の答えを出した。

「そうしたら、沙織は代わってくれるだろう?幼馴染だし、わかるよな」

「…もうこの話はやめにしましょう。悲しくなります」

実際沙織は長年そばで過ごしてきた幼馴染の健斗が、ここまで恋に狂うとは思っていなかった。しかし今の問答で呆れを通り越して悲しくなったのだ。何もわかっていないと。

「俺が頼んだのに、聞けないのか」

「そういうことではないのです」

「分かるように話せよ。ああ、またこれか。お前の得意な、どうせあなたにはわからないでしょうけどってやつだ」

「そのようなつもりは…」

ないとは言えなかった。

「チッ、せっかく丸く収めてやろうと思ったのに。お前には俺の心なんか分からないんだよ」

妙にずきりと胸に刺さった。

「その言葉、お返しします」

痛みの正体が今まで傷つけられてきた自分の心にあるのか、これから傷つけるだろう人々に向かうものなのか、沙織には区別がつけられなかった。ただ確実なのは、幼馴染と完全に道が分かたれたことだけだった。

My fair villainous lady⑨

第9章

クルーズも残すところ三日となった。

今日の寄港地はプエルトリコ。

キューバ・ジャマイカ・ドミニカ共和国と続く、大アンティル諸島の東端。

あの「エル・モロ要塞」がある島だ。

この島にも美しい景勝とは程遠く、侵略と虐殺、抵抗と革命の血なまぐさい歴史がある。

現在はアメリカ合衆国の自治領として落ち着いてはいるが、自治政府のデフォルト、ハリケーンによる自然災害など、ここに暮らす人々は楽園に住まうとは思ってもいないだろう。

どこにだって戦いは存在する。

クルーズ船の中だって。

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「ねえ、健斗ぉ。どうして、こんな狭いバスで行かなきゃいけないのお~!」

苺愛のかわいい声がぷりぷりしている。

今日、俺達はプエルトリコの観光地を巡るバスツアーに参加した。かなりの人数が乗ったバスの中、苺愛を真ん中に一番後ろのシートに並んで座る。

「こういうのも旅の醍醐味だ。ほら、苺愛。もっとこっちへおいで」

本当はリムジンタクシーを借りるプランもあったんだけど、父さんにバレるとまずいからこっちにした。リムジンタクシーがわざわざ港まで迎えに来るサービスなんか、冗談じゃない。そもそも俺の小遣いじゃ全然足りないし。

そんなことも知らない生徒会の連中に言いたいこともあるけれど、あいつらは完全にプエルトリコの高級ホテルが並ぶ街並みに圧倒されてる。

小網も昨日のダイニングでのことがあったからか表情は冴えなかった。だけど小網はダイニングを出た後、別行動をしたときに何があったのか絶対に言わない。俺達に言えないような失敗でもしたのかな。もしかして一人であいつらの所へ行った、とか。何となくそんな雰囲気を感じるけど、俺達はそれを見て見ぬふりをしている。

それにしても昨日の事は、思い出すだけで腹が立つ。沙織は何様のつもりなんだ。俺のそばから勝手に離れて、好き勝手にやるなんて!

バスが発車すると、ダイニングでの出来事を誰かから聞いたらしい苺愛が小網を慰める。

「コアミー、昨日、あいつのせいで大変だったって聞いたんだけど…大丈夫?」

「あいつ?」

「あ、ああ!沙織さん。ゴメン、ムカついちゃって、あいつなんて言っちゃった~」

「いいよ。あいつで。可愛げなんかひとつもないし、女の子扱いする気もなくなった」

図書ラウンジでの沙織の顔を思い出して、嫌な気持ちになる。俺の方を一度も見なかった。

「あいつさあ~ビーチで変なオヤジとつるんでたでしょ~アレ、あやしくない?」

苺愛は不思議なことを見つけた子どものような声で言った。

昨日のビーチ、図書ラウンジ、ダイニング。どこにいても沙織はあの奇妙な二人と一緒だった。一人は白髪交じりの髪に、刃物のような目つき。体中に傷跡があるヤクザのような男。もう一人は外国人で黒い眼帯が怖かったけど、それより見えている方の眼からかかる圧が半端ない。沙織とは生まれたときから一緒だったけれど、あんな奴ら、俺の記憶にはない。

「ホント!気持ち悪ィオヤジ達だよな!よく一緒にいられるぜ」

いきり立って小網が苺愛の言葉に続く。

「沙織もお嬢様みたいな素振りして、結局あんな奴らといるってことは、あいつも相当趣味悪いね」

「全くです。おそらく金で雇っているのではないですか?」

「うーん、そっかあ…」

次々と文句を並べ立てる飛田と守に、急に不安そうな顔になって自分の肩を抱く苺愛。

「どうした、苺愛?」

きゅるんと音がしそうなくらい大きな目を潤ませて、俺達の顔を見つめる苺愛は、ほっと安心したようなため息と一緒に笑顔になった

「あたしだったら、絶対無理だなあって思ったの~。いくら楽しいツアーでも変なオヤジとずっと一緒にいるのは無理~。あたし、皆と一緒でよかったあ」

こてんと首を傾けて、俺達を見上げる苺愛は何てかわいいんだろう。

「おう!俺も苺愛と一緒でよかったぜ」

「ああ、俺もだ」

「みんなぁ~なんでそんなにやさしいの~~?うれしいよ~」

全員で言うと、苺愛は隣に座る俺と飛田の腕をぎゅっと抱きしめた。うすいTシャツ越しに腕に伝わるふよんとやわらかい彼女の胸の感触。これは沙織にはないものだ。多分。

気を取り直して今日もツアーを楽しもう。そして苺愛と思い出を作ろう。それがどんなに楽しいか、俺の人生に必要なのか、父さんにきちんと説明すれば分かってもらえる。

バスの次の行き先がどこなのか知らなかったけど、空は青かった。

「ぶへっくしょい!」

「へぷち」

「くしゅん」

サンファン大聖堂の側のカフェ。俺達は三人いっぺんにくしゃみをした。

「おい…寒くないか?」

「カリブ海で何言ってんだ。つーか、お前さんのくしゃみ、なんだよ。『へぷち』って」

「わたくしも、なにやら胸元がスースーといたします…風邪でしょうか」

今日の沙織の服装は黒のかっちりとしたブラウスに、ハイウエストのモノトーンスカート。手にはエディからプレゼントされた透かし彫りが入った竹の真っ黒な扇子。髪は高い所でポニーテールにしてまとめ『悪役令嬢らしく』装ってきたとのこと。やる気があって大変よろしい。

しかし旅先で風邪は良くないと、簡単な問診をする。当然風邪じゃない。

あたたかいものでも頼みましょうと沙織が示したメニューには「ホットラム」。いいなあ。カリブ海はラム酒の宝庫。ここプエルトリコだってラム酒が名産だ。沙織がいなけりゃ、一杯ひっかけるのもアリだったんだが、今は大人しくしておこう。キリコは土産に買えるラム酒がないか訊いてくると、カフェの奥に消えた。独り占めはずるいぞ。俺も続く。

いってらっしゃいませとのんびり言うものだから、俺達は沙織をひとりカフェの道沿いの席に残した。すぐ戻るつもりだったし。

そこへツアーバスがやって来たとは、この時の俺は気がつかなかった。

大勢のツアー客が、サンファン大聖堂の真白い壁に歓声を上げる。

門をくぐれば、500年前に作られた黄金色の装飾がまばゆいゴシック調の祭壇が迎えてくれるのだ。ツアーマップでしっかり予習した観光客たちは、どきどきした顔つきでサンファン大聖堂へと向かう。その中に彼らもいた。

「あ~、あの子だ~」

甘ったるいキャンディみたいな声。

「ひとりなのか」

訝しむ声。

「ははァ、結局こうなるってことだ」

アッタマ悪そうな声。

カフェから出ようとして、沙織がピンク頭の一団に囲まれているのがわかった。しまったな。かと言ってすぐに俺達が出るのも不自然だ。しばらく静観しようと、俺とキリコはカフェの中の席に座った。

「おい、沙織。あの気味の悪ィおっさんどうしたんだよ」

赤髪のガキが懲りずにニヤニヤ沙織に突っかかる。

「昨夜の謝罪はなんだったのですか、小網さん。そのような言い方はお止しになって」

凛とした沙織の言葉に対する反応は二つ。

「昨夜の謝罪?」

「んなっ…なんでもねえよ!適当なこと言ってるんだ。気にするな!」

鼻っ柱を折られた赤髪は、健斗の後ろへ。沙織はその様子をただ見ていた。

「ひとりで来ているのか?」

幼馴染を気遣うような雰囲気で尋ねる健斗だが、その腕には苺愛が巻き付いている。

「あはは!ひょっとしてえ~おじさんにも逃げられちゃったの~?」

「お答えする必要はありません。わたくしも健斗さんに誰と来ているかなど、訊きませんもの」

「そんな言い方をするな。沙織、何を拗ねているのかわからないけれど、このクルーズで俺達は一緒に行動して来ただろう?どうしていきなり仲間の絆を壊すようなことをするんだ」

正義のヒーローのような顔つきで『絆』なるものを主張する。

「まあ、わたくし、そのような重要なポストに就いておりましたの。皆さんを繋ぎとめる大層なお役目とは露知らず。ですが毎日『来るな』と言われれば、行かなくなるのも当然でしょう?このお話、前にもしましたね、健斗さん」

ばらりと黒い扇子を広げ、沙織は口元を隠す。話したくないという意思表示なのだが、通じる相手ではない。

「子どもみたいな事を言うな。俺はお前をまた仲間に入れてやろうと思ってるんだぞ」

小網を初めとした面々が寝耳に水といったような反応をする。健斗は王子様ムーブ全開だ。

「せっかくのクルーズじゃないか。みんなで楽しもう。婚約者のお前だから、俺はここまで言ってるんだ」

「健斗ぉ~やっさしい~~」

生徒会長で培った、薄い博愛主義に、偏った価値基準。それを分厚い自己愛で包み込めば、表面だけキラキラした友情ごっこの舞台ができる。だがお生憎様だ。

「ご遠慮します。またあんな目に遭うのなら、ひとりで構いません。それに健斗さん」

沙織は健斗の目を見ずに言う。

「婚約者がある男性の腕にしがみついたままで平気な方と行動を共にするのは、わたくしには難しすぎる課題です」

「ひどい!沙織さん…そんなにあたしのこと…きらいなの」

健斗の腕を抱きしめて、苺愛はピンクの頭を振り振り泣き顔を作った。

「またお前は苺愛に酷いことを言いやがって!」

「そうだよ!苺愛はなにも悪くないじゃないか」

「あなた方は人の言葉をもっとよく聞く練習をなさいませ。短慮にも程があります」

扇子をぱちんと閉じて、沙織は彼らに向き直る。それだけでにじみ出る令嬢の雰囲気に守はデリケートに反応した。

「君は嫉妬をしている」

分をわきまえろと言わんばかりに沙織はため息をつき、面倒くさそうに対応する。

「どういうことですの?思い当たる節がございません」

きらりと南国の日差しを眼鏡に反射させ、得意げに守は続ける。

「自覚がないのか。では客観的に私が見た見解を述べよう。まず結論として、君は苺愛に嫉妬をしている。なぜなら婚約者である健斗に見向きもされていないからだ。先日まで君は健斗の気を引こうと必死だったじゃないか。苺愛をいじめてまで!それが上手くいかなくなったから、離れるそぶりをして健斗に振り向いてもらおうと必死なんだろう。幼稚な嫉妬だ。見苦しいことこの上ないよ」

にやりと笑ってQ.E.Dとも言い出しそうな守を無感情に見据えて沙織は反駁する。

「確かに、わたくしは婚約者として健斗さんにふさわしくあろうと努力していた時期はありました。それは否定しません」

小さく冷たい微笑を沙織は守に向けた。

「健斗さんが何度もおっしゃっている通り、わたくし達の関係は家同士の決めた政略的婚約。会社を背負うものとして、当事者であっても決められない事項がございますの。ですから、いくら健斗さんが婚約者を放って違う女性に現を抜かそうと、わたくしにはどうする権利もございません。ですから嫉妬などとは、お門違いも甚だしい指摘でしてよ。その路線の論を主張なさるのなら、我が久遠寺コンツェルンと健斗さんの高薄グループへの侮辱としても取れますから、その辺でお止しになった方が賢明です」

久遠寺コンツェルンの名前を聞いて、守は言葉に詰まった。一般庶民の彼でさえ、その名をCMやTVで耳にすることがあるからだ。沙織はその隙を逃さない。

「大体、わたくしは苺愛さんをいじめたことなどありません。その場にふさわしくあるように、ご助言したことはありますが、どれも聞き入れられたことはありませんし。そうですね。会話すらまともに成立したことがないかもしれません」

沙織の言葉に心底傷ついた顔をして、涙を一杯にためる苺愛は男どもの庇護欲を一気にかき立てた。

「そんな高飛車な態度が苺愛の心を傷つけて苦しめるんだ!」

飛田が苺愛をかばうように立ちふさがる。

「おまえなんかより、苺愛はうんと女の子らしくてやさしい。僕の心に寄り添ってくれる思いやりのある子なんだ。そんな風に言うのはやめてよ」

険しい顔の飛田。やりこめられた守も復活して、眉間の皺も色濃く口を開く。

「私も苺愛の明るい笑顔に何度救われたか。苺愛の可憐な笑顔は、君のような冷徹な視線とは違うのだよ」

そうですか。そうですかと沙織は呆れたように肩をすくめる。

「安心しましたわ。誰彼構わず股を開くような方と一緒にされるなんて、耐えられませんもの」

真実を貫こうとする沙織の視線は苺愛に刺さる。それに対する苺愛の反応も予想の範囲を出なかった。

「ひどい!ひどい!あたし、こんなにひどい事言われたことない!ただ、皆と仲良くなりたくて、あたし、あたし…っ」

苺愛はわあわあ泣き出した。まるで悲劇のヒロインそのままに。

「もう許せねえ!」

飛び出してきた赤髪が掴みかかってきた衝撃で、沙織の座る椅子が倒れる。

がたんと大きな音は立てたが、沙織自身はうまく手をついて怪我を避けた。そこへ赤髪は馬乗りになって、沙織のブラウスの胸倉を掴み、無理矢理にでも立たせようとしている。

そんなことをしなくても立てると、沙織は扇子で軽く赤髪の腕を叩く。

健斗からも諫められ、赤髪は沙織から手を放すが、全く感情が収まっていない。

「沙織、俺を困らせるな」

「間違ったことは申し上げておりません。何も知らないというのも、経営者の資質として問題になる点ですわよ。健斗さん」

「お前はこんなに酷い人間だったのか」

「何度も言わせないでくださいませ。わたくしは間違ったことは申し上げておりません」

平行線の二人の雰囲気に焦れて、赤髪が喚く。

「おい!もういいだろ!あの気持ち悪ィオヤジ共もいねえんだ。一発殴って分からせて…」

ガランガランとドアベルに大きな音を立てさせて、通りに出る。

俺の姿を見て動けなくなる赤髪。

「待たせたな。ラム酒は蒸留所で買ってくれってさ。ここじゃ売れねえらしい」

沙織の手に清潔なハンカチを差し出す。受け取る彼女の手のひらににじむ血を、それで拭いてくれればいい。

ぱっとピンク頭たちの方へ向き直ると、赤髪はひどい顔になっていた。怒りたいのか、逃げたいのか、後悔してるのか。全部だな。二回目は許さねえ。

「よお、君は昨日の友達思いの彼じゃないか。また謝りに来てくれたのか。手間が省ける。俺の分も謝ってくれるんだろう?さっき『気持ち悪ィオヤジ』って呼んだの、聞こえたぜ?」

あの時、健斗の目を見ない代わりに、カフェのドアのガラス越しで沙織は店内の俺を見た。

『やってみせます』

決意を感じ取ったから、今まで黙ってたんだが、この辺でTKO。ここから先は場外乱闘。

後から出てきたキリコに沙織を任せ、俺は赤髪と特訓だ。もちろん『ごめんなさい』の。

「もっと気持ち込めろー伝わんねーぞー」

「ごめんなさいっ」

「君の気持ちがーわからなーい」

「ごめんなさいいっ!」

「絆ってのはーそんなにもろいのかー」

「ごめんなさいっっ!!」

「伝わってこなーい」

喉がかれて、ぼろぼろになった赤髪は、汗だのなんだのいろんな体液でどろどろだ。そのままバスに乗られちゃ他の観光客に悪いから、頭っからバケツ一杯水かけて洗ってやった。目が覚めたようだから、にっこりお目覚めのあいさつを。また倒れた。虚弱な奴。

健斗達とピンク頭?知るか。いつのまにかいなくなってた。

大きなミモザの木が、そよぐ風に梢を揺らす。

サンファン大聖堂の周りに立ち並ぶ高級ホテル。その庭の片隅で沙織は震えていた。

さっきのピンク頭の一団のやりとりを終えると、張りつめていた緊張の糸が切れるように、彼女の体から力が抜け、道の真ん中でへたりこんでしまったのだ。それをなんとかここまで連れてきた。

これまでの生い立ちから、男にあんなふうに殴りかかられる経験などなかっただろう。

彼女は涙こそ見せなかったものの、動揺を隠せないでいた。その動揺を言葉にして吐き出させるべく、キリコは沙織に向き合った。こういうのはこいつが適任だ。俺じゃない。

庭の隅で小さな話し声が聞こえるのをそのままに俺は時計を見ていた。

「そろそろ行くぞ。船が出ちまう」

「は、はい」

気を取り直したように見える沙織が顔を上げる。

「台本はもう佳境だぜ。今夜動くか、明日の朝か。覚悟を決めておけよ。今みたいにへたってちゃ、お話にならねえ」

俺の強い語調に、沙織は少しショックを受けたようだったが、黙って強く頷いた。

石畳を彼女は一歩一歩自分の意志で歩く。心細いようであり、心配ないと言い聞かせるようであり。俺達はその後に続くだけ。これは彼女の問題なのだ。俺達の問題は、その後でなければ片付けられない。

「悪の先生は、随分とお優しい」

「抜かせ。てめえも気合入れろよ。大一番がもうすぐだ」

「ああ。おもしろい情報が手に入ったから、今日の映像と一緒に、プレゼン画像でも作ろうかな」

すいすいとスマートフォンを操作しながら、キリコはちっともおもしろくなさそうに言った。何を見ているのかと画面を覗こうとしたら、すげー嫌な顔をして避けられた。

「コンバーション」に戻って、しばらく様子を見たが、今夜は動きがない模様。

それじゃあと沙織の部屋へエスコートに向かう。今夜は沙織の母、絹子も一緒だ。散々渋ったのを、なんとか沙織が説き伏せて連れ出してくれた。

これから大事な話をせにゃならんので、オーバーチャージしてハイクラスのレストラン「ザ・サーモン・ダンス」に入店。あのピンク頭の一団に邪魔されることだけは避けたい。

つまり目立つことも避けたいと言うわけで、俺はキリコと沙織に徹底的にコーディネートされた。曰く、俺はいるだけで目立つとのこと。ああそうですか。

パリッとした黒のディナージャケットにセミワイドカラーの白いシャツ。黒いボウタイは慣れているようだけれども座りが悪い。あんまりかっちりしすぎても逆によろしくないと、カマーバンドを巻かれた。もうお手上げ。俺にはわからん。仕舞いには、ハードワックスをしっかりとなじませたキリコの手で、前髪もろとも後ろに流されてチョンとしっぽのように襟足を括られた。

うんうんと頷くキリコは仮面舞踏会で着ていたタキシード一式。タイの色をシルバーに変えている。沙織は深い紺色のイブニングドレス。上品でいて、スカート部分に重なるチュールが娘らしい。ひきこもりからやっと出てきた絹子は、やっぱり気乗りしないのか一番地味な黒の装飾が少ないドレスだった。

なぜかエスコートに慣れたキリコが絹子を連れて先導し、俺はぎくしゃくとキリコの真似をしながら沙織を連れ、黒い革のストレートチップシューズで繊細な柄の絨毯を踏みしめながら席へ移動する。

バロック調に統一されたヨーロッパ風の店内には、天井から吊り下げられた豪奢な燭台と、その下に手入れが行き届いた飴色のテーブルセットが並べられている。

よく磨かれた燭台はあたたかみのある輝きを灯し、ただただまぶしく綺羅綺羅しいシャンデリアがあるメインダイニングとは対照的に、深い交流を育んだ相手とゆっくりと食事を楽しむ雰囲気を大切にしている。

チェリストが奏でるバッハが静かに響く中、さざめきのようにゲストたちの会話が流れていく。

オーダーが済んで、アペリティフを待つまでの間、絹子は隣の沙織と俺達を何度も見比べて、どこで接点を持ったのか不思議でしょうがない様子だ。

小さく乾杯したのを皮切りに、沙織は俺達を紹介していく。

「お母様、こちらの方はご存じですよね」

「ええ…BJ先生、見間違えましたわ…」

無理もない。本人も見間違えてる。眉を下げて降参のポーズをとると、絹子は少し肩の力を抜いた。次はと沙織が口を開きかけると、遮るようにキリコが自己紹介を始めた。

「初めまして。久遠寺さん、私はロッキー・ロードと申します。BJ先生とは古い付き合いでして、そのご縁でここに同席させていただいております」

こいつ、今回はとことんロッキー・ロードで行くつもりらしい。

強面の黒眼帯を前にしても、久遠寺コンツェルンの社長夫人は優雅に微笑み、挨拶を交わした。内心はどきどきしまくってるだろうが、そこはさすがだな。

前菜の「サーモンの燻製・サワークリームソース・ブリオッシュトーストのせ」をキレイに食し、次の料理「ズッキーニのグラッセ、小エビとミカンのソース、キンレンカのムースを添えて」にフォークを入れたばかりの絹子は、久しぶりに外で食べる夕食にやっと慣れてきたようだ。

しばらく当たり障りのない話をしていたが、沙織は意を決して絹子に語りだした。

「お母様、どんなことがあっても、わたくしの味方をしてくださいますか?」

「ええ、私は沙織さんの味方です。どうしたの?急にそんなことを言い出して」

「今からわたくしが話すことを信じていただきたいからです。驚くかもしれませんが、どうかそのまま聞いてくださいませ」

メインの「牛フィレ肉の胡椒ソース」がすっかり冷めてしまうまで、絹子は一切話さず沙織の話を聞いた。健斗達の振る舞い、そして苺愛の存在。

「そんなことが、あったなんて…」

絹子はハンカチから手が離せない。

「まあ、食べましょう。腹が膨れていないと、きちんと思考もできませんからね」

「お前が言うと説得力があるな」

にゃろうとキリコを睨みつける俺に、絹子はそっと頭を下げた。

「BJ先生、ミスター・ロッキー・ロード、娘を助けてくださったのですね。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。どうもありがとうございます。正式なものはまた後ほど…」

「いい。俺達は俺達で目的がある。沙織自身も言っただろう。俺達は互いに利用し合っているビジネス関係なんだ」

「後ほど要らない詮索をかけてくる人間がいるかもしれないから言っておくけれど、俺達は沙織さんと行動をともにする時間は長かったが、指一本触れていないことを誓うよ」

「そうなんですよ、お母様。わたくしがつまづいて転んでしまっても、ひとつも手を貸してくれないのですから!」

「自力で起き上がれる奴に手なんか貸すかよ」

「お前はもう…ものの例えだ。真に受けるな」

俺達のやりとりを聞いて、絹子は安心したように笑った。

その笑みを暗闇に叩き落とすことはしたくはなかったが、さっき沙織に話させなかった部分。最下層のインサイド客室に監禁されている彰について、そして平野星満について、俺は絹子に告げた。できるだけ、情報を絞って。

「……」

真っ青な顔をして絹子は言葉が出ない。悲鳴など上げずに、そのまま黙っていて欲しい。ハイクラスのレストランを選んだのはそういう理由もある。ルームサービスを頼んだ沙織の部屋で話をすると、絹子が大きく錯乱するかもと一分の心配があったのだ。沙織も悲痛な面持ちで、テーブルの下の絹子の手を握る。

「わたくし達は、明日、なにか大きな出来事があると予想しています。それがお父様の解放、久遠寺コンツェルンの維持に向かうよう準備をしているところです。失敗は許されません。お母様にはこのことを知っていて欲しかったのです」

豊かな黒髪を揺らして絹子は沙織に問いかける。

「沙織さん、失敗した時のことは考えているの?」

「今は考えていません。可能な限りの下準備とリスクヘッジは済ませてあります」

母を見つめる沙織の目は、どこまでも真っ直ぐだ。

「高薄さんとのご縁がなくなっても、あなたはいいのね?」

「はい。お父様を失うよりは、遥かに」

「私にできることはあるかしら」

「わたくしの味方をして下さいませ」

絹子は泣き笑いのような顔で、沙織の頬を軽くつねる真似をした。

「…もう止めても無駄なところで打ち明けるなんて、お義父様にそっくり。本当に、この子ったら…」

絹子の涙が乾くころ、デザートの「キャラメリゼマンゴーとバジリコ風味のゼリーとソルベ、ココナッツ風味のサブレと共に」を俺は完食した。

船は後二日でニューヨークへ戻る。

寄港は一切なし。最終日は下船準備も含めるので、時間がない。

なにかアクションが起こるなら明日しかないはずだ。

俺達の予想が確かなら、平野と苺愛を一遍に釣れる。

ディナーを終えて、風呂に入りたかったが、やっぱり寄っておくことにした。

コーヒーバー「スター・ギター」

絶望的なほど客がいない店内で、エディはショーケースのガラスを磨いていた。

「よお、エディ。今日の豆なんだ?」

「はい、お客様…って、ジャック?!」

俺のきっちりコーデを見て、顎が外れそうなほど驚いてる。そんな彼を見てるとサイコーに笑えたけど、お前普通に「お客様」って言えたんだな。俺にも初めは言ってたかな。ほんの数分だけど。

「本日の豆は『キリマンジャロ』です。黒い魔法使い様」

「苦しゅうない」

「ははっ」

エディ、時代劇もできる。

「ジャックはこの二日、船を降りてたの?」

どかりとカウンター席に腰を下ろし、ジャケットのボタンを外す。

「ああ、ちょいと陸が恋しくなったのさ」

「またまた。悪役令嬢と一緒だったんでしょ。何かあった?」

「本当に娯楽に飢えてるんだな。この船の連中は」

「仕方がないでしょ。ゲストがショーを楽しむように、僕たちだってゲストから得るものがあったっていいじゃない」

魚心あれば水心ってやつかな。まあいい。エディに情報を流しておくと有益なのは実証済みだ。熱いコーヒーを淹れてくれた彼に、少しだけこの二日の旅程を伝えると、思ったとおり、エディはセント・トーマスのビーチとプエルトリコの話に食らいついた。沙織の立ち振る舞いについて説明している下りになると、エディはうっとりとした表情で聞き入っていた。

「いいよね。悪役令嬢!この話、クララやマリベルには?」

「まだしてない。お前が最初だよ」

やったー!と喜ぶ明るい声とは正反対の胡散臭い声がした。

「まだやってるみたいだな。俺にもコーヒーを一杯頼むよ」

タキシードのジャケットを小脇に抱えたキリコが俺の横に滑り込むようにして座った。

「はい、お客様。『キリマンジャロ』がおススメですよ」

「ではそれを。タバコはいい?」

この時間帯ならとエディは灰皿を出してくれた。俺には出してくれたことなかったくせに。堅苦しくていかんとベストまで脱いでしまったキリコは、白いサスペンダーを着けていた。奴はそのままエディと親し気に話し出す。なにを我が物顔でくつろいでんだ。ここは俺が先に見つけたんだぞ。急に面白くなくなって、キリコの正体をバラすことにした。

「こいつ、黒い魔法使いその2」

「ええっ!」

ひっくり返りそうなポーズで固まるエディのおかげで、ちょっと気が晴れる。

「俺の扱い、雑だな」

不服そうな声のキリコ。あったりめーじゃねーか。『その2』が『その1』に敵うはずがなかろーが。従って扱いが不当だと申し立てるなど以ての外。なんか俺、今夜は芝居がかってるな。

「ど、どういうこと?ジャック、彼とはどんな関係なの?」

「お友達ではないから安心しろい」

興奮するエディは置いといて、どんな関係だなんて聞かれて内心どきっとしたのは絶対に隣の陰険眼帯ヤローに悟られてはいけない。

「なに、もともと顔見知りでね。おもしろいことをするから付き合えって誘われたんだよ。俺も暇だったし」

嘘ではないが本当でもない。適当なことを言って、キリコはタバコに火をつけた。

「ちょっと聞きたいんだけど、明日のフォーマルナイトはメインダイニングでするんだよな」

「はい。この航海最後のフォーマルナイトになります。最終日は僕たちクルーのパレードですから!」

「へえ!パレードなんかするのか。そいつはいいウチワ持って応援してやろうか」

ウチワに興味を示したエディへジャパニーズ・ハンサムボーイ・グループの応援の仕方を教えると、是非やって欲しいと破顔した。ウチワに書く文字は『なげチュウして』に決定。

「話が進まない。お前はちょっと黙ってなさい」

口に火のついていないタバコを突っ込まれる。うえ、お前の重いから嫌なんだけどなあ。でも俺は手持ちがないし、仕方がねえ。店のマッチで火をつける。

「今までの航海で、最後のフォーマルナイトでしたことがあるイベントは何がある?」

「そんなこと聞いてどうするんだ。どんな出し物があるかわくわくしてるって訳じゃねえよな」

「…もう、10秒も黙っていられないのか…」

「俺の事は放っておけ」

話の腰を折られまくったキリコは、額に手を当てたままコーヒーを飲む。

「えっと…前回はバルーンアートでしたよ。ライトアップした風船のタワーと、ダンサーのショーがメインで、グリッターがたくさん舞って掃除が大変だった。ああ、そうじゃないですね。その前はプロジェクションマッピングでした。ダイニングの壁一面にカリブ海の景色を映して行くんです。朝焼けのタイムラプス映像がゲストの皆さんには好評だったなあ」

「メインダイニングにプロジェクターがあるのか」

気を遣ったエディが慌てて記憶を掘り起こす中、キリコは食い気味にプロジェクターに反応した。

「え、ええ。今年新しいものに変えたって聞いたから、あると思います」

「良いことを聞けた。ありがとう」

がたりとキリコは席を立つ。とっとと行っちまえ。

「ああ、そうだ。この豆のロースト、俺は気に入ったよ。500g買うから、後で俺の部屋に届けて」

そう言ってキリコはエディの手にチップを渡した。そのまま風のようにキリコは行ってしまう。エディのやたら気合の入った「おまかせ下さい!」って声が響いて止まなかった。