第一章
自由の女神が立つニューヨーク。
陽光満ちるリバティポートを出発し、マンハッタンの摩天楼はだんだんと霞んでゆく。
進みだした船の名は「コンバーション」全長250m、全幅35m、デッキ数は17階。
美しい流線型の舳先で波をかき分ける8万トンの豪華客船は、目的地のカリブ海目指し、真っ白な船体をきらめかせながら、大海原へ優雅に踊りだしていった。
近年流行の20万トン越えの超大型クラスとは比較にならないが、8万トンの中型船でも十分に揺れは少ない。
ラグジュアリークラスクルーズ「コンバーション」に乗り合わせたゲストたちは、なんの不快感もなく広いプールサイドに集い、全員参加の点呼のもと避難訓練を行った。避難訓練は出航24時間以内に必ず行わなくてはならない決まりである。
訓練の張りつめた空気の後は、皆が期待していた通りに軽快な音楽が奏でられ、デッキパーティが始まった。
プールサイドに飾り付けられた赤、青、白のテープが海風にはためき、午後の柔らかな日差しが波を輝かせる。
その輝きを何度も観てきた熟練の副船長が司会としてクルーと共にゲストの前に立った。副船長の嬉野は柔和な人柄がにじみ出る歓迎の意を表す挨拶をして、出航で緊張していた人々の心をあたためた。挨拶の次はゲームだ。「コンバーション」のクルーたちがゲストを楽しませてくれる。
賑やかしいバンドの演奏に合わせてカクテルグラスを傾ける人々。
長年連れ添った愛しい人の肩へ手を回すペア。未知の刺激に心躍らせる少年。遠く水平線を見つめる若い女性。それぞれがこれからの航海に胸を膨らませ、希望を託そうとしていた。
そこへ、その男は現れた。
カラフルな衣服の人垣を裂いてずんずんと突き進む真っ黒なコート。
風に乱れる前からそうであったと思わせる白髪交じりの黒いくせ毛。
思わず目を背ける者がいるほどに、厳しい眼光とそれを縦断する大きな縫合痕。
それらの持ち主は、ブラック・ジャック。その人である。
パーティに参加していた久遠寺彰は、BJに声をかけられて飛び上がって悲鳴を上げることもなく、おっとりとほほ笑んだ。
「やあ、先生。あなたもこのクルーズに参加していたんですね」
これだからボンボンはやりにくいと出鼻をくじかれたBJは内心舌打ちをする。いきなりツギハギに背後から声をかけられたら普通は少しは驚いたりするものだが、育ちがよくそれなりに善良な彰はそのようなことでは慌てなかった。まだ若さを残す瓜実顔に無駄な贅肉のない体つき。仕立ての良いジャケットの背中を見せて、彼は側にいた妻と娘を呼んだ。
「BJ先生、お義父さまを手術して下さり、ありがとうございました。おかげさまですっかり元気になりましたのよ。私たちがクルージングしている間は、日本でのんびり温泉に浸かっているから行って来いと…それも全部先生のおかげだと喜んでおりました…」
夫に輪をかけて穏やかな口調で話すのは、彰の妻の絹子(まさこ)だ。名に沿うようになめらかな絹糸の髪をゆったりと一つにまとめている。流行を追いかけ過ぎない上品なロングスカートが海の色に良く映える。その傍には彼らの愛娘が楚々として佇んでいた。
どうもBJはこの手の人間と話すのは苦手だ。品の良さと言うのが鼻について堪らなくなる。彼らが悪いわけではない。彼の生き方がそうさせるのであって、誰のせいでもない。だから彼が些か横暴にふるまったとしても仕方のないことなのだが、ここにそれを理解する人間はいない。
「俺が聞きたいのは金の話だよ。あんた、爺様の手術費15億円をいつになったら払うんだ」
不躾にもパーティ会場の真ん中で借金の取り立てに来た横暴な闖入者の言葉に周囲の人はぎょっとしたようだったが、再び明るい笑い声の輪の中に紛れていく。
「ええ?15億だって?」
「ふざけなさんな。証書だってある。とぼけるのはよせ」
ひどく驚いた彰の様子にBJの顔は険しくなる。BJは今回確かに高額な治療費と見合うだけのパフォーマンスをした。そしてそのレートも彼の仕事上規格外と言うほどでもなかった。ましてやBJは彰がいくつもの子会社を持つ、大手の建築企業の3代目社長であることを知っている。年商を以てすれば手術費の捻出など容易いはず。なぜ払わないと無言で詰め寄る。
二人の間にある張りつめた緊張感の風船をぱちんと弾くように、彰の朗らかな声が上がった。
「なあんだ、150億だと勘違いしていたよ!」
びきッとBJのこめかみに血管が浮く。それに気付きもしない彰は恥ずかしそうにぱたぱたと手を振って続ける。
「すまない。全く準備をしていなかったわけじゃないんだ。150億だとさすがに大きい金額だからね、いくつか資産を売らなくてはいけないと選定をしていたんだ。それに時間がかかっちゃって…ああ、恥ずかしい!心配かけたね」
「彰さん、はやとちりなさったのね」
おっとり夫婦が顔を見合わせてもじもじとやっている。善良で、お人好しで、胸やけがする。15億と150億を間違える人間はそうはいない。もうBJは彰との関りをこれきりにしたかった。金さえもらえば二度と会いませんように!とお星さまにお願いしたくなるくらいに。
ちょうどプールサイドステージのバンドが『きらきら星変奏曲』のアレンジを演奏しだした。あまりにタイムリーで思わず振り向けば、東洋人と思しき男性がバンドメンバーの中でひとり背中を向けてピアノを弾いていた。
(できすぎだろ…まだお星さまにお願いするのは、早いっての…)
BJの冷めた視線も受け流して、彰は奇麗に整えられた黒髪の頭をぽりぽり掻いた。
「いや、まいったね。こんなことなら沙織の縁談も焦って進めるんじゃなかった」
沙織と呼ばれた少女を彰は横に招いた。涼やかな眼差しに白磁の肌、濡れ羽色のつややかな髪をハーフアップにしてリボンで留めている。おっとり夫婦から生まれたとは思えないくらい凛々しい姿。
久遠寺沙織は18歳になったばかりの女子高生。私立の名門女子高に通い、3年間主席の成績を維持している。得意な英語では既に英検準一級を取得。部活動では薙刀部に所属し部長としてメンバーを率い、学校創始以来の快挙で国体に出た。また母と共に淑女のたしなみを一通り修め、華道の展覧会で大きな賞を取るほどのセンスを見せている。
親の欲目は差し引いたとしても、文武両道のうら若き才媛が久遠寺沙織という少女だった。しかしながら彼女が口を開いた瞬間「蛙の子は蛙」と認識する羽目になる。
「いずれは健斗さんと結婚する予定だったのですから、少し約束が早くなっただけの事…わたくしはなにも問題ございません」
両親を気遣い、おっとりとほほえむ姿に、BJは一刻も早くここから消えたい気分になった。
消えたいと思うことと、物質的にないものとされることは全く違う。砂糖菓子のように真っ白な家族の姿に辟易としていると、BJの背中がどんと押された。BJは相手を睨みつけようと振り向くが、すかさず大きな声が降ってくる。
「やあやあ、久遠寺さん!楽しんでおられますか?」
見上げると2m近い大男がグラスを片手に笑っている。腕の筋肉の隆起がスーツの上からでもわかる重戦車のような体格。浅黒い肌に鋭い眼光の顔(かんばせ)。短く刈り込んだ頭髪と髭の様子は、さながら歴戦の傭兵のようである。彼が手にしているビアグラスがやたら小さく見えるのはそのせいかもしれない。
「どうも、高薄さん。いい航海になりそうですね」
高薄と呼ばれた男は猛禽類を思わせる目を笑みの形に歪めた。
「同感です。このクルーズはウチの健斗とお宅の沙織さんの婚約記念のようなものですからな。我々にとっても思い出深い旅行にしたいものです!」
そこまでにこにこと聞いて、彰はBJを高薄に紹介した。太々しく会釈するBJの縫合痕を見て、高薄は一瞬怯んだように見えた。しかしすぐに気を取り直し、威圧するように重々しく、一介のサラリーマンから建築会社を立ち上げるまでに至った苦労話を含めた長い自己紹介をした後、彼は高薄浩一郎と名乗った。
そうなのだ。本当はこの反応が正解なのだ。異形のBJを目の当たりにして、驚くか、拒絶するかがリアクションのセオリーである。セオリーから外れた久遠寺一家とは違う高薄の姿にBJは意味のない感慨にふけった。
「婚約記念だなんて、父さん気合入りすぎじゃない?」
BJの思考を中断したのは『コンヤクキネン』という聞き馴染みのない2度目の単語。高薄のはち切れそうな白いスーツの陰から、すらりとした青年が顔を出した。青年はそのまま沙織の前に進み出て、いかにも自然と言った態で彼女の横に収まった。彼が沙織の婚約者、高薄健斗だ。彼もまた家の期待を背負い、十分に応えようとしている。有名校で成績トップクラスでないと入れない生徒会の会長を務めており、生徒からの支持は厚い。また恵まれた容姿でモデル業もこなしている。今回はプライベートの旅行なので、いくつもピアスをつけて、雑誌の切り抜きのような姿だ。
「俺は純粋に沙織とのクルーズを楽しみにしてたんだ。もうただの幼馴染じゃないってことくらい、俺たちもわかってるんだから心配しないでよ」
「ふふ、確かに健斗さんと私はただの幼馴染じゃありませんわね。産まれた病院から一緒ですもの」
「長い付き合いだよね。さあ、船の中を見て回ろうよ。おもしろいものがありそうじゃないか」
そのまま沙織と健斗は連れ立って歩いていく。若さってのはア…とため息つきかけたBJに絹子が飲み物を勧めてくれる。わずかばかり疲弊を覚えていたところだったので、素直にグラスを手にしてビールを一口含んだ。
デッキの手すりに寄りかかった彰と高薄はかちりとグラスを合わせる。彰はほっとしたように語りかけているが、どこか表情が暗い。
「150億は必要なくなったんだ。ちょっと早とちりをしてしまってね、高薄さんにもご心配をおかけした。婚約も早まったかな。健斗くんの事情もあったろうに。健斗君も沙織も幼馴染だし、ずっとこうなるって思っていたみたいだからね。お互いの関係が良好なら、将来の不安が少ないうちに決めてしまった方が、親として言うことはないと焦ってしまった」
「おお、そうですか。150億の件、まずは良かったと言っておきましょう。しかし何度も申し上げているではないですか。婚約と資金提供の件は全く別だと…久遠寺さんが焦げ付きこさえたまま倒産なんて冗談にもなりませんからな!」
「全くおっしゃる通りだ。父に叱られたよ。確かに資金繰りには手間取ったけれど、私達の看板はともかく、高薄さんにご迷惑をおかけするなどとんでもないと」
「いやいや、ご謙遜を。うちなどまだまだ新参者。3代も続く久遠寺コンツェルンに信用していただけるのを誉と思うておりますよ」
がははと大口を開けて笑う高薄浩一郎に、久遠寺彰は目を伏せ、控えめに微笑を作った。
「……今、業界で一番勢いがある高薄さんに、どうやって業績低迷が続く弊社の娘を嫁がせられたのか、このところ毎日のように聞かれるよ」
暮れ始めた空の色を背に、彰の声は少々自嘲を含み、弱弱しく聞こえた。そっと夫を見つめる絹子の目もまた同じ。
BJの頭に大音量の警報が鳴る。
緊急!緊急!さっさと現金回収しないと会社が倒産して不渡りになるぞ!
不渡りだけは絶対に御免だ。
自分が決めて報酬がラーメン一杯やカルシウムの欠片になるのは問題ない。しかし相手が倒産したから手術費はもらえません、お金がないから払えませんというのはBJの信条として許しがたかった。そもそも依頼してくるなと門前払いのレベルである。金が払えない患者にも腹は立つが、一番許せないのはそんな患者を選んだ自分だ。自分で自分の見る目がなかったと認めるのが悔しくて仕様がないのだ。
歯噛みしながらBJは一旦デッキの逆サイドに向かう。パーティのざわめきから離れて、沸騰しかけた頭を冷やしたかった。
だがここでも彼の望みは叶わない。なぜなら視線の先に「奴」がいたからだ。
デッキの隅に佇む銀髪隻眼、黒眼帯の長身の男。
ドクター・キリコ。
彼もまた、この船に乗船していたのだ。
沸騰しかけた頭が爆発した。
ずかずかと周囲の人間など跳ね飛ばすような酷い勢いで、BJはキリコの元へ詰め寄り、思う様暴言をぶちまけた。
「どういうつもりでこんな所にお出ましだ!船の上でもヒトゴロシをしようってのかい」
いつもの定形文をいつもと違う場所で浴びたキリコはまるで動じない。彼は表情筋を動かすことなく、BJをアイスブルーの隻眼で見据える。
「人聞きの悪い言葉は止してもらおう。その言葉は彼への侮辱にも当たる」
キリコの背に隠れた車椅子。そこに座る男性が不安気な顔を覗かせた。顔色はこれ以上ないと言うほどに良くない。薬の副作用か頭髪がすっかりと抜け、薄手のブランケットから覗く手足は小刻みに震えている。彼が何らかの病に侵されていると判断するには十分だった。恐らく彼は今回キリコに安楽死の依頼をした人間なのだろう。
「心配しないでください。この男は私が嫌いで仕方がないのです。さあ、もう中へ入りましょう。風が冷たくなってきた」
「ああ…ドクター、その、彼は?」
依頼人がおずおずとキリコに訊く。
「ブラック・ジャック、一応医者です。無免許ですがね」
訊かれた本人が答えるより早くBJは自ら名乗った。キリコは黙っている。これ幸いとBJは依頼人へ病状を尋ね、治療すれば生きられる可能性があるかもしれないと、目をギラギラとさせて迫った。しかし依頼人の反応は芳しくなかった。
「僕がこのクルーズに参加したのは、一度も海を見たことがない僕のわがままをドクター・キリコが叶えてくれたからなんだ。人生で初めてのクルージングだ。楽しい気分のままで過ごしたい。僕の心は決まっている。そっとしておいてくれないか。その、ええと…ブラック・ジャックさん…」
BJはそっとなどしておけなかった。だけど何故か「しかし」だの「それでも」だのと彼に詰め寄る気持ちになれなかった。キリコの依頼人である彼の瞳が、これから向かうカリブ海の色と似ていたからかもしれない。
それに海に焦がれた気持ちは、何となくわかる気がした。自らが車椅子で過ごした少年期に抱いた海への憧憬は、まさしく依頼人の感情と類似していたのだから。
BJが追憶に沈んでいる間に、キリコは静かに車椅子を押して船内に消えていってしまった。
憎たらしい銀髪の姿が完全に見えなくなり、BJは手の中でぬるくなりつつあるビールを一気に煽った。
自分のすることを整理する。何も初めと変わっちゃいない。手術費15億円を久遠寺彰から取り立てるのだ。彼に小切手かきちんと金を支払う意志があるサインの類をもらわないと、納得できない。
ただ状況が不安定なのはわかった。久遠寺コンツェルンは斜陽の時期にあるらしい。そこでコンツェルン相手にトラストまがいの手が打てるほど勢いのある高薄の会社が、久遠寺に資金提供の話を持ち出した。両家は昔から付き合いがあったのだろう。しかも両家の息子と娘が婚約関係にあるならば、盤石ではないか。しかし久遠寺彰の顔は冴えなかった。
「あのやろう、婚約に乗り気じゃねえとか言い出さねえよな…」
BJの呟きもかき消される周囲のざわめきの中、東洋人が奏でるピアノの激しく陽気な旋律が響いていた。