My fair villainous lady⑫

俺は無理矢理、沙織から場の主導権を引き剥がした。

理由はいくつかあるが、現行のシナリオで不可解な点が出てきたことが大きい。俺達が前提にしていたものが、存在しないように見受けられる。これを沙織に暴かせるのは、ちと寝覚めが悪い。

カツンと革靴を鳴らして、平野に向き直る。

黒いコートをマントのように翻し、顔面の縫合痕を隠しもしない俺は、紳士淑女の皆様にはとびきり邪悪に見えるらしい。慌てて人垣の向こうへ隠れる奴もいる。大袈裟なことで。それじゃあ、ご期待に応えて悪役らしくやろうかね。

「おう、平野。お前さんの部屋は俺の隣の部屋なんだよ。毎晩ひどい物音で参っちまったぜ。今夜からは安眠できると思うと嬉しくてたまらねえ」

俺の言葉に敏感に反応すると、平野は黒で塗りつぶされた目を瞬きひとつせずに俺に向ける。まぶたのない魚類を思わせる視線だった。

「随分と熱烈だったぜ?全部ここでミナサマに説明してやろうか?」

芝居がかって手を広げて見せれば、平野の顔はわかりやすく不快にひきつった。

「お前は、誰だ?」

「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はブラック・ジャック。モグリの医者さ。そこの久遠寺さんと関りがあってここにいる」

平野程度の半端者だと俺の名前は知らないだろう。もうちょっと深い所を歩くようになれば、俺の肩書きくらいは聞くだろうがね。案の定、平野はピンと来ていない表情で俺と彰を見比べている。それでいいさ。お前さんの経歴を俺が訊かないように、俺の事も適当にしておいてくれ。

「なあ、平野。お前さんの久遠寺彰への執着は異常だ。愛玩しようとしてみたり、弑逆しようとしてみたり。破綻してるよ。ピアノのせいか?」

歯に衣なんか着せねえ。そのままぶすりと突きつけると、一瞬怯んだようだったが、平野は俺の言葉に応じた。

「そう、そうだ。彰のピアノは至高の調べだ。失われてはいけないものだった。俺はそれを自分のものだけにしたかった。それだけだ」

「分らんことを言うなあ。指を潰しておいて、どうやって演奏させる気だったんだ?」

「はは…演奏なんかしなくていい。指がなければ、新しい音を彰は奏でられないだろう。彰のピアノの音は全部俺の頭の中にあるんだ。ほらまた俺は思い出したぞ!10月3日のコンクールで彰が弾いたエチュードを!」

久遠寺彰の静かな顔を見つめながら、嬉々として平野は語る。ダメだな。早めに片付けるか。

「そうかい!じゃあどうして彰になり代わった?お前さんはいつもコンクールの中間の順位だったらしいじゃないか。コンクールで優勝する彰が羨ましかったから、入れ替わってみたのかい」

「違う!入れ替わってはみたが、彰の暮らしは窮屈で面白くもなかった。船乗りのピアニストの方が何倍もマシだ」

俺を射殺さんばかりの視線に対して、憐れみを含ませた嘲笑で応えてやれば、分かりやすく平野は怒りに震えた。そうそう。そっちの線で行こうぜ、ご同輩。

「へえ、窮屈かい。金に不自由しない船旅だっただろう?お前さんと同じ顔なのに、彰はファーストクラス。お前さんは最下層のインサイド客室だ。もっと豪華な部屋を楽しめばよかったのに」

「窮屈だと言っただろう!」

「おっと、血圧上がるぜ?同じ顔なのに、ピアノの才能だけじゃなくて暮らしぶりまで違いがありすぎるなんて、さぞかし残念だっただろうなあと思っちまったんだ」

ぴたりと宙の一点を見つめて、平野は呟く。

「…違い…違いね…判ってる。金の面で言えば、俺は船上のピアニスト、彰は久遠寺コンツェルンの3代目。砂粒とダイヤモンドの違い。ピアノの才能だって、俺は正確に把握してる。自惚れちゃいない。彰の才能は空を飛ぶ鳥と同じだ。ピアノを弾くことが当たり前で、自然なんだ。俺みたいなイミテーションとは違う」

煽り続ける俺の言葉に反発するばかりだったのが、急に冷静になり、自分と彰を比較しだす。魚類の瞳に理性の光が灯るよう。きっとこれまでに何度も何度も比べ続けてきたに違いない。さあ、肚の内を吐いてもらおうじゃねえか。

「なあ、ブラック・ジャックって言ったっけな。あんたは俺が金のためだけに彰と入れ替わろうとしたと思ってるんだろう。確かに金はあるに越したことはないが、金でどうしようもならないものもある。金持ちの生活が羨ましいとか、俺もああだったらよかったのにとか、そういうものを超えてるんだ。俺の彰への感情は、ピアノのコンクールで出会って今日まで30年の間に、愛…そう、愛に変わったんだよ…」

うつむき加減に話していた平野は、じわじわと顔を上げて俺の眼前に迫る。

久遠寺彰とよく似ているはずなのに、そこには暑苦しいまでの熱量を持ち正体不明に変化した、彼とは似ても似つかぬ満面の笑みがあった。

「この船で偶然にも彰と再会した時の俺の気持ちが分かるか?十数年ぶりに会う彰は、変わらず穏やかに微笑んでいて、ほのかに光っているようにすら俺には見えたんだ。俄然俺は彰を俺のものにしたくなった。膨らんだ蕾が開くのが当り前のように、なんていうかなあ、欲情したんだ。彰と一緒になろう。ならなきゃいけないってな。同じ顔なのに俺はどうしたって彰になれないし、彰だってそうだ。それなら二人でひとつになれたら、彰の全てを俺は独占できるだろう?」

俺は平野の思考を理解する気がなかったが、ただ言葉だけ鼓膜を通過はさせていた。ピアノに狂わされた男の独白。愛だの何だのは尚の事、相手の全てを独占したいなどという執念は、俺にとって嫌悪の極みだった。口を挟まないのを肯定と受け取ったのか、平野は機嫌よく話し続ける。

「平野星満は死んだことにして、俺たちは二人で久遠寺彰として生きていく。俺は彰の顔の代わりをするし、彰は俺の相手だけしてくれたらいい。そのためには彰からピアノを奪った腐った久遠寺コンツェルンなんか滅びればよかった。彰を縛るものはどれもこれも捨てて、全部済んだら俺は船を降りて、彰と二人で暮らすつもりだったんだ…カリブ海の島でもいいし、ニューヨークの裏路地でもよかった。素敵だろ?俺がピアノを弾いて、隣に彰がいる。誰にもばれずに船から彰を降ろす計画までしてたってのに、この頭でっかちのバカ娘がぶち壊しやがった…娘、ああ、これも運命なんだな!俺達はやっぱり運命なんだよ!」

いくつかの共通点と、積もり積もった恨み言。そこへどんな言葉で愛を語ろうと、どんな絵空事を描こうと、平野がしたかったことは結局久遠寺彰の幽閉に過ぎなかった。相手を無視した歪んだ愛の告白と共に、平野は両手を翳して天を仰ぐ。

「同じ顔をして、同じようにピアノを愛し、同じように娘までいる。ははっ、そいつが彰の娘をいびり抜いたって聞いたときは笑いが止まらなかった。俺は高薄のバカ息子をひっかけろって言っただけなのに。最高の運命じゃないか」

「娘?」

『彰の娘をいびり抜いた』ことに該当する人物は一人しかいない。

全員の視線が苺愛に向いた。

苺愛は不穏な空気が掴み切れない様子で口を開く。

「…娘って、誰?」

俺は仮説の検証を始める。

「おい、苺愛だったっけか。お前さん、この男を知ってるのか?」

ポーチからコンパクトを取り出していた苺愛は、関係ないと言わんばかりに化粧を直している。

「めんどくさ…こいつはあたしの同居人?みたいなやつ。あたしのママが死んだら、いきなり来た知らないオヤジ。そのときのあたしは小さかったし、こいつについていくしかなくて、船に乗ってあっちこっち付いてったってだけ。あたしが自分で稼げるようになったら、金を貸せってうるさいから、月イチで金を貸してたの。でも、ここまで頭おかしい奴だとは思ってなかったわ。キモい」

パチンとコンパクトのミラーを閉じて、苺愛はそっぽを向いた。

俺は平野の焦点の合わない目と向き合う。

「平野、どうして苺愛に自分の娘だと伝えないんだ」

「どういうことよ!あたしが?!そのクズと親子?ぜんっぜん笑えないし、気持ち悪い」

キンキンと喚く苺愛を放って、これまで沈黙を貫いてきたキリコが動いた。

「ところが、体は…と言うかね、遺伝子は嘘をつかない」

キリコは沙織から扇子を借りると、それでスッと平野のうなじを差した。そこにはオリオンのベルトのように並んだほくろが3つ。

「ほくろは遺伝するんだ」

弾かれたように苺愛は自分のうなじに手を当てた。いつもはミディアムボブのピンクの髪の毛の下に隠れているが、プールに落ちたとき、彼女のうなじにほくろが3つ並んでいたのを俺は覚えていた。彼女とベッドを共にした男どもも同じだろう。

「嘘!嘘って言ってんだろ!そんなでたらめ…!」

「医学的な証拠はある」

淡々とキリコは続ける。

「ほくろの遺伝子が、親から子へ伝わるのは証明されている。ほくろの多い親から生まれた子は、自然とほくろができやすい体になるんだよ。同じ場所にまでできるケースは実に稀だが、ない話ではない」

機械的に言葉を紡ぐ様子に苺愛はだんだんと気圧されていく。

「君たち二人を並べて、外見的特徴から親子と見出せる条件はきっと他にもあるのだろうね。例えば、ピアニストは手が大きい人や指の関節がやわらかい人が多いと言うし、君もそう言われたことがあるんじゃないか?」

苺愛の手からポーチが落ちる。化粧道具が散らばる音が響く中、苺愛は真っ青な唇を震わせた。

「…ありえないし……実の父親と…って、あたし……」

俺が書いたシナリオの前提条件の中に「平野と苺愛が血縁関係である」というものがあった。最下層のインサイド客室に監禁された彰に、平野が事細かく沙織や苺愛の事を知らせられるのは、苺愛と平野の間に密接な関係があるから。ほくろの一致から閃いた与太書きではあるが、密接な関係とは何かを予想させるには十分のおまじないだった。

尚且つ沙織と健斗の婚約が破棄されて、沙織の後釜に座るのが苺愛になったなら、その恩恵にあずかるポストに平野がいるべきだとして考えると、平野と苺愛が血縁関係にあると仮定した方が分かりやすかったのだ。

しかし、沙織が悪役令嬢として断罪劇を始めてから、俺は違和感を覚え始めていた。苺愛は平野の動きを全く意識していないのだ。完全に断罪され、4人のナイトから見放されても、苺愛は平野に助けを求めなかった。

苺愛は平野と自分の関係を適切に把握していない。これが俺の中に立った第2の仮説。するとぞろぞろと嫌な想像が広がりだした。これを沙織に始末させるのは荷が重い。場の掌握を図り、平野の心情を引きずり出し、結果、俺は最悪のカードを引き当てた。

平野は膝をついて震える苺愛に向かって平坦な声で言った。

「金を稼いでくれる今までは良かったが、ヘタに父親だなんて明かして、船から下りた後もコイツについて来られたら邪魔だろ?…顔だけはアイツに似てるんだよな。こいつが生まれたときに、自分で人生で一番の当たりくじ引いたなんて言ってて意味わかんなかったけどよ。まあ、でも蛙の子は蛙だ。色々手管を仕込んでいくうちに分かったが、中身は俺そっくりで」

「それ以上口にするのは、控えてもらおう。おそらく聞くに堪えんだろうからね」

ぴしりと平野の口元を扇子で差し、言葉を止めたキリコは、ばらりと扇子を広げて埃でも払うかのように仰ぎ、扇子を沙織に返却した。

「さあ、これで平野星満の生存が確認できたことですし、アレサンドロの件について聞いても構いませんか。藤村船長」

キリコは藤村に問うが、回答は最初から決まっていたようだ。

「わかった。続きは船長室で行おう」

平野を見下ろす位置に立ったキリコは穏やかに告げる。

「聞こえたとおりだ。一緒に船長室へ来てもらおう」

「…俺がまだ何をしたって言うんだよ」

「遺体を自分の身代わりに使っただろう。その件で聞きたいことがある」

ひゃははははと平野の哄笑が響く。体をくの字に折り曲げて笑い続ける男は、獣のよう。まともな神経をしているようには見えなかった。

「ああ、そうだ。これも運命だって思ったことのひとつだった!彰が俺のいる船に乗ってきた運命!だけど入れ替わって彰を手にいれようなんて、絶対に不可能だった。なのに俺の運命の歯車はまだ動いていた!船の中で新鮮な遺体が手に入るなんてな。これを運命とせずになんと言えばいい?すべてが俺のために動いてくれたのは、あの気味の悪い死体のおかげなんだ。魚の餌に…」

平野の言葉はそこで途切れた。

表情のないキリコの顔を見たまま、動きを完全に止めている。

「言いたいことは、それだけか」

キリコからは何の感情も溢れては来なかった。ただ落ち着いた声で平野へ告げる。それなのに場の空気は凍りつく。

「これから法的な手段で、君を裁くことになるだろう。私怨として君の存在を消すことは実に簡単だ。しかし時間をかけて、君を罪の中に閉じ込めておく方を俺は選択するよ。大好きなピアノとも、久遠寺彰氏ともお別れだ」

「い、いやだ!」

『お別れ』というわかりやすい単語が平野には届いたようだ。焦ってキリコにすがろうとするが、どうしてもキリコに近付けない。強い拒絶の視線が氷の色をした隻眼から放たれている。

「アレサンドロの尊厳を守るために、俺は君の全てを奪うよ」

己を断罪する冷たい意志を受けて、これからどうなるか理解した平野は、未練がましく同じ顔をした彰にすがる。すでにセキュリティスタッフが間に立ちふさがっているため、近寄ることはできなかったが、あらん限りの力を込めて喉を張り上げる。

「彰!彰!分かってくれるよな!俺がお前を愛してるって!」

なりふり構わず歪んだ愛を押し付けようとする平野の思いは、彰の微笑で砕かれる。

おっとりと人のいい笑顔を、少しだけ困ったように曇らせて、久遠寺彰は申し訳なさそうに口を開いた。

「すまない。君のピアノの音を覚えていないんだ」

この一言。

たった一言で、平野は全ての力を失ったかのように、ぷつりと床に崩れ落ちた。

天の至高の音を追い求めて、様々な犠牲を払った挙句、手に入れられたのは彰の体でも心でもなかった。久遠寺彰の中に平野が奪えるものなど初めから存在していなかったのだ。

何をもってして運命と呼ぶのかはわからない。

思い込みが運命に感じられることはままある。

平野にはその思い込みが、自分だけの妄想だと受け入れることは難しいだろう。

ただ彰の記憶にすら残らなかった自分を、どのように見るのか。それは彼自身の課題であり、塀の向こうでずっと考え続ける事に違いはなかった。

セキュリティスタッフが藤村の指示で動き、速やかに平野を拘束し、メインダイニングの外へ連れて行く。

仕切り直しのアナウンスが流れ、まだまだゲストたちの中にざわめきが止まない中、クルーが準備したビンゴゲームが始まろうとしている。さきほどまで劇の一幕を見せられたような観衆は、とまどいながらも通常のフォーマルナイトの気分を取り戻そうとしていた。

その会場の片隅で、震えていた苺愛に沙織は話しかける。

なんと声を掛けたらよいものか、散々考えあぐねていたようだったが、やはり彼女の性格から黙って放置する選択はできなかったようだ。

「苺愛さん、わたくし誤解しておりましたの。平野星満とあなたのことを…」

聞きたくないと言わんばかりに、苺愛は立ち上がり、メインダイニングを足早に駆けていく。沙織もその後に続く。

「…悪の先生として、ゆだねるべきか、見守るべきか」

「どっちにしろ、口を出す気はないじゃないか」

二人を見送ると、キリコがやって来た。

「お前さん、平野のところに行かなくていいのか」

「俺に捜査権限はないよ。できることはアレサンドロの代わりに、彼を裁判所に訴えることだけさ。調書や何やらは船長が作るだろう」

「それで…お前さんの気は晴れるのか」

「晴れるも何も、まだやることは山積みさ。束の間の休息になるかもしれないから、デッキに出よう。タバコが吸いたい」

俺とキリコは連れ立って、デッキへ向かう階段を上る。

嵐が過ぎ去った夜の闇で、そのピンクの髪は色を失くして風に舞うしかなかった。

マーメイドテールの膝丈ドレスは、今夜のドレスコードにはまったくそぐわない装いだったが、彼女が着れば儚い妖精のように見える。胸の内には強かなものを抱え、苺愛は追いついてきた沙織に思い切り毒づいた。

「どこまでバカにすれば気が済むんだよ!のこのこ付いてきやがって!追いかけてくるのが健斗じゃなくて、あんただってのがサイアク。頭おかしいだろ!」

結った髪を海風に散らされながら、デッキの甲板を一歩、沙織は苺愛に近付く。

「わたくしは、この騒動に関わった全てを知っておく必要があると思ったので来ました。苺愛さんが話したくないなら構いません。ですがわたくしは、あなたのことで誤解していたことがあるので勝手に話します。平野星満とあなたが親子であることを前提に、今日の場面を設けましたが、あなたは知らなかったのですよね?」

「……」

「わたくし、謝りません」

「…別に、あんたに謝られて、なにか得するわけでもないし。相変わらずエラソーでむかつく」

「……」

「なんか言えっての」

「お話をして下さいますの?初めてちゃんと話せる気がします」

「…あんたが知らない、クズの娘に生まれたサイアクな話をしてやるから、聞けよ」

しばらく苺愛は沙織と話すだけ話してデッキから去った。

去り際に俺達とすれ違う。

「よお、落ち着いたか。一本やるよ」

タバコを差し出すと苺愛は嫌悪の表情を作った。

「やめてよね。今回は『愛され系』でやってんの。イメージ壊れる。だいたいラークとかおっさんじゃん」

「どいて」と苺愛は船内に戻った。俺はラークがおっさんと言われたことに地味にショックを覚えてはいたが、隣の眼帯はチェリーという古代種を未だ愛煙しているので、黙っておくことにした。

カンカンとわざと足音をたてて、沙織のもとへ。

夜の海を見つめたまま、彼女は無言だった。

おそらく苺愛から、彼女の生い立ちや、父だという事実を隠したまま接してきた平野の行いについて、事細かく聞いたのだろう。

俺達に気付いた沙織は、ぽつりと呟いた。

「わたくし、世間知らずでしたのね」

寂しいような、哀しいような。

「まーだまだ、お前さんなんか知らねえことが世の中にはいっぱいあるんだぜ。いちいち気にしてる暇があったら、それをしっかり理解して、次に生かせ」

お前が言うな、とぼそりと呟いて、キリコは少し離れた欄干に寄りかかる。

「久遠寺を背負うんだろう?」

俺の問いかけに、沙織ははっきりと首肯した。

「もちろんです。当面はお父様、お爺様に教えを請いながら、必ずや久遠寺コンツェルンを立て直して見せますわ」

「高薄の後始末が先だぞ」

「もう始めております」

にこりとスマートフォンを見せる沙織は、経営者として小さな一歩を踏み出し始めたのを、俺に感じさせるのに十分だった。にやりと笑って釘を刺す。

「15億、忘れんなよ」

「ええ、もちろんです」

このまま終われば、華麗に断罪劇をやりこめた悪役令嬢の物語として終結したはずだった。

ところが、深夜になって事態は急変する。

医務室で眠る彰を平野が刺したのだ。

罫線

お父様が刺されたと聞いたとき、もうベッドに入っていたわたくしは、お母様と一緒にガウンを掴んで医務室へ走りました。

医務室にはセキュリティスタッフの方々が床に犯人を押し付けて、身柄を拘束しています。荒げた声が行き交う中、お父様はどこにいるのかと医務室を見回した時、おびただしい血痕がベッドについているのを見たのです。しかしお父様はそのベッドにはいません。

「沙織!」

わたくしを呼ぶ声は、BJ先生。隣のカーテンを開けると、手術台でしょうか。特殊なベッドの上に寝かされたお父様の傍にBJ先生はいました。駆け寄れば、お父様の腹部は血にまみれて、ベッドにまで血が滴っています。真っ白になったお顔で弱弱しく息を吐くお父様。頭が混乱を極めて来た時、BJ先生はこうおっしゃいます。

「平野の野郎、刺した後で刃を中でぐちゃぐちゃに掻きまわしやがったんだ。五分五分だが、今すぐ手術をすれば助かるかもしれん」

反対に立っていたドクター・キリコは違うことを。

「これ以上の苦しみは、久遠寺彰さんにとって不要です。手は潰され、介護なしでは生きられない。刺し傷以外の内臓の損壊だってある。今後の彰さんのことを鑑みても、今の傷はとても助からない。安楽死をおすすめします」

ああ、もうこの先生方は『悪の先生』の顔をしていませんでした。

「黙れ、キリコ。まだ彰は助かる可能性がある。勝手に見切るのはやめろ!」

血しぶきを浴び、猛虎の如く牙を剥いて叫ぶ黒衣。

「勝手はそっちではないのか。見ろ、傷が内臓にまで達している。出血量も多い。無駄なことさ」

解をひとつしか持たない、氷結のまなざし。

「時間がない!手術をするぞ!」

「お父さんを苦しませる必要はない。安楽死を」

ああ、人の命を、まるで玩具を取り合うかのように争う二人は。

まさしく、『悪』でございました。

罫線

毎日聞こえていた波音がようやく耳から離れて、日差しがまぶしくなってきたころ、一通の手紙が届いた。メールではないところがらしいなと思う。

俺は椅子に座り、樫の木のペーパーナイフで封を切る。かさりと便箋が数枚。

拝啓

新緑の頃、先生におかれましては ますますご繁栄のこととお慶び申し上げます。

先日の株主総会で満場一致の支持を得て、わたくしが久遠寺コンツェルンの4代目として立つことが決定いたしました。当面は祖父が後見人として、わたくしの補佐を務めてくださいます。

高薄グループを傘下に加える体制も整い、皆様のご協力を賜るありがたさを強く感じております。

長らくお待たせ致しましたが、これで先生への報酬をお支払いできる準備ができました。あの時担保にした「わたくしの未来」を小切手に変えてお渡ししたく存じます。後日、担当の者がそちらへご連絡差し上げますので、お手続きをお願いいたします。

ただ…今でもわたくしは自分が下した決断に、これでよかったのかと思う瞬間があるのです。

きっとあの時、どちらの選択肢を選んでも、後で同じように迷ったでしょう。

「久遠寺を背負う」この言葉の重みを日々感じているところでございます。

木の芽時の体調を崩しやすき時期です。先生もどうかお身体をおいといください。

敬具

久遠寺沙織

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