第9章
クルーズも残すところ三日となった。
今日の寄港地はプエルトリコ。
キューバ・ジャマイカ・ドミニカ共和国と続く、大アンティル諸島の東端。
あの「エル・モロ要塞」がある島だ。
この島にも美しい景勝とは程遠く、侵略と虐殺、抵抗と革命の血なまぐさい歴史がある。
現在はアメリカ合衆国の自治領として落ち着いてはいるが、自治政府のデフォルト、ハリケーンによる自然災害など、ここに暮らす人々は楽園に住まうとは思ってもいないだろう。
どこにだって戦いは存在する。
クルーズ船の中だって。
「ねえ、健斗ぉ。どうして、こんな狭いバスで行かなきゃいけないのお~!」
苺愛のかわいい声がぷりぷりしている。
今日、俺達はプエルトリコの観光地を巡るバスツアーに参加した。かなりの人数が乗ったバスの中、苺愛を真ん中に一番後ろのシートに並んで座る。
「こういうのも旅の醍醐味だ。ほら、苺愛。もっとこっちへおいで」
本当はリムジンタクシーを借りるプランもあったんだけど、父さんにバレるとまずいからこっちにした。リムジンタクシーがわざわざ港まで迎えに来るサービスなんか、冗談じゃない。そもそも俺の小遣いじゃ全然足りないし。
そんなことも知らない生徒会の連中に言いたいこともあるけれど、あいつらは完全にプエルトリコの高級ホテルが並ぶ街並みに圧倒されてる。
小網も昨日のダイニングでのことがあったからか表情は冴えなかった。だけど小網はダイニングを出た後、別行動をしたときに何があったのか絶対に言わない。俺達に言えないような失敗でもしたのかな。もしかして一人であいつらの所へ行った、とか。何となくそんな雰囲気を感じるけど、俺達はそれを見て見ぬふりをしている。
それにしても昨日の事は、思い出すだけで腹が立つ。沙織は何様のつもりなんだ。俺のそばから勝手に離れて、好き勝手にやるなんて!
バスが発車すると、ダイニングでの出来事を誰かから聞いたらしい苺愛が小網を慰める。
「コアミー、昨日、あいつのせいで大変だったって聞いたんだけど…大丈夫?」
「あいつ?」
「あ、ああ!沙織さん。ゴメン、ムカついちゃって、あいつなんて言っちゃった~」
「いいよ。あいつで。可愛げなんかひとつもないし、女の子扱いする気もなくなった」
図書ラウンジでの沙織の顔を思い出して、嫌な気持ちになる。俺の方を一度も見なかった。
「あいつさあ~ビーチで変なオヤジとつるんでたでしょ~アレ、あやしくない?」
苺愛は不思議なことを見つけた子どものような声で言った。
昨日のビーチ、図書ラウンジ、ダイニング。どこにいても沙織はあの奇妙な二人と一緒だった。一人は白髪交じりの髪に、刃物のような目つき。体中に傷跡があるヤクザのような男。もう一人は外国人で黒い眼帯が怖かったけど、それより見えている方の眼からかかる圧が半端ない。沙織とは生まれたときから一緒だったけれど、あんな奴ら、俺の記憶にはない。
「ホント!気持ち悪ィオヤジ達だよな!よく一緒にいられるぜ」
いきり立って小網が苺愛の言葉に続く。
「沙織もお嬢様みたいな素振りして、結局あんな奴らといるってことは、あいつも相当趣味悪いね」
「全くです。おそらく金で雇っているのではないですか?」
「うーん、そっかあ…」
次々と文句を並べ立てる飛田と守に、急に不安そうな顔になって自分の肩を抱く苺愛。
「どうした、苺愛?」
きゅるんと音がしそうなくらい大きな目を潤ませて、俺達の顔を見つめる苺愛は、ほっと安心したようなため息と一緒に笑顔になった
「あたしだったら、絶対無理だなあって思ったの~。いくら楽しいツアーでも変なオヤジとずっと一緒にいるのは無理~。あたし、皆と一緒でよかったあ」
こてんと首を傾けて、俺達を見上げる苺愛は何てかわいいんだろう。
「おう!俺も苺愛と一緒でよかったぜ」
「ああ、俺もだ」
「みんなぁ~なんでそんなにやさしいの~~?うれしいよ~」
全員で言うと、苺愛は隣に座る俺と飛田の腕をぎゅっと抱きしめた。うすいTシャツ越しに腕に伝わるふよんとやわらかい彼女の胸の感触。これは沙織にはないものだ。多分。
気を取り直して今日もツアーを楽しもう。そして苺愛と思い出を作ろう。それがどんなに楽しいか、俺の人生に必要なのか、父さんにきちんと説明すれば分かってもらえる。
バスの次の行き先がどこなのか知らなかったけど、空は青かった。
「ぶへっくしょい!」
「へぷち」
「くしゅん」
サンファン大聖堂の側のカフェ。俺達は三人いっぺんにくしゃみをした。
「おい…寒くないか?」
「カリブ海で何言ってんだ。つーか、お前さんのくしゃみ、なんだよ。『へぷち』って」
「わたくしも、なにやら胸元がスースーといたします…風邪でしょうか」
今日の沙織の服装は黒のかっちりとしたブラウスに、ハイウエストのモノトーンスカート。手にはエディからプレゼントされた透かし彫りが入った竹の真っ黒な扇子。髪は高い所でポニーテールにしてまとめ『悪役令嬢らしく』装ってきたとのこと。やる気があって大変よろしい。
しかし旅先で風邪は良くないと、簡単な問診をする。当然風邪じゃない。
あたたかいものでも頼みましょうと沙織が示したメニューには「ホットラム」。いいなあ。カリブ海はラム酒の宝庫。ここプエルトリコだってラム酒が名産だ。沙織がいなけりゃ、一杯ひっかけるのもアリだったんだが、今は大人しくしておこう。キリコは土産に買えるラム酒がないか訊いてくると、カフェの奥に消えた。独り占めはずるいぞ。俺も続く。
いってらっしゃいませとのんびり言うものだから、俺達は沙織をひとりカフェの道沿いの席に残した。すぐ戻るつもりだったし。
そこへツアーバスがやって来たとは、この時の俺は気がつかなかった。
大勢のツアー客が、サンファン大聖堂の真白い壁に歓声を上げる。
門をくぐれば、500年前に作られた黄金色の装飾がまばゆいゴシック調の祭壇が迎えてくれるのだ。ツアーマップでしっかり予習した観光客たちは、どきどきした顔つきでサンファン大聖堂へと向かう。その中に彼らもいた。
「あ~、あの子だ~」
甘ったるいキャンディみたいな声。
「ひとりなのか」
訝しむ声。
「ははァ、結局こうなるってことだ」
アッタマ悪そうな声。
カフェから出ようとして、沙織がピンク頭の一団に囲まれているのがわかった。しまったな。かと言ってすぐに俺達が出るのも不自然だ。しばらく静観しようと、俺とキリコはカフェの中の席に座った。
「おい、沙織。あの気味の悪ィおっさんどうしたんだよ」
赤髪のガキが懲りずにニヤニヤ沙織に突っかかる。
「昨夜の謝罪はなんだったのですか、小網さん。そのような言い方はお止しになって」
凛とした沙織の言葉に対する反応は二つ。
「昨夜の謝罪?」
「んなっ…なんでもねえよ!適当なこと言ってるんだ。気にするな!」
鼻っ柱を折られた赤髪は、健斗の後ろへ。沙織はその様子をただ見ていた。
「ひとりで来ているのか?」
幼馴染を気遣うような雰囲気で尋ねる健斗だが、その腕には苺愛が巻き付いている。
「あはは!ひょっとしてえ~おじさんにも逃げられちゃったの~?」
「お答えする必要はありません。わたくしも健斗さんに誰と来ているかなど、訊きませんもの」
「そんな言い方をするな。沙織、何を拗ねているのかわからないけれど、このクルーズで俺達は一緒に行動して来ただろう?どうしていきなり仲間の絆を壊すようなことをするんだ」
正義のヒーローのような顔つきで『絆』なるものを主張する。
「まあ、わたくし、そのような重要なポストに就いておりましたの。皆さんを繋ぎとめる大層なお役目とは露知らず。ですが毎日『来るな』と言われれば、行かなくなるのも当然でしょう?このお話、前にもしましたね、健斗さん」
ばらりと黒い扇子を広げ、沙織は口元を隠す。話したくないという意思表示なのだが、通じる相手ではない。
「子どもみたいな事を言うな。俺はお前をまた仲間に入れてやろうと思ってるんだぞ」
小網を初めとした面々が寝耳に水といったような反応をする。健斗は王子様ムーブ全開だ。
「せっかくのクルーズじゃないか。みんなで楽しもう。婚約者のお前だから、俺はここまで言ってるんだ」
「健斗ぉ~やっさしい~~」
生徒会長で培った、薄い博愛主義に、偏った価値基準。それを分厚い自己愛で包み込めば、表面だけキラキラした友情ごっこの舞台ができる。だがお生憎様だ。
「ご遠慮します。またあんな目に遭うのなら、ひとりで構いません。それに健斗さん」
沙織は健斗の目を見ずに言う。
「婚約者がある男性の腕にしがみついたままで平気な方と行動を共にするのは、わたくしには難しすぎる課題です」
「ひどい!沙織さん…そんなにあたしのこと…きらいなの」
健斗の腕を抱きしめて、苺愛はピンクの頭を振り振り泣き顔を作った。
「またお前は苺愛に酷いことを言いやがって!」
「そうだよ!苺愛はなにも悪くないじゃないか」
「あなた方は人の言葉をもっとよく聞く練習をなさいませ。短慮にも程があります」
扇子をぱちんと閉じて、沙織は彼らに向き直る。それだけでにじみ出る令嬢の雰囲気に守はデリケートに反応した。
「君は嫉妬をしている」
分をわきまえろと言わんばかりに沙織はため息をつき、面倒くさそうに対応する。
「どういうことですの?思い当たる節がございません」
きらりと南国の日差しを眼鏡に反射させ、得意げに守は続ける。
「自覚がないのか。では客観的に私が見た見解を述べよう。まず結論として、君は苺愛に嫉妬をしている。なぜなら婚約者である健斗に見向きもされていないからだ。先日まで君は健斗の気を引こうと必死だったじゃないか。苺愛をいじめてまで!それが上手くいかなくなったから、離れるそぶりをして健斗に振り向いてもらおうと必死なんだろう。幼稚な嫉妬だ。見苦しいことこの上ないよ」
にやりと笑ってQ.E.Dとも言い出しそうな守を無感情に見据えて沙織は反駁する。
「確かに、わたくしは婚約者として健斗さんにふさわしくあろうと努力していた時期はありました。それは否定しません」
小さく冷たい微笑を沙織は守に向けた。
「健斗さんが何度もおっしゃっている通り、わたくし達の関係は家同士の決めた政略的婚約。会社を背負うものとして、当事者であっても決められない事項がございますの。ですから、いくら健斗さんが婚約者を放って違う女性に現を抜かそうと、わたくしにはどうする権利もございません。ですから嫉妬などとは、お門違いも甚だしい指摘でしてよ。その路線の論を主張なさるのなら、我が久遠寺コンツェルンと健斗さんの高薄グループへの侮辱としても取れますから、その辺でお止しになった方が賢明です」
久遠寺コンツェルンの名前を聞いて、守は言葉に詰まった。一般庶民の彼でさえ、その名をCMやTVで耳にすることがあるからだ。沙織はその隙を逃さない。
「大体、わたくしは苺愛さんをいじめたことなどありません。その場にふさわしくあるように、ご助言したことはありますが、どれも聞き入れられたことはありませんし。そうですね。会話すらまともに成立したことがないかもしれません」
沙織の言葉に心底傷ついた顔をして、涙を一杯にためる苺愛は男どもの庇護欲を一気にかき立てた。
「そんな高飛車な態度が苺愛の心を傷つけて苦しめるんだ!」
飛田が苺愛をかばうように立ちふさがる。
「おまえなんかより、苺愛はうんと女の子らしくてやさしい。僕の心に寄り添ってくれる思いやりのある子なんだ。そんな風に言うのはやめてよ」
険しい顔の飛田。やりこめられた守も復活して、眉間の皺も色濃く口を開く。
「私も苺愛の明るい笑顔に何度救われたか。苺愛の可憐な笑顔は、君のような冷徹な視線とは違うのだよ」
そうですか。そうですかと沙織は呆れたように肩をすくめる。
「安心しましたわ。誰彼構わず股を開くような方と一緒にされるなんて、耐えられませんもの」
真実を貫こうとする沙織の視線は苺愛に刺さる。それに対する苺愛の反応も予想の範囲を出なかった。
「ひどい!ひどい!あたし、こんなにひどい事言われたことない!ただ、皆と仲良くなりたくて、あたし、あたし…っ」
苺愛はわあわあ泣き出した。まるで悲劇のヒロインそのままに。
「もう許せねえ!」
飛び出してきた赤髪が掴みかかってきた衝撃で、沙織の座る椅子が倒れる。
がたんと大きな音は立てたが、沙織自身はうまく手をついて怪我を避けた。そこへ赤髪は馬乗りになって、沙織のブラウスの胸倉を掴み、無理矢理にでも立たせようとしている。
そんなことをしなくても立てると、沙織は扇子で軽く赤髪の腕を叩く。
健斗からも諫められ、赤髪は沙織から手を放すが、全く感情が収まっていない。
「沙織、俺を困らせるな」
「間違ったことは申し上げておりません。何も知らないというのも、経営者の資質として問題になる点ですわよ。健斗さん」
「お前はこんなに酷い人間だったのか」
「何度も言わせないでくださいませ。わたくしは間違ったことは申し上げておりません」
平行線の二人の雰囲気に焦れて、赤髪が喚く。
「おい!もういいだろ!あの気持ち悪ィオヤジ共もいねえんだ。一発殴って分からせて…」
ガランガランとドアベルに大きな音を立てさせて、通りに出る。
俺の姿を見て動けなくなる赤髪。
「待たせたな。ラム酒は蒸留所で買ってくれってさ。ここじゃ売れねえらしい」
沙織の手に清潔なハンカチを差し出す。受け取る彼女の手のひらににじむ血を、それで拭いてくれればいい。
ぱっとピンク頭たちの方へ向き直ると、赤髪はひどい顔になっていた。怒りたいのか、逃げたいのか、後悔してるのか。全部だな。二回目は許さねえ。
「よお、君は昨日の友達思いの彼じゃないか。また謝りに来てくれたのか。手間が省ける。俺の分も謝ってくれるんだろう?さっき『気持ち悪ィオヤジ』って呼んだの、聞こえたぜ?」
あの時、健斗の目を見ない代わりに、カフェのドアのガラス越しで沙織は店内の俺を見た。
『やってみせます』
決意を感じ取ったから、今まで黙ってたんだが、この辺でTKO。ここから先は場外乱闘。
後から出てきたキリコに沙織を任せ、俺は赤髪と特訓だ。もちろん『ごめんなさい』の。
「もっと気持ち込めろー伝わんねーぞー」
「ごめんなさいっ」
「君の気持ちがーわからなーい」
「ごめんなさいいっ!」
「絆ってのはーそんなにもろいのかー」
「ごめんなさいっっ!!」
「伝わってこなーい」
喉がかれて、ぼろぼろになった赤髪は、汗だのなんだのいろんな体液でどろどろだ。そのままバスに乗られちゃ他の観光客に悪いから、頭っからバケツ一杯水かけて洗ってやった。目が覚めたようだから、にっこりお目覚めのあいさつを。また倒れた。虚弱な奴。
健斗達とピンク頭?知るか。いつのまにかいなくなってた。
大きなミモザの木が、そよぐ風に梢を揺らす。
サンファン大聖堂の周りに立ち並ぶ高級ホテル。その庭の片隅で沙織は震えていた。
さっきのピンク頭の一団のやりとりを終えると、張りつめていた緊張の糸が切れるように、彼女の体から力が抜け、道の真ん中でへたりこんでしまったのだ。それをなんとかここまで連れてきた。
これまでの生い立ちから、男にあんなふうに殴りかかられる経験などなかっただろう。
彼女は涙こそ見せなかったものの、動揺を隠せないでいた。その動揺を言葉にして吐き出させるべく、キリコは沙織に向き合った。こういうのはこいつが適任だ。俺じゃない。
庭の隅で小さな話し声が聞こえるのをそのままに俺は時計を見ていた。
「そろそろ行くぞ。船が出ちまう」
「は、はい」
気を取り直したように見える沙織が顔を上げる。
「台本はもう佳境だぜ。今夜動くか、明日の朝か。覚悟を決めておけよ。今みたいにへたってちゃ、お話にならねえ」
俺の強い語調に、沙織は少しショックを受けたようだったが、黙って強く頷いた。
石畳を彼女は一歩一歩自分の意志で歩く。心細いようであり、心配ないと言い聞かせるようであり。俺達はその後に続くだけ。これは彼女の問題なのだ。俺達の問題は、その後でなければ片付けられない。
「悪の先生は、随分とお優しい」
「抜かせ。てめえも気合入れろよ。大一番がもうすぐだ」
「ああ。おもしろい情報が手に入ったから、今日の映像と一緒に、プレゼン画像でも作ろうかな」
すいすいとスマートフォンを操作しながら、キリコはちっともおもしろくなさそうに言った。何を見ているのかと画面を覗こうとしたら、すげー嫌な顔をして避けられた。
「コンバーション」に戻って、しばらく様子を見たが、今夜は動きがない模様。
それじゃあと沙織の部屋へエスコートに向かう。今夜は沙織の母、絹子も一緒だ。散々渋ったのを、なんとか沙織が説き伏せて連れ出してくれた。
これから大事な話をせにゃならんので、オーバーチャージしてハイクラスのレストラン「ザ・サーモン・ダンス」に入店。あのピンク頭の一団に邪魔されることだけは避けたい。
つまり目立つことも避けたいと言うわけで、俺はキリコと沙織に徹底的にコーディネートされた。曰く、俺はいるだけで目立つとのこと。ああそうですか。
パリッとした黒のディナージャケットにセミワイドカラーの白いシャツ。黒いボウタイは慣れているようだけれども座りが悪い。あんまりかっちりしすぎても逆によろしくないと、カマーバンドを巻かれた。もうお手上げ。俺にはわからん。仕舞いには、ハードワックスをしっかりとなじませたキリコの手で、前髪もろとも後ろに流されてチョンとしっぽのように襟足を括られた。
うんうんと頷くキリコは仮面舞踏会で着ていたタキシード一式。タイの色をシルバーに変えている。沙織は深い紺色のイブニングドレス。上品でいて、スカート部分に重なるチュールが娘らしい。ひきこもりからやっと出てきた絹子は、やっぱり気乗りしないのか一番地味な黒の装飾が少ないドレスだった。
なぜかエスコートに慣れたキリコが絹子を連れて先導し、俺はぎくしゃくとキリコの真似をしながら沙織を連れ、黒い革のストレートチップシューズで繊細な柄の絨毯を踏みしめながら席へ移動する。
バロック調に統一されたヨーロッパ風の店内には、天井から吊り下げられた豪奢な燭台と、その下に手入れが行き届いた飴色のテーブルセットが並べられている。
よく磨かれた燭台はあたたかみのある輝きを灯し、ただただまぶしく綺羅綺羅しいシャンデリアがあるメインダイニングとは対照的に、深い交流を育んだ相手とゆっくりと食事を楽しむ雰囲気を大切にしている。
チェリストが奏でるバッハが静かに響く中、さざめきのようにゲストたちの会話が流れていく。
オーダーが済んで、アペリティフを待つまでの間、絹子は隣の沙織と俺達を何度も見比べて、どこで接点を持ったのか不思議でしょうがない様子だ。
小さく乾杯したのを皮切りに、沙織は俺達を紹介していく。
「お母様、こちらの方はご存じですよね」
「ええ…BJ先生、見間違えましたわ…」
無理もない。本人も見間違えてる。眉を下げて降参のポーズをとると、絹子は少し肩の力を抜いた。次はと沙織が口を開きかけると、遮るようにキリコが自己紹介を始めた。
「初めまして。久遠寺さん、私はロッキー・ロードと申します。BJ先生とは古い付き合いでして、そのご縁でここに同席させていただいております」
こいつ、今回はとことんロッキー・ロードで行くつもりらしい。
強面の黒眼帯を前にしても、久遠寺コンツェルンの社長夫人は優雅に微笑み、挨拶を交わした。内心はどきどきしまくってるだろうが、そこはさすがだな。
前菜の「サーモンの燻製・サワークリームソース・ブリオッシュトーストのせ」をキレイに食し、次の料理「ズッキーニのグラッセ、小エビとミカンのソース、キンレンカのムースを添えて」にフォークを入れたばかりの絹子は、久しぶりに外で食べる夕食にやっと慣れてきたようだ。
しばらく当たり障りのない話をしていたが、沙織は意を決して絹子に語りだした。
「お母様、どんなことがあっても、わたくしの味方をしてくださいますか?」
「ええ、私は沙織さんの味方です。どうしたの?急にそんなことを言い出して」
「今からわたくしが話すことを信じていただきたいからです。驚くかもしれませんが、どうかそのまま聞いてくださいませ」
メインの「牛フィレ肉の胡椒ソース」がすっかり冷めてしまうまで、絹子は一切話さず沙織の話を聞いた。健斗達の振る舞い、そして苺愛の存在。
「そんなことが、あったなんて…」
絹子はハンカチから手が離せない。
「まあ、食べましょう。腹が膨れていないと、きちんと思考もできませんからね」
「お前が言うと説得力があるな」
にゃろうとキリコを睨みつける俺に、絹子はそっと頭を下げた。
「BJ先生、ミスター・ロッキー・ロード、娘を助けてくださったのですね。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。どうもありがとうございます。正式なものはまた後ほど…」
「いい。俺達は俺達で目的がある。沙織自身も言っただろう。俺達は互いに利用し合っているビジネス関係なんだ」
「後ほど要らない詮索をかけてくる人間がいるかもしれないから言っておくけれど、俺達は沙織さんと行動をともにする時間は長かったが、指一本触れていないことを誓うよ」
「そうなんですよ、お母様。わたくしがつまづいて転んでしまっても、ひとつも手を貸してくれないのですから!」
「自力で起き上がれる奴に手なんか貸すかよ」
「お前はもう…ものの例えだ。真に受けるな」
俺達のやりとりを聞いて、絹子は安心したように笑った。
その笑みを暗闇に叩き落とすことはしたくはなかったが、さっき沙織に話させなかった部分。最下層のインサイド客室に監禁されている彰について、そして平野星満について、俺は絹子に告げた。できるだけ、情報を絞って。
「……」
真っ青な顔をして絹子は言葉が出ない。悲鳴など上げずに、そのまま黙っていて欲しい。ハイクラスのレストランを選んだのはそういう理由もある。ルームサービスを頼んだ沙織の部屋で話をすると、絹子が大きく錯乱するかもと一分の心配があったのだ。沙織も悲痛な面持ちで、テーブルの下の絹子の手を握る。
「わたくし達は、明日、なにか大きな出来事があると予想しています。それがお父様の解放、久遠寺コンツェルンの維持に向かうよう準備をしているところです。失敗は許されません。お母様にはこのことを知っていて欲しかったのです」
豊かな黒髪を揺らして絹子は沙織に問いかける。
「沙織さん、失敗した時のことは考えているの?」
「今は考えていません。可能な限りの下準備とリスクヘッジは済ませてあります」
母を見つめる沙織の目は、どこまでも真っ直ぐだ。
「高薄さんとのご縁がなくなっても、あなたはいいのね?」
「はい。お父様を失うよりは、遥かに」
「私にできることはあるかしら」
「わたくしの味方をして下さいませ」
絹子は泣き笑いのような顔で、沙織の頬を軽くつねる真似をした。
「…もう止めても無駄なところで打ち明けるなんて、お義父様にそっくり。本当に、この子ったら…」
絹子の涙が乾くころ、デザートの「キャラメリゼマンゴーとバジリコ風味のゼリーとソルベ、ココナッツ風味のサブレと共に」を俺は完食した。
船は後二日でニューヨークへ戻る。
寄港は一切なし。最終日は下船準備も含めるので、時間がない。
なにかアクションが起こるなら明日しかないはずだ。
俺達の予想が確かなら、平野と苺愛を一遍に釣れる。
ディナーを終えて、風呂に入りたかったが、やっぱり寄っておくことにした。
コーヒーバー「スター・ギター」
絶望的なほど客がいない店内で、エディはショーケースのガラスを磨いていた。
「よお、エディ。今日の豆なんだ?」
「はい、お客様…って、ジャック?!」
俺のきっちりコーデを見て、顎が外れそうなほど驚いてる。そんな彼を見てるとサイコーに笑えたけど、お前普通に「お客様」って言えたんだな。俺にも初めは言ってたかな。ほんの数分だけど。
「本日の豆は『キリマンジャロ』です。黒い魔法使い様」
「苦しゅうない」
「ははっ」
エディ、時代劇もできる。
「ジャックはこの二日、船を降りてたの?」
どかりとカウンター席に腰を下ろし、ジャケットのボタンを外す。
「ああ、ちょいと陸が恋しくなったのさ」
「またまた。悪役令嬢と一緒だったんでしょ。何かあった?」
「本当に娯楽に飢えてるんだな。この船の連中は」
「仕方がないでしょ。ゲストがショーを楽しむように、僕たちだってゲストから得るものがあったっていいじゃない」
魚心あれば水心ってやつかな。まあいい。エディに情報を流しておくと有益なのは実証済みだ。熱いコーヒーを淹れてくれた彼に、少しだけこの二日の旅程を伝えると、思ったとおり、エディはセント・トーマスのビーチとプエルトリコの話に食らいついた。沙織の立ち振る舞いについて説明している下りになると、エディはうっとりとした表情で聞き入っていた。
「いいよね。悪役令嬢!この話、クララやマリベルには?」
「まだしてない。お前が最初だよ」
やったー!と喜ぶ明るい声とは正反対の胡散臭い声がした。
「まだやってるみたいだな。俺にもコーヒーを一杯頼むよ」
タキシードのジャケットを小脇に抱えたキリコが俺の横に滑り込むようにして座った。
「はい、お客様。『キリマンジャロ』がおススメですよ」
「ではそれを。タバコはいい?」
この時間帯ならとエディは灰皿を出してくれた。俺には出してくれたことなかったくせに。堅苦しくていかんとベストまで脱いでしまったキリコは、白いサスペンダーを着けていた。奴はそのままエディと親し気に話し出す。なにを我が物顔でくつろいでんだ。ここは俺が先に見つけたんだぞ。急に面白くなくなって、キリコの正体をバラすことにした。
「こいつ、黒い魔法使いその2」
「ええっ!」
ひっくり返りそうなポーズで固まるエディのおかげで、ちょっと気が晴れる。
「俺の扱い、雑だな」
不服そうな声のキリコ。あったりめーじゃねーか。『その2』が『その1』に敵うはずがなかろーが。従って扱いが不当だと申し立てるなど以ての外。なんか俺、今夜は芝居がかってるな。
「ど、どういうこと?ジャック、彼とはどんな関係なの?」
「お友達ではないから安心しろい」
興奮するエディは置いといて、どんな関係だなんて聞かれて内心どきっとしたのは絶対に隣の陰険眼帯ヤローに悟られてはいけない。
「なに、もともと顔見知りでね。おもしろいことをするから付き合えって誘われたんだよ。俺も暇だったし」
嘘ではないが本当でもない。適当なことを言って、キリコはタバコに火をつけた。
「ちょっと聞きたいんだけど、明日のフォーマルナイトはメインダイニングでするんだよな」
「はい。この航海最後のフォーマルナイトになります。最終日は僕たちクルーのパレードですから!」
「へえ!パレードなんかするのか。そいつはいいウチワ持って応援してやろうか」
ウチワに興味を示したエディへジャパニーズ・ハンサムボーイ・グループの応援の仕方を教えると、是非やって欲しいと破顔した。ウチワに書く文字は『なげチュウして』に決定。
「話が進まない。お前はちょっと黙ってなさい」
口に火のついていないタバコを突っ込まれる。うえ、お前の重いから嫌なんだけどなあ。でも俺は手持ちがないし、仕方がねえ。店のマッチで火をつける。
「今までの航海で、最後のフォーマルナイトでしたことがあるイベントは何がある?」
「そんなこと聞いてどうするんだ。どんな出し物があるかわくわくしてるって訳じゃねえよな」
「…もう、10秒も黙っていられないのか…」
「俺の事は放っておけ」
話の腰を折られまくったキリコは、額に手を当てたままコーヒーを飲む。
「えっと…前回はバルーンアートでしたよ。ライトアップした風船のタワーと、ダンサーのショーがメインで、グリッターがたくさん舞って掃除が大変だった。ああ、そうじゃないですね。その前はプロジェクションマッピングでした。ダイニングの壁一面にカリブ海の景色を映して行くんです。朝焼けのタイムラプス映像がゲストの皆さんには好評だったなあ」
「メインダイニングにプロジェクターがあるのか」
気を遣ったエディが慌てて記憶を掘り起こす中、キリコは食い気味にプロジェクターに反応した。
「え、ええ。今年新しいものに変えたって聞いたから、あると思います」
「良いことを聞けた。ありがとう」
がたりとキリコは席を立つ。とっとと行っちまえ。
「ああ、そうだ。この豆のロースト、俺は気に入ったよ。500g買うから、後で俺の部屋に届けて」
そう言ってキリコはエディの手にチップを渡した。そのまま風のようにキリコは行ってしまう。エディのやたら気合の入った「おまかせ下さい!」って声が響いて止まなかった。