My fair villainous lady⑥

第6章

久遠寺彰に会う舞台にキリコが指定したのは、今夜のマスカレード・パーティだった。

仮面舞踏会なら久遠寺彰も沙織もピンク頭の一団も、一度に全部見られるだろうとキリコは提案した。素顔は見られないのに?と疑問を投げかけると、身体的特徴を把握したいだけだから構わないとのこと。何か考えがある様子だけど、今は言えないと口を閉じた。

分かったことがあったら教えるように念を押す。俺だって今の状況を変える手掛かりが欲しいんだ。お互いに理がありそうだったから、了承した。

夜のプールサイドは昼間とまるで違う顔をしていた。

紫のグラデーションでライトアップされたイミテーションのヤシの木。ワイヤーに釣り下がる妖しい光を放つオーナメント。夜闇に響く賑やかなカリプソ・ビートの合奏。

そこに集うドレスアップした仮面の紳士淑女。

今夜のドレスコードはフォーマルナイトよりは少し砕けた印象かな。男性陣はタキシードをきっちりと着こなしている人がいる一方、ダークスーツにネクタイを締めて、カジュアルになりすぎない服装の人々もそれなりにいた。

対して女性陣は極めて華やかだ。背中の大きくあいた開放的なドレス。レースたっぷりのビスクドールのようなドレス。民族衣装を着た女性もいる。そんなに着込んで暑くないのかと聞きたくなるが、海風があるのでそこまで暑苦しさを感じないようだ。

そして皆、仮面をつけているわけだ。

いつもと違う雰囲気が一層強いパーティ会場は、沢山の男女が集い、興奮と熱気に包まれていた。

そこに俺もいるのだが、全く納得がいかない形で、引きずられるように立たされている。

「ほら、背筋伸ばして。余計に目立つよ」

俺を覗き込むのは、三つ揃えの真っ黒のタキシードに白いウィングカラーシャツ。紺色のアスコットタイをシンプルなシルバーのリングで留め、ザンバラの髪を後ろで結ったキリコ。なんつったっけ、泡パ行った時にこんな髪形してたな。あの時は半分だけ結ってたけど、今夜は全部まとめてる。オマケに顔の半分を覆うチャコールグレーのマスクが妙に似合う。眼帯も外してるし、別人みてえ。

「マンバンね。お前はもっと別人みたいなんだから、開き直れよ」

そう。今の俺は完全に別人。

数時間前、キリコはもっともらしい理屈をこねた。

キリコは久遠寺一家の顔も、ピンク頭の一団の顔触れも知らない。目立つピンク頭はすぐわかるだろうけれど、後のメンツは俺の案内がほしいと勝手を言う。

案内さえあれば久遠寺彰には会える。だけど沙織にも会おうとすると、健斗や他の連中に顔が割れている俺が近付けば、きっと遠巻きにされてしまう。それだとピンク頭の一団を近くで見たいと言うキリコの目的が果たされない。キリコは「俺は悪役令嬢のファンなんだ」など真剣なツラで嘘くさいことを言う。

だからって、こんな状態は聞いてないし、認めてない!!

そんなおっかけみたいな真似なら、俺をこんな格好にさせる意味なくね?

白黒の髪を隠すようにかぶせられたのは、ミルクティー色したロングヘア―のウイッグ。

ブラウンピンクのアイシャドウに健康的なコーラルのグロス。べたべたしてなんかやだ。つけまつげはいらないらしく、代わりにマスカラを上下3回ずつ塗られた。

スタイリストの渾身のメイクで、俺の顔の傷は余すところなくコンシーラーとやらで隠され、顔半分を覆う真っ白なレースのマスクを装着。どうせなら隠しきる布地の方が良いんじゃないかと言ったけど、スタイリストはこの方が視線が分散されていいのだと主張した。元が良いんだから隠したくないとも呟いてたけど何のことだかさっぱりわかんねえ。

同じく縫合痕が走る腕を隠すように白いレースがふんわりとしたロングスリーブ。指先も白い手袋でカバー。胸元に詰め物をして、すとんと落ちるような重みのある生地で作られたAラインのドレスを着て、男の広い肩幅にストールを纏って誤魔化せば、鏡の中の俺は完全に女性になっていた。

スタイリストはジャラジャラとアクセサリーの類を俺に着けながら、今までで一番の出来だと胸を張った。どうも非日常感覚をもっと強烈なものにしようと、女装を頼んでくるゲストは少なくないらしい。だけど、それがどうした。1ミリも嬉しくねえよ。キリコへの殺意だけが湧く。

「馬子にも衣裳だ。似合っているよ。レディ」

へらりと抜かすキリコの足を、ぺったんこのソールの靴で踏みつける。悶絶するキリコ。気が晴れねえな。もう片一方も踏むかと足を上げたところで、パラソルの付いたグラスを勧められた。

「これでも飲んで落ち着きなさい。黙ってれば本当に女性に見えるから」

グラスをひったくるようにして受け取り、ロングカクテルをぐびぐび飲んだ。

「教えるから、とっととこんな茶番は終わらせろ。ほら、今カクテル・バーからライムの付いたショートグラス持ってった黒いマスクの男がいるだろ。あいつが久遠寺彰だ」

「ふうん」

彰はエスコートすべき絹子の側に行かず、デッキの隅でひとりカクテルを飲んでいた。タイも緩めて、どこかやさぐれてる。夫婦喧嘩でもしてるのかな。夜の営みを拒否されて、そこから拗れてるとか。

キリコは俺の手を引いて彰のもとへ向かう。待てってば!バレたら悲惨だ。やーめーろーよー!

俺の心の絶叫を完全に無視して、デッキの手すりに寄りかかる彰にキリコは声をかけた。

「こんばんは。久遠寺さん、楽しんでいますか?」

「あ、ああ。それなりに楽しんでいるよ。失礼だが、どこかで会ったかな」

仮面舞踏会で実名を呼ぶ無粋に、彰は怯んだみたい。なんのための仮面なんだと俺も思う。

「ええ。かなり前の事ですから、お忘れになっていても仕方ありません。日本の御社で一度お会いしています。ロッキー・ロードと申します」

それはアイスのフレーバーだろ!俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。彰の視線を感じたので、ポーカーフェイスは引っ込めて、すぐに淑女らしくニコリと笑って見せた。キリコはキリコでそれはキレイに笑った。二人して胡散臭いこと限りねえ。

「それで、ロッキーさん。何か御用かな。実は少し具合が悪くてね。風に当たっているところなんだ」

「気がつかずすみません。少しお話したかっただけなんです。ピアノはもう弾かれていないのかと思って。素晴らしかったなあ。コンクールでのあなたの演奏は。群を抜いて輝いていた」

「…ピアノね…多分もう弾けないよ」

「そうですか。もう随分とお弾きになっていない?」

「いいじゃないか。ピアノの話は。失礼するよ」

彰は不機嫌になったのを隠しもせずに、人垣の中に紛れて行ってしまった。

「な?バレなかっただろう?」

「ひやひやしたぜ。それにしても、おい、ロッキー・ロード。どうして久遠寺彰にピアノの話をしたんだ。俺は知らなかったぞ、あいつがピアノを弾けるなんて」

「俺も知らなかった」

「えっ」

「さあ、次は愉快な〈ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉を教えてくれ。こっちは話すことはないけど、近くで見たいかな」

どんな思惑がキリコにあるのかまだつかめない。だけどこのパーティで分かることがあれば、共有する約束になっているので信じるしかない。もたもたと足にまとわりつくドレスに苦心しながら、沙織たちに近付こうとするけれど、レースのマスクで視界が悪い。見かねたキリコが俺の腕を取って歩いてくれた。完全にエスコートされる女だ…どんな風に見えるのか想像してげんなり。

黄色にライトアップされたプールにほど近い所に〈ピンクの美少女と黒髪の悪役令嬢と4人のナイト〉達は陣取っていた。相変わらず苺愛が中心にいて、男どもはそれに追従する逆転したハーレムみたいな雰囲気だ。沙織はたまに話しかけられても、意地の悪い顔で苺愛がそれを見ているので、あまり良い話題ではないのだろうと推測できた。それでも沙織は下を向かず、高薄健斗の婚約者として気丈に振舞っていた。

キリコはそんな様子を黙って見ていたが、沙織ではなく苺愛に興味を示した。側で彼女を見たいと言うので、勝手に行けよと手を放すけど、お前も一緒に行くんだと強引に引っ張っていく。さすがにバレそうな位置までは近付かず、キリコに小声で取り巻きたちの名前と特徴を教える。

今夜の苺愛はハイブランドのマークが入ったドレスを着ている。蛍光ピンクの大きな羽飾りのついたマスク、首にはダイヤのチョーカー、腕には高そうな時計、靴は踏まれると甲が貫通するんじゃないかと思うくらいのピンヒール。正直、俺の好みじゃない。ウェルカムパーティの衣装とはかなり違う気がする。よく見てなかったけど。

「健斗ぉ、このドレス気に入っちゃった!買ってくれてありがとう~」

ああ、やっぱり貢がせたのね。

「ダイヤのチョーカーもかわいいし、時計も、靴も、全部キラキラしてすてきだよう。みんな、ありがとう!私、きちんとしたドレス、持ってなかったから…」

「気にすんなよ、苺愛。まさか自分のドレスがズタズタに引き裂かれるなんて、誰も予想しねえよ。犯人は誰なんだかなあ、鷗介」

「ええ、うまく証拠を隠してありますからね。犯人に突き付けられないのが残念でたまりません。全く苺愛のかわいらしさに嫉妬しての行動でしょうが、見苦しい」

「もういいよ、もりもり~みんなにキレイにしてもらったんだし、あたしはサイコーに幸せだよ~」

「苺愛はもっと欲張っていいよ。本当に謙虚なんだから。それに比べてずうずうしいったらないよね、あの子。なんで僕たちのところにまだいるわけ?」

「るあくん、やさしい…私、私っ…」

なんだろう、この三文芝居。このシナリオもクララの言う通りピンク頭が作っているんだろうか。ドレスを破いた犯人にされているのは、きっと沙織だ。そこへ金のマスクを着け王子様の如く語りだした健斗は、ピンク頭と同じマークの入ったハイブランドのスーツを着ている。

「まあ、そこまで言ってやるな。一応これでも俺の婚約者だ。あまり邪険にすると会社の経営に響くんだ。なに、金だけの都合さ。俺の心はもう決まってる」

苺愛の腰を慣れた手つきで引き寄せ、キスでもできそうな距離で苺愛にほほ笑みかける健斗。

「父さんが言っていたんだ。こいつは俺の会社の金が欲しい。俺の会社はこいつの会社が持つネームバリューが欲しい。ギブ&テイクさ。愛なんかなくって良い」

沙織の顔は真っ青だ。自分だけじゃなくて家族まで貶められるとは思いもよらなかっただろう。流石にやりすぎだと一歩踏みだしたら、長いドレスの裾を踏んでしまい、前にいたご婦人の背中にぶつかった。その衝撃はドミノのように伝わり、最後は苺愛にまで到達し、彼女はプールにドボンと重量のある水柱を上げて落ちた。

ばちゃばちゃと派手な水音を立てて苺愛はきゃんきゃん喚いている。豪華なドレスが重いのか、なかなか自力で上がってこられない。セキュリティスタッフが走って来て、ようやく苺愛をプールサイドに引き上げた。

「ひどい!高いドレスを水びだしにするなんて!靴もアクセも濡れちゃった!メイクも台無しよ!」

苺愛が初めに口に出したのは、助けてもらったスタッフへの礼でもなく、突っ立っているだけで何の役にも立たなかった男どもへの文句でもなく、自分が如何に損をしたかと言うアピールだった。そしてその矛先は当然沙織へ向かう。

「あんたが私を押したんでしょう!見たんだからね!」

無理にも程があった。沙織はプールから一番遠い所にいたのだから。慌てて苺愛に最後にぶつかった女性が、沙織ではなく自分だと釈明してもピンク頭は聞く耳を持たなかった。

「いいえ、いいえ、もういいんです!いつもこうして私に意地悪をするんです。もう、あたし、あたしっ、耐えられない…」

顔を覆ってしくしくと泣くピンク頭は、悲劇のヒロインそのものだった。あらわになったうなじは細く、庇護欲を掻き立てさせるのだろう。男どもは一様に胸に迫る何かを味わっている模様。俺はそこにできている3つ並んだほくろが気になったけれど。

そんなピンク頭に近寄るものがいる。沙織だ。

今のタイミングで、そんな爆発物に近付くな!

おい、待て!

「わたくしは押しておりません。さあ、ハンカチで顔をお拭きになって」

純度の高い善意で差し出されたハンカチが、苺愛に届くことはなかった。

誰かが沙織の足元に革靴のつま先を伸ばした。引っかかった沙織は足をもつれさせ、そのままプールへ。激しい水音に彼女を助けようと飛び出しかけた俺をキリコは掴んで離さない。

巻き起こる嘲笑。ピンク頭の一団だ。すっかり濡れ鼠になった沙織は自力でプールから上がる。持っていたクラッチバッグの中身がプールの底に散らばっているのを見て、彼女は再び水の中に戻る。セキュリティスタッフの手を借りずに、一人でひとつひとつプールの底から持ち物を拾う沙織を、ピンク頭の一団はずっと下品な鶏のような声で笑い続けていた。

もう勘弁ならんと、何度連中に飛び掛かろうとしたことだろう。だけどキリコが腕を離さない。鉄の手錠がついたような感覚に、一層無力感が募った。キリコを睨みつけると、あいつは頬を蝋のように固め、場にいる人間の様子をひたすら観察し続けていた。

やがて騒ぎを聞きつけた高薄夫妻と、絹子がやってきて、健斗は苺愛と取り巻きどもと引き下がり、沙織は絹子に連れられて船内に戻り、場は納まった。

すぐにカリプソ・バンドが陽気な音を奏でだし、ゲストたちは再びマスカレード・パーティの喧騒を取り戻す。

周囲に誰もいなくなったのをきっかけに、俺はキリコの腕を思いっきり振りほどいた。

「何故邪魔をする!あのクソガキども一発殴ってやる!」

淑女の格好をして怒鳴るんじゃないよと、俺が聞くはずもない忠告をしてキリコは目を眇める。

「殴って、それからどうする」

「……俺の気が済むだけだよ」

「そのとおり。何も解決しない」

だからって…と言いかけて、何も言えなくなった。俺は何ができる?このままじゃ健斗と沙織の婚約は破綻に向かう一方だし、そんな中で15億円をどうやって取り立てたらいいんだ。八方ふさがりだ。

「レディ、俺の部屋へ来ないか。俺が今日の夜で理解したことや憶測が正しいか、お前に聞いてもらいたい。きっとお互いにとって問題を打開できるポイントが見えるはずさ」

きつく握りしめられた俺の拳を、キリコはそっと取った。頷くよりほかは、俺には無かった。

デッキタワーの中頃にあるバルコニー付きの一室。薄い水色で統一された家具が夜の静けさの中で沈黙を保つ。

その部屋へ俺を招き入れたキリコは、部屋の中にある小さなキッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。

「タワーの上の方に行けば、もっとハイクラスな客室になるんだけどね。揺れが酷いんだよ。どうして金持ちは高い所へ登りたがるんだろうか」

「さあな、高薄とか久遠寺の連中はもっと上にいるかもしれねえ」

「上には上がいる。それを受け入れられるかどうかが問題なのかもね」

熱い紅茶をテーブルに置いて、キリコはソファに座った。対面するソファを勧められたが、俺は立ったまま。正直早くこのドレスを脱ぎたい。

「早く話して、楽な格好になりたいって顔をしてるな。いいよ、俺から話そう。さっきのパーティで俺が確かめたかったことは、幾つかあったんだが…一番の収穫は久遠寺彰氏についての疑問が晴れたことかな」

「疑問?」

「ああ、久遠寺氏は最近どこか変わったところはなかったか?」

「変わったと分かるほど親しくしていないから、正確とは言いにくいぞ。ただ、確実に以前より行方が掴みにくくなったな。夫婦仲も上手くいっていないみたいだ」

「夫婦仲か。具体的に知っているか?」

「船に乗った開放感からか、彰が激しく求めてくるもんで、絹子は怖いんだってよ。夜は娘の部屋で寝てるってさ」

「ふうん…まるで別人みたいに?」

「あん?」

キリコはまだ熱い紅茶を飲み、たっぷりと時間をおいて、口を開いた。

「久遠寺彰氏は別の人間に入れ替わっている可能性がある」

俺は言葉が出なかった。荒唐無稽すぎる。久遠寺彰とは彼の親父を手術してからというもの何度も会っている。顔も声も、さっきの仮面舞踏会で会った彼と、俺の記憶の彼は何も変わらない。キリコは本気で言っているのだろうか。

「世の中には3人は同じ顔の人間がいるらしい。そのうち2人が同じ船に乗っていたというだけのホラ話なら、大して面白くもない。しかし、実際に今夜の久遠寺彰氏に会って、俺は確信に近いものを感じた」

キリコは立ち上がり、ライティングデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。それは写真だった。うす暗い室内で撮られたと思しき写真には、二人の男女が写っていた。『ショーマ&グアダルーペ』赤いペンで大きく書かれたサインの上で、はち切れんばかりの喜色を表している女性と、カメラから少し視線を外して苦笑いしている東洋人の男性。

「こんなことってあるのかよ…」

ショーマこと平野星満は久遠寺彰にそっくりだった。

2人を並べて、間違い探しでもすれば、どこか違う点が見つかるかもしれない。しかしどちらか一方しかいない状況になると、普通の人間には見分けがつかないだろう。髪形や服装を同じに整えられたら、きっともう分からない。それくらい彼らは似ていた。

「俺はアレサンドロを海の藻屑に変えた奴は、平野星満に違いないとあたりを付けた。動機を探るには彼の人間性を知る必要がある。そこで船内のクルーに話を聞けば、誰も彼もあいつはクズだと言うのさ。でも女性陣の中には彼との一夜の恋が忘れられない人もいてね、この写真はその中の一人から借りた」

他の女には見せないように厳重注意されたよ、そう言ってキリコは写真を俺の手からテーブルの上へと移動させる。

「一卵性の双子のように彼らはそっくり。だけど生き方は真逆。久遠寺彰氏はコンツェルンの3代目社長として華々しく太陽の下を歩み、かたや平野は船上ピアニストとして酒と借金と女遊びの日々。どちらがいいかなんて俺は知らんがね、とにかく平野にとっちゃ久遠寺彰氏は、さぞかし羨ましい存在だったんじゃないかって思ったんだ」

いや、いやいやいや、いろいろ棚上げして羨むのはいいとしてだ、いくらそっくりだからって普通入れ替わろうとするものだろうか。

入れ替わろうってからには、今の自分を全部捨てるくらいの気概がいるだろう。そんなエネルギーをどこから持ってくる?

「アレサンドロの腕が見つかったのは、出航して二日目の明け方だろう?遺体の偽装をするなら日付をまたぐ前に行動を起こしていた可能性もある。久遠寺家が乗船して24時間も経っていない。そんな短い時間で、彰は平野に会って、入れ替わってやろうなんて害意を持たれるような振る舞いをしたんだろうか。あのおっとり男が、そこまで相手を怒らせるか、俺は疑問だ」

「そこだよ。アレサンドロの遺体を損壊して、自分の存在を無いものにしてまで、久遠寺彰氏になり替わろうとするなら、そこにはもっと根深い動機があるはずだ。たまたま自分が働くクルーズ船に自分にそっくりな金持ちが乗って来て、よし入れ替わろうなんて思う奴がいたら脳の構造をじっくり調べたいね。初対面で、久遠寺彰氏が船に乗って来てすぐに行動するのは、実に不自然だ」

ほとんど紅茶を飲み終えたキリコは、シュガーポットから角砂糖を取り出し、カップの中へひとつ入れた。そして、その上にまたひとつ。また、ひとつ。

わずかに残った紅茶の水分で、一番下の角砂糖が溶け、積み木の砂糖は崩れた。

「長年積もりに積もった恨みがあれば別、だがね」

「どういうことだ。彰と平野は過去に面識があったって言うのか」

「おそらく」

仮面舞踏会でキリコと彰がやりとりしていた様子を思い出す。俺が知らなかった彰の情報。

「…だから『ピアノ』なのか。ミスター・ロッキー・ロード。平野と彰を結びつけるなら、平野が最も執着している物から線を引けばいい」

「ご明察。案の定、ビンゴだったよ。お前も見ていた通りさ。きっと何度もピアノコンクールで競い合った仲だったのだろう。平野は久遠寺彰氏のことをよーく覚えていて、今も忘れられなかった」

だけどなあ、とキリコはため息をついて、髪を束ねていた紐を解いた。ばさりと広がった髪をぐしゃぐしゃと乱して、新しい疑問を口にした。

「本物の久遠寺彰はどこに消えたんだ?もう海に突き落とされた後なのか?だとしたら平野が本物のふりをしてる意味がなくなる。だって『久遠寺彰は事故死しました』って船内新聞に載せて、自分は船内のどこかに逃げおおせていれば、それで済むんだ。そうすれば無理矢理セレブな生活に自分を合わせる必要もないし、久遠寺家の妻や娘に自分が偽物でないと怪しまれないように骨を折る必要もない。久遠寺彰のふりを続けるのはリスクばかりだ」

「現に絹子は警戒してる。沙織は…それどころじゃないな」

「今までだって、寄港した港で逃げる機会はいくらでもあっただろうに。どうしてまだ船に残っている。目的を果たしきってないから、今も久遠寺彰氏の真似をしているのか?平野がしたいことのゴールが分からない」

うーんと唸って、お手上げと両手を広げるキリコ。

平野の目的…彰の存在を奪っただけじゃ足りない感情が、平野の中にあるんだろう。それがまだ消えていない。彼らの因縁は、本当にピアノだけなんだろうか。

彰と平野の過去なんてどう探ればいいのか。すっかり頭が倦んだからウイッグを外そうと手をやるけど、ぎっちりピンで留めてあって一人じゃ外せない。キリコも手伝ってくれて、二人でちくちくピンを取る。髪の毛が解放されていくにつれて、俺の脳にエディから聞いた2つ目の噂が思い出された。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】

それをキリコに告げると、平野が生きているのなら、その部屋を使っていても不思議はない、本当に中には誰もいないのか自分の目で確かめたいという意見になった。

「カードキーはどうすればいいだろう」

外れたウイッグをライティングデスクの上に置く。キリコはストールを外して、きちんと畳んでる。

「セキュリティスタッフに話を通そう。伝手がある」

背中のフックが外され、ジッパーを下ろされて、やっとドレスが脱げる。

「いくらばらまいてるんだよ」

「かなり。でも惜しくない。アレサンドロをあんな目に遭わされて、平気でいられるほど俺の心は広くないから」

胸の詰め物が取れて床に落ちた。

俺の体に残るのはレースの仮面と手袋、そして沢山のアクセサリーたち。

「下着は男性用なんだな」

「こんなのもありますって、レースの付いた猫の額ほどもない紐パン勧められたぜ。男用でもあんなのあるんだな」

「履いてくれてもいいのに」

「死んでもお断り。よっし、風呂かしてくれ。バスタブついてんだろ」

化粧の付いた顔が痒くてしようがないんだ。

あーーーーーー

やっぱり風呂に浸かるって大事ーーーー

アメニティにある化粧落としを使って顔を洗い、すっきりさっぱり。湯船につかってほこほこした体で、つくづく日本人だと実感しながら風呂から出た。

「お前さんも入って来いよ。スッキリするぜ」

キリコを浴室へ見送ってテーブルの方を向くと、さっきまで俺がつけてたアクセサリーがきちんと並んで置かれてる。こーゆーところが几帳面と言うか、なんつーか。

ネックレスをひとつ手に取ってみると、スワロフスキーの存在感がすごい。これで喉仏を隠せって言われたんだよなあ。まるで首輪のようなそれは置いておいて、重ね付けをした金とスワロフスキークリスタル、パールの3連ネックレスを手にした。留め具を見ていたら自分でも留められるか興味が湧いて、バスタオルを腰に巻いたままあーでもないこーでもないと格闘して何とか着けられた。なるほど、なるほどね。

それじゃあと興味の向くままにブレスレットにも手を伸ばす。中指のリングから網目のようにチェーンが広がり手首のブレスレットで留まるデザイン。うーん。重いし冷たい。スタイリストが悪乗りして持ってきたレッグチェーンも着けてみる。傷だらけの脚に良く映える…わけねえだろあほらしい。

「なにやってんの」

「ぎゃあ」

後ろから声をかけられて現実に戻されたけど、こんな姿になるなんてのは滅多にないからキリコにも感想を求めてみよう。

「見てみろよ。古代の王族みたいじゃねえ?」

「あー、エジプトとかメソポタミアとか?他に身に着けてるのがバスタオルだけだから余計に説得力あるな」

「ひれ伏せ!」

「下剋上」

キリコはひょいと俺を抱えてベッドへ連れていく。上から覆いかぶさられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。たっぷり10秒数えてキリコは重いため息をついた。

「オキシトシンが出てるのを感じるよ…」

「1分1万円」

バスローブを着たキリコの背中に腕を回す。

「セロトニンが欲しいな」

「明日、一番に朝日を浴びよう。しばらく何も考えずにホライズンを眺めるんだ」

「いいな」

キリコが俺の前髪をかき上げる。

「やっぱり、お前の傷が見える方がいい」

なにを分かり切ったことをと半目になった俺の唇に、笑うキリコの唇が重なった。

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