第5章
沙織はいろいろがんばった。
がんばったけど。
結論を言うと、上手く行ってない。
事実と違うなら徹底的に反論しろと言ったのは俺だ。それを沙織はきっちりやってのけた。
苺愛が「沙織にいじめられた」とお涙頂戴劇場を始めれば、ぴしぱしと鞭で小枝を弾くように沙織は反論して、苺愛の矛盾を露にする。普通はそこでハイ、おしまいなのだが、そうは行かなかった。
苺愛は女として沙織より上手だった。一枚も二枚も、百枚くらい差があるかもしれない。
女の武器を使って苺愛は男どもを完全に自分の味方にしてしまったのだ。健斗も骨抜き状態。
男4人が苺愛の言うことに大きなリアクションを取って、沙織を糾弾する事件がバスケットコートで起きたのが今日の朝。
健斗の婚約者の立場を守ろうとする沙織は、どこまでも孤独に見えた。
せめて保護者が出てやればいいものを、久遠寺彰はどこへ行ったのか。どういうわけか俺は彼を全く捕まえられなくなっていた。家族には最低限顔を見せてはいるようだけれど居場所が掴めない。絹子も妙だ。妙におどおどして何かに怯えている。
どうしたもんか考えあぐねてコーヒーバー「スター・ギター」へ足を向ける。俺を見つけたエディがすぐにオーダーを取りに来た。何を頼むか迷っていると、エディはミックスナッツを皿に出しながら「知ってる?」と切り出したのだ。
それは「コンバーション」船内で話題になっている2つの噂だった。
1つ目の噂【ピンクの美少女をいじめる黒髪の悪役令嬢と4人のナイト】
誰だよ。そんな噂流したの。間違いなく健斗と沙織を含めたピンク頭の一団じゃねえか。
「あのグループさあ、外見も派手だし、声もデカいしさあ。注目集めちゃって、クルーの中で積極的にウォッチしにいく奴が出て来たんだ」
「この船って労働環境超絶ホワイトだったんだな」
仕事しながらだよなんてエディは言うけど、どこまで本当だか。暇すぎてクルーの間で連絡網でも作ってんのかね。ナッツの入った皿を奪い、ペカンナッツを口に入れる。
「ねえ、ジャックはどっち派なの?ピンクの美少女派?それとも黒髪の悪役令嬢?」
「意味わかんねえ単語出てきたな。『アクヤクレイジョー』って何だ」
「うっそ、ジャック知らないの?!本当に日本人?」
急にマリベルが割り込んできた。マリベルと話してた白人の女性も突撃してくる。
「悪役令嬢を知らない日本人がいるなんて信じられないわ。どこかの洞窟にいたのかしら」
くいくいと金縁眼鏡を上げながらヒトを原始人扱いする白人女性。初対面だよな。初対面の女に、こんな言われようされる覚えは…覚えは…多分ない。俺に何らかの因縁はあるとしても名乗るべきだ。血管がビキビキ浮きそうなのを堪えて、ひとまず話をしよう。
「えーと、マリベル。こちらの女性は?」
「クララよ。下の図書ラウンジで司書をしてるの」
ああ、ショーマに700ドルあげたクララね!とは言わずにおいてやる。やせっぽっちのクララはにこりともせずに手を振った。
「それで、悪役令嬢ってどんな意味?」
待ってましたとばかりにマリベルとクララはスゲー早口で悪役令嬢が何たるかを俺にレクチャーしてくれた。
なになに?公爵や侯爵みたいな権力がある金持ちの家の娘で、ヒロインに対して言いがかりをつけてはいじめる役のことを悪役令嬢って呼ぶのか。大体わかった。わかったけれど。
「それは沙織に当てはまらないぞ。沙織は自分にかけられた疑いを晴らしているだけだ。相手に嫉妬したり、権力を笠に着てワガママ言ってるわけじゃない」
「でも、周りからはそう思われてるよ。あのピンクの美少女、声が高くて響くんだよね」
エディは人差し指を立てて耳のあたりでグルグル円を描き、軽く肩をすくめた。
「悪役令嬢の態度も良くないんじゃない?いくら自分が正しくても、それを突きつければ皆分かってくれるかって言えば違うし」
「もっと柔軟性がある方が、ドラマ的にはおもしろいわね」
クララが求めるドラマが何なのかはわからなかったけれど、彼女は沙織の振る舞いの良くないところをいくつか指摘した。俺は口を閉じるしかなかった。まさにその通りだったからだ。
沙織は育ちがいい。両親含め周囲の人間は、きっと沙織を大切に育てたのだ。やさしく諭し、教え、導き。それが結果として、彼女を他人の悪意に疎くさせてしまった。『きちんと話せば解り合える』と信じてしまうほどに。
話し合っても理解できない奴は一生できないし、そんな奴は山ほどいる。だけどそう言ってばかりもいられないから、人と人は時に力技に出てみたり、譲歩したり、相手の出方を窺いながら意見の着地点を探すのだ。その過程で嘘を吐く奴もいる。自分の利益を出そうと狡猾な手段に出る奴もいる。意見の違う人間と清濁併せて相互理解を図ろうとするのがコミュニケーションだ。
これまで本気で自分を害しようとする悪意に遭遇したことがなかった沙織は、悪意に対するコミュニケーションを取れずにいたのだ。
「例えばよ、昨日のメインダイニングであったことなのだけど、ピンク頭の美少女…ヒロインって呼ぼうかしら。美少女かどうか私は微妙だし。話戻すわ、そのピンク頭のヒロインが自分だけカトラリーが少ないって言いだしたの。それで黒髪の悪役令嬢が『カトラリーはもともと席にセッティングされているものだから、係の人にお願いして新しいものを足してもらえばいい』って、側にいたクルーに声をかけた。そしたらヒロインが『ひどい!私が世間知らずだからって、そんな偉そうにお店の方をこき使うなんて!』って騒ぎ出したんですって」
「意味が分からん。どうしてカトラリーが少ないことが、ピンク頭が『世間知らず』だってことに繋がって、クルーを『こき使う』ことになるんだ」
「それがヒロインのストーリーだからよ」
クララは抑揚のない声で話す。
「ヒロインは自分が悪役令嬢と違って庶民的だってアピールをして、男性陣の支持を一気に得たわ。同時に思いやりのある子とも思われたかったのかしらね。とにかく悪役令嬢はテーブルで孤立してしまった。そこで負けないのが彼女よ」
少し離れて聞いていたエディも俺達の輪の中に入ってきた。そろってカウンターで鼻突き合わせている中で、クララは見てきたように続きを話す。
「『では、わたくしがカトラリーを貰ってきます』って言ったの」
あちゃ~~~~~~~
俺、エディ、マリベルは一様に天を仰いだ。
「火に油よ。悪役令嬢がテーブルを離れた途端、ヒロインは『施しを与える気だ』って泣くし、周りの男の子たちはヒロインに同情してちやほやしだすし、彼女がいないからって悪口のオンパレードだったみたい。悪役令嬢が戻ってきたら、男の子たちは彼女を糾弾し始め、結局ディナーどころじゃなくなってクルーにメインダイニングから退出を促された…そこまでが私の知ってる話」
息苦しく気まずい空気がカウンターに満ちた。子どもの拙いケンカには違いないが、後味が悪い。その話、時系列的に俺が花瓶の陰で沙織に檄を飛ばした直後の事だろう。俺のせいでもあるのかなあ。いいや、違う。発端はピンク頭だ。
「実際カトラリーは本当に足りなかったの?」
怪訝な口調のエディを横目に、クララは無表情だけど、どこか面白がるように言った。
「テーブルの下にフォークが一本落ちてたそうよ」
うわあ…のけぞるエディ。
「その話聞いたら、僕は断然悪役令嬢派になるよ。いくら美少女でも性格が悪いのは嫌だ」
「最初から落ちていたか、ピンクのヒロインがわざと落としたのかわからないのに?そうね。結局は好みになるのよ。どっちが正しいとか、あんまり重要じゃないの」
まあ、ダイニング担当のオズワルドは自分が最後に確認した時、カトラリーは全部あったって怒ってるけど。興味なさげにクララは呟き、皿から一番大きいブラジルナッツを摘んで口に放り込んだ。ぼりぼりとナッツの砕かれる音がする中、黙りこくった俺にマリベルが興味津々の目を向けてくる。
「ジャック、ピンクのヒロインと黒髪の悪役令嬢の事、あなた詳しく知ってるんじゃないの~?悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使いの噂、聞いてるんだけどなあ」
「なにそれ!なにそれ!」
すっげえ食いつきのクララ。ほんっとうに暇なんだな、この女。あとで教えてやるから、2つ目の噂の話を聞かせろと促すと、マリベルとクララはジト目で引き下がった。僕から話すねとエディが申し訳なさそうに笑って彼女たちの前に出た。
2つ目の噂【最下層のインサイド客室に出る幽霊】
これはまた聞きのまた聞きだから、全然信用できないんだけどねと前置きして、エディはオカルトな噂の全容を教えてくれた。
最下層のインサイド客室に、深夜になると唸り声や小さな喘ぎ声が聞こえてくる部屋があるらしい。別にそれだけならば問題ない。騒音として悩まされているなら訴えればいいし、それでケンカになるならセキュリティスタッフの出番だし。ただ今回の場合、セキュリティスタッフは役には立たなかったとエディは言う。
物音がする部屋は、誰もいないはずの〈死んだ平野星満の部屋〉だからだ。
不慮の事故で亡くなった平野の霊が、まだ部屋に留まっていると誰かが言い出し、噂はあっという間に船中に広まった。
平野が使っていた部屋が何故まだあるのかと問えば、平野の持ち物があるから、彼が使っていた当時のままになっているそうだ。いくら航海中に死んだとはいえ、彼の私物を船側が勝手に処分することはなく、航海が終われば遺族が部屋にあるものを引き取る手はずになっているという。そもそも船のクルーである平野の部屋が客室と同じエリアにあることが不思議なのだが、彼と船の雇用契約の関係上そうせざるを得なかったとか。俺には素行の悪い平野をクルー達のプライベートゾーンから引き剥がしたかったようにしか思えんが。
「誰か部屋の中に入って、原因が何か確かめたのか?」
「うん。僕の友達の知り合いがセキュリティスタッフのヤスダとトツギに訊いたんだけど、クロゼットの中も、シャワールームの中も、何にもなかったって。もともとショーマは持ち物が少なくて、部屋の中はキレイだったって言うから、逆に怖いよねえ」
「そんな部屋、物がねえなら、さっさと片付けちまえよ」
うーん…とエディはマリベルとクララに、ちらっと視線をやった。
「そんなに慌てて片付けることもないか」
「僕もそう思う」
「エディ、喋りすぎて喉乾いた。皆もそうだろうから、コーヒー4つ淹れてくれ。ブレンドでいいか」
「オーケー、ジャック。奢ってくれてありがとう!」
わざとらしい俺達のやりとりなど耳に入らない様子で、マリベルもクララも般若と化している。平野の部屋に入るチャンスがあれば、奴の私物を売り飛ばして貢いだ金を少しでも回収しようと考えているか、私物を手元に置いて最後の思い出にしようとしているか。とにかく邪な考えが頭にあると容易に知れた。
こんな女が他にもいるんだ。下手に平野の部屋に誰かが出入りしようものなら、あちこちで女の戦いが起こりそうだ。被弾する奴も出るかもな。
それにしても幽霊が出るのは、俺が寝泊まりしてるエリアじゃねえか。そんな変な雰囲気してたかなあ。気になって部屋の番号を訊いてみた。うげ、俺の隣の部屋!
今日はセントマーティンに寄港。
ガイドによれば、この小さな島は中央の山脈を境に、フランス領とオランダ領に分かれているそうだ。セントマーティンだけじゃない。このカリブ海に浮かぶ島々は、大航海時代の勢力図そのままに列強各国の領地になっている。
1493年にコロンブスが到達してから、カリブ海の島々にはアフリカ系黒人の奴隷が定住し、先住民は追いやられた。言語も、音楽も、何もかも侵食され、今のカリブ海に先住民の面影を見ることはほとんどない。人類史の暗い一面だ。
ただ、俺は一点だけコロンブスに感謝している。それはカリブ海の自然体系に価値を見出さなかったことだ。もしあの男が15世紀に観光ツアーをカリブ海で行おうなどと考えたら、現在の白い砂浜と青い海の景観は残されていなかっただろう。
この自然の美しさを前にすれば、どんな黄金も霞むだろうに。
いや、黄金は欲しいけどよ。
あんまり閉じこもってばかりも健康に良くないので、少しの間、島に上陸することにした。この陽気じゃコートやジャケットはお呼びじゃない。何かあったとしても、その時考えよう。
タラップをカンカンと降りると、凶暴なまでの日差しがまぶしい。うーん、暑い。長袖着てるの俺くらいだ。船のショップで半袖シャツでも買えばよかった。
炎天下で煮えていたせいか、足元に突進してきた小さなイノシシに気がつくのに遅れた。べちょ、と冷たすぎる不快な感触がして見ると、俺のシャツの腹に蛍光イエロー、ブルーとグリーンのトロピカルフレーバーの花が咲いていた。
ぶつかってきた小さなイノシシは、手にしたアイスクリームが俺のシャツに食われたのを呆然と見ている。ギャン泣きまでカウントダウン…1,2,3
わかった。新しいアイス買ってやるから泣き止めコノヤロウ。小さなイノシシのパパが見つけてくれるまで、二人でアイスを舐めつつアイスクリーム屋の前で待った。
イノシシの親子が去った後、もうべたべたになってしまったシャツを持て余していると、前から見慣れたアイツが歩いてくるのが見えた。今日は下船してたんだな。チャンス到来。
俺が声をかけるより先に向こうの方が気付いたみたい。くるっと回転して反対方向へ逃げようとするから、全力ダッシュで捕獲した。
「アイスでシャツが汚れたのと、俺は全く無関係じゃないか」
ど正論を述べるキリコ。
「まあ、そうだよな。関係ない。だから俺は汚れたシャツを脱いで、捨てていこうと思っているんだ」
人通りの少ない路地で、シャツのボタンをぷつぷつ外す。うわー、下着のシャツにまで染みてたか。まいったな。オーバーに困ったなアピールをすると、キリコはクソデカため息を吐いた。カツアゲ成功。
ディスカウントストアでキリコにTシャツを買わせ、店のバックヤードで着替えさせてもらった。汚れたシャツはサヨウナラ。
「このTシャツやたらでかくて、生地がぺらぺらなんだが」
「文句言うなら、もう一個アイスを腹で食わせてやるが、どうだ?」
「しょうがねえなあ…色は黒だし、それに免じて良しとしとくか」
「こんなにふてぶてしいタカリも珍しい」
ぼやくキリコの横顔は、なんだか顔色が悪かった。アレサンドロの事がこたえているのだろうか。こいつの性格からして黙っているだけのはずがないから、真相を明らかにしようと動き出しているんだろう。それがきっとまだ解決できていないのだ。
俺も15億と沙織の事が上手くいってねえし…なんてもやもやしてたら、急にキリコが立ち止まった。
「シャツ買ってやったよな」
「お、おう」
「対価に久遠寺彰に会わせてくれ」
「はあ?!どうしてだ。久遠寺家にお前さんの世話になりそうな人間はいないぞ」
「いないだろうな。俺の個人的な興味からだ。もっと言うと〈黒髪の悪役令嬢〉にも会いたい」
ぐええ…こいつ絶対知ってるやつだ…
「頼むぜ、〈悪役令嬢のピンチを助けた黒い魔法使い〉殿よ」
にやにやするキリコはすっかりいつもの通りだった。ちょっと気遣った数分前の俺に謝れ!
割に合わない価値になってしまったシャツの裾をぴらぴらさせながら追いかけると、キリコはするりと駆けていく。いい齢こいたおっさん二人で、南国なのにヨーロッパ調の街並みを追いかけっこした。
あほくさくて、最高にスッキリした。