第4章
死んだら人間はどうなるか。死体になる。
その後はどうなるか。しかるべき手順で埋葬されるべきだ。
埋葬は残された者のためのセレモニー。同時に死んだ人間に対するリスペクト。
俺はそのリスペクトには敬意を払う。
だから俺は間違っても「遺体を海の藻屑にされる」ために仕事をしたわけではないのだ。

アレサンドロの腕と一緒に見つかったジャケットの持ち主、平野星満はいったい何者なのか。
それを知るであろう船内のクルーに彼の人柄や素行について聞いて回った。
聞き込みをした結果、彼はよくいるクズの一種に分類されるとわかった。女性陣は態のいい寄生先にされていて、金を貢がされたり、肉体関係を築いたり、都合よく利用されていたようだ。それが5人を超えた段階で、この船大丈夫かと若干心配になった。
男性陣からは興味深い事実が聞けた。平野の訃報が載った船内新聞は、船長のゴーサインが出る前のフライング記事だったという。
どうも新聞部に平野へ個人的な恨みを持っている人間がいたらしく、上がった遺体が平野らしいと耳にした瞬間、腹いせとばかりに記事にして載せてしまったらしい。道理で記事が早すぎると思ったんだ。こんな嫌がらせをされるほど、平野は一部のクルーから疎まれていたのか。原因は彼の素行にあるので、俺から言うことはない。
金遣いの荒い、女好きの酒浸りピアニスト。平野星満の評価は以上だ。

「ショーマのピアノは嫉妬の音がするヨ」
一日の終わりに立ち寄ったカウンターバー「ゴールデン・パス」
マスターの東南アジア系の男性は訛りのある英語でそう言った。
「嫉妬の音って、どんなふうなんだい。俺は音楽に詳しくないから教えてくれよ」
慣れた手つきでリキュールをメジャーカップに注ぎ、シェーカーを手にして彼は続けた。
「ワタシ、6つの頃からピアノやってた。だからわかる。コンクールに出て、勝てないライバルがいたとき、あんな音出してタ」
キンキン・カンカンとピアノの音を口真似して、シェイカーを振る。
「それはとても聞けたものじゃないな」
シャムロックが俺の前に出される。
「そうネ。でもそれわかるの少しだけ。ミンナ、ショーマのピアノを褒めるよ。ショーマはそれしか取り柄がないから」
あとは甘いマスク!とマスターは自分の顔を指さした。それがやけにチャーミングだったので、気分が少しほぐれた。シャムロックの次にもう一杯頼もうか。
平野星満が勝てなかった相手は誰なんだろう。船でピアニストをしていても、皆から褒められても満たされない承認欲求。余程ライバルに執着していたはずだ。そんなに重い感情を向けられるのは、たまったもんじゃないなとシャムロックを飲み干した。


でっかいくしゃみをして飛び起きた。
インサイド客室じゃ、いつ朝日が昇ったかなんてわからねえ。おまけに昨夜は隣の部屋でカップルが盛ってたらしく、夜更けまでアンアン聞かされて散々だった。
部屋に長居する気にならず、適当に顔を洗って廊下に出る。コートもジャケットも置いていこう。身軽になってデッキに上がると、得も言われぬ景色が俺を迎えてくれた。
まばゆい朝日がミルク色の空を染める。あたたかな太陽の色。きらめく海の穏やかさ。間違いなく俺は生きていることを感じる。
デッキには似たような人が何人もいて、隣の老夫婦は多幸感に満ちた表情で寄り添う。朝日に向かって何度もシャッターを切っている若者。それぞれにリラックスした様子で、美しい時間を過ごしている。しばらくの間、俺は思う存分朝焼けの空に見惚れていた。
すっかりいい気分になった俺は、そのままの足で朝食をとろうとビュッフェへ向かう。
あ!今日は和食がある!
〈本日の朝食メニュー〉
・白米(インディカ)
・豆腐の味噌汁
・茄子のしぎ焼き
・鮭のレモン焼き
・水菜のサラダ
鮭の塩焼きが食いたかった…少々がっかりはしたが、久しぶりの白米に心が躍る。どこに座ろうか、ぐるりと見回すと、2人掛けのテラス席に1席空いているのを発見した。突撃してやれ。
きれいな箸遣いで食事をするキリコの前にトレイを置いた。
「いい朝だな。相席、構わねえよな」
キリコは眼を剥いたが、やがてそっと瞼を伏せて「平野のライバルの気持ちが分かる」とかぼやいた。何のことだ?
午前8時「コンバーション」はバミューダへ寄港する。今日の昼間はここに停泊。ゲストたちは船から下りて、バミューダで思う存分観光する。たっぷり楽しんだら船は18時に出航。この時間は厳守。18時までに船に乗っていないと置いていかれるそうだ。遅刻なんてもってのほか。普段のサービスの良さから、もっとおおらかなのかと思っていたら、非常にシビアで驚いた。
沙織はタクシーツアーに参加すると、昨日のウェルカムパーティの面子で出かけて行った。タクシーツアーとは耳慣れないが、エディに訊くとバミューダは道路が狭くバスでは移動ができないため、タクシーと称したミニバンで観光地を回るツアーがあるのだとか。もちろん一人ひとり参加費用は掛かる。安い金額では無かろうに、高校生でツアーに参加できる連中は贅沢だねえ。
さてと、さっさと今日中に手術費用の支払いしてもらわねえとな。まずは館内アナウンスで脅しをかけてやるかと、コンシェルジュデスクに向かう途中、久遠寺彰の妻、絹子を見かけた。おお、チャンスだ!
絹子に声をかけると沙織を見送った帰りだと言う。相変わらずのおっとりとした口調だが、何やら複雑な表情をしている。言いたいことがありそうな雰囲気。いいさ、手術費取り立てへの苦情でもなんでも今の状況が変わるなら構わない。絹子をオープンカフェへ誘い、話をすることにした。
頼んだダージリンがテーブルに置かれても、絹子は口を閉じたまま。会話を切り出すチャンスを待っているというよりか、自分が話す内容の精査をしている。それじゃあ無駄話でもしようかと、昨日のパーティでの出来事を話した。
絹子はまず沙織の手当てをしてくれたことに礼を言ったが、娘が故意に背中を押されたことにショックを隠せないでいた。
「そんな…背中を押されたなんて、私には言いませんでした」
「心配かけたくなかったんですかね。まあ、今日も一緒にツアーに行ってるわけですし、何もないといいですが。ところで彼らは誰なんです?こんな豪華客船に高校生だけで来ているなんて、少し目立ちますな」
「あの子たちは、健斗さんのお友達です。高薄さんが保護者の代理として、あの子たちの旅費を出していると聞きました。なんでも健斗さんが『自分たちの婚約の立会人になってもらうため』とお願いしたとか…かわいらしいと言うか…」
絹子は少しだけ苦笑して、紅茶にそっと角砂糖を入れた。
「そうそう赤い髪の子が小網さん、背の小さな子が飛田さん、眼鏡をかけた子が守さん…もう一人、かわいらしい女の子が苺愛さんというお名前なのですって。昨夜、沙織が教えてくれましたの。」
とても嬉しそうに話してくれたのに…と絹子はティーカップに口をつける。
「昨夜はたくさんお嬢さんとお話ししたんですね。あの年頃になると、親と距離を置きたがるっていうけれど、そちらは当てはまらないみたいだ」
「……昨日は沙織の部屋で寝ましたから…」
おっと、聞いちゃいけねえ夫婦の話か。訊くけどな。
「環境が変わると夫婦でも緊張しますか」
意地の悪い質問に絹子は少し頬を染めた。そしてしばらく言いにくそうに、ティーカップを上げたり下げたりした後、重い口を開いた。
「…夫が…彰さんが、いつもと違って…あまりに激しいので…怖くなって……沙織の部屋に逃げました…」
自分で聞いといて何だけど、知りたくねえなあ。夫婦の夜の事情ってのは。いつもはどうなんだとか、いらん想像が始まってしまう。その後、男はいつもと違うベッドだと興奮するのかとか、海の上だと開放的になるのかとか、医学的なエビデンスはないかとか、おっとりとした口調で尋ねられた。絹子にとって俺と話したい本題はこっちのようだった。さっきやたらもじもじしてたのはこれのせいか。俺は医者っぽく適当な返事をして、早々に席を立った。お前さんの旦那の性癖は知らん。
しまった。15億の話するの忘れた。
オープンカフェを乾いた偏西風が通り抜けていった。

結局絹子も朝食をとった後の彰の居場所は知らないと言うので、俺は気分転換も含めてランドリールームに来ている。たまった洗濯物を備え付けの洗濯機で洗うのだ。
すでにほとんどの洗濯機はうまっていて、赤いタイマーのデジタル表示ばかりが並んでいる。ようやく一番端の洗濯機が空いているのを見つけ、下着や靴下をドラムの中に入れていく。ついでだから今着ているやつも洗おうかな。
誰もいないことを確認し、素早くカッターシャツのボタンを外して、中に着ていた半袖のシャツを脱ぐ。それを洗濯機の中に突っ込んで、スイッチ押して、カッターシャツを…
ランドリールームの入り口に手提げ袋を持ったキリコがいた。
いたっつーか、立ち尽くしてるっつーか。
「全部見てたか?」
「…見た」
上半身裸のままシャツを握りしめる俺。キリコの目が…えーと…その、怖い。
「人前で脱ぐなって言ったよな」
「今は人がいないの、ちゃんと確認した!」
「俺に見つかってる。他の人間だった可能性は大きい」
言い返したいけどできない。こいつが怒る理由は真っ当なものだから。あの時は仕方なかったんだ。
ちょっと前に、なかなか手術に踏み切らない患者の説得に俺の体の縫合痕を見せたら、患者の親父が欲情して襲い掛かってきた事故があった。それが裏街道の情報網を巡り巡ってキリコの耳に入ってしまい、それ以来キリコは俺が人目の付きそうな所で脱ぐのを嫌がる。だからって俺が自分のやり方を変えたりはしないって分かってるだろうに、ヒトを露出狂みたいに扱うのはやめろよな。俺だって襲われたいから脱いでるわけじゃない。
「俺の体見て欲情する変態は、あのオヤジくらいだから、極めてレアケースだ。お前が構うことじゃねえよ」
キリコは黙って俺を見てる。また、地雷踏んだか?俺…
「じゃあ、俺も変態か」
キリコはタイマーが止まった自分の洗濯機を開けると、手提げ袋にばさばさと洗濯物を突っ込み、ランドリールームから出ていった。
「なんなんだよ…あいつ…」
もぞもぞとシャツを着つつ、自分がとんでもないことを口走ったのに気がついた。
訂正しようと廊下に飛び出たけど、当然のようにキリコの姿はなかった。

脱力して歩いていると、前から賑やかな一団がやってくる。ツアーから帰ってきたゲストたちだ。「ヘイドン・トラスト・チャペル」は雰囲気が良かったとか「ギブスヒル・ライトハウス」からの眺めは最高だったとか、口々に感想を言い合って興奮してる。
そんな中に、あいつらもいた。健斗たちだ。
…おい、どうなってる。
どうして健斗の腕にピンク頭の腕が巻き付いてるんだ。
周りの連中もピンク頭を囲むように、きゃらきゃらと騒いで喧しい。
その輪からはじき出された沙織は、うつむき加減で後ろを歩いてる。
俺に気がついたガキどもの視線に構ってる場合じゃない。見ていられない様の沙織の手を引いて、人目の少ないラウンジの花瓶の陰に連れて行った。
なにがあったか聞くと、沙織はなにもないと言い張ったが、絹子が心配していることを告げると「お母さまには内緒にしてください」とツアーであった出来事を、ぽつりぽつりと話し出した。


健斗と沙織を含む6人は、タクシーツアーのミニバンに揃って乗車し、景色を楽しんでいた。とは言え、昨日会ったばかりの健斗の友人たち男子高校生3人と沙織は、お互いの距離を測りながら、僅かに緊張していた。男子高校生3人は健斗の婚約者と言う立場の沙織に、どう接すればいいのか分からなかったようだ。一方沙織は今まで女子ばかりの学校に通っていたため、健斗以外の同じ年頃の男子と話す機会がなく、共通の話題が見つけられずにいた。
そんな初心な緊張感を、苺愛という少女は天真爛漫ともいえる行動で壊していった。
「小網君さあ、かなり筋肉ついてるよねー。ねえ、腕さわっていい?うわー!かったーい!すごーい!」
「るあっていう名前なんだ。飛田君って。ううん!そんなことないよー。あたしだって苺愛(いちあ)って変わった読み方する名前だし!いっしょだねっ」
「すごーい、どうしてそんなに物知りなの?もっといろんなこと教えてよー。そうだ、もうみんな仲良くなったしあだ名で呼ぼうよー。守くんの事、もりもりって呼んでいい?」
あっという間に男子高校生3人は苺愛にばかり話しかけるようになった。沙織はそれを少し寂しく思ったが、同じく輪に入っていない健斗と話をすればよいと、ミニバンの隣の席に座っている彼の方を見た。
健斗の眼差しは、苺愛にそそがれていた。
それは幼いころから見てきた健斗のどの表情とも違って。
「ねえ、健斗ぉ、次はどこにいくの?」
無邪気に笑いかける苺愛に健斗も笑いかける。どうして彼女は婚約者を呼び捨てにするのだろうと自然な疑問が起こったが、とりあえず今は自分も笑った方がいいのかと、沙織は微笑を作ってみた。一瞬苺愛に睨まれた気がしたが、それは自意識過剰だろうと心に収めた。
トラブルが起きたのはホースシュー・ベイの砂浜だった。ピンク色をした砂のビーチを眺めていた沙織のところへ苺愛がやって来た。
「きれいな砂浜だね~あたしの髪の色とそっくり~」
明るく話しかけられて、沙織はほっとして笑顔になれた。にこにこしながら苺愛は続ける。
「健斗ってカッコイイよねえ。モデルやってるだけあって、スタイルいいし、趣味いいし~。あたしと考えかた似てるところもあって、話しやすいんだよね~。すっごく気が合うって言うかあ…あっ、沙織さんが婚約者なのは知ってるよ」
知ってはいるのか。それならそれで余計に問題がある気がする。
「家同士が決めた婚約なんでしょう?健斗から聞いたよ~」
そんなことまで話しているのかと、沙織は曖昧に頷いた。
「でも健斗はそのこと納得してるのかな…だってあんなに…」
苺愛は急に口を噤み、沙織に背中を見せる。
「あんなに、なんです?」
意味深な言葉に沙織は首を傾げる。その雰囲気を誤魔化したかったのか、作為的なものなのか、ぱっと振り返った苺愛は話題を変える。
「ううん!なんでもない~。あ、そうそう、私がつけてるペンダントなんだけど、ダイヤがとってもかわいいでしょ!でも最近留め具が壊れかけてるみたいで…沙織さん見てくれる?」
是か非か沙織が答える間もなく、苺愛は沙織の手に自分のペンダントを乗せた。そして叫んだのである。
「ひどい!そのペンダントはママがプレゼントしてくれた、大事なものなの!返して!」
沙織は状況が掴めなかった。代わりに拡大解釈したのは男子高校生3人だ。
いつの間にか苺愛のペンダントを沙織が「無理矢理奪い」安物だ、不釣り合いだなどと「罵り」、苺愛を「いじめた」ことになってしまったのだ。
男子高校生から、しかも複数人から睨まれ、これまでそんな体験をしたことがない沙織はすっかり委縮して、何も言えなくなってしまった。
それを見ていた健斗が苺愛の肩を抱いて、クルーズ船に戻ったら船のショップで新しいペンダントを買ってやると言い出し、苺愛は見ていて「早くイエスと言え」と促したくなるほどに遠慮した挙句、健斗からペンダントを買ってもらう約束をした。
帰り道のミニバンで、健斗の横には苺愛が座っていた。
沙織の横には誰も座らなかった。


「もりもりはねえな…」
話し終えた沙織はうつむいたまま。それがカチンと来ちまった。
「おい、沙織お嬢さんよ。お前さん、今日の一番の失敗が何かわかるか」
そっと顔を上げた沙織の目じりは赤くなっている。きっと頭の中で細かく思い出しては、あれもこれも皆失敗だなんて考えてるんだろう。沙織が口を開く前に、答えをぴしゃりと叩きつける。
「ペンダント盗られたって騒がれたときに、黙ってた事だよ。事実と違うなら徹底的に反論しやがれ。言われるままになっちまってどうするよ」
「反論……」
ひょっとして口喧嘩をしたことないとか言い出さないよな。お嬢様に分かりやすいように言い換える。
「ガッコでディベートやったことあるだろ。あれと同じだ」
「ああ!ありますわ。一度大会に出ました…でも少し苦手です…」
「苦手もヘチマもあったもんかい。自分の立場きちんと考えろ」
ぐいぐい迫る俺に沙織は顔を引きつらせる。すまんが、状況が変わりつつある。その要になるのはお前さんだ。
「もし健斗が苺愛にかまけて、お前さんと関係が悪くなったら?」
「…婚約解消があるかもしれませんわ。もう健斗さんと苺愛さんは、かなり親しい様子でしたもの」
「最悪、そうなったとしてだ。お前の家はどうなる。高薄からの援助がないとやっていけないらしいじゃないか。お前さんと健斗の仲が破綻すれば、久遠寺コンツェルンは終りなんだよ」
「そんな…」
後退りする沙織の背中に、花瓶から枝垂れた凌霄花がふれる。
「怖がらせたいわけじゃねえ。ただお前さんたちの婚約は、大人側の事情もかなりあるんだ。好いた惚れたの話で済むレベルじゃあない」
「それは…わかります。健斗さんとの婚約は、お互いの家の利益のためだと…言葉にはしませんでしたが、健斗さんも私も同じ気持ちでした」
うつむく白い頬にさらさらと黒髪の房が落ちる。
「…ですが、会社の状況は知りませんでした。お父様は家でお仕事の話をほとんどなさいませんから、てっきり今までと変わらないものだとばかり」
おっとり夫婦に育てられりゃこうなるよな。だがもう高校生。教えられなくても家業について分かっていていい事もあるんだぞ。
「状況が分かったところで訊くぞ。お嬢さん、健斗が完全にお前さんから離れたらゲームオーバーだ。これからの時間をどう使う。部屋でめそめそやりたいなら止めないがね」
突き放すように告げると沙織の顔つきが変わる。友達から仲間外れにされた女子高生から、大企業の社長令嬢に。気弱な少女から、薙刀で鍛えた凛とした精神を持つ乙女へ。
「しっかりしないといけませんわね。このくらいのことで、ええ、情けない」
きりっとしたイイ顔してるじゃないか。頼むぞ、俺の15億円のためにも。