M.F.V.L追加SS

【船医】

「そんな名前の船医は、知りませんね」

鈴井の反応は俺を満足させるものではなかった。

俺の知っている船医は一人だけ。もう二度と会うことはないだろうと思ってはいたが、こうして確認すると、なんとも味気なかった。

デッキに出るとキリコが海を眺めている。

ぼんやりしているように見えるのが妙にイラついて、奴にぶつかるようにして隣に陣取った。

「機嫌悪いな」

「そんなわけあるか」

「当ててやろうか。誰かに振られたんだろう?」

あれも振られたって言うんだろうか。でも相手は人間じゃないし。

「うそだろ。ビンゴかよ」

しまったと横を見ると、キリコが片目をこれでもかと見開いて固まっている。しかし腹黒陰険眼帯野郎は、とっとと再起動し、ニヤニヤと笑いながら抜かすのだ。

「さあ、おじさんに話してみなさい、青年よ。そういうのはさっさと誰かに話して、馬鹿にされるのが手っ取り早いぞ」

馬鹿にはされたくなかったが、もやもやしてるのは尚更馬鹿馬鹿しい気がしたから、俺の知っている船医について話した。彼女がどうして船医になったかも含め、余すところなく。

キリコは最後まで黙って聞いて、馬鹿だなあと呟いた。そう言われるのが前提で話したんだから、怒ったりするのは筋違いだけど、意外と俺は冷静だった。

あの時は一瞬の中に永遠を確かに見たのだ。若かったし、今思えば違う選択肢があったように思う。だから今ここに俺がいるかどうかの分岐点が、あの一瞬の中にあったのだとすれば、とても複雑な気分だ。

「子宮を取っただけで、女性を辞めなくちゃいけないなら、世の中にどのくらいそんな女性がいると思うんだ。女性らしさを完全に失うなんてことはないし、結局彼女も男性にはなれなかったと思う。他の機能は女性のものなんだから」

キリコはタバコに火をつけた。時代遅れのタール値の煙が、隣から海風に乗って届く。

「で、結局女性として彼女に惚れた青年を、お前の家に行くようにしかけたって?」

「しかけたとは人聞きが悪いな」

「大差ない」

言葉の違いはあれ、そういうことがあったのは事実だから頷いた。あのガキは最後まで恵に惚れていた、と思う。

「俺は自分が感じたままの事を言うから、気に食わなければ一回だけ殴っていい。お前にとって、かなりセンシティブな部分についてなのは分かってる」

キリコはそう前置きして、つけたばかりのタバコを携帯灰皿に突っ込む。殴られるための準備なんだろうか。

「忘れちまえ、そんな女。時間を割く価値もない」

心臓が止まるかと思った。

「お前が彼女への思いを告げる瞬間が手術台の上でしかなかったとしても、彼女にとってはそうだったんだろうか。俺にしたら、お前たち二人は意気地なしの大馬鹿者だよ。若かった、その一言しかないね」

キリコは淡々と、やや早口で続ける。

「二度と会わないくらいの覚悟をして別れたはずなのに、彼女はお前と何度もコンタクトを取ってる。十分に未練があるじゃないか。お前にも未練があるのを彼女はわかってる。だから自分に惚れてる青年をお前の所へ行かせたりするんだよ。しかも手紙付きで。彼女に馬鹿にされてるのと同じだよ、お前は」

かっとなって頬が熱くなる。キリコの方へ向き直ると、あいつは海を見つめたまま話してる。欄干にもたれかかって、遥か彼方の水平線へ視線を投げながら。その様子を見ていたら、何故だか熱くなった頬は冷めていった。

「彼女との一瞬をダイヤモンドのように輝かせて胸に抱くのはいい。そういうのも人生だと俺は思うから。だけど輝きを引きずることで、汚れたものに変わっていく場合もあるんだ。今のお前はそっちに傾いてる気がして、おもしろくないね。なんだ、ブラック・ジャックなんていっても、昔の女にいつまでもめそめそしてんのかって」

長いため息と一緒にキリコは俺の方へ体を開いた。さあ、どうぞって感じで。

「以上、俺の感想。殴りたきゃ殴れ」

キリコの方が殴って欲しそうに見えた。だけど俺の脳みそは冷静に言葉の意味を拾っていた。間違っちゃいないと、素直に感じられたのが思っても見なくて、少し困ったほどだ。これでいいかって。

「いい。殴らない。冷静になっちまって、そんな気分じゃねえや」

あの一瞬を胸の中に持っていてもいいってこいつが言ったせいかもしれない。俺はどこかそれを罪悪感のように思っていたのではないか。裏街道を歩くのに、そんなものはいらないと突っ張って、もうそれを俺は知っているから十分だと思い込んで。だけど、恵以外にも心を動かされた人間はいたし、一瞬の輝きがひと種類ではないのを幾許か齢を重ねた今ならわかる。ダイヤモンドの輝きも、光が当たる角度によって変わるように。

「殴った方が良さそうな顔してるけどなあ」

「煽るな。俺なりに考えて、納得しようとしているんだから」

「直情的でないお前も珍しいね。そんなに触れてほしくない話題だったか」

「どうだろう。少なくとも、船に乗るまでは忘れていた話だよ。でも、多分、うん。お前さんみたいな他人の視点から話されるのは初めてだ。人にするのも初めての話だったかもしれない。客観視するのはこんなにも重要なんだな」

「どうしたの。殊勝すぎて気持ち悪い」

ぽすんと、キリコの肩に軽くグーパン。

あの一瞬はそのままに、心の中のボックスに入れちまおう。そんなボックスが俺の人生にはもうとっくにいくつもできている。

「俺の方は、なんだかスッキリしちまったんだけど、今度はお前さんの機嫌が悪そうだ」

キリコを見ると、いつもの辛気臭い顔だが、眉間にうっすら皺が寄っている。目つきも険しい。こいつの微妙な心情の変化がわかるようになったのも、人生にボックスが増えたことと関係があるんだろうか。だけど、こいつはボックスになんか入らない。

「俺が海なら、お前は空さ」

ぼそりと呟いたのが、あいつの耳に入らなければいい。

ボックスに収めるにはでかすぎて、長すぎるんだ。俺達は水平線。決して交わらない。

聞こえたのか聞こえなかったのかは分からないけれど、キリコは再びタバコに火をつけた。スパスパと煙を吐きながら海を眺めてる。

俺は雲の具合が気になって、そっと空を見上げると、何羽も海鳥が飛んでいる。付近の無人島から飛んできたのだろうか。そこではっとして気が付いた疑問を俺は口にしてしまっていた。

「俺も嫉妬した方が良いのか?」

「待って」

ここは黙っておくのが絵になるところだろうがとキリコは頭を抱えてる。

「お前の頭の中は俺の常識から場外ホームラン飛ばしたところにあるから、一応聞かせてくれ。『どうして』お前が『誰に』嫉妬なんかするんだ?」

「え…どうしてって、そう思ったから」

「端折るな!端折るな!こんな展開になるなら二度とセンシティブな会話しねえぞ!俺はちゃんと人間の言葉でコミュニケーション図ろうとしてるの。珍しく相互理解しようとしてるの。その意思をねじ切るのはやめなさい。自分の考えを言語化しなさい。今だけでいいから」

必死に訴えられて、何か今の答えがまずかったのだけは分かった。うーん。自分の考えを言語化…えーと。

「海鳥」

「うん」

「空にさ、海鳥が点々と飛んでるのを見て思ったんだよ。お前さんにもきっと俺みたいに捨てられない一瞬があるんだろうなって。そんでそういうのがあるってことに俺は嫉妬した方が良いのかなって」

「…言語化にチャレンジしたのは褒めてやる。内容の理解については時間をくれ」

キリコはそのまま黙ってタバコを一本吸い、フィルターを携帯灰皿に突っ込んで片付けた。その間俺はずっと空を見てたのだけれど、島から離れてしまったのか、海鳥はみんな巣に帰っていた。

しっかり時間をかけて俺の言いたいことを理解したであろうキリコは、ぽんと俺の頭をタッチして、俺達の間の距離を縮めた。

「俺にもそれなりに、お前の言う一瞬ってやつがあったと思う。だけど強がりや冗談でなく、もうそれを思い出しても俺の心には何の変化も反応も齎さないんだ。だから、お前が嫉妬するようなものは残っていないよ」

そっと微笑むこけた頬に嘘を見つけるのは難しかった。

「ふうん」

それだけを言うと、キリコはわしわしと俺の頭を撫でた。ガキ扱いするなっての。

【エレベーターホールを出て】

沙織を部屋に送り届け、俺達は長い廊下を歩く。スイートルームがあるフロアだけあって、人通りはほとんどない。選ばれた人間しか来ない雰囲気。

厚い絨毯は俺達の靴音すら吸収して、ただ沈黙だけが続く。少し気まずささえ覚えだしたころ、キリコが隣で呟いた。

「さっき、殴りかかろうとしただろ」

エレベーターホールで赤髪のガキにしようとしたことを言われていると分かって、言葉に詰まった。あれは俺の完全な失策だった。キリコに止められてなければ、今頃全て台無しになっていただろう。

「…お前さんに礼は言いたくないが、正直助かった。あのまま殴っていたら、どんなシナリオを書いても詰んでた」

きっと揶揄われるだろうと思ったのに、キリコから笑う気配はしなかった。不思議に思って横を向くと、キリコは下に向かうエレベーターのボタンを押していた。

エレベーターが着いて、誰もいない中に二人で入る。キリコは自分の部屋があるフロアのボタンを押し、俺はそのもっと下にあるボタンを押そうとした。けれど、手を掴まれてボタンを押せないままにエレベーターのドアが閉まる。

どうして、と聞けないうちにエレベーターは降りだし、ガラス張りの壁からメインホールの輝きが差し込む。それが無くなった瞬間、俺は壁際に閉じ込められた。

「どうして、あんなことしたの」

長い銀の髪が俺の頬にかかる。どうしてなんて言えるはずがない。キリコの顔が見られなくて、下を向いてしまう。

「あのガキに腹が立っただけだ」

「そう」

まるで信じていない軽い返事をして、キリコは指でするりと俺の首筋を撫でた。ぞくりと体の中にさざめきを感じたとき、あいつは後ろに下がり、反対側の壁に寄りかかった。

「エレベーターには監視カメラがあるからね」

なんでもないことのように告げられた内容が、ひどく色めいて聞こえた。監視カメラが無かったら?二人きりのエレベーターの中で何を?知能指数の低い思考が頭の中をすっかり独占してしまう。

ずっと続くかと思われたエレベーターのモーター音が止まり、ドアが開く。

ついていく必要はないのに、俺の足は勝手にキリコを追う。カードキーがスライドされる様子が、やたら背徳的で見るに堪えず、つい足元に視線を移してしまった。もう今夜は何度床を見ただろう。あいつの視線すらまともに受けられないなんて。

そんな俺を放ってさっさとドアの向こうへ消えるあいつとは違って、どうしても足がもたつく。来るべきじゃなかった?今から何を話す?引き返すなら今かと足が止まった瞬間、逃がさないとばかりに暗闇から手が伸びて、ドアの隙間に引きずり込まれた。

壁に背を押し付けられて、激しく唇を奪われる。手首を両方とも掴まれて、俺が抵抗できるのは僅かに身を捩ることだけ。ただ翻弄されて、口の中で繋がるあいつの舌を感じるしかなかった。上あごを舐められて、うなじの毛が逆立つ。

どうして俺が殴りかかろうとしたのか、キリコにはすっかりバレている気がした。

あのガキが眼帯の事を口にしなければ俺はあそこまで激昂しなかった。それだけ俺の中でキリコの眼帯が大きな存在になっているなんて、俺自身初めて意識した。これまで眼帯の下を見たがったりしたけれど、それは目の傷をどう切ればきれいに治るだろうかなどと不毛な想像をするためのことが多かったし、何よりいつも秘されている部分を見られる優越感を得ていたのかもしれない。

だけど今回はっきりとわかった。俺は俺以外の人間があの眼帯を貶めるのが許せないのだ。何も知らない人間に触れさせたくなどない領域になっているのだ。あいつの思想は黒い眼帯が全部語っている。それを尊重するとかそんな話じゃない。片目を失ってから、きっとキリコが同じ景色しか見ていないことに、耐えられないほど苛つくのだ。その事実を黒い眼帯は俺に突き付ける。あいつは死ぬまでそうなんだろうか。

俺達は水平線。俺が海なら、お前は空。どこまでいっても絶対に交わらない。お前はきっと何もない空しか見てない。だけど俺は海もある世界を見せたかった。欲を言えば島も、鳥も、木や花も見せたかった。

その片目にはひとつの決まりきったものしか映らないとしても。

「俺は欲張りなんだ」

暗闇の中で無理矢理くちびるを離す。

「知ってるよ」

固くて広い背中に腕を回して、あいつの耳元に直接。

「お前さんが思うより、ずっと欲深くて、諦めが悪いんだ」

長い腕が俺を抱きしめる。じわじわと力がこもっていく充足感を、たやすく俺の脳細胞は受け入れて、全身に通達する。すっかり二人の体に隙間がなくなるころ、キリコは鼻先で俺の首筋をくすぐる。

「面白いこと言うじゃない。随分と俺を過小評価してくれる」

「過小評価かどうかは、後で後悔するんだな」

この感情にどんな名前がつくのか判らない。名前なんかなくても禄でもないものなのは判ってる。この男に何かさせたいと思っただけで無意味だし、執着自体が俺の悪い癖だ。悪い癖のついでに、こいつの片方しかない目に俺の見た世界を見せたかった。

「…今までと、変わらんな」

愚かだと思った。この男が簡単に変容することなどないのに、勝手に追いかけてる。部屋が真っ暗闇なのを心から歓迎した。きっと酷い顔をしている。誰にも見せたくないほど。

「………変わったよ。少なくとも俺は。お前のせいで」

「嘘つけ、あっても小指の爪の先程だろ」

キリコの言葉を信じなかった。俺の自信のなさの裏返し。こんなの俺じゃないみたいだ。

「信じなくていいよ」

ゆっくりとやわらかい感触がくちびるを覆う。なんども角度を変えてふれる温度に泣きたくなる。求められる前に口を少し開いた。俺の方から閉じたままのキリコのくちびるをなめて、舌先を隙間にすべらせた。相変わらず体温の低い口内は少しひんやりしたけれど、俺が熱くしてやれば問題ないんだ。

あいつが応えてくれるまで随分時間がかかった気がする。拙くても、技巧が足りなくても、俺ができる精一杯をくちびるが伝えた。

深く、深く、キリコの舌が俺の舌にからみつくまで、ずっと。

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