モグリの医者なんて言うと格好をつけたように聞こえるかもしれないが、結局のところは単なるアウトローだ。言うなれば、その日暮らしの医者だ。
患者が来れば治すし、見合った料金を請求して生計を立てる。反対に患者が来なければ全くの食いっ逸れ。開業した当初はパンの耳だけで過ごした日々もあったっけ。だんだんと仕事が軌道に乗ってきて、金持ちの顧客もできて、楽ができるようになったら厄介事が増えてきた。
正規の医者からは蔑まれ疎まれ憎まれる。俺のような生き方は。税務署からも睨まれる。まあ、取立てにきたら小遣いくらいはやるよ。
国家や組織には一切貢献しない。動くときは私事で動く。それがモグリの医者の醍醐味ってやつだろうさ。
そんな「モグリの医者様」が何故このような場所にいるのか。
俺は今一度隣にいる憎ッたらしい白いスーツの男に問いたい。
男の名は白拍子。
大病院のお坊ちゃま。院長様だ。
今夜の一張羅は気合が入ってるらしく、アンダーソン&シェパードでビスポークしたとかなんとか、意味分からん。どうして白にしたんだろう。新郎か、お前は。
髪型もがちがちにヘアジェルで固め、つんととんがったアンテナを終始気にしている。
「BJ君、早く来たまえ。受付の時間が終わってしまう。」
高飛車な物言いに虫唾が走る。
「白拍子先生、教えちゃもらえませんかね。どうして私はこんなところに連れてこられたんです。」
精々横柄に問うと、しれっと返された。
「君がブライアン教授の脳外科に関するレポートに、大変感銘したと言ったからだろう?」
大変感銘?どんな耳してるんだお前は。俺は疑問点があると言ったんだ。
「それに僕が一緒でないと、君のようなモグリの医者が、こんな一流ホテルで世界中の名医と会食なんて有り得ないだろう?いい経験じゃないか。感謝こそすれ、そんなに睨まれる筋合いはないけどね。」
俺は怒りを通り越して体中の血がすうっと冷たくなるのを感じていた。
本当にこのお坊ちゃんは。この。……ただ飯食って帰ろう。
俺は数十分後の会場で自分がどんな状況にあるかを想像したが、おそらく予想の範囲を超えることはあるまい。今は明日のオペに臨む患者の事だけを考えることにした。オペが済むまではこの坊ちゃんの顔を立ててやらんと手術室が使えないからな。
受付をすると、見知った名前がいくつかあった。
顔を合わせたら、向こうは驚いた風だったが、そっと目で挨拶をすることに留めた。あちらにも立場がある。俺と関わりがあると面倒だろうしな。
さっさとメシ食ったら、とっとと帰って適当な店で飲み直そう。ここに来ただけで、白拍子へのお義理は半分果たしたようなものだ。
そう思うといくらか楽になった。
コートをクロークに預けろと言う。
嫌なこった。係員と押し問答をする俺を白拍子が苦虫を噛み潰したような面で睨みつけていた。わかった。わかったよ。しぶしぶコートを預ける。会場で急病人が出ても俺は知らんからな。
コートを脱いで軽くなった体でラウンジの隅に座る。
けばけばしい装飾の大きなシャンデリアが光を放っている。フロアの絨毯の真紅に反射して、ひどく暑苦しく見える。1階のフロント付近で談笑する男たちを見下ろす。あれが落ちたら真下の人は内臓破裂か粉砕骨折か、はたまた脳挫傷か、大怪我をするだろうななどと不謹慎なことを思う。
サービスなのか熱いコーヒーをボーイが俺の前に置いてくれた。白磁のカップには銀の装飾が入っている。
俺はカップに口をつけようとして、やめた。
この装飾がせめて金であればよかったのに。なんでもいい。この色以外なら。
俺には理由が分からなかった。
どうしても、分からなかった。
主催者の長い挨拶が終わり、和やかに会食が始まった。
微笑みながら交わされる挨拶。力強く握り合う手。傾けられる杯。そんな人々の間を縫うようにくるくると働くボーイ。白拍子はあっという間にその人の幕の中に消えた。清々する。
いつもなら周囲の視線を無視してがつがつと料理を腹に詰め込んでいた。
でも、どうしてかそんな気分になれなかった。
「そこにいるのBJ先生じゃないの?」
振り向くと、白髪の日本人がいた。後ろに学生らしき2人の供を連れている。
「あなたは…H大の漆原教授。」
思い出した。俺が熊だのライオンだの動物まで治療するものだから、この教授に興味を持たれメールをもらったのだった。俺もアフリカ好きで奔放なこの教授に興味がわき、何度か酒を飲んで交流を持った。
今夜は教授も珍しく正装をしている。いつもの白衣とアフリカのお面のほうが似合っていると伝えたら、にや~っと笑われた。
「何?メシも食ってないの?こんなとこに来たら食べるしか楽しみがないでしょうよ。」
どかどかと人を掻き分け皿に料理を盛る。俺にくれるのかと思ったら、目の前で骨付きソーセージにがぶりと噛み付かれた。彼の後ろでは学生らがおろおろとしている。
「教授、僕たちの会場はあっちの広間ですから!」
「他の会の料理なんて食べちゃダメですよ!」
ははあ、獣医学会が同じホテルであったとは。
「むー。向こうの方がうまいな。でも酒はこっちのほうが種類が多い!ハムテル!そこのワイン持って来い。」
傍若無人とはこの人のことを言うのだろうなと、流石の俺でも思う。医師会の連中は遠巻きに俺たちを見ている。おもしろくなって、俺もワインを煽る。
散々かき回して漆原教授は去っていった。去り際に「あんまりアンニュイな顔してると、失恋したのかと思われちゃうよーん。」とか何とか言っていた。
失恋って俺がか?思わず笑いがこみ上げる。あの人の雰囲気に釣られて、だいぶ飲んでしまった。空きっ腹では回りも速い。
残ったワインをぐるぐると回し、グラスを口に運ぶ瞬間、視界の端に銀色が見えた気がした。
目で追うと、クロークの前でゆっくりとコートを脱ぐ、長い銀髪の女が目に入った。
女は黒いロングコートを着ていた。背中をこちらに向けているから、顔は分からない。コートを肩から外すと、淡い金色のドレスが現れた。背中が大きく開いているドレス。上半身から腰にかけて体の線がはっきりと分かる。ボーイにコートを渡すと、銀髪が肩から背中にさらさらと落ちる。
心臓が派手な音を立てて跳ねた。
俺はあの背中を知っている。あの銀髪を知っている。
女はボーイに会釈し、こちらに向く。
じわりと汗が手のひらににじむ。
顔の左側に、あった。
今夜の姿にはおよそ不釣合いな、無骨な黒い眼帯。
キリコだ。
廊下を真っ直ぐに歩いてくる。
俺を見つけているのか。
会場に入る手前で、キリコは立ち止まった。そこへ駆け寄る人影があった。うやうやしくキリコの手を取っている。なんだあいつは!
人の垣根を押しのけて、近づく。大股で。俺はきっと怒りに燃えているように見えるだろう。
手を取った男は、しきりにキリコに礼を述べている。キリコはそんな言葉を微笑みながら聞いている。手を払いもせずに。その男を見つめたまま。
「こんなところにお出ましとは、驚いたな。キリコ先生よ?」
俺はできるだけ平静に声をかけた。得意技だ。
怯んだ男に甘い声で「また後で。」とささやき、人払いをすると、あいつは背筋を伸ばして俺に初めて視線を向けた。薄い青の瞳が射抜くように。
「お久しぶりです。BJ先生。」
事も無さげに、澱むことなく。形のよい唇に笑みさえ浮かべて。
血圧が上がる。
そんな俺を見透かすように、キリコの眼が三日月形に歪む。
また一段と女になった。豊かな胸元。それと同じくらいに主張をする腰つき。背中から腰にかけての曲線は、男には得ることが適わない。以前は肩までしかなかった髪も胸まで伸びて、毛先が少しカールしている。よく手入れをしているようだ。すらりとした首には、あいつの眼と同じアイスブルーの宝石。やわらかな唇には光沢があった。こいつ、化粧まで覚えやがった!
「けっ、よく化けたほうだがな、どんなに塗っても地がでちゃお仕舞いだぜ。」
「TPOは大事なんだよセンセ。特にこんな場所ではね。いつも同じスーツって訳にはいかないじゃない?」
減らず口が。何事も無かったかのように俺と普通に会話している奴が憎たらしい。
俺がどんな気持ちで、どれだけ、お前を。
ギリギリと睨みあう俺たちの後ろにサッと影が差した。振り向くとツイードのスーツを着崩した初老の男がいた。
「これはこれは、キリコ先生じゃありませんか。」
酒臭い。俺を押しのけてキリコに近づく。何だこいつは。キリコお前いつの間に知り合いが増えたんだ?
キリコは何も言わずにツイードの男に会釈をした。男の視線がキリコの胸元にねばつくようだ。ツイードは今度は俺に一瞥するとせせら笑うように言葉を続けた。
「いつからこの学会は、こんなアウトロー連中を招くようになったのかね。権威の失墜を招くよ。なあ、BJ先生。」
潮時だ。俺はグラスを置いて会場の外へ出ようとした。キリコも少し考えたようだったが、やはり会場に背を向けてクロークのボーイに目配せをした。
「キリコ先生、まだ安楽死などハイエナのようなお仕事をなさっているのですか?あなたの弟さんならともかく、女の身でお辛いこともあるでしょう。」
弟、そういうことにしているのか。過去の自分を。
ツイードがにやにやと下卑た笑いをキリコの腰に向けている。
「私でよければ、いつでもお力になりますよ。」
そういうと、キリコの肩に手をかけて顔を近づけた。
さわるんじゃねえ!
この言葉に含められた意味が分からないほど俺は鈍ではない。コートの中のメスを取ろうとしたが、コートはクロークだ。男に掴みかかろうとした瞬間、キリコが前に出た。
「私の安楽死にはリストがあることをご存知ですか。」
ひんやりとした、甘い声だった。
「値段が違うのだろう?」
ツイードは相変わらず癪に障るツラで、キリコを爪先から舐めるように見つめている。
「そうです。最近そのリストに、新しく最高額の安楽死方法を載せました。」
ぎくりと心臓が凍りつく。ツイードはその話に興味を持ったようだ。大袈裟な相槌で乗ってくる。口元に微笑をたたえながら、キリコは尚も続ける。
「《腹上死》です。」
流石にツイードの男の目がぎょっと見開かれる。
普通の女がこんなことを言ったら一笑で終わってしまう。しかし男は笑わなかった。見開いた目をキリコから逸らせないでいる。
俺は視線をツイードからキリコへと戻す。
背筋に冷たいものが走った。
キリコは、うまく言えないけれど、まるで、華のようだった。
明るく陽の光を浴びて咲く花ではなく、真夜中に咲く、毒性の強い、触っただけで命を奪われそうな、そんな華がもしあるとしたら今のキリコにぴったりだ。
キリコは妖艶にもう一度微笑むと、少し困ったような演技をした。
「でもまだうまくできないのです。ぜひ練習にお付き合いいただけたら……あら、いけない。そうなったら、お命が危ないですね。」
「くそじじいがーーーーーー!!!」
乾杯の音頭がそれだった。
ガッシャンとグラスが割れそうなくらいに勢いよくぶつけ、お互いにBOWMORE25年を飲み干した。飲み干す類の酒ではないのはよくわかっている。きつくて、上等のアルコールで消毒したかったのだ。
俺たちは町外れのバーに転がり込んだ。バーの中の誰も、俺たちがさっきまで睨みあっていたなんて思わないだろう。悪い立地条件にもかかわらず、店にはいい酒が揃い、他の客たちも趣味のよい音楽の中で穏やかにそれぞれの時間を過ごしていた。そんな雰囲気に癒されるように、俺たちの最初の興奮もだんだんと収まり、ぽつぽつとあの日以来のことをお互いに話していた。
「化粧を教えてくれたのは妹なんだ。」
度肝を抜かれた。
奴の妹、ユリさんははっきり言って勘が効く。
実の父を安楽死させようと躍起になっているこいつから、他でもない俺の下へ父を連れてきたこと。それからグマにかかって無人島で一人で死のうとしているこいつの居場所を突き止めたこと。勘の良さを証明する事例は枚挙に暇が無い。そのユリさんの勘が発動し、奴は屋敷を去った後、まもなくユリさんに捕獲(笑)されたそうだ。ユリさんはキリコの変化を驚きつつも、あっという間に受け入れてしまったという。
「流石、俺の妹だと思ったぜ。」
ユリさんは兄、もとい姉に不自由なく生活できるだけの女性としてのスキルを教えてくれた。
「買い物に行ったら、あいつの物までカウンターに並べてあるし、エステだ何だと連れ回されたが、結局あいつも俺の隣でやってるんだ。支払いは全部俺なのに!」
ちゃっかりしている。今はユリさんのアパルトメントを出たそうだが、月に1度は2人で食卓を囲む習慣が出来つつあるらしい。なんだかこのきょうだいは今がとても楽しそうだ。
俺はもうこいつに怒っていたことが、どうでも良くなってきた。
こんなふうにまた話せるなら。また笑いあえるなら。
ただ、キリコが俺にまた会いたければの話だが。
店を出て、真夜中の路地を歩く。
北風が肌を刺すけれど、酔った頬にはむしろ気持ちがいい。
俺はコートのポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。澄んだ空気に星が明るい。
キリコがちょっと遅れて、コートの襟元を押さえて歩く。こいつ今日はあんなドレスしか着てないんだ。足もむき出しで、とても寒そうだ。
ちょっと体温を確かめるつもりで、キリコの空いている手を掴んだ。
キリコと目が合う。手をつなぐ形になっているのに、今更気付いて。
どっちからなんて分からない。
町の明かりが届かない暗がりで、俺たちはお互いの唇を貪った。
同じ酒の味がする唇を味わい、違う煙草の残り香のする舌を吸い、一つの柱のようにしがみついて。
俺の脳裏にさっきの医師会場でのキリコがフラッシュバックする。
さっきバーで聞きそびれたことがぐるぐる回って、口から出た。
「まだ、安楽死を続けているのか。キリコ。」
キリコはじっと俺の顔を見つめた。
「そうだよ。」
俺の手はキリコの腰に回ったまま。
「安楽死は、もうよせ。」
キリコの手は俺の背中に回ったまま。
「先生こそ、切ったり貼ったりはもうやめたら?」
意地悪く言うけれど、お前さんはもう。
「お前さんこそ、本当にもうよせ。今日みたいな目にまた遭うぞ。」
「ううん。こんなのは慣れてるし、今日は依頼人にどうしても頼まれただけさ。表舞台に出ている自分を見て欲しかったんだって。」
そうだったのか。しかし、依頼人とは捨て置けない。あの場に安楽死をしたがっていた人間がいたのか。そして数日のうちにキリコはそいつを殺すだろう。目の前の美しく着飾ったキリコが誰とは知らない人間の命を絶つ様子を、俺は今まで垣間見た奴の仕事の瞬間とまざまざと重ね合わせてしまっていた。
突如、胃壁をじりじりと焼く嫌悪感が、俺の腹の中にヘドロのように溜まりだした。
奴が男の時にだって、仕事をしたと聞けばこんな気持ちになった。でも何か違う。もっと生理的に、本能的に付随する苛立ちがある。それを探ろうとして、俺は言葉を捜す。
「依頼人は、どんな病状なんだ。」
キリコはうんざり、という表情を作って見せた。
「俺が診たところは、もう治る見込みは無いね。」
「俺に診せろ。」
こんな問答でさえ、懐かしくて。
「ダメだよ、先生。もう俺と契約してるし、彼もそう望んだから俺のところにきたんだよ。」
空気の入る余地も無いくらい、ぴったりと体をくっつけてくる。路地を吹き抜ける風は身を切るよう、でもキリコと貼りついたそこだけは火が付いたように熱い。
「ねえ、BJ先生?」
奴も熱を感じている。唇がふれそうな距離でささやく。その唇をふさいでやりたい。
その瞬間に、気付いてしまった。
俺はキリコの仕事を許すことは出来ない。
生きられる命を勝手な判断で殺すのは、俺には耐えられない。
腹に溜まったヘドロの正体だ。キリコと長い時間過ごすなかで、俺はそのヘドロとの折り合いをつけようとしていた。
キリコが安楽死をするのは、信念であり、奴なりの尊厳だ。俺が患者を手術するのは、信念であり、生きる素晴らしさからだ。
俺たちの命に対する価値観は、皮肉なことによく似ていた。ただ、帰着する点がお互いに間逆の方向だった。俺が戦地にいたら、あいつになっていたかもしれないんだ。
思い込みに過ぎないかもしれない。
でも、今のお前は。
それをふつふつと更に煮え繰り返させるのは。
それ以上に。
「違う…キリコ。俺は女のお前が、安楽死をしているのが嫌なんだ。」
その言葉を聞いた途端、キリコの両腕が俺の肩を力いっぱい押し退けた。
弾かれて俺とキリコの間に隙間が出来る。
「女だから、何?」
キリコの声が尖る。
「女の俺が、安楽死でメシ食ってるのと、男の俺が安楽死やってるのと、何が違うの。」
何が違う。大違いだ。
安楽死をやめろ、やめないの問答は奴と出会ったときから挨拶のようにしてきた。何万回したかわからない。俺の中で折り合いをつけたはずのヘドロが鎌首を擡げる。
キリコの姿を改めて見る。
誰が見ても、こいつがもともと男だったなんて思わないだろう。整形手術をしたって、ホルモン投与をしたって、もとの性別の面影は少しは残る。だがキリコにはそれすらない。骨格が変形し、筋肉と脂肪の割合も変化し、内臓も完璧に変わってしまった。唯一残る眼帯だけが、あいつのアイデンティティと言っても過言じゃない。
そう、お前さんは変わってしまった。
男と女の大きな違いなんて、小学生でもわかる。胃壁がじりじりと焼け付く。
「だから、お前さんは女の体になったんだろう?女は産んで育てることができるんだ!男には絶対出来ない素晴らしいことが!」
俺の中の母への思いが吹き出した。そうだ。女性は命を産むことが出来る。そんな母と同じ性別の人間が、世界のどこかでたやすく命を絶っているなんて、俺には許せない。生きたい命があるのに、その命を産み出せるのに。
「俺が、誰の子を、産むって?」
小さく、鋭い声だった。
ぎりっとキリコの視線が投げつけられる。
さっきの男の二の舞だ。いや。その比ではない。
切り裂く風に銀髪が舞う。
揺ぎ無く俺と対峙し、拳を固く握っている。
ぎらぎら光を乱反射する一つだけの眼。
唇は固く噛み締められて色が無い。
壮絶に、美しかった。
俺は負けじと睨み返して、
「お前さんが誰の子を産もうが勝手さ。だがな、安楽死を続けるのなら、俺は縛ってでもお前さんを男の体に戻してやるぞ!!女の身で安楽死なんか、命を冒涜するのはやめろ!!」
静かな夜に、俺の声だけが響いた。
キリコはうなだれているように見えた。やがて浅くため息をつくと、踵を返した。
返事を聞けていない。逃がすまいと腕を掴もうとするのを、たやすく払いのけて、キリコはうつむいたまま足を止めた。
「やっぱり、会いたくなかった。」
はっきり、キリコは言った。
「BJ、俺が何故屋敷から消えたか、お前分かってなかったんだな。」
俺は黙るしかなかった。分からなかった。キリコは検査にも協力的で、オペにも前向きだった。俺はお前をもとの体に戻すのに必死だったのに。
「お前が…勝手にいなくなったんだろ。」
呻くように言葉を搾り出した。分からないと言っているようなものだ。
キリコが顔を上げた。
泣き出しそうな、耐えているような、あの時の顔と似ていた。