※2021/12/11ちょっとだけ改訂
『名湯の湯治場、天然ガスで爆発』
『負傷者多数も死亡者なし』
『カルト教団一斉摘発』
そんな見出しが飽きた頃、やっぱりあいつは現れた。我が家のように押し入り、リビングで新聞を読む俺のところまでドカドカ足音を立てて。
ツートンカラーの長い前髪の隙間から無言で俺を睨んだかと思えば、新聞を奪ってざくっと棒状に掴み、それで俺を殴ってきた。あれだ、ハリセンでしばかれるやつ。スパーンといい音がした。
「少しスッキリしたぜ」
言い放つと問答無用で俺の衣服を剥ぎ出す。
「いきなり殴って裸にするとか、お前は追い剥ぎか」
「バーロー、服だけで済むと思ってんのか。最後の鱗を剥ぎにきたんでい」
ああ、それか。鎖骨の下に生えていた九枚目の鱗を見せる。そこにはもうほんの小さな虫刺され跡のようなものが残っていた。
「あの湯に浸からなくなったら、自然と崩れていったんだ。他のもそう。問題ないよ」
「いいや。まだ全部剥がれてねえはずだ」
…っち。野生の勘だな。野良医者め。
「一番初めのを見せてみろ。他の鱗より一番長い時間湯に浸かり続けた鱗だ。どの鱗よりしつこいに違いない。鱗は育つって言っただろ」
その通り。時間が経っても剥がれない鱗を正直持て余していたので、素直に診させることにした。が。
「痛い。お前麻酔打ったか?」
「打つ訳ねえだろ。俺の恨み思い知れ」
「馬鹿言うなよ。いつお前の恨み買ったっていうのさ。あんなに便宜を図ってやったのに」
「残念だ。二枚麻酔なしで鱗を切除することになった」
「もういい。もういい。やめろ。これは傷害罪に当たる」
「うるせえなあ。黙っとけよ」
それだけ言って、BJは本格的にメスを入れた。冗談じゃねえ。うつ伏せに馬乗りされて、背中に刃物だ。動けるはずがない。メスが鱗の芯を抉るのを脂汗かいて堪えた。実際にやられて分かったが、芯の固い中心部の下は木の根の如く皮下組織に食い込んでいたのだ。これを律儀なあいつは全部取っていく。情けないことに、あまりの痛みで意識が飛ぶかと思った。これをあの〈四枚〉って娘は耐えたのか。
最新の人工皮膚を貼るとかなんとか言って、あいつはテキパキと処置を終え、また暴風のように去っていった。本当に鱗にしか興味がなかったんだな。


その後も経過観察にBJが訪れ、診察と処置だけして帰って行く。


「これで最後だな」
俺の体の鱗を剥がした跡が、すっかり新しい皮膚に覆われているのを見て、BJはいきなりポケットを漁り小さな箱を取り出した。タバコだ。待ちかねたように包装のセロハンを取り、蓋を開け、愛おしそうにタバコを一本摘む。神聖な儀式のように火をつけると、深く煙を肺に入れ、目を瞑って動かない。
無言で一本吸い終わるとクソ真面目に言い放った。
「俺、禁煙無理だ」
いきなり何を言うかと思えば。
「禁煙しようとしてたのか」
「なんとなくな。鱗のアフターケアに飛び回ってたら、患者に女子どもが多くてタバコを吸うのをやめてたんだ。特に子どもはにおいに敏感だから。耕太なんかにおいで俺が診察前に食ってきた昼飯当てるんだぞ。最近は耕太の母ちゃんまで一緒になってくるから参るぜ」
リビングのソファにもたれて、二本目のタバコを存分に味わっている。
「アフターケアね。珍しい」
ふうと大きく煙を吐き出して、BJはテーブルの上にUSBを置いた。
「珍しいついでに今回の症例について、きちんと資料を作ってみた。これを警察に提出すれば、教団を追い詰める効果はあると思うぜ。〈六枚〉の実家も動くそうだし。あいつ本当に最後まで便利な男だったなあ。まだ名乗りたくないみたいだから、任せておくけど」
なんだろうな。〈六枚〉の話になるとモヤっとするのは。
ちょっと眉をしかめた俺などお構いなしに、ヤニをキメたBJは饒舌に語る。
「それにしても久しぶりのヤニは実に効く。〈四枚〉が診察する俺の前でタバコ吸いだしたから、思わず革靴でシバいちまって、すっげえケンカになったんだけど『禁煙がキツイ』って話したらチュッパチャプス一ダースくれた。パチ屋で勝ったんだってよ。それで〈四枚〉と話して分かったんだけどさ、俺らに禁煙は無理。〈四枚〉は三年以上禁煙してたんだから、卒煙すりゃいいのに戻ってる。これはもう、仕方ない」
あれ、そうすっとアイツ中学生からタバコ吸ってる計算になるなとか言いながら二本目を吸い終えて、彼は満足そうに襟を緩め足を投げ出した。
「コート、脱いだら」
「ああ、そうしようか。ひとまずやることはやったし、しばらくラクにしたい」
ばさばさと重苦しい装備を解き、BJはそのままソファに寝転がる。ああ、憎たらしい。そんな俺に気づいた彼は大きく腕を広げる。白い歯を見せて笑うなよ。余計に腹が立つだろ。
「やっとお前さんを構ってやれるぜ。どうした?来ないのか?」
このまま彼の腕の中に収まるのは非常に不本意だ。
しかし長らくほったらかしにされた体が、抵抗する選択のキャンセルボタンを押し続けてる。俺の意地と欲求は、結局争うのを辞めて、そのままBJのつぎはぎにかぶりついた。

雨だれの音が弱まって、光がほんのりとさしてくる。
やがて朧に大きな虹がかかる。
物理的に説明ができる気象だが、どうしてかいつも不思議に見える。
近付けど距離は縮まず、根元を探そうにも見つからない。空虚な存在そのもの。なのに虹を見つければ、人は自然と心が浮き立つ。ラッキーとか、きれいだななんて和んだり。
虹に向かって空に手を伸ばした幼い日を思い出す。きっと虹を掴みたかった人間はたくさんいる。虹の向こうに何かがあるはずと、希望を抱いた人間も。
力尽くで握った虹が本物なんかじゃないことに、きっと誰もが気付いていただろうに。
ぼんやりしていた俺に気が付いたのだろうか。隣で眠っていた白黒が身じろぎする。
ブルー・バードの羽とは程遠いツギハギの腕を伸ばすので、そのまま引っ張られてやる。
冷たい雨と一緒に寒波が押し寄せてるみたいだけど、こいつの肌に触れていると熱くてたまらない。冬眠するなんて選択肢はないな。
あの事件以来どこか自分に貼りついている気がしていた鱗の感覚が、今度こそ剥がれていくのを感じる。
俺もアフターケアの一部に入っていたのかな。だとすれば実に生意気な発想だ。まあ、まともに聞いても答えないのはわかってるから、こっちで勝手にやるけどね。
彼の熱い掌が背に回る。きっとこれから爪を立てるに違いない。そのくらいの痛みならレモン・ドロップのように溶けてなくなるさ。何の問題もないと、絡めた指を一層強く握る。
やわらかい日差しが窓から満ちる。一瞬の晴れ間。
カーテンのない窓から、ゆっくりと淡い虹が彼方へと消えていった。