※2021/12/10改訂
夜が明けるとキリコを連れた大師様御一行は本山へと出立した。出迎えの時とは違い、誰も言葉を発さぬ静寂の中、神輿は社を離れていく。
白い几帳が揺れるのを眺めていると、昨晩のやりとりが脳内に蘇ってきた。キリコは俺に逃げろと言った。その意味は分かるが、あいつまだ俺の性格分かってねえなと舌打ちひとつ。何にせよ、もうその忠告は消費期限切れだ。
山の木立にその姿が見えなくなるや否や、後藤が日本刀を抜いている。
見送りに出ていた法被どもは示し合わせたように姿を消し、俺と後藤と数人の男を残すだけとなっていた。後藤はこめかみに太い血管を浮かび上がらせて俺を睨み、重々しく口を開く。
「もう用済みだ。これまでどれだけお前に苦渋を味わったことか。次の歌垣を待つまでもない。『高いところ』に連れていく」
後藤の合図とともに、たちまち法被の男達に着流しを剥がれ、俺はここに来た時と同じ格好をさせられた。要はスーツもコートも鞄も元通りってことなんだが、後藤的には意趣返しらしい。よくわからん。教団の持ち物ひとつ、お前にくれてやるなどもったいないってことかな。
社の境内の奥に、やっと人ひとり通れるくらいの獣道が山の中へと伸びている。そこを黙って進めと後藤は言う。背中に刀を突きつけられながら山道を歩くこと一時間。ごうごうと空気が震える音が近づくにつれ、だんだんと足元は悪くなり、生い茂る木々の陰からはいくつかの小さな滝が見えた。
のんびりと周りの景色を見ていると、背後から後藤の大きな舌打ちが聞こえた。更に機嫌を悪くしたようだ。いけねえ。ここは怖がる演技でもしておくところだったか。背中の視線と日本刀の気配に俺が何も感じていなかったの、ばれたな。
轟き落ちる鋭い流れ。
垂直に吸い込まれていく水の塊が、いくつも広がり割れていく。こいつは生半可な滝じゃねえ。毎秒何トン流れてるんだろう。水量も豊富、高さも申し分ない。寂れた温泉街には垂涎物の観光スポットになりそうなものを。
白い瀑布を眺める俺に後藤はさらに上へ登れと指図する。バカ言うな。目の前には岩の壁しかないぞと文句が出そうな口を慌てて噤んだ。切り立った崖の一部に、刻み付けられた階段のようなものを見つけたからだ。そこを登れば滝の上に出るのだろうか。ここで後藤に切られるわけにはいかないのだ。そろそろと注意深く心許ない階段もどきを登った。
やがて俺たちは後藤が目的地とする場所へ到着した。滝の頂上を目指すには厳しいものがあったのか、教団の連中は崖に小さなステップのような場所を削り出し、そこから不要になった物や残骸を遺棄しているようだ。見下ろすと高さは…どのくらいかな。滝壺に水しぶきが立ち込めて、見当が付かなかった。そしてここにも虹がかかる。細かな水の粒子に映る小さな虹。やっぱり本物はきれいだ。
「鞄を体に括りつけろ。重い鞄はお前を沈める良い錘だ」
ロープをわたされたので、言われるとおりにする。後藤は俺に滝を背にして立つように指示して、日本刀を上段に構えた。最後にストレス解消で俺をぶった切ろうってか。そこまで追い込んでいたって知らなかった。無表情の後藤の一閃。
「グワーッ!」
切られる瞬間後ろに飛びのいて、そのまま滝に飲まれる。悲鳴を上げてやったのは俺なりの後藤へのサービスだ。世話をかけた自覚はある。もう二度と会いたくないが、そうはいかんだろうな。
何トンもの水と一緒に落ちていく。
ああ、落ちていくとも。俺が目指すのは落ちた先!
地元民が言うように、滝壺から二度と上がってこられないかどうかなんて、確かめてみない事にはわからんだろうがよ!
激しい音と衝撃で滝壺に到達したのを感じた。
鞄から着水するように体勢を変えたが、衝撃の強さに息が止まる。
肺の空気を逃さないよう意識して身体を弛緩させ、続く上からの重い水の流れを利用して、そのまま滝壺の底へ底へと潜っていく。頭上には渦巻く水の圧力。鞄のおかげで早く潜れる。
俺の仮説が正しければ、必ずあるはずなんだ。どこにある。息が切れかけてきたころ、一筋の光が見えた。
「……っぷ、はあっ!」
やっぱりあった。
地底洞窟。
はまると抜けられないって状況は、中でぐるぐる回り続けるのか、どこか別の出口があるのか、どちらかだろうと見当をつけた。実際に滝壺に落ちてみて、別の出口がある予感がした。何故かって?勘だ。俺の勘は当たるんだ。
顔を出した水面から上を見れば亀裂が一筋。ここから光が差している。この光が目印になったおかげで助かった。意外と地表から遠くないところにできた洞窟なのかもしれない。そのまま泳いでいくと、次第に天井が高くなってきた。よしよし。いや、良くない。すさまじい腐敗臭だ。左右を見れば岩壁に襤褸切れのようなものがくっついている。滝壺に飲まれて、自然とこの洞窟にたどりついた物だろうか。きっとそれは社で見た物の残骸かもしれない。
洞窟の天井にはぽつぽつと隙間が空いている。そこから漏れる光を頼りに、俺は先へ先へと泳ぐのだった。
真っ暗な水の中をどれくらいの間進んだだろう。手足が疲労で感覚を失いつつあったころ、やっと洞窟の岸辺にたどりついた。ああ、しんど。命より大事な医療鞄だが、実際自分の命が奪われるかと思うくらい重かった。あの時ロープを渡してくれた後藤に感謝。ロープがなかったら絶対鞄捨ててた。
さて、岸に上がってみても洞窟の中だから漆黒の闇…と言いたいが、やはり天井から光が漏れている。うす暗い中で鞄の中をチェック。ジップロックに入れてあるから、包帯もガーゼも無事だ。常々菓子をくすねていた甲斐あって、社の台所から食品保存用のジップロックもちょろまかしていたのだ。他の医療器具も無事。よしよし。
アオキで二着三万のスーツは雑巾絞りも可能。愛用のコートも同じく。じゃっと水けを切って、身軽になる。木の枝と、包帯、消毒用アルコールで簡易松明完成。ジップロックの中からライターを取り出して簡易松明に着火する。青白い炎が上がり、やがてオレンジに安定するのを確認して、明かりを頼りに洞窟の奥へ進むことにした。進むしかないだろうよ。松明の炎は奥から来る風にゆらいでいる。
そら、洞窟の中のにおいが変わってきた。湿った土のにおい。
立ち止まってぐるりと見回す。
岩にわずかな苔が生えている。ふさふさで緑のあれじゃなくて、もっとべたっとした黒っぽいの。ぐじゅっとした水たまりもある。水と言うか、ほとんど泥だな。上を見れば天井は高く、小さな穴から光が漏れるだけ。うーん、だんだん生きて出られる気、しなくなってきた。うーん。だが進む。
あれ、なんだこれ。洞窟の壁に、ひっかき傷?
松明で照らせば、はっきり見えた。同じ長さのひっかき傷がいくつも並んでる。法則性がある。七つで一周期。一週間をカウントしてる。
生きた人間がここにいたんだ。きっと俺と同じように滝から落とされて、ここまでたどり着いたんだ。尚も壁を観察する。たくさん書かれたひっかき傷はだんだん法則性を失っていく。規則正しかった傷は、最後の方は歪んで間隔も長さもバラバラ。書くのを辞めたのかもしれない。もう少し進んでみよう。
しばらく変わった様子がなかった岩壁に突然変化が起きた。文字が書かれている!
「おかあさん」と岩壁に石で何度も擦り付けて書かれている。他にも「おとうさん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「やおやさん」「でんきやさん」…自分の住む家の近所の人々だったのだろうか。きっと書いた人物は、まだ幼い子どもだ。
奥歯をかみしめながら松明を掲げると、暗がりから見えたひっかき傷。
そこに書かれていた名前は。
「こばやしくん」
神社に植わった大樹の陰、黒い大型トラックが社の横に停まっている。トラックの中からは米袋サイズのパッケージがいくつも運び出され、社の倉庫へ入っていく。
倉庫の奥には所狭しとタンクが置かれている。そこへ雇われた何も知らない男たちが、黙々とパッケージを開けて中身の粉末を注ぐ。タンクの後ろにトロッコのレールが敷かれているのに誰も気付かない。
「後藤、今日はかなり機嫌がいいな」
「分かりますか」
さらさらと達筆で後藤は受領のサインを書く。
その様子を見て、腕に入れ墨がある男はうっそりと笑う。
「あのさ、話変わるんだけど、今A国とC国が主権問題でやりあってるだろ。海上で空母が睨み合ってバチバチやってるってさ。そのアオリ受けて輸入量が減ってんだよ。参っちまうよな。俺らには全然関係ねえってのに!…だからさあ、今月の鉄粉、手に入れるの苦労したのよ。ちょっとばかしそちらの気持ちってのを見せてくれねえと、なあ」
「いいでしょう」
機嫌のいい後藤は気前もいい。
やっと、やっと躾のなっていない野良猫を切り捨てられた。刃に血がついていなかったのは気にかかるが、滝に落ちたのは間違いがないのだ。
これで〈十〉のお方も、もっと素晴らしい高みへ昇られることだろう。後藤は本山に向かって静かに合掌するのだった。
彼は私の一番の友達だった。
からかうと口をきいてくれなくなったこともあったけれど。
それでも彼は笑って許してくれた。
初めてできた友達だった。
だから私は君に会いに行くよ。
何があっても。
どんなことをしても。
湯治場には今日も湯気が上がる。
すり鉢状になったペールトーンの斜面、温泉の成分を表面に受けた白黄色の岩がいくつも転がる。
木も草も生えない大地には、木製の案内板が立つのみだ。それすら温泉の蒸気に当てられて、すっかり脱色している。さながら枯れ木のよう。
生命の気配を感じられるものはほぼない。だからこそ、ただ岩場のそこかしこから噴き出す蒸気が、地下に滾るエネルギーの鼓動を強く感じさせている。
湯治場に点在するバラックの周辺に、硫黄の臭いがする蒸気が噴き出す。その噴出孔には赤褐色の鉱物が堆積している。赤褐色の下に緑、その下に白、黄色。さながら虹色のように縞となり、鉱物の結晶で様々な色の層を成している。同じような縞模様の鉱物の塔が、湯治場にいくつも生えていた。
本来ならば、あり得ない。
ひとつの温泉の成分が短期間で異なることは。
鉱物の塔の色は、その異常を示している。だけど誰も奇妙な事とは思っていない。なぜなら、ここは名湯。病が癒える湯治場と、皆がそう言うからだ。奇跡を生む場所ならば、変わったものがあってもおかしくない。
この湯治場で養生して実際に良くなった人間は確かにいる。しかし、いつかはと信じながら長期間滞在し続ける人もいる。使用料が嵩むにもかかわらずだ。
金銭の話をすると、この湯治場は月ごとに使用料を払う契約になっている。特に初めの契約ではかなりの金額を取られる。その期間の間に湯治場から出られるなら問題はない。しかし、もう少ししたら治るに違いない、もう少しと、追い詰められた人間は一縷の望みにすがり続けてしまうものだ。実際金銭の余裕が病状の進行と改善に影響を及ぼすのは今も昔も変わらない。
金が払えなくなって強制的にバラックを追い出されてしまうまで、それでもなお湯治場に滞在する人々。
彼らは思うのだ。きっといつか病は癒えるはず。だってここは皆が称える名湯。古くから続く名高い湯治場。信じていれば、いつか病を治してくれるに違いない。
湯治客は純粋な希望を心に抱いて、今日も湯に浸かる。
そんな湯治場に再びその男はやって来た。
すり鉢状になった谷を、本田はじっと見つめる。
そっと手を当てたシャツの下には、オメガの腕時計が針を震わせていた。
同じころ、総本山の奥の院。
青い藺草と白檀の香が品よく漂う座敷の四方。御簾の上から白い帳が張られ、外部からの視線を遮っている。
座したキリコは帳の中で大師が来るのを待っていた。彼が纏う羽織には、五色の糸で逆さになった青海波文様が刺繡され、さながら鱗のよう。
まもなく帳の向こうから、悠然と衣擦れの音が近づく。キリコは作法の通りに頭を下げた。やがて彼の前を錦の打掛が通り過ぎ、その後ろに白い足袋が一人続く。
「頭を上げよ」
ゆっくりと正面を向くと、白い布の冠を被った大師が立っている。
「南雲」
重々しく名前を呼べば、喉を潰された女がその冠を外す。打掛を肩から下ろし、白い単衣も女によって解かれていく。
キリコはただ真っ直ぐにその様子を見ていた。
にわかに帳の中が虹色に輝く。
全てを脱ぎ去った大師が、光の中にその体を晒している。
鱗だ。虹色の鱗が隙間なく彼女の体を覆う。
喉と顔がかろうじて人間の皮膚を保っているが、指先からつま先まで、見事なまでに完成された鱗が生えていた。
南雲の手を借りて、ゆっくりと大師は黒檀の椅子に座る。
「南雲はうまくやってくれる。前任はちと気が利かぬ女であった。私は人の手を借りねば動くこともままならぬ。手足の節まで鱗が生えておるからの。それでも時が来れば麓の社まで通い、あの湯に浸からねば鱗が割れてしまう。そなたも知っておろうが、ここに沸く湯と麓の湯は異なる故な。難儀なものじゃ」
キリコは黙ってうなずいた。
そう、知っていた。その上でBJの温泉成分の調査に付き合った。意地が悪いと言われればそうだろうが、真相に近付いていく彼を見ていたかったのだ。なにより謎を解こうとじたばた動く彼の姿が、どうしようもなくまぶしかったから。
「そなたに会わせたいお方のもとへ行くには今しばらく時間がかかる。何、儀式だ何だと付き合ってもらうだけじゃ。形式は大事ゆえな」
かなり砕けた大師の言葉にキリコは少しだけ頬を緩める。
「分かっておるな。私がそなたに姿を見せた理由を。途中で逃げることなどできぬぞ」
高く結い上げた透きとおる銀の髪をひとつも動かさず、大師はキリコの眼を射た。
キリコは心得たと深く頭を下げる。ここでは発言が許可されない。
再び南雲に着替えをさせ、大師と呼ばれる女は出ていく。
依頼された仕事が達成されるまで、あと少しだ。
ちくしょう!
やっと山に登ったかと思ったら、すぐに麓まで取って返す羽目になるたあ思わなかったぜ。キリコのツラを殴ってやりたかったが、優先順位が違う。妙な信仰持ってる奴も、教団で踊り狂ってる奴も、どうでもいい。変に団結してる町の連中も、ヤクザもどうでもいい。
温泉の効能がどうとか、成分がどうとかも関係ない。それが鱗とどう関わっているか突き止めることに意味があると思い込んでいた。
違う!
俺ができるのは切ることだけだ。
もう十分因果関係はわかっている。病の元、それを根こそぎ切り取ってやる。
「くっそ!革靴は山歩きに向かねえな!」
つま先と踵に脱脂綿と包帯を詰め込んで、適当な靴擦れ防止策をとったが、草の生えた山の斜面をずるずるすべる。踏ん張りがきかねえ。小枝がバチバチと顔に当たっても目にさえ入らなけりゃ構わん。転がるように斜面を駆け下りる。
「見えた!」
屋根にでかでかと教団のマークが描かれた小屋。
そこを目がけて飛び降りる。
ガツンと大きな音を立てて屋根に降り立つと、小屋から弾かれたように法被の連中が飛び出てくる。口を開く間すら与えず一人目は屋根からドロップキックで倒す。二人目は鞄を振り回して頭蓋にヒット。逃げ出そうとする三人目をチョークスリーパーで落とす。
「伝統的なプロレス技が一番効くな」
三人まとめて木に括り付け、俺は目的の小屋に入る。
小屋の中には巨大なボイラーが唸っていた。ブンブン喧しくて耳栓が欲しい。汗が噴き出すくらいすごい熱気を出すボイラーの横にはトロッコのレールがある。きっと麓の教団施設と繋がっているのだろう。俺がここにいられる時間も限られる。手早くいかなくては。
振り返ってみると何かの粉が入ったタンクがぞろりと並ぶ。タンクの中身はやっぱり。
硫黄、鉄、塩、石灰。俺が分かるのはこのくらいだが、他にも様々な種類の材料がそろってる。さらに奥へ進むとナンバーと圧力計の付いた大きな金属のタンクが並んでる。そこから小屋の外へ延びる太いパイプ。
小屋の窓からパイプの行方を見れば、一旦全てのパイプの中身が大きなプールに溜められて、もうもうと湯気を上げている。源泉の湯を冷ますのと同じだ。いや、この場合はプールでそれぞれのタンクの中身を馴染ませるのだろう。
プールの先にはまたパイプ。そのまた先には、賀名代温泉の湯治場だ。
「ミックスジュースの温泉とは恐れ入る」
踵を返してタンクを睨む。これが病原だ。
様々な金属が化学反応を起こした湯が詰まっているタンク。それらが教団の意図によって配合され、賀名代温泉に流されている。温泉そのものが病に侵されているのだ。
ならば俺が成すことはひとつ。
タンクのバルブを片っ端から閉めていく。そのうち圧力でどうにかなっちまうだろうから、その前にここから逃げられればいい。バルブを片付けて、ボイラー室に戻る。
後藤がいた。
「…連絡を受けて来てみれば。野良猫が」
先発としてトロッコで来たのだろう。手には愛用の日本刀。心底俺が憎いってツラしてる。いつもの涼しい顔はどうした。
「こんなイカレた装置はぶっ壊すに限るぜ」
「お前にはわからん。神の教えなど」
「そうそう。そこなんだよ。どうして温泉と神とやらがくっついてるんだ。もしかして、お前が言ってる神ってヤクザの方?」
「愚か者があっ!」
切りかかる刃をすり抜ければ、ガキンとパイプに打ち付ける。狭い室内で長物を振り回すのは不利だ。しかし後藤は怯まない。
「この湯に浸かれば虹蛇が生まれる。虹蛇が育てば、大師様のように神に近付くのだ。大師様が神に昇天なされば、次の大師様を虹蛇から選び我らが慈しみ育む。虹の呑尾蛇の如く円環を創造する事こそ、教義の極みよ。故にこの神聖なる湯を科学の力を以ってお創りいたすのだ。我々は神の手足!神とは、不死にて不老、全てを癒し、導くお方!」
「ケッ、カルトのくせによく言うぜ。お前もカガイで踊り狂うクチか」
後藤が鬼の形相に変わる。本性出したな。いいぞ、もっと喚け。
「歌垣も神事である!神をも恐れぬ不届き者め。〈四枚〉を逃がしたくらいで調子づきおって」
そうか。〈四枚〉逃げられたんだな。
「神のお力で我らは生きる。奇跡の印、虹の鱗が何よりの証拠。いつか我らにも安寧の時が訪れるのだ。カガシロ様のお力が世に満ちたとき…」
「うっせえな。講釈垂れんな。眠くならあ」
後藤に向かって次々バケツを蹴っ飛ばす。
「…医者風情が生意気だ。お前たちが治せないものを頼って湯治場に人は集まるのだぞ。神の奇跡によって病が癒えれば、心に信仰の光が灯るのは必定。医者など役立たずは、この神のおわす地に不要!」
「そうかい!」
後藤の一閃を鞄で受ける。
「間違いなく医者でも治せない病気はある。治せなかったときには、何のために医者はいるんだと叫んで来たよ。だがな、その課題に太古から俺達医者は挑み続けてきた」
後ろの部屋でタンクが悲鳴をあげている。時間がない。
「皮肉なことに病と信仰は密接な関係にあるが、今この場所で起きている病はお前たちが作り出したものだろうがよ。神がどうとか関係ない。存在するのは身勝手なてめえらの欲望だけだ。無関係な人間に鱗を生やし、その人生を踏みにじる。ヤクザ者と繋がって、金を湯治場と温泉街から搾り取る。この構図のどこに神の思し召しがあるッてんだ!言ってみろ、後藤!」
パイプから吹き出した熱湯が迫る。ボイラーから金属の割れる音が響く。
「俺は病巣を根絶する」
ぶわっと熱風が巻きあがった。
一番端のタンクから順番に弾けていく。炸裂音、熱と、蒸気と、刺激臭。
それらを全て吹き飛ばし、ボイラーは圧力を抑えきれずに断末魔の悲鳴を上げた。
激しい勢いで迫る蒸気を引き剥がすように、俺は小屋の出口へ一目散。
ボイラーが弾ける轟音から耳を守る。激しく吹き出す高温の蒸気を鞄で受け止める。吹っ飛ばされた後の着地点を探す。ああもう、やること多すぎだ!!
小屋から飛び出した俺は草の上にしたたかに体を打ち付けた。半分受け身は取れたが、足場が悪くて転んだのだ。痛む体を起こして見れば、ミックスジュース温泉の製造場所だった小屋は、壁の一部が飛ばされ、外にはみ出たタンクから煮えた液体が流れ出している。水の元栓は閉めたから、タンクにあった分が出尽くせば止まるだろう。
蒸気が立ち込める中、地面に転がる後藤の姿があった。近付くと、まだ息をしているのがわかった。左半身が濡れている。おそらく火傷を負っていることだろう。鞄から鋏を取り出して、後藤の服を切っていく。
「…私に、さわるな…」
息も絶え絶えなくせに強がるな。火傷の治療をする。
「お前さんも、死ぬってなったときに、心に浮かんだ人がいるだろうよ。その人に、もう一度会いたいとは思わねえのかい」
後藤は空を見上げて、掠れた声で誰かの名前を呼んだ。
「南雲さん…」
誰だか俺は知らない。好いた女なのか、家族なのか。
さあ、次だ。病のもとは絶ったが、まだ現在進行形だ。湯治場へ向かって俺は再び走り出した。