虹の彼方に(七)

キリジャバナー2

※2021/12/11改訂

むかしむかし、とは言ってもそんなに大昔ではない、むかし

白いへびのかみさまを おまつりしている人たちがいました

みんながいっしょうけんめい おいのりをして おきてをきちんと守るので

白いへびのかみさまは ごほうびに 白い毛皮をくれました

みんなはたいそうよろこび 白い毛皮をたいせつにしていたのですが

どんどん汚れて さいごは黒くなってしまいました

これではいけないと 大師さまをはじめとする人々が

山でとってきた とくべつな薬草を

海であつめた きれいな泡を

土からほりだした 宝石を

ぜんぶあつめて釜にいれ かみさまの湯を つくりました

そこに白い毛皮を入れると なんと にじいろにかがやきだしたのです

毛皮はにじいろのへびのうろこに おおわれて ひかっていました

白いへびのかみさまは おどろいて 自分も湯に入ります

すると かみさまも にじいろのうろこに かわったではありませんか

へびのかみさまは とてもよろこんで みんなにしゅくふくをくれました

みんなが けんこうで たのしく おなかをすかせず 生きていけるように

これからもおきてをまもり ただしく すこやかに おいのりしましょうね

(ある教団の児童向け教本より)

突如BJの背後で爆風が起きる。その勢いのままに転がると、顔を真っ赤にして見下ろす本田と目が合った。

「ここはッ!私が準備した舞台ですッ!」

「そうか。じゃあ、邪魔をしないように俺のしたいことをしていいかい」

「何です、それはッ!」

「お前さん、教団の本当の姿を知っていると言ったな。俺も多少は知っている。だからここに鱗が生えた人間がいると判断した。あれは疾病だ。治すことができる!俺はそんな人々を治療しに来た」

再び起こる爆発。吹き飛ばされたBJは岩にぶつかり、崩れ落ちた。観客からは悲鳴が上がる。爆発音の衝撃が引かぬうち、短躯な身体に燃え立つ憤怒を激らせながらぶんぶんと体ごと首を振り、本田はヒステリックに叫んだ。

「そんなものはどうでもいいんだ!私は友達を救いたい。あなたの事情は知らない!わかるもんか、たったひとりの友達を失う気持ちなど。なんだそんなもんかって、あなたも思うんだろう!」

「いいや。思わないよ」

袖のちぎれたコートを引きずってBJは立ち上がる。

彼の顔の半分を覆う、色が異なる皮膚をさわると、本田に向かって駆け出す。虚を突かれて爆薬をセットする間もなかった本田の立つ岩に飛び乗って、彼の眼前にその褐色の皮膚を指さした。

「ここは俺の友達の皮膚だ。大事な友達の皮膚だよ」

「…友達の」

本田は目を見張る。大きな縫合痕を境にして色が違う。確かにそこから他人の皮膚だと言われても信じざるを得ない。

「そう。俺もその友達に会いたくて、世界中探したよ。だけど結局会えなかった。手紙はもらえたけどね。だから、きっとお前さんの気持ちに近いものを俺も知ってるよ。正直、俺の友達は死んだと思う。この皮膚だけが、彼と過ごした日々の証さ。これがあれば、俺は友達の事を忘れない」

オメガの腕時計の針が震えながら進んでいくのを本田は見ているだろうか。

「お前さんの言った通り、ここはあんたの舞台だったな。邪魔して悪かった。最後まで好きにやるべきだ。ただ病人を治療する時間は俺にくれ。俺もここに来るまでに、いろいろと準備があったもんでな、無駄にはしたくないんだ」

BJの言葉は今の本田の耳には届いてはいない。本田は思考の中に沈んでいる。皮膚が友達の証だなんて、そんなことあるのだろうか。私たちにはそんな証はあっただろうか。思えば一度も考えたこともなかった。本田の胸の内に友と過ごした記憶の欠片が色を纏って蘇る。

「あ…」

やっと本田は腕に着けた時計を見た。

その直前、噴気孔から水蒸気が途絶えた。湯治場の変化に気付くものなどいない。山の小屋から先程まで供給されていた湯が止まったのだ。もともとの湯量はあったとは言え、急激な水量の低下によって地下の湯の流れが弱まる。地下に溜まった湯は地熱で温められ、有毒なガスを発生させつつあった。

パチン

管をひとつ切る。

パチン

「世が世なら…人はお前を〈神殺し〉と呼ぶかもしれんの」

パチン

「ご勘弁を。この件で沢山のあだ名をつけられましたが、一番堪えますね」

「ふふふ、〈七枚〉〈八枚〉〈十〉の方、白の君…」

「ああ、その白のという奴も御免です。社の連中のセンスは良くありませんね」

「仕方あるまい。あの中だけが世界なのだから」

パチン

「そのお体で、よくこれだけの点滴を交換できましたね」

カガシロ様と呼ばれる男の体には無数の点滴の管が付けられていた。どれもこれも彼の延命のために施されたものだ。入るものがあれば出る物もある。人工肛門から出た暗緑色をした液がパックに溜まっていた。これも彼女が交換するのだろう。

喉を診れば酸素を送り込むチューブが刺さっている。そのチューブにさえ虹色の鱗が付着して、岩の一部と化していた。この男は余程鱗が生える体の条件を強く持っていたに違いない。

「カガシロ様は教団のご神体である故、次代の神となる私しか触れられぬ。勤めは果たすものよ。それに、お世話をしておると思い出すのだ。まだカガシロ様がお話ができたころの事を…おもしろい話をたくさんしてくれた。研究が何とかと言うのは私には難しすぎたが、小枝チョコレートを新商品と言い張るのには参ったなあ」

パチン

「お話ができぬようになり、カガシロ様の鱗は一層増えた。教団の者は鱗しか見ておらぬ」

後部のバッテリーを抜く。

「カガシロ様の最後のお言葉が忘れられぬ」

「…処置を終了しました。見届けてくださいますか」

虹色の結晶に閉じ込められた男の顔は、相変わらず眠っているかのよう。いつからそのままだったのだろう。床には流れるままになった点滴の跡が無数に伸びている。

大師と呼ばれる女は、重い体を引きずって男の顔にそっと触れた。結晶化した鱗に阻まれて直にはさわれない。しかし、彼女はやさしく撫で続ける。

「ご苦労様でございました……」

彼女には流す涙がない。涙がもう、出ないのだ。

「貴女はどうなさいます」

二人の銀の髪が向かい合う。片方は不自然なほど鮮やかな虹色に染まった銀。もう一方は底の見えない盲目の黒を隠す銀。虹色の銀は黒の銀に問う。

「あの火花の男は私が生きられると思っていたようじゃ。そなたはどう思う」

黒の銀は暫し押し黙り、はっきりと口にした。

「助かる見込みは、ありませんね」

それを聞くと虹の銀は、固く縛った糸がほどけるように、ふうわりとした笑みを浮かべた。

「では、私からの依頼を受けてくれるな。謝礼は…」

黒の銀は人差し指を口元に立てた。

「先程、私はカガシロ様のお姿を見て取り乱し、みっともない様を晒してしまいました。今回はそれを忘れていただく…ということで、手打ちにはできませんでしょうか」

しばし後、あっははは、軽快な笑い声が暗い洞窟に散っていく。

「もうあの世へ行くモノに手打ちも何もなかろうが。よいよい。そなたがよいなら、それでよい」

虹色の銀の笑顔は無邪気な子どものように見えた。黒の銀はそれを見て眉ひとつ動かさず、ジュラルミンのケースの中からいくつかの薬瓶を取り出し、手慣れた様子でシリンジを構える。

「貴女の体は半分鉱物です。薬がどのように効くのかわかりません。何度か薬を変えるかもしれませんが良いですか」

「よいよい」

虹色の鱗の隙間に注射針が刺さっていく。

「あの方はな、いつも私に自慢するのよ。大事な友達がいると。たった一人の友達だと。私にも友達くらいおると言い返しておった」

遠くを見つめるように暗闇に視線を送る女は、やはりおかしそうに笑っている。

二本目の注射。

脈拍が弱くなっていく。

女の唇が幼い日の輝きを零す。

「会えるかな…小林君……」

もう動くことはない二つの虹色の塊を、黒の銀は暫し見守り、やがて仕事道具の片付けを始めた。

「BJ!鱗の生えた人、みんな一番大きいバラックに集めたよ!」

耕太はBJからバラックにいる湯治客の中で、鱗が生えている者を集める役目を任されていた。湯治場を駆け回るうちに、バラックにつけられた白い紙が鱗が生えた人間のいる目印だと気がつくのに時間は要さなかった。皮肉にも教団がつけた印によって、予想よりもうんと早く行動ができたのはある意味幸運だったと言える。

役目を果たし、バラックの戸を開けて叫ぶ耕太の視線の先に、湯治場の隅を動く人影があった。

長い黒髪を振り乱して、行く手を遮る黄色い岩を登っている。教団の白い着物は乱れ、何度も転んだと思しき袴には血が滲んでいる。

耕太の全身が震える。ぶわりとこみ上げる涙をこらえ、代わりに自分が出せる精一杯の声を張り上げた。

「お母さん!」

耳に届いた声を頼りに、息子の姿を四方に探す南雲の強い意志を持った眼差し。

「お母さん!」

叫び続ける耕太を見つけて、南雲は手を伸ばした。声にならない口の動きが、息子の名前を形にする。足場の悪い斜面を倒れ込むように進み、まだ熱い噴気孔を避けながら、じりじりと耕太がいるバラックへ近付いてくる。しかし崩れた岩に阻まれ、南雲は斜面から滑り落ちてしまう。

〈六枚〉の静止を振り切り、バラックから耕太は飛び出した。

「お母さん!お母さん!お母さん‼」

岩を飛び越え、小石を弾き、少年は会いたくて会いたくてたまらなかった母親のもとへ駆ける。

渾身の力を込めて南雲は削れる指先で岩を掴み、斜面を滑り落ちる体を止めた。砂煙の中に息子の姿を見つけ、赤い指先の手を伸ばす。もう少しで届く。もう少し。

「川崎君…」

項垂れた本田の手から、するりと爆薬が落ちた。かつん、かつんと音を立てて岩の下へ落ちていく。目視できたのはそこまでだった。

青白い炎が火柱となってはじけ飛ぶ。

噴気孔から一斉に吹き出す紫の火花。

桃色の薄い炎の幕が湯治場の斜面をせりあがった。

大音響が空気を引き裂き、荒れ狂う熱風に誰もが絶叫した。

爆薬の火が、溜まったガスに引火したのだ。

「逃げろ!」

「熱い!熱いいっ!」

「中の人は、どうなったの!?」

粉塵を噴き上げ空に突き立つ煙の柱。

黒い煙と白い蒸気につつまれて、湯治場の様子は伺えない。見守る人々は、ただ惨状を想像するだけ。誰一人動けず、固唾を飲んで煙の中を見つめていた。

折しも強い風が煙を払う。

視界に現れた景色を見た人々に緊張が走る。

湯治場の真ん中は真っ黒に焼け焦げて、そこにいたはずの人影はない。真っ二つに割れた岩が爆発の凄まじさを語っている。

いくつか吹き飛んでしまっているバラックは、壁の残骸が散らばり、屋根は潰れて、元の形を留めていない。中には炎上しているものもある。湯治場の所々から、燃える木の看板が細い煙を幾筋も上げていた。

爆発の振動が収まり、黒い煙が薄れた途端、悲鳴と共にバラックから大勢の湯治客が逃げ出す。

皆我先に外へ逃げようと斜面を登る。

動けるものはいい。しかし火傷を負った者、怪我を負った者が残されている。

皆が大混乱に陥る中、真っ先に動き出したのは義侠の心が沸きたったヤクザ達である。

「救急車呼べ!消防車もだ!」

「穴沢さんに連絡しろ!生きてる奴を探せエ!」

「こっちに逃げて来い!そっちの道より安全だ!」

「ザッケンナコラー!そっち行くな、まだ燃えてる!」

威勢よく次々に焼け焦げた湯治場へ飛び込んでいく。

戸惑う商業組合長にヤクザ者がにやりと笑う。

「ここは大事な金蔓だ。無くなっちゃ困る」

「そんなこと言って、貸しを作りたいだけでしょうが」

「うるっせえな!カッコつけて悪いかよ!オラッ動けやゴラァ!スッゾコラー!」

観客たちも我に返る。

町の面々は家に取って返し、なけなしの救急箱やシーツを持ち出してきた。

「で、で、でも、お医者さんはどこにいるんです。かなしろ診療所の先生は、その…」

町の人間は初めて小林がいない事実を現実のものとして捉えた。

湯治場のすり鉢の底、爆心地。

岩の影に動くものがある。岩の裂け目から、黒い塊が這い出して来た。

本田を肩に担いだBJだ。煤と砂埃にまみれてはいるが、彼はまだ動けるようだ。しかし本田はぐったりと体を預けたまま身動き一つしない。息を切らせてBJは炎の影響が少ないところを探して歩く。

「俺をかばう奴があるかい。湯治場の人間全部殺そうってしてたくせによ」

「……君が、もし、川崎君なら…私は、こうするだろうなって、ことを、しただけだ…」

爆発の炎から本田はBJの盾になった。上半身をひどく火傷した状態で、やっと喋っている。

「お前さんも治療するからな」

比較的安全な平たい岩の上に本田を寝かせ、状況を把握する。爆風に飛び散ったバラックが三棟。燃えているバラックが二棟。今は鱗より火傷や怪我を負った人間の治療が先だ。他にもいないか、すばやく哨戒する。

BJの視界の端、赤褐色の岩の近くで白い布が揺れている。あれは教団の着物の色だ。嫌な汗が一気に噴き出しBJは走る。砂埃を上げて駆け寄ると、岩陰に倒れている子どもの足を発見した。

「耕太!」

仰向けに倒れた耕太は手足に大火傷を負っていた。しかし息がある。意識もある。耕太はうわ言に母を呼ぶ。BJがいる斜面の五メートルほど下に、煤けた女が横たわっていた。必死に伸ばした手を親子はまだ掴めていない。不発弾に飛び散った自分の過去がBJに襲い掛かる。

そこへBJの事情など知らない者が来たのは、今の状況では却って良かった。クロコダイルの革靴で岩を避けながらやって来たヤクザの兄貴分がBJに声をかける。

「アンタ、医者か。俺は穴沢ってんだ。火傷や怪我をした人間は、壊れていないバラックに運んでる。救急車が来るまで時間がかかるらしい。それまで様子を診てやってくれ」

「それは依頼か?」

BJは顔を上げない。彼の頭の中はまだ真っ赤のまま。燃える砂浜、ちぎれた身体、四肢を失った母の姿。それを捨てた父の背中。次々に襲いくるフラッシュバックの中、燃え上がりそうな怒りを堪えている。

不穏な様子を感じた穴沢は、彼の背中を片目を眇めて見つめる。

「俺はモグリの医者だ。依頼がなければ仕事は受けない。俺が治療するのは俺が助けると決めた者だけだ」

怒りは、脳の外で燃やせ。

「何言ってんだ!?医者はケガ人や病人を治すもんだろう!?」

「ボランティアじゃねえって言ってるんだ。後で治療費請求するが、それでいいか」

怒りは、腕で、指で燃やせ。

「クソっ!足元見やがって!構わねえ、新聞記者まで居やがるんだ。ここまで来てやめられるかよ。その代わり、絶対に皆治療してみせろ!」

「よし。わかった」

BJはとびきり獰猛に、しかして精錬な笑みをたたえると動き出す。

その顔を見て思わず後退る穴沢は、もう彼の視界にはない。

「重度のけが人は、そこの開けた場所に連れて来い!軽症者はバラックへ!」

湯治場の一角に、酷い火傷の男女が布団に横たわった状態で、ぐるりと円を描いて並べられる。総勢15名。その中には耕太とその母親も入っている。円の中心にいるのはBJ。治療の準備を始めているのを見て、穴沢がヤクザ者特有のドスの効いた声で叫ぶ。

「何しようってんだ!まさかこれだけの人数、いっぺんに診るとか言わねえよな!」

「その通り。時間がねえ。後でな」

「バカなこと言うんじゃねえ!無理だ!重傷者ほど、こんな場所から避難させるのが先だろうが。きちんとした方法とれよ!」

血管が切れそうな勢いで正論を述べるヤクザの横に涼し気な声が響く。

「無駄だよ。『きちんと』の意味が分からないんだから」

ふわりと円の中に着地したのは〈六枚〉だ。

「野良猫君、実はね、私は医学部の学生だったんだ。5年生で教団に拉致されたから、そこまでの知識しかないけど、簡単なお手伝いはしたいな」

「つくづく便利な男だな、お前は!」

BJは手を動かしながら話し続ける。

「お前もボランティアってわけじゃねえんだろ」

「ああ、そんな素敵なものじゃない。これは私の勝手だよ。助けることで、私も救われるかもしれないっていう、思い込みさ」

〈四枚〉を逃がした時の涙。あんなふうに泣いたことは一度もなかった。教団に来て三枚目の鱗を手にしてから、涙を流すことなど忘れてしまっていた。

「泣くと、すっきりするものなんだねえ」

「耕太の気持ちがわかるか。さあ!無駄口はここまでだ!ついて来いよ〈六枚〉!」

BJのメスが光る。見る間に壊死した皮膚を切り取っていく。すさまじい勢いで縫合される傷口。

ヤクザが手配した冷却用のパックとともに医療物品と人工皮膚が届く。物資の補充によってギアが上がり、治療の速度が上昇していく。BJの指先の正確さを誰も目で追うことができない。

「次!」

流れる汗をぬぐって耕太と母親の前に立つ。さっきと同じように幼いころの自分と重なり、憎しみに塗りつぶされそうになる。しかし耕太の鳩尾に光る鱗がBJを引き戻す。

バチン!と自分の頬を叩き、メスを握り直した。まだら模様の皮膚になるが、自分の時より進歩した人工皮膚だ。きれいに治るに違いない。

「次!」

列挫創、刺創、切創、擦過傷

「次!」

Ⅰ度、Ⅱ度、Ⅱ度、Ⅲ度

次にBJの前に横たわるのは本田であった。

爆心地にいたにも拘わらず、彼の火傷と怪我は状況を鑑みれば比較的軽症で済んだ。本来なら炭のように燃え尽きていてもおかしくない。BJを抱えた瞬間、爆風に飛ばされて、岩の隙間に入り込んだ事が幸いしたのだ。しかし上半身が爛れ、意識がなく重篤なのは変わらない。すっかり上がった息を整え、黙々とBJは切除と縫合を繰り返す。

「本田さんよ、あんたは友達を探してここまで来たんだ。会わないといけないんだろ。だったら踏ん張れ」

意識を失った本田に語り掛け、最後の縫合の糸を切った。

やっと救急車が到着し、怪我人を担架で運び出した。ほとんど処置されていることに一様に救急隊員は驚くが、BJの耳にはその感嘆の声など入らない。

「次ィ!!!」

十五人全ての治療を終え、バラックへ駆けだすBJの姿を見送る穴沢は思わず呟く。

「奇跡だ…」

続く〈六枚〉は否定する。

「そんなものはありはしない。いつだって人間の意志と欲望で、世界は動くのだからね。あの人の中には『治したい』って欲望が渦を巻いているのさ。そばで見ていてよくわかった」

灰に汚れた着物の胸元から見えるのは虹色の鱗。正体を聞かれる前に〈六枚〉はBJの後を追った。

BJ達が怪我人が集められたバラックに到着すると、まもなく救急隊員もやってきた。ここは彼らに任せ、BJは本命へと向かう。

この湯治場に存在する、鱗の名残に。

目指すは湯治場の西の崖。

大きな黄色い岩の裏。ここにバラックとは違う、木造の平家が建っている。

外から隠すように置かれた岩の陰から、茶色く錆びた扉が現れた。まるで牢獄だと扉に触れてみれば、容易く開くではないか。固く施錠されているものとばかり思っていたのに。開く扉に当たって、BJの足元に転がってきたものがある。南京錠だ。

やはりここに鱗に関わる人々が閉じ込められていた可能性がある。進むと平屋の全体が見えた。平屋の木製の壁は温泉の蒸気のせいで、すっかり鼠色に変色している。奇妙なのは窓がひとつもないことだ。既存の窓を塞いでいるわけではない。初めから作られていないのだ。この平屋は用途を決めて建てられている。

確信を込めて平家の木戸を開ければ、こちらも施錠されていない。教団が鱗のできた人間を放置しておくはずがないのに。

ひょっとしたら法被の連中がいるかもしれないと身構えて、中に入った途端、酷いにおいにBJは顔をしかめる。温泉の硫黄の臭いとともに、何かが発酵しているような酸い臭い。しかし構っている場合ではない。土足で上がる。

窓がないので中は暗い。手探りで当てた廊下の壁にスイッチがあったのでつけてみる。天井の電球が灯った。まだライフラインが生きているということは、人がいる証拠でもある。気を引き締めるようにBJは後ろに続く〈六枚〉に目くばせして、足を踏み出した。

明かりが照らすのは、なんともノスタルジックな昭和の雰囲気が漂う室内だ。台所部分に貼られたクロスが色あせて物語る。なぜか台所と廊下の境に鉄格子がはまっていたが、理由は分からない。

やがてたどり着いた平屋の中心の大部屋、そこには室内にもかかわらず12畳ほどの土間が広がっていた。これも畳などひく予定がないと言わんばかりに、最初から設計されていたように見える。土間に設置されていたのは格子状に区切られた木製の大きな浴槽。所々朽ちて黒ずみ、結晶化した温泉成分が浴槽のふちに溜まっている。湯は抜かれていたが、浴槽の隅にまだ水分が残っている具合からして、最近まで使用されていた形跡がある。

部屋の角の小上がりには辛うじて畳が敷かれ、薄汚れた布団が隅に積まれていた。それ以外に置かれているものはなく、ただ眠るためだけに存在する場所のようだった。

理解しがたい空間だが、ここで誰かが生活していたのは間違いない。BJはもう疑念を抱かなかった。キリコが話した鱗を生やした人間を選別する場所がここだったのだ。

かなしろ診療所から鱗が増える適性があると見込まれた人々が送られた場所。

だが、耳を澄ませど平屋の中はしんと静まり返り、人の気配を全く感じない。

鱗が二枚になるまで、ここで強制的に生活させられた人々は今、どこへ。

「〈十〉の方が現れたから、ここにいる人間は不要だと判断されたのかもね」

沈痛な面持ちの〈六枚〉が下を向く。彼もここにいたことがあるのだ。

「…あの時のカガイに、連れて行かれたか」

床に小さな靴が片方残されていた。

小林が見つけたものは、きっとここにあったのだろう。どんな様子かは予想しかできないが、その末路を今のBJは知っている。

もう誰もいないとなれば、次に切り替えるしかない。しばし黙祷して、BJは平屋を後にした。

BJと〈六枚〉は耕太が集めてくれた人々がいる大きなバラックに入った。皆一様に不安そうな目をBJ達に向けてくる。老若男女問わず予想以上に鱗の生えた人々が湯治場に存在していた。その数30人弱。かなしろ診療所の機能が失われているうちに、教団の条件に合わない本来はじかれるべき人間が、そのまま放置されていたためだ。

その中に、ひときわ肌が白い娘がいた。

腕には楕円形の虹色の鱗が一枚。脛にも一枚。

BJは有無を言わさず鱗を切除する。穴沢から薬品類を調達したので、鞄の中は万全の状態だ。麻酔のおかげで痛みもなく取れた虹色に光る鱗を、娘は不思議そうに眺める。

「きれいね」

「見た目だけはな」

娘が手のひらに乗せて愛でていた鱗を掴むと、BJは次の患者に向き直る。

また一つ、また一つとBJは鱗を切る。二度と生えないように芯をえぐり取る。

〈六枚〉はそれを全て見ていく。

自分に生えたイチョウ型の鱗と似た形のものを見て、自分に初めて鱗が生えた日の事が思い出された。

肌が弱いと心配して、この湯治場へ連れてきてくれた祖父。生えてきた虹色の鱗を見て、きっといいことがあるんじゃないかなんて笑っていた。その時は自分自身おもしろい物が身体にできたものだと、一緒になって笑った。何も知らずに。

教団に拉致されてからは、ひたすら祖父を恨んだ。同じ虹蛇と鱗を巡って争い憎しみあった。蹴落としてきた者の顔。鱗が生えなくなる事を恐れる日々。それらが鱗が切られるたびに自分の体の外側から、内側へと落ちていく感覚になる。

「おい、手え動かせ〈六枚〉、消毒くらいできるだろうが」

そう。私は〈六枚〉。まだ本名を明かすには遠い。耕太と私は違いすぎる。いつか、名乗れる日は来るだろうか。時間がかかっても、その日を迎えたい。

〈六枚〉に芽生えた、明日を生きる意味であった。

日が傾くころ、湯治場にはまだ救急車のランプが瞬いていた。

ようやく駆け付けた警察もいる。町や観光客から連絡があったのも事実だが、その前に〈四枚〉が警察に保護されていたことから、一気に明るみになった。

BJはついに現れた友引警部にたっぷりと絞られ、道路わきの古い電話ボックスに背中を預けて座っていた。人垣がばらけたころ、ヤクザの兄貴分、穴沢が彼のもとへ歩み寄る。

「これであんたのカタがつくのかい」

血と土埃にまみれた顔でBJは前を見たまま。

「さあな…俺は警察を信用してないし、教団にまで捜査の手が伸びるかどうか。顔を知った警部には全部話したけど、多分、難しいだろう」

「警部じゃなあ…」

「そうだ、約束の治療費なんだが」

今、その話をするのかと怪訝な穴沢に、BJは何でもない事のように告げた。

「教団をこの町から締め出すってことでどうだい」

「何だって?」

「俺の想像なんだが、あんたら教団の弱みを握ってる。まあ、俺もいっぱい知ってるけどさ。だから教団の作った温泉の仕組みに出資して、もっと大掛かりにしたんだろ。そして仕組みの維持にかかる物資を教団に売りつけて儲けてた。町の持ち物である湯治場の入湯料は、直にあんたらの財布には入らないからな。」

パトカーが一台、二人の前を通り過ぎる。何を話しているのか知りもしない。

「教団サイドは町から入湯料をネコババしてたんだろうさ。本田の話だと、町長ですら教団に頭が上がらなかったみたいだし。教団側はミックスジュース温泉のおかげで、自分たちに都合のいい環境ができるは、金は入るは、大満足だったろうよ」

BJは目を擦り、欠伸交じりに続ける。

「今回の件で賀名代温泉のステータスは大きく下がるだろう。一旦仕切り直して新しい温泉を作ってみてもいいんじゃねえの。このままの状態が続いてたら、間違いなく金属中毒で死人が出てたと思うぜ。鱗見ただろ。潮時だ。もうこの町に教団は無くてもいいんだよ。つーか、教団を追い出せば、この町の連中皆喜ぶんじゃねえ?そしたら、今度はあんたらが町と入湯料の分け前を……」

急に黙り込んだBJを穴沢は慌てて覗き込む。さっきまで火を噴くエンジンの如く切りまくって縫いまくっていたのだ。死んだのではないかと長いツートンカラーの前髪を上げると、そこにはぐっすりと眠るBJの寝顔があった。

意外と幼い顔立ちだなと前髪を下げ、穴沢はまだ始末のつかない湯治場を遠く見据えた。

湯治場の騒ぎが落ち着き、初雪が観測される頃。

容態の落ち着いた本田に、川崎の遺体が見つかったと知らせが入る。

遺体の状態など仔細は明かされなかったが、本田はそれでいいと静かにうなずいた。

そもそも本田が教団に目を付けたのは、川崎が行方不明になった時、賀名代温泉に立ち寄ったことが始まりだった。

偶然町の古道具屋で見つけた時計が、本田の止まっていた時間を動かし始める。高級時計なのに格安で、何気なく手にとり、時計盤の裏を見て悲鳴を上げた。そこに彫られていたのはヒュギエイアの文様。盃に巻き付く蛇、薬学のシンボル。自分の研究分野にピッタリだろうと、わざわざオメガの時計の文字盤の裏に彫り、得意げに川崎が見せてきたものと同じだった。こんなもの世の中に2つとしてありはしない。行方が知れなかった川崎は、確かにここにいたに違いないと本田は確信した。

それから腕時計の出所を探れば、すぐに教団に結び付いた。しかしまともに行っても相手などしてもらえない。ならば教団の姿を洗い出すことで、川崎の行方がつかめるような気がした。

本田が奔走する間に長い月日が流れ、周囲の人間は川崎の存在を忘れた。川崎の身内ですら、本田に捜索を続けるのを辞めるよう心配して言ってくる。あまりに強い意志で親友を探す彼を見て、執着が過ぎると顔をしかめる者もいた。あらぬ噂を立てられた時期もあった。

冷たい視線を浴びながら、それでも彼は探し続けた。探し続けなくては生きられなかったのだ。

それだけ彼らの友情は朴直で真摯だった。彼らしかわからない。ひょっとしたら本田にしか分からなかったのかもしれない。川崎が見つからない焦燥、友情への抱いてはいけない疑惑、それらを振り払うために、彼は自分たちの友情が不滅であると思い込んだ。

そうして本田は精神的にも追い詰められ、とうとう命を賭した決心をして、賀名代温泉へ降り立った。

窓の外には雪がちらつき始める。

小さな雪のかけらは冷たい風に吹かれて、あっという間に飛んでいく。

それを見ると、彼がいつも着ていた安物のダッフルコートを思い出す。

普段感情を表に出さない彼が、本田の前だけではよく笑い、よく怒った。自分も同じだった。

腕時計を見せて来た時の彼の屈託のない得意げな笑顔。

それが忘れられない。

「ねえ、身に着けるものにヒュギエイアのマークなんて、些かナルシシズムを拗らせているんじゃないかな。実はずっと思ってたんだ。だってあまりに幼稚じゃないか」

もし彼に言ったなら、きっとすっかりへそを曲げたに違いない。

ああ、楽しかったなあ。

あの頃は本当に楽しかった。

溢れて止まらぬ涙で枕を湿らす本田の元には、動かなくなったオメガの腕時計が、寄り添うように置かれていた。

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