煌々と満月が中天にある。
白く照らされた粗末な石造りの小屋。その中で一人の女が人生を終えようとしていた。
この瞬間を待ちわびていたと、女は目を閉じる。
安楽死装置を作動し、周波数を安定させる。間も無く女は眠りについた。
そばに立っていた娘が駆け寄る。
「お母さん」何度も小さな声で呼んで、痩せた骸にしがみつく。押し殺した嗚咽が小屋の中に満ちた。こんな場面からはさっさと退散するのが常套なのだが、俺はまだ報酬をもらっていない。先にもらうべきだった。
冷たい石壁にもたれて娘の慟哭が収まるのを待っていると、ようやく娘が振り向いた。ぼさぼさの茶色の髪を一つに束ね、そばかすが散った鼻、そこに乗っかる大きな眼鏡。野暮ったい風貌だが、くすんだ緑の瞳は美しい。涙を拭って、娘は擦り切れたツナギから紙幣を取り出す。
「お約束の謝礼です。ありがとうございました。」
手荒れのひどい指先から、ぐしゃぐしゃの紙幣を受け取り、金額がそろっていることを確認する。決して安くはない額だ。日々の暮らしが楽ではない様子は、小屋を見ればわかる。どうしてこの母子は、俺に依頼してきたのだろう。疑問を気まぐれに投げかけた。
「どこで私のことをご存知になったのですか。」
娘は俯いて黙ってしまった。言いたくないなら構わない。
「失礼。興味があっただけです。」
それだけ告げて、小屋から出た。小屋の周囲には広い葡萄畑が広がっている。しんと静まり返った夜の中で、実りだした小さな葡萄が月の光に浮かび上がる。いっそ幻想的とも言える景色の先にあるのは小高い岩の丘。その上に立つ古城に目をむけた。
「次の仕事はあそこか。」
粗末な小屋であろうが、歴史ある城だろうが、そこに人がいる限り死は平等に訪れる。今夜はひとまず宿へ戻って休むことにした。
【1日目】
この地方はワインが有名だと言う。どこへ行っても長閑な葡萄畑が広がり、点々とワイナリーが建っている。昨晩は宿で地元の特産ワインを飲んだ。すっきりした飲み口と深い味わいは俺の好みに合った。この仕事が終われば2、3本求めてみても良いかもしれない。仕事が終わった後のことに思いを巡らせ、少々楽観的とも言える姿勢で丘の上の古城へと足を向けた。
遠目には丘に見えても実際は少々山の中にある。緩やかな傾斜を登りながら、町でレンタルしたバイクで来たことを後悔し始めている。一番良さそうなやつを選んだつもりだったのだが、エンジンから不穏な音がするし、回転数は見ていてはらはらするくらいに不安定。タコメーターと睨み合いながら山道を登る。結局何度も異様に熱くなるエンジンを冷ますために休憩をする羽目になり、予定の時間を大幅に超えてしまった。正確に時間を指定しているわけではないので、問題がないと言えばそうなのだが、どうにもまいった。なだめるようにバイクのアクセルを握り、崖に沿うカーブを曲がると、やっと目的地の古城が見えた。
何年も前に古城の主人と交した言葉が脳内に蘇る。
「自分は治療法のない病に侵されている。まだ体は動くけれど、長くはない。いよいよ死を待つだけになったときに知らせを送るから、安楽死を施して欲しい。」
依頼人は白髪をきっちりとまとめて、背筋がしゃんと伸びた老婆だった。はっきりした物言いは、上に立つ地位の人間特有のものだ。それから洗練された上品な身なりからして、金払いは良さそうだった。実はこの手の依頼は結構あるのだ。莫大な遺産を生前分与してスッキリした富豪とか。老婆が持参したカルテに目を通し、いくつか問診をする。手順通りに契約が成立して、イサベラと名乗る老婆は愛嬌のある瞳に笑みを浮かべて、安心したように息をつく。
「これで一つ心配事がなくなったわ。できればあなたにまた会う日が、そう近くないと良いのだけれど。」
「まるで私が毛嫌いされているように聞こえますね。」
肩をすくめるふりをして、軽口を叩いて見せる。彼女はそんなつもりはないと朗笑した。自分の死期について話しているのに、こうも穏やかにいられるのは、きっと彼女の人生が豊かであったのだろうと、これまでの経験からひっそりと思った。
ぶすん、と力尽きたようにエンジンが止まる。ご苦労さん、俺もご苦労。何とか城に辿り着けた。バイクを適当なところへ停めて、軽く身繕いをした。
城にふさわしく厳しい門を叩く。しばらくして黒いスーツを正しく着こなした男が迎えてくれる。用件を告げると、よく承知していると控えめに頷き、案内を申し出た。有能な勤人がいるのはありがたいものだと感じ入っていた矢先、玄関のホールに女の声が響く。
「どなたですか。今日は来客の予定はないはずですが。」
警戒心を露わにした声の主に目を向けると、澄んだエメラルドの瞳が射るように俺を見据えている。豊かな赤い髪が印象的な、見るからに令嬢と言った容姿の若い女性だ。簡単に自己紹介をする。ただ「医者」としか告げなかったのに、俺の名を聞くと見る間に表情を固くした。
「あなたが、ドクター・キリコですか…」
この様子だと俺の用件がわかったらしい。おそらくイサベラから事情を聞いているのだろう。できればさっさと仕事をしたいのだが。
「失礼をいたしました。私はイサベラお婆様の孫、リーゼロッテ・マディティンと申します。長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがですか。」
出た。よくある手合だ。家族が安楽死に賛成していないときは、こうやって時間稼ぎをされる。ちゃんと説得しておいてくれよ…とイサベラを恨めしく思いながら、応接間のテーブルに着く。紅茶を出されたけれど、手を付けるはずがない。ますます不信感を募らせるリーゼロッテの視線を感じる。じゃあ毒見をして見せろとも言いたくないので、黙ってソファに深く座った。ぴしりと張りつめた空気の中、棘のある声でリーゼロッテが口を開く。
「私、少し前までアメリカの大学に留学していたのです。しばらくここを離れていたもので、お婆様と詳しいお話をする機会がなく、あなたのこともお名前とご職業しか存じ上げません。いつか来るお医者様だと聞いておりましたが、あなたが本当にお婆様と約束された方なのか確認したいのです。」
礼節はわきまえているようだが勝気な声だ。俺はケースの中から契約書を出す。彼女はそれを受け取ると、なにか抜けているところはないか粗を探すように契約書をじっくりと読んだ。やがて契約書の終いにイサベラのサインがあるのを確認して、小さく首を左右に振った。
「確かにお婆様のサインですね。」
契約書を俺に返却して、リーゼロッテはしばらく目を閉じた。何かに悩んでいるように見える。これはよくないパターンだと俺の中で警鐘が鳴る。
「実は今の当家は、あなたが契約を交わした時とは少々状況が異なります。」
来た。気を引き締めてリーゼロッテの言葉を待つ。
「2か月前のことです。私の両親が自家用セスナの事故で亡くなりました。なんて言うんでしょうね。時期当主という立場に父はありました。我が家は葡萄畑やワイナリーの他に、町に自動車部品の工場を有していて、父がそれらを継ぐはずだったのです。」
多少フランクになった口調。おそらくこれが彼女の地なのだろう。
「それで、お婆様が事前に考えておられた財産分与の内容が、がらっと変わることになったんですね。その手続きのために、お婆様は弁護士や会計士と何度も話し合いをしていました。父母の葬儀やら、ひっきりなしに訪れる弔問のお客の相手も一緒に。私には、とてもお婆様の代わりはできませんでした。」
実際両親がいきなり死んで、現実を受け止めるのに精いっぱいだったのですから。自嘲気味に、くいっと飲みほしたリーゼロッテのカップへ、再び紅茶が注がれる。給仕を労い、彼女は紅茶にミルクをたらす。
「お婆様が倒れたのは、今から3週間ほど前です。かかりつけの医者からは過労とストレスと言われましたが、回復する様子もなく、再度診察してもらうとお婆様の持病がかなり進行しているとわかったのです。もっと早く診断できただろうに。思わず薮医者と罵ってしまいました。」
このお嬢さん、かなり気性が激しいな。ヒートアップしていく自分を抑えるように、リーゼロッテはドアの方を見やる。
「新しいお医者を探さなくてはならなくなりました。確実に実力のあるお医者様を。」
待て。今の流れはまずい。その医者ここに来てないだろうな。冷汗が噴き出す。無情にも応接室のドアが開く。
「リーゼ、客だと聞いたのだが。」
聞き覚えのある声が…ああ、一気に頭が痛くなってきた。視界に入れたくないなあ。どうしていつもこう俺の鼻先にまとわりつくんだろうな。ブラック・ジャック。
いつものように、激しい罵倒が飛んでくるのを覚悟したのだが、来ない。
拍子抜けして奴を見ると、ぽかんと突っ立っている。いつもなら「ヒトゴロシめ!」だの「殺し屋のなりそこない」だの、きゃんきゃん喚いて飛び掛かってくるのに。おまけになんだ。その服は。BJは一張羅の黒いコートもリボンタイもなく、やわらかい光沢のある白いシャツを身に着けていた。やたらひらひらしているシャツだ。違和感が激しく湧き上がる。
リーゼロッテはBJを招き寄せ、彼女の横へ座らせた。BJは従順に前に出された紅茶を口にしている。その様子を見て、自分の眉間に深いしわが寄っているのに気がつき、意識して強張った体の力を抜いた。とにかく状況を掴むのが先決だ。
イサベラの延命治療をリーゼロッテは求めた。若い彼女がすぐに父の後を継ぐには、イサベラの後ろ盾が必須であり、周囲の人間もそれを望んでいる。そこでBJが呼ばれたわけだ。そこまで聞いたら、労働意欲が半減した。しかし、ひっかかるものがある。無防備に紅茶を飲むBJの姿だ。なぜまだ手術をしていない。俺より先にここへ来ていたのに。
「ブラック・ジャック先生は、いつ手術をする予定なのですか。彼はのんびりとスケジュールを組んで手術をするタイプではない。私にとっては彼がこのようにお茶を飲んでいる姿は、かなり想定外です。」
「やはり、あなた方は面識があるのですね。」
観念したように、リーゼロッテは続ける。
「ブラック・ジャック先生は、一時的な記憶障害に陥っているようなのです。」
耳を疑う。
「依頼をして、すぐにブラック・ジャック先生は来てくれました。手術を明日に控えた夜。2時か3時ころだったと思います。大きな物音がして、皆が駆け付けると、階段の下に頭から血を流した先生が倒れていたのです。」
「殺されかけたのですか。」
「誰かの悪意があったことは間違いありません。」
救急搬送されたBJは翌朝目を覚ましたが、その時にはもう記憶に障害が出ていた。とても手術をできる状態ではなくなってしまっていたのだ。脳に血栓はなかっただの、ショック性のものだと見立てがあるだの、リーゼロッテは言っていたが、この事態が莫大な損失を生んでいることに彼女は全く気付いていない。数多の人間が求める奇跡の指が使えなくなったんだぞ。柄にもなく沸々と怒りが湧いた。
「この事故は当家の不備によるもの。全責任を負う覚悟でいます。」
どんな責任をとるつもりなのか、詰め寄りたくなった。しかしながら、まだ聞きたいことがある。たぎる感情は押し込めたが、機嫌を悪くしているのを隠すのはやめた。
「その様子だと、階段から突き落とした犯人もわかっていないようだな。」
唸るような俺の声に、リーゼロッテは肩を震わせた。
「…ええ。事故があったのは雨のひどい夜で、証拠も証言も乏しく、警察の捜査は難航しているようです。」
「随分と優秀な警察だ。」
沈黙が応接間に満ちた。自分の話をされているのが居心地悪いのだろう。BJは俺とリーゼロッテをちらちらと見やっている。記憶障害か。そんな都合のいい話、あるものかね。何かしらの理由があって演技をしている、とか。カマをかけるつもりで、わざとらしくBJに自己紹介をした。
「初めまして、ではないが、その様子だと私のこともお忘れのようだ。私はキリコ。仕事ではドクターキリコと呼ばれている。」
「ドクター…医者なのですね。」
ぼんやりした顔を向けてくる。
「安楽死専門の医者です。」
奴に一瞬で火をつける単語を出したが、紅茶を手にしたBJは表情すら動かさない。「安楽死」これまでこの言葉を出して、耐えられたBJを見たことがない。きっと俺は驚きを隠せなかったのだと思う。BJは俺に向かって小さな声で謝罪した。
「ごめんなさい。あなたのことを覚えていません。」
うなだれるBJに、リーゼロッテは慰めるような仕草をした。この女性がいるところでは、こいつの本音が聞けないだろう。本当に記憶障害が起こっているか、演技なのか、二人きりで話がしたい。機会がないかと算段する俺に、リーゼロッテはある提案をする。
「お婆様の安楽死の施術については、お断りします。契約書には本人の意思が確認できないときは、後見人に判断を任せると書いてありましたよね。後見人は父の名でしたから、今となってはその立場は私にあります。私はお婆様に生きていて欲しい。」
言いたいことはたくさんあるが、最後まで彼女の言い分を聞くことにした。
「ですからブラック・ジャック先生の記憶が戻るように、あなたに協力をお願いしたいのです。」
「…は?」
頭の芯がキンと冷えた。こいつをこんな目に遭わせておいて。手術ができないBJを手元に置いて、尚も手術させるつもりなのか。
「勝手なことを言っているのは、わかっています。」
いいや。わかってない。
「安楽死の違約金はお支払いします。協力してもらえれば、それに加えてご要望に沿えるようなお礼も出します。」
新兵なら間違いなくぶん殴ってる。
「どうかお願いします。ブラック・ジャック先生と面識がある。それだけであなたは当家にとって必要な方なのです。」
「タバコ吸っていいか。」
更に言い募ろうとするリーゼロッテを軽く制し、許可を待たずにタバコへ火をつけた。煙を深く肺に入れて、神経を落ち着かせる。俺までいきりたってどうする。そもそも俺たちの稼業からして、厄介ごとは付き物だろう。だから俺はBJがどこで死んでもおかしくないし、そうなっても不思議ではないと納得していた。
だが、実際に厄介な状況に陥っているこいつを目の前にしてどうだ。困ったことに、俺は何とかしたいと思ってしまっている。こいつの人生がどうとかいう話じゃない。人類最高峰の外科手術を行える指が、記憶障害なんかで失われるのが、非常に不快なのだ。安楽死の崇高な理念を掲げると同時に、俺も医師の端くれってことか。ふうっとタバコの煙を吐き出した。
戦場で記憶障害を負った兵士は、大概回復しない。その中でも完全とは言い難いが、元の状態に近くなった者はいる。そしてごく稀に、完治する者もいるのだ。こいつみたいに賭けなんて言って案件を引き受けるのは好きじゃない。馬鹿みたいな報酬を請求するのも好きじゃない。だからこれから俺がすることは、イレギュラー中のイレギュラーだ。とことん定石を外してやる。
「10億。」
「え?」
何の数字かわからない様子のリーゼロッテに告げる。
「いいか、小娘。俺は仕事をするためにここへ来た。なのに仕事以外のことをしろとお前は言う。残念ながら慈善事業は大嫌いなんだ。」
とん、と携帯灰皿に灰を落として続ける。
「ついでにそいつは商売敵だ。どうなろうと知ったことじゃない。」
BJに視線をやるが、やはりはっきりしない表情をしている。ホント、こんな状況じゃなけりゃどうでもいい。
「でも、私たちにはあなたの協力が…」
必死にリーゼロッテが食い下がる。若い彼女には打つ手が少ないのだろう。
「だから10億だよ。時間外営業させられるんだ。人件費加算しないと割に合わん。」
「そんなお金……あなたって人は…」
リーゼロッテが唇を震わせる。きっとテーブルの下の拳は固く握られている。
「期限は一週間。他にも仕事があるんでね。嫌なら他所を当たれ。」
突き放したように言うと、リーゼロッテは頷くしかなかった。さあ、ここからが本番だ。小娘。
「一週間経ってもブラック・ジャックの記憶が戻らない場合、俺はイサベラの安楽死を遂行する。」
バン!とテーブルを叩いてリーゼロッテが激高する。
「あなたは何を言っているの!お金を取るだけじゃなくて、お婆様の命も奪うというの?」
「契約書にあった通りだ。『後見人に判断を任せる』と。残念ながら、お前は後見人とは言えないようだ。10億の金を動かすのに、専門の担当者の意見も求めず、独断で目先の利益を優先したな。この城の帳簿を見たことはあるのか。きっとお前は正式な手続きを踏んでもいない。口頭でしか説明できないのだからな。」
応接間にいる給仕が身じろぎしたのがわかった。目の前の若い女が言葉を出せずに硬直しているが、お構いなしに喋る。
「依頼人からの信頼と契約で、俺はこの仕事に携わっている。俺に知らせが届いた段階で、イサベラが安楽死を依頼した事実が確定した。契約書に沿って、俺は彼女に安楽死を施す義務がある。それを覆したければ、正当な後見人及び遺産相続者として、俺に契約の破棄を申し立てろ。」
ぶるぶると震える手でテーブルクロスがぐしゃりと握られる。リーゼロッテは手を握りしめたまま、吊り上がった目で俺を睨みつける。子猫みたいだ。思わず口角が上がってしまう。
「一週間は短すぎるわ。工場の総会を説得するのに、時間がかかる。もう一週間延ばしなさい。」
赤い髪を総毛立てて歯を食いしばっている。こんな場面でもしおらしくならないとは、案外将来があるかもしれないな。
「なめるな、小娘。俺はすでにお前に譲歩している。これ以上はない。」
少しだけ目を眇めてやると、リーゼロッテは面白いくらいに怒りに燃えた。前言撤回。そんな様子じゃ、これから葡萄畑やワイナリー、自動車部品工場の経営なんかできないぞ。若いからなんて大目に見てもらえる時間は短いからな。
リーゼロッテはさっきの俺の言葉が気になるのか、給仕に視線を送っている。給仕がかわいそうだ。たまりかねて給仕は上司を呼んでくると応接間を飛び出していった。昔なら使用人と呼ぶところだろうが、今は何と呼ぶべきなのか。契約社員か従業員が近いかな。ゆっくりと2本目のタバコを咥える。そんな俺の仕草が気に障ったのか、リーゼロッテは乱暴に椅子から立ち上がり、そのまま応接間から出て行った。そのままドアの向こうで意見をまとめてくれ。現在の状況からして、警察、弁護士など手間のかかる手段は選ばないだろう。
細くなびく煙の向こうに、ツートンカラーの髪が見えた。ぼんやりと窓の外の景色を見ている。そう。こいつは俺がリーゼロッテで遊んでいる間、初めこそ内容を理解しようと頑張ってはいたが、途中から諦めてずっと窓の外を見ていたのだ。誰のせいでこんなことになってるんだと、何度も頭を抱えたくなった。結果的に黙っていてくれて良かったが。
火をつけたばかりのタバコを携帯灰皿に押し込んで、席を立つ。そのまま窓の前まで歩き、奴の視界に入ると、BJはゆるやかに俺に視線を合わせて「ああ」と言った。
「お前、本当に記憶がないのか。」
しっかりと確かめなければならない。
「そうみたいです。ぼんやりしていて、わからないというか。」
「じゃあ覚えていることは何だ。」
「シャツの畳み方、簡単な掃除、日常生活で困ったことはありませんから、覚えているんだと思います。それから庭に咲いている花や、日用品の名前はわかります。他の事柄については、どこまで覚えているのか確かめていません。自分に関係することだけが、すっぽりと抜けているようです。」
すらすらと言えるのは、搬送された病院で同じような質問をされたからだろう。表情は驚くほどに真っ新という雰囲気だ。通常運転のあいつの憎たらしい目つきも、邪悪な笑みも、どこかへ消えてしまっている。闇稼業だから多少の腹芸はできるものの、基本的にBJは直情型の男だ。ここまで演技できるものだろうか。
「俺が安楽死専門の医者だと聞いて、どう思った。」
「どう…と言われても。そういう職業もあるのだなあと。」
「安楽死について印象は?」
「うーん。考えたこともありませんでした。よくわかりませんが、お仕事にされているのなら、あなたの手が必要な人がいるのでしょう。」
ざあっと引き潮のように冷たい感覚が身体を走る。これは、誰だ。
「あの、あなたは私のことを知っているのですよね。」
知っている。けれど、お前は誰だ。
「ああ、知っている。」
指よ、震えるな。
「私の手助けをしてくれませんか。記憶を取り戻したいのです。」
手助け、なんて。
「お時間のある時で構いませんから。」
そんなこと。
「本当に忘れてしまったんだな。」
絞りだした俺の乾いた声に、男は「ごめんなさい。」と消え入るように、俯いた。
出された条件を呑むとリーゼロッテが伝えてきたのは、日が傾きかけたころだった。それまでBJと二人きりで応接間に放っておかれたわけだが、俺はどうにもあれ以上BJと会話をする気にならず、お互いに黙りこくったまま今に至る。城での生活についてあれこれと言うリーゼロッテの言葉を適当に流して、一週間世話になる客間へと案内してもらう。イサベラに会いたかったが、リーゼロッテの余裕のない顔を見ていたら、明日でもいい気分になった。今日はこれ以上いじめると、泣くかもしれんしな。
客間はしばらく使われていなかったようで、少々籠ったにおいがしたが、ベッドと窓があれば万々歳だ。視界に入ってくる豪奢な装飾も家具も必要ない。ただ自分の荷物は装備が不足している。案内してくれた小柄な青年に声をかけると、ひきつった笑みを返してきた。どうやらさっきのリーゼロッテとのやりとりの様子で、俺はヤクザ者と同じカテゴリに入ったらしい。紙幣を渡し、必要な着替えなどの買い出しを頼む。恐怖からか涙目になって彼は飛び出していったが、やがてきちんと俺の要望通りの品をそろえてきてくれた。礼を述べてチップを渡すと、彼は少し態度を和らげて去っていった。
今のところ監視はなし。多少の融通も利く。古い城だ。監視カメラなどは後付けになる。額の裏や花瓶の底など、セオリー通りにカメラや盗聴器が隠されていそうな所を探した。無いな。ようやく一息つく気持ちになり、ジャケットを投げ捨てた。
夕闇がせまる窓を開けると、涼しい風が吹き込む。外には一面に葡萄畑が広がり、その遥か先に雪冠を頂く荒涼とした山岳がそびえている。
これからどうしたもんかな。実際俺は一週間でBJの記憶を本気で取り戻そうとは思っていない。無理だろ。記憶障害の治療は基本、あせらず、ゆっくりだ。だから一週間それっぽく過ごして、適当な段階でBJを連れて姿を眩ますのが一番だろう。
応接間であいつの記憶が損傷していると確信した瞬間、きれいなガラス玉みたいな目をして俺を見上げるあいつを、力任せに抱きつぶしたい衝動に駆られた。どこで誰が見ているかわからない環境で、感情的な行動に出るべきではないと、無理矢理取り乱す心を収めた。そもそもあいつは俺のことを、きれいさっぱり忘れているのだ。取り乱す原因すら思い至らないだろう。俺がこの古城に留まる理由が、そこにあるとも知らずに。
ソファへ移動して足を投げ出せば、疲労が背筋にたまっているのを感じた。そのまま目を閉じる。あいつの顔ばかり浮かんでくる。なんだろう。この感情は。ああ、そうか。俺は悔しいのか。
「俺は庭の草木以下かよ。」
悔しまぎれに笑ってやる。草木の名前を憶えているのに、自分の仕事に関係する事柄を覚えていないのは納得がいかない。切ることが人生だと大見得切ったの忘れたか。俺は忘れてないぞ。あまりに滑稽で爆笑したからな。そうさ。あいつは医者馬鹿じゃなけりゃ生きてる価値がない。今のあいつは医者として死にかけてる。死を商うのは俺の専門分野だ。記憶障害に苦しむくらいなら、いつでも楽にしてやる。だが俺の信条として、助かる見込みのない患者にしか安楽死を施さないと決めている。今はまだ、その時ではない。今は、まだ。
【二日目】
翌朝、ずいぶん早くに目が覚めた。老い…とは思いたくないな。昨日買ってきてもらったシャツに腕を通し、城の中を散策する。大きな城だが、生活に使われているエリアは狭そうだ。古い城だから、ところどころ修繕が必要な場所を見かけたけれど、きちんと掃除は行き届いている。あいつの部屋はどこなんだろう。絶対リーゼロッテの部屋の近くだな。
ハウスキーパー達がくるくると働き、厨房らしい部屋からは元気な声が飛び交っている。忙しい朝を邪魔する気はないので、城の庭をぶらぶらしていた。
青い芝生に、整えられた生垣、くっきりと区分けされた花壇。実に几帳面に世話をされている。そんなエリアだけと思いきや、自然の林を彷彿とさせる広葉樹が植えられた場所もあった。ハーブが無造作に花を咲かせている。奥に白木の四阿があるじゃないか。こっちのほうが俺はいいな。そろそろ戻ろうかと城に足を向けたところに、朝食の準備ができたと昨日の青年が呼びに来てくれた。
リーゼロッテが不機嫌な顔で、皿のソーセージにフォークを突き立てる。
「やめとけ。威圧しても、子猫が膨れているようにしか見えん。」
「誰が子猫よ!」
がっしゃんとテーブルの上のグラスが揺れる。オレンジジュースがこぼれそうになるのを回避。
「気に食わないなら、俺と一緒に朝飯食う必要ないだろ。どうして同じテーブルについているんだ。」
「お婆様の教えだからよ。お客様とは一緒に食事をとりなさいって。」
「なるほど。殊勝な心掛けだ。」
「ムカつくわ。」
リーゼロッテは令嬢の仮面を脱ぎ捨てることにしたらしい。着ている服も、がらりと印象を変えている。ジーンズにロックバンドのTシャツ。いや、メタルか?ナイトウィッシュとは、こらまた渋いな。Tシャツの袖を、イライラと彼女は掴んだ。気持ちが落ち着かない時、何かを掴むのは彼女の癖のようだ。隣ではBJが、白パンにぺたぺたとバターを塗っている。
「その話し方だと俺も楽でいい。それで?お前は今日、何をするんだ?」
10億が無駄にならないように、これからリーゼロッテは必死になって奔走するはずだ。その分、城で俺が自由に動ける機会も増える。
「あんたに教える理由はないわ。でも、そうね。今日だけ教えてあげる。昨日言われたように、確かに私はまだまだ多くの人に認められていない。本格的に信頼を得るためには、何年ものスパンでやっていかなくちゃいけないけど、形式だけでも私がお婆様の跡を継ぐってことを認めてもらわないとね。」
カラフルなサラダをきれいに食べると、デザートの果物に手を付ける。
「だから今日は書斎でお勉強するの。お婆様はきちんと記録を残してくれているから、それを頭に入れておく。もっと早くにやっておくべきことだった。あんたに気付かされたのね。ムカつくけど。」
両親が事故で死んで乱れていた心を立て直して、前を向こうとしているのだろうか。彼女が納得しているのなら、俺の言葉をどう解釈しようと彼女の勝手だ。
「授業料として、もう1億請求しようか。」
「本当にいい性格してるわね!」
あんたはどうするのと聞かれて、答えようとした時、食堂のドアが開いた。
陽の光がスポットライトのようにドアに満ちる。光の真ん中に紫紺のスーツを纏った男が立っていた。表現するなら、華やかな男。きらきらと金の髪を揺らして、ずんずん進み入るその男の名を、リーゼロッテは叫んだ。
「カルロおじ様!」
長めの前髪をさらりと揺らして、カルロと呼ばれた男は微笑む。整った彫像のような美貌。年頃の少女なら、お城に住む王子様と信じてしまいそうだ。
「おはよう、リーゼ。元気だったかい!」
王子様スマイルのまま、リーゼロッテを抱きしめる。
「いきなり押しかけてすまないね。連絡するより、直接会った方が早いと思ったんだ。」
「そんな…あの、とても、驚いています。おじ様が生きていると思っていなかったものですから…」
リーゼロッテの眼は大きく見開かれている。「生きていると思っていなかった」とは、どういう意味だ。俺たちの存在に初めて気づいたようなそぶりをして、客の前で話すようなことではないとカルロは場所を変えたがった。これからのことに関係があるからと、リーゼロッテは俺たちをカルロに紹介し、昨日までの顛末を説明する。10億の話の件になると、カルロは大声を出して天を仰いだ。
「リーゼロッテ!君はもっと賢い子だと思っていたのに…どうしてそんな馬鹿な約束をしたんだ。」
「仕方がないとしか言えません。私自身、こんな事態になるのは不本意なのです。だけど、おじ様も生きているのなら、もっと早く知らせてくれても良かったのに!父と母と同じセスナに乗っていたおじ様の遺体は、どんなに捜索しても見つからなかった。お婆様と一緒に、きっと生きてはいないだろうと諦めたのよ。」
苦しそうな顔でリーゼロッテは訴えた。カルロは彼女の肩に手をかけて、宥めるように言葉をかける。
「遅くなったのは悪かった。事故の後、親切な人に助けられて、しばらく山の中で怪我を治していたんだ。ひどい怪我でね、一時期は喋ることさえできなかった。ようやく話ができるようになったが、怪我のせいか声まで変わってしまってね。骨を折って、なんとか妻に連絡を取ることができた。それから屋敷で養生して、やっと動けるようになったんだよ。生きるか死ぬかの瀬戸際で、君に知らせるのはやめようと判断したんだ。きっとイサベラおば様も君も、義兄さん達のことで大変だと思ったから。僕としても最良の選択をしようと必死だったんだ。」
甘い声。ひくり、と震えるリーゼロッテを覗き込んで、優雅に微笑む。
「がんばったね、リーゼ。後は僕に任せてくれないか。君は若いし、女性だから、これからのことに大変な場面も多いだろう。進めている後見人の名義を、僕に置き換えてくれるだけでいい。イサベラおば様もその方が安心だろう。」
それから、とカルロは俺に視線をよこした。
「ドクターキリコと言ったかな。聞いてもらったとおりだ。10億の話は無しにする。可哀想なイサベラおば様の安楽死を施術してくれないか。」
返事はしない。代わりにリーゼロッテが爆発した。
「お婆様の安楽死を認めるってどういうことですか。後継人のことだって、私は納得してない!」
「君が納得するかどうかは、あとでじっくり考えればいいことじゃないか。それよりも苦しんでいるおば様の意思を尊重することの方が先だろう?」
「いいえ、大事なことよ!今、考えずにいつ決めるんですか!」
激しい口論になってきたところで、俺は横でまだもぐもぐしているツギハギの手をひいて食堂を出た。
高くなった日の光に、緑の葉がまぶしい。きれいに掃除された庭の隅。朝の探索で見つけた四阿は、広葉樹に囲まれて、適度に人目を遮ってくれる。その四阿の白いベンチに腰を下ろした。
「……めんどくせえ。」
仕事はできないわ、時間外労働はさせられるわ、その上お家騒動かよ。
「よくわからないけど、大変そうですね。」
お前だ、お前。俺を一番悩ませてるのは。もうこいつをひっ捕まえて、とんずらしようかな。それが一番いい。胃が痛む俺の気持ちなど露知らず、BJはぼんやりした口調で話し出す。
「私は有能な医者だと聞きました。イサベラさんを手術して、治療するために、ここへやって来たと。それは、あなたの眼から見ても真実でしょうか。」
「俺の知っているお前は、間違いなく医者だよ。」
「どんな医者だったのですか。」
こいつなりに記憶を取り戻そうとしているのか。それじゃあ真実を教えてやる。
「お前は医者だが、無免許だ。モグリの医者として、イリーガルな手術をする黒い医者、闇医者なんて呼ばれていたよ。手術の見返りとして、1億、2億と非常に高額な金銭を要求していた。」
俺の主観は抜きにして、できるだけ事実を告げた。彼は顔をこわばらせている。
「有能な医者であったのは、客観的に見て、そうなのだろう。世界中からお前の手術を求めて、依頼人が殺到していた。どんな難病でも可能性があるなら治療しようとする、生きることに執念を燃やした男だよ。」
しばらく見つめあっていたが、BJは困惑に耐えきれなくなったのか目を背けた。無理もない。お前の人生、相当なハードモードだものな。生い立ちとか、俺との関係とか、更に情報を与えるのはやめた。必要以上の混乱をもたらすべきではない。沈黙が満ちた四阿の中を、風が通り抜ける。
やがて決心したようにBJは口を開いた。
「やっぱり、私は自分のことを思い出すべきですね。私を必要としている人がいるのなら、それに応えたい。」
正面を真っ直ぐ見つめるBJは、以前の彼の面差しを彷彿とさせる。自然と頬が緩んだ。わかった。お前がその気になったのなら、俺も本腰を入れよう。この城を巡るいざこざは、当人たちに任せておけばいい。
「どうやらこの城は騒がしくなりそうだぞ。城を出て、静かなところで思い出すのが最良だ。」
「いいえ。イサベラさんが私の手を求めているのなら、城から出るのは納得がいきません。彼女を見捨てることになります。以前の私の感情なのか、それは嫌だと心から思うのです。」
ああ、そうだ。こいつはそういうやつだ。これだけの短い会話で信念を自覚するあたり、脈があるのかもしれないな。
「鞄持って来い。」
「ん?」
「お前の鞄。ごちゃごちゃ刃物やらが入っている、黒い鞄だ。持っているんだろう。」
「ああ、部屋にあります。でも、どうして?」
「それにはお前が仕事で使っていた道具が入っている。花の名前がわかるんだ。道具の名前も覚えているか確かめよう。俺も医者の端くれだ。お前が覚えていなくても、教えてやることはできる。」
ぱっと明るい顔になったBJは駆け出していく。緑の中に消えていく背中を見ながら、タバコを取り出す。とんだお人好しだと自分を嘲りながら、一服ついた。
さて、一応平然と構えてはいるが、さっきから視線を感じるんだよな。BJが出て行ってから、視線を隠す気もないようだ。やがてがさりと手前の茂みが揺れる。ひょこりと現れたのは、痩身の男。狐目に弧を描いて見せ、柔和な表情を作っている。
「あのー、ここ禁煙なんです。タバコ、消してもらっていいですかあ。」
「構わんさ。のぞきが趣味の人間に、マナーを説かれるのは心外だがね。」
誰彼構わずケンカを売るつもりはないが、このくらいはいいだろう。男は首をすくめて、心のこもっていない謝罪をした。
「すみませんねえ。新しいお客さんが、どんな方か知りたかったものですから。あ、僕、このお城の庭師です。アルベルトと言います。」
「どうも、アルベルト。俺はキリコだ。短い間だが、ここに世話になるよ。」
「特に僕がお世話することはないでしょうけど、ひとつお願いが。」
なんだと言葉を促すように、顎を上げた。
「あんまりリーゼロッテお嬢さんを、いじめないでやってくれませんかねえ。イサベラ様が倒れてから、僕たちの雇用を真っ先に保証してくれたのは、お嬢さんなんです。路頭に迷わずに済んだのはお嬢さんのおかげですから、同僚たちも感謝してるんです。」
アルベルトは細い眼の向こうから俺を見据えている。やれやれ子猫の次は狐に威嚇されるのか。リーゼロッテに変な真似をしたら、城の従業員が黙っていないってか。スパッとタバコを大きく吸った。煙の中から言ってやる。
「あの小娘とは話が付いた。俺のすることに口出しをしない限り、俺からアレに接触することはないから安心しろ。お前も俺の夕飯に毛虫をいれようとか、くだらんことを考えるなよ。」
ぎゅっとタバコを押し付けて火を消す俺に「おお怖い」と芝居がかったリアクションをして、アルベルトは庭の奥へ消えていった。その身のこなしは、戦場で見た誰かの姿と重なる気がした。あいつの任務は確か…過去の記憶を探ろうとしたとき、BJが鞄を抱えて戻ってきた。
鞄の中をひっくり返すと、ざらざらと医療器具がテーブル一杯に広がった。あまりの量に、ちょっと寒気がした。隣のBJも絶句している。忘れてても、お前の持ち物だからな。気を取り直して、簡単そうなものから名前を憶えているか質問をした。驚くことに、やつは概ね名前をあてることができた。答えられないものでも、用途を覚えていた。これはひょっとするといけるかもしれない。BJはとても嬉しそうだった。きらきらした瞳で笑顔を向けてくる。直視できない。
「ありがとうございます!あなたのおかげです。もっと教えてください!」
耐えられない。
「あー…それじゃ、敬語使うのやめろ。もともとのお前は酷く口の悪い人間だったんだ。丁寧に喋られると、ムズムズする。」
こてんと首を傾げて、BJはしばらく考え込んでいた。口が悪いってのが、きっと想像つかないんだろうなあ。これ、思い出さなくていいやつかも。でも俺の精神衛生上よろしくない。
「『バッキャロー』って言ってみな。お前、よくそう言って相手を叱りつけてたんだ。」
「ば、ばっきゃろー…?」
「思い切りが足りない。やり直し。」
それからしばらく俺たちは罵倒の練習をした。真っ白なハンカチを泥まみれにしていく気持ちだった。罪悪感でいっぱいになる俺のことなどお構いなしに、BJはまたキレイな笑顔を浮かべて「キリコはいいやつだな。」なんて抜かした。もう、本当に、勘弁してくれ。
【三日目】
次の日も庭の四阿で、医療器具を片手にBJの記憶を探る試みをしていた。
「キリコ、これはこんな使い方であっているか?」
「ああ。持ち方もあっている。」
「体が覚えてるって、こんな感じなんだろうな。」
手ごたえを得て自信が持てたのか、BJはとても満足そうだ。そこへリーゼロッテがバラを抱えてやって来た。庭のバラ園で摘んできたのだろう。棘が刺さるといけないからか、上品な白い手袋をしている。中身はとんでもない子猫のくせに、一応令嬢のたしなみはあるらしい。
「楽しそうな声がしたから、来てみたのよ。何をしているの?」
テーブルの上を見てリーゼロッテは硬直する。木漏れ日の下、俺たちは厨房でもらった鶏を解剖していたのだ。下処理をする前の鶏だから、血塗れの内臓がテーブルに散らかっている。優雅にバラを摘んでいた帰り道に、こんなスプラッタな光景を見るとは夢にも思わなかっただろう。
引きつるリーゼロッテに、BJは嬉々として昨日からの成果を説明した。ぱあっと彼女は破顔して、よかったとか、この調子よとか、今にもBJに抱きつかんばかりに詰め寄った。ほのぼのとした雰囲気が二人の間に満ちる。まあ、そうなるよな。タバコは、禁煙だったか。手持無沙汰な俺にリーゼロッテは向き直り、白い顔に渋面を作った。
「昨日はみっともないところを見せてしまって、ごめんなさい。」
「気にしてない。よくあるからな。」
昨日アルベルトに関わらないと言った手前、そっけなく言葉を返す。ついでにテーブルの鶏も片付ける。下に敷いていたシートごとバケツに入れるだけだ。彼女は言いにくそうに切り出した。
「身内の恥をさらすのだけど、カルロおじ様は借金がたくさんあるのよ。今回、私の代わりに後見人になると言い出したのもお金のため。きっとこの城も畑も売られてしまうわ。お婆さまとの思い出がある場所を失くすなんて、絶対に嫌。」
バラをぎゅっと抱き寄せる。腕に棘が刺さるのは痛くないのだろうか。
「お婆様を亡くすのも嫌。あなたの安楽死の仕事ができないように、私はあらゆる手を使うつもりだから。でもブラック・ジャック先生の記憶を取り戻してくれているのには、純粋に感謝しているわ。これからもよろしくね。」
少しは腹芸ができるようになったか。短い期間で成長できるのは若さだな。ただ俺を相手にするには100年早い。何か言い返されるのを期待していたようだったが、反応が得られないとわかったリーゼロッテは苦笑して、BJの方を向いた。
「応援しているわ。困ったことがあったら、何でも言ってね。」
BJの肩に手を置いて、彼女は城へ戻っていった。あの膨れた子猫が、あんなやさしそうな顔するか。なあ。
「おい、出て来い。お前のとこのお嬢さん、どんな性格してるんだ。」
リーゼロッテの姿が完全に見えなくなってから、茂みの方へ呼びかけた。案の定アルベルトが姿を現す。
「いやあ、僕もびっくりしてます。お嬢さんは昔から大の男嫌いで、万が一手でも触れようものなら徹底的に消毒する程の筋金入り。ご自分から肩に触れるとは、そちらの先生は余程の色男とお見受けしますよお。」
間違っちゃいない。こいつはとにかく女にもてる。関わった患者で、こいつに恋をした女を何人も知っている。物好きが世の中には意外と多いもんだ。あの子猫もその類か。
「あんな調子じゃ困りますねえ…」
柔和な表情を保ったまま、アルベルトはリーゼロッテが去った方向に視線をやる。
「お前、妬いてるのか。」
「まさか!あんなじゃじゃ馬、僕の手には負えません。恐ろしい!」
恩がある雇用主だろ。まあ、あの気性じゃ無理もない。「お嬢様に言わないでくださいね」とアルベルトはウィンクらしきものをした。細い狐目じゃ、片目を瞑っているのか判断に困ったのだ。
「とにかく覗きは、もうやめろ。次やったら、恐ろしいお嬢さんに告げ口するからな。」
「やめてくださいよお。そちらこそ、鶏の始末きちんとして下さいねえ。」
へらへらと庭の奥へ消えていくアルベルトの仕草は、やはりジャングルでの戦友の身のこなし方と同じだった。
俺とアルベルトが話している間、BJは黙りこくっていた。さっきリーゼロッテが落としていった、真っ赤なバラの花びらを摘んで、じっと見つめている。
「バラが、どうかしたのか。」
「うん。多分、なんだが、たくさんの赤いバラの花びらが舞うイメージと、黒っぽい赤の自動車のイメージが重なるんだ。思い出しかけていること、なのかな。」
「その車は誰が運転していた?」
「顔は、わからない。すごく笑ってる男。滅茶苦茶な運転をしているのに、笑っているんだ。」
「それ、俺。」
「えっ?」
BJはにわかに後退った。
以前、昔のよしみのために俺をタクシー代わりにしたから、愛車でぶん回してやったのだ。こいつの記憶の中で、余程俺は異常に見えていたらしい。当然か。あの時はちょっとキレてたし。でもお前が原因なんだぞ。俺たちの関係については適当にぼかして、その時の状況を説明した。BJは釈然としない表情をしている。ひどく情報量が足りてないのはわかるが、言いようがないのだ。
「わかった。お前は何かを隠してる。俺に知られたくないことなのか、言いたくないだけなのかは分からないけど。俺に関する情報を、お前は予想よりたくさん持っているみたいだな。」
ご明察。言いたくない。
「俺はこれからお前につきまとうぞ。嫌だって言っても聞かないからな。こっちも人生かかってるんだ。お前が言葉にすること以外の情報を、行動からも読み取ってやる。そこから絶対に記憶を取り戻す。」
ああ、強引な性格が戻ってきた。嬉しくない。
それから宣言通り、虫かごのカマキリでも観察するように、BJは俺を睨みつけ続けた。そんな状況で食べる夕飯は、全く味がしなかった。
ぐったりして部屋へ戻ると、ドアの隙間に紙切れが挟まれている。何が書かれているのだろうと扉を開けると、ランプの明かりにきらりと光るものがある。ベッドの上だ。近づいてみると、枕に深々とナイフが突き刺さっていた。あからさまな警告だ。紙切れを開くと、タイプされた文字が並んでいる。
〈今夜11時、厩へ来い〉
差出人は、あの人しかいない。用件もわかる。ただ、寝首をかかれるのは困る。本当にめんどくさい。早くこのヤマ片付けたい。しぶしぶ俺は出かける準備をした。
城の南側に古い厩がある。かつては何頭も駿馬が揃っていたのだろう。そこそこの大きさがある。現在、馬が一頭もいない厩は空っぽで、手入れもされず、廃墟のようになっている。防犯上よいとは言えない。この城が建つ穏やかな田舎では、放火や窃盗犯とは縁が薄いようだ。月明かりの下、あえて分かりやすいように足音を立てて、厩の前に立った。やがて人影が向こうからやって来る。予想通りの人物は、ゆったりと夜の挨拶をした。
「こんばんは。ドクターキリコ。約束を守ってくれたんだね。」
「こんばんは。ミスターカルロ。できればもっと丁寧なお手紙が欲しかったですね。」
金の髪を揺らして、くつくつとカルロは笑う。彼の後ろに黒髪の女が立っている。
「善処しよう。ああ、これは妻のエマだ。よろしく。」
月明かりの下でもわかる、脚線美を強調するようなドレスを纏い、大きくあいた胸元を突き出して会釈する。この女、昨日の食堂にもいたな。ご自慢の容姿なら褒めておくか。
「美しい奥様ですね。羨ましい。」
「いやいや、これでもかなりの年増でね。それなのに少女のように私のことが心配で、この場にもついてきてしまった。困ったものだよ。」
カルロはエマの長い黒髪を一房すくう。いちいち気障ったらしい男だが、王子様の容姿にはぴったりだ。俺は適当に相槌を打って、本題に入れとばかりに営業スマイルを貼り付けた。
「リーゼロッテが君に迷惑をかけてしまっているね。私が到着するのが遅かったばかりに、申し訳ない。」
「契約が成立していますから、お気遣いなく。」
「それなのだけどね。君に早くイサベラおば様へ安楽死を施してほしいんだ。今のおば様の様子は、君も知っているだろう。とても痛ましくて、私は見ていられなかったよ。あの気丈な人が…」
言葉を詰まらせるカルロに、エマが寄り添う。
俺はイサベラに会っていなかった。安楽死医という危険人物を、容易にイサベラの部屋へ入れるわけにはいかないと、リーゼロッテが徹底した厳戒体制を敷いたからだ。最初から予想された事態なので、ドアの前に警備員まで配置されれば、無理に面会する利益はない。ただ警備員同伴のもと、城のお抱えの医者がイサベラの部屋へ出入りしているので、その医者から彼女の容態を聞くことはできた。今は小康状態とは言えないが、悪化はしていないらしい。
「リーゼロッテさんにも言いましたが、私はイサベラさんと交わした契約によってここにいます。更に、あのお嬢さんとも個人的に契約を交わし、正式に書面も作成しました。まずはリーゼロッテさんとの間で話し合ってください。城を巡るトラブルは、私には関係のないことです。」
今の俺には大きな枷がついている。記憶障害を起こしたBJだ。当初はあいつを連れ去る予定でいたが、本人がそれを望まず、また俺もBJの記憶を取り戻すことを優先している。
「10億の話か。闇稼業の人間が、金に汚いというのは本当だな。」
そらそら王子様、仮面が剥がれかけてるぜ。
「ドクターキリコ、私は大恩あるイサベラおば様が、これから1週間も無意味に苦しむのが耐えられないんだ。きっとおば様もそうだろう。いいや、間違いない。君に知らせを送ったのだから。どうか早く施術してほしい。リーゼロッテの説得は、私が責任を持つ。」
1週間の期限については、俺も思うところがないわけではない。しかし期日が来れば、必ず契約を果たす。まだイサベラとの契約は有効なのだ。そもそも今回の契約に何の関係もなかったカルロは、イサベラの死期について口出しできる立場にない。なぜ急ぐ。
「君もわかってきているだろうが、リーゼロッテは経営者に向いていない。彼女がもたらすだろう経営の失敗によって、この城の財産に関わる大勢の雇用者を混乱させるわけにはいかないのだよ。私はおば様の後を一日でも早く継いで、城の財産の安定運用に努めたいんだ。そうしなければ、この地方の産業の大きな損失に繋がってしまう。古くからこの地に残る城の血縁として、城の財産を残すことが僕の使命だと信じているよ。」
何か引っかかる。カルロにとって遺産相続者になることと、イサベラが死ぬことは別件だ。イサベラがどんな状態にあろうとも、リーゼロッテと話を付けるだけでいいのだから。大学をでたばかりの小娘が、そんなに脅威なのだろうか。黙ったままの俺に、カルロは眉目を曇らせ、金の前髪を横に振る。
「わかってほしい。報酬の金額についてはさておき、君が安楽死を引き受けてくれるのなら、然るべき待遇を用意する。きっと満足させると約束しよう。」
「ひとつ、質問をしても?」
構わないとカルロは両手を軽く開いた。
「10億を超える謝礼は、具体的にはどのようなものをお考えでしょうか。それを聞かせてもらえませんと、検討ができません。不確定要素を可能な限り排除するのは当然のことでしょう。現地点でのお考えで構いませんので、お答えいただけますか。」
契約云々は抜きにして、どんな対価を示してくるか単純に興味があった。城の財産について、あれ程熱意をもって語るのだ。きちんと管理した虎の子でもあるのかもしれない。だが借金まみれだというこの男が、10億に代わる金品を準備できるかどうか半信半疑だ。俺が話に乗って来たと思ったのだろう。前に進み出たのはカルロの妻だ。
「この周辺の土地を、お好きなだけ。または工場の株式の半分を差し上げても構いませんわ。」
…あー。わかった。
頭使って損した。
さっきまでのシリアスモードが、へなへなと抜けていく。慣れないことするもんじゃないな。
こいつらは城の財産について正確に把握していない。ついでに地価や株式についても、ド素人の知識しかない。金は支払い方に工夫のしようはあるが、土地や株式の売買はそうはいかないのだ。リーゼロッテも似たようなもんだが、あいつは自分なりに財産管理について理解しようと、馬鹿正直に帳簿に向き合った。工場、ワイナリー、葡萄畑の面々に認めてもらおうと走り出している。財産を守ろうとする姿勢だ。だが、こいつらは財産を手放すのに躊躇いがない。イサベラの後を継ぎたいと言いつつ、土地を真っ先に手放すようでは、金目当てだと背中に大きく書いてあるようなものだ。そもそも俺が土地や株をもらって、喜ぶと思っている辺り、非常に残念だ。
目星がつけばカルロがリーゼロッテと対立する構図がわかる。
「失礼ですが、イサベラさんが倒れる前に作成された遺産の生前分与の取り決めに、カルロさんのお名前はありましたか?実はイサベラさんが私の医院に来た時に、遺産についての書類を見せてもらったのです。その中に、あなたのお名前は…どうだったかな。土地に関する項には無かったような…」
金髪の美麗な表情は崩れなかったが、後ろの黒髪の女の顔は歪んだ。かかった。
「そんなことはありませんわ。夫の名前は一番初めに書かれておりました。」
「見落としておりましたか。まさか、初めから財産分与の対象になっていなかったのではと、心配になったのです。そのような立場の方が、イサベラさんの後を継げるはずがありません。重ねて失礼をいたしました。」
茶番だ。そんな書類は見たこともない。こいつらはリーゼロッテよりも、生きていれば必ずリーゼロッテの後ろ盾になるイサベラの存在が怖いのだ。遺産の相続の権利さえない外野が、混乱に乗じて遺産をかすめ取ろうとしているだけ。
「ご理解いただけたかな。イサベラおば様を、天国へ導いてあげてくれ。その後は君の望むままだ。」
〈天国〉〈導く〉下水にでも流したい言葉だ。俺は営業スマイルで胸に手を当てる。そのまま一礼。道化地味た仕草が、我ながらバカバカしい。実際バカにしてるからいいんだが。
「残念ですが、お断りします。あなた様よりご明示いただきました条件では承諾しかねます。僭越ながら、これでも信頼と実績で商売を成り立たせておりますので、何度も契約を更新しますと、私の今後の仕事に障りが出ます。ご期待に沿えず申し訳ございません。」
ここまで話して交渉決裂すると思っていなかったのか、酷く驚いた顔をした直後、カルロは俺を睨みつける。お奇麗な顔立ちのおかげでイマイチ迫力がない。カルロがサッと手を挙げると、厩の裏からゾロゾロと男が現れる。手に棒きれのようなものを持った奴もいる。ちょっとした威嚇か、または本当に痛めつけるつもりか、どちらにしろあまりの短慮にげんなりした。王子様は、おつむが残念だ。それなら俺も合わせてやろう。
「手荒なことはしたくないのだが、よく話し合おうじゃないか。こんなところでは無粋だな。是非我が家へ招待しよう。」
何十回も聞いたテンプレート。笑いをこらえるのに必死だった。「それは困りますなあ。」なんてオーバーリアクションをして、ジャケットから小型のボトルを取り出す。たぷたぷとボトルの中身を見せつけながら、雑草の花を手折る。不思議なものを見るようなカルロたちに花を突きつけ、ボトルの中の液体を垂らした。じゅっと音を立てて、勢いよく花から白い煙が噴き出す。
「強い酸です。あなたのお顔にかけたら、その美貌はどうなるでしょうね。」
黒い眼帯を見せつけるように、カルロの前へ迫る。「ひっ」と悲鳴を上げて、カルロとエマは後退る。後ろの男たちにも牽制をしておく。
「あんたたちも、金をもらってるんなら、もう帰れ。この男は借金まみれだぞ。ボーナスなんか期待するな。すぐに帰るのなら、警備員には黙っておいてやる。それとも酸をかけられてでも、この男に義理を果たす恩があるのか。」
「なあ。」カルロの横に立つ、リーダー格と思しき男に目くばせする。リーダーは黙っていたが、乱杭歯を見せて、にやあっと笑った。すかさず後ろの男たちに合図をすると、彼らは暗闇の中にあっという間に消えていった。
カルロたちは捨て台詞ひとつ言えず、もつれあうように厩の前から逃げ出した。素人が生半可にゴロツキに声をかけるから、こうなるんだよなあ。あいつらは一度掴んだ金蔓を離さない。カルロは連中にしばらく追い回されるだろう。リーダーもその辺わかって撤退したみたいだし。闇稼業の人間は、本当に金に汚いんだよ。
ボトルのキャップを閉めて、ジャケットの中にしまう。中身は手品で使うような液体だ。揮発するときに、派手な煙を立てる。それだけ。本物の酸なんかジャケットに入れられるか。手折った花は瑞々しいまま。せめて一晩だけでも部屋に飾ってやろう。眠気をこらえて城へ戻った。