瞬き

クロオは妻が今の仕事を続けているのが不満である。

妻のキリコが看取りのホスピスに勤め、緩和ケアの仕事に誇りを持ち、やりがいを感じているのは知っている。だけれども、どうしても、死と近い場所に妻がいるのは気分がよくない。幼少期の事故で自分自身も生死の境をさまよい、母を失ったクロオにとって死は憎む対象であり、アレルギーのように反応してしまうのだ。社会人になり大きな病院に勤めるようになって、クロオ自身も患者の死に立ち会う瞬間はあるが、どうしても慣れることができないでいた。

「新しい人が入るから、今日から1週間引継ぎする」

キリコの突然の報告に、クロオは手放しで喜んだ。キリコが結婚を機に辞めた仕事に復帰する条件は、彼女の代わりになる人員が補充されるまでだというものだったからだ。やたらと機嫌がいい夫に見送られ、キリコは家を出た。

キリコの代わりに入る新人は若い男性で、少し軽い印象がした。明るい髪色にやや痩せぎすの体。今どきの流行の体型と言うのだろうか。キリコは硬い筋肉質の夫を思った。

新人は愛想が良く、どんな人にも気軽に話しかける。軽さは明るさでもあるのかと、彼に対する見方を変えた。キリコがいつも行っている仕事の手順、備品の場所、説明をしているうちに昼休憩になる。

キリコは配膳の仕事へかかり、新人に休憩を取らせた。

午後からの引継ぎで、洗濯室で二人きりになったときだった。新人が後ろから声をかけてきた。

「キリコさんって、結婚してるんですね」

「うん。ちょっと前にね」

新人に背を向けてシーツを洗濯機に入れる。

「弟さんと結婚したんだ」

誰から聞いたのやら。職場にクロオがポリクリで来たことがあるから、現在の職員はみんな事情を知っている。血がつながっていない事、結婚に至るまでの経緯、知っていて当り前に接してくれる職場のスタッフにキリコは感謝していた。

「そうだよ。血がつながっていないんだけど、戸籍上は弟だったし。私、養子なんだ」

好奇の眼で見てくる者は多い。バイク事故で入院しているときに思い知った。だけど自分たちにはやましいことなど何もない。

「へえ、じゃあ、あれスか。レイプとかされたんですか」

言葉の衝撃に後ろを振り向けなかった。

「あるじゃないですか。18禁モノで近親相姦のやつ。大概弟が姉をレイプして始まるんですよね。それからズルズル体の関係が続いていくって流れで」

言葉に嘲りの色が滲んでいる。

頭に来て新人の方へ向き直ると、彼の視線に捕まってしまった。まるで爬虫類。新人は珍しい小動物でも見るかのようにキリコの体を物色している。きっと先程背中を向けていた時からそうだったのだろう。

「エロい体してますもんね」

体中が怖気立った。キリコは逃げるように洗濯室から飛び出した。

「明日もよろしくお願いしまあす」

新人の軽い声が廊下に響いた。

家の玄関を開けるとカレーのにおいがした。今日はクロオが夕食を作ってくれたのだと思い至る。夫は機嫌がいいとカレーを作るのだ。これがまたキリコが作るカレーとは違う味わいで美味しい。キリコのカレーは最小限のスパイスで、野菜の旨味を引き出すシンプルな料理。クロオの作るカレーはこだわりの配合スパイスと、隠し味てんこ盛り。毎度味が変わり、同じものは二度と作れない一期一会のカレーだ。

今夜のカレーはどんな味かと想像すれば、キリコの心がほっと安らいだ。

にこにこしながら夕飯を頬張る。そんな様子を見ていれば、職場での出来事など些細なことに思えた。あんな人間はこれからもきっと現れる。いちいち気にしていられない。何より結婚を決めたあの日に覚悟はしたのだから。

クロオの体温の高い腕の中で、キリコはゆっくりとまどろんでいった。

職場で大人数といる時は、新人は実に好青年のようにふるまった。

軽い口ぶりで相手を笑わせたり、ときおり流行のモノマネなどしつつ、あっという間に皆の中に溶け込んでいくように見えた。

しかしキリコと二人きりになると、とたんに表情が変わる。あの爬虫類を思わせる目つきで彼女に接してくる。負けるものかと背筋を伸ばして対峙するも、新人はにやにやとキリコの胸を眺めるのだ。

そのくせ仕事の覚えは良い。三日もすれば引き継ぐべき事項は、ほとんどなくなった。キリコは人事担当に引き継ぎ業務が終了したので新人から離れたいと申し入れたが、いつの間にか後ろに立っていた新人が不安だから最後まで指導してほしいと件の好青年モードですがりついてきた。

結局キリコは最後のお務めだからと、退職までの貴重な日々を新人と過ごすことになってしまった。

とても耐えられない。

仲の良い同僚に話を聞いてもらおうとすると、いつも必ず新人が現れる。ついに彼は昼食の時までキリコに付きまとうようになっていた。

退勤後に同僚に電話をかけてみようかとも何度も思ったが、あと数日なのだからと思い直してしまう。

ぼんやりとコーヒーカップを手にしたままのキリコの横にクロオが座る。ソファが軽く軋む音でキリコは我に返った。

「どうした。最近なんか顔が暗い」

「そう、かな。体調は悪くないんだけど」

夫の勘は鋭い。些細な変化も必ず気付く。

「仕事辞めるの、寂しかったりする?」

ああ、そうだった。もう数日で辞めるんだったとキリコは思い出す。どうもあの新人のせいで、感慨深いとか、そういう気分にならなかったのだ。

「まだわからないや」

正直に口にした。今夜は早く帰ってきたクロオにあの新人のことを話せば、胸の中のもやもやがきっと晴れるだろう。ただ夫は非常に直情的なので、言葉を選ばないと職場に殴りこんで行きそうだが。

しかしクロオの方が先に口を開いた。

「俺はうれしいよ。お前が今の仕事辞めてくれて。」

知っていた。クロオの気持ちは知っていたが、ちくりと胸に刺さった。

「働くなとは言わない。だけどあの仕事は死に近すぎる。俺は正直好きになれなかった。他にもお前に合う仕事はたくさんあると思う」

次を見ろとクロオは言いたいのだろう。しかしキリコは今が大切なのだ。

「私はホスピスの仕事、やりがいがあって、嫌いじゃないよ」

「もう辞めるって決まってるじゃないか。新人に任せられるようになった?」

新人、その単語が出たときにキリコの中で何かがはじけそうになった。

「…もう十分みたい。先にお風呂入るね」

ふくらんだ感情を押さえつけて、彼女は湯船に沈む。

今が通り過ぎれば何でもなくなるのだ。今までずっとそうだった。これからもそうしていけばいい。

それは14歳で家族を支える立場になったキリコが身に着けた術だった。

珍しくキリコは夢を見た。大型ワンボックスカーでドライブに行ったあの日。事故に遭って、何もかもが変わった日。

自分と同じように片目を欠損した年上の青年と一緒に見舞ったのは、四肢がもがれて芋虫のような体でベッドに横たわる女性。全くの他人だった。あのワンボックスカーに二人の少年と乗っていたのは覚えている。女性はやっと口元に笑みを作り、キリコたちを養子に取る手続きをしてくれた。

与えられた家に住み始め、慣れない事ばかりで泣くことさえ忘れた。後に長兄と呼ぶことになる青年は家事はなんでもできた。彼は必然性があったから覚えただけだと言ったが、さして重要でもなさそうだったので話はそこで終わった。キリコは彼から必死で家事を覚えた。覚えなくてはこれから先に退院する弟たちの世話などできないからだ。

弟たちが来てからは、正直記憶が曖昧だ。満足に動けない下の弟は、幼すぎて現状を理解できず、毎日のように夜泣きをした。下の弟がキリコを慕うのに時間はかからなかったが、依存が過ぎてキリコから離れることを極端に嫌がった。長兄にも懐いたが、いざとなるとキリコが出てやらないと下の弟は満足しないのだ。寝ているのか起きているのかわからない時期が続き、キリコ自身もまた学業と家庭を両立させる綱渡りのような日々だった。

戻ることも帰ることもできなかった。あるのかわからない前に進むしかなかった。

ついに明日退職する日を迎えてしまう。

クロオはキリコの顔色が悪いことを心配しているが、当のキリコがその心配をやんわりと退けている。どうせ仕事の話になるのだ。わざわざ険悪な環境になることもない。

職場の皆は別れを惜しんで手紙など送ってくれる人もいる。そこに書かれた心からのメッセージにキリコの心はたちまちにあたたかいもので満たされる。ここで働いてきて良かった。思いが通じる有難さを思うのだった。

そうしてふくらんだ気持ちも新人に会うと潰れるようにしぼむ。

「あと一日ですねー」

新人は最近髪に金色に近いハイライトを入れた。

「もう一人でできるだろうから、がんばってね」

キリコは無理矢理にでも笑った。笑顔も鎧だ。

「俺的にはまだ教えて欲しいことあるんですけどねー」

この先には洗濯室しかない。思わずキリコの足がもつれたところに腕を掴まれ、洗濯室の中に引きずり込まれた。

大型洗濯機に背中、キリコの両手は新人に縫い留められる。

声を出せないよう、新人の手がキリコの口を強く覆った。

「ねえ、俺思うんですよ」

爬虫類の眼が歪む。

「弟に股開くような姉ちゃんなら、俺とも一発ヤッてくれないかなって」

キリコは自分の太ももに当たる熱い塊の存在に気付いた。

「あんた、いいオカズになりますね。でももうそれじゃ物足りなくなっちゃって」

結婚した今ならわかる。これからこの男が何をしようとしているのか。

だけどもと心を持ち直す。冗談ではない。どうしてこんなにも遠慮しなくてはならないのだ。犯罪じゃないか。もう明日で終わりなのだ。もうご機嫌伺をする必要もない。

キリコが力いっぱい暴れると、筋肉のない棒のような腕の拘束が外れ、彼女の爪が新人の手の甲を引っ掻いた。キリコはそのまま一直線に洗濯室から脱出し、荷物を掴んで職場を出た。

なにを言われたのか冷静になると分かってくる。エコーのように頭の中で繰り返す。

空がだんだんと赤くなり、風はとうに冷たい。木の枝が揺れる音がする。

手の中でぬるくなる紙コップのココア。

人は見える範囲にはいない。古びたスピーカーがアナウンスを繰り返す。

私はそんなに後ろ指をさされるようなことをしたのだろうか。

キリコはずっと考えている。

仕事のこと。クロオと結婚したこと。

自分ではきちんと納得して行動しているのに。

なにかやり方がまずいのかもしれない。もっと言いたいことを口にすればいいのだろうか。だけどそれが良い結果になったことがない。大抵はかなわない要求になるからだ。

そうだ。学生の頃にもあった気がする。長兄がバイトをやり繰りしてくれて、三日間へケートちゃんの別荘に遊びに行くことになった時のこと。うれしくて仕方なくて、長兄もお小遣いまでくれたから、へケートちゃんとおそろいのパジャマを買った。

だけど前日の夜に下の弟が高熱を出して熱性痙攣を起こしてしまった。まだ当時は車椅子だったから救急車を呼ぶことになって、そのまま緊急入院。

まだ中学生になったばかりのクロオを一人で何日も家で留守番させるわけにはいかないと、へケートちゃんとの約束は流れてしまった。へケートちゃんはそういうこともあるわと笑って、クロオと留守番する家に来て、とっても高級そうなゼリーを一緒に食べておしゃべりして帰って行った。

本当は約束を守りたかったって言いたかった。

だけどしかたのないことだから、言っても変わらない。

謝ることしかできなかった。

過去を思えば芋づる式に記憶が呼び出される。

とりとめもなくキリコはクロオの学生時代を思い出していた。

下の弟が幼少期手がかかった分、クロオの反抗期は凄まじかった。これまで目が届かなかった分「俺を見てくれ!」と全力で叫ぶような問題行動に、長兄とキリコは昼夜を問わず奔走した。このころは長兄はすでに社会人として働いており、比較的時間に余裕のあるキリコが対応することが多かった。キリコは気が付かなかったが、長兄が言うにはクロオの行動にはパターンがあるらしく、それが自分に起因するとは当のキリコは思いもよらなかった。

キリコを殴ったことで長兄に粛清されたクロオは別人のように学業を修め、いつの間にか医師の資格も取り、勤務する病院まで決めてしまった。相変わらずクロオの行動に目が届いていないななどと自省するキリコに青天の霹靂が落ちるのは直後のこと。

「結婚を前提としたお付き合い」

誰のことを言っているのかわからなかったなあ…

キリコはすっかり冷えてしまったココアを飲む。

クロオはいつごろからそんなことを考えていたんだろう。高校生の頃から女の子と遊んでいたみたいだし、割と最近なのかもしれないな。

「エロい体してますもんね」

新人の爬虫類を思い出して肌が粟立った。

あんな目をして私を見ていたのだろうか。全然気が付かなかったけれど、そう言えば一時期目を合わせてくれないことがあったな。男の子はそういうもの?長兄が弟たちのシーツや下着に一切手を触れさせてくれない時期があったけど、それが関係するのかな。

キリコは男所帯で生活していたにもかかわらず、妙に擦れることなく現在に至っているのは長兄の鉄壁のガードがあったからだ。これはキリコのためでもあり、弟たちのためでもある。

過度のスキンシップを求める黒男に小学生になったら女の人に簡単に触ってはいけないと教育し、明らかに女としてのキリコを意識しだしたクロオには度々軌道修正を試みている。

それはいくつものシステムを家族の生活の中に組み込むことになったが、長兄以外で正しく把握している人間はいない。例えば分かりやすいものだと、キリコの服は分けて洗濯し、下着は絶対に彼女の自室で干す。彼女の部屋だけは鍵付き。風呂に入る順序さえ決めた。

だからと言うか、キリコは弟たちの性の目覚めさえ知らない。幼いころ一緒に入浴していたあの時期で止まっている部分すらある。それを知っているからこそ幻滅されたくないと、弟たちは必死でリビドーのかけらをキリコから隠していたわけだが。

結果キリコは男性の性に対して非常にふんわりとしたままになった。加えて多忙な日常生活による限定された交友関係。女友達が主で、高校生の時にできた彼氏は奇跡のような存在だ。だが彼といた時間はとても短く、清いものであったため、男女の交際とは手をつなぐ程度のものだと誤解をする。大学時代はクロオの更生に奔走していたので、学友の赤裸々な色恋沙汰を耳にする時間もなかった。結果キリコは年齢に対して、性に関する知識をほとんど持ち合わせていない。

長兄はキリコには早く家を出て自分の人生を見つけて欲しいと思っていた節がある。

それを横から思いっきり突き破って、キリコを掻っ攫っていったのがクロオだ。

「いつの間にか旦那さんになってるんだもんなあ」

吐く息は白く、ロープウェーはとうに止まっている。

ここでプロポーズをされたんだ。心肺蘇生した後にプロポーズってそんなシチュエーションないよねえ。本当に勢いだけのひと。

キリコはうすく笑った。

「なーに笑ってんだ」

ぎょっとして振り向くとクロオが立っている。

「なんでここに」

クロオはグレーのライトダウンジャケットのジッパーを全開にして、冬の風にはためくままにさせている。寒くないのだろうか。

「俺のセリフだ。職場からいきなりいなくなったって連絡来て、生きた心地しなかったぞ」

のしのしと歩いてキリコの前に立つ。夕闇の薄暗がりの中でクロオの顔に幾筋もの汗が流れているのが見える。肩は激しく上下して、随分長く走っていたんだろうなと思わせた。

「それ、ちょうだい」

冷たくなったココアをキリコから受け取ると、クロオは一気に飲み干した。

「もう一杯飲みたい。自販機行こう」

水のような温度のキリコの手を取って、クロオは自販機へ向かう。真っ暗闇が自販機の明かりの周りだけやたらと濃い。クロオは十円玉を何度も落とした。あたたかいレモネードとあたたかいカルピスを持って、二人でベンチに座った。

彼は何も言わずにコップを口につけている。

沈黙に耐えられなくなったのはキリコの方だ。

「理由、聞かないの」

「なにから聞いたらいいかわからん」

そう言うと、まだ熱いカルピスを舐める。

「わからない自分に腹が立ってる」

怒ってるんじゃないか…レモネードの湯気に鼻先をつけるキリコだが、彼女自身何から話せばいいかわからない。職場であったことに始まるのは明白だが、続きは?クロオとの結婚は正しかったのか?聞けるわけない。今までの自分の生き方?泥沼になりそう。

ぐるぐるとしていると隣からトーンを落とした声がした。

「俺の勘だから、違ったら違うでいいんだけど」

ほとんど暗闇なのに、夫の瞳が見えるのはなぜだろう。

「お前、誰かに暴力振るわれたか?」

ばしゃりとレモネードが土の上に落ちた。キリコの固まったままの腕をクロオがそっととる。そして彼女の手首についた指の痕を静かになぞった。

あ、そうか。あれは暴力だったのか。逃げられなかったら今頃。

途端にキリコはめまいのような感覚に襲われる。隣のクロオがしっかりと肩を抱えてくれた。彼のタバコの香りがするライトダウンに顔を埋めていると、体温がしみてくる。クロオは何度もキリコの背中をなでて、彼女の呼吸が治まるのを待った。

「誰に?」

やがてクロオは真実を尋ねる。

「職場の…新人。私の代わりに入る人」

キリコも重い口を開く。

「どこで?」

「職場の裏手にある洗濯室で」

「そうか」

クロオはずっとキリコの背に手を当てている。

「掴まれて、のしかかられたんだけど、暴れたらすぐ逃げられたから…」

「大丈夫じゃねえ。絶対に。他には?何か言われたか?もう全部言ってくれ」

「クロオも聞いて気分がいい言葉じゃないと思うけれど」

「…予想した」

夫の声に静かな怒りが満ちているのを感じる。それでも伝えてくれと言うので、ありのままを話した。

「近親相姦か。クソ地雷」

唸るように吐き捨てて、クロオはぬるくなったカップの中身を飲み干した。

「俺は絶対そうなりたくなくて、あんなに時間かけたのになあ。他人にはわからねえし。単純にそいつが気持ちわりぃ」

「その辺の話、私聞いてない」

「あん?」

「クロオが私にかけた時間の話」

んーとクロオは顎をなでる。今なのか?つか言ってなかったっけ?知ってると思ってたとかぶつぶつ。キリコはそんなクロオを暗闇の中から見つめている。思えばクロオの勢いに流されるばかりだったような気がしてきたからだ。じっとりした視線に、半ば降参とクロオは唇を尖らせた。

「…中学の時からだよ」

「えっ?!」

予想外の答えにキリコの声はひっくり返った。そんなに前からだとは思いもよらなかったのだ。クロオもバツが悪いのか、前髪をがしがしとやっている。

「知らなかった」

「だろうな。俺自身絶対バレたくなかったし。あと長兄がスゲーがんばって軌道修正しようとしてたし」

「でも高校のときとか彼女いたじゃない?」

「そこも話すのかよ…」

クロオが今まで必死に隠してきたキリコへの思いの澱みの部分。それを伝える時が来てしまった。キリコを襲った不届きものへの怒りはひとまず腹に収めた。なんだかこの話にかかわりがあるような気がしたからだ。クロオは夜闇に紛れてお互いの顔が見えないのを勇気のなさの言い訳にした。

「聞いててきつくなったら言って。そんなに楽しい話でもないし」

事故の後、意識が戻ったクロオの前に立った青年と少女は、これから自分たちは兄弟になると言った。下手な嘘をつくなと思ったのが初めの記憶。

退院するとどうしてもクロオは偽の兄姉に助けてもらわないと日常生活ができなかった。邪険にもできなくなり、幼い心なりに折り合いをつけて形式的にキリコを「姉さん」と呼んだ。全然自分に似てないし、ましてや母さんにも似ていない。そんな少女をどうして本気で姉だと思えようか。

クロオの感覚とは裏腹に、キリコは日増しに姉の姿に変わっていった。

下の弟の存在が大きい。キリコを「ねーね」と呼び、べったりくっつく弟を世話する度に、彼女の顔つきは変わっていったのだ。赤の他人なのに、本当の家族を慈しむかのようなものへと。それがクロオにはとてもまぶしく見えた。手伝いをすればキリコはその笑顔をクロオだけに向けてくれる。情に餓えていたクロオはうれしくてたまらなかった。姉ではないけれど、傍にいれば自然とあたたかい気持ちになる。小学生までのクロオの認識は「キリコは血縁のない同居人だけど、いっしょにいて安心する人」だった。

クロオがキリコへの思いを、初めて意識したのは中学生の時。

きっかけは覚えていない。多分キリコの手が触れたとか、彼女の髪が揺れたとか、それくらいの些細なものだ。恋心を自覚すると同時に酷い自己嫌悪に陥った。気が狂っているに違いないと、精神科の門を叩こうとしたこともある。クロオ自身はキリコを姉だと認識していないが、家族の役割としては、彼女は確実に姉であり母でもあった。そんなキリコに自分が抱くのは劣情以外の何物でもなく、下の弟に向けられるような慈愛に満ちたまなざしに晒すことなど考えられなかった。

このときクロオが感じた慈愛云々というのは一種の虚像なのだが、初めに刷り込まれてしまった印象に彼は後々まで苛まれる。

自分がおかしいと思い込んだクロオは、段々と自棄になる。どうせ廃人なのだと開き直ったりもした。だけど、どうしてもキリコを恨むことができなかった。

散々疎ましく思えるにせものの繋がりだけがクロオを留めていた。

高校生になると、さすがにこのままではまずいと自覚するほどキリコへの感情が昂っていた。長兄はそんなクロオへの警戒をあらわにしていたため、間違いを犯す隙などなかった。しかし身体はすっかり成長して、腕力にものを言わせればクロオがキリコを組み敷くことなど容易かった。

だけどそんなことになってキリコを傷つければ生きてなどいられない。彼女の涙の上に立つ欲望なら刈り取ってしまえばいい。

他の子を好きになれば、不毛な思いから解放されると願っていた。童貞を捨てて、電柱の裏で激しく嘔吐した。女の子の全ての感触が脳内をかき混ぜるようにまとわりつく。俺が欲しかったのはこれなのかとクロオは体液が出尽くすほど吐いた。

勃起はする。射精もできる。ただその後がひどい。必ず吐く。これじゃない、違う、こんなことをしてはいけない、あらゆる否定の感情が一気にクロオに向かう。吐こうがなんだろうが自分の欲望に忠実なくせに、いい子ぶっているのがバカバカしい。キリコを抱くのを想像することさえできない最低な弱虫のくせに。仲間に笑われたりもしたが、とにかく女の子と関わるのがおっくうになってしまったのは、この時期からだ。

ほとんど学校に行かず、ぶらぶらしていたころ。偶然キリコに見つかり、しばらく二人きりで話ができた。外で話せたのもよかったのだろう。キリコが笑った顔を見て、たちまち浮足立つ心にクロオは苦笑するしかなかった。

ついに長兄のヤクザキックが飛んできて、ボコボコにされた日。長兄の片目がこの世で一番怖いものに見えた。その後長兄はクロオに家族としての最後通告の手前ともとれる言葉と、この先を見据えた言葉をかけた。キリコが手当てしてくれた絆創膏と包帯まみれの姿でクロオはキリコと共に生きる未来を初めて考えた。

彼女が自分のとなりにいてくれる未来は、想像するだけならとても心地よかった。

だけどそれを実現するためには、非常に高くて鋭利なハードルがいくつもあると高校生になるとさすがに分かった。諦められるならとっくの昔にしている。クロオは動き出すことにした。あの長兄も認めるような状況を作って見せる。

とりあえず進路は医学部。本間先生に憧れていたのは事実で、中学生までは本気で医者になろうと思っていた。なにより医者は社会的に十分な位置だ。自立するための学費と生活費を計算し、家庭からの支援を最小限に止められる条件を洗い出し、どんなバイトをすれば稼げるのか調べ上げた。キリコの隣に立つにはそのくらいでないと、きっと弟の域から出られない。

前を向き始めたクロオにはもう一つ見えるようになったものがあった。

キリコの姿が昔とは違うことに気が付いた。中学生の頃などは、大げさに言うなればミューズの如くキリコを仰いでいた盲目的な部分があったのだが、今、目の前の彼女は自分で揚げた唐揚げをつまみ食いしようとして舌をやけどしている。ばっちりクロオと目が合ったくせに、何もなかったかのように笑ってごまかそうとしているではないか。

普通の人だったんだなあ…

だからと嫌いになるはずがない。ますますキリコを好きになる気持ちを、クロオはもう手放す気がなかった。大切に育てて、堂々と気持ちを告げる日を目指すようになっていった。

とか言いつつ大学生になって女の子をお持ち帰りした朝、長兄から教育的指導キックを食らい、キリコからさりげなく避妊と性病の予防について助言されている。女性経験があるのを知られるのも非常に気まずかったが、それがさも当然のようにキリコの口から出るのを、自分がまだまだ弟の域にいると思い知らされて二重の意味でキツかった。クロオを良く知る辰巳君は、その報告を受けてど深夜に延々と爆笑し、キレたクロオにアイアンクローをされるも笑いやまず、大勢の寮生から苦情を受けた。クロオはこの日を境に女遊びをスッパリ辞めた。アンバランスな欲求と肉体のつり合いが、やっと取れたとも言える。ちなみにクロオの自己申告では片手くらいしか女の子とは遊んでないらしい。キリコはあまり信じていない。

他の女の子としてたのはお前とできないからでした。なんて誰に対しても不誠実な態度を大声で言うことはできず、またその必要もなく、これからの生き方で示していくしかないとクロオは粛々と勉学に励み、ついに自治体屈指の緊急搬送率であるドクターヘリポートを2基完備した大病院に就職する。とにかく最短距離で一人前の医者になるためには経験を積むしかないと判断したからだ。

うっかりと誤解して「結婚を前提に」する前提の一か月を得て、クロオは必死だった。自分の方の準備は着々と進んでいる。けれどキリコは全然だ。男の部屋に女一人で来ている自覚もないし、雨でシャツが濡れてブラのレースが透けるのもおかまいなし。これは単に気が付いていなかった線が濃厚だが。そもそもまだ弟の感覚でいるのだ。これはスタート地点からマイナス値だ。せめてキリコもフラットな気持ちで来て欲しい。わんわん喚きながらもがいて、一か月があっという間に過ぎる。何か変わったかと言われると、クロオは自信がない。ただ自分の気持ちは今までで一番ストレートにキリコに伝えた。負けるような勝負はしない。手持ちの武器で一番効果があるものを使ってきたつもりだ。

だから最後にロープウェーでこの場所に来たのだ。

「…重い」

かくんと首が落ちるクロオ。

「重いのはわかってますうー!でもそうなっちゃったんだから仕方ないんですうー!」

「その話は結婚する前にしてほしかった」

うぐ、と言葉に詰まるクロオ。ところどころ本当に言いたくない部分はぼかしたが(特に高校時代のあれこれ)、そもそも墓まで持って行くつもりだった話なのだ。結婚前に告げるなど恐ろしくてできなかった。今話せたのは、キリコとの結婚生活で自信が持てたからだと理解してほしい。

「それに、女の子達と軽くお付き合いしていたのは良くない」

「今ならわかります。反省しています」

「私のせい?」

小さな頭がクロオの肩に当たる。

「ううん、俺のせい。お前を好きになったのは俺の都合。自分でも止められなかったんだから」

高原からは町の夜景が見える。夜の明かりがほのかに二人を包む。

「クロオがいっぱい苦しんでいたの、知らなかった…」

クロオは自分を責めるように呟くキリコの頭をなでる。

「昔の話だよ。今はもう苦しくない。むしろ昔の俺に言ってやりたい。未来は明るいぞ!って」

「褒めてあげてもいい?」

「昔の俺を?どうぞ?」

キリコはクロオの肩に寄りかかったまま、彼の腕に手を回した。

「苦しかった時も笑ってて偉かった」

「ずっと眉間にしわは寄せていられんよな」

「くじけないで頑張り続けてて偉い」

「散々くじけていじけたので」

きらきらと地面に走る光の線が瞬く。

「私を大事に思ってくれてうれしい」

オレンジの光が散りばめられた輝きの中で一等明るく見える。

「苦しくても、私を傷つけないように思っていてくれて」

あれは飛行機だろうか。

「クロオの未来も私の未来も、守ってくれて偉かった」

ぶわりと目の奥が熱くなるのをクロオは感じた。

あのままクロオが若い情熱でキリコにぶつかっていたら、今ここに彼らはいない。

稚拙な衝動で彼女を蹂躙していたら、どこにも彼らはいない。

世の中に様々な形の夫婦がいることをわかってはいなかったが、学生のクロオが目指したキリコと二人で歩む未来は、妻と夫になることだった。青臭い目標ではある。ただシンプルな分、何をすればいいか分かりやすかった。

クロオの場合、最大のネックはキリコの気持ちを射止めると言う点であるが、次点は戸籍上姉弟であるという事実だ。血縁関係はないので、戸籍を触れば書類上は解決する。しかし周囲の人間は書き換えられない。自分たちには後ろ暗いところはないのだと言い切れるだけの材料が必要だった。

それは他人に対してではなく、自分自身に対しての根拠。

絵空事のようだった未来を必死に手繰り寄せて掴んだ。たどり着くまでにはたくさんの間違いをしたし、今だってこれであっているのかわからない選択がある。だけど前を向いたあの日から、クロオはキリコへ向ける思いに迷いなどなかった。大切な妻の手をクロオは握る。

その手があまりにも冷たいことに驚いて、クロオは自分のダウンジャケットの中にキリコの体ごと覆ってしまった。二人羽織のような格好になり、キリコは少し戸惑った。やがて背中に伝わるクロオの胸板のぬくみが心地よく、彼の肌のにおいとタバコの香りに安心感を覚えた。

「だるまみたいだ」

「お前また痩せてねえか?」

「よくわかるなあ」

新人の対応で少し体重が減ったのだ。ほんの少しだけなのに気付く夫。野生の勘…

爬虫類の視線を思い出してしまい、キリコの眉根が曇る。クロオはふわふわとキリコを包みながら、のんびりと言う。

「俺も昔のお前を褒めとこうかな。たくさん褒めてもらってうれしかったし」

視線を向けるもキリコからクロオの顔は見えない。まるで気にしない様子でクロオは口を開く。

「唐揚げのつまみ食いがばれても隠し通そうとしていて偉かった」

「そこ?偉いの?」

いつのことだよ…とぶつぶつ言うキリコ。

「チビが六日連続夜泣いてるとき、寝ないであやしていて偉かった」

「俺が給食で食べて、家でも作って欲しいって頼んだ外国の料理を一生懸命調べて作ったんだけど、あんまり美味しくなくて俺が文句言ったのにお小言一つで済ませてくれて偉かった」

「新入社員研修で長兄がてんてこ舞いだった時に、背中からチョップして正気に戻していて偉かった」

「……」

クロオがいくつの時の記憶なのだろうか。正直キリコにもそんなことがあったのかどうか思い出せない。

「こっからは別枠」

クロオはキリコを抱え直す。

「しまむらで新しく買ったTシャツを着る時、いつもよりにこにこしてて偉かった。でもシャツはださかった」

「ださいは余計だよ!どうしてそれが偉いの?」

「偉いんだよ。まだあるから」

彼は口頭でいいなら三百はキリコの好きなところが言えると豪語したことがある。今回もひょっとするかもしれない。聞き流す程度が良いのかもしれない。

「友達と食べてきたスゲー長い呪文みたいなスイーツの名前が全部言えて偉い」

「新作のDVDレンタルするか悩んで、結局アマプラで前のシーズン見てるの偉い」

なにが偉いのかわからない…

「大学の同級生の免許取り立て初運転に乗って、うっかり隣県の山まで行っちゃったのにきちんと生きて帰って来て偉い」

「ああ~それあった~本当に怖かった…」

「資格取るために毎日遅くまで勉強していて偉い」

「ん?真っ当な理由だね。そういうわかりやすいのがいい」

「そうか。じゃあまとめてわかりやすく」

クロオの顎がキリコのつむじに軽く当たる。

「みんなのためにスゲーがんばってて忙しいのに、自分の時間も作ってがんばってて偉い」

自分の時間。そんなもの意識したことなかった。毎日しなくてはいけないことで一杯で、あっという間に時間が過ぎていく日々が何年続いただろう。クロオが言ったことは割と最近の事だ。

やわらかい銀髪に顔を埋めてクロオは彼女を抱きしめる。

「毎日姉ちゃんやってて、とっても偉かった」

どうして私は姉でなくてはいけなかったんだろう。

小さなひび割れがキリコの白で塗りつぶされた心に走る。

本当はなりたいわけじゃなかった。

選べなかっただけで。

長兄は強制しなかった。だけど介護が必要な弟を二人も抱えて、一人でやっていけるとは思えなかった。自分も行く当てがないし。それだけだ。

「偉かったなあ。昔のお前のおかげで、今の俺やチビたちがいるよ」

みんな姉としての自分を慕ってくれた。

自分の居場所ができたような気がした。

満足していた。

だけど漠然と不安が付きまとう。

私はいつまで姉なのかと。

ぴしぴしとひび割れは広がるのをやめない。

「偉いよ。お前、すごいよ。」

クロオの腕に力がこもる。

弟だったこの人は、しがらみを傷だらけになって乗り越えて、キリコのもとへ走り続けてきた。

姉ではないキリコをずっと前から見つけていた。

ただのひとりの人間として。

ぽろぽろとかけらがこぼれだす。それは彼女が纏っていた防御の一部。必死に生きる毎日を上手く回すために、少女だったキリコは自分の感情に蓋をした。落ち込まないように、傷つかないように、望まないように。日常が嵐のように過ぎる中、蓋はいつしか分厚くなり、白い壁となって心を覆った。

キリコが自分でも気が付かなかったのに、クロオはその壁に気が付いていた。もちろん原因が自分に起因するのはとても情けなかったけれど。今ならキリコを受け止めてやれる。確信を込めて、しっかりとキリコを抱きしめた。

「…う」

小さな嗚咽が夜の空気に漏れた。

クロオが覆いかぶさるようにキリコの体を強く包み込む。

二人しかいない真っ暗な高原の端で、キリコは幼い子どものように泣いた。

ずっとずっとこうして泣きたかった。声が枯れるまで、彼女は大きな声を上げ続けた。そんなキリコをクロオはただただ守るように静かに抱きとめていた。

音もなくまたたく夜景を眼下に眺め、キリコは何枚目になるか分からないティッシュで鼻をかんだ。無言でクロオが手を出すので、その手に汚れたティッシュを渡す。もう自分のコートのポケットは涙でぐしゃぐしゃになったハンカチでいっぱいなのだ。あんなに叫んだあとでは、さすがに気まずくてキリコはクロオの顔が見られない。

「明日、お前の職場に俺も行っていいか」

「…え?」

「今日あったことをきちんと話して、向こうに対処させたいんだ。このままでは済ませられない」

ああ、そうだったとキリコの思考は現在に戻る。

「私も泣き寝入りはしたくない。一緒に行って欲しい。でも暴力は絶対にダメだからね」

「わざわざ障害起こして相手に有利な状況作ってたまるか。大丈夫。手は出さない」

本当は何度ぶっ殺しても足りないくらいに腹が立ってるんだけどな。不穏なことを言うクロオに妙な安心感を覚えてしまう。この人は…そう思いかけたキリコにクロオは耳元で囁く。

「お前は俺の一番なんだから、頼って」

不思議に彼が言いそうだと思うことがわかってしまった。同時に「一番」と言われたことが純粋にうれしい。クロオが自分を見てくれていることが改めてわかって、キリコは彼の腕に掴まり身をすり寄せた。あたたかな気持ちで、ふたりでことりとひとつの温度になっていた時だ。

「あれ、車のライトじゃないか?」

「本当だ。軽トラックかな」

高原の下手から登ってくる一台の軽トラック。一体何事かと二人はベンチから立ち上がる。その手前で軽トラックは停まり、二人の男性が降りてくる。懐中電灯でぴかっと照らされた。

「あんたたち?ここででっかい声出してたっていうのは。通報があって管理事務所から来たんだよ」

さっきの泣き声だとキリコはカッと顔が熱くなってうつむく。

「すみません。カラオケの練習したくて、人のいない場所ならここだって思いついちゃって」

「困るよ。ロープウェーの最終便で降りてくれないと。今の時期寒いんだから」

ぺらぺらと適当なことを言ってクロオは管理事務所の男性と交渉し、軽トラックの荷台に乗って二人は高原から下山した。丁寧に礼を言って別れる際に「山賊に遭わなくてよかったな。塩ビ製の槍は殺傷力高いぞ」などと本当か嘘か分からないことを言われてキリコは冷汗をかいたが、クロオは「そうですね。俺も夜のダム湖で囲まれたとき死ぬかもって思いました」と笑いながら返すのを聞いて、更に青ざめた。

翌朝、キリコはクロオと共に職場へ向かった。クロオはキリコに一切喋らせないまま、人事担当者とチーフマネージャーになっている秋田さん、該当の新人との話し合いの場を作った。秋田さんとクロオはポリクリの時に面識があるので、すでに何か根回しをしていたのかもしれない。

小さなミーティングルームで話し合いは始まり、クロオが状況を説明しようとするのを止めてキリコは自分の口で昨日新人との間で起こったこと、この一週間どんな態度を新人からとられていたのかを話した。後半の一週間の部分はクロオは知らなかった。テーブルの下で真っ白になるくらい拳が握られているのがキリコにはちらりと見えて、もっと早く話しておけばよかったと悔やんだ。

秋田さんは状況を把握していなかったことを陳謝し、キリコとクロオに深々と頭を下げた。人事担当者はひどくうろたえている。新人を一番買っていたのだから。いただけないのは当の新人だった。努めて冷静に社会人としての対応をするクロオに対して「例の弟か。エロい体の姉ちゃんが悪い」という趣旨の事を口にした瞬間、クロオの横にあった空のパイプ椅子が壁の向こうまで吹っ飛んだ。キリコに袖を掴まれて、クロオは無表情のまま振り上げた左足を机の下にしまった。

剣呑な雰囲気が満ちる室内で、淡々とクロオはキリコとの結婚に至る経緯には世間に後ろ指をさされるようなことは一切ない、ましてや赤の他人である新人が妄想を膨らませ犯罪を犯そうとしたことは、自分の生き方に後ろ暗いことがあるからではないかと諫めた。キリコの腕に残る指の跡と、新人の手の甲の傷を示せば、新人はその後「はい」としか言わなくなった。

そもそもどうして新人がキリコの個人情報を知ったのか。なんと彼は事務所の管理者パソコンを勝手に開き、職員の個人情報を閲覧していたのだ。その手段もパソコンに管理者パスワードが付箋で貼られていたから容易にできたという、職場全体に関する危機管理の欠如によるものだった。これには秋田さんも人事も頭を抱えていた。クロオは怒り心頭だったが、必死で耐えた。

キリコは大事にはしたくなかったが、やはり経営母体の会社へ報告が必要だと秋田さんに説得され、後日対応に関する連絡が届くことになった。クロオも裁判などは望んでいない、だが新人をこのまま放逐するのは筋が通らないと主張した。

秋田さんの一存では決められないことがあり、この場で結論は出なかったが、新人の解雇は間違いがない。すっかり顔色を失くしている新人に向かってクロオは言う。

「妻にしたことを許す気はない。償う姿勢がないのを、とても残念に思う」

とても残念。この文言に含まれた意味をどうとったのか、部屋の隅でひしゃげたパイプ椅子を新人は見つめて息をのんだ。頭を下げる常識も持ち合わせていなかった新人の顔色は青白くなっていく。あの爬虫類を思わせた目つきも、肉食獣を前にしたそれと同じ。捕食されるのでなく、ただ引き裂かれるだけ。キリコからはその時のクロオの表情は見えなかったのだけど、おおよその予想はついた。

ミーティングルームを出ると、キリコと仲の良かった職員が遠巻きに心配そうな顔をしている。キリコはぺこりと頭を下げて、クロオと玄関を出た。ロッカーの荷物はクロオが引き取ってくれた。

こんなかたちで長く勤めた職場を去ることになるとは思わなかった。自宅のソファにもたれて呆けていると、クロオがコーヒーを淹れてくれた。熱いコーヒーを飲んで一息つくと、この一週間のもやもやが少しずつ晴れていくような気がして。

「クロオ、ありがとう。一緒に行ってくれて、すごく助かった」

「言ったろ?頼ってって」

キリコの肩を引き寄せる。

「うん。クロオは頼もしい旦那さんだ」

「評価が上がった!」

軽口を叩きながら、クロオはキリコの顔を覗き込む。

「これから何がしたい?」

キリコは問いかけの意味を考える。今日の事だろうか、もう仕事は辞めてしまったし、もっと先のことだろうか。この先…

「私、この仕事を続けたい」

「緩和ケアの仕事?今のホスピスは無しだぞ」

「違うところでいい。でもこの仕事がしたい。クロオが嫌がってるのは知ってる。緩和ケアの考え方がクロオに合わないのも。だけど私にはやりがいがあって、自分で決めて続けてきた仕事だから辞めたくない」

心を覆うことをやめたキリコは初めてクロオに自分のむき出しの感情を向けている。クロオは元から繕うことをしない。

「俺はやっぱり嫌だ。死ぬってことが生き物にとって避けられないのは分かっているけど、助かるかもしれないのに死を待つ状況が、俺には受け入れられないんだ。そんな死に近い場所にお前が務めるのは面白くない。ぶっちゃけ帰ってきたお前から消毒液のにおいの中に死臭がすることあったから」

「お、お風呂に入るよ!帰ったらすぐ!クロオだって消しきれない血の匂いさせてることあるんだからね」

「よーし、じゃあお互い帰宅したらすぐ風呂な」

あれ、なんだか妥協点を作っている気がする。じゃあもっととキリコはがんばる。

「緩和ケアの考え方をクロオはもっと知った方が良いと思う。死ぬのはつらいことだけど、患者さん本人にとったら、治る見込みのない病で生き続けることの方がつらい人もいる。そんな声を聞いて、命の約束の日が来るまで、穏やかな気持ちでいてもらえるようにするんだ。治らないから放置するのとは違うんだよ」

「放置しないために夜勤ばっかり入って、自分の家庭疎かにしてるんじゃ意味ねーだろ」

「それはクロオだって一緒だ!夜勤だけじゃなくて残業ばっかりで、ひとりで食べる晩御飯なんか美味しくないよー」

「ぐっ…ざ、残業は減らす。定時退勤守ります!」

「じゃあ夜勤の日も合わせようね。できたらお休みの日も揃えよう?」

こんな基本的なこともしてこなかった夫婦である。休みが揃えばキリコと過ごす時間が増えると、クロオはしっぽを振る。そのままいくつも仕事と家庭を両立する妥協点もといルールを話し合った。

もう十分かと思えた時、キリコの前に一部のパンフレットが出される。

すごく面白くなさそうな顔をしたクロオの手にあるのは、緩和ケア施設の案内だ。

「山田野先生が、お前にどうだって言うからさ…」

パンフレットを開けば、どうやらクロオの勤務する病院の系列施設らしい。病院にも近い。というか道路一本挟んだ先ではないか。ジト目になるキリコにクロオは慌てて言う。

「別に職場が近いと通勤とか一緒にできていいなとか、そーゆー下心じゃなくて!他にお前が気に入る条件の勤務先が見つかればそれでいいし、ここもあるぞってそれだけの提示だし」

「働くことには賛成してくれるんだね」

あーもーとクロオは目元を掌で覆う。

「仕事だけじゃん。お前が昔から自分で決めてやってきたことって。趣味とかもないし」

「そうだっけ」

「そうだよ!本当に自分のことに無頓着すぎる。俺、これからどろっどろにお前を甘やかすからな」

「今も十分してもらってるけど…そんな事、どんな意味があるの?」

がしっとキリコの両肩を掴み、クロオは怖い顔で彼女を覗き込む。

「甘やかしまくって、お前が自分でやりたいことをいくつも見つけられるようにする。そんで仕事の事なんか忘れちまうような環境を作る!だけど無理強いするのは基本理念に反するので、あくまでお前の主体性を尊重する!」

怖い顔なのに頬が赤い。キリコはついくすくすと笑ってしまう。

「言葉が難しい。もっとわかりやすく言って」

おでこにごつんとクロオの額が当たる。

「仕事に行くのは面白くねーけどしょーがねー。でもそれ以上に楽しいこといっぱいしようぜ」

楽しいことなんて言いながら眉間にしわを寄せているのはどうなのか。キリコがむむむと唸ると、はあとため息をついて「降参降参」とクロオはキリコの頬にすり寄った。

「したいことすればいいさ。好きにすればいい。俺が嫌だったら言うし、そん時は話聞いて。今みたいに」

したいことをすればいい。不思議な言葉。これまで特別我慢をしていた自覚はなかったけど、今の自分ならなんでもできそうな気がする。この人と一緒なら。キリコは思いっきりクロオの胸に飛び込んだ。「ぐえ」とか一瞬聞こえたけど、すぐさま息が止まりそうになるくらいぎゅうぎゅうと抱きしめられたので、可笑しくてしかたがなかった。

翌日、同僚たちが家を訪ねて来てくれた。気まずい別れにならなくてよかったと、キリコはこれまでの日々に思いを馳せた。

それからしばらくしてキリコは新しい勤務先を決めた。山田野先生には申し訳なかったけれど、別の施設を自分で探した。決して受付で名前を出した瞬間に「間?あの?」などと恐れを抱いた声で対応されたためではない。

自宅からは若干遠くなったが、病院の敷地内に障がい者就労支援や発達支援センター、特別老人ホームなども併設されている大きな施設だ。ここでは死とともに生きるすばらしさを見つめることができる。生きる人間の数だけ地獄があり、その中でもがいて進むのはキリコたちの家族も他の家族も同じなのだ。クロオも一度ここへ来れば、視野が広がるのではないかと思わなくはないけれど、彼は絶対に来ないだろう。

通勤時間が長くなったことにクロオは当初大変に不平を言った。だが大きな施設ゆえに福利厚生が行き届き、休みが保障され、夜勤が以前よりうんと少なくなることを説明すると不承不承ながらうなずいた。キリコはそれがうれしくて大きなハンバーグを焼く。クロオの好物。フライパンで焦げ目を付けた後、グリルに入れて焼き加減を何度も確かめるキリコの横顔を、ため息交じりの笑みでクロオは見つめていた。

あの高原の夜からキリコの表情は変わってきた。ゆっくりでいい。長い時間纏い続けてきた姉の殻がすぐになくなるとは思わない。姉として過ごしてきた日々を否定する気など微塵もない。あの日々はそれはそれでかけがえのない大切なものだから。キリコが自分たちのためにしてきてくれたことを、今度はクロオ自身がしてやりたいのだ。

キリコが笑ってくれるように。

二人で一緒に生きていくために。

後日譚①

「よお、久しぶり。大学以来かな。元気してたか。うん。それでさ、お前の副業の方、SNSの捨てアカ10000くらい使ってイロイロやらかすやつ……わかってるって大声出すなよ。ちょっと一人潰してほしい奴いるんだなー。うん。そんなに追い込まなくてもいいけど、簡単に就職先見つからないくらいにしてほしい。すぐできる?すごいなお前。そんなことまでできるの?いや、えぐいな。それで頼みたい。相手の名前とか分かってること、副業のアドレスに送っとく。あ、それからさ、うまくいったら本業の方のNPO法人…南京虫なんとかってやつ、そうそうソレ。そのポスター勤務先の待合室に貼っとくわ。届いてたんだよ。俺の勤務する病院に。未使用のまま裏紙再利用ボックスに入れられてたから、救助しといた。はは。どういたしまして。費用はいくらかかる?うん。いや、ちゃんと金とれよ。ボランティアとか俺嫌いだし。それでいいのか?悪いな。じゃあよろしく頼む。うん。うん。おう、またな」

後日譚②

したことがないことを何でもいいからやってみたいとキリコは言った。

だからクロオはキリコを流行しているテレビゲームに誘った。日本全国を舞台にして金儲けをするあのゲームだ。

結論から言う。二人で桃鉄をしてはいけない。

離婚すると言い出すほどの大喧嘩になることを、コントローラーをわくわくして握る彼らは知らない。