華やいだビーチの人影も薄れ、宵闇のベールが金色の落日を紫色で包もうとしている。
変わらないリズムで打ち寄せる波音に、きまぐれな軽い音がこぼれて聞こえる。
「本当に土産、こんなものでいいのか?」
信じられないと目で訴えながら、つまらなそうにウクレレの弦を弾くのは、裏街道に悪名を轟かせる闇医者ブラック・ジャックだ。もっとも今は彼のトレードマークと言える黒いコートは脱ぎ捨てて、見た目にも涼しげな青いアロハシャツをはおっている。
「いいと思うよ。少なくともさっき買おうとしていた、1ガロンのマカダミアナッツアイスよりは。」
おいしいけどね、と言いながら隣に座る隻眼眼帯の男は、手にした缶ビールをプシュッと開けて飲む。どうして2本持ってこないのかとBJから向けられる胡乱な視線を歯牙にもかけず、キリコはごくりと一口飲み干す。
いやなやつ、BJは本気でそう思う。
そんな二人の雰囲気をものともせず、でっぷりとした茶トラの猫がやってきた。夕焼けの最期の輝きを受けて、猫の毛がオレンジ色に光る。猫はのしのしと近づくと、BJの膝に額を擦りよせ始めた。
「なあ、お前はわかってくれるよな。アイスの方が良いって。」
手にしたウクレレをキリコに押し付けて、BJは猫を抱える。単価が安くつくんだ、などとぶつぶつ言いながら猫の喉をくすぐると、オレンジに輝く猫はさも気持ちが良さそうにごろごろ喉を鳴らした。
こうなると面白くないのはキリコのほうである。
片目で猫を一瞥するも、猫はどこ吹く風。とうとうBJの膝にもぐりこんでしまった。ハーフパンツからのぞくBJの腿の縫合痕のすぐそばで、とぐろを巻く猫に思わずキリコは小さなため息を漏らしてしまう。なんだか分が悪い気がして、キリコはウクレレの弦をひとなでした。
「おっ。」
わりといい具合の音が出て自分でも驚いているところに、BJの好奇心いっぱいの瞳が向けられる。
「お前さん弾けるのか。早く言えよ。」
弾けるわけじゃない。あえて言うなら学生時代にちょっとギターを触ったことがあるだけだ。キリコはそう弁明するが、BJはお構いなし。「なにか弾いてみろ」なんて無茶振りまでしてくる。意地の悪そうな表情と、純粋な期待が混じる視線がキリコを追い詰める。
無理無理と手を振ってかわそうとすると、BJの膝の上に視線が向いた。そこには相変わらずオレンジの毛玉が陣取っている。ちょっと音を立てて喧しくすれば、猫は穏便に去っていってくれるかもしれない。そんな彼にしては幼稚な考えから、キリコはウクレレを手に取った。
キリコから缶ビールまで受け取ったBJは上機嫌。単純なヤツ、とキリコは苦笑しながらも、彼の機嫌の良さが少し伝染してしまったような気がする。俺も同じく単純だといよいよ自虐的になりながら、弦のチューニングを済ませ、学生時代の記憶を頼りにコードをいくつか試してみた。
「それ、『かえるの歌』に似てるな。」
キリコがCコードをいじっていたあたりでBJが声を上げる。ビールを舐めて少し舌が回るようだ。
「どんな歌?日本の歌?」
「うっそだろ。『かえるの歌』を知らんのか。お前さん日本に住んで何年目だ。」
そんなに驚かれるくらいにメジャーな曲なのだろうかとキリコは訝しむが、知らないものは仕様がない。音楽なんか無縁の生活なのだから。
「じゃあ、歌ってみてよ。コード合わせられるかやってみるから。」
キリコはちょっとした嫌味のつもりでけしかけた。それが更にBJの機嫌をよくしたと見え、信じられないことに、彼は二つ返事で歌いだした。
BJの口から少し調子の外れたフレーズが出る。
「わかった。ここはこう?」
真剣に歌っているのがわかったから、キリコはBJを冷やかすつもりにならない。また自分の余裕もなかった。キリコの大きな指が、拙く弦を押さえる。
「そうそう。次はもうちょっと音下げて。」
キリコの肩に体をよせて、BJは彼の指先の動きに夢中だ。きっとウクレレもすぐに弾けちゃうのかもしれない。なんせ天才外科医様だから。なんて、キリコが彼の膝を見やればまだオレンジの毛玉は鎮座している。なかなかしぶといやつだ。でもそうこなくちゃな。キリコは再び弦を爪弾く。
「こんな感じかな。初めからやるから歌って。」
「何回もは嫌だぞ。」
「大丈夫。俺はあんたみたいにねちっこく無いから。」
「見切りの早いヤツは上達しないぜ。」
軽口を叩き合い、ウクレレの音がこぼれだす。
BJは目を閉じてキリコの肩に体を任せ、ときおり鼻歌のようにひらひらと、小さな歌声を夕闇に散らせていた。
セッションの甲斐あって、最初は一匹だけのやせっぽちのかえるの歌も、曲の後半ではトリオのコーラスくらいにはなった。
だんだんと歌声に笑い声が混ざる。
フェルマータにスタッカート、キリコがギターストロークを決めたとき、ウクレレの弦がピン!と爆ぜる音に耐え切れず、BJは笑い出した。
「おい、最後まで歌えって。」
自分も笑いすぎてひいひい言いながら、キリコはBJの肩を抱える。
「だって、いや、童謡だから仕様がないんだけど、歌詞に意味がないって、わはは。」
もう止まらない。二人してげらげら笑いこけた。
「意味のない歌詞に、お前さんが、はあ、無駄にテクの効かせたウクレレを」
BJに最後まで言わせず、笑いながらキリコはまたウクレレでストロークを弾いた。
爆笑したBJはとうとう床に転がってしまう。
「お前だって、途中から変にバリトンのビブラート、ははっ、もう無理」
芋虫のように体を丸めて笑うBJの上に圧し掛かると、キリコは彼の目を覗き込んだ。
笑いすぎて涙の滲んだ瞳に、自分のアイスブルーの虹彩が映っているのを確認して、キリコは一息にBJの唇を奪った。
オレンジの猫はどこかに行ってしまっていた。
きっと呆れたに違いない。
end.