人魚姫とサマーデイズ

ここ数年、この星の夏は異常に暑い。

周知の事実であるが、俺はその暑さに身を焦がしていた。

いや。比喩ではなく、実際に焦げていたのかも知れない。

なぜならここは浜辺。

天には太陽、足下には灼熱の砂。

眼前には青く広がる真夏の海。

そして行き交う極彩色の水着たち。

俺がどうしてここにいるのか、説明したほうがいいだろうか。

簡単に言うと、利害の一致によって、ある人物と行動を共にしているから。

もう少し説明、というか釈明をさせてほしい。

俺ことブラック・ジャックは、名実共に天才外科医と呼ばれて久しい。それゆえに俺の元には世界中から手術のオファーが来るのと同時に、モグリの闇医者なんて稼業に惹かれて、ワケありの患者からの依頼も多くある。

今回は後者の方だった。そつなく手術を行い、礼金を頂戴しようとしたところ、相手が渋った。

話が違うと詰め寄ると、後ろからガタイのいい連中に捕まり、簀巻きにされて海へ放り込まれそうになったのだ。ただで死んでたまるかと、わあわあ声を張り上げて思いつく限りの罵声を撒き散らしていると、かすかにモーターの音が聞こえた気がした。

口をふさがれて、俺はとうとう真夜中の海に放り出された。真っ暗な水の中、体は沈むに任せるより他になく、堪えていた呼吸も破裂するように黒の中に溶けていく。

ああ、もうだめかと頭を掠めた瞬間、闇の中に一筋のきらめきを見た。そのきらめきは海中で手際よく俺の拘束を解き、ぐいぐいと上昇していく。見事な泳ぎだ、人魚じゃないか、と酸欠の頭で朧に思った。

それがつい3日前。

海から逃げ延びた俺は、真っ白い清潔なシーツの中で目覚めた。

それだけで生きた心地がした。

そうだ、俺の命を救ってくれた人魚に礼を言わなくては。

ゆるゆると起き上がると、そこは竜宮城・・・ではないが、やたら広いベッドルームだった。飴色の木材や、乳白色の石で構成されたそこは、所謂スイートルームを想像させるのに十分で、俺は人魚はきっと上品な令嬢なのではと期待した。男なのだから、そこは期待させて欲しい。

かちゃり、と扉が開く音がして、俺は振り向いた。

・・・いいか、期待に胸を膨らませて、振り向く瞬間の俺の心中を察してくれ。

・・・察したか?よし、ではそれが無残に潰されて、砕かれて、踏みにじられてグチャグチャになる様子も想像してみよう。うん。できたかな?

哀れんでもらって構わない。

いっそなじってもらっても構わない。

バカ!バカ!令嬢なんて妄想した俺のバカ!

扉の先にいたのは。

ああ、あの。

俺の不倶戴天の仇敵。

ドクターキリコだったのだ。

「BJ、荷物番ごくろうさん。さあ、行こう!」

あっけらかんとかけられる言葉に頭痛がする。

後ろを見ると・・・いた。

あいつの根性そっくりの、硬質な輝きを持つ、きらきらと流れる銀髪。

あいつの薄情さを体現したかのような、アイスブルーの瞳。

あいつの生き様そのものの、凶悪な黒い眼帯。

「・・・遅い。」

せめてもの反抗をこめて呟く。

「ごめん、ごめん。いろいろレンタルしてたら手間取ってさ。」

ひょいと、俺の胡乱な視線をかわして、キリコは屈託のない笑顔を見せる。知ってるんだぞ、俺は。そんな顔したって、お前の性根が腐りきってることくらい。ああ、腹が立つ。なんでこんなことに・・・

ぶつぶつと思い澱んでいる俺を尻目に、キリコは真っ白い砂の上を歩いていく。

黄色いビーチサンダルが、テンポよく足跡を残す。

白いふくらはぎがちらりと見える、長い丈のワンピースが風にはためく。

薄いオレンジと白の太い横線(ボーダーって知らないの?キリコ談)の柄が、いかにも夏って感じだ。肩まで出して、まあ。

一応日射病には注意しているのか、大きなつばの帽子(ワイドプリムハット・・・は知らないか。キリコ談)をかぶっているのは良い。

右手には大きなカバン、左手にはクーラーボックス。あいつ思ったより力あるなーなんて思っていたら、俺が番をしていた荷物がそっくりあいつの手にあることに気づいた。うええ、何だあいつ。

ちょっと荷物もってやらないと、俺がまるで役立たずの朴念仁みたいになるじゃないかと足を進めようとした瞬間、後ろからパリッとした半そでのシャツに白いスラックス、俺たちが宿泊しているホテルの紋章の入った帽子をかぶった若い男が二人、大きな荷物を持ってキリコのもとへしゃきしゃきと歩いていく。

その男たちにキリコはてきぱきと指示を出して、砂浜の上にビーチチェア二脚と小ぶりのローテーブル、その他諸々を設置していく。ものの数分で見事なビーチラウンジができあがった。最後にぱっと開かれたパラソルを満足そうに見上げた後、キリコが手を振って俺を呼んだ。

・・・連れが男前過ぎてツライ。

夏の日差しは平等に降り注ぐ。

砂浜の上にいる男、女、老人、子ども。

黒い肌、白い肌、赤い肌、黄色い肌。

太っちょ、ガリガリ、のっぽにチビ。

長い髪、チリチリ、つるっぱげ。

出っ歯、入れ歯、乱杭歯。

人間ってなんだろう・・・って思考を飛ばしてしまうくらい、ビーチは人で溢れていた。

「そりゃそうさ。バカンスだもの。」

日焼け止めを塗りながら、キリコが軽い調子で言う。

俺の状況わかってんのかこの野郎。命狙われたんだぞ、こっちは。のんびりこんなとこで肌焼いてる場合じゃないっつーの。こんなにヒトがいる場なんて本来は避けるべきなんだ。

「木を隠すならなんとかの中って言うでしょ。それに俺もひとりでバカンスは少し飽きてきたところだったし。お前は隠れ家ができて都合がいい。WIN WINだよね。」

そう。つまりは俺はほとぼりがさめるまでの行方くらまし、そしてキリコは生意気なバカンスの暇つぶし。その利害関係が一致したことで、今の状況が生まれているのだ。

キリコは暇つぶしの大義名分を、これでもかとかざしている様子だ。

俺の黒いコートは目立つからと、代わりに着せられたのがリネンのシャツとハーフパンツ。

色が赤とか黄色だったら猛抗議するところだったが、落ち着いた色を選んでくれた。サンドベージュ?とか言ってた気がする。砂色か。ははっ、笑える。砂浜で、砂色。もうどうにでもしてくれ。

うっすらと涙でにじむ視界を気取られないよう、キリコが持ってきたサングラスをかける。

視界が暗くなると、少し周りの状況を落ち着いて見られた。自分の視線が隠れるので、人から気づかれないかもしれないという安心感もあった。

俺たちがいる一角は、ごみごみとした人の群れからは少し離れたところに設置されていた。隣を見ると、一定の間隔で同じようなパラソルが立っている。その下では思い思いに海を楽しむ人影があったが、隣同士干渉できるほどの距離ではなかった。パラソルには皆同じホテルの紋章があったから、この場所は多分ホテルが所有しているんだろうなあなんて、ぼんやり思った。

ぱちん。

軽い音がして、ふと横に視線を向けると、キリコがワンピースのボタンを外していた。

サングラスをずらして見たところ、ワンピースだと思ったものは、どうやらタオルのようだった。あれだ、小学生が学校のプールで使う、てるてるぼうずみたいになる、あれ。それに肩紐がついているのだ。

ぱちん。ぱちん。

全てのボタンを外して、肩からするりと落とせば、グレーの水着が現れた。

それだけのことなのに、俺の心臓はガキみたいにどくどく言う。

飾り気の全くないビキニ。上の肩紐は無くて、ハチマキみたいになってる。これ、このまま言うと、バカにされるな。ええい、水着の種類なんか知るか!カッカしたら心臓は違うほうに音をたて出したからいいものの。

「ね、背中に日焼け止め、塗って?」

キリコのお願いに、俺の心臓は爆発四散したのだった。

そもそも、今回キリコには恩義がある。癪だが。

簀巻きにされて海に放り込まれた俺を救ってくれたという、純然たる事実が。不本意だが。

だから、こうやって言うこと聞いてやってるのは、それに報いようとする俺の善意からだ。

そこに付け込むとは、やはり性根が捻じ曲がっている。なんという奴だ。なんという・・・

銀色の薄い金属のチューブを握りこむと、手のひらにやわらかいクリームがこぼれた。

「あっ、そんなに出しちゃって。もったいないから、背中以外も塗ってもらおうかなあ。」

どどどどど、どこに。

「まあ、とりあえず背中を丁寧にやってくれたらいいかな。よろしく、神の指!」

なんで手術で患者を治す俺の指が、お前みたいな死神の化身の背中に、日焼け止めクリームぬらなきゃならんのだ。さっき納得しかけたのに、蒸し返された気分だ。絶対こいつわかってやってる。

その証拠に、長い銀髪をさらさらときらめかせながらかき上げて、あらわになった背中には天使の羽のような肩甲骨が・・・もとい死神の羽か。いかんいかん。

気を取り直して、極めて業務的に作業に当たる事にした。患部に軟膏を塗る要領で、均一に、塗り残しが無いように。するとキリコが笑い出した。

「くすぐったいよ!人差し指で背中塗ってると、日が暮れちゃう。手のひらでやって。」

「ええ、くそ。笑うな。やったこと無いんだ。こんなこと!クリームもったいないんじゃないのか。」

「いいよ。クリーム手のひらに広げちゃって。」

いらいらとクリームを乱暴に手のひらになじませ、そのままキリコの背中にぐいと押し付けた。ぬるりとした感触が、俺の手とキリコの肌の間に広がる。ぐるりと円を描くように肩甲骨のあたりを塗り、背筋を直線的になぞった。それだけなのに、なんだかとても、その、扇情的だった。

キリコのうすい脂肪の下にある、しなやかな筋肉を感じて、思わず喉が鳴る。手を努めて平静に下へ動かせば、だんだんと肉感が増していくのがわかる。細いウエストのもっと下。ひゅっと息を止めたのがわかってしまったのだろうか、キリコは俺に更に残酷なことを言う。

「クリーム残ってたら、ブラの間も、塗ってね。日焼け止め。」

言葉も出ない。

グレーの生地の下に、ゆっくりと指先を入れる。そのまま両手を左右に広げて、手のひらにたっぷりと残ったクリームを伸ばしていく。このまま手を止めなかったら、きっと、キリコの。きっと。

やわ、と指先が触れた瞬間、ひくんとキリコの体が震えた。

それが合図のように、俺はぱっと手を離した。俺は何をしようとしていた?この衆人環境の中で、何を?ぶわっと冷や汗が噴出す。やっぱこいつ、毒物だ。触るだけでこれだ。ああ、もう、と天を仰ぐ俺の視界に、ちらと覗いたのは、自分の肩を抱くようにして固まっているキリコの後姿だった。

その耳は、まるでさくらんぼのように赤くて。

おい、冗談だろ。

妙な気まずさがパラソルの下にたまっていた。

それに耐えかねたのか、キリコはパッと立ち上がると、ビーチサンダルも履かずに海へ駆け出した。

砂浜より白い体が波の中へ消えていくのを、俺は遠くに眺めることしかできなかった。

両手に余ったクリームをどうしたものかと迷ったが、せっかくだしと自分の腕に塗ってみた。やたらいいにおいがして、塗らなきゃ良かったなんてバカみたいなことをやってたら、ふと俺の周囲の視線が気になった。

まさか、俺を殺しにかかった連中に見つかったのか?ぎらっとにらみ付けると、視線の主であろう人垣は潮が引くようにいなくなった。なんだ。いつものか。半そで、短パンだものな。

全身くまなく縫いとめられた傷跡は、人目を引くのも無理は無い。俺としては、この傷は誇りであり生きる道しるべだから是非じっくりと見ていってくれと言いたいくらいなんだが、人間は自分の範疇から外のことは想像で埋めることしかできんから、なあ。きっとヤクザなのよとか、かわいそうになんて見当違いな言葉をかけられるくらいなら、今のように適当に散らしといた方がましだ。

「へっ」と口を尖らせてみた後、クーラーボックスから取り出したサイダーを口に含んだ。アルコール禁止のビーチなんだとさ。さっき知ってがっかりした。

「BJ------」

ああ、がっかりだ。変な声まで聞こえるし。

「BJ-------!!」

がっかりがっかり。

「BJ----!たーいーへーんーーーーー!」

「どうした!!!!!!!」

すわと立ち上がり、声の主のところへ駆けつける。サイダーをひっくりかえしたような、ビーチチェアをなぎ倒したような気もするが、大事には代えられん。

フライパンのように熱せられた砂の上を疾駆し、俺を呼ぶキリコの下へ飛んでいく。キリコは海からよろよろと歩いてくるところだった。どうしたんだ、岩で腕でも切ってしまったのだろうか。

息せき切ってやってきた俺の目の前には、ヒトデ。

うむ。ヒトデだな。これ。

「大変だよー。こんな大きいヒトデ捕まえちゃったよー。」

うむ。大きいな。

「素手で捕まえちゃった。ヒトデって結構重いね。」

うむ。

「BJも持ってみる?」

「持たんわ!!!!!早く返して来い!!!!!!!!」

けらけらと笑うキリコにつられて、俺まで超巨大ヒトデに腹を抱えて笑う羽目になってしまった。

いかん。爆笑しすぎて腹筋と背筋がまずい。

二人して、なんだかよくわからない疲労感と共にホテルに帰還。腹も減ったし、晩飯どうすると聞くと、キリコはこれからスパに行くとか言う。

「ビーチで遊んだ後、クーリングしないなんて信じられない!ってユリが言うんだ。俺はどうでもいいんだけど、日焼けでばれるからな。ちょっと行ってくるから、お前は好きにしててくれ。」

少し気まずそうに笑って、キリコは足早に出て行ってしまった。

ぽつんとだだっ広いスイートルームに残された俺。

さて、どうするか。と、やたらやわらかいソファに埋もれた。

ふと鼻をくすぐる香り。昼間の日焼け止めのものだった。己の腕から、その香りがするのをおかしく思って、もう一度においを嗅ぐ。同じ香りがキリコからもした。あの背中から。

むずむずと、あの時の続きをしたい気持ちが膨らんできた。キリコの肩甲骨から、俺の手のひらを、ずっとすべらせていったら・・・さくらんぼのように色づいた耳を啄ばむことができたなら・・・

その先は、もう、俺には、容易に想像できるようになっていた。

キリコとこんな関係になって、随分経つような気もするし、つい最近のような気もする。

女の体に頓着しなかった俺が、なんとなく女にもいろいろあるんだなあ、と思えるようになった位には、キリコと一緒にいる。

ヒトゴロシをやっているあいつは大嫌いだけど、そうでないときは、まあ普通。片目潰れてるけど、箔がついていいんじゃないかってくらい、顔は整ってる、と思う。母さんほどじゃないがね。体は、うん。悪くないなんて言うと、とんだスケベオヤジみたいだ。スケベ・・・ね。

俺とキリコの関係って、どんな名前をつければいいんだろう。セックスするのは必ずしも好いた相手じゃないといけないなんてことはないし、傍によって鳥肌が立つほど嫌でなければできる。多分。でも、欲求の発散方法なら他にもあるはずなのに、どうして俺はあいつとセックスするんだろう。

・・・あいつはどうして俺とセックスするんだろう。

もやもやしてたら、腹がなった。

頭を3,4回振ってから、俺はシャワーを浴びにバスルームへ向かった。

バスルームからタオル一枚で出てくると、帰ってきたキリコと鉢合わせた。

「待って、待って!動かないで!全然体ふけてないじゃないか。ほら、もう雫が床に。」

とたとたと小走りでバスルームに駆け込むと、掴んできた新しいタオルで、キリコは俺の体を拭き始めた。ごしごしではなく、雫をタオルに吸わせるように、やわらかく。

「ふふ。なんか大きい犬のお世話をしてる気分。」

眉をハの字にへにゃりと下げて、無邪気に笑う、その顔はあまりにも。

「がう。」

「へっ?・・・っむ・・・ぅ!」

大型犬よろしく、俺はキリコの唇に噛み付いてやった。

最初からご挨拶なんてしてやらない。桜貝のような唇を、強引に舌で割り裂いて、奥にまどろむキリコの舌を絡めとった。抗議を示す両腕もろとも、キリコの華奢な体を抱きしめた。俺の胸板に、キリコのものが形をゆがめて吸い付くのを見て、思わず目が細くなる。

「うっ・・・んん・・・」

右手をキリコの体に沿わせて、ゆっくりと下げていく。小ぶりだけど肉付きのいい尻をギュッと掴むと、キリコの体は大きく跳ね上がった。そろそろベッドへ・・・と思い、キリコの唇から離れた俺は、天地がひっくり返っても見られないであろうものを目にする。

俺に抱き潰された姿勢のまま、キリコは唯一の瞳から、ほたほたと、とめどなく涙を流していた。

以前、キリコが泣いているのを、一度だけ見たことがある。

病で男から女の体に変わっていくとき。怒りに任せて、そこらじゅうのものに当り散らしていたとき。

でも、今のは、違う。全然違う。

銀の睫毛に雫をつけて、涙で溶けたアイスブルーは頬にいくつもの筋を作っていた。

まるで祈るかのように指先を握り締めて。

毒気を抜かれて、力なく垂れ下がった俺の腕から、キリコは素早く抜け出した。

そしてそのままバスルームへ飛び込み、中から鍵をかけた。

何が起こったのか、何かまずいことになったらしい、としか処理できない頭を、俺は自分で殴った。

服を着て、タバコを一服ついたら、少し冷静になれた。こんなときヤニが頼りになるなんて、初めて知った。

俺はどこで間違えた。

多分、さっき。いいや。ビーチで日焼け止め塗った時。絶対そうだ。あの時からおかしくなった。

だとすれば、俺は悪くないのではないか。

そうだろう。そもそもがキリコの無茶振りから始まっているんだから。あいつはいつも俺を挑発して、面白がっている。俺がどんな思いでいるのかも知らずに、だ!

ひょっとしたら、今の状況も悪ふざけなんじゃないか?バスルームで舌出して笑ってるんじゃ・・・

いや、これはない。いくらなんでも、あの涙を見たら、ない。

ああああああああああああ。わからん!わかるわけがない!!

クローゼットから黒いコートを出し、身支度を済ませる。

一応、世話になった相手には挨拶だけしておく。

「キリコ」

バスルームの中から鼻を啜る音が聞こえた。

ずくり、と胸の奥が抉られる。

「世話になった。俺はここを出るから、もう出てきていいぞ。それじゃあ・・・」

慌しく言葉を綴り、逃げるように踵を返した。

その後ろから絶望的な言葉が投げつけられた。

「フロントでお前を探している二人組を見たぞ!」

「なんだと?!」

「お前を海に投げ込んだ男のうちの二人だ!俺は顔を覚えている!」

眩暈がした。このホテルにもあいつらが来た?どうして?そんなのわかりきっている。命を狙われているのに、のうのうと外へなんか出たからだ。頭の芯が真っ赤になる。

「キリコ、お前さんが俺を外へ連れ出してくれたおかげで、事態は随分と好転したようだ。」

「出て行きたければ、行くがいい。まもなく捕まって、再び海に沈むだろう。でも残念だな。生憎俺は、しばらくここから出る気はないよ。」

「はっ。お前さんなんかに、人魚姫は二度と務まらんさ。」

「出て行けよ。早く!」

「断る。俺は自分の命のほうが大事なんでね。」

「出て行け!!」

バン!とバスルームの木製のドアが叩かれるのと同時に、俺は広いリビングの向こうのゲストルームめがけて、自分のカバンを投げつけた。

涙が止まらない。

こんな自分は嫌だ。

ヒステリックな自分。

まるで、まるで。

しんと静まり返った冷たい床にうずくまって、声を殺して泣いていた。

愚か過ぎて嫌になる。あいつも俺も。でも俺のほうが何倍も愚かだ。

ほんの数時間前に、ネイリストがサービスで磨き上げてくれたつま先を見つめると、また新しい涙が溢れてくる。

「俺はどうなればいいの・・・?」

ひとつぶこぼれた涙は真珠になることもなく、バスルームの床に散った。

朝が来たのはわかっている。

ゲストルームのベッドの上で寝転んだまま、夜明けを迎えてしまった。

睡眠をとろうとしても寝付けない時は、せめて横になっているだけでも体の回復は違うものだ。

しかし昨晩何も食べられなかったのは困った。朝食はとりたいものだが、そのためには分からず屋の片目ヤローにお伺いを立てねばならんと思うだけで、胸焼けがして空腹が紛れる気がした。

ことり

小さな音が響くのを、徹夜明けの耳は聞き逃さなかった。

ことり、ことり

かさ、かさ

音の主は一人しかいない。

その音がだんだん近づいてくるように思えて、強張った胸がほどけていくような・・・

ガチャン

厚い扉が閉まる音に、胸の強張りは元通り。

浅いため息をついて、起き上がる。

キリコは出て行った。戻らないのだろう。

それを確かめるかのように、リビングへ足を向けた。

だが、リビングのテーブルの上に置かれたものを見て、俺の頭は再び混乱した。

『ルームサービスは1日3回まで。お小遣いとチップは置いておくから、賢く使うんだよ。それからルームキーのスペアを渡しておく。ホテルの中のゲームセンターに行くと良い。23時には戻るから、それまでには歯磨きをしてベッドに入っているようにね。上手にできていたらキスをあげよう。ママより』

ふふ、と口角が上がっていることに気がついた。

「お前さんみたいなのが、ママな訳ないだろう・・・」

熱いシャワーを浴びて、ルームサービスで頼んだピザにかぶり付けば、俺のガソリンはFULL。

テレビをザッピングしながら、朝刊をめくる。世は太平、事もなし。

されば飲もう。酒なくして花に色なし、なーんてね。やってみたかったんだよな。ここのワインセラー、結構いいもの入ってる。さすが五つ星!朝からワインをあおって、そのまま熟睡してしまった。

だからキリコがいつ帰ってきたのかなんて、全然わからなかったのだけど、デコピンを一発食らったような記憶があるから、多分そのときかも。

『お小遣いをうまく使えたようで安心したよ。チップも渡せてえらいえらい。でもワインセラーを荒らしたのは良くない。(ピー)円のワインを君は(ピー)本も空けてしまった。これは今日のお小遣いから引いておくことにしよう。クラッカーとジャムを置いておくよ。それから君は本当にママからのキスは欲しくないのかな?23時には戻るよ。ママより』

「わあお、本気で?」

二日酔いで目覚めた俺に残されたのは、この手紙と一箱のクラッカー、そして(俺の嫌いな!)ラズベリージャムの瓶だった。

酒が抜けて動けるようになったら、少しだけリビングの掃除をしてみた。だってそうだろう。何かでまた機嫌を損ねてクラッカー生活(ラズベリージャム付き)なんて、想像しただけで吐き気がする。

夜も更けてきたころ、俺は最後のクラッカーを大切に食べた。ラズベリージャムは、やっぱりダメだった。酸っぱすぎる。クラッカーのくずを残さないようにテーブルをきれいにして、クラッカーの箱は小さくたたんで捨てた。

裏業界で名の通った天才外科医ブラック・ジャック様が、なんてえ様だと舌打ちすれば、暗闇に映ったガラス越しの自分が「手前のせいだろう。」と諭してくるように見えた。

だから、大急ぎでシャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドの中にもぐりこんだのだ。

これは俺の良心の呵責がなせる業。決してキリコのためではない。

カチャ

ドアノブが動く音に、心臓がどきりとする。

キリコ?帰ってきた?

コツ コツ コツ

あー、あいつハイヒール履いてるな。足に良くないって言ってるんだけどな。

コツ コツ

ん、こっちに、来る?

思わず目をぎゅっと閉じて、一世一代の狸寝入りを決め込んだ。

ゲストルームの寝室に、一筋淡い光が差し込んだ。

光の隙間からやってきたひとは、俺の髪をやさしくなでて、額にひとつキスを落とした。

そして音をたてないように、また隙間から出て行ってしまった。

やがて光の筋もなくなり、暗闇に残された俺だけど、どうしたことか、キスを受けた額より胸のほうがじんわりとあたたかくなっているのを感じていた。

『おはよう、よく眠れたかな。昨日はきちんとできていたね。とても良い子だ。だからお小遣いは初めの日と同じようにしておくよ。おめでとう!今日は運動不足解消のために、19Fのジムに行ってみたらどうかな?それから残念だけど、今夜は帰らない。明日の23時には帰るよ。泣かないでね。ママより』

空へ向かってガッツポーズをする俺。

やった、やった!帰ってきてくれた温かいメシ!さーて、ルームサービス何を頼もうかな。

メニューを指でたどって、はたと今更な疑問を抱いた。

キリコ、毎日なにやってんだ?俺が起きる前に部屋から出て、帰ってくるのが23時って遅すぎないか。このホテルにいる以上、仕事ではないだろう。そもそもバカンスって言ってたし。じゃあ、尚更何をしているのだろう。

それ以上何も思い浮かばない自分に愕然とした。

あまり乗り気ではないけれど、19Fのジムに足を向けたのも、気分転換のつもりだった。

しかし転換どころでないほどの衝撃を、横っ面に食らうとは思っても見なかった。

レンタルしたジャージに袖を通して、ランニングマシーンをスタートさせる。

だんだんと速度を上げていく。レンタルのシューズは俺の足には合っていないけど、そんなのどうだっていい。走れればいいのだ。走って、走って、もやもやを全部出し切るまで。

1時間、わき目も振らずに走り通せば、誰だって少しはすっきりすると思っていた。

でも激しい鼓動と、体をつたう汗の感触は、何も俺に与えてくれなかった。

タオルで乱暴に汗をぬぐっていると、後方のスタジオの扉が開いた。真っ暗闇の中から、湯気と香のかおりと一緒に、大勢の女性が汗だくで出てきた。ぎょっとしながら見ていると、女性たちは口々に今のエクササイズが如何に充実していたかを話し始めた。

「ブラインド・スチーム・トランス・ヨガって最高ね!」

「暗闇の中で瞑想に浸りながら・・・刺激的!」

「それにスチーム!見て、こんなに汗かいちゃったわ!」

「ねえ、キリコ!あなたもすごい汗よ。」

えっ。

「ああ、本当。こんなに汗かいたの、久しぶりかも。」

長い髪をポニーテールに結い、女性たちにやわらかく微笑むキリコがいた。

うなじに光る汗は遠目にもはっきり分かった。キリコはしっとりと全身を汗でぬらし、薄手のウェアが肌に張り付いて、体のラインがあらわになっている。なんて無防備な。

おい!そこのベンチプレスしてる風のオヤジ!キリコの尻見てんじゃねーよ。バーロー!!

ずかずかと歩み寄り、キリコの手首を掴む。

いきなり現れた東洋人の男に、ヨガ・マダムたちは一様に驚いた顔。

その空気を流すように、キリコが口にした言葉に俺は凍りついた。

「ベイビー、ジムに来たんだね!よかった!」

ベイビー?今、なんつった?

「キリコ、こちらはどなた?もしかしてあなたのステディ?」

ヨガ・マダムがきらきらした好奇心の目をキリコに向けて話しかける。女ってのは、どうして色恋に興味が沸くかね。まあ、俺はステディなんてもんじゃないけどな。口を開こうとした俺より先に、キリコがこういってのけた。

「いいえ。彼は、息子みたいなものです。」

聞いた事のない単語が、次々とキリコの口から出る。

「ほら、私みたいなおばさんと並ぶと、随分と若いのがわかるでしょう?」

誰?誰のことを言っている?

「そうね。確かに若いわ。」

「いいわね。若い息子さんがいて。」

「そうなんです。彼、とても良い子で、昨日・・・あっ!レックス!ごめんなさい、みなさん。私レックスにトレーニングコーチをお願いしていて。」

早口で話すと、キリコは俺の掴んだ手をするりと抜けて、走っていく。

筋肉ムキムキのレックスは、大胸筋の鍛え方をキリコに教えている。

マシーンで最適な負荷がかかるポジションを、キリコの腕をとってコーチングして、時折白い歯を見せてキリコに微笑みかけた。

そんな様子をこれ以上見たくなくて、ジムのフロアから逃げ出した。

誰。

誰。

誰のことを。

部屋に戻って扉を閉めると、ずるずると力が抜けてしゃがみこむ。

「息子」「おばさん」ショッキングな単語が、ぐるぐると回る。

違う。もっとショックなのは、それをキリコが笑って言っていた事。

なあ、どうして。俺なのか。そんな風に言わせたのは。

俺、何を間違った?なあ・・・

床のモザイクがゆがんで見える。ああ、水溜りまでこさえてら。鼻水は勘弁だぜ。

キリコが帰ってこないことを悔しく思う自分と、こんなにガキみたく泣きじゃくる俺を見せなくて済むと安堵する自分と。

どうして。どこで。なにを。

全部、全部、手遅れなのかもしれない。

俺がそうした。それだけはわかる。

「男として見られていない」

その事実だけが、俺に刺さった。

夜の海が見えるラウンジで開かれる、ささやかな演奏会。

そこへグラスを傾けながら集う人々の中に、私はいた。

濃い紫のレースの、タイトなワンピースを纏って。

髪はゆるく結い上げて、メイクはスタイリストにお願いした。

細い踵のオープントゥパンプスは、つやつやとシャンデリアの光を黒いエナメルに映している。

もう、できることは何でもやってしまおう。そんな気持ちだった。

だから、誠実に褒めてくれる言葉はうれしいと受け取ったし、真心からの誘いは真摯に対応した。

幸いここには困った種類の人はいないようだから。あ・・・いたか。ひとり。超特級に困った人。

今頃泣きつかれて眠っているだろうか。

馬鹿な人。自分と同じくらいに。

いけない。メイクが流れてしまう。

「こんばんは。よかったら、使って。」

さりげなく差し出された白いハンカチが、嬉しかった。

「ごめんなさい。演奏が、とても素敵で。」

「うん。いい曲だね。」

それだけ呟いて、隣の彼は黙ってしまう。

やっぱり、私の服装やメイクは、無理をしているように見えるのだろうか。

似合っていないのだろうか・・・

演奏が終わり、拍手が起こる。

「素敵だね。」

隣の彼が言うから、「そうね。いい演奏だった。」と言い掛けて。

「君が。ごめん、その、綺麗だ。」

熱っぽい視線を向けられて、思わず体が硬直した。生娘じゃあるまいし。いい齢をして。

「ありがとう。あまりこういう服装をしないものだから、不安だったの。うれしいわ。」

自嘲気味に微笑んでしまったが、本音だから仕様がない。

「そうなのかい?よく似合っているよ。」

悪びれることなく言葉を紡げる、そんな素直さがあの人にもあれば、なんて思ってしまう。

「どう?この後、二人で・・・」

こんな言葉をかけられるとは思ってもみなかった。

時計を見る。

キリコが帰って来るまで、12時間。

ばちん!と両手で頬を叩く。気合だ、気合。

いつものスーツに、ジムから拝借したままのランニングシューズ。

ポケットには、戦車も買える凶悪なプラチナカードを2枚。

さあ、走るぞ。

走るぞ!

ひとり部屋を飛び出していく俺に、ファンファーレなんてない。

そんなもんはな、最後にとっておくもんだ。

いいか、見てろ。

この俺が一等惚れた女を、もう一度口説き落としてやる。

一度じゃわかんねーなら、何度でも。

落ちるまで、だ。

ブラック・ジャックはそのままホテルを飛び出し、町の雑踏の中を駆けていった。

ヴーーーーン ヴーーーーーン

携帯電話のバイブ音で目が覚めた。

半覚醒の頭で、演奏会の夜のことをリピートする。

声をかけてくれた男の部屋に行った。

それから少し談笑して、彼の年齢が私の倍近くあることが分かった。うんと若々しく見えるのに。人は見た目によらないとか言うけれど、本当にそうだと思った。

私が日本から来たことがわかると、彼はビデオゲームに目がないことを語った。孫娘が大好きだというスマブラを二人で楽しんだ。それがあまりにも白熱して、明け方近くまで対戦する羽目になり、二人でソファで眠ってしまっていたのには参った。

目覚めた彼は、幾分申し訳なさそうに、紳士的に私を部屋まで送ってくれた。

でも、帰るといった時間まで、かなりあったから。ううん。部屋に入る勇気が無くて、そのままライブラリに行って、時間を潰した。やっと23時になって、部屋に入る決心がついた。

BJの様子を見に行くと、ベッドは空だった。帰らないと私が言ったのだから、奴も夜を楽しんでいるのかもしれない。少々弱気になっている自分を叱咤し、シャワーを浴びて、けだるい体のまま眠りについた。

こんな生活、いつまで続けるんだろう。

それに、私のついた嘘に奴が気づくのも、時間の問題。もう気づいてるかも。

深いため息をつくと、ふわりとやさしい香りが鼻をくすぐった。

何の香りだろうと、もぞもぞと体を起こした私の目に飛び込んできたのは・・・

ピンク、オレンジ、黄色、空色、紫・・・

色とりどりの、さまざまな花たちが、ベッドの周りを取り囲んでいた。

慌てて枕もとのリモコンでカーテンを開ける。改めて見回すと、それはもうベッドルーム全体が花畑になったかのようで。

どこにいるのか、わからなくなりそうだった。頭の混乱が収まるまで、だいぶ時間がかかったように思う。こんなことできるのは、ひとりしかいないはずなんだけど、本当に?

花畑の中に、ドアのところまで一筋通路ができていた。ベッドからそろりと降りる。花たちをナイトガウンでひっかけないように、慎重にドアへと向かった。

ドアをそっと開けると、そこには。

リビングでBJが新聞を読んでいた。

いつもの黒いスーツじゃなくて、水色のカッターシャツに濃紺のスラックス。

それだけでも驚きなのに、髪までさっぱりと前髪を上げている。あのぼさぼさ頭が。

ぽかんと立ち尽くす私に気づく。

「おはようさん。」

かけられた挨拶に、反射的に「おはよう。」と返すと、BJは新聞をテーブルに置き、コーヒーを一口飲むと、私のもとへやってきた。

「朝食を一緒にどうだ?」

「う、うん。」

私はというと、全く状況が飲み込めず、ただ目を白黒させるだけだった。

「じゃあ、着替えて。」

そうだ。ナイトがウンのままで出かけられない。早足でクローゼットに向かい、何を着ようか考えて手が止まってしまった。いけない。BJですらきちんとした服装なのに。

結局奴の服装に合わせるように、服を選んだ。清潔感のある襟付きの白いシャツに、ベージュ色のツータックアンクルパンツ。飴色の細いベルトをして、踵の低い同じ色のサンダルを履いた。なんとなくそうしなくてはいけない気がして、日焼け止めを塗り、ファンデーションを薄く塗った。ほんのりとオレンジ色のリップを乗せれば、少しは血色が良く見えるだろうか。ここでピンクを選ぶ勇気は私にはない。

BJは私の服装を見て

「悪くないんじゃないか。」

とだけ言った。

いい、わけでもないのか、と愚かな私は少しうつむいた。

朝食はホテルの近くのオープンカフェでとることにした。

あまりにもすんなりとホテルの回転扉を出て行くBJに戸惑ったが、何を考えているのかわからなくて、後をついていくことしかできなかった。変だ。主導権をすっかり握られてしまっている。

奴はトーストセットを頼み、私はガレットを食べることにした。

食べながら奴の表情を盗み見る。いつもと変わらない、ように見える。いったい何を企んでいるのだろう。「息子」なんて言ったのを、根に持っているのかも知れない。あんなこと本当は言いたくなかったけど・・・

下を向いてしまった私に、いきなり

「それ、うまそうだな。一口くれ。」

と声をかけられたから、最後の一口をあげた。もぐもぐと租借して「うまい。」とにこりと笑った。それがちょっと怖かった。これから起きる事が、皆目見当がつかなかったから。

朝食を食べ終わるころには、日も高くなっていて、じりじりと焼け付くような日差しが強くなっていた。

「じゃあ、行くか。」

BJは、さっと私の手を掴んで道路の方へ向かっていく。「どこへいくんだ。」と問いかけても「俺の行きたいところ。」とだけ。ここ数日のBJとは、まるで別人みたい。心のなかで驚いていたが、今日はこれから驚きの連続になることを、このときの私はまだ知らなかった。

道路わきに、このリゾート地ではよく見るトゥクトゥクが一台停まっていた。その運転手に何か告げると、私をトゥクトゥクに乗せた。隣にBJも乗り込むと、運転手が屈託のない笑顔を私たちに見せて「今日はよろしく!」と朗らかに言った。

着いた先はブティック。しかも今シーズンのコレクションで絶賛された新鋭のブランド。クラシックなスタイルの中に、洗練されたモードのエッセンスを取り入れているのが、私も好ましく思っていた。

でも、でも!ここに連れて来たのがBJなんだよ?

あの着たきり雀のBJが!

ブティックに?!

大混乱を起こしてフリーズする私をブティックの中へエスコート(!!!)すると、スタッフがにこやかに応対してくれた。まるで来るのが分かっていたみたいに。

そして私に三種類のコーディネートが提案された。試着するように促され、半ば呆然としながらフィッテイングルームへ足を向ける。

あああああ。意志薄弱!なんなのこれ!?全然わからない。

でも服に罪はない。なにより、私の好みに合っている。似合うだろうか。どきどきしながら着替えた。

着替えが済んでも、BJが待つフロアへ行く勇気はなかなか出なかった。

こんなの私じゃないみたい。怖気づく自分も、鏡の中に映る自分も。

「キリコ、大丈夫か?気分でも悪くなったか?」

ノックの後、フィッテングルームのドアの外から声をかけられて、文字通り心臓が跳ね上がった。

「う、うん。着替えた。」

極めて冷静に返事をする。

「見せて。」

強い意志を持った声音に、体が強張る。

どうしよう。こんな姿、見られたら。全然ダメだなんて言われたら。がっかりされたら。

しっかりしろ、自分。それでもいいじゃないか。軽口叩いて流せばいい。今までそうしてきた。できるさ。これを後二回もするなんて、まっぴらだ。早くけりをつけたほうが楽だ。よし、と腹を決めてドアを開ける。

かちゃ。と軽い音をたててドアが開く。なるだけ背筋を伸ばして、侮られないように。爆笑されたパターンと、失望されたパターンをシュミレーションしながら、BJの前に立った。

「どうかな?」と、あえて微笑めば、目の前のBJは予想外のリアクションをとった。

「きれいだ。」

え?

今、なんて言った?

信じられなくて、BJの顔をまじまじと見てしまった。

奴は、そう。鳩が豆鉄砲食らったとかいう言い回し、そのもののような表情をしていた。嘘。

今度は私が豆鉄砲食らう番。

立ち尽くす私たちの間に、スタッフがやってきて、今着ている服のどこが工夫されているのか、どこが似合っているとか、流れるように話してくれたけど、全然耳に入ってこなかった。

その次の服も、最後の服も、BJは満足そうに見て

「キリコ、お前はどれが気に入った?」

と聞いてきた。どれなんて、考えられなかった。だってそれどころじゃなかったから。おろおろする私に、BJはそれぞれどこが似合っていると思ったかを話してくれた。スタッフにも話題を振って、第三者から見た意見も提示してくれた。

そんな意見も参考にしつつ、私は初めのコーディネートの服を選んだ。

上品なミモレ丈のマーメイドスカートとノースリーブのトップス。こんなの着た事がなかった。本当に似合っているか自信がなくて、思わずBJの方を見たら、ばちっと視線が合った。

「やっぱり、それが一番似合うな。」

まるで、うっとりするかのように言われて、顔が真っ赤になるのがわかった。どうしよう。年甲斐もなく、こんなふうになるなんて。「ありがとう。」と言うのが精一杯だった。

BJがこのブティックを貸切って、他の客が来ないようにしていたのを知ったのはだいぶ後。

再びトゥクトゥクに乗り込むと、運転手のビウさんは軽快に近辺の観光スポットを案内してくれた。こんなところがあったなんて知らなかった。知的好奇心のほうが勝って、いつの間にか自然にBJと笑い合ったり、軽口を叩いていた。ときおり見せるBJのやわらかい視線に、どきっとしているのは気づかれていないだろう。

昼食はビウさんのおすすめの大衆食堂に行った。ブランド物を着て、こういうお店に入ってもいいものかと思ったけど、大衆食堂の雰囲気は大好きなので手を引かれるままに席に着いた。

遠慮しようとするビウさんを引き止めて、一緒に店一番の料理を頼む。びっくりするほど美味しくて、思わず熱っぽく味の感想を述べると、BJもビウさんも満足そうな顔をして笑った。

その次は映画館。もう驚かない。もう任せた。

ビウさんとはここでお別れ。手を振って、今日の感謝を伝えると「一日は長いよ。楽しんで。」と、あの屈託のない笑顔でサムズアップして、車の流れの中にあっという間に消えていった。

「俺はあの映画が見たいんだけど、お前さんは?」

事も無げに示された映画は、奇しくも私も見たがっていた映画。どこかで言ったっけ?こんなに意見が一致するのは、そうそうない。いぶかしむ気持ちが、また膨らんだけど、この映画は確か日本では上映が終了している。チャンスかな。それにちょっと疲れたし、休憩も入れたい。

了承するとBJはチケットを買いに行く。その間に私は飲み物を。ポップコーンはいいかな。お腹はいっぱいだし。飲み物を店員から受け取っていると、BJが来て「お前・・・もう・・・」とか呟くのが聞こえた。

シートに座って、コーラとアイスコーヒーどちらがいいか尋ねると、BJは迷わずコーラを選んだ。やっぱりね。私だって、お前の好みは知ってるんだ。

デートみたい。

新作映画のコマーシャルの間、突然そんな単語が浮かんでしまった。

途端に、とんでもなく心拍が上がって。

隣にいるアイツのことを、すごく意識してしまって。

体ががちがちになっているのを、悟られやしないかと、できるだけ頭を動かさないように、隣のシートのBJを見た。

バトル映画の激しい閃光が当たる中、まっすぐ前を見つめている。

なんだか、そのまなざしが胸に迫った。

こいつはいつもそうだ。前をしっかりと見据えて、後ろに引きずる柵も一緒に足を踏み出そうとする。どんなに苦しそうに見えても、その歩みを止めることなんてない。切ることが生きる理由なんて馬鹿げたことを、大真面目で宣誓して、実際その通りに生きている。イノシシみたいな生き方だ。怪我をしないはずなんてないのに。

そこまで思いをめぐらせたところで、映画の本編が始まった。

全身不随の患者が、ヘルパーやボランティアの助けを得ながらおくった日々の記録映画。

この主人公の患者が、とんでもなく性格が捻じ曲がっていて、わがままで理不尽で、おまけに口が悪い。それなのに患者の周りには人が集い、笑顔を見せていた。

ベッドでは寝たきり。車椅子での移動。ついには人工呼吸器をつけてまで、主人公は生きようとしていた。何度も死にかけながら、懸命に。

どうして、そこまで生きることに執着するのだろう。私なら。

そんな考えに至っていたころ、シーンが変わって、映画の伏線でもある若い男女の恋愛の場面になった。こんなシーンがあるなんて。若いなあ、なんてほほえましく思っていると、突然手を握られた。

熱い手のひらに、私の手の甲はすっぽりと納まって、みっともなく震えてしまった。

握ってきたBJの顔を反射的に見ると、自分のことではないようなポーカーフェイスで、映画を見ている。固まる私の手を、BJの親指がやさしくなでる。以前の私なら、思いっきり手を振り払っていたかもしれない。でも、今は。今は。

胸の鼓動が収まり、手の暖かさが心地よくなってきたころ、BJの手はそっと私から離れた。

それがどうしようもなく寂しく感じてしまった。

映画館を出て、ビーチ沿いの道を歩きながら、それぞれに映画の感想を伝え合う。

やっぱり、面白いくらい真逆の感想を持っていた。それに至るまでの考察を、お互いに譲らずに話していると、夕日がまぶしく射していた。まだ日没には大分時間があるものの、夕方の海はオレンジ色に染まって、素直に美しいと思えた。

「ちょっと海のほう、行ってみるか。」

BJは、手を私のほうへ差し伸べる。ふふん。エスコートにも慣れてきたぞ。今日は特別だ。

「なにを企んでいるのかな?」

にやっとしながら、今日一日分の疑問を込めて口にする。

「さあてな。」

奴も今日一番の意地悪な笑顔を返してきた。

嫌な予感と、ちょっとだけの期待が混ざった気持ちで、ビーチへと下りて行った。

この後、嫌な予感が明後日の方向で的中する。

ビーチには昼間ほどではないけれど、少し人がいて、穏やかな雰囲気。

連れてこられた場所には、ホテルのビーチラウンジセットが、もう設置されていて驚いた。

でも、それと同時に気まずくなったあの時のことも思い出して、少しだけ気が重くなった。

あれは、私も悪かったと思う。からかいが過ぎた。BJが困るとわかっていて挑発したくせに、肝心のところで怖気づいてしまった。あの時に戻れたら、自分の頭を叩きたい。

ごほん!と咳が聞こえて、我に返る。

BJが緊張した面持ちで隣に立っていた。私の顔を見て、歯切れ悪く「えーと、だな。」とぼそぼそと呟いたかと思ったら、手に持っていた布製の円盤を後方へ勢いよく投げた。

ぼん!と軽い音がして、そこにはポップアップ式の簡易更衣室が現れた。

今日はいったい何回この状況になれば気が済むのかというくらい、ぽかんとしていると、目の前に黒い紙袋を差し出された。

「これを着てくれ。この袋に入ってる。」

「・・・なにが入ってるの?」

「まあ、更衣室の中で見てくれ。お前さんが、ちょっとでも今日を楽しかったって思ってくれてるなら、最後に俺の我侭聞いてくれないか。」

「そんな言い方、ずるい。」

「いいから。」

「・・・わかった。」

更衣室は薄いビニール素材でできていて、思ったより光が入らないつくりで、ほっとする。後ろは椰子の木の林だし、パラソルで死角にもなっているし、着替えの様子が透けて見える心配はないだろう。しかしまあ、着せ替えごっこを二回もする羽目になるとは思わなかったなあ。一度目は何とかなったんだし、二度目だって大丈夫。

大丈夫・・・と、BJから渡された袋の中身を見て、私は声にならない叫びを上げた。

無理無理無理。

こんなの絶対無理。

でも、ここまで頑張ってくれたBJのことも考えると、袋を突き返す選択をするのは躊躇われた。

もう、本当、それだけの理由。

「キリコー、日が暮れちまうぞー」

さすがに焦れたのか、BJが声をかけてくる。それだけで冷や汗が噴出した。

姿見もないし、こんな着方でいいのか、似合っているか確認のしようがない。

心臓が口から飛び出そう。ああ、医学的にはありえないけど、本当に心臓がばくばくいって持ちこたえられそうにない。でも、これ以上は待たせられないし・・・

せめてもと思って、髪をゆるく三つ編みにして肩から垂らしてみた。

ブティックのときとは100倍くらいの意を決して、更衣室のジッパーを下げた。

「ど、どう、かな・・・」

BJが渡してきたのは、健康的なコーラルピンクのビキニ。

細い紐のホルターネックで、三角のカップには小さなフリルがいくつも着いていた。

ショーツのほうにも同じく小さなフリル、両サイドには控えめなリボン。

こんなデザインの水着、自分では絶対に選ばない!

BJのバカ!バカ!

思わず両手を胸の前で組んで隠してしまう。

顔は真っ赤になっているだろう。夕日で少しでも紛れていればいいけど。

BJの手が腕にそっとふれる。

びくっと体が震えてしまったのは許して欲しい。

「見せて、くれ、ないか・・・」

奴の声が緊張している。

似合ってないなんて言わないで。

やっぱり齢相応の水着がよかったなんて言わないで。

BJの顔を見る勇気がなくて、うつむいたまま腕をそろそろと広げた。

あ、ダメだ。目じりに水が溜まってきているのが分かってしまった。

恥ずかしくて、死んでしまいそう。

どうして、こんなことするの。

「かわいい。」

「ふえっ」

間抜けな声が、自分から出たと分からなかった。

おそるおそる顔を上げる。

至極真面目で、あからさまな熱を持った視線が、私を射抜く。

「すごく、かわいい。」

「ううっ。」

言われたことのない言葉と、それを言いそうにない男。

脳みそがどうにかなってしまいそう。

でも、でも、じんわりと、うれし・・・く、て。

次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。

履いていた靴を脱ぎ捨てると、BJは私を横抱きにしたまま、砂浜を海に向かって走り出した。

そのままの勢いで、海へダイブ。

ぷはっと水面に上がったら、BJは太陽に大きな声で叫びだした。

「すっげーーーーーーかわいいぞーーーーーー!!」

「俺のキリコは、こんなにかわいいぞーーーーーーー!!」

快活に笑いながら、恥ずかしげもなく。

待って待って。こんな人知らない。てか、お前のものになった覚えもない。

そんなことはお構いなしに、また叫ぼうとしている。

やめてーーーーー!!!

口をふさぐように、私はBJに口付けした。

BJも驚いたようだったけど、私はお前の何千倍も驚いてるから!

本当に天才って奴は行動が紙一重。ビーチにいる人に聞こえちゃっただろうなあ。

でも、うん。うれしい・・・かな。

なんて思ってたら、ぐっと抱き寄せられて、キスがいっそう深いものになり、私の思考は奪われた。

キリコの水着姿は、もう、言葉では言い尽くせないほどなんて月並みだけど、それ以外に表現しようがない程、かわいらしかった。

かわいい、だぞ?

俺が。

この俺が。

着替えには、まあ時間がかかるだろうなとは思っていたけれど、一向に出てこないのには参った。

こんなの着られないと突き返される心配もあった。普段の土産の選択からわかるように、自分のセンスには、破壊的に自信がない。だから、お店のオネーチャンにキリコの容姿を伝えてオススメしてもらったものの中から、一番いいと思ったやつを選んだんだ。いやだって言われたら、そりゃ俺の力不足。いかん。すげー不安になってきた。

気分がどんどん後ろ向きになりかけたころ、キリコが出てきてくれた。

沈みだした夕日のオレンジ色の中、もじもじと見せてくれた水着は、俺の好みにドストライク。

オネーチャンから大きめのフリルは胸が控えめな娘が着るとか聞いたから、小さめのにしたんだけど、これがまたピンクの愛らしい鱗みたいに見える。三角ビキニはキリコの豊かな胸を隠すには、ちょっと不安かも。だってカップの横から胸がはみ出すんだぜ。他の男に見せられん。

そもそも、ビーチで着替えるようにさせたのも、ホテルの更衣室からここに来るまでの間に、キリコを見せるのがいやだったからだ。俺だけが見たかった。一番に。

自分のどろどろした独占欲に嫌になるけど、これが、まあ惚れた弱みってやつなのかな。

あ、こいつ、また一人でぐるぐる悩んでるな。

なにが原因か、まだわかってないけど、こいつはとにかく自信をなくしてる。

そしてそれは多分、俺が原因。

だったら自信を取り戻せるようにしてやればいい。

俺はキリコを横抱きに抱えると、海へ向かって走った。

いわゆる、お姫様抱っこってやつ。

考えるな。

お前さんは、最高に綺麗だし、かわいい。

今だけは、俺のものって思ってもいいよな。許せ。

海へ飛び込んで、声の限りに叫ぶ。

俺の直球、お前に届け。

スリーアウトを狙いたかったのに、カウント2でキリコにキスされた。

びっくりした。

こいつからキスをされるなんで、いつぶりだろう。

多分、恥ずかしくなって、俺の口を塞ぐためにやったんだろうけど、そういうところがたまらなく愛おしい。ホント、お前さんには敵わない。キスを深く求めた俺の首筋に、キリコの細い腕が絡まるのを感じて、今日一日が報われたような気がした。

夕闇が迫ってきたのでキリコは乾いた服に着替えて、俺は持ってきていたタオルで適当に拭いた。でもまあ濡れ鼠なのには変わりなく、一度ホテルに戻ることにした。

フロントのオニーチャンが驚いたように俺を見ていたけど、きゃらきゃらと笑いあう俺たちには関係なかった。

シャワーを浴びて、バスルームから出ようとしたら着替えがない。

キリコに聞くと、

「今度はお前が着せ替え人形ね。」

いたずらな笑顔を見せられた。

俺がシャワーを浴びているわずかな間に揃えたと思しき服に俺は戦慄する。

A案は、黒いタンクトップに、派手な色合いのマリリンモンローがプリントされているハーフパンツ。

B案は、大きく「明太子」と書かれている白いTシャツに、ダメージ与えすぎのジーンズ。

「A案とB案のミックスってお願いできませんでしょうか・・・せめてタンクトップとジーンズなら、俺、頑張れそうなんですけど・・・」

「いやあ、お客さん。どっちもこだわりのコーディネートなんですよお。」

「・・・お願いします。積むから。」

「うーん。いかほど、お積みになられる?」

「今夜の飲み代で、どうでしょうか。」

「お客さん、明太子シャツとマリリンモンローでいいんじゃないですかね。」

「ワインセラーの何本でもいいから。積むから。」

「しょうがないですねえ。」

にまにまと笑うキリコは、悪魔みたいだ。そんな奴まで、かわいいなんて思っちゃうから、俺は病気だ。

そんなわけで、夜の街へと繰り出した。

キリコは白地に青い花模様のマキシワンピース(教えてもらった。)が、よく似合っていた。

そう伝えると、「今日は褒められてばかりで困ってしまう。」と耳まで真っ赤にしていた。かわいい。

人でにぎわうダイナーで夕食を済ませ、よさそうな雰囲気の飲み屋へ移動した。

二人でコロナビールの瓶を傾け、乾杯をする。何にでもいいや。今日の努力に、でもいい。

男として見られていないのが、こんなにショックだとは知らなくて、もう一度俺のことを男として意識して欲しかった。その一心で町を駆けずり回って、今日のプランを立てた。運も俺に味方してくれたのか、とんとん拍子に事が運んでくれた。唯一の誤算は映画館でキリコが自腹で飲み物を買っていたことくらい。その他は、うまくいったと・・・思う。

でもキリコはどうなんだろう。俺に惚れ直してくれたかな。こいつ見た目とは正反対に、中身が男前過ぎるからなあ。正直、勝てる気がしない。

ビールを2,3本飲み、少し酔いが回ってきたころ、俺は思い切って聞いてみようと思った。その矢先、キリコのほうから口を開いた。

「BJ、今日はありがと。」

はにかんだようすで、俺と目を合わせずに言う。

「一日中びっくりしっぱなしでさ。こんな、あの、デー・・・ト初めてで、すごく楽しかった。」

ん、ああ、あ?!デート!そうか、今日のデートだったのか!

今更な事実に気づいて、早鐘のように鳴る心臓を、誤魔化すようにビールを飲む。

それが伝わってしまったようで、キリコもぐいっとビールを流し込んだ。

妙な沈黙。

「えーと・・・」

これを聞いとかなきゃ、今日の目的が達成されたのか評価できない。

「惚れ直した?」

真っ直ぐキリコを見つめて聞いた。

ゆれるアイスブルーの瞳が、なにを語るか見逃したくなくて。

あ、うすく涙の層ができてる。

さあっと血の気が引くような思いで硬直する俺の肩に、キリコの頭がとん、と触れた。

「・・・うん。」

小さくささやくように。俺だけに聞こえるように。

ぶわっと、俺の中に花が咲く。

打ち上げ花火だって上げちゃう。

キリコを見やれば、少し震えていて、泣いているのかと心配になる。そっと顎に手を添えて、顔を上げさせれば、目じりを染めて涙をこらえていた。

おろおろする俺に「違う。」と、かぶりを振りながら、俺の胸に縋るようにして「うれしいんだ。」と告げてくれた。

人目もはばからず、そのままキリコを抱きしめてしまったので、飲み屋の客から指笛が鳴り止まない状態になった。真っ赤になったキリコを胸の中に隠したまま、サムズアップ。そして俺も恥ずかしさに耐え切れず、その店から退散した。

浮かれた心には、まだまだ飲み足りず、露天のカウンターがあるバーに転がり込んだ。

星空の下、二回目の乾杯。

俺はグラスホッパー。ぴょんぴょんしてたから。

キリコはスーズ・ジャンプ。笑えた。

けらけら笑いながら、今日の出来事を話していたら、自然が俺を呼んだのでバーの奥へ行く。

ほんのちょっとの間なんだ。

BJが店の奥へ行くのを目で追っている自分に気がついて、どうにも浮かれていると笑みがこみ上げてくる。カクテルを口に運ぶと、隣に知らない男が立っていた。

「やあ、その眼帯、かっこいいね。ひとりで飲んでるの?」

屈強な男が二人、私よりうんと背が高い彼らは、大分酔っているふうだった。

「いいえ。連れが今席をはずしているだけ。」

厄介ごとになって、今の気分がぶち壊しになるなんて嫌だ。なるだけ波風を立てないように断った。

「そうなんだ。じゃあ、戻ってくるまで一緒に飲もうよ。」

「かわいいコ放っておく奴なんだろ。俺たちのほうがいいって。」

どんな耳してるんだろう。

「できない。ごめんなさい。よそを当たって。」

カウンターを離れようとする私の腕を、筋肉質な手が掴んだ。その力が予想以上に強くて、腕を捻られる形になってしまった。

「いたっ・・・」

小さく悲鳴を上げた瞬間、ものすごい怒号が飛んできた。

怒号というか。

何というか。

トイレから出てきた俺は、キリコをひとり残してきたことを激しく後悔した。

酔っ払いに絡まれてる。

やめろやめろ。そいつ、予想以上に強いから。

マーシャルアーツの心得あるから。

酔っ払いが、怪我をする前に何とかしなくては。

俺はバーのマスターにいくらか紙幣を握らせ、耳打ちすると、マスターは大笑いしながら彼の着ているド派手なアロハを貸してくれた。

しかし「いたっ・・・」というキリコの悲鳴を聞いた瞬間、俺の思考は180度回転したのだった。

バーから出て、酔っ払いどもの姿を確認するや否や、これでもかと罵声を浴びせた。

こんなときは使い慣れた言語のほうがいい。

意味なんか通じる必要はない。要は気迫だ。

「なにしとんじゃ、われえーーーーーーッ!!!」

BJ、それ日本語。通じない。

「人のツレに手ェ出そうなんざ、覚悟はできとんじゃろーーーーなーーーーー!!」

何弁。どこの方言。

それにそのガラの悪そうなアロハ。

だめ。笑えてきた。

「ケツから手ェ入れて、奥歯ガタガタ言わせちゃろかーーーーーーーーーー!!!!」

それ、吉本新喜劇だから!!!

男たちがBJの妙な気迫に押されて逃げ出すころ、私は笑いをこらえるのに必死だった。

そうしてカウンターに突っ伏す私の頭をぽんとなでて、BJはアロハシャツを持ってバーの中に入っていった。

バーの中の誰かから借りたのを返すのだろうと、ようやく笑いの収まった私に、また違う男たちが声をかけてきた。

連続でびっくりしたけど、さっきより強引なので、ちょっとお灸を据えてやった方がいいかななんて拳に力を込めたとき、今度は某国民的司会者のお家芸、なんちゃって広東語でBJが罵声を男たちに猛烈な勢いで浴びせてきた。

男たちが退散するより先に、私の腹筋のほうがやられてしまった。

もう、こいつ外に置いとけない。

大分酔いが回って、へにゃへにゃしてる。

かわいいけど、無防備過ぎる。だからさっきみたいな虫が寄ってくるんだ。

ふらつくキリコの手を引いて、ホテルまで一直線に帰った。

俺たちが部屋に戻ると、頼んでおいた新聞が数誌置かれていた。

そうだ。これも、今日のうちに聞いておきたいことだった。

気持ちよく酔った雰囲気を壊したくはなかったけど、目をつぶってはいけないと確信して、俺はひとり息を整えた。

キリコとソファに座ると、テーブルの上にそれらの新聞を広げる。

どの新聞にも同じような記事。大きく際立つ見出しが目に飛び込んでくる。

俺を殺そうとしたカルテルが、根こそぎ一斉摘発されたという記事だった。

新聞の日付は、俺が目を覚ます1日前。

つまり、俺が眠っている間に、とっくに命を狙う輩はいなくなっていたということだ。

言いたい事がキリコに伝わったのだろう。

隣に座ったキリコは、真っ青な顔で新聞を見つめていた。

「この記事のこと、知っていたんだな。」

穏やかな口調になるように努めた。

「・・・うん。知ってた。テレビのニュースでもやってたから。」

顔色は無いに等しい。

「じゃあ、どうしてフロントで男たちを見たなんて嘘を?」

糾弾するつもりはない。理由だけが知りたかった。

キリコは天を仰ぐと、しばらく目を閉じ、やがてうめくように言葉を搾り出した。

「だって、あのまま別れたら、もう二度と、会えなくなる気がして・・・」

「どうして?」

苦しそうに眉を歪めるキリコの手を、そっと取る。

「だって・・・あの時お前は私のこと、ティッシュペーパーか何かくらいにしか思ってないのが、わかったから・・・」

キリコの指先が、どんどん冷えていくのがわかる。

『あの時』は、俺が風呂上りに犬のように噛み付いた時、か。

「今だって本当は怖い。お前の前では『私』でも構わないのか『俺』の方がいいのか。多分『俺』の方が今までと同じように、付き合えるんだと思う。」

「でも、だんだん欲が出てしまって。」

上を向いたまま、キリコは続ける。

「もうどうしたって、女としてこれから生きなきゃならない。脳機能がどんどん女性になってしまっているせいかもしれない。だから・・・だから・・・」

「だから?」

俺の手の中で、キリコの指がかたかたと震えだした。

「キリコ、教えて。」

大切な魔法の呪文を聞きだすように、キリコの言葉を待つ。

はあ、と浅い息をつくと、キリコは小さな声で喘ぎながら言った。

「女として、見て、欲しいって。」

最後のほうは消え入りそうで。

とうとうアイスブルーの瞳から、ほろりと涙が零れ落ちた。

「こんな、ふうに、涙が出るのも、すごく、い、や、なんだ。弱く、て。でも、お、お前の、ことに、なると、もうダメで。」

「自信が、なくて。どうしたら、お前に、女だって、意識、してもらえるか。」

「だから、ごめん、嘘ついたし、ひどいこと、言った。息子なんて思ったこと、一度も、無い、よ。」

耐え切れなくなって、キリコの肩を抱き寄せた。

キリコは目をギュッと閉じて、両手で口元を隠してしまう。

「嫌いにならないで・・・」

「キリコ、キリコ・・・」

何度も名前を呼びながら、抱きしめた。

この気持ちを、どう表現したらいいか分からない。いじらしいとか、愛おしいとか、後ろめたいとか、とにかくいろいろな感情がごちゃまぜになって、俺の胸をいっぱいにした。

今は、キリコの思いを聞けたことが、一番だった。

俺がバカなガキだから、余計に苦しめてしまったんだ。

体の関係が続いているのに調子付いて、寄れば触れるくらいの軽さで、キリコを求めていた。キリコがどんな思いでいるか、おかまいなしで。そんなのマスターベーションと変わらない。だから、ティッシュペーパーなんて言うのか。

違う。違うよ。キリコ。

もうずっと前から、お前さんのことを女として意識してた。

でも、振り返ってみれば、それを伝えようとしてはこなかった。

息子なんて呼ばれて、目の前が真っ暗になって、俺もかなり落ち込んだけど。

命狙われてるかもと、ひやひやしてた間はきつかったけど。

きっとあの日からこうやって、ひとりぼっちで泣いていたんだと思うと、鼻の奥がつんとした。

「キリコ、泣くなよ。お前さんに泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。」

両手でキリコの頬をつつみ、涙を親指でぬぐうけど、次から次へと溢れてくる。

「頼むよ。」

「ご、ごめ、ん。止められ、なくて。」

ああ、また困らせてしまった。どうしたらいい?

もう一度ぎゅうっとキリコを抱きしめる。

「惚れた女に泣かれるってのは、こんなにつらいもんなんだなあ・・・」

俺も泣きたくなってきた。

「ほれ、た?」

キリコの涙声がする。

「ああ、惚れて惚れて、一等惚れてんだ。」

「・・・いま、は?きらいに、なった・・・?」

震えて、鼻を啜りながら、消え入りそうな声で。

「嫌いな相手を、こんなふうに抱くかよ。」

おずおずと俺の背中に、キリコの細い腕が回る。

「お前さんは?もうこんなガキ、相手にするの疲れたか?」

「そんなわけ、ない・・・っ」

腕に力がこもる。

この際だし、思っていたことは全部言おう。キリコをこれ以上困らせないように、言葉を選びながら。

「なあ、もう『おばさん』なんて言葉使うなよ。あれ、すごいショックだった。」

「でも、事実だし・・・」

「テロメアの長さとしてはな。実際俺はお前さんのこと年上だと思ったことは無いぜ。現に、こんなに泣かれちゃ俺より年下だと思っちまう。」

キリコはアイスブルーが潤んだ目じりを真っ赤にして、おずおずと最後の不安の言葉を口にする。

「がっかりした・・・?」

それが、何よりかわいらしくて。

「いっそう惚れた。」

俺の背中に回された腕の力が、ぎゅっと強まるのを感じて、キリコの体をそっとソファに押し倒すと、そのまま唇を奪った。

「あ、あの・・・ここじゃなくて・・・」

「ん?」

「ベッドの上がいい・・・」

恥ずかしそうに、キリコは俺にベッドルームへのチケットをくれたのだった。

暗い海にあいつが投げ込まれるのを見たときは、血の気が引いた。

ただで死ぬタマじゃないのはわかっていたけれど、大急ぎで海から引き上げた。

体を縛っていたロープを切るのに手間取ったせいだろうか。

青い顔で水面に上がってきたのを見たら、情けないことに大層取り乱してしまった。

医療に携わるものとして、あるまじき事だ。

すぐに気持ちを立て直して処置をした。

幸いBJの呼吸はすぐに戻り、心拍も安定してきた。ただ意識だけが戻らない。

ホテルへ連れて来る選択をしたのは、BJの命を狙う男たちが病院に乗り込んでこられては困るという理由だけだった。

もし嗅ぎ着かれても、このホテルのセキュリティは、きっとその男たちを追い出してくれる。

病院なんかより、よっぽど頼りになる。真夜中の病院に忍び込んで、何度も何度も仕事をしてきたから、その辺のことは嫌になるくらいわかっていた。

友人が酔って海に落ちてしまった、ということにしてホテルに説明をした。

ホテルのスタッフが手伝おうとしてくれるのを断って、なんとか部屋までたどりつけた。

重い体を引きずってきた私の腕は、ほとんど握力が残っていなかったけれど、もう一息。

バスタブにお湯を張って、その間にずぶぬれの体から衣服を脱がせていく。

海水を吸ってずっしりと重い奴のコート。

中には、ああやっぱり、メスだ何だと詰まってる。

こんなの放っておいたら、すぐに錆びてしまう。あとで手入れをしよう。

あたたかいお湯の中で、BJがうっすらと目を開けたとき、心からほっとした。

まだ焦点の定まらない目で私の方を見ると、

「・・・人魚姫」

そう呟いて、また眠りの世界へ行ってしまった。

それが誰のことを指すのか、自意識過剰だといわれても仕方ない。

BJが助かってほっとしたのと、メルヘンチックな言葉をかけられたのと相まって、妙に胸が高まったのを感じていた。

それから数日、BJは眠っていた。

その間に、BJを殺そうとした男たちが一斉摘発されたのを知った。

ニュースの映像の中に、BJをまさしく海に投げ込んだ男がいたからだ。

よかった。これで、もう大丈夫。

目が覚めたら伝えてあげよう。

ベッドールームからBJが目覚めた気配がした気がして、慌ててドアを開けると。

私を見て、BJはひどくがっかりしたようすで、

「なんだ。キリコか。」

めんどくさそうに毒づいた。

なんでもないことのはずなのに。

小さなかけらのようなものが、心からこぼれたのがわかった。

そんなこと、覚えていないだろう?

いいんだ。覚えてなくて。

こぼれたかけらは、お前が戻してくれたよ。

それもたくさんお土産つきで。

隣で眠る、ツギハギの顔をそっとなでた。

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