バレンタイン・キッス

キレイにラッピングされた小さな包み。ピンクのリボンがサテンの輝きを控えめに纏う。

恥ずかしげにそれを渡してくれた少女は、手術の礼だと純な笑顔を見せた。裏心なしのプレゼントの中身は、病院のコンビニで売っているチョコレートアソートだった。

その場ではありがたく受け取った。チョコレートは嫌いじゃない。だけど甘いものを日常的に食すわけではないので、一粒口に放り込んだ後は正直持て余してしまった。無辜のチョコレートを捨てるのは憚られる。ならば別の人間に渡して食べさせるまでだ。

「だからって、どうして俺の所に来るかなあ」

いつものバーカウンターで目当ての奴を捕まえた。銀髪の隙間から、本気で迷惑そうな片目が覗く。

「なんとか2粒食べたんだ。残りはやる」

「意味わかんない。だいたい賞味期限はまだあるんだから、今日すぐ食べる物じゃないだろうに。明日も2粒食えよ」

「終わった案件だから、チョコも早く片付けたい」

「それってお前の都合だけだよね。女の子の善意を何だと思ってるんだ」

うわ。こいつに善意とか抜かす権利がまだあるとは思ってなかった。鳥肌が立つのを隠しながら、奴の隣に座る。露骨に一席空けると、チョコを押し付ける距離が遠くなって困るから。

「お前さん、いろいろメシ作るじゃないか。それでチョコもなんとかできるだろ」

気軽に言ったのがまずかったのか、キリコの機嫌は急降下した。

「俺の事をどう思ってるのかは知らないが、菓子の類を作った覚えは一つもない。冷凍庫のアイスは入院患者が食べたがったから置いてあっただけで、その他の羊羹やビスケットは全部お前が持ち込んだものだ。そもそも俺はチョコレートは好まん。もう一生分食った」

吐き捨ててキリコはバーボンを煽った。俺、地雷踏んだっぽい。チョコレート一生分食う環境って、ほぼ毎日食べなくちゃいけなくて断れない状況だ。そんなのはチョコレート専門店の見習いパティシエくらいしか思いつかないところだけど、コイツの場合にはジャングルが当てはまる。軍隊のレーションにはカロリー摂取に適切だとかでチョコレートが良く出るらしい。

隣のキリコは黙り込んでしまったけど、俺はちょっとうれしいような困ったような複雑な気分。以前はキリコの方から昔の話題になるようなキーワードなんて、絶対に出てこなかったし、俺も気がつかなかった。今は少しだけ、本当に少しだけ、昔を感じさせる瞬間をキリコは見せる。きっと無意識だと思う。それが妙なことにうれしいなんて思ってる俺がいて、だけどそれは俺にとって歓迎できない内容でもあって、スルーすればいいのか、切り返せばいいのか、微妙なんだ。

キリコからむしり取ったグラスの氷が揺れる音を合図に、俺は思考を切り上げた。なんでキリコなんぞに気を遣わねばならんのだ。スルー一択で。

バーテンのオニーチャンにダブルでキリコのボトルから注いでもらい、黙って飲んだ。隣の銀髪はタバコに火をつけ、静かに深く煙を肺に入れている。やがてため息交じりに煙を吐き出し、チョコレートの箱を指でトントンと軽く叩く。

「バーボンにチョコレートは合うよ。試してみな」

酒のアテにチョコレートなんて聞いたことがない。だけどさっき地雷を踏んだ身としては、ここで言い争っても利点はないので、ダメもとで試してみることにした。

箱の中からキューブ型のチョコレートを摘んで口に放り込む。むぐむぐやってると中から甘酸っぱいゼリーが出てくる。思わず眉間に皺。たまらずバーボンを口に含んで飲み干すと、チョコレートの甘さがスッキリと無くなった。

余程ぽかんとしたマヌケ面だったのだろう。俺を見ながらキリコはくつくつ笑って言った。

「日本酒に合わせる場合もあるらしい。いろいろ試してみたら?お前、そういうの得意だろう」

俺とキリコの中間にあったチョコレートの箱を、さりげなく俺の方へ押し返す。

無性にむかむかした。

こーゆーところで機嫌を直すコイツは本当に性格が悪いと思う。チョコレートに合う酒をもっと試してみたいと思ってしまっている俺は相当チョロいとも思う。

だからバーテンが後ろを向いている隙に、もうひとつチョコレートを口に含んだ。

キリコが何か言おうと開いた口に、直接お見舞いしてやった。

甘い甘いミルクチョコレート。

薄い唇の隙間に甘い塊を舌で押し付けて、そのままねじ込む。吐き出されては面白くないので、たっぷり10秒唇を塞いだまま。甘さが完全にあいつの口の中に移動したのを確認してキリコの体から離れた。

チョコレートが無くなった口の中を、すぐにバーボンで漱ぐ。ざまあみろとキリコを見れば、唇にミルクチョコレートの雫がついてる。そんなもんつけてたら、俺が何したかばれるだろ!ちゃんと確認はした。店内の客は俺達だけ、バーテンは一人で後ろ向いてる。誰にも見られてない。だからさっさと口を拭え!

俺の無言の圧が伝わったのか、キリコは指で唇を拭い、おそらくチョコレートでいっぱいになってる口をもごもごと動かした。

「信じられない」とか「そういう趣味があるのか?」とか聞こえた気がするが無視。お前が悪い。

チョコレートを飲み込んで、ぐいとグラスを空けたキリコは、ぼんやりと遠くを見るようにカウンターの奥に視線をやった。

「10年ぶりくらいに食べたよ。チョコレート」

そうかい。そんなに嫌いだったのか。でもお前が悪い。

意趣返しはできたので、さっさと退散しようとしたら、腕を掴まれた。結構強く。叫ぶ間もなく俺はキリコの方へバランスを崩し、顎をやさしく捕まえられて、そのまま。

「やめろ…って…」

さっきのミルクチョコレートの味がする。

「…ン……う」

後頭部を抱えられて逃げられない。こんな姿、他人に見せられるもんか。バーテンの視線が気になるけど、彼は俺の後ろに立っていた。確認できない。焦りと羞恥で汗がにじんできた手でキリコの肩を何度も叩いた。なのにあいつはキスを止めない。

深く、深く、ねちっこいほど長いキスから解放される頃には、俺の体はバーボンのボトルを全部空けてしまったくらいに火照って、腰が砕ける寸前。

どんな顔を俺はしているのだろう。満足そうに口角を上げたキリコは、俺の耳に熱い息を吐きかけて言った。

「バーテンダーの彼は、この時間には賄を食べに席を外すんだ。ほんの10分くらいだけど。その間一人で店内に残しておいてもらえるくらいには馴染みなんだよ」

キリコの指が俺の手の股をさする。それだけで。

「まだこの店には通いたいから、場所を変えないか。まさかお前からバレンタイン・チョコレートをもらえるとは思ってなかったんだ。ホワイトデーまで待てる確証はないから、すぐにお返しがしたい」

えっ。

バレンタイン?

バレンタインって、なんだっけ…

バーテンが戻って来ると、キリコはサッと席を立ち、二言三言交わして店を出ていく。ひとつも振り返らないで行く様子が「ついてくるだろ?」と余裕綽々でイライラした。「お返し」の意味が単純な仕返しじゃないのも分かってる。あいつはあいつで俺がしたことに腹を立ててるみたいだし。このまま店に居座ることもできた。だけどさっきのキスの熱が冷めない。それに、まだ箱にはチョコレートが残ってる。

「チョコレート全部食わせてやる…」

それだけを胸に忌々しい銀髪の後姿を追った。

「チョコレートくれたコには一言言ってあげたかったなあ。『こいつは自分が一番なので、そのチョコは君が食べた方が、きっとたくさんの人が喜んだよ』って…」

「……結局俺が悪者なのかよ」

「少なくとも正義の執行者ではないな。俺の所に持ってきたのが一番の悪手だ。お前の前で甘味の類を口にしてる姿、見せたことあったか?」

「………」

「病人には絶大な効果を発揮するその観察眼を、少しは日常生活にも生かしなさい」

「うるせえ、指図すんな」

「いいや、今回は許さない。こんなにチョコレート食べたのは久しぶりすぎて胃もたれする」

「ざまみろ、胃弱。齢食ったら脂や砂糖は刺激が強いか」

「………さっきまでその年寄りの胃弱に散々泣きべそかかされてたのは、どこの誰だか忘れてるみたいだな」

「思い出した!思い出したから、凶器をしまえ!しまえってば!」

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