シャワーの中に隠した雫

自分の寝室にキリコがやってきたのは、つい最近。

秘密基地を明かすような気持ちだった俺よりも、キリコのほうががちがちに緊張していた。

これまではキリコの家でコトに及ぶ場合が多かったし、そうでないときは出先のホテルか繁華街の安宿だった。でもこれからは俺の家も、その選択肢に含まれる。

キリコとの距離が、もっと近づいた気がする。ガキのようにそれを喜ぶ自分がいる。

しかし、とストップをかける自分もいる。大問題があるのだ。言わずと知れたキリコの稼業である。

死神の化身なんて異名を片手に、あいつは世界中飛び回ってヒトゴロシをしている。安楽死なんて聞こえのいい名前なんかクソくらえだ。あいつがやってるのは俺の大嫌いな稼業。やめろやめないの喧嘩を一万回はしていると思う。これは絶対お互いに譲らない。

ただ、それ以外のトコロじゃ案外と気が合うトコロがあるので、あいつとの付き合いは今まで続いてきている。

そんなあいつがウチに来るとなると、些かタイミングが微妙になってくる。

ウチの住所はあちこちにもれているので、駆け込みの患者なんかしょっちゅう来る。ウチで手術して、そのままリハビリまで面倒を見たこともある。この前の媚薬騒ぎの時だってそうだ。これからって時に急患が来た。そのときはキリコは別室にいたからよかったものの、もしカチあっていたら大変だったろう。

俺だけを知っている相手ならいい。だが、俺とキリコの両方を知っているとなると話は違う。

奇跡のオペを数多く行い、生きる尊さを謳うブラック・ジャックの家に、死を商いにするドクター・キリコが出入りしている。こんなことが噂になったら、どうなってしまうだろう。

まず俺の信用はがた落ちだ。オペの依頼は、ほとんどなくなるかもしれないな。風評被害もあるだろう。俺の治療の甲斐なく死んでしまった患者は、実はキリコが殺していたとか言い出す奴が出てくるかも知れん。または俺が治療できないと判断した患者を、キリコに引き渡して、二人でぼろ儲けをしているとか。

そこまで考えて馬鹿馬鹿しくなった。

くだらん。実にくだらん。

俺の信頼とか評判とか、人様が勝手に言ってるだけであって、俺自身になんの影響もない。言いたい奴には言わせておけ。そうやって今まで生きてきた。

ただタイミングがどうこうってのは、うまくやる必要があるかもしれないな。

電話のベルの音が響いて我に返った。

さっそく来なすった。急患だ。

アウトローの医者と蔑まれながら、住所も電話番号もばれてる。これじゃ普通に開業医してんのと変わらんな。

頭をかきながら、患者の到着を待った。

オペは無事に済んだ。ウチにある設備で何とかなりそうだったので、患者は少しの間ウチで入院させることにした。麻酔が効いているから、患者はまだ眠りの中だ。必要な処置を施し、現段階ではこれ以上することはない。

俺も休もうと、さっさと風呂に入って、冷蔵庫のものを適当につまんだ。

時計のタイマーを合わせて、定期的に患者の容態を見る。

入院患者がいるときの生活は、とても制限されるけど、必要なことなのだからするしかない。

患者は順調に回復し、2週間後には自力でウチを出て行った。その間にも何件か駆け込みの手術があったけど、術後はすぐに別の医院へ移動したり、そこまで大げさに安静にしなくても良い程度のものだったりと、うまいこと回せていたんじゃないだろうか。

誰もいなくなって、ようやく一息つける気持ちになった。

我が家の軒下でパイプを燻らせていると、ワインレッドの旧車がやってきた。

俺、この車種に乗ってた時期があるんだよなあ。色違いだったし、年式もグレードも違うの分かってんだけど。どうやって左ハンドルのを見つけたかね。

車はウチの裏手に停まり、ドアの閉まる音がする。

「こんにちは。ブラック・ジャック先生。お時間ありますか。」

沈みゆく夕日を浴びて、色素の薄い髪が金色に輝いて見える。

「こんにちはより、こんばんはだな。ドクター・キリコ。時間は残念だが、ある。」

精々嫌そうに言ってやると、キリコは白い歯を見せて笑った。

千客万来だな。我が家は。患者が立て続いたと思ったら、お前さんまでくるなんて。一人の時間がなくなった喪失感より、キリコが来てくれたことを素直に喜ぶ自分がいた。

キリコは先日俺が貸した医学雑誌を返却に来たのだった。掲載されていた論文の結論に対する意見の交換や推論をするのが楽しい。時間が経つのも忘れて話し込んでしまった。俺の腹の虫がぐうとなるのを聞いて、ふたりで顔を見合わせた。キリコはくつくつと笑うと、本を貸してくれた礼に夕飯を作ってくれると言った。おお、海老で鯛を釣った気分だ。

「冷蔵庫の中、何もないじゃないか。」

キリコが驚いた声を上げる。

「入院患者がしばらくいたからな。買出しもいけなかったし、ためてあったレトルトで何とかなったぞ。」

我が家には患者がいたときを想定して、病院食や俺のメシになるレトルトがいくつも常備されている。あとは霜だらけの冷凍庫に詰め込みまくった冷凍食品。これらは前回の入院患者がいたときに食い尽くしてしまったので、また調達して来ねばならない。

キリコは少しの間、冷蔵庫とにらめっこしていたが、やがて大きく頷いた。

「それじゃあ夕飯の支度をしている間、お疲れの家主様はお風呂でもどうぞ。」

「殊勝なことを。」

「お背中を流してさしあげられないのが残念です。」

ふふんと笑うと、しれっと冗談を交えて言ってくる。

「じゃあ、ゆっくり入らせてもらおうかね。」

嫌味な笑みを浮かべながら、俺は足取り軽く浴室へ向かった。純粋にあたたかい夕飯にありつけるのが楽しみだった。

しかし何もない冷蔵庫を相手にキリコは何を作る気なんだろう。野菜室に芽が出たジャガイモがあったかも。卵はひとつだけあったかな。米はある。キリコがどうするか楽しみで、久々に気兼ねなく風呂に浮かんだ。

風呂から上がると電話のベルが鳴った。

取ると患者がこちらに向かっているという。2,3やり取りしただけで、かなり切迫した症状だとわかった。こうしちゃいられない。

ふりかえるとキリコはいなかった。家の外から車のエンジン音が遠ざかるのが聞こえる。

食卓にはまだ湯気の立つ夕食がならんでいた。

やってきた患者は重篤で、オペに時間がかかった。今回の術後の経過は、ウチの設備では看きれない。そう告げると、患者の親族はすぐに入院できるところを探すから、一日待って欲しいとウチを飛び出していった。

朝日が昇ってくる。

血のついた術衣のまま、椅子に座り込み、タバコに火をつけた。

黄色い光の中に、細く白い煙が浮かぶ。

数時間前に見た色素の薄い髪を思い出す。

ふらふらと台所へ足が向かう。患者が来るまでの間に、あたたかいメシをかきこんだ。ろくに味わえもしなかった。シンクには俺の茶碗だけが残っている。

タバコを深く吸った。

勢いよく吐き出される煙は、台所の空気を汚した。

一日待って欲しいが二日になり、三日になったころ、患者に限界が訪れた。なんとか持たせているところに、やっと患者の親族がやってきた。救急車を連れて。最悪だ。

サイレンの音がいなくなるまでの時間が無限に続くようだった。

ブラック・ジャックの家から救急車が出た。あいつもとうとうヤキが回ったな。そんなことがあっという間に広がるのが予想できた。俺はやるべきことはやったし、手抜かりはない。もっと早くきちんとした設備のあるところに…そんなことを言い出したらきりがない。そもそも俺がやるべきことってなんだ?

呆然とソファに埋もれているうちに、やっと睡魔がきてくれた。

遅かったじゃねえか。ついでに死神も連れてこい。

悪態をつきながら、暫しの薄いまどろみに身を任せた。

次の日、噂をまだ知らない善良な患者を立て続けに手術した。

それから手術の途中で急変して、死んでしまった患者のことが頭から離れなかった。どうして、どうすれば、そんなことが延々と渦巻く。救急車で行ってしまったあの患者はどうなっただろうか。考えても仕方がないのに。まんじりともせずに朝を迎えた。

その次の日は大病院に入院している患者を、こっそりと俺が手術するという、実にモグリらしい依頼だった。依頼してきた医師が「君の家から救急車が出たというのは本当かね。」と聞いてきたのには笑った。噂ってのは普く娑婆に広がるもんだ。

「間違いありません。ご心配なら、私ァ降ります。」

横柄に告げると、疑いの眼差しを向けながらも、俺を手術室へと通した。

設備が整った大病院。大勢のスタッフ。俺の頭はギンギンに冴え渡り、好条件の中、問題なくオペは終了。俺は報酬をもらい、さっさと帰るだけ。真夜中の病院の廊下を足早に歩いた。

だが、折角だ。一般病棟の設備を見せてもらおう。ウチに足りない設備をはっきりさせたかった。そんな思いつきで病棟に潜り込んだ。ぎらぎらした目で廊下から覗き込み、空いている部屋を探しているうちに、暗い部屋の中に人影があるのに気付いた。

誰だか、すぐにわかった。

キリコだ。

仕事をたった今終えて、帰り支度をしている。

会いたくない。

今のお前に会いたくない。

なのに俺の足は動かない。

夕暮れの光の中で笑ってくれた頬は、蝋のように固く。

金色にさえ見えた髪は、闇を吸って重く。

会いたかったのに、会いたくない。

キリコが俺に気付くのは時間の問題だった。

「…こんばんは。ブラック・ジャック先生。」

「また人殺しか。ドクター・キリコ。」

俺の口は常套句を再生する。

「人殺しじゃなくて……」

言いかけたキリコは、俺を見つめたまま黙ってしまった。眉間にしわを寄せると、俺のそばを風のように通り過ぎる。「外で話そう。」すれ違うときに、そう聞こえた。

ワインレッドの旧車が暖機運転をする。俺も今日は車なんだ。そう言うと「じゃあお前のところに行ってもいいか。」と、強い調子で言われた。仕事帰りの死神の化身を家に上げるブラック・ジャックも面白いか。そう思ったから、頷いた。

深夜のハイウェイ。

俺のあとを、キリコがついて走っている。

追いかけるふうでもなく。追い越すふうでもなく。

まもなくウチに着いた。俺はいつもの定位置に駐車し、キリコは裏手へ停めた。

ウチの中に入ったキリコは、眉間のしわをもっと深くした。なにかに怒っているみたいに見えた。俺の無様な失態も、とっくにキリコの耳に入っているのだろう。罵倒されるか、張り倒されるかしたら、ちょっとはすっきりするかもしれない。

「お風呂借りてもいい?」

キリコの発言が理解できなかった。俺の返事を待たずに、キリコは浴室へ向かう。一度しか使ったことがないのに、よく場所を覚えてるな。なんてぼんやり思った。やがてシャワーの音がした。

ああ、好きにしろ。どうでもいい。コートもかばんも何もかも重い。引きずるようにしてソファにのせて行く。ジャケットを脱いで、タイに指を掛けたとき、目の前に影がさした。

キリコが俺の前に立っていた。白いシャツにスラックスをはだしで。石鹸のかおりが、特別異質なものに感じた。

「簡易的な消毒しかできなかったが、許して欲しい。」

そう言うと、俺の手をそっと取った。両手を包み込むようにして。そうしているうちに、俺は自分の指がとても冷たいことを知覚した。とたんにがくがくと震えだす指が疎ましい。震えを押しつぶす勢いで、キリコは俺の手を握った。キリコの体温が手の甲から沁みてくる。

「今日のお前、若いときの私にそっくりだ。」

手の強さとは違って、やわらかい口調が耳をくすぐる。

「ご飯食べてる?」

「…いつ、食べたっけな。」

「ちゃんと寝てる?」

「ここんところ……」

「重篤な患者が居たんだね。においで分かるよ。よく嗅いだにおいだ。その患者を一人で看ていたってところかな。」

「まあ、そんなところ。」

そんな会話をキリコと一切視線を合わさずにした。ただ手の温みだけが分かる。

「コーヒーが飲みたいな。台所のどこにあるか、教えてくれるかい。」

俺が「うん。」というまで、キリコは俺の手を握り続けた。

あたたかいコーヒーを飲むと、少し落ち着いた。

「俺は開業医じゃないってのに、次々と急患がくるんだぞ。千客万来だ。」

「俺のウチに救急車が来たんだぜ。しかも患者を運び込むんじゃなくて、連れて行く方。」

「噂ってのはたちどころに広まるもんだ。それをまだ知らない善良な患者たちを手術したよ。」

ここ数日の最悪な出来事を、自嘲気味に話すことすらできた。コーヒーになにか入れたのだろうか。

「笑えるな。」

キリコが穏やかに言う。とたんに視界が歪みだす。ああ、どうして。

「お風呂入っておいで。」

そういうキリコの助け舟で、浴室にたどり着くまで、なんとか持ちこたえた。シャワーの中に雫を隠すことができたから。

風呂は命の洗濯なんて言うのを聞いたことがあるけれど、あながち無い話ではないかもしれない。久しぶりにきちんと風呂に入れた爽快感あってか、さっきの自分とは比較にならないくらい思考はすっきりしていた。ただ勢いで風呂に入ってしまったので、着替えを持ってこなかった。

バスタオルを腰に巻いて、うーんと唸る。自分のウチなんだし、着替えを取ってくればいいだけなのに、キリコがいるとバスタオル一枚で出て行くのも憚られる。廊下まで出てもじもじしていたら「湯冷めするよー」っと、台所でカップを洗うキリコの背中越しに声をかけられてどきっとした。コイツ背中に目がついてるのか?くそ、どうして我が家でこいつに主導権をとられにゃならんのだ。

いらいらしながらバスタオル一枚でうろつく俺を、ニコニコしながらキリコが見ているのに、俺はまだ気がつかない。

寝巻きに着替えた俺を見て、キリコは腰を上げる。

「それじゃあ帰るよ。よく休んでね…」

やさしい微笑を浮かべて言ってくれるのは、とても胸に来るものがあるんだけど、違うだろ。

「お前さん、俺の母さんになるには大分若すぎるぞ。」

俺を引っぱりあげてくれたのには感謝するけど、そこは違う。幼い頃の記憶のように、俺はお前に母さんのように頼ったりしない。無償のなんとかってのはお前さんには似合わない。メシ作ってくれたり、風呂に入れてくれたりだけになっちゃうのは、若い役者に肩入れする大女優みたいで嫌だ。

それに俺はどっちかが我慢してるような関係は大嫌いだ。けちだからな。忘れてないぜ。お前さんが晩飯だけ残して消えてしまった夜のこと。

「面倒看てくれるんなら、最後までだろ。」

ぱっと両手を広げた俺を見て、やがてそろそろと近づいてきた。手を広げっぱなしってのも、なかなか恥ずかしいな。焦れる俺を上目遣いに見て「いいの?」と寝ぼけたことを抜かすので、そのまま腕の中に閉じ込めて出られなくしてやった。

電話のベルの音がする。

鳴り止まないので、仕様がなく出る。

急患か。

「現金で5千万円。出せなきゃお断りですぜ。」

相手は勝手に電話を切った。

これこそ、モグリだろ。

自由業。

寝巻きの下だけつけた俺は、また寝室へ戻る。

かわいい女が待ってる寝室へ。

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