彼に初めて会ったのはいつのことだったろう。
隔離された島。母子の病室。どちらだったか。
俺の行く先で、いつも鼻先にまとわりついて。
NYの夜のことを、今でも鮮やかに覚えている。
「お前さんに、生きることの素晴らしさを教え込んでやる。」
確か彼はそう言って、俺を場末の飲み屋に引きずり込んだのだ。コップに並々と注がれた安酒をあおりながら、半分掴みかかってくるような勢いで、自分の施した手術の成功例と患者の経過を上げ連ねた。純粋に驚嘆した。同時にさして興味もなかった。対岸の火事。火の粉がこちらにかからなければ、彼がどこで何をしていようと関係がない。
俺がいつまでも酔わないのを彼は苛立っていた。水でも飲むかのように日本酒の注がれたコップを空け、そのまま焼き鳥にかぶりつく。彼の怒りを感じるほど、俺の心は静かになる。飲み屋の客らの喧騒に俺たちの会話がかき消される頃、ぽつりと「上手くいくことばかりじゃねえけどな。」と、かなり酔いのまわった目つきで彼は呟いた。ちり、と心に意地の悪い感情が湧いた。こんなやかましいところで散々自慢話を聞かされたのだ。これくらいはと、彼の手術の失敗例を訊ねた。すると見る間に眉根を曇らせて、泣きそうな顔でうなだれる彼に、柄にもなく心が揺れた。冷えた肌に真っ直ぐな情熱を、焼き鏝のように当てられた気分だった。それがきっかけといえば、そうなのだろう。
もう随分と彼に会ってない気がする。
テレビ番組がオムライスの旨い店を紹介しているのを横目に、缶詰のクラムチャウダーをパンで温める。今日は冷える。スウェットを脱いで、セーターを着た。こたつを知らなかった頃に戻してほしい。これがないと俺は日本の冬が越せなくなってしまっている。クラムチャウダーをすすりながら、温泉特集に移ったテレビをぼんやりと眺めた。
こんなに自宅でゆっくりするのは久しぶりなのだ。先日まで、またC国に行っていた。変なコネクションができてしまって、金払いはいいものだから納得のいく案件は引き受けている。たまにカルテをだまくらかしてくるので油断はならないが。あの国もだんだんと夜中まで子どもが出歩くようになってきた。22時を過ぎても、子どもたちが爆竹の音に喜んでいた様子を思い出す。軽いため息をつき、C国で手にしたステッカーを我が家の大黒柱に張り付けた。
海外に行っている間に年を越した。雪のひどい日で、フライトが一日延びてしまう。なんとかホテルを確保し、腕時計がきちんと現地時間になっているのを確認して就寝した。
ひどい夢を見た。椅子に座った俺の上に、彼がまたがっている。にこにこと酔っぱらった面持ちで、俺の眼帯を引っ張るのだ。俺の体は縛られたかのように動かない。口だけは動くので、思う存分下品な口論を繰り広げた。そのうち彼の唇が降ってくる。およそキスとは言えない拙い接触。怒りで目が覚めた。こんな夢を見てしまうほど、俺はどうかしてしまったのだろうか。
帰国したその足で、馴染みのバーに向かった。枯れ枝を合わせたようなシェード。カウンターの一番端。そこが俺の指定席。キープボトルには、ちゃんと前に来た時と同じ量が残っていた。ロックでチビチビやっていると、木製のスピーカーから「morning」が流れ出す。今日はやけにベタな曲を選ぶんだなと鼻白む。
帰宅するとポストの郵便物の中にゲイバー「すきゃっと」からの年賀状があった。でかでかと真っ赤なルージュがついている。絶対にマチコだ。頭を抱える。その年賀状をダストボックスへ放り込むか、冷蔵庫にでも張り付けて色あせるのを待つか、どうでもいいことを思案しながら庭に出た。どうして我が家の庭は落葉樹が多いのだろうか。俺が作ったわけではないからどうしようもないのだけれど。今年は暖冬で雪がないから、落ち葉も枯れ枝も何もかも散らかったまま。雪は良い。何もかも真っ白にしてしまうから。ぼんやり突っ立っていても寒いだけなので、適当に落ち葉を掃いた。夏には薮蚊の出る茂みの下、ハンモックを吊るした木の根元。それだけ掃き集めると、焼き芋でもできそうなくらい落ち葉がたまった。
久しぶりにエンジンを動かさないといけない。ガレージを開け、ワインレッドのフェアレディZのキーを回す。旧車ならではのエンジン音に、少し口元が緩んだ。正直冬にコイツに乗るのは、あまりよろしくない。最新の自動車と違って、隙間風がぴゅうぴゅう入るのだ。暖房もあまり期待できない。エンジンから直接熱気を持ってくる穴が開いてないだけ上等だ。せっかくだししばらく転がしてくるかと、ダウンジャケットを着たまま運転席に滑り込んだ。
あてもなく車を走らせる。春の日の堤防、桜の公園、デパート前の人だかり、夕暮れの海。どこまでも行けそうで、どこへ行けばいいのかわからなくて。
星が光るころ、岬の家の前に立っていた自分に愕然とした。
来てしまった。
どうしてなんて、決まっている。
俺は会いに来たんだ。
彼に。
だけど岬の家は真っ暗で。彼はここにはいない。
どこにいったのだろう。またどこかででメスを振るって、切ったり貼ったりしているのだろうか。それならばいい。もしトラブルに巻き込まれていたとしても、簡単にくたばる人間じゃない。生命力の塊のような男なのだから、絶対にしぶとく生き延びているに違いない。
どこにいったのだろう。胸を焼くものを感じて辟易する。こんなものがまだ俺の中にあったなんて。戦場で凍てついて全部砕けたはずなのに、彼は勝手に俺の中にずけずけと入り込んで、そのたびに小さくて熱い粒を落としていく。粒がいくつも溜まって、か細い炎を上げた瞬間、俺は何かが変化したのを感じたのではなかったか。
それは彼の瞳を覗くとき。彼のツギハギだらけの手を取るとき。仕事を終えた俺を怒りに任せて罵る彼の眼が、涙で滲んでいるのを認めたとき。くだらないことで笑いあい、帰り道で口づけを交わしたとき。
俺にはその変化を受け入れることしかできなかった。オマケみたいな人生だったし、どうなってもいいくらいに思っていたのかもしれない。ただ彼の熱はあまりにも苛烈で。
初めて体を重ねた時のことは、遠い日の記憶のようだった。それでいて鮮明で、手触り一つはっきりと覚えているような。冬の夜風に冷え切った手を合わせる。がさついた己の掌の感触とはかけ離れた、彼の縫合痕のついた頬の感触。彼のことを思い出すことしかできない自分が情けない。
探しに行けばいいのだろうか。なりふり構わず、全部放り出して。そんなことは、できない。彼はできるかもしれないけれど、俺にはできない。俺を待つ依頼者がいる限り、投げ出すなんてことは願い下げだ。
海原の水平線に目をやる。なんとなく俺たちのようだと思う。どこまで行っても平行線。決して交わることがないはずだったのに。夜空と水平線が接する部分。そこが妙に気に入っていた。
ポケットから煙草を出す。車体に寄りかかったまま、深く煙を吸い込んだ。馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。こんなことになるから、俺は。
夜空に煙を吐き出した。あっという間に霧散して、暗闇が下りてくる。携帯灰皿に煙草をぎゅっと押し付ければ、小さく火の粉が飛んだ。そうだ。彼のことはきっと一瞬の火花のようなもので、俺はきっとまたタールのような日常に戻れる。穏やかで、揺らいだりしない、なにひとつ欠けることのない日常。毎日死ぬために生きる。一日生きれば一日死に近づく。今までそうしてやってきた。もとに戻るだけだ。静かでいい。
冬の海風にさらされていると、さすがに凍えてきた。車に乗り込もうとした時、小さな光が丘の向こうに見えた気がした。光はどうやら車のヘッドライトのようだった。一直線にこちらへ向かってくる。まさか、と思う間に、黒いクラウンが俺の目の前に停まった。
勢いよくドアが開く。
ヘッドライト消してから降りて来いよ。
逆光になって顔が見えないよ。
暗闇を引き裂いた光の中で、朗らかに声が響く。
「またヒトゴロシか!キリコ!」