My fair villainous lady⑪

嵐の中を「コンバーション」は進む。

船の外は荒れ狂っていても、船内は明るく、賑やかな航海最後のフォーマルナイトを迎えようとしていた。

ビッグバンドの演奏が華やかに響き渡るメインダイニングには、既にカリブ海の美しい島々の景色がプロジェクターから映し出され、間接照明とメタリックな輝きのバルーンの装飾がなされていた。

美しく着飾ったパートナーをエスコートするペアはもとより、こういった催しには参加してこなかった一匹狼だって正装して、グラスを傾けている。シャンパンは飲み放題。

クルー達が踊るようにフロアを巡り、ゲスト全員にグラスが行き届いた頃、船長の藤村がフォーマルナイトの始まりの挨拶をした。続いてシェフの大泉が今夜のディナーの説明をジョークを交えてしてくれる。テーブルには立食パーティとしては規格外の豪華な料理が並んでいた。

やがて藤村の一言で掲げられるグラス。乾杯だ。

ぐいっと一口飲むと、隣の銀色は沈黙したまま。

「どうした。少し顔色が悪いか?」

「少しばかり徹夜をね。この年齢には応えるよ。昔は何ともなかったのに」

例のモノを仕上げていたからだろう。ぶつくさいうけれど、超合金チタンの心臓に五寸釘打ち付けまくったハートの持ち主なんだ。なんともないさ。眉を下げた俺の顔を指差して

キリコは言う。

「お前は、やっぱりその服装がしっくりくるよ」

ああ、と思い出したように自分の姿を見る。真っ黒のスリーピースに、同じく黒のコート、コバルトブルーのタイを締めれば闇医者ブラック・ジャックの復活だ。キリコも揃えの黒いスーツに身を包み、一部の隙も無いような様でいる。

そこへ悪役令嬢の登場だ。

「先生方お揃いで。ふふ、やはり悪の先生はこうでなくては」

エディが贈った黒い扇子がすっかり気に入った沙織は、豊かな黒髪を結い上げ、ぴったりとした黒いレースの袖に、ドレープが美しい黒のイブニングドレス。ざっくりと開いた背中は新雪が降り積もったばかりのように白かった。

「お前さんも、悪役令嬢がすっかり板についたな」

「ご指導のおかげです」

沙織の後ろでは絹子がそっと頭を下げた。

さあ、幕が上がる。

罫線

ジャズの生演奏が終り、プロジェクションマッピングが派手な幾何学模様を描き出す、ディスコタイムが始まったばかりの時だった。

ステージ上から高薄健斗の場違いなほど大きな声がメインダイニングに響きわたる。

「久遠寺沙織、貴様のような女には愛想が尽きた!俺はおまえとの婚約を破棄する!」

断罪劇の始まりだ。

健斗が指をさす方向に、ばっくりと人垣が割れる。

その先にいるのは沙織。

それを受けて立とうと言わんばかりに、沙織はおっとりと微笑を浮かべた。

「理由をお聞かせいただいても?」

ピンク頭の一団が怒りもあらわに揃って沙織を睨みつける。苺愛だけが悲劇のヒロインのようなしぐさで、健斗の白いスーツの腕につかまっていた。

周囲の人間が呆然と見つめる中、健斗はマイクを手にして、沙織を指さし声を張り上げた。

「いいだろう。これまでお前が積みかさねてきた悪事について明らかにしようではないか。それを示せば、お前がいかに俺の婚約者にふさわしくないかが分かるだろう。守!」

「はい。ここにいる苺愛嬢に対する嫌がらせ行為について報告します。

・苺愛嬢の私物を無理矢理奪い取り、破損した

・苺愛嬢の交友関係に嫉妬し、自身の生まれ育ちを笠に着て、暴言を吐いた

・苺愛嬢を故意にプールに突き落とし、辱めた

・高薄健斗氏の婚約者である立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした

非常に大きな問題行為です」

沙織は扇子を口元に当てて黙って聞いていたが、守からそれ以上の言葉がないので、拍子抜けしたように口を開いた。

「まあまあ。それだけでよろしいの?皆様、もっとわたくしに対していつも怒っていらしたでしょう?理由はこれだけですの?」

「なにっ」

いきり立つ健斗の後ろに小動物めいてびくびくと隠れる苺愛。今日の装いはギリギリのラインまで落としたオフショルダーのドレスだ。スパンコールが縫い付けられた薄桃色のフィッシュテールの裾は膝が見える丈にわざと調整している。

「では、わたくしからも事情をお話しさせてくださいな」

「黙れ!お前など」

「一方の意見だけ聞いて判断するのは、経営者としての資質に関わりますわよ」

経営者としてと告げられると健斗は押し黙る。

「一点目『私物を無理矢理奪い取り、破損した』との事ですが、ホースシュー・ベイで起こった事案でしたら、苺愛さんからわたくしにネックレスを渡してきたのです。それを手にした瞬間に泥棒呼ばわり。何が起きているのか、理解できませんでしたわ。その他もそう。全ては苺愛さんから始まるのです。奪い取る状況ではございませんでした」

「ひどい!こんな大勢の前でも嘘を吐くの…」

沙織は苺愛の言葉には答えず続ける。

「お次は『自分の生まれ育ちを笠に着て、暴言を』…そうですか。皆様にはあれが暴言に当たるのですね。いくつもありすぎてわたくしも覚えきれておりませんが、触ってはいけないディスプレイに触れるのを注意するのも暴言、アイスクリームショップの前で長々とおしゃべりを続け営業妨害にあたるので場所を移動しようと提案するのも暴言なのですね。前を歩く小さなお子様に気をつけるように配慮を促すのも暴言となると、これ、生まれ育ちと関係あります?」

「き、君は事実と異なることを言っている!証拠がない!」

口角に泡を溜めて守は喚くが、沙織はどこ吹く風だ。

「それを言い出しますと、すべての項目がわたしくしを責める要素として成り立ちませんわよ。それでよろしくて?」

「じゃあ、苺愛をプールに突き落としたのはどうなんだよ!あれはたくさんの人が見ている前での出来事だったろ!」

「突き落とした?」

進み出た飛田を前に、沙織はぱちんと扇子を閉じる。

「わたくしは決して、苺愛さんを突き落としてはおりません。大体わたくしはプールから一番遠い場所にいたのです。あなたがたの輪から遠ざけられて。どうして苺愛さんの側に行けましょう。その場にいたあなたがたは、わたくしの腕が苺愛さんを押すのを見たのですか?」

「そ、それは苺愛が…」

「だそうですよ」

尻すぼみになった飛田の言葉を続けるように、ピンク頭の一団に問いかけるが、言い返せるものはいない。

「あの件については、わたくしも思うところがありますのよ。誰に足をひっかけられたなどと些細なこと。わたくしもプールに落とされましたわ。ですが、その時あなたがたはどうなさいました?水の中に沈んだ私物を拾い上げるわたくしを見て笑うばかり。あんな屈辱、生涯忘れることはございません」

仄暗い炎を灯しだした沙織の視線に飛田は怯む。代わりに飛び出てきたのは小網だ。壇上から下りようとするのを、沙織は扇子をビッと指して止める。

「小網さん、近寄らないでくださいませ。わたくしはあなたに乱暴されたのを忘れてはいませんわよ。身の安全のために、それ以上わたくしに近寄らないで」

室内の照明が落ち、額縁も何もない壁にプロジェクターが向きを変える。激しい幾何学模様から映像が切り替わったプロジェクターには、ある動画が流される。

場所はプエルトリコのカフェに面した路地。カフェの中から撮影されたと思しきそれには

『もう許せねえ!』

小網から発せられる怒号から、沙織が椅子ごと押し倒され、胸倉をつかまれる一部始終が映っていた。

あまりの乱暴な振る舞いに瞠目する紳士。見ていられないと視線を外す淑女。ざわめきが広がり、周囲の視線は小網に向いた。三度彼はこそこそと健斗たちの一番後ろに隠れた。

「それから『高薄健斗氏の婚約者と言う立場を狡猾に利用し、苺愛嬢を仲間から追い出そうとした』という件ですが、以前にお話しした通り、わたくしは仲間の内に入れていただいていたとは露ほども知りませんでした。当初は無理を承知で健斗さんの婚約者として輪の中に入ろうと努力はいたしましたが、皆さんと苺愛さんとの結束があまりにも強く、毎日「来るな」と言われましては…それからは、一度も皆さんに近付いてはおりません。わたくし一人の力で苺愛さんを仲間外れにしようなどと、とても」

「関わっただろ!ビーチでも、ダイニングでも!僕たちをバカにして、小網を無理矢理謝らせたくせに!」

飛田は小さな体を思い切り背伸びして訴える。

「喚かなくてはお話しできませんの?どちらもわたくしは近付いていません。そちらから来たのです。バカにしたとは不躾な言い方ですこと。不当に貶められれば、謝罪を求めるのは当然の事。それ以外に何があると言うのです」

きっぱりとした沙織の物言いに、眼鏡をくいっと上げて、守が飛田の前に出た。飛田は幼い顔に悔しさをにじませて、一旦引き下がる。

「では、我々も不当に貶められた申し立てを行おう」

「あらまあ、あなたから?いつもお仲間から不当に扱われているあなたから?」

「どういうことだ?!」

「ああ…ごめんなさい。御自覚が無かったのですね。しかも皆様の前で…わたくしったら配慮が足りず、忘れてくださいませ」

本気で『やってしまった』顔を作って、透かし彫りの入った竹の扇子をぱっと広げ、顔を隠す沙織。

「何が言いたいんだ。私が不当に?みんなから?詳しく教えてもらおうじゃないか」

「そうですか…気が進みませんが…では、事実から。わたくしたちが参加したツアーの自由時間、皆様、苺愛さんと二人きりになる時間がありますわよね。その時間が、守さんは一番短いのです。何をなさっているのか、わたくしにはわかりかねることですが、とにかく守さんが一番苺愛さんといる時間が短いのです。みなさんそれをよくわかっておられるようでしたよ。ねえ、飛田さん」

「へっ?あっ?いやっ、そんなことは」

「ちょっと待て、その前に皆、苺愛と二人きりになっているのか?」

「鷗介、知らなかったの?」

やいやいやりだした連中を置いて、沙織は扇子をふわふわと仰ぐ。

「ぼくに苺愛は言ってたんだ。健斗はお金で言うことを聞かせようとするし、小網は力が強いから怖くて逆らえないって。鷗介のことは、その、かわいそうだからって…」

「か、かわいそう…」

プライドの高さだけが全てのインテリ眼鏡は、よろけて演台にぶつかった。幾分申し訳なさそうなポーズをとりながら、飛田はふくらんだ小鼻に勝ち誇った優越感を隠せない。そんな彼に沙織は問う。

「あなたはどう思われているか、気になりませんの?」

「え…っ、僕は苺愛からいつも相談されているし、信頼されてるから」

「相談、信頼…そう言えば、飛田さんが苺愛さんに贈られたお土産類、余程大事にされていますのね。今までの贈り物を苺愛さんが身に着けてらしたお姿を拝見したことがありませんもの。健斗さんが送った腕時計はキャッシュ決済する前に着けて、それきり肌身離さず。それと違って飛田さんからの贈り物は、お互いの信頼の証…きっと宝石箱の中に大切にとってあるのでしょう。飛田さんと苺愛さんの絆の深さがわかりますわ」

扇子の向こうで、ころころと鈴を転がすように笑う沙織。飛田の顔色は目に見えて悪くなった。セント・トーマスのビーチで贈ったピアスの事でも思い出しているのだろう。守はぶつぶつと壁に向かって喋っている。

「まあまあ、お二人とも、お話は済みまして?」

守と飛田を難なく退けた沙織の向こう側で、小網が息を吹き返した。

「ちょっと待てよ。俺は『怖くて逆らえない』?どういうことだ、苺愛」

「コアミー、飛田君が勘違いしてるだけだよ~」

「苺愛、そんなふうに言うの?」

4股もすれば、こんな修羅場にもなるだろう。お友達ごっこが瓦解しようとする中、健斗が生徒会長オーラを全開にして立ち上がった。

「みんな!論点をすり替えられているぞ!俺達は沙織の悪事を暴くためにここへ来たんじゃないのか?!些細なことは後にして、今はあの悪女をやっつけるんだ!」

沙織は悪役令嬢から悪女にランクアップ。再び一致団結したピンク頭の一団は沙織を口々に責め立てた。

「お前の言ったことは間違いだ。可憐な苺愛が自作自演なんかするはずがない」

「結局お前がしたいことは、健斗の気を引くことだけだ。それが上手くいかないから苺愛に嫉妬をしている。見苦しい真似をいつまで続ける気だ」

「俺達は間違ったことは何もしていない。一々真面目に注意してくるお前が鬱陶しいんだ。この船に乗った俺たちは客だぞ?客としてサービスを受けることに何の文句があるんだ!」

口々に沙織を罵った後、奇妙な静寂がメインダイニングに満ちた。

ここまでの彼らのやりとりは、全て彼ら自身の主観によって語られている。客観的な証拠は何一つ出てこなかった。謂わば他のゲストは寸劇を見せられているのも同様で、彼らのどちらに信用を置くべきか、一切の価値基準を持ち得ていなかったのである。

そこへ一石を投じる者がいた。

「誰か、そのお嬢さんの助けをしてあげなさい」

船長の藤村である。『お嬢さん』としか彼は言わなかった。ピンクか黒かは、指定していない。

しかし、メインダイニングの隅で手が上がった。

「船長、発言の許可を」

「構わない」

挙手をした彼女の周りにざっと人がはけて、スペースができる。

「ファニチャーショップ担当のリンジーです。彼らはいつも店頭に展示してあるソファに座りたがり、私は再三注意しましたが改善されませんでした。一番初めに注意してくれたのは沙織さんです。彼女は辛抱強く、なぜいけないのかを説明しましたが、決して暴言などではありません。私はそれを証言します」

対角線上に大きな手が上がる。

「船長、許可を」

「ああ。今後私が止めるように言うまで、皆、自由に発言して構わない。」

「どうも。メインダイニング、給仕のオズワルドです。苺愛さんがカトラリーがないと騒いだ日、私がテーブルメイクをしました。カトラリーが全て揃っているのを私は確認しています。彼らがテーブルを離れた後、床にフォークが一本落ちていました。私にわかることはこれだけですが、沙織嬢がテーブルにいた全員から糾弾される原因がフォーク一本から始まったのを、とても残念に思っています」

「同じくメインダイニング担当のラーヒズヤです。そちらのピンクの髪のお嬢さんが来た時のダイニングの雰囲気は酷いものでした。辺り構わず喚き散らして、他のゲストの皆様への多大なるご迷惑になってしまい、クルーとしても忸怩たる思いでした。僕はどちらが良いとかは言えませんが、いつも騒動の原因はピンクの髪のお嬢さんがたにあったということは事実として申し上げておきます」

「メインダイニング・メートルディのデボネアです。今朝起こった事件を話します。苺愛さんが沙織さんの頭にオレンジジュースをかけ、彼女を嘲笑した事件がありました。その後沙織さんも紅茶をかけてやり返したので、どちらも同じなのですが、沙織さんの側からは後に謝罪がダイニングクルーに向けてありました。これまで何度も起きた騒動に加え、今朝の件を含めて、彼らの保護者であるミスター高薄に正式に苦情申し立ていたします」

デボネアはここで言葉を切ったが、苺愛側がどうだったのか周囲のゲストにはすぐに分かっただろう。

「船長、図書ラウンジのクララです。航海3日目に苺愛さんがその赤い髪の男性と図書ラウンジの隅で性的に不適切な行動をとっていたので、退出するように注意をしました」

どよめくメインダイニング。隠し玉を温存していたクララだ。

「せ、せ、船長。キーパーのアナです。その、4人の青年の部屋の掃除が、あの、えっと、大変です……性的な意味で…」

ぶはっと吹き出すゲストがいる。それを汚らしいものを見る目で追い払うゲストの妻。

「コーヒーバーのマリベルです。店内からエレベーターホールが見えるのですが、そこで苺愛さんのグループをよく見かけました。彼らの中で婚約者として振舞っていたのは沙織さんではなく、苺愛さんの方でした。健斗さんの腕に常に彼女は抱きついていましたから。それに沙織さんはいつも最後尾をひとりで歩いていました。グループの中で発言権があったようには見えませんでした」

「同じくエディです!とても個人的な意見になりますが、僕は悪役令嬢が、いえ、沙織さんが間違った行動をしているとは思いません!ちょっとやりかたは不器用だけど、彼女の行動は常識的です。ひとりで4人もの男性を独占しようとする女性とは違います!」

「もうわかった。クルーの諸君、ここまでにしよう」

藤村は切り上げたが、今度はゲストの方へ漣が広がりだした。

「そういえば、あの青年たちをいつもカジノで見かけるぞ。高額なベットをしていたが、あの金はどこから出ているんだ。まだほんの子どもから青年になったばかりと言ったふうじゃないか」

「家族で来ていると聞いた。親は知っているのだろうか。私と妻が買おうか悩んでいた限定品のペアウォッチを一括で購入していたぞ」

「余程の富豪なのでしょう。あの女の子にピンクゴールドのブレスレットを何本もプレゼントしていたし」

「だいたいあのピンクの髪の女の子は何なんだ。4人もの青年を侍らせて」

「あの子たちが来た時のダイニングは、確かにひどかったわね」

さわさわ、ざわざわと人の口は止まらない。

メインダイニングの中ほどにいた高薄浩一郎は、健斗たちの振る舞いがここまでの騒ぎになるとは思ってもみなかった。こんなふうになるのなら、もっと序盤の方で止めるべきだった。

そうしなかったのは久遠寺彰が再三再四に渡り、健斗と沙織の婚約を破棄するように求めてきていたからだ。理由は沙織の人格が健斗に不適格だと言う主張ばかり。自分の娘をそこまで貶めて話すのは、何か意図があるのかと訝しんだからこそ今がある。

隣で静観していた久遠寺彰も最初こそ平然としていたものの、今は得体の知れない顔つきで壇上を見据えている。

「久遠寺さん」

浩一郎が呼びかければ、座った眼で返された。彼は一言も発しない。ますます剣呑な雰囲気を感じながら、提案をひとつした。

「このまま息子たちに任せておけば、場はもっと荒れてしまう。今のうちに治めてしまいましょう」

彰ははっきりしない返事だったが、構うものかと浩一郎はメインダイニングのステージ目がけて歩き出した。それを遮るように健斗の大声が響く。

「うるさい!うるさい!外野は黙っておけ!」

健斗は苺愛の腰を抱き寄せると、高らかに宣言した。

「俺は間違ってなどいない!苺愛と結婚する!だからお前なんかに用はない!とっとと失せろ、沙織!」

「健斗ぉ~、あたし、あたしっ、うれしい…」

「ああ、俺のかわいい苺愛。もうお前を悲しませたりしない」

べっとりと甘い蜜菓子のような二人のやりとりを見て、沙織はぱちぱちと手を叩いた。

「はい。わたくしも婚約破棄を申し入れたかったのです。受け入れてくださいますね?」

「…?お、おう。受け入れよう」

すっかり立場が逆転したことに気が付かない健斗は、そのまま沙織の笑顔を見つめ続ける。

「さあさ、皆様方も祝福なさってくださいな。苺愛さんは健斗さんとご結婚なさるのですって」

呆然と健斗と苺愛の後ろに立つ3人に向けて、沙織はにこにこと話しかける。先程中断された話題の再燃だ。

「…待てよ。俺は苺愛が健斗と結婚するなんて聞いてねえ。苺愛は俺と相性が一番いいから、ずっと一緒にいたいってあの夜言ったよな。健斗には金で言うこと聞かされてるって」

「僕にもそういったよね。苺愛、君を一番思ってるのは僕だよ!他の奴らの言葉に騙されちゃダメだ!」

「私をかわいそうなどと表現するなんて、冗談がきつい。だって君は私の全てを捧げた女性なんだ。やさしく包容力に満ちた純情な君が、他の男に…」

3人はそこまで口にして、違いの顔を見合った。たっぷり時間をかけて、ようやく理解をする。よろしく兄弟、と言い合えるほどの度量を誰もが持ち合わせていなかった。

間抜けな表情の男子高校生3人へ、沙織は笑顔のまま続ける。

「どうなさったの?急に元気をなくして。あなたがた、誰のために怒ってらしたの?」

苺愛のため、苺愛が喜ぶから。

だけどその前提条件は崩れた。自分は苺愛の一番じゃない。だったらこれ以上彼女のために尽くすのは意味があるのだろうか。そう疑い出せば、恋に燃える炎はやせ細る。

結局彼らは、しぼむようにして壁際へ下がった。心ここにあらず、といった具合で。

「それでは、わたくし、お二人の門出のために動画を作っていただきましたの!ご覧になってくださいませ!」

明るい沙織の声を合図にして、再びプロジェクターが動き出す。壁に映し出されたのはSNSに投稿されたと思われる写真の繫ぎ合わせだった。ロマンティックな音楽と共に、おそらく二人の出会いであろう自撮りのツーショットから、ビーチで遊ぶ苺愛の水着姿、きわどい肌の写真。朝日の中で白いシーツに沈む裸の健斗。キスをする写真まであった。まるで結婚式のなれそめムービーのようだが、決定的に違うカットが入ってきた。

『動画なんか撮るなよ』

健斗の声。画面には豪奢な黒と金の装飾がされた部屋が映っている。

『だって~スイートルームなんて~簡単に入れないし~、アップしたら、バズるかもだし~』

携帯のカメラと思しき画面は部屋のあちこちを映してる。天井のシャンデリア、高価な革張りのソファ。バスルームまで撮影していく。

『いいから、こっち、こっち』

『すごお~い』

『父さんたちの部屋は一番グレードが高いから、ほら書斎まであるんだぜ』

『かっこいい~』

カメラは書斎の中をぐるりと一周する。

ムービーはここで急にスローモーションになる。

再び通常のスピードで再生されるムービー。書斎の椅子に座って笑う健斗。

『俺も将来ここに座るかもな』

『じゃあ~あたしは?』

カメラの向きが変わる。ここでムービーはストップ。画面には机の上に置かれた紙が写っている。何かの罫線と数字。

ムービーが再生されて、苺愛は健斗の膝の上に乗っていちゃついている。携帯は机の上に置かれたまま。さっきと違う角度から書類が見える。

次のカットでムービーは真っ暗に切り替わり、ぽつり、ぽつりとさっきの断片的に映された数字や書類の欠片が画面に現れる。スローモーションから切り取られた画像も繋ぎ合わせれば、一枚の書類が出来上がった。

〈〇〇市体育館増築工事〉

〈入札価格〉

〈A社 1億3000万円〉

〈B社 1億6000万円〉

〈C社・・・

高薄浩一郎の背中は汗でびっしょりになっていた。

どうしてあんなものが、ここで晒されている。

あれは誰にも見られてはいけないもの。

妙な動悸がして耳鳴りさえする。

なぜ、息子にカードキーを求められたときに熟慮しなかった。

なぜ、息子の後ろにいるピンクの髪の少女に気が付かなかった。

あんなところに書類を置きっぱなしにした自分にも腹が立つが、やすやすと他人を部屋にいれた息子の軽率さにも腹が立っていた。

なぜ、なぜと繰り返しても、現実として書類は壁面に映し出されてしまっている。

しかし、ここは海の上。書類のことなど知らないと言い切ってしまえば乗り切れるように思えた。

浩一郎は何も気づいていないようなそぶりで、拍手をした。

「いやあ、臨場感たっぷりの映像だったね」

令嬢の微笑で沙織は返す。

「ええ、こんなに愛が溢れたお二人の姿を目の当たりにしては、わたくしから婚約破棄を申し入れるほかありませんわ」

「それなのだがね、沙織さん。今はここだけの話にしておいてくれるかい」

「まあ、どうしてですの?後半部分はよくわからない映像になっておりましたが、その他は健斗さんと苺愛さんの愛を育む過程ではありませんか。二人のお祝いになるかと思い、わたくしお友達に動画を送ってしまいました」

「なにっ…」

扇子で顔を隠した沙織に迫ろうとした浩一郎の携帯が鳴る。なかなか鳴りやまないそれを忌々し気に受け取り、彼は見る間に顔色を失くした。

海の上で電話は通じない。だけどもWi-Fiの普及でメールは可能になった。浩一郎の携帯にはメールがひっきりなしに届き続けている。

2m近いがっしりとした体格の男は、ただ画面を埋めていくメールの抜粋を見つめて、岩のように固まってしまっていた。

「父さん、どうしたんだよ。父さん?」

浩一郎の様子がおかしいことに健斗は焦る。何が原因で父が取り乱しているのかは知らないが、ただならぬ様子にこの騒ぎでこれまでしてきた悪事が父に一気にバレるのではないかと冷汗をかいていた。

すでに父の部屋に勝手に入ったことはバレた。ではクレジットカードを盗んで使っていたことは隠し通さなければならない。そんなことは明細を調べればすぐに分かるのだが、愚かな健斗には少し先の未来さえ見えていなかった。

父の拳が彼の頬を殴る未来さえ。

動画に高薄の持つ書類の映像を混ぜ込むよう提案したのは、沙織だった。

知り合った初日に、沙織を含めた6人は苺愛の提案で半ば強制的に連絡先を交換し、沙織は自分のスマートフォンに初めてSNSのアプリを入れた。その夜、自室で四苦八苦して自分のアカウントの設定をして、教えられた苺愛のアカウントを覗いたとき、沙織は思わずスマートフォンを取り落としてしまった。

健斗と苺愛のツーショットが記事のトップに固定されていたからだ。

その後も苺愛の投稿は続く。きらきらと輝く腕時計を着けた苺愛の横には、揃いの腕時計をつけた健斗の姿。「ねおき」と題された投稿に写るのは、肌もあらわな苺愛の姿と昨日健斗が着ていた柄のシャツ。

見るのがつらくて、それきりアプリは開いていなかった。

しかし彼女の悪の教師たちはそれを許さなかった。ミモザの木の陰でそんな上手いエサがあるなら初めから出せと言われたときには、流石に泣きそうになった。デバイスから必要な情報を引き出すと、銀髪の悪の教師はあっという間に動画を作り上げ、白黒の悪の教師は動画から得られた情報を公開するシナリオを書き上げた。

そのシナリオには沙織の希望通り婚約破棄が盛り込まれていた。

高薄浩一郎は久遠寺との婚姻をあきらめない。それは沙織の目からしても決定事項だった。

平野は高薄と久遠寺を引き剥がしたい。理由は婚約破棄になれば、久遠寺が高薄から資金援助を得られず、破滅へと追い込まれると平野が信じているからだった。

沙織は健斗との関係が修復不可能なのを理解していた。婚約者がありながら、苺愛とここまで親しくなった男性を夫と見ることはできない。したがって婚約破棄は願ってもない事態。だが、ただ婚約破棄するのでは平野の思うつぼである。

このクルーズが終わると同時に、業界全体に久遠寺が高薄から見放された存在だと言う事実が作られてしまう。久遠寺のプライドは地に落ちる。

あの畜生にも劣る所業の男を喜ばせるのは、少しでも許せなかった。

地下で苦しみに耐え抜いている父の意地に報いたかった。

そこで、平野の思惑を破るためには、高薄を価値のないものに変える必要があった。

苺愛が沙織への嫌がらせ以外の意図をせずに、SNSに上げていた動画に映っていたのは、高薄が関わる公共事業の入札価格。極秘の資料だ。それを持っていただけで、談合の疑いを持たれかねない。いいや、疑いでは済まないかもしれない。

高薄がここまで積み重ねてきた信用は、この談合疑惑で崩れるだろう。

そこまで高薄が憎かったか。違う。

そこまで健斗を恨んでいたか。違う。

違うのだ。

高薄と久遠寺彰を天秤にかけて、迷うことなく沙織は父を、彰を取った。

それだけなのだ。

だがそれを人は悪意と呼ぶだろう。打算的で、独善的。

目的のために他者を陥れ、地獄を見せる明確な悪意。

沙織はそれを一生背負う覚悟をした。

「ねえ、なにがあったのよ~健斗ぉ~おじ様、どうしちゃったの?」

殴られた頬を押さえながら、とぎれとぎれに現状を整理しようと健斗は必死に頭を回転させている。

「ウチの会社が、まずいことになった。多分、父さんの様子じゃ、かなり酷い損失が出るんだと思う」

「なにそれ」

「苺愛?」

「健斗の会社、倒産するの?」

「そこまではわからない。ただ、まずい状態だってのは…」

「なにそれ!なにそれ!なにそれ!」

苺愛はヒステリックに叫んだ。

「意味ね―じゃん!金持ちじゃなけりゃ、落とした意味ねーよ!バカじゃねーの?!」

醜悪な形に顔を破壊して、口から次々に刺々しい悪態をつく。そこにはピンク頭の一団が恋焦がれた、可憐な少女はすっかり姿を消してしまっていた。

「あんたなんか金持ちじゃなけりゃ、ただの世間知らずのバカ息子じゃん。あーまじ、時間損した!」

地団太を踏んで、喚き散らす姿は鬼女のよう。しかし、何かに気が付いたようにそれをころりと変えて、にんまりと破顔する。

「あ、そうだ~コアミーのお家、不動産たくさん持ってるんだよね~。ねーねー、あたし、健斗に騙されてたの~コアミーなら」

ターゲットを変えて苺愛は小網にしなだれかかる。だが流石に先程の豹変を見せられて、うんと頷くほど彼は目が曇ってはいなかった。

「俺の事も財産目当てだったのか」

「違うよ~あたしは~健斗にだまされて~~」

「いったいどの顔で騙されていたなどと言うのか。私の実家が老舗の旅館だと言うことも嗅ぎつけて近付いていたのでしょう」

「結局苺愛が見ていたのはお金だったんだね…」

取り巻きどもが完全に自分から離れていくのを感じながら、苺愛はあがく。

「みんな、ひどい~楽しんだのは同じでしょ~~」

誰も口を開かない。気味の悪いものを見るように苺愛を退けようとしていた。流石にこれ以上は無駄だと判断したのだろう。苺愛は仮面を完全に脱ぎ捨てた。

「あーっ、もう!どいつもこいつも使えない奴ばっか!ヘタクソだし!気が利かないし!根性ないし!気分悪。帰るわ。どいて」

壇上から下りようとする苺愛の行く手を遮るものがある。沙織だ。

「まあまあ、苺愛さん。もう少し、あなたに見せたいものがありますの。お付き合いなさって」

「チッ、誰がテメーの言うこと聞くんだよ。気取りやがって」

扇子を耳元に当てて、苺愛に沙織はそっと囁く。

「あなたをよく知る男性に関係していて、ひょっとしたらこの先あなたのお金に関係するかも…と申し上げても?」

沙織はこれまでと同じように微笑を絶やさなかった。しかし、苺愛は対照的にすべての表情が抜け落ちた。

「あんた…」

その後の苺愛の言葉は聞き取れなかったが、彼女はその場に立ち尽くす方を選択した。

覚悟を持った悪役令嬢の暗い瞳が、父の形をした悪意の源に向かう。

「観念なさい。平野星満。あなたの目論みは全て砕けましてよ」

びしりと扇子で指した先には久遠寺彰〈だった〉人物がひとり。

どうやら悪あがきをする気もない様子で、短く唸り声を上げ、男は髪をかき上げる。とたんに整髪料で固めた前髪は崩れ、同じ顔でも全く印象の違う風貌が現れた。

柔和な目じりは吊り上がり、微笑を絶やさなかった頬はニヒルに歪められている。

長らく久遠寺彰のふりをしてきた平野星満が、本来の姿を見せたのだ。

「ショーマ!」

悲鳴に近い叫びを上げたのはマリベルだ。

マリベルの声を全く無視して、平野は沙織に向き直る。

「ああ、ああ、面白い見世物だった。で、俺はトリか」

毅然として沙織は平野に立ち向かう。

「はい。これがお父様の望みですから」

「彰の望み…?そんなものどうしてお前が知っている」

「娘ですもの。お父様が、久遠寺のプライドを守り通そうとすることくらい、わたくしにもわかります。そのために、わたくしは婚約破棄の汚名を被ることも、高薄さんの手を取らない選択にも躊躇いはありません」

「へええ…プライドで腹が膨れるのか。会社がどうなっても良いって?」

変形する節足動物のように、平野の顔に憎悪の皺が刻まれていく。

「それとこの問題はすでに別件です。確かにわが社は現在資金繰りに喘ぎ、追い詰められてはいますが、別のルートでの解決法を見つけています。ねえ、お母様」

黙っていた絹子が沙織に寄り添い、彼女をかばうように平野を見据える。

「ええ。高薄さんと我が家は長いお付き合いがあったからこそ、資金提供の話がすぐに出ましたが、長期的に見れば何も高薄さんに拘る話ではないのです。すでに日本で義父が動き出しています。あなたの思い通りにはなりません」

はは…と砂のように軽い平野の笑い声。ゆらりと幽鬼の如く沙織に近寄るのを、絹子は必死の形相で食い止めようとする。

「金、金…ああ、俺はこんなに金に苦労しているのに、あるところにはあるもんだよなあ。これも俺と彰の違いだ。全く忌々しいぜ」

「わたくしは平野星満、あなたを訴えます」

「あーっはっは!何の罪状だ?彰に入れ替わっていたことが、そんなに罪になるのかい。俺は確かに高薄にお前の婚約を取り消すように、資金提供を止めるように再三告げ口はしたけれどな、とどめを刺したのは、お前自身だぞ?俺の動きなど些細なものだ。何もしていないに等しい」

絹子を容易く押しのけ、狂人のそれとよく似た瞳で、平野は沙織の顔を覗き込む。

「ええ。おっしゃる通り。ですがお父様自身に対してはどうでしょう。わたくしが何も知らないとお思い?」

「………彰の事、だと」

フロアに満ちていた幾何学模様のダンスが止んだ。

メインダイニングの入り口付近から、車椅子が近づいてくる。キリコに押された車椅子は、沙織にほど近い場所で停まる。

車椅子に座っていたのは久遠寺彰、本人だった。

茶色のガウンを身にまとい、身なりを清潔にしてはいたが、手は包帯で巻かれ、痛々しく。平野と瓜二つの顔に浮かぶ痣は、見るに堪えず。

ついに夫と再会した絹子はその場で泣き崩れてしまった。

妻を労わった後、彰は沙織と目を合わせた。加害されてもなお、彰には憂いの表情はなかった。そればかりか固く結んだ口元を、僅かに笑みの形にして頷き、沙織の背中を押したのだ。

それに応えるように頷き、毅然として沙織は平野に対峙した。

決意を相貌にみなぎらせ、久遠寺の意地を全身に背負って。

固く拳を握り、両の脚でフロアを踏みしめる。

沙織の怒りが仄暗い瞳の底から沸き立ち、彼女がこれまでに抑え込んできた激情が迸った。

「わたくしが訴えるのはお父様の命と体を傷つけた罪!そして、我々久遠寺を貶めたあなた方親子への名誉棄損の罪!知らぬとは言わせません!」

「親子?!」

浩一郎に殴られて、壇上の隅に座り込んでいた健斗が、沙織にすがるように駆け寄った。

「親子って、俺と父さんの事か?あの、俺は確かにお前に酷いことをしたかもしれない。でも父さんは違うだろう?父さんなりの思惑はあったけど、絶対にお前を貶めようとか、そんなつもりじゃなかったと思うんだ」

「分かっていますよ、健斗さん。高薄さんのことではございません」

「じゃあ、親子って一体…」

おろおろとさまよう健斗の視線は、下を向く平野と、無表情の苺愛で止まった。

「さあ、悪役令嬢。上出来だ。ここからは本物の悪役の出番だぜ」

その声と共に沙織の前で背を向ける一人の男。

ばさりと真っ黒のコートが舞った。

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