第10章
最下層のインサイド客室。
幽霊が出ると噂の部屋からは、またうめき声が聞こえる。
船のエンジン音にかき消される程度の物音ではある。しかし部屋から漏れ出る音が、時折言語になることがあると、クルーの間で噂になっていた。
クルー達は知る由もない。捜査され、誰もいないと結論付けられたこの部屋で、倒錯的な愛を囁く男がいることを。
「…忘れられないんだ。俺が16の時のコンクールで、お前が演奏したエチュード…あんなふうに弾けたらって…その次のコンクールでは意識して弾いてみたんだ。あの時も同じブロックにいたんだし、聞いてくれてただろう?」
「………」
「そんなふうに言うなよ。神のいたずらか何かで同じ顔に生まれた同士じゃないか。気味が悪いほど似てるよな、俺達は。なのにピアノの音は全然違う」
「…………」
「当り前?そうだよ、当り前だ。だけど俺はそれが許せない。お前の音は全部覚えてるよ…紛れもない天才っているんだと死ぬほど思い知らされた音だから」
「……」
「どんなに俺が血反吐を吐いて鍵盤をたたいても、お前はその遥か高みへ翼が生えたように飛んでいくんだ」
がつん、と鈍い衝撃。
「なあ、なあ!なあ!どうしてピアノを辞めた?!神が与えた才能を、どうして世に知らしめないまま、ピアノを辞めたんだ!家を継ぐため?知らないね。お前はピアノを弾き続けるべきだったんだ!輝く海のような旋律、渡る風のような諧調、お前の指が奏でる音は、この世界から、なにひとつ、どれも失われてはいけなかったんだ!」
「…………」
「ああ、謝らないで。彰。違う。お前が選べなかったのはわかる。いや、わからない」
「…」
「忘れられないんだ。お前の音が、どれもこれも。全部愛おしくて記憶から消したくない。あの音を再現したいんだ。俺の指で。なのにどうしても上手くいかなくて、俺はこんな船の上で、お前の音をずっとずっと追い求め続けて、ああ、アリア、アリア…」
「………」
「おかしくなりそうだよ。お前のせいだ」
「…」
「ちょっと入れ替わってみたけど、お前の生活は金がかかって窮屈なだけじゃないか。お前の妻も面白みがない。少し色目を使っただけで逃げ出した。せっかくお前と兄弟になれるかと思ったのに。可哀そうな彰。指は動かないし、もう俺なしじゃ生活できないもんな。俺は全部してやるよ。お前のしたいこと全部かなえてあげる。愛してるよ、彰。愛してる…」
平野の執着がある限り、久遠寺彰は命が残される。
五体満足の保証はない。
ただ久遠寺彰自身が、平野の怨念を受け止める覚悟をして、救出を拒否した。言い換えるなら、自らの身の安全より、久遠寺コンツェルンの存続を取ったのだ。娘の沙織に全てを託して。
平野星満の目的は久遠寺彰の破滅。
本人の身柄を拘束しても、まだ消えない怨嗟の炎は、彼からピアノを奪った久遠寺コンツェルンそのものに向かっている。
彰に化けて、高薄に不信感を抱かせるような振る舞いをしたり、わざと沙織を貶して婚約を邪魔してみたり。平野の行動自体は地味だが、事実は平野の思い通りになりつつある。
ここまで状況が悪化したのは一人の存在があったからだ。
BJはその人物に関する情報を整理する。こんな情報を切り札にするなんて、エビデンスは弱いし、ハッタリに近い。おまじないみたいなもんだが、BJはこれに賭けると決めた。
平野は間違いなく船上で久遠寺コンツェルンの息の根を止めに来る。
そのときに、このおまじないが効かなければ、15億円は泡と消える。
明かりのない廊下を歩き、操舵室へ向かう。
立ち入り禁止なんて書いてあったけど、文字だけじゃ俺の足を止める理由にならない。操舵室の奥に船長室があると聞いた。そこを目指しているのだが、どうやら先客がいるようだ。
タコ墨のような暗がりに、一筋の光。
ドアから漏れている光のもとが船長室だ。
「私は今回の事を遺体損壊事故だと捉えています」
聞きなれた声に驚く。キリコだ。
ドアの隙間から窺えば、キリコが髭の生えた丸顔の男と向き合っているのが見えた。あの男が船長の藤村か。藤村は、まあまあとキリコをなだめるような仕草をして、こう言った。
「あなたのお気持ちはわかります。ドクター・キリコ。ミスター・アレサンドロの遺体がどこに行ってしまったか説明できないのは、当船の大きな失態です。しかし私には捜査の権限がある。海の上では私が警察の役目をします。捜査した結果、海から上がったあの腕はミスター・アレサンドロと言い切れなかった。そう申し上げているのです」
「捜査?」
キリコの顔が苦々しく歪む。
「状況証拠だけ並べて、まともな鑑識もできない状況でよくもそんなことを。あなたは一番大事なことを疎かにしている。平野星満が本当に死んだのか、はっきり言えるだけの証拠を持ち得ていないのでしょう?その証拠を、腕が見つかって以来、探そうともしていない。これを職務の怠慢と呼ばずして、何と言うのです」
「捜査は続けています」
船の威信をかけて藤村は一言に重みを持たせる。
「では何故、船内新聞に平野の訃報が出たのを取り消さないのです」
藤村は黙ったまま、キリコを見つめている。その沈黙は肯定であるのか否や。
「あなたがたクルーの間で、平野が扱いにくい人物であったのは理解します。ですがそれは、アレサンドロには関係がない!」
語調を荒げてキリコは藤村に詰め寄る。
「アレサンドロはこの船に乗れたことを、心から楽しんでいた。人生最良の日だと、沈む夕日をいつまでも見つめていた。彼がこの船に乗ったのは、海の藻屑と化すためでは断じてない!彼の尊厳を失う行動しかとれない「コンバーション」は最低の船だと、私は法的な手段に出ることも厭いません」
「待ってください。ドクター・キリコ、まだ捜査は継続中だと申し上げたではありませんか」
「ではバミューダの鑑識に至急問い合わせてください。あの腕がアレサンドロのものだと、もう結果は出ているはずです。クルーの健康管理をする鈴井さんなら平野の血液型くらい知っているでしょう。あの腕は薬班が浮かび、爪には病人特有の症状が表れていた。この状況証拠もあなたに初めに申し上げたはずだ」
キリコは止まらない。こいつがこの一件に関わる全てがアレサンドロの名誉のためだからだ。硬質な銀の髪の奥のアイスブルーが煌々と怒りに燃えていた。
「例えあの腕がアレサンドロのものでなかったとしても、この船で彼の遺体の行方がわからなくなった事実は確定しているのです。遺体安置室に誰もが入れる状況であった点、杜撰なセキュリティ。あなたが言う通りに、この船の大きな失態だ。これらの責任をどう取られるつもりなのです」
藤村は生き馬の目を抜くような男だと聞いたが、キリコの怒りの前では、髭が生えた顎を何度も撫で「できることをしましょう」と言うのが現状の最適解のようだった。
「私はあなたを信用していない。ただこの船で集めた情報は別だ。あの腕がアレサンドロのものだと証明できる情報を私は得ている。今ここでは行わないが、情報の開示の際には最大限の便宜を図っていただきますよ」
ちらりとキリコはドアの方を見た。
「おまえも、それでいいな」
黙って室内に入る。藤村は二人目の来訪者に驚きを隠せなかった様子だが、俺は構わず言いたいことだけ言う。
「構わない。特に俺はクルーの力を借りて、ここまで来た。彼らに咎めが行くことだけは避けてほしい」
「クルーが?あなたたちは何をしようとしているのです?」
「秘密だよ。藤村艦長。この男が気にしている、アレサンドロの腕についても、平野の生死についても明らかにしたいと思っている。だから邪魔をしないでくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
藤村は眼鏡の奥から日本刀のような視線を俺に向けた。
「わざわざ私に伝えに来たのであれば、当然、ゲストの皆様とクルー一員の身の安全は保障されるのでしょうな。いいや、安全だけでは不十分だ。ゲストの皆様が不快になるような出来事ならば見過ごすわけには行きませんよ」
不快感については絶対の保証はしかねるが、こればっかりは受け取る側の問題だ。
「ああ、余興だと思ってくれ。細工は流々仕上げを御覧じろって奴だ」
ママはくじ運がなかった。
なのにギャンブルばっかりして借金作って。
自分の口紅は買うのに、あたしの靴下一足買ってくれたことない。
ママはくじ運がなかったけど、美人だった。
お客はいつもママにキレイなジュエリーを贈ってくれる。
ジュエリーがママを飾るのは一度だけ。次には質屋に流れてる。
ママはくじ運がなかった。
最後に引っかかったのは年下の花売り。
よせばいいのに籍まで入れて、あたしが10になったら死んじゃった。
ママが死んだ後に、変なピアニストがやって来た。
部屋の荷物を全部売っぱらって、札束を数えてる。
ピアニストはそのままいなくなるかと思ったけど、あたしの顔を見てこう言うの。
「顔だけはアイツに似てるんだよなあ。もっと育てばイイ女になるだろう」
そのままあたしは連れて行かれて、ピアニストと一緒に暮らしだす。
こいつもかなりのクズだったけど、他に行くところがないんだから仕方がない。
女にされた次の日に客を取らせようとしたから蹴飛ばした。
あたしを安売りするんじゃねえ。
あたしにはママそっくりのキレイな顔がある。ママにはない若さがある。
あんた、それで儲けたいんでしょ。じゃあ、無い知恵絞れよ。
それじゃあと、ピアニストはあたしに男の悦ばせ方を教えた。
ピアニストと船に乗って、自分で客を取った。
次の日、初めて自分のお金でダイヤの付いたネックレスを買った。
ぞくぞくしてたまらなかった。
ダイヤってなんてキレイなの。キラキラしててずっと見ていられる。
もっとキラキラしたいって心の底から思ったの。
あたしはかわいいし、スタイルいいし、いい性格してるし。
キラキラした世界があたしを待っているはずだもの。
もっとあたしがちやほやされて、みんながあたしをうらやましがる世界があるはずよ。
王子様がいれば最高ね。
あたしはママみたいにくじ運が悪い訳じゃない。
引かないのよ。くじなんか。
これだってわかる金持ちにしか寄らないの。それが一番、効率がいい。
さっさと儲けて、自由になるの。
船から船へ。渡るたびあたしはキレイになる。
もっと、もっとキラキラしたい。
ぽたり、ぽたり。
オレンジ色の雫が床に落ちていく。
「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」
頭からオレンジジュースをかぶった沙織と、その頭の上でコップを逆さまにして笑う苺愛。
今朝のビュッフェでの出来事である。
これまでの航海の中、全く崩れなかった天候が今日はよろしくない。
強い北風がデッキに吹き付け、分厚い黒い雲が視界一杯に広がっていた。
少しばかり揺れを感じる気がするが、不快になるほどではない。デリケートなゲストには酔い止めを求める人がいるようだ。あまり酷いようなら診てやらんこともないが、如何せん船酔いでは対処療法しかできないし、何より船医に勝る治療ができるとも思えなかった。鈴井に任せよう。
モーニングビュッフェのテラス席は閉鎖。代わりに船内のレストランで朝食をとろうとするゲスト達の長蛇の列があちこちにできていた。
「並ぶの、だるいなあ。ルームサービスにしようぜ」
「そうですわね…この込みようは、想定外です」
行列にげんなりした俺と沙織の声を、キリコはやんわりと否定する。
「ルームサービスにしても、きっと厨房はてんやわんやさ。俺達と同じ思考の人間がたくさんいるだろう。いつになるかわからないルームサービスを待つより、ここで済ませてしまった方が見通しが持てていいと、俺は思うがね」
それもそうだと沙織はキリコを見ながら、やはり部屋から出てこなかった絹子の心配をした。
「母も連れてきた方が良かったでしょうか」
「本人は嫌がったんだろう?」
昨夜明かした久遠寺彰の事実は、少なからず妻の絹子の精神を揺さぶった。そのショックが抜けきらず、ベッドから起き上がるのが精一杯だったというから仕方がないと言えばそうなのだろう。
「いえ…わたくしが、お部屋にいてくださるように頼みました。母を平野に会わせたくなくて…正しい判断をした、と思います。今は…」
俺達が並ぶ行列の先、ビュッフェコートに高薄浩一郎と同席する平野の姿があった。平野は彰の私物であろうジャケットを着崩し、サングラスをかけていた。おそらくクルーに顔を見られたくないからだろう。天候が悪いのにサングラスとは…
「余計に目立つとは思わんのか」
「思ったらしいぞ。ほら」
平野は慇懃に礼をして、高薄浩一郎の座るテーブルから離れた。そのままするりとフロアーに出て、あっという間に消えてしまう。
「勝手知ったる我が船って感じだな」
「高薄のおじ様に何を話していたのでしょう」
「どうせロクでもねえことさ。お前さんの婚約を白紙にしたいだの、資金提供はいらないだの、その当たりだろ」
3人でブツブツやってたら、意外と早く席が空いた。
ビュッフェのフロアを区切るパーテーションの役目をしたテーブルヤシの植え込みのすぐそばに、俺達は席を確保した。
キリコを荷物持ちにしている間に、俺と沙織はビュッフェのごちそうへ。メニューが多くて正直迷う。そうだな、昨日の晩は創作系のフレンチだったから、今朝はアジアの飯が食いたい。
「ガパオ、ガパオ」
「中華粽もありますよ」
「食う。一個くれ」
実は沙織は結構食べる。この細っこい体のどこに納まるのかと思うくらいに。だからついつい皿に料理を盛るのがおもしろくなっちまって、注意が足りなかったんだが、ピンク頭の一団が俺達の後ろをついてきていた。
キリコと交代して、先に食べ始める。
沙織はみんなそろってから食べるべきだと主張したが、お生憎様、『悪の先生』はそんなことはしないのだ。さっさと食ってお代わりしたいが、向こう側に雰囲気の悪いピンク頭の一団が見え隠れしている。ここで沙織をひとりにしてはいけない。昨日は赤髪のガキに飛び掛かられたのだ。シッカリ教育的指導をしたので次はないだろうが、奴のほかにも錯乱した奴がいるかもしれんし。
「後ろに、いらっしゃいますの?」
「あんな奴らに尊敬語使うなよ。『あいつら、いる?』でいいだろ」
「長年染みついた言葉遣いですもの。すぐには…」
整った眉を少し曇らせるのが憎めなくて、意地の悪い質問をしてやった。
「お前さんの話し言葉は、実に古臭いねえ。時代劇のお姫さんみたいだ」
「わかります?」
沙織の返答は予想外だった。
「小さいころお爺様が好んで見てらした時代劇に登場する姫が大好きだったのです。『あんなお姫様に私もなる』と口調を真似し始めたのが切欠なのです。これでも、まだマシになりましたのよ?学友も同じような口調でしたから、これでもう大丈夫だと思っておりましたが…うう、まだなのですね」
まいったね。本気でお姫さんか。かわいらしいやら、方向性ずれまくってるやらで、けらけらと笑ってしまった。つられて沙織も笑う。そして俺の目は健斗の視線を拾う。焦って顔を背けたけれど、そんなに沙織が気になるか。
キリコがテーブルに戻って来たから、俺はようやくお代わりに旅立てる。
初日に我慢した分、甘いものも食べてみようか。シフォンケーキにカスタードクリーム、スコーンにクロテッドクリーム。ザッハトルテにたっぷりのホイップもいい。
甘い思考に浸っていた俺を現実に引き戻したのは、視界の隅を動くピンク頭の存在だった。
ピンク頭の一団は赤髪のガキを場所取りにして、あいつ以外のメンバーで料理を皿にとっていた。
「はあ~、こんなん食えって言うの?野菜ばっかじゃん」
「青虫になった気分です。空になった皿は多いし、肉はハムだけ。後は魚料理がほとんど」
「なんの料理かさえ分らんな。メニューくらい日本語つけろ」
文句ばかりの男どもをピンク頭は無視して、オレンジジュースを手に取る。
「苺愛、もういいの?」
「うん、あたし朝はあんまり食べないんだ~。先に戻るね~」
そのままビュッフェコーナーを曲がり、ピンク頭はあらぬ方向へ足を進める。沙織の席へ一直線。
キリコは、と振り返るけれどいない。沙織ひとりだけが、俺達の席についている。
そこへ高々とオレンジジュースのグラスを乗せたトレイを掲げ、ピンク頭は沙織の真後ろに立った。
テーブルヤシの植え込みに躓いたふりをして、よろけたピンク頭のトレイからオレンジジュースが零れ落ち、残さず沙織の頭の上に降りかかった。
オレンジジュースの雫が、ぽたぽたと床に落ちる。
「ごめんなさーい!そこにいるなんて気付かなくて~」
頭からオレンジジュースをかぶった沙織は、運悪く今朝は白いブラウスを着ていた。胸までびっしょりとオレンジ色の液体で濡れている。しばらく言葉が出ない様子で呆然としてはいたが、相手が誰か分かると気持ちの切り替えをしたようだ。
沙織はべたべたになった前髪をかき上げ、ハンカチで顔を拭いた。その間ピンク頭はニヤニヤと勝ち誇ったような哄笑を顔いっぱいに浮かべていた。鏡で見せてやりたいほどに醜く歪んでいる。
「たぁいへ~ん!かわいいブラウス、汚れちゃったね~~やっぱりぃ、いじわるする人には~バチが当たるってことじゃないかなあ~」
性格の悪さが前面に出た含み笑いをして、ピンク頭は聞くに堪えない甘ったるい声音で意味不明な事を抜かす。
「あはは!結局ひとりじゃ、あんた何もできないじゃない~みじめ~~」
ピンク頭が笑い終わる瞬間。
その顔面には紅茶が叩きつけられていた。
「冷めた紅茶でようございましたわね」
空になったティーカップを何事もなかったかのように、音ひとつ立てずソーサーに戻す。
「これで、お揃いですわね」
にっこりと令嬢の微笑をたたえる沙織の前で、紅茶を浴びたピンク頭は怒りに震えていた。
「てめえ…調子こきやがって…」
さっきまでの間延びした口調が別人のようだ。これはこれでおもしろい。もっと見物してやろうと腹を決めたときだ。
「苺愛!どうしたんだ!」
「ふええ…健斗お…ひどいの、沙織さんが~あたしに~~~」
ばたばたと4人のナイトのお出ましだ。
今後の展開が読めたので、さっさと退散。
剥き出しの悪意に、こめかみがチリチリとする。
キリコは沙織から離れたベーカリーのコーナー付近にいた。手には皿なんか持っちゃいねえ。あいつ、わざと離れたな。
沙織は着替えるため、すぐにエレベーターへ乗った。今度はもちろんキリコ付きで。
俺はメートルディ(給仕長)に事情を話して、床やテーブルを汚したことを謝る。その分も含めてチップを渡すと、メートルディはこの航海で如何にピンク頭の一団に迷惑を被っているかを鼻息荒く語った。正式なルートで抗議を入れると言っていたが、いましばらく待ってくれるように頼んだ。もっと効果的な場面で抗議をしてもらおう。
シャワーを浴びて、ようやくほっとした沙織は図書ラウンジへと足を向けていた。借りていた英文学の本を返却するためだ。さすがに四六時中黒医者と一緒ではない。
向かう途中で沙織は、廊下の角にいる人物に気が付いた。健斗だった。
気分は曇ったけれど、これといって話すこともない。そのまま通り過ぎようとした時だ。健斗の方から沙織の前に立ちふさがるように、近付いてきたのだ。
「…沙織」
幼馴染の顔を沙織は見上げる。健斗の整った顔立ちは、幼馴染としては何の効果もなかったのだけれど、喜怒哀楽は読みやすかった。
「健斗さん、どうして哀しそうなのですか」
「どうして…か。お前のせいかもって言ったら、どう思う?」
どうもこうも、お互い様ですねとしか言えない。仕返しをされるようになったから、被害者ぶるのは卑怯にも程がある。ふつふつと沙織が怒りを覚えていると、彼女の沈黙を誤解したらしい健斗が語りだした。
「わかってる。俺が苺愛を好きになったから、お前は居場所を失くしたんだよな。でも俺は本気なんだ。苺愛のことが本当に好きなんだ」
「…はあ」
「お前とのこともわかってるつもりだよ。婚約者なんて古臭いって笑われるけれど、父さんの意志は固いみたいだし、お前とは一応結婚してやるよ。だから今朝みたいに苺愛をいじめるのはやめろよ」
「…はあ」
「それと、お前と結婚しても、俺は苺愛と付き合うからな。家同士のしがらみがあるから、どうしてもお前には高薄の家に入ってもらわないといけないらしい。そっちの付き合いとかは任せるから、好きにしろよ。俺は苺愛とタワーマンションにでも住むからさ」
「……」
健斗は拗ねた幼馴染にお願いをするような口ぶりで、つぎつぎと自分の欲望を言葉にする。沙織は言葉を失っていたが、いま言わずにいつ言うのかと、思いのたけを口にした。
「一度きちんと申し上げたかったのですが、健斗さんはご自分の振る舞いを今一度見直した方がよろしいかと」
「どういうことだ?」
「どこの世界に妻にしてやるから妾を認めろなどと、求婚前に言う人がいるのですか?妾と便宜上申しましたが、妾と別宅に住むから、本宅で社交をせよと。どの時代の思考回路なのです」
「めかけ…苺愛のことをそう呼ぶのか?違うぞ、苺愛は恋人だ。男には妻がいても恋人を持つ人がいるんだ。問題なんかない」
本格的な頭痛がし始めた沙織は、ややおざなりに健斗に質問した。
「もし、苺愛さんが恋人じゃいやだ、お嫁さんになりたいと言い出したら、どういたしますの?」
健斗はしばし悩むふりをして、いや悩んだのだろうか。想定内の答えを出した。
「そうしたら、沙織は代わってくれるだろう?幼馴染だし、わかるよな」
「…もうこの話はやめにしましょう。悲しくなります」
実際沙織は長年そばで過ごしてきた幼馴染の健斗が、ここまで恋に狂うとは思っていなかった。しかし今の問答で呆れを通り越して悲しくなったのだ。何もわかっていないと。
「俺が頼んだのに、聞けないのか」
「そういうことではないのです」
「分かるように話せよ。ああ、またこれか。お前の得意な、どうせあなたにはわからないでしょうけどってやつだ」
「そのようなつもりは…」
ないとは言えなかった。
「チッ、せっかく丸く収めてやろうと思ったのに。お前には俺の心なんか分からないんだよ」
妙にずきりと胸に刺さった。
「その言葉、お返しします」
痛みの正体が今まで傷つけられてきた自分の心にあるのか、これから傷つけるだろう人々に向かうものなのか、沙織には区別がつけられなかった。ただ確実なのは、幼馴染と完全に道が分かたれたことだけだった。