My fair villainous lady⑦

第7章

デッキタワーの先端ほど近く。黒と金で装飾された最上級のスイートルームで葉巻を咥える男が一人。ボックスソファの置かれた広いリビングに、先程騒ぎを起こした息子と婚約者の娘、そしてその両親が揃っていた。

「高薄さん、先程は大きな騒ぎになってしまい、申し訳なかった」

「いえいえ、若いころにはよくある話ですよ」

鷹揚に応えながら高薄浩一郎は、この頃の久遠寺彰の振る舞いに疑問を抱いていた。

クルーズ初日はアクティビティにもディナーにも、一緒に参加できたのだ。しかし2日目からは、全くと言っていいほど顔を会わさなくなった。何のためにこのクルーズに参加しているのか、理解をしていないとでも言わんばかり。高薄と久遠寺がより親しくなる旅行でなくてはいけないのに、久遠寺彰が高薄浩一郎を避けているようにしか思えない。宿泊している部屋を尋ねても不在。妻の絹子でさえ、動向を掴めていないらしい。

加えて沙織の振る舞いである。彼も多少は船内の噂を耳にしている。健斗たちに連れ立って、いちいち文句を言うのだとか。高薄浩一郎は、この少女が幼い頃から苦手だった。大の男が高校生相手に怯む必要はないのだが、遺伝とは恐ろしいもの。沙織からは浩一郎がどうしても敵わなかった先代社長、久遠寺和機の雰囲気が漂うのだ。ぼんやりした両親から生まれたとは思えないくらいに、利発な才媛。

「私も今日の事でいろいろ考えました…やはり沙織は健斗君にはふさわしくない」

浩一郎の思考は、突然の彰の一言で打ち切られた。

「待ってくださいよ。そんなに大ごとではありません。だれも怪我などしていないし、船から苦情が来たわけでもない」

「そうは言っても、そちらの健斗君の心は、もう違う女性にあるらしいじゃないですか。いや、全く、親の私がしっかりしていないから、沙織を面白みのない娘に育ててしまった。これまでの事は、健斗君の心を掴んでいられなかった娘の落ち度です。ほら、沙織、謝りなさい」

急に謝れと言われて、戸惑う沙織。騒ぎになってしまったのは申し訳ないけれど、どうして自分が謝らなくてはならないのか。しかも相手は高薄家、ひいては健斗である。筋違いにも程があるのではないか。

「彰さん…」

「お前は黙っていなさい」

娘の動揺を察した絹子が夫を諫めようとするも、一喝されてしまう。絹子は沙織以上の箱入り娘。社長夫人として内助の功を尽くしてきたが、今回の彰の行動は乱暴で驚くばかりだ。2人きりになると必ずベッドに誘われる。散々言い訳して逃げ回り、今ではほとんどの時間を沙織の部屋で過ごしている有様。夫が知らない人間に思えて、ただ怖かった。

「失礼を。娘も娘なら、母親もそうだ。躾が失敗したとしか言いようがない」

「まあまあ、落ち着きましょう。騒ぎの後だ、まともに思考がまとまらない事だってあるでしょう。我々、高薄は昔からの付き合いのある、沙織お嬢さんを婚約者に迎えたいのです。いきなり現れた者にそのポストは譲りませんよ」

「父さん、俺は苺愛と」

いきり立つ息子をひと睨みすれば、健斗はすごすごと浩一郎の大きな背中の陰に隠れた。

浩一郎はどうしても息子と沙織を結婚させたかった。

久遠寺と血縁関係になりたかった。

裸一貫から会社を立ち上げ、海外の大きなコンペティションを勝ち抜いたことで、彼は業界のトップの一角に登った。しかし上を見ればきりがない。浩一郎は絶対に自分が超えられない壁の存在に気がついたのだ。

どんなに努力しても報われない。最初から持っているものと、持たざる者の差。

それを息子たちの結婚で、やっと自分も手に入れられるのだ。「どこの高薄さん」ではなく「あの高薄さん」と、高級クラブで自分を蔑んだ連中に呼ばせたいのだ。

だから健斗と沙織の婚約破棄は絶対に認めない。それは高薄浩一郎の決定事項だった。

息子が旅先の恋に現を抜かすとは予想外だったが、健斗から聞く沙織の対応にも問題があるように思えた。自分が指摘するよりはと、隣に座る妻の重美に視線をやった。勘のいい妻は、沙織に健斗にどのように接してほしいか、懇々と言い含めた。

曰く「おおらかな目で」「妻になるのだから忍耐も必要」「男は多少は遊ぶもの」

浩一郎にとって最後のひとつは肝が冷えたが、沙織は黙って重美の言葉を聞いていた。

久遠寺一家が部屋から去った後、健斗は父に食って掛かった。

「どうしてあんなことを言うんだ!父さん、俺はもう沙織と結婚なんかしない!苺愛と一緒になりたいんだ」

愚かな息子に頭痛がし始めた浩一郎は、どうしてこの結婚が会社のために必要なのかを再三再四説明する気にならなかった。重美が側にいないことを確認して、息子に一言告げる。

「世の中には、妻のほかに恋人を持つ男がいる。お前がうまくやるなら、ない話ではないぞ」

その『うまく』の意味を、息子はきちんと理解しなかった。

罫線

夜が明ける前に、俺達はベッドから這い出し、あたたかいコーヒーを持ってバルコニーに出た。

ペールブルーの空が橙色に染まりだす。やがて現れる粒ほどの強力な光線。ちぎれた小さな雲の影が太陽に飛ばされていく。

朝日が空をあたたかく覆うまでの間、コーヒーを二人だけの沈黙の中で味わう。

それもなくなって、すっかり空が明るくなったころ、朝食を取ろうとキリコは俺の手をひいた。

〈本日の朝食・ルームサービス〉

・フレンチトースト

・カリカリベーコン

・ハム2種

・プチヴェールのソテー

・温野菜サラダ

・チーズの盛り合わせ

・マッシュルームのポタージュ

・フルーツ(りんご、キウイ)

・オレンジジュース/コーヒー

「共闘戦線を張ろう」

むぐっと口にしたチーズが喉に詰まりかけた。

「どういう意味だよ。共闘戦線なんて」

「そのまま。昨日話していて分かった。このヤマ情報が多すぎる。一人で情報集めて分析してたら、あっという間にクルーズが終わっちまう。そうしたらもう、解決する機会はほぼないと言ってもいい。酷ければ全部無かったことになってしまうだろう」

キリコは静かにハムを切ってる。

「バミューダでアレサンドロの腕を鑑識してくれるように頼んだけれど、何の知らせも来ない。クルーズが終わる前に証明できないと、本当にあの腕が平野のものだってことになってしまう。俺はとても我慢できない」

静かな顔で顔でフレンチトーストをきれいに食べてるけど、腸煮えくり返ってるんだろうなあ。だってずっと怒ってるって珍しく言ってたし、昨夜もいつになく激しかった…俺、何考えてるんだろう。

オレンジジュースをごくごく飲む俺をよそに、ゆっくりとキリコは席を立ち、背中から長い腕で覆いかぶさるようにして俺を抱きしめた。

「オキシトシンの発生源を確保しておきたいという思惑もある」

「なんだかお前さんにばかり都合のいいことに聞こえるんだが」

「俺も悪役令嬢を助ける黒い魔法使いその2になるよ」

「うまくいくかねえ」

「行かせてみせるさ。俺が見えていないものが、お前に見えることはあるだろうし、その逆もあるだろう。違う視点で見えてくるものがきっとある。昨晩のように、それを共有したい。有事の際は手を貸すこともやぶさかでない。そう言う意味の共闘だよ」

キリコの考えは分かった。依頼人への感情も分かる。だけど馴れ合うのは、俺たちには合わない気がする。それに15億円の一部を報酬に寄越せって言われても困るし。そうキリコに伝えると、奴は唇の端で笑った。

「もちろん期間限定さ。期限はクルーズが終わるまででどうかな。俺はアレサンドロの尊厳を守るため、お前は15億を手にするため。そのために一時的な共闘戦線を張るのさ」

「よし、決まりだ」

俺はオレンジジュースのコップで、キリコはコーヒーカップで、かちりと乾杯をした。

【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の真相を確かめるべく、俺達は行動を始めた。

キリコはセキュリティスタッフのオフィスへ行き、俺は先にインサイド客室へ向かう。エレベーターホールまでの長い廊下を歩き、コーヒーバー「スター・ギター」の前を通りかかった時だ。

「ジャック!」

エディの悲鳴が聞こえた。何事かと顔を出すと、相変わらず客のいない店内で、3人の女が仁王立ちして睨み合っている。マリベルとクララと……昨日の写真で見た顔だ。たしかグアダルーペ?

「どうしたんだ」

小声でエディに尋ねる。

「変な噂があって、僕がそれをマリベルに話したら、こうなっちゃって」

かわいそうなくらいエディは震えてる。

「噂?」

「前に話しただろ【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の話。あれの続きさ。今までは唸り声だか喘ぎ声だか、意味の分からない声しかしてなかったんだけど、とうとう人間の言葉になってるのを聞いたって奴が出たんだよ!」

なんだって?詳しく続きを聞こうとしたら、女性陣の方が口火を切って揉めだした。

「ショーマが『愛してる』って言ったのは私よ」

「どうして決めつけられるわけ?あの部屋で愛し合ったのは私」

「私だってそうよ!あんただけじゃないわ!あの夜『愛してる』ってショーマは何度も言ってくれた!」

バチバチと雷電が飛ぶ険悪な雰囲気の中、3人の女性が一度に叫んだ。

「「「死んだショーマが『愛してる』って言ったのは私の事よ!」」」

ドゴーンとでっかい落雷の幻影が見えた。

どうやら【最下層のインサイド客室】こと死んだ平野星満の部屋から聞こえていた声が言語になったらしい。それが『愛してる』という言葉だったと。

それにどんな意味があるんだ。死んだ人間が喋ってるなんて妄想がそもそもおかしいし、今更愛を囁かれたって何の得にもなりゃしねえ。それなのにお互いマウントを取り合うくらい、彼女たちはショーマに惚れてたって事か。勝手にしろい。

「待って、ジャック!行かないで!」

涙目のエディがすがるけど、悪いな、俺もその幽霊が出る部屋に用がある。

「今度、目の手術タダでやってやるって言ってやれ。かなり目が曇ってるみたいだから」

「ジャック、お医者さんなの?!」

そうだよ、と背中で手をひらひら振って、今度こそ目的地へ向かう。

すぐに行くはずだった。

だけど流れでもう一人連れていくことになってしまった。

エレベーターを降りて、いくつか階段を下りる。船内の様子はだんだんと変わって行き、照明はぼんやりとして、こもった匂いがしてきた。船の巨大なエンジンの音が鈍く響く。

最下層のインサイド客室、俺の部屋の隣、平野星満の部屋の前にはすでにキリコがいた。

うす暗い廊下で俺達に気がついたキリコは不審な眼を向ける。

「どうしてお嬢さんもいるんだ」

「まあ、途中で拾ったんだ」

そう、俺は沙織と一緒に来ていた。

数分前、エレベーターホールで下行きのエレベーターを待っていると、俺の前のエレベーターの扉が開き、中から喧しい奴らがそろって降りてきたのに遭遇した。

ピンク頭の一団だ。朝っぱらから嫌なもんに会ったなと、表情筋が歪むのを堪えられずにいたら、やっぱり沙織は一番後ろで黙って歩いていた。真っ直ぐ前を見つめる瞳は、まだ彼女が戦っていることを示していたし、手を貸す予定はなかった。

通り過ぎ様、俺に気付いて顔をこわばらせた奴もいたけれど、一瞥するとサッと目を逸らした。タマ無しめ。しかしだ、その時、吐き気を催す香水の臭いの中に、人間のある分泌液が出す特有のニオイを感じ取って青ざめた。振り返ると最後尾の沙織が通り過ぎるところだったから、彼女からこのニオイがするのかと、非常に慌てて手を掴み、そのまま下りのエレベーター連れ込んでしまった。

エレベーターの中、沙織は非常に困惑した様子で小さくなっていた。

「すまん。ちょいと不躾な真似をするけれど、勘弁してくれ」

彼女を壁際に押しやって、手を触れずに、その場で深呼吸。変態くさい?うるせえ。

沙織からそのニオイはしなかった。そうだよな。当然だよな。

俺が感じた人間の分泌液のニオイ。それは男の精液の臭いだった。

そんなもん垂れ流してるのはピンク頭しかいねえじゃねえかよ。見当違いにも程があるぞ、俺。つーか、あのメスガキ、健斗を食ってるってことか。周りの連中もそれを知ってつるんでるのか?精神構造理解しがたい。したくもねえ。

どんどんエレベーターは一直線に最下層へ降りていく。

「あの…困ります…」

見上げる沙織の訴える気持ちは分かる。けれど、俺の目には彼女が今にもポッキリいってしまいそうに見えた。さっきの真っ直ぐ前を見つめる姿は、彼女なりの虚勢だったと思えるほどに。

「疲れたか?」

「えっ」

「あの連中相手にしてて、疲れたかって訊いたんだ」

沙織は黙ってうつむいた。

意地の悪い質問をした自分に苦笑して、罪滅ぼしとばかりに彼女に提案した。

「これから幽霊が出る部屋に肝試しに行くのさ。気分転換に一緒にどうだい。お嬢さん」

「ええかっこしい」

ぼそりと方言で呟くと、キリコは沙織に念を押した。

「望んでここに来たのではないのは理解した。どうもこの男は君を案内したいみたいだし、実はこの部屋と君は無関係ではないと俺も思っている。是非とも一緒に来てほしい。そしてここで見たこと聞いたことを口外しないと約束してほしい」

「どういう意味です…?わたくしはこの部屋に来たことはありません」

「そうだろうね。でも、部屋の中に、君が知っている何かがあるかもしれない。それが具体的に何かは我々も知らないがね、気になったことがあれば教えてくれないか」

少しでも情報が欲しいキリコの思惑は分かった。平野の部屋の中はほとんど何もない状態だと聞かされていたから、この探索が空振りになる可能性もある。その可能性を少しでも引き下げたいのだろう。

「俺からも頼む。巻き込んだのは悪かった。ただ俺達はお前さんの親父さんについて調べていることがあるんだ」

沙織の顔色が変わる。思い当たる節があるのだろうか。更に口を開こうとすると、廊下の向こうからがやがやと声がする。

「さあ、中に入るぞ。見つかるとまずい」

キリコがカードキーを素早くスキャンし、【最下層のインサイド客室に出る幽霊】の現場、平野星満の部屋の扉が開いた。

ぱちりとスイッチを入れれば、室内が明るく照らされる。

高級感のあるアイボリーの壁と金のライン。同系色のやわらかいベッドは部屋の真ん中。テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。そう、俺の部屋と全く同じだ。

違うのはトランクがひとつ残されていること。

「手分けして探そうにも、ワンルームじゃなあ」

「ワンルームをなめんな。俺はクロゼットを探すぜ。お嬢さん、俺と一緒に見てくれねえか」

「お嬢さんでは落ち着きません。どうか、沙織と」

「わかった。沙織、お前の親父さんと関係しそうなものがあったら教えてくれ」

その時だ。

部屋の中に唸り声が満ちたのだ。

これか。これが幽霊と噂される現象か。どこからするのか確かめようとすると、ぱたりと声は止んでしまった。

「部屋のどこから声がしたのか、分かったか?」

「バスルームではなかったな」

「わたくしの後ろの方でしたように思います」

再び唸り声。今度は明らかに俺の後方でしたのが判った。

クロゼットを探していた俺たちの後ろには、ベッドしかない。キリコが掛け布団をめくったが、当然のように何もいない。声を上げるのだから、少なくとも動物だ。さっきの声は布団の隙間に隠れられるような小さい生き物が出す声の大きさではなかった。

敷布団もめくり、マットレスに耳をつける。

誰も声を出さない沈黙の中、俺の耳は何かが蠢くような小さな音を拾った。

「キリコ、聞いてみろ。何かが中にいるかも知れない」

キリコも耳を澄ませ、確かに物音がすると言った。ベッドの周りを調べると、少しだけマットレスが浮いている。アイコンタクトをしてキリコと一緒にマットレスに手をかけて力を入れると、がこんと音を立てて、マットレスが下の板ごと外れた。

邪魔だからと気を利かせたのか、沙織は部屋の隅でじっとしている。

そろそろとマットレスの付いた板を壁際に移動させると、ベッドの木枠の中に何かが詰まっているのが分かった。

「見るな!」

すぐに沙織に告げた。

木枠の中にいるのは男。

胎児のようにうずくまる形で、横たわっている。

体中に鬱血痕。虐待の痕だとすぐに知れた。酷いのは指だ。どの指もまともな形をしていない。ちぎれてはいないものの、あらぬ方向へ曲げられ、爪を剥がれ、ペンチのようなもので執拗に痛めつけられているのが分かる。

キリコがジャケットを脱ぎ、男の丸出しの下半身にかける。男の性器もまた虐待されていた。同時に肛門からの出血もあるようだった。

人のいい、おっとりとした笑顔が、血色の悪い今の顔と同じ人間だとは想像もつかない。

久遠寺彰が、そこにいた。

かまされていた猿轡を放すと、彰はやっと人間の言葉を話した。

「…やあ……」

壁にくっついたまま、様子を窺っていた沙織が反応する。

「お父様…ですか……」

彰は大きくため息を吐いた。

「まさか、娘に発見されるとは……情けないな…」

傷だらけの彰にじりじりと近寄る沙織は、彼の体を見て小さく悲鳴を上げた。上半身が露だったことに気付き、俺のコートを肩からかけて彰の体をすっかり覆った。

「どうしてこんなことに……!わ、わたくしたちが先程まで一緒だったのは、誰なんですか?」

「沙織、俺達が分かっていることを順番に話す。最後まで、落ち着いて聞いてくれ」

アレサンドロの腕から始まり、平野星満という男が久遠寺彰になり替わっている事実を沙織に伝えた。沙織は辛抱強く聞いていたが、とうとう最後には泣き出してしまった。初めて見る彼女の涙だった。

「お父様が、どうして、こんな酷い目に遭わなくてはならないのです!」

「それは…私が原因なんだ……」

諦めにも似た、自嘲を含んだ彰の声。

「大体予想がついてるから、詳しくは後で聞こう。今はここから出ることが先だ」

立ち上がるように彰の肩を抱えたが、彼は首を振った。

「私がここからいなくなったら、平野は間違いなく家族を害する」

「その前にセキュリティスタッフに平野の身柄を拘束してもらえ」

「ううん…そうするのは簡単なんだけど、私にも意地がある。仮に今、私が君たちに救出されて、平野が捕まったとしよう。誰が得をするだろうか」

「損得勘定してる場合かよ。手前の命がかかってんだろ」

いきり立つ俺の目をじっと見て、彰はにこりと傷だらけの顔で微笑のかたちを作った。

「高薄か」

「そう」

キリコの言葉に応える彰。その声は静かで強い意志を感じさせた。

「愚かにも犯罪者の手に落ちた久遠寺の3代目は無能だと吹聴し、事件当事者しか知りえない情報に領巾を着けてふれまわるだろう。私が対応するより早くね。だってほら、今の私はちょっと入院が必要な体だろう?」

「…ム」

「父も対処はしてくれるだろうが、なにぶん高齢だ。うかうかしていると…」

「久遠寺は高薄に食われると」

無言で彰は頷いた。

「おそらく平野はそこまで読んでいる。平野の望みは久遠寺の破滅だ」

『破滅』と沙織は鸚鵡返しに呟いた。きっとそのままの意味なのだろう。世襲制の会社が社長の不始末で身代を傾けた事例は、古今東西良くある話だ。彰が今まで命を取られず生かされているのは、久遠寺を潰す過程を見せるためだけ。「まだまだ苦しめ」と加害されている途中なのだ。

「私が望むのは、高薄も、久遠寺と一緒に事件に巻き込まれたというシナリオだ」

「なんだって?同じ船に乗ってて、お前さんと平野の違いに気が付きませんでした。平野に騙されましたって段階で十分巻き込まれたと言えると思うが、それ以上の状況なんて、簡単に用意できるか?」

「すでに用意されていると、私は思うよ。憶測にも満たない妄想だけれども」

沙織、と娘を彰は呼んだ。

「平野はね、私に沙織と健斗君の事を詳しく聞かせるんだ。今日はなにがあったとか、その前はこんなことをしていたとか…私が平野から聞いた話をするから、本当かどうか答えてくれるかい」

ウェルカムパーティでの出来事、タクシーツアー、ホースシュー・ベイでの事件、仮面舞踏会での事件、中には俺達が知らないものまで、いくつもいくつも彰は沙織と健斗、ピンク頭の一団との間に起きた事柄を挙げた。

沙織は二つほど否定はしたが、その他は黙って頷き、肯定した。

「そうか…そうか……」

ほろほろと彰は落涙した。

「娘が、こんな酷い目に遭っているのに、親が何もできずにいるなんて……」

「お、お父様」

「どうか何も言わないでくれ、沙織」

涙を拭いもせずに彰は続けた。

「平野が沙織たちの事を私に告げるのは明確な悪意があるからだ。だけど私はずっと不思議だったんだ。どうしてこんなにトラブルが起こるんだろうって。それをどうして平野は余すところなく知っているんだろうって」

「確かに…あのピンク頭、やたら沙織に突っかかるよな。健斗狙いだからライバル扱いしてるのと思ったけど、まだ何かあるのか」

「私にもわからない。だけどきっと仕掛けがあるんだと思う。この船の上で久遠寺と高薄をつなぐ一番大きな綱は、沙織と健斗君の婚約だからね…いけない、時間がない」

彰は部屋の時計を見て焦りだした。

「平野はいつも12時から15時までの間はここに来るんだ。もうすぐ12時になる。私を元に戻して、部屋から出るんだ」

「そんなことできません!お怪我の手当てをしないと!お父様、わたくしは家を失ってもお父様を失くすのはいやです!」

「いいから、沙織。私は大丈夫だ。お前が私を思ってくれるように、私もお前を思っているよ。お前は絹子を、お母さんを守ってあげてくれ。私は私のできる方法で久遠寺を破滅から救って見せる。平野は私を殺さない確信がある。船が港につけば、きっと解放される」

「その時には、久遠寺は中からも外からも食いつぶされているわけか」

虚勢を張った彰の言葉を看破するキリコの独白は親子に突き刺さる。彰は唇を噛みしめ、沙織は震えている。

「カードキーは手に入った。必要ならまた来られる。時間がない今は久遠寺氏の言う通りにしよう。さあ、コートとジャケットをどかすから、君は下がっていなさい」

「見せてください」

彰とキリコ、俺の3人の視線が沙織に集まる。

「お父様が、私とお母さまを守るために、どんな苦しみに耐えてくださっているのか、私は知るべきだと思います」

澄み切った瞳に対して、俺は無言でコートを彰の体から外した。上半身に散らばる大小の鬱血痕。そして、手。沙織は彰に駆け寄り、触ると痛かろうと震える手をうろうろとさせながら、大粒の涙をこぼした。

「ゆ、指が…お父様のピアノが、わたくしは大好きでしたのに…痛むでしょう…ああ、痣がこんなに……こんなこと、こんなことって…!」

彰はできるだけ痛みを隠した笑顔を作り、ぼろぼろになった手で沙織の頭を撫で「大丈夫だから」と繰り返した。

彰を再びベッドの下に隠し、そっと廊下に出た。さっさと移動すべきなのだが、沙織が動かない。彼女の葛藤はわかるが、ここで平野と鉢合わせるわけにもいかない。石のように固まった彼女を引きずって、その場を後にした。

「どう思う」

「どうっつってもな」

プールデッキの端っこでぼそぼそやってる俺とキリコ。そこからちょっと離れたところに沙織。お互い作戦会議中。沙織には何が自分にできるか考えてみろって漠然とした宿題を出した。

「平野の彰に対する執着は異常だ」

体を痛めつけ、犯し、ピアノを奏でた指を徹底的に潰している。私怨の域をとっくに超えているように思えた。

「だから『愛してる』なのか」

「俺にはわからない」

「わかる必要もないさ。状況が変わったから整理するが、15億を久遠寺から取り立てたいお前にとっては、久遠寺が潰れないことが一番でいいな?俺にとっては平野の正体を暴くことが一番。それがアレサンドロの腕の証明に必要不可欠だから。ただ、俺の場合は久遠寺彰氏に救出を拒まれたことで、振出しに戻った感があるがね」

「おう、久遠寺が高薄に食われたんじゃ15億どころの話じゃなくなる。久遠寺が生き残る可能性を探るためには、平野とピンク頭の関連性を洗う必要があるか…気が進まねえ。俺、ああいう類のサルは嫌いなんだ。今日だって男の精液の臭い、プンプンさせてたんだぜ」

「お前はそういうところ潔癖だからね」

じっと片目で見つめられて言葉に詰まる。

顔をしかめた俺のところへ近付く影があった。沙織だ。

「宿題の答えは出たか?」

俺の言葉を受けて、沙織は胸の前で両手を会わせて組んだ。それは何かに縋る殉教者のように見えて。海風に乱される長い黒髪をそのままに、沙織は思い切ったように口を開いた。

「わたくしに、悪の作法を教えてくださいませ」

しばし、海風と波の音しかしなかった。

沈黙が何年も続くように思われたころ、俺は耐えきれなくなって、大声を上げて笑ってしまった。

「よく考えたのです!どうしてそう結論付けたか聞いてから、思う存分笑ってくださいな!」

「ああ、ああ、すまんな。話は聞こう。その前に十分面白すぎてな」

笑いすぎて涙が出る。その様子を見て、沙織はむむっと俺をかわいい顔で睨む。

「適材適所だ、沙織さん。よくもこんな当たりくじを引くもんだ」

キリコの声に、どういう意味かわからないと首を傾げる沙織。

「ちなみに沙織、俺が誰だか知っているか」

「ブラック・ジャック先生。お医者様でしょう?治療費がとても高額なのは存じております。治る見込みがないと匙を投げられたおじいさまの病気を治して下さったのですもの、素晴らしい技術をお持ちなのもわかっています」

はは、と乾いた笑いが口から洩れる。

「それが俺の正体だと思うか?」

「えっ?」

キリコは俺の前に出ると、わざと紳士ぶって沙織に尋ねた。

「では、私の職業はなんでしょう。当ててごらんなさい」

沙織は戸惑うしかない。そりゃそうだ。こんな人相の悪い隻眼黒眼帯、おまげにザンバラの銀髪が海風に散らばってる。表街道の人間に見えるはずがない。

「間違っていたら、ごめんなさい…その、海賊…ですか?」

今度こそキリコは腹を抱えて笑った。俺も爆笑。沙織は泣きそうになっている。馬鹿にしているわけじゃない、ちょっと落ち着く時間をくれと言って、なんとか呼吸を整えた。

「すまん。うん。大丈夫だ。話をしよう」

「では改めて自己紹介を。私はキリコ、ドクター・キリコと呼ばれることが多いですね。安楽死専門の医者をしています」

「安楽死…」

耳慣れない言葉を沙織は反芻した。

「安楽死なんて言うが、要はヒトゴロシだ。まだ生きられる人間を勝手に見切って殺してる。俺には我慢ならん思想の持ち主だ」

喚いて見せるがキリコは知らん顔。そういうふうに誤解する者は稀にいます、だとよ。沙織は「人殺し」というワードが刺さったらしい、眼を見開いたまま動けなくなっている。

「自己紹介が済んだところで、いつも通りに喋っていいか。話が進まなくなりそうだ」

「ええかっこしいはお前じゃないか」

「言われたくないね。お前の自己紹介はまだ途中だろ、きっちり名乗ってやりな」

そうは言ってもなあ、どう自己紹介したもんかねえ。今更だけど、自分で言うのも格好つけててやだな。でもキリコに任せると、最悪のパターンしか思いつかんので、観念して言うことにした。

「俺は無免許医だよ。黒医者、闇医者なんて呼ばれることもある。金さえ積めば、どんな後ろ暗い奴でも手術台に上げる。金がすべての外科医さ」

捕捉説明したいらしいキリコは笑っていたが、余計な口は挟まないと決めたようだった。

「さあて、沙織お嬢さん。我々から何を学びたい?」

びくりと沙織の肩が揺れ、俺の背後のキリコを凝視している。振り向かなかったけれど、あいつがどんな顔をして沙織を見ているのか判った。裏街道の連中と同じに扱ってやるなと言ったのはお前さんじゃないか。それじゃあと、俺も裏街道の夜道を往く闇医者ブラック・ジャックの顔を見せる。これもテストだぜ。沙織お嬢さん。

白い顔を更に白くして沙織は後退り、華奢な体を縮こまらせながらも逃げ出さずに何とか立っている。まあ、こんなもんか。ぱっと表情を変えてやる。

「さあ、しっかり立ちな。今度はお前さんの番だ。俺達に何をさせたいのか話してくれ」

すっかり震えあがった沙織を連れて、キリコの部屋へと向かった。

このくらいはさせてほしいと、沙織はそれはきれいな所作で緑茶を淹れてくれた。急須などはキリコが船から借りていたらしい。たまにコーヒーだけじゃ味気なくなるそうだ。日本に毒されてるぞ、お前さん。キリコに呆れつつ茶を口に含んだけれど、今まで飲んできた茶と比べ物にならないくらい旨かった。

「驚いたな。同じ茶葉だろう?ここまで違うものなのか」

キリコも同意見のようだった。二人して褒めると、沙織は初めて年相応のはにかんだ笑顔を見せてくれた。

「さっきお父様が話していた、私が苺愛さんたちから受けた行動なのですが…」

切り出した沙織の言葉に耳を傾ける。彼女はピンク頭の一団と行動を共にしていて、どんなことがあったか具体例を交えながら話すから、自分の認識違いもあるだろうし公正な視点で聞いてほしいと前置きして始めた。彼女が挙げた点は以下の通りだ。

・バミューダのツアーでペンダントを渡されたことが『無理矢理奪った』ことになった

・苺愛の私物のペンを沙織が拾ったことが『壊した』ことになった

・沙織が他の男子高校生と話していると、苺愛を『仲間外れにしている』ことになった

・苺愛が健斗と距離を縮めると同時に、男子高校生3人とも急激に近しくなった

・ショップで使用禁止の札がついている高級ソファに座ってはしゃぐ苺愛に注意をしたところ『金持ちだから苺愛を馬鹿にしている』と責められた

・下船した土地でも船内の高級ブティックでも、とにかく苺愛に言われるまま高額なアクセサリーなどを買い与える健斗に、高薄の父は知っているのかと心配したら『健斗の金を目当てにした嫉妬』『相手にしてもらえないので惨めな気の引き方しかできない』と非難された

・なにか起きれば、必ず沙織一人を原因と決めつけて、全員で糾弾する

・皆で出かけている時、必ず苺愛と男子一名が姿を消す時間がある。20分ほどで戻ってくるが、何をしていたかそれぞれが誤魔化している

後はウェルカムパーティで背中を押され、指を切るけがをしたこと、仮面舞踏会で苺愛のドレスを破いた犯人だと思われていること、彼女を押してプールに突き落とした濡れ衣を着させられたこと、プールの底に散らばった私物を集める様子を嘲笑されたこと…それだけで十分な侮辱だが、きっと沙織が言っていない小さな害意がもっとあるのだろうと予想はできた。

「明らかにお前さんを蹴落としにかかってるな。本命は健斗なんだろうけど、まわりの男どもだって完全にピンク頭に服従してる。まともじゃねえよ。俺ならいちゃもん付けられた3回目くらいでぶん殴ってるな」

「嘘を吐くな。1回目でアウトだろう」

「てめえだって似たようなもんだろ。すぐに楽にしてやってたんじゃねえのかよ」

「とんでもない。楽にならないようにしていたさ」

物騒なやりとりを続ける俺達を見て、沙織はぽんと自分の膝を叩いた。

「それです!お二人のお話のやりとりを、わたくしもできるようになりたいのです」

きらきらと名案を思い付いたような沙織の顔を、俺達は全く言葉の通じないエイリアンに会った時のような気持ちで見た。

「これまで健斗さんにも苺愛さんにも、他の皆さんにも、わたくしはどうにかして仲良くしたいと行動してまいりました…ですが、どれもうまくいかず、嫌われるばかり。嫌味を言われていることくらいは、わたくしにもわかりましたが、どう言葉を返せばいいのか判断に迷い、熟慮して返事をしても状況が悪化するばかり。わたくしには、悪意に対する反応のしかたが分からなかったのです」

「ふうん、それで?」

「俺達に口喧嘩の方法を教えろと言うことでいいのかな」

違う、と沙織は首を振る。

彼女の目に仄暗い炎が灯るのを、俺は見た。

「平野が私たちの間に起こったことを詳しく知っているとお父様は言われましたが、それは実に不自然だと言わざるを得ません。加えて、苺愛さんの行動は明らかにわたくしを『悪役』にしたい様子の振る舞いでした。お父様の言葉を踏まえれば、平野が苺愛さんと何らかの関係があり、久遠寺を貶めようとしている…」

幼馴染を奪われる寂しさを炎の中にくべて燃やす沙織の瞳には、決意と言う熱量が確かに宿りだしていた。

「お父様のあの姿を見て決めました…わたくしは平野と言う男を許さない。久遠寺を破滅へと導こうとするもの、それらを全て断罪して見せます」

「断罪とは、大きく出たな」

「そのくらいの覚悟がなくて、どうして久遠寺を支えられましょう。お母さまはおそらく平野に脅されているか、何か恐怖を与えられていると推測します。今夜しっかりお話して、事実を確認いたしますが、まだお母さまに全てをお話しするわけにはまいりません」

「俺も同意見だ。お前さんの母ちゃんは線が細すぎる。下手に情報を渡すと流されかねん」

神妙な面持ちで頷く沙織。彼女は父と母を同時に守る気なのだ。

「わたくしが受けた仕打ち…屈辱と言い換えましょう。今までは認めたくなかったのですが、ええ、これは屈辱以外の何物でもありません。それを糾弾すれば、全て納まるでしょうか。高薄のおじさまに健斗さんにこんなことをされましたと訴えれば済むでしょうか」

俺達は黙って沙織をみる。仄暗い炎はじわじわと彼女の身体を焼いてゆく。

「お父様に化けた平野を偽物だと暴けば、それで済むでしょうか。そこで平野が謝り、警察に捕まればお終い?いいえ、いいえ。そんな時期はもう過ぎました。愚かなわたくしのプライドが許せば、事が終息する時期は過ぎたのです」

微動だにしなかったキリコが口を開いた。

「それで、どうするんだ」

射干玉の黒髪がさらりと揺れる。久遠寺コンツェルンの意地の全てを背負った乙女は、きっぱりと言い切った。

「健斗さんとの婚約破棄。これ以外にありません」

彼女は続ける。

「一見平野の思惑通りに見えるでしょうが、こちらから切り出すか、あちらから切り出すかは大違いなのです。平野は高薄のおじ様から婚約破棄を伝えてくることを目論んでいる。ですがわたくしはそれより先に自分から伝えます。健斗さんと苺愛さんのふるまい、平野の犯罪を暴き、それらを踏まえた上で高薄のおじ様も承諾せざるを得ないような状況を作ります。もちろん十分な情報が必要ですから、今すぐにとはいきませんが…必ず」

わずか数分で、この少女はプライドと言う炎の片鱗を見せた。その炎は、俺は嫌いじゃない。だがそんなか細い炎で俺が動くと思うなよ。

「俺達に報復の手伝いをしろと言うわけか」

「はい。黒医者に安楽死医…これ以上ない『悪』の先生にご指導賜りたいのです。ご心配なく、動くのはこのわたくし。先生方が手を煩わせることはございませんわ」

ふふ、とキリコの底意地が悪い笑い声がする。

「ご冗談を。その細い腕で何ができるんだ」

「あら、わたくしの腕が頼りないのであれば、先生方が鍛えてくれればよいのです」

「ほお、良いことを教えてあげよう。俺は慈善事業が大嫌いだ。なぜ君の腕を俺が鍛えなければいけないのかな」

「俺も同意見だ。確かにお前さんの現状は不穏当なものだとは思う。ピンク頭の一団に嫌悪感を持っているのも同じだ。しかし、それだけでは俺は動かない」

「報酬が必要、ということですね」

黙って俺達は頷く。裏街道を歩む者にふさわしく、佞悪に、そして傲然と。

「では、こういうものではいかがでしょう。今のわたくしにはペン一本自由になるものはありませんの。全て両親が与えてくれたものですから。なのでわたくしがある程度自分の財産を自由にできるようになってから、報酬をお支払いいたします」

「出世払いか。話にならんね」

足を投げ出した俺に、沙織は低い声で続きを話す。

「わたしくしは久遠寺コンツェルンの全てを賭けて、あなた方にご協力を賜りたいのです。その報酬に具体的な金額をお示しできないのを、非常に心苦しく思いますが、逆にここで150億などと申し上げても信じていただけないでしょう?」

それはそうだ。返済能力のない女子高生に150億と言われても、嘘だと笑うしかない。

「ですから、わたくしが今、貴方様がたにお支払いできるものは『わたくしの未来』です。今回の事件を受け、わたくしがお父様の跡を継ぐのも、そう遠くないでしょう。その時、久遠寺コンツェルンがまだ息をしていましたら、遠慮なくお好きな金額を請求なさいませ。久遠寺コンツェルン4代目の威信にかけて、一括でお支払いいたしますわ」

沙織の瞳に灯った炎が、覚悟を持って俺達を焼こうとしている。

「それも叶わぬ時は『わたくしの未来』そのものをお渡ししましょう。奴隷のように使役なさるも良し、新鮮な血や内臓を提供する人形と扱うも良し、お望みのままに」

しばし沈黙が続いたのち、俺とキリコは顔を見合わせた。

「この辺が落としどころか」

「まあ、及第点だろう」

ぽかんとする沙織に、俺達それぞれの目的を伝えると、彼女は顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。

「初めから利害が一致していたのでしたら、そう言ってくださればいいのに!」

「これも悪の心得さ。簡単に腹のうちは晒しちゃいけねえ」

「俺達は君を利用する。君も俺達を利用すればいい。その関係を築くには、君の覚悟をはかる必要があったのさ。悪気はないよ。ちょっと意地悪したのは認めるけれど」

「まあ、俺の15億円は別料金だから彰に即金で払ってもらうとして、久遠寺コンツェルンの4代目に支払う意思があると分かっただけで十分としよう」

緊張感がすっかり抜けた室内で、俺とキリコはからからと笑った。真っ赤になってむくれているのは沙織だけだ。

「それじゃあ、昼飯食いながら作戦会議といこう。ルームサービス頼んでいいか」

「いいよ。でもメニューは沙織さんに決めてもらおう」

「わ、わたくしが、ですか?」

キリコはニヤニヤしてる。

「まさかルームサービスひとつできない子が、俺達の報酬を払ってくれるとは思えないからねえ」

「できますとも!ええ!」

沙織は力いっぱい受話器を握り、人生初のルームサービスのオーダーをした。

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