My fair villainous lady②

第2章

最下層のインサイド客室。

船のエンジンの音は響くし、上の階よりも揺れる。なにより外の景色を見る窓がない。当然だ。船の内側にある格安の部屋なのだから。

このクルーズ船「コンバーション」は他の船がそうであるように、外の海原を見渡せる窓がついた部屋を船体の左右に備えている。そして窓がない代わりに、料金を低く設定した部屋が「川」の字の真ん中の画のように並んでいる。その真ん中の部分をインサイド客室と呼ぶそうだ。そのままの意味だが、俺は初めて知った。

このエリアはカジュアル層がクルーズを楽しむために利用することが多く、金持ちとはお世辞にも言い難い印象のゲストが集う。だからアウトロー感満載の闇医者の俺が陣取っても、違和感は少なかっただろう。

俺は金額だけで部屋を決めたことを後悔はしていなかったが、満足はしていなかった。アイボリーの壁と金のラインは高級感があって、同系色のやわらかいベッドはスプリングの感触も文句なし、テレビは大きいし、クロゼットだってきちんとしたものが備え付けてある。しかしだ。俺には決して譲れない物が、その部屋には欠けていた。バスタブがないのである。

バスルームを覗いて、その事実を知った俺は黙ってタバコに火をつけて、これから10日も続く航海の日々に思いを馳せた。

それに比べりゃ、薄い壁を突き抜ける、部屋の外で走り回る子どもの声、隣の部屋から聞こえる大きなくしゃみだって、大したことない。

ああ、上手くいかんな。やけっぱちでコートを椅子に投げつけ、そのままベッドに倒れ込む。

金の支払いは不透明。おまけに死神野郎まで同じ船にいて、その依頼人にはシッカリ振られている。正直俺も車椅子の彼にまで手が回るような状況じゃないから仕方がない。ふーっと煙を吐き出せば、寝タバコの灰がシーツに落ちそうになり、もぞもぞと起き上がる。

頭を切り替えよう。これだけ大きな船だ。探せばせめて大浴場くらいあるかもしれない。

もうとっくに日は暮れたが、船の中を探検に出かけようじゃないか。

金のフレームで装飾された案内板のトップ画面を見ると「コンバーション」には実に多くの施設があることがわかる。

豪華なダイニングルーム、図書ラウンジ、フィットネスコーナー、ロッククライミングやバスケットコート、オープンカフェにカジノ。一々挙げてたらキリがないくらいだ。それらをさくさく横目で見ていく。おお、シガレットルームがある!後で来ようっと。しかし風呂場が見つからない。

船内をうろうろしてたら小腹が空いた。客の少ないコーヒーバーがあったので、カウンターに座り注文。入り口にはオオハシのマスコットが並び、オレンジとダークグリーンを基調にした南国風のコーヒーバーの看板には「スター・ギター」と書かれていた。

「今日の豆はコロンビアですよ」

「いいな。いくらだ?」

「コーヒーは無料です。他にもクッキーやシリアルなど軽いものなら、無料でお出しできますよ」

なんだって!無料って言ったか!

人好きのする笑顔をしてコーヒーとクッキーを出してくれたスタッフに、喜びの意を込めてチップを弾む。こんなにくれるのかとびっくりしている。いいんだ。俺がこの船に乗って一番目に起きた良いことなんだから受け取ってくれ。お互いににこにこして名乗り合う。真っ白なシャツにモスグリーンのベストを余裕を持たせて着こなした、チョコレートと同じ色の肌をした彼はエディと呼んでほしいと言った。本名はどこかの王族並みに長いらしい。

「なあ、エディ。風呂場探してんだけど、この船にある?」

「バスルームではなくて?」

「いいや。大きなバスタブがあって、のんびり湯に浸かれるところ」

「そうか。ジャックは日本人だから、お風呂にこだわりがあるんだね。うーん。大きなバスタブ…そうだ、デッキのプールサイドにジャグジーがあるよ。あれはどう?」

「やっぱりそっちになるのか…」

がっくりした俺にエディは申し訳なさそうにしたけれど、君のせいじゃない。

「バルコニーがあるクラスの部屋になると、バスタブがついてるらしいよ」

いいこと聞いた!久遠寺家の連中はきっとそういう部屋に泊まっていそうだ。あのお人好し一家の事だ。風呂くらい貸してくれるだろう。なんならクルーズの期間中、ずっと貸してもらおうか。

そこまで考えて、彼らの部屋番号を知らないことに気がついた。かまわん。船内アナウンス流して呼び出してやる。物騒な目つきでコンシェルジュデスクへ足を向けた俺の前を、若い二人がふわりと通り過ぎていく。

さわやかな笑みとともに、仲良く隣を歩く二人は、たしか沙織と…健斗だったっけ。

二人は当然俺の存在に気がつくはずもなく、ライトアップされたココナッツの木の植え込みが並ぶメインストリートを軽快なテンポで進んでいく。

ちらりと見ればお似合いの二人だが、沙織は生粋のお嬢様。隣に立つ男は相当プレッシャーがあるだろうと、興味本位から健斗を観察することにした。

細身の体に長い手足。フィギュアスケーターと似た体格をしている。こんな顔の俳優がいたかなと思うほど、いわゆるイケメン。外見だけだと健斗は十分に沙織とつり合いが取れるんじゃないだろうか。中身までは知らないが。

高校生の婚約者同士は手を伸ばせばつなげる距離で、お互いの顔を覗き込むようにして、くすくすと無邪気に笑いながら歩いていく。

それは幼馴染の延長のまま、将来までも選んでしまうようで、俺には少々危うく見えた。ちゃんと自分たちの事考えてるのかって。彼らは自分たちの10年後をどんなふうに想像しているんだろう。

まるで俺の人生にこれっぽっちも影響を与えない彼らから目が離せなかったのは、彼らが俺の知らない世界に生きているからだろう。

どうにもおセンチになっちまったので、一旦出直すことにした。部屋の冷蔵庫のビールを思い浮かべながらエレベーターのボタンを押す。モーター音と共にエレベーターが止まり、扉が開くと同時に足を踏み出すと、ごちんと何かにぶつかった。次にうめき声。

「鈴井さん、大丈夫ですか?鼻血が…」

「ああ、大丈夫です。大丈夫です」

足元にひっくり返っている眼鏡の男が鼻血を出している。さっき俺がぶつかったらしい。

「すまない。考え事をしていたんだ。すぐに止血するよ」

立ち上がるために差し出した俺の手を断り、鈴井と呼ばれた男は立ち上がる。

「いいです。私、船医なので、自分でできます」

「よくありません。せめて冷やしましょう。それから、お前は前を見て歩け。BJ」

名を呼ばれてぎょっとした。顔を上げれば、銀髪の隻眼に睨まれてる。

「このエリアに客室はないぞ。お前の部屋はもっと上だ」

深海の水圧を思わせる、有無を言わさぬキリコの雰囲気。攻めるべきが引くべきか。一瞬迷った隙にエレベーターに押し込まれ、俺はデッキタワーのてっぺんまで送られた。

翌朝、せめて飯くらい景色のいい所で食べようと、ビュッフェの最前列に飛び込んで、海側のテラス席をもぎ取った。

バリバリの和食派の俺には少し物足りないが、中華粥と油条にいくつか副菜を足した朝食は旨かった。デザートや果物も充実していて目を楽しませてくれる。だけど今朝は食べるのをやめといた。また今度のお楽しみって奴。クルーズはまだまだ続くのだ。

デッキに出れば真っ青な空に白い雲。さざめく波は朝日にきらめき、美しい。

パラソルの下に陣取り、船内新聞を広げる。別にこれから毎日あるらしいカルチャースクールやイベントに参加しようって気はないけど、どんな催しが予定されているのか知りたかった。なにせ久遠寺彰に会うためだけに、このクルージングに参加しているのだ。事前情報なんか集めてないし、クルーズの日程すら知らない。後先の事はひとまず置いておいて純粋な興味がむくむくと湧く。

今日は一日クルーズの予定。どこにも寄港せず、ひたすら広い海を往く。夜にはウェルカムパーティがメインホールで開かれる。他にはフラのステージがあったり、瞑想のコーチングがあったり、とにかくここが日常とかけ離れた特別な空間であることを感じさせる。

明日はバミューダに寄港するのか。バミューダトライアングルと呼ばれる一帯のイメージが強い土地だが、どんなところだろうか。原因不明のままいくつもの航空機や船舶を消失させてきた三角形の領域は、異次元のミステリアスな雰囲気が満ちる場所かな。空は曇って、雷なんか光っちゃって。

そこまで想像して急に萎えた。バカバカしい。小学生か。俺は自分の目で見たものは信じるが、非科学的なものは信じない。ただ青い血の異星人の存在だって、見たなら信じざるを得ないがね。

明日の日程が俄然気になったところで記事に目を落とすと、新聞の片隅に小さな訃報が乗っていた。

『当船のバンド「ピスタチオ・クイーン」のピアニスト、平野星満(ヒラノ・ショーマ)氏死亡。デッキから転落したものとみられる。事故の可能性』

ふうむ、と唸る。豪華客船の旅は長いものだと1年かけることだってある。旅の間に病や事故で亡くなる人間は当然いるだろう。平野何某には非常に不幸なことではあるが、もし「コンバーション」で急患が出たら儲けるチャンスかもな。金持ちが多そうだし。不謹慎な黒い思考が漏れていたのだろうか、俺のいるパラソルに入ってくる奴がいた。キリコだ。

クルーズの旅気分が一気にしぼむ。無言の抗議をするも、眼帯野郎には通じない。

「見せたいものがある。来てくれるか」

いつもの辛気臭い顔で、俺をエレベーターに載せ、昨晩と同じ階で降りた。鈴井って船医とぶつかったところだ。うす暗い廊下を進んでいくと、立派な医務室があり、キリコがそのドアをノックすると、中から鈴井が顔を出した。申し合わせたように二人とも無言で、俺を医務室の奥へ連れていく。

清潔なミントグリーンの壁の診察室を通り抜け、一番奥の部屋のカーテンを開けると、デスクの上に大きなバット。その中を覗き込んで、さっきまでの浮かれ気分が完全に消し飛んだ。

バットには、人間の腕が乗せられていた。

「この腕が見つかったのは、午前3時頃。整備士が見つけた」

腕は右腕。肩のあたりから指先までが残っている。

「ロープに絡まった状態で船尾から引きずられていたそうだ。腕以外の部分は魚に食われた可能性がある。歯形がいくつもついている」

腕の断面は海水につかっていたためか、魚にかじられたせいか、ふやけて襤褸切れのようだ。

「腕と同じロープに絡まっていたジャケットが、この船のピアニスト、平野氏のものだった事と平野氏が夕べから姿が見えない事を踏まえ、船長を中心にして捜査が行われた。捜査の結果、船はこの遺体が平野氏であると発表した」

腕には紫色の斑点がいくつも浮かんでいる。

「お前、この遺体をどう思う」

静けさが医務室を満たした。

「どうもこうも…薬班が出てる遺体だ。病人だったんだろうとしか言えない」

憶測は避けて、分かることだけを告げた。キリコは黙って目を閉じて、眉間に深い皺を作った。鈴井は額に手を当てて唸っている。

「俺は検死なんかしたこたァないから、冗談程度に聞いてくれりゃいい。例えば爪だ。平野って男はピアニストなんだろ。指先には気を遣うはずだ。だけど、どうしてこの腕の爪はこんなにぼろぼろに脆くなっているんだ。俺が診た中でこの爪に近いのは、病状が悪化して十分に栄養が取れなくなった患者の爪さ。海水に浸かっただけで、ここまで酷い状態になるものかね」

遺体の親指の爪が根元から割れているのを見て、不自然に思ったのだ。まだないかと腕を観察しだした俺を軽く制止して、キリコは鈴井と目で合図した。そしてキリコが語ったのは、昨日プールサイドで別れた後の出来事だった。

俺とプールサイドで話した車椅子の彼の名前はアレサンドロ。彼は指定難病にかかり、何年も闘病した末にキリコのもとを訪れた。キリコの診察を受けて契約を結んだ彼は、安楽死の条件に「海の上で旅立たせてほしい」と加え、自分が海に憧れていることを語った。その純粋な憧れを抱いて、アレサンドロはクルーズにやって来た。

青い空と広い海原に彼は大いに満足し、やってみたいと思ったことはなんでもやりたがった。キリコは彼の介助をしながら、船の中をまわり、希望をひとつひとつかなえていく。アレサンドロは自室のバルコニーに座り、今日が人生最良の日だと、落ちる夕陽をいつまでも眺めていたそうだ。

アレサンドロの容態が急変したのは20時ごろ。キリコが見守る中、彼は望み通り海の上で旅立った。

キリコは予め話を通してあった船医の鈴井に連絡を取り、船の遺体安置室へアレサンドロの亡骸が入ったボディバッグを運んだ。その時に俺とエレベーター前で鉢合わせたわけだ。医務室に戻ったキリコは鈴井の鼻を冷やし、鈴井はアレサンドロの死を合法なものであるという前提で書類を作る。そのまま静かに終わる案件だった。腕が見つかるまでは。

鈴井が太いフレームの黒ぶち眼鏡を直しながら口を開く。

「実は私たちは、この腕が平野氏のものではないと思っています。あなたがおっしゃる通り、この遺体には病人だという証拠が沢山ある。私は平野氏と親しく話したことはないけれど、少なくとも病人ではなかった。医務室に来たこともありませんでしたし」

じゃあ、誰の遺体だなんて、今更なのか。

「この腕は、俺の依頼人、アレサンドロのものだ。俺が記憶している薬班の位置が同じなんだよ。爪の形も、指の長さも。しかし、それらは俺の記憶以上の証拠にはならないんだ」

「おいおい、そんなもん、遺体安置室見ればすぐ分かるだろうが」

「もちろん遺体安置室はすぐに確認しました。遺体はありませんでしたよ。どこにもね」

「なんだよ、それ…死んだ人間が歩いたなんて言わないよな」

言うわけないだろうと鈴井は肩をすくめる。

「船長の藤村は私たちの見解を聞いてはくれました。ただここは海の上、寄港して十分な設備のある病院で調べないと、この腕がアレサンドロさんだと言い切れない」

「同時に平野でないとも言い切れないと?」

俺の問いかけに、鈴井は神妙に頷いた。

「じゃあ、平野って奴はどこに消えたんだよ?!あの腕が平野のものだって証明できる遺留物はジャケットしかないんだろ。それだけで海に落ちて死んだって決めるのは、厳しいんじゃないか」

「目撃情報があるんだ。平野が酷く酔っぱらった状態で、デッキの手すりに寄りかかっている姿を何人ものクルーが見ている。嘔吐していたのか海を覗き込む真似さえしていたそうだ」

キリコの眉間の皺が深くなる。目撃情報の多さと状況証拠の少なさ。どちらが勝つか密室状態の客船の中では、想像に難くなかった。俺まで表情が暗くなったのを察したのか、鈴井が焦った声で迫ってきた。

「貴方に来ていただいたのは、遺体の腕がアレサンドロさんだと確認したかったのが一つ。もうひとつはドクター・キリコの推薦があったからです」

「推薦だあ?!」

素っ頓狂な声を上げてしまった。キリコを睨みつけると、無表情の中の青い光とかち合い、思わず身動きが取れなくなった。鈴井は俺に訴える。

「あなたのお名前は聞いています。闇医者、ブラック・ジャック。荒事も得意な医者はそうそういません。私は嫌な予感がするのです。長い船医人生を送ってきましたが、これはきっと妙なことが起きる前触れです。何か起きたとき、頼りにしてますからね!」

定年退職を控えた鈴井の保身満々の悲鳴が医務室に響いた。

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