虹の彼方に(六)

キリジャバナー2

※2021/12/11改訂

いくつかの儀式を経て、俺は装束を身にまとう。

白木の案に載せられたのは俺が指定した衣服。

控えている教団の人間は内心穏やかではないだろうが、知らぬ顔をしている。何せここは奥の院の最深部。一握りの限られた者しか入れないこの神殿は、彼らにとって最上に神聖な場なのだから、取り乱すわけにはいかない。俺が着ている白い着物の襟に手をかけると皆が首を垂れて蹲る。

黒のスーツ、ジュラルミンのケース。

本来の姿を俺は取り戻す。

白い法被を着た連中は掟とやらで顔を上げることを許されない。きっと俺の黒い革靴が見えているだろうに。

南雲の案内で、神殿の更に奥へ続く白木の扉へ向かう。

清らかに整えられた祭壇の白い掛布を踏み、最上段に鎮座する鏡を押しやり、その向こうの扉へと手をかける。

開きかけた扉を影にして、下がろうとする南雲を捕まえ耳打ちした。

「逃げなさい。耕太に七枚目が生えたと知らせがあった。今のうちに逃げないと、あの子も助からない」

ここに来てずっと感情のない機械のように振る舞っていた彼女は、耕太の名を耳にしてみるみるうちに青ざめた。もう俺の存在は眼中にない。不安定な情緒をかき集めるように袴の裾を絡げ、南雲は長い廊下を必死に駆けていった。

それを見送る俺に、扉の向こうの人物が声をかける。

「意外と温情があるのじゃな」

ふ、と口角を歪めた。

「そのようなものではありません。ただのエゴイズムですよ。そのせいで何度も酷い目に遭いましたが、こういうものは耐えると自分に帰ってきますからね」

行先には漆黒の闇しかない扉をくぐる。

「我らを目にしても、同じことが言えるかのう」

「わかりました。初めて会う依頼人の方に失礼のないようにいたしますよ」

敢えて軽い口調にすると、くすくす笑う声が響く。

踏み入れた扉の先には、湿った洞窟が続いている。事前に指示された通り、内側から扉を閉め、外から開けられないように細工をした。どのくらい時間が稼げるかわからないが、これに関しては教団の掟とやらの拘束力の強さを願うばかりだ。

灯をつけることは禁止されたので手探りで進むしかない。しかしどう言う訳か前方がぼんやりと光っている。その他は足元すら見えない暗闇だというのに。

光が漏れる先から大師の声が響く。

「少し、昔話をしよう。そのまま聞け」

言葉の通り、洞窟の中を進みながら耳を傾けた。

「私はこの町に生まれ、虹蛇の資格を持って社に入った。しかしな、鱗が増えず滝から落とされた」

何のこともない様子で告げられたが、些か驚いた。彼女はあの歌垣を生き延びたのか。それだけではなく滝からも助かっただと?どうやって。

「滝の奥にな、洞窟があったのだ。信じられまい?なんとか命拾いはしたが、行きどまりの洞窟でな。いずれ命が尽きるのは必定であった。それでも生き延びようとする人の性根の浅ましさよ。私は岩に生えた苔を舐め、泥を啜った。しゃぶっていれば味がするかと石ころを口に入れたこともあったな。そんな日々が…どれだけ続いたか覚えておらぬ。朝か夕かもわからなくなっていた。やせ細り、動けなくなったころ、偶然天井が崩れてきおったのよ」

洞窟の角を曲がると、つきあたりに虹色の光が満ちている。

「私を救い出したのは、皮肉にもこの教団の者どもであった。小娘一人の顔を覚えておる者もおるまいて。私を見るなり、皆が地にこうべをつけて震えておった。そこで初めて自分の体を見たのよ」

虹色の全身を晒す大師が岩壁にもたれている。人の領域を超えた面立ちで、ふふ、と笑う。

「それが今の私じゃ。理屈は知らぬ。神の思し召しかどうかも知らぬ。この姿になった私は…」

そっと慈しむように、彼女は同じように虹色に輝く岩をなでた。

「ずっとカガシロ様のお世話を任されておる」

俺は、何を見ている?

大師がさわっている物体は何だ。

片目しかないから、正しく認知できないのだろうか。

混乱する頭を整理しようと、思わず下を向いてしまった。

「ふふふ、死神の化身もかたなしじゃのう」

大師の声に震えそうになったが、地面の妙なくぼみが視界に入って、気が逸れた。

これは、足跡か?しかも、革靴の。まさか。

「先程おもしろい男が来てな、こうのたまうのよ。『二人とも鱗を取る手術を受ける気はあるか』とな。『二人』と言うたのよ。一目見ただけのくせに。神は柱で数えるのだと教える気にもならなんだ」

ああ、来たのか。

「白と黒の苛烈な火花のような男であった。私が首を振ると、静かに目を閉じて行ってしまったよ」

大師はそれはおかしそうに笑った。同時にひどく寂しそうでもあった。

彼女の背後には崩れたような穴が空いている。

俺の胸中には激しい衝動が湧き上がっていた。これは不要なもの。ずっと昔に捨てたもの。だからあいつに対して憤る必要などない。俺がしてきたことは、何一つ間違っていない。

「お主も存外に暑苦しいのう」

「みっともない所をお見せしました。あれに関してはどうも」

「よいよい。カガシロ様も喜んでおられよう。最後に賑やかであったと」

気を取り直して、やっと会えた依頼人の前に立つ。

淡く発光する虹色の鱗が幾重にも重なり、岩のように結晶化した中、目を閉じて眠っている男の顔があった。

麓の湯治場に、賀名代温泉を根城にするヤクザ者が集まりだした。

それぞれの手になじんだ獲物を手にした者達、懐に忍ばせた飛び道具をいつだそうか機会をうかがっている者もいる。温泉街の組合長なども引っ張り出されていた。

一方カメラを持った地元の新聞記者も来ている。こちらはガラの悪い連中から遠く離れたところに陣取っていた。

観光客も野次馬根性丸出しで、デバイス片手に忙しくSNSの送信をしている。

彼らが見つめる先には、すり鉢状の湯治場の中心部に立つ本田の姿があった。一体何が始まろうというのか。固唾を飲んで見守る人々の視線を一身に受けて、本田の大演説が始まる。

「まず初めにッ!私のリュックサックの中には、TNTに勝るとも劣らぬ威力の爆薬が入っていると申し上げておきます!こちらのバラックにいる湯治客の方々は、私の人質になって貰いますッ!」

突拍子もない発言に観衆はざわめく。爆薬、人質。およそ耳にすることがない単語を理解しがたい様子でいる。そこまでして何をこの男は訴えたいのだろう。これから何をするのだろう。あるのかどうかも分からない爆薬に対する恐怖よりも好奇心が勝つ雰囲気が満ちる。

目を輝かせる観光客に苛立ち、バカにしているのかと若い鉄砲玉が本田を威圧する。

「ザッケンナコラー!」

ヤクザの声に動じる素振りも見せず、缶ジュースでも開けるかのように本田は爆薬と思しき小さなパックのつまみを捻り、思い切り遠くに放り投げた。時を移さず、炸裂音と共に炎が瞬間的に広がる。細く鋭い恐怖の声が、初めて周囲の人間から上がった。

「これはほんの些細な花火のようなものです。リュックサックの中身はこうはいきません!」

これが花火だというのなら、リュックサック本体はどうなるのだろう。

「ガスだ…温泉から出るガスに引火するんだ…」

ひきつった表情の商業組合長をヤクザの男が押さえつける。そんな話は聞いてないだの知らないだの言い合う連中をよそに、本田は拡声器でも持ってきたかと錯覚するほど大きな声で話し出す。湯治場のすり鉢状の地形が、スタジアムのような効果を生むのだ。

本田の語る内容は30年前まで遡る。

30年前、記録的な豪雨により、この地域は大きな水害に見舞われた。山が崩れ、多くの家や人が流され、田畑は使い物にならなくなった。しかしそれ以上に深刻だったのは、地元の経済を支えてきた賀名代温泉の湯量が激減してしまった状況だった。

皆が悲嘆にくれる中、ある宗教団体が訪れる。

白い蛇を祭神とする小さな講の人々は、ここで会ったのも何かの縁と、水害に遭った人々の復興支援を願い出る。幾許かの訝しむ気持ちはあれど、緊急事態故に人手が足りない。今だけと町の人々は教団の手を借りることにした。やがてその中で教団に入信する住民が現れ、町の混乱の中、教団は温泉街の神社に間借りをする形になった。

復興の目途が立ったころ、温泉街の町長が「助けてくれた礼がしたい。何かできることはないか」と裏口から伝えてきた。教団の幹部はなかなか良い返事をしなかったが、ついに欲しいものがあると口を開いた。「白い生き物」が欲しいというのである。なんだ、そんなものか。ペットでも飼い与えるような気軽さで、白色レグホンを一羽寄与した。しかし教団の幹部は違うと首を振る。「全部」白いものが良いと言うのだ。

首を傾げる町長は、丁度となりの畑で罠にかかった狸を思い出す。毛が真っ白で目が赤かった。ああいう奇妙なものがいいのかと、檻に入った狸を教団に渡した。その時の教団の喜びようは、表現のしようもないほどだったらしい。

教団は温泉のためにと、賀名代温泉の総湯の前で祈祷を行った。

間もなく温泉の湯量が戻る。

祈祷のおかげかもしれないと町の人々は感謝した。

ここまでは人の善意であり、偶然である。

だがこの後ぷつりと教団の姿は町から消える。神社の中に引きこもり、外部に出なくなった。

湯量が戻ったことで温泉も湯治場も復活し、客足も増加の一途。幸先が良いと見込んだ町長は温泉街の規模を広げることにした。いくつも新しい温泉宿ができ、飲食店も増えた。町全体が活気づいたと思っていた矢先である。客が離れだしたのだ。

慌てて調べると、温泉の泉質が著しく落ちている。普通の湯と大差ない、温泉とも呼べない代物。

町に閑古鳥が鳴いても、借金は無くならない。日々取り立てに来るヤクザ者に町長は怯えるしかなかった。不景気と治安の悪化。町全体を暗い雰囲気が覆っていた。

そんな暗雲をものともせず、再び白い蛇を祭る教団は賀名代温泉の総湯の前に祭壇を作り、大規模な祈祷を行う。このころにはすでに〈カガシロ様〉を祭っていたとされる。祭壇の上には犬くらいの大きさをした、くすんだ鱗のようなものが生えた木乃伊があった。

奇跡はもたらされる。

湯の色が変わったのだ。

神経痛に効くとされていた以前の泉質とは異なるが、皮膚病によくきくと評判になり、瞬く間に以前にもまして客が来るようになった。町の人間は諸手を上げて教団に入信していく。皮膚病に効く湯が沸いたのは、脱皮をして再生する蛇の神を祭っているからだと神話めいて語られた。この時、やはり教団は「白い生き物」を欲しがったと言う。

新しい湯で温泉街が賑わうようになって間もなく、町の人間に異変が起きる。

『虹色の鱗』が生える者が現れた。

この町では日常的に温泉の湯を使う。湯と鱗との因果関係に考えが及ぶはずもなく、病気か何かかと騒ぐうちに、鱗が生えた者は忽然と姿を消した。

当然、周囲の人間は必死に探す。しかし行方不明者を探していた男が町の川に浮かんでいた。驚く人々の前に教団の一行がやってくる。「主祭神カガシロ様のご意向」だと言うのだ。

教団曰く「鱗が生えるのは、カガシロ様に気に入られたからであり、光栄なこと」として、川に浮かんだ男は「カガシロ様の怒りに触れた」ため死んだのだと説いた。

教団に入信しているものは受け入れるしかない。反発したものは家にヤクザ者が押しかけ、半死半生の状態にまで追い詰められた。酷い者はやはり川に浮いた。見せしめである。それが続けば警察に知らせるものはいなくなった。地元の派出所に駐在する警官ですら教団の信者なのだから。そもそも証拠と呼べるものがないのだ。『虹色の鱗』の存在は実際に見た者にしか分からない。

『カガシロ様』は温泉の恵みを与えるが恐ろしい神でもあると、町の人間はその名を口にしなくなった。もし教団に逆らって、また温泉の湯がおかしくなれば、今度こそ町は終わりだ。

怯える町に教団から金がばらまかれる。金と言っても毎年買わされる高額な札を無料で配布すると言ったレベルのものだが、明らかに口止め料だ。ほとんどが教団の信者である町は、黙って『カガシロ様』を崇め、畏れた。

高度成長期のさなか、観光客の間で変な噂が立つのも芳しくないと、行政側の判断があったのも事実だ。

賀名代温泉の湯はこんこんと湧く。

また一人、また一人と町人に鱗が生える。生えた者が出た家は必死に隠そうとする。だが狭い町ではすぐに異変に気付かれる。教団に告発すれば、祝福と称した礼金が出た。町の人々は互いに監視し合い、探り合い、偽物の笑顔を貼り付けて一層隣近所との関係を密接にしていく。閉鎖的な息苦しいコミュニティ。

そのガス抜きのために作られたのが「かなしろ診療所」である。

教団側はもう鱗が増える者の条件を掴んでいた。『肌が白いこと』これに当てはまらない人間はいらない。わずかな数ではあるが湯治の客に鱗が生え始めたこともあり、町の人間を含め、かなしろ診療所で篩にかけるシステムを作った。条件に合わない湯治客には「よくあること」で済ませ、町の人間には「助かった」と安堵の気持ちを与えた。

ここから地獄へ落ちる人間もいる。

だが、誰一人目を向けることはない。

賀名代温泉の湯は今日も湧く。

湯治場としての知名度は鰻登り。

黙っていれば町は潤う。生活ができる。

それから10年がたち、温泉街近くの山道で故障した一台の車が発見される。

マツダ・コスモスポーツ。その助手席にはページをちぎった形跡のある地図が残されていた。

「私は!人を探しに来たんだッ」

本田は吠える。

「その車に乗っていたのは、私の友達だッ!私の、一番の、大切な友達なんだ!」

唯一この場にいない教団関係者を探すように、その場でぐるりと一周する。彼の腕に着けられたオメガの時計盤がチカリと光る。興奮した自分を冷ますように大きく深呼吸して、本田は良く通る声で告げた。

「カガシロ様なるものを祭る教団、彼らに友達の川崎良治君は攫われました。彼の開放を要求します。湯治客の皆さんには申し訳ないが、この要求が叶わない時は、ここを爆破します」

集まった人間には本田の意図が全く分からない。唐突すぎる。なぜ教団が川崎某を攫う必要があるというのか。そもそもどうして脅迫する場に湯治場を選んだのか。

「私は長い時間をかけて調べました。教団の本当の姿を知っています。だから川崎君が今も生きていると確信しているのです。『カガシロ様』は生きていることが必要不可欠ですから」

本田の眼鏡の奥が歪む。

「出て来いッ!カルト教団ども!さもなくば湯治場を爆破する!」

そこへ雷鳴の如く走る叫び。

「そいつは困るぜ。こっちが先約でい!」

湯治場の鉱物が覆う黄色い大地を真っすぐに突っ切って駆ける黒い影。

温泉街の者たちがどよめく。悲鳴を上げる者さえいる。

「おい!知ってるのか!あいつは何だ!?」

ヤクザ者に掴みかかられ、しどろもどろに商業組合会長は、その名前を口にする。

「ブラック・ジャック、モ…モグリの医者です!」

堆積した赤、黄色の粉塵を上げて、ブラック・ジャックは岩の上に立つ本田の前に到着した。

「誰だっ!邪魔をするのかっ!」

再び激高した本田は、リュックサックを開けようとする。しかし、あったはずの場所にない!

振り向くとリュックサックを持って走る少年の姿。そしてそれを追いかけて掴む青年。

「でかした、耕太!アイス買ってやるからな!」

「正気か君は!子どもに爆薬の詰まったリュックサックを盗ませるなんて!ああもう、私によこしなさい!」

「わはは、そのためのお前だ〈六枚〉。そっちは頼んだぞ」

どうせ爆薬なんか偽物だろうと踏んでいたBJの横で、次々と野太い野郎の声が慌てふためき交差する。湯治場の上部にいたヤクザが耕太からリュックサックを受け取り、中を検めたのだ。

「これガチなやつだ!」

「ヤバイヤバイヤバイって!!!どこのテロリストから買ったんだよ!」

あら?首を傾げるBJに四方八方から罵声が飛ぶ。

「もし爆発してたらどうすんだ!」

「しかもこんな小さい子に盗ませて!」

「アイスで済ますな!」

石でも投げられそうな勢いだ。

BJは土埃に汚れた黒いコートを翻して、負けじと声を張り上げる。

「うるっせえ!!爆弾が怖い奴は家に帰りやがれ!俺はそんなもんには用がねえんだよ。俺は治療をしに来た!」

何のことを言っているのか、先程からずっと置いてきぼりを食らっている観客たちには分からない。

理解している耕太と〈六枚〉は走り出している。

「患者はどこだ!!!」

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