虹の彼方に(二)

キリジャバナー2

※2021/12/4改訂

腹に衝撃を喰らって目が覚めた。

重たい頭を上げれば、耕太が布団の上に乗っかっている。

「もう8時だぞ!起きろ!」

やめろ。頭にキンキン響く。

「まだいいじゃねえか。いろいろあって眠いんだよ」

障子から透ける朝の光の中、もぞもぞと再び布団に潜り込もうとするのを耕太は許してくれない。掛け布団を剥ぎ取る暴挙。これだからガキは。

敷布団にあぐらをかいてあくびをすれば、耕太がまじまじと俺の体を観察しているのがわかった。ああ、寝巻きの浴衣がはだけて、昨日より傷が見えるからか。

「もう怖く無いのか?」

ぱりぱり胸元を掻きながら訊く。

「…怖くない」

「嘘つくなって」

「怖く無いったら!」

涙目になって強がるのが面白くて、がおーっと耕太のちびっこい体を捕まえて布団の上に転がった。再びギャン泣き。すまん。

法被を着た連中が詰める台所の隅で朝飯を頂戴して、耕太と一緒に庭へ出る。

庭っつっても神社の境内なんだが、とにかく規模がでかい。社の周辺の日本庭園から奥に行くと、がらりと周囲の印象が変わる。庭と境内の参道とを比較すると、作られた年代にかなりの誤差を感じるせいだろうか。樹齢数百年と言われてもおかしくない巨木がそびえる鎮守の森。その中を綺麗に敷かれた石畳の参道が白く続いている。どうも裏手の山まで神社の敷地は伸びているようだ。

浅葱色の羽織に白い着物で、耕太はぴょんぴょんと石畳を走る。まるで因幡の白兎。石畳は鰐で周りの苔は海だ。

俺は流石に血液がついたスーツを着続けるわけにはいかず、クリーニングを頼んで、今は紺の着流しにいつもの黒いコートを羽織っている。バンカラ学生みたいだな。兎とバンカラ。アンバランスにも程がある。

「この辺でいいかな」

耕太は辺りを見回すと、大きな木の影に俺を呼んだ。かくれんぼかよ。めんどくせえ。のろのろ向かい、木の梢に体をねじ込むと、耕太は俺の襟をつかんだ。

「お前、お医者さんなんだろ」

「おう」

「じゃあ、ぼくを助けろ」

何から助けるって言うんだ。釈然としない俺の前に、耕太は二の腕をさらけ出す。

真っ白な肌に、虹色の鱗。

「これを取って」

まごつきながら裾を捲って腿を見せる。そこにも鱗。

「もっとあるんだ」

着物を全部脱ぎだす勢いだったので止める。

「全部で五枚あるんだな。だからお前は〈五枚〉って呼ばれてる」

「うん…」

梢の陰の中で虹色が妖しく光る。

「どうして取るんだ。お前、その鱗のおかげで威張っていられるんだろう?」

「それは、そうだけど…」

さわさわと木々が揺れる。その音にかき消されるくらいの小さな声が、耕太の口から漏れた。

「…お母さんに会いたい……」

小林に聞いた母子が耕太に重なった瞬間だった。

そもそも俺をこの社に引き摺り込んだのは、俺が医者だと知っての行動だったと言う。

小林の蘇生を行なっていたことが、あっという間に旅館に伝わったように、この社にも知らせが入っていたのだ。ましてや俺の顔は特徴があって覚えやすい。

道理で神社にいた俺を耕太はすぐに見つけた訳だ。血の臭いだなんだと分かりにくいが、小さな頭がよく回るものだと舌を巻いた。

「お母さんは違うところにいるって皆言うんだ。でもぼくは〈五枚〉だから会いに行っちゃダメだって。だからね、鱗がなくなれば、お母さんに会えると思うんだ」

興奮気味に話す耕太。俺は返事ができない。

「よく見せてくれるか」

耕太の母親のことはひとまず置いて、差し出された細い腕に生える鱗をじっくりと診察する。鱗、鱗ね。魚鱗癬の子どもは以前診たことがあるが、それとは違う。この鱗は独立している。大きさは大人の親指くらい。縦に長い菱形の薄い膜のようだ。しかし膜と呼ぶには固すぎる。薄いプラスチックのような感触だ。

「触ると痛いか?」

「表面は痛く無いよ。でも端っこは痛い。何度も鱗を剥がそうとしたけど、血が出ちゃうくらい痛いんだ」

「なるほど」

鱗と周りの皮膚はぴったりと癒着していて、そうだな、爪の構造によく似ている。生爪剥がすとなりゃ拷問に使われるくらいだ。痛かろう。

治療はやはり切除しかないな。できれば人工皮膚が欲しい。手術ができそうな場所はあの診療所しか無さそうだが、人工皮膚の調達はどうしたものか。きちんとした病院で提供してもらうのが最適解だろうが、今の状況では…

「病院で手術すれば、鱗は取れそうだぞ。だが、耕太、お前はここから出られるのか?」

社で我儘が通るくらいに厚遇されている身だ。簡単に解放されることはないと思われた。

「わからない。後藤に聞いてみる」

「やめとけ。そんなことしたら、あのオッサン今度こそ、えーと『高いところ』にお前を連れて行くんじゃないかね。つーか、なんだよ『高いところ』ってのは」

「悪いことしたやつが行くところだって。少ないやつや、もう増えないやつも行くんだ」

ますますわからん。

「〈五枚〉様〜、お清めの時間でございますよ〜」

遠くから耕太を呼ぶ声がする。

「ぼく、行かなくちゃ」

慌てて振り返る耕太に釘を刺す。

「俺と鱗の話をしたことは黙っとけ。それはきっと取れる。他の奴が知ると、お前を一番に手術してやれなくなるかもしれんぞ」

一番。ガキには分かりやすい言葉だ。耕太は強く頷くと、声の方へ駆けて行った。

今見た虹色の鱗。構造は分かったが、どうしてあんな色をしているのだろう。タマムシのような色合いではなかった。オパールのように入り混じった色でもない。透明度の高いグラデーションを作っていた。キリコにもアレが生えているのだろうか。

昨夜のことを思い出してしまい、吐き気がした。会いたくない。

あああ、くそったれ。耕太が行っちまったから、俺はこれからあいつの傷を診るために、あの東の角部屋へ行かなくてはならない。女を抱いたあいつの体に触るのか。手袋三重にしても気持ち悪い。無理。

適当に庭をうろついていれば時間が潰れるかと思ったのに、早速後藤に捕まった。やっぱ俺もガキじゃなくなったって事だねえ。耕太みたいなガキが隠れるところって、絶対に大人には見つからないんだ。そーゆーもんなんだ。

俺は一言も喋らないままキリコの傷を診た。

背中を一閃。薄皮一枚。これは背広のお陰で命拾いしたな。あの後藤ってオッサン、カタギじゃねえ。しかしだ、こんな傷、縫うまでもない。実際皮膚が再生してる。体を動かすときに少しは違和感があるだろうが、痛みに鈍いこいつのことだ。問題はない。大体女とヨロシクやれる身だ。前後運動しても痛くねえってことだろ。

「昨日はあんなに喚いたのに、今日はだんまりか。相変わらず気分屋だな」

うるせえ。ちゃっちゃと診察道具を片付けて部屋を出る。背中越しにあいつの笑い声が聞こえて無茶苦茶腹が立った。

部屋を変えてくれという俺の訴えは届くはずもなく、せめてと襖の隙間を覆うようにシーツを張った。夜がふけ、やっぱりキリコの部屋に誰かが来た気配がした。きっとあの女だろう。昨日と同じように五感を遮断して布団に蹲ることしかできないのが、心底情けなかった。

ああ、診察の時あいつに鱗が生えているか確かめればよかったと、気がついたのが昼過ぎだった。

耕太と適当に遊び、さりげなく「お前の部屋に泊めてくんない?」と頼んだが、絶対に嫌だと拒絶された。解せぬ。さてはお前オネショするな、なんて言っちまったから耕太はカンカンに怒って、三度ギャン泣きした。すまん。図星だったか。

まあ、こんな小さいうちに母親とはぐれて、よく分からん鱗まで生えて、胡散臭い連中に囲まれて…ちったあ泣いたり喚いたりしてえよなあ。しょうがねえ、もう少し遊んでやるか。台所からくすねた饅頭を手に、庭石の影でいじけている耕太のもとへ向かった。

そうこうしていると『お清め』の呼び声がかかる。

「お清めって何するんだ」

「一日二回、お参りして温泉に入るんだよ」

「それだけか」

「うん」

耕太は走り去っていく。

残された俺は湿った苔の上を避け、庭石に尻をひっかける。

『お清め』って何だ?神社だから宗教施設なのはわかるが、ここにいる人間の数といい、妙にカルトな雰囲気を感じるのは俺だけか?

俺は非科学的なものは信じない。だったら科学的に調べるべきだ。

『お清め』と言うなら、きっと肩辺りまで浸かって、しばらくそのままでいるのだろう。湯に素肌全体を浸すわけだよな。鱗との関連性、調べてみる価値はありそうだ。

そうなると温泉の成分が知りたい。ここの連中に「源泉の成分分析結果を教えてくれ」と馬鹿正直に頼んで通るとも思わないので、耕太にお清めの時に体を拭いたタオルが欲しいと頼んだ。変な顔をされたが、ビチョビチョの手ぬぐいを持ってきてくれたので、やっぱこいつは賢いと感心した。

さりとて俺も専門家ってわけじゃない。簡単なことしか調べられんが、まずは色や匂いからやってみよう。

耕太の手ぬぐいをギュッと絞れば、桶にぱたぱたと水溜りができた。これを桶と同じく台所からくすねたガラスのコップに取り、匂いを嗅ぐ。硫黄の臭いだ。光に透かせば白、黄、茶、赤と実に様々な色の粒子が浮いている。温泉には酸化鉄やカルシウムの結晶が混ざることがあるというが、今の俺にはこれらがどんな金属なのか分からない。ただ多くの成分が含まれる温泉とだけ言えるだろう。舐めてみると塩がきつい。

なんだか温泉として体に良さそうなもの盛りだくさんって具合がしてきた。炭酸泉なら満貫だぜ。

「温泉に入ると、シュワーってするよ」

耕太の証言により満貫確定。点棒振るの忘れた。

最強温泉説を唱えた俺はアホらしくなって、キリコの部屋へ行くのを放棄した。あんなもん、もう怪我じゃねえ。

夕暮れの空に雁が飛ぶ。

さすがに肌寒くなって社の中に入ろうとした時、庭の隅の長椅子に人影を見た。キリコと黒髪の美人だった。相変わらず手を取り合って、仲のいいことで。

もう我慢ならん。

帰ろう。

クリーニングから帰ってきたスーツを着て、夜闇に乗じて法被どもの目をかい潜り、脱出成功!…とまあ、簡単にはいかんよな。神社の鳥居を出たときには、俺はすっかり囲まれていたのだった。

「スッゾコラー!」

「ザッケンナコラー!」

あー、そうそう。温泉街にはヤのつく自由業の皆様も付き物でした。ああもう面白くねえ。どいつもこいつも人の邪魔ばっかしやがって。フラストレーションを発散すべくヤの皆様とスポーツを楽しんだ。

「うるっせえ!うさんくせえ連中ばっか集めやがって!」

「スッゾコラー!」

「ガキの相手面白いぞ!くそったれ!」

「ザッケンナコラー!」

「夜くらい普通に寝かせろ!ボケーッ!」

俺の叫びが夜空にこだまする。

しかしながら如何せん多勢に無勢。結局しこたま殴られて、俺は社の前に転がされた。

「後藤、野良猫一匹も見られんのか。きちんと首に縄をかけておけ」

クロコダイルの革靴が俺のこめかみを踏みつける。顎関節がみしみし。後藤は黙って角刈り頭を下げたままだ。言い訳しないのが昔気質って雰囲気だな。ヤクザ者が引き上げた後、後藤からも一発食らった。

「おお、随分と男前になっちゃって」

へらっと言い放ったキリコに殴りかかる俺を、法被のとびきりガタイの良い奴が羽交い絞めにする。

「ざっけんな、殺すぞ!!!!!!!!!!」

喚く口におしぼりをねじ込まれる。せめてビニール取ってくれんかな。鼻呼吸まで止まる。

後藤が静かにキリコへ語りかける。

「あなたはこう言った。あなたの責任下で、この男を保護すると」

「言ったね」

「この男は社から逃げ出そうとしました。この責任をあなたに負って頂かなくてはなりません」

「そうなるか」

キリコは腕を組んで宙を見つめた。

俺からは背中しか見えないが、後藤はヤのつく人独特の重たい空気を出していた。こいつは指を詰めろとでもいいそうだ。

「じゃあ、俺が結果を出せば、その野良猫もどきを解放してくれるかな」

キリコはやおら白い着物の襟を開き、上半身をあらわにして右肩の当たりを指さした。

「八枚目だ」

後藤が駆け寄る。

何度も触って確認している。心なしか興奮しているようだ。

「ああ…本物だ…なんて、なんて素晴らしい…」

俺が殴られるのを眉ひとつ動かさずに見ていた男が震えている。

「どう?」

後藤はキリコの前に恭しく平服した。

「仰せの通りに。〈八枚〉様」

俺の処遇をどうするかはひとまず先送りとなった。もうテッペンすぎてるもんな。とりあえずってことで〈八枚〉様に昇格したキリコと後藤の前で、俺は言上げさせられた。

「勝手に外へ出ません。誰にも言いません」

それでもまだしかめっ面の後藤の前で、キリコは俺の腫れあがった頬をつつく。

「いっっってえ!」

「こいつの顔、ちょっと冷やして消毒してやろうかな。ついでに痛み止めも飲ませておくか。眠くなるタイプの薬だから、朝までぐっすりだ。俺の部屋にコイツの布団持ってきてくれるかい」

困惑する後藤。

「大丈夫。後藤さん、俺も医者の端くれだ」

きっっっっっっざ!この言葉がこんなに気障に聞こえたためしがない。てめえのどこが医者だって言うんだよ!もとよりヒトゴロシのくせに、ここでカルト連中に崇められて美女とヨロシクやって、医者らしいこと一ミリもしてねえじゃねーかよ!

…この心の声を漏らしてしまうほど俺は愚かではない。キリコがじっとりと見つめているが、何のことやら。

後藤は俺を座敷牢に入れたいそうだ。ちょっと待て、ココそんなもんあるの?

今夜はキリコの部屋の前に見張りを置くことで、なんとか折り合いをつけた。後藤たちが去った後、キリコは救急箱を開ける。

「こっち向いて」

嫌だ。

「まだだんまりか。いいけどね」

頬に押し付けられた脱脂綿から消毒液がしたたり落ちる。

「い…っ」

ちくしょう。わざとやってるな。しみて痛えじゃねえかよ。睨みつけようと振り向けば、キリコの隻眼に捕まった。

アイスブルー。近付いてくる。

キスされた。

え?

え?

ちょっと待て、ちょっと待て!今そんな雰囲気じゃなかったよな!

大混乱をきたした俺をキリコは畳の上に組み敷いた。

「なめやがって、この野郎!退きやがれ!」

喚いてもがくも、こちとらさっきの運動の疲れが溜まってる。キリコの体はびくともしない。

「やっと喋ったと思えば、口のきき方がなってない」

また傷に消毒液を押し付けられる。新手のいじめか?治療してるんだか加害してるんだか、訳が分からねえ。

「いってえな!やめろ!」

「ほら、まだ吠える」

キスでふさがれる唇。殴られて切れた唇の端をキリコの舌が舐めていく。途端にかあっと体が熱を持つのが分かった。

「くそ、やめろ…さわるな…っ」

女に触れた手で俺に触るな。同じように俺を抱くな。

怒りが頂点を超え、全力でキリコの下から逃げ出そうともがいた。

畳を引っ掻き、床を蹴った。唸って、叫んだ。

だからきっと廊下の見張りが慌てて中に入ろうとしたんだと思う。キリコが俺にキスをするのと、見張りが障子を開けるタイミングが重なるなんて、最悪だ。

「大丈夫。教え込むから」

すました声で見張りを追い払うあいつが憎い。見せつけたくせに。

今夜は最悪だ。ガワは殴られてボコボコだし、ナカは踏みにじられてボロボロだ。

結局俺は睡眠薬を飲まされ、体の自由を失った。

「な、なあ…お前の名前、ジョージンって言うのか…?」

耕太から聞かれて、初めて自殺を考えた。

返事をする暇もなく、どこからか法被の女が飛んできて、耕太を連れて行ってしまった。

最悪…………

「殺す!!!!!!!!!!!!」

東の角部屋で吠える。

「ハイハイ。まあお座りよ。説明してやろう」

キリコは噛んでいたガムを吐き出して、俺を手招きした。萌黄色の羽織から、手品のように最中が出る。俺は耕太と一緒か。しかし食う。

「あのな、昨夜の状況のままだと、お前は今頃間違いなく後藤の思う通りの処置になっていた」

「座敷牢か。社の人間全員からイロモノ扱いされるよりはマシだ!」

「その辺は俺も同じだ。痛み分けといこうぜ」

全く違う。〈八枚〉様に昇格したこいつは、女も男も食う絶対強者として君臨している。ワリを食ったのは、ヤクザにボコられて仕置きにオカマ掘られたって構図の俺だけだ。

もっと考えろよとキリコは肘をつく。

「座敷牢って、どんなところか知ってるか?まさかお泊りできる鍵付きの和室とでも思ってないよな。ヤクザ者が絡んでるって分かった今なら、もう少し想像力働かせてもいいと思うんだがなあ」

「……把握した」

サンドバッグになるのも、便所になるのも、ウナギに目玉を食われるのも嫌だ。だからって恩を売ろうとするなら願い下げだ。青筋を立てた俺にキリコは死刑宣告をした。

「お前、今日からこの部屋で生活しなさい」

「はああ?!」

最中の粉が飛び散った。キリコは机の上の粉を掌で集めながら続ける。

「俺がお前の首輪になる。後藤の話じゃ、一番求めている条件はお前の行動を制限し、把握することらしいし。なら、俺がその役目をしようかなと…おっと」

俺の拳は空を切った。ついに俺はコートまで奪われたのだ。メスが欲しい。

「全く、血の気が多い奴だな」

「誰にも指図される覚えはねえ。俺は自分で動く」

うんうんと適当に頷いて、キリコは俺の顔の傍まで来た。うわ、またキスするのかよ!そうやって物理的に口封じするの卑怯だぞ!

反射的に目を瞑ったのだが、唇には一向に感触がない。そろそろと目を開けると、笑いを必死にこらえているキリコとかち合った。

「てっめ…」

叫ぼうとしたら、今度こそキスされた。しつっこいくらいに濃厚な奴をかまされて、俺は青息吐息。そのままキリコは俺と額をくっつけて悪戯気にささやいた。

「この距離なら、監視に聞こえない」

手付かずの膳を前に、後藤は静かな視線をよこす。

「食べ物を粗末にするのは、感心致しません。意地を張るのも大概になさい」

俺は黙って窓の外を睨む。今日は水しか飲んでない。夕食を終えたキリコがおっとりと箸を置く。

「私が食べさせよう。口移しなら、食べる?」

宙を舞う膳。汁物がキリコの着物の裾を濡らす。

「ふざけんな!バカにするのもいい加減にしやがれ!」

キリコは振り上げた俺の腕を掴む。

「後藤さん、悪いけど外して。まだ分かってないみたいだから」

「さわるなあっ!」

羽交い絞めにされる俺を軽く睨んで後藤は部屋を出ていく。障子が閉まって数分間、俺はバタバタ音を立てて暴れた。

「……行ったか?」

「行った」

「…こんな感じでいいのかよ。芝居臭くねえ?」

お前はいつもこんな感じ。そう言われて、もう一度本気で暴れたくなった。

「まだまだ後藤はお前を警戒しているからな。逃げ出す気がないアピールをするなら、この猿芝居を定期的に上演して、徐々に牙を折られていく演出をしないとね」

「いきなりお前にデレてると、明らかに怪しいもんな。つーか、そんなの芝居でもできんわ。きも」

「確かにデレたお前は激レアだ」

真面目な顔をして言うから、畳に転がった芋を投げつける。芋をキャッチして、そのまま口に入れるキリコ。やめろ、床に落ちたもん食うんじゃねえ。

「やっぱり食べ物をダメにするのは気が引けるわ」

お前は後藤と一緒かと言いかけて、障子の向こうに人が来る気配を察知。大急ぎで着物の襟を乱した。いかにも乱暴されましたみたいな横座りの姿勢をとり、適当に転がっていたものを口に入れてもぐもぐしておいた。

法被を着た女たちが、散らかった膳を片付けていく。ちらちらと俺を見て、頬を染める奴。露骨に俺とキリコを見比べる奴もいる。キリコはいつの間にか広縁にいて、茶をすすっている。

これってあれだよなあ。悪代官に手籠めにされる村娘…

布団は当たり前のように二組並び、俺は呆然とする。

だって俺は見たのだ。この部屋に女がいるのを。今夜だって来るかもしれない。キリコがデリしてるなら。

ダメだ。無理。

出口の障子目がけてよろける俺。情けねえ。

「どこ行くんだ」

キリコは俺の腕を掴む。俺はそれを振り払う。

「女呼ぶんなら、俺は外で寝る」

ああ、と思い出したように間抜けな顔をした後、口をへの字に曲げて黙ってしまった。

そら見ろ。やましいことあるんじゃねえか。いや…?そもそもやましいもやましくないもあったことあるか?めんどくさ。こいつが誰と寝ようが関係ねー。ただそんな体で俺に触れるのが我慢できないって話だ。第三者の体液媒介されるなんて頭がおかしくなる。急にキリコにキスされた唇がむず痒くなってきた。洗面所に直行して、ひたすらうがい。

「お前は本当に分かりやすいな」

無視無視。

「彼女はもう来ないよ。大師様が帰ってくるらしいから」

そーですか。そーですか。

ふう、とため息が落ちてきて、俺の体は洗面台とキリコにはさまれた。

「あのね、お前と俺と、持っている情報量が違いすぎるんだよ。それをすり合わせるのに今の状況があるんだから、有効に使えよ」

物わかりの悪いガキに言い聞かせるようだったのが癇に障った。

「そーですね。〈八枚〉様に失礼なことをいたしました。あなた様がどんな女と逢瀬をしようとも、俺様には一切かかわりのないことで」

「だから、きちんと話すから聞けって」

キリコの脇をするりと抜ける。通せんぼするから部屋に戻ってやった。肩を掴もうとするから、体をねじって逃げる。さわるな。割とマジで今のお前のこと黴菌扱いしてるからな、俺。つんとそっぽを向こうとして、ふわっと体が浮いたのが分かった。

「体格差で物理的解決を図るのは、ひじょーにひきょーだ!下ろせよ!」

「話聞くなら下ろしてやる」

戦場で鍛えた腕力は未だ健在らしく、キリコは俺を抱きあげている。人種の違いはあれど、貧弱な自分を見せつけられるようで、更に腹が立った。貧弱なのは俺の心だ。認めたくなくて暴れた。一応体は成人男性のソレなので、暴れた効果はあったみたい。キリコの腕が緩んだ隙に布団の上に飛び降りた。あいつは顎を押さえている。ざまあみろ。

「…俺は情報を優先したいが、お前は感情を一番にもってくるわけか」

だから!そういうところに!腹が立つんだ!

枕を引っ掴んで投げた。キリコが避けたので、枕は障子をぶち抜いた。避けんな!もう一個投げる。障子に大穴。黙って穴を見つめるキリコは、なんだか楽しそうだった。少し、冷汗が出た。

大きな体に圧し掛かられる頃には、俺の声は枯れ始めていた。これ以上ないってくらいの悪口を並べた。日本語だけじゃなくて、英語、スペイン語、スワヒリ語。キリコは全部黙って笑って聞いてた。息が切れた俺の上でキリコが言う。

「どこまで見たの」

「…黒髪の女の手を取って、女がお前の肩に寄りかかって…そのまま明かりが消えて…」

しばしの沈黙の後、キリコは初めて見るくらい真面目な顔をした。

「俺がその女と寝てないって言ったら信じる?」

信じられるわけねえだろ。だけどそれと同じくらい、キリコと女が寝たって言える材料を持っていないことに気が付いた。耳まで塞いでいたんだから。これマズイ奴か?ずびっと鼻をすする。

「彼女と寝てないよ」

「信じられるか」

「かわいい妬き方するね。お前って」

妬いてなんかない。何の話だ。わけわからん。

「それで、何が言いたいの」

銀のカーテンが降ってくる。隠せ。隠してしまえよ。俺の泣き顔なんか。

「他の人間抱いた手で、俺にさわるな…ッ」

キリコの額が当たる。

「おでこもダメかい」

「ダメだ」

「困ったな。今はお前にさわりたいんだけど」

「ダメ」

「傷つくなあ。俺は潔白だってのに」

お前が傷つくもんか。超合金チタンのハートに五寸釘打ち付けまくった心臓持ってるくせに。

「お前なんか大嫌いだ」

キリコが俺を見つめている。いつにもないくらい熱っぽい視線。

あいつの腕が俺の体に伸びて、脚が絡んでいく。

「大嫌い」

「知ってる」

こんなときに、こんなところでする気なんかなかったのに。

熱い吐息が部屋を満たす。

あいつが入ってきた瞬間、どうしてだか極まってしまった。

それからはもうぐずぐず。

「…っく、イク、キリコ…ッ」

「いいよ。イって」

「あっ、あっ…」

「声出して。聞きたいから」

耳元で囁かれたとき、あいつの声も震えていた。あっという間に駆け上がる快感。

腹に散る白いしぶきをそのままに、キリコはもっと奥を求める。

やめてほしい。やめないで。ぐるぐると回る思考のまま、キリコの潰れてない方の目を見た。そのまま深くくちづけられる。奥を穿たれて、熱い舌で溶かされて、何度絶頂を味わっただろう。

キリコの背中に爪を立てる。着物の生地を引っ掻くだけ。構わず腕を回して力任せに抱きついた。

ガワなんてどうでもいい。コイツの真ん中を飲み込んでるのは俺だ。俺なんだよ!

「アッ!ああっ!また…っ!」

「ああ…すご…」

イッてる最中にごりごりと奥を擦るから。

「ダメ、やめ、ろ!…っア、止まらなく、なるぅッ」

泣きたい気持ちになって、しがみつく。応えるように抱きしめ返される。

「……どうしよ…と、まんねえ…ずっと、ずっと…っ」

「ん、ずっと、だな…わかるよ…」

「キリコ、奥っ、おくっ」

「…信じないかも、知れないけど、」

「く…あ、あうっ」

「お前を知っちゃったから、戻れる気、しないんだよね…」

「も、戻る、って……どこ、に…?んぅ」

「さあ、どうでもいいよ。戻る気も、ない、…し」

「うあ、あっ!そこだめ、だめっ!あああッ」

「…いい…な…ッ」

止まらない嵐のような感覚が、キリコの一刺しで登りつめ、やがてゆっくり静まっていく。

銀の髪を引っ掴んで、睡魔の渦へ真っ逆さま。

昨夜の痴態は「キリコに従わされつつある俺」を演出するのに効果的だったらしい。後藤がちょっとだけ優しかったから、庭に出るのを許された。もちろん後ろに見張りの法被は控えてるけどさ。この前俺を羽交い絞めにした奴と同じだから、もう名前覚えちまったよ、ガタイのいい岡本君。ああ、息抜きって大事。

池の鯉を眺めて今朝のキリコの話を思い出していた。

「あの女性は耕太の母親だ。耕太には言うなよ」

布団の中でひっそりと告げられる。

「あの女優並みの見た目だろ。それに耕太を助けようと相当暴れたらしくて、俺に会ったのは散々男衆に嬲られた後だった。そのせいで精神的に不安定になってて、喉まで潰されてる。彼女は今、声が出ない。話せないんだ」

同じ社にいながら、耕太が母親に会えないわけが分かった。

「情けをかけたとは言わないが、俺の知らない情報を彼女は持っていたからね。それを知りたくて、夜伽と称して毎晩呼んでいたのさ」

「話せない女と、どうやってやりとりするんだよ」

「こうするの」

俺の手のひらにキリコは指でいくつも線を描いた。ん…指でなぞられた跡を頭の中でたどると…

〈昨日のお前はエロかった〉だと!目を剥いて引っ掻こうとする俺を容易く腕の中にしまって、キリコはくすくす笑う。

「な?すぐに知りたいことが分かるだろ?お前も俺に教えてよ」

「…まだスッキリしねえ。結局同じ布団で寝てたってことだろ」

「お前なかなか独占欲が強いな。知らなかったぞ」

「昨日散々言ったろ!気持ち悪いんだよ!」

むくれる俺の頬をキリコの低い声が撫でる。

「彼女がゆっくり眠れるのはこの部屋しかなかった。いつも布団に倒れ込むようにして寝ていたよ。布団は彼女が使って、俺は広縁で毛布をかぶってた。信じてくれるといいんだけど」

そのままキリコは俺の唇を奪った。また脈絡もなくと憤る間に流されてしまう。俺、チョロすぎないか?それにしても朝イチから濃いキスは堪える。思考を奪われ、小さな電流が身体を巡る。キリコの背に腕を伸ばした時、障子の向こうから声がした。

「〈八枚〉様、お清めの時間でございます」

素早くキスを切り上げて、キリコは体を起こす。

「今行くよ」

大穴が開いた障子からは、中の様子が丸見えだろう。こいつ、また見せつけるためにやったな。意地悪く口角を上げたキリコは俺の頭をわしわしと撫で、乱れた浴衣を適当に整えると部屋から出て行った。

その後、布団を上げに来た女に汚れたシーツを見られるのが、心底嫌だった。どんな罰ゲームだよ。広縁で新聞を読むふりをしながら、気が気じゃなかった。

そこからちょろっと朝飯食って、庭で束の間の独り遊びってわけだ。

ポチャンと池に石を投げ込めば「おやめ下さい」と後ろから岡本君に注意される。ちぇっ、耕太と遊んでた方が一万倍良かった。

ぼんやりしてたら後ろが騒がしい。

「お帰りだ」

「おお、間違いない」

社の中からどんどん人が出てくる。みんな一様に満面の笑顔。手を振る奴もいる。

何か来るのかと振り向けば、裏山の方から神輿のようなものを担いだ一団がやってくる。

神輿と言っても几帳を四方に張ったような作りだ。五色の領巾がたなびいて、錫杖が光る。

担ぎ手が歌う独特の節がある掛け声が、神輿から聞こえてくる。

社の連中も同じ歌を声を合わせて歌い出す。十重二十重の喜びの歌。

俺だけを取り残した非現実的な空間ができあがり、その中をゆったりとなめらかに神輿は進む。

やがて一団は社の前に到着した。

社の連中とは違う真っ白な法被を着た男達が、仰々しく几帳を外す。大きな歓声が上がった。

現れたのは見事な錦の打掛を来た女。幾人もの御付きと思しき男女を引き連れている。異様なのは女が冠を被っていること。冠というのが適当かは分からないが、言ってみれば行灯に似ている構造だ。四角い枠を頭上に戴いて、その枠から長くて白い布が垂れ下がり、顔も髪も全て隠している。よく見りゃ手足も全く露出していない。

後藤が出てきて、地面に頭が着くほど蹲った。それに合わせて周りの連中も同じように平伏した。俺もガタイのいい岡本君に頭を押さえつけられた。

「お帰りなさいませ。大師様」

「お帰りなさいませ」

後藤を始めとした斉唱に、大師様とやらは鷹揚に頷いた。

「〈六枚〉様も〈四枚〉様もご無事のご帰還、安堵いたしておりまする」

錦の打掛の後ろにひと組の男女が立っている。こいつら二人ともアルビノだ!

「耕太は元気…?」

「はい。日々お清めに励んでおられます」

殆ど白に近いグレーの髪の優男が〈六枚〉、耕太の名前を聞いて露骨に顔を顰めた金髪の女が〈四枚〉。あいつらが後藤が言っていた他のコーダってわけか。鱗が生えた奴がこんなにいるのかよ。

広い庭に後藤の声が冴え渡る。

「喜ばしきことを先ず奏上いたします。〈七枚〉様が〈八枚〉様に御転身なさいました」

どよめく一行。

「良き哉」

大師様の声は壮齢の女のようだった。恐縮してますます縮こまる面々の中で、俺だけぽつんと顔を上げている状況になった。変なものを見るようなコーダの連中と目が合っちまった。いけねえ。

大師様とやらは椅子型の輿に乗り換えて、社の中に入っていく。続けてぞろぞろ引き上げる人の波に紛れてトンズラしようかとも思ったが、耕太と虹色の鱗が頭をよぎり、のろのろと一緒に引き上げた。

大師某と会うのは初めてだが、いきなり着物を剥がれるとは思わなかったな。

もう少し丁寧にして欲しかった。

明るい日がさす広間の真ん中で、俺は全裸で立たされていた。

大師と呼ばれる打掛の女は無遠慮に俺の体を扇で指して、鱗を確認している。

昨晩着物を脱がなかった俺、グッジョブ。背中に引っ掻き傷作ってたら、格好がつかない所だった。

「確かに八枚。真物である」

「ははっ」

時代劇のように答える白い法被の男たち。後藤はここには居ない。教団の幹部連中からは下に見られているということか。ヤクザに頼りながら、ヤクザを見下す。強かだ。

「この短期間で〈八枚〉になられるとは、素晴らしいお体でございますな」

「さすがは肌も髪も白に近いお方」

全裸で男どもに笑われるのは、少し不快だな。仕事柄培ったポーカーフェイスは崩さないけれど。

ぱちん、と扇が鳴ると、男たちは口をつぐんだ。

「白に近いほどカガシロ様に寵愛を受けるのだ。解っておろう。この者は、きっと更に虹蛇に近付く。〈十〉になったら奥の院に連れて行く。丁重に扱え」

男たちが一層畏まり、俺は退出を許された。

いろいろと重要そうなワードを聞いたが、残念ながら俺は日本の信仰に明るくない。BJも詳しく無さそうだけど、俺よりは知っているはずだ。今夜のうちに聞きたいが、その前に猿芝居打ったりBJの機嫌とったり、手間がかかるのが問題だ。

まだまだ依頼人には会えそうにないが、ひとつ前進した。そう思うことにしよう。

こんなことなら先にBJに全身を見せておくべきだったかもな。先に誰に見せたとか後で説明するの面倒だなとか思いつつ、秋の陽が差す廊下に出ると、何やら揉めている。またBJかと冷や汗が出る。覗きに行こう。

「あのですね!ワタシはこの温泉で体を治したんですよ!それで温泉に祀られておられる神様のおかげだと、信仰に胸を打たれた者でしてね!」

大きなリュックを背負った中年男性が社の入り口で喚いている。中肉中背、団子鼻に丸眼鏡。饅頭みたいな顔の男だな。

「ぜひともここのお社で、修行に励み!カガシロ様の御為にこの身を捧げたく思いましてね!」

入信希望者ね。ここに滞在する間に何人か見た。こんなに元気のいいのは初めてかなあ。饅頭があんまり勢いよく入り口に募るので、法被の男に突き飛ばされてしまう。地面に尻餅をついた饅頭のリュックから本が飛び出した。

遠くてよく見えなかったが、確かに『日本』『信仰』の二言が見えた。こいつは知識を持つ者かも知れない。

「どいてくれるかな。その人と話がしてみたい」

ウォール・オブ・デス直前のようにザッと人垣が割れる。さすが〈八枚〉の効力は使える。大きな沓脱石に法被の一人が、さっと白い鼻緒の草履を出してくれた。至れり尽くせり。礼を言うと法被は頬を染めて引っ込んだ。深く考えないことにしよう。俺は尻もちをついたままの饅頭頭を立たせ、彼を落ち着かせるように玉砂利の上をゆっくり歩き、庭の端へ向かった。

チェックのネルシャツを着た饅頭頭はひたすら入信したい理由を喋り続け、3ループ目に入ったところで止まった。ひどく興奮しているな。理由は至極真っ当なものだが、神云々より教団に対して熱い感情を向けている。法被の連中のような信仰…ではない?

怪訝な俺に気が付いたのか「また来ますッ」と元気に告げて、饅頭頭は去って行った。会話らしい会話もできなかったな。ああ言う手合いは言いたいことを言いたいだけなので、放っておいたのがよろしくなかったか。また来るのを信じよう。次はもっと積極的にアプローチを試みるか。

戻ってくると後藤が不審な目を饅頭頭の後ろ姿に向けている。

「少し思い込みが激しい人のようだ。信仰心なのか、出歯亀なのか、今日は分からなかったな」

「明日も来ると?」

「そのつもりらしいよ。また来たら、俺を呼んでくれ。ああいう手合いをあしらうのには慣れてるんだ。本当に入信したいと分かったら、あなたに預けるよ」

「そんな!〈八枚〉様のお手をこれ以上煩わせるわけには…!」

焦った後藤の声が尖る。理由は二つ。こいつは本心から信仰を持っている。そのため〈八枚〉になった俺をとりわけ特別扱いして、崇め始めていること。そして同じくらいに体に目に見える変化が出ている俺を、外部の人間と関わらせたくないと思っていること。

背中から日本刀で切りつけられる最悪の出会いを俺としたのを忘れている。あれは俺の準備不足もあったし、事故みたいなもんだから構わないが。何にせよ後藤はこの教団の存続が一番大事なのだ。

「構わないよ。後藤さん、俺の頼みだ。聞いてくれるか」

後藤が頷くしかないのを分かってそう告げた。

布団の中で燃えた後のピロートークが情報交換とは実に色気がないが、こっちの方が本題なんだから仕方がない。

「カガシロ様と言ったのか!」

潜めた声でBJが食いついた。彼から小林という男の話を聞いて、耕太と母親が教団にいる経緯、温泉と鱗の関連性が繋がった。そこに加わるヤクザ者の存在。

「奴らは金が湧くところにしかいない。温泉街は寂れてる。儲けが出るのは湯治場だと思う」

「なるほど。湯治もただじゃない。長期滞在となれば、それなりに費用は嵩む。ましてや治療によく効く温泉となれば、料金高めでも文句は言わんだろうな」

枕元に手を伸ばし、ガムを口に入れる。ニコチンを含んだ禁煙補助のガムだ。BJも欲しいというので一粒口に入れてやる。

「こんな菓子じゃなくてヤニが吸いたい。タバコ取り上げられたんだ」

「俺も。来て当日に没収」

黙ってクチャクチャとガムを噛む。

「なあ、お前の鱗、見せろよ」

来たな。ガムをぺってして、掛け布団を捲った。

「お好きなだけどうぞ。先に大師様に散々見られたけど、減るもんじゃないし、いいでしょ」

「うん」

生返事。つまんないな。あっという間に医者の目になって、俺の身体を診だす。

「一番初めの鱗はどれだ」

「背中の左肩」

BJは撫でたり、弾いたり、鱗の質感を確かめたかと思えば、次は真新しくできた八枚目の鱗を診る。そして何かを確かめるように背中の二枚目と腕の五枚目を診た。やがてフームと唸ると仮説を立てた。

「この鱗は成長する」

「恐ろしいこと言うなよ」

「じゃあ経年劣化」

それも嫌だ。最近BJは俺を年齢でイジってくる。

BJの説明によれば、俺に生えた鱗は古いものと新しいものを比較すると、質感と色が違うらしい。

洗面台の鏡の前に立ち、BJが鏡台を持ち上げて、反射で見せてくれた一枚目は、俺の目から見ても八枚目との違いがわかった。背中の鱗なんて自分じゃ見えない。

更に一枚目の鱗と正常な皮膚が癒着した境目に至っては、鱗の菱形の辺に沿って虹色の薄い膜が広がり出しているそうだ。鱗の隣の皮膚も鱗になってくってことかよ。弱ったな。

この鱗は教団の連中に効果が絶大なので、まだまだ利用できる。だが、どうもこの様子では長期戦になりそうだし、鱗が増えすぎないうちになんとかケリをつけたい。

「お清め」

何かを閃いた様子。ぱっと顔を上げれば少年のような瞳のBJ。

「コーダの連中は皆『お清め』をするんだろう?一日二回、温泉に浸かるって」

黙って肯定する。必ず強要されていた行為だ。試しに一度さぼったら、監視が増えて、ますます身動きが取れなくなった時期があった。

「お清めは鱗を増やしたり、育てたりするための行為なんだ!やはり温泉成分が鱗を作っているに違いない。この鱗はおそらくタンパク質と金属を…うぐ」

BJの頭を布団の中に押し込んだ。

人の気配がする。見張りの交代だろうか。

違う。見張りと何か話している…?

真新しい障子を睨む。BJも雰囲気を感じ取ったのか身構えている。

五分ほどそのまま膠着状態にあっただろうか。まだ人の気配は消えない。だが見張りの存在も感じる。見張りは俺達のボディーガードの役目も担っているから、相手は内部で見張りの上の立場の人間…か。

ここは敢えて出ない方がいい。

「もう寝よう」

「えっ、でも、外が」

「あちらに任せてみよう。力尽くなら、こんなに時間はかけない。話してどうにかなる相手なら、今じゃなくていい」

「そうか?俺は歯にものが挟まったような感覚なんだが」

「いちいち反応してたら、キリないぜ。まだお前は教団の表層にしか触れていないんだから」

BJの目を掌で覆う。こんなことしてもコイツには無意味だってわかっているんだけどな。

俺が見たものが教団の深層部であることを願いたいが、どうもまだ違うルートの暗渠があるようだ。秘匿されたものを全てサーチライトのように暴きだすBJの怖さを、教団の連中は知るはずがない。

どう立ち回れば、俺の仕事を成せるか。選択する時が近付いてきている。

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