虹の彼方に(一)

キリジャバナー2

※2021/12/4改訂

さて、この光景をどう呼称しよう。

事故現場…妥当だが些か足りない。

地獄……実に陳腐だ。

立ち登る煙の柱の先に、赤や黄の粉塵にまみれた黒いコートがいる。

ここが終着点なんだな。

全部ぶち壊したお前が最後に壊す場所。

やっぱりそこでもお前はメスを翳すのだろう。

俺は観客にはならない。

早く帰って、一服タバコを吸いたい。

参った。

カーラジオの音が大きかったせいか、タイヤが変な音を立ててるのに全く気が付かなかった。ガタガタ車が揺れ出して、慌てて路肩に停めたときにはもう。

バーストしたタイヤがアスファルトにべったり伸びている。懐中電灯の明かりに照らされる光景にボーゼン。

辺りを見渡せば、月のない夜空をのっぺりと黒い山が覆っている。

ドッチラケ状態で呆けていた頭が、じわじわ不安で覚醒する。愛車が無性に憎たらしく見えて、コスモスポーツのバンパーを蹴っ飛ばした。ああ、安月給とは言えセコハンで買うんじゃなかった。

こんな山奥でどうすればいいのだろう。スペアタイヤなんて積んでない。確かなのは今走っていた道の名前くらいだ。国道3桁、通称酷道。地図を見たところ、この酷道を通ればかなりショートカットできると気付き、親友の実家がある隣県の市街地を目指してハンドルを切ったのだ。

走っても走っても周りは暗い森。ヘッドライトが照らす世界だけが全て。信号も対向車もなければ次第に車の速度は上がる。先行が撥ねた小動物の血だまりを踏みつけて、尚も私はアクセルを緩めなかった。

少しはしゃぎすぎていたのだと思う。結果がこれだ。蹴っ飛ばしてごめんと動かなくなった愛車にくっついて暖を取っていたが、最新鋭のロータリーエンジンは冷えていくばかり。まだ日の出には遠く、くたびれた安物のダッフルコートは私を温めてはくれない。やがて冬の気温に歯の根が合わなくなってきた。

ええい、男だろ。覚悟を決めろ!

意を決して私は立ち上がり、助手席にあった地図を必要なページだけ破いてポッケに詰め、懐中電灯を手に歩き出した。体を動かしていれば、少なくとも凍えることはないだろう。それに市街地に近付いていけるのは間違いがないのだから。

私の足音が規則正しく耳に届く。白い息を吐いて呼吸をするたびに、視界の端に黒い靄がふくらんで見えるのは紛れもなく錯覚だ。当り前だ。こんな山奥で遭難しかかっているのだから、神経が正常だと言い切れない。

しかしだ、何とも非科学的なことに、いつの間にか黒い靄は輪郭を伴い、まるで人影のように見えるのだ。いよいよおかしくなってきたらしい。

道の脇の茂み。街灯すらない電柱の影。

正体不明の影は、常に私の視界の端にいて、私に見つかると隠れるようにいなくなる。

さすがに不気味でたまらなくなってきた。

しかし私は大学院に籍を置く研究者。どんなときでも冷静でいなくては。私が思うに実験結果を解析するときに一番邪魔なのは、そう、思い込みだ。

道端のススキに似た枯れ草が風に揺れる。こんなものでさえ、思い込めば恐ろしく見える。干瓢が幽霊に見えた男が昔話にあったくらいだ。くだらない。だから私が見ているものも、恐れているものも、全て思い込みなのだ。

そこまで思考していると、にわかに懐中電灯の明かりが消えた。ああ、電池切れだ!

ずうっと車内に放っておいた懐中電灯だ。いつ電池交換したかなんて覚えてない。悪いことはどうして重なるのだろう。

再び夜闇に取り残された私はしばらく動けなかった。さっきの黒い影が迫ってくるようで、動きたくとも動けない。幽霊なんかじゃない。あれは思い込み。弱虫な私の思い込み。

さっきまで懐中電灯の明かりを見つめていた目は、今となっては周囲の闇を余計に濃く見せる。何かを囁くようにざわざわと揺れる梢の音が不快だった。誰かがそばで見つめているような幻覚を否定した。

そのまま闇に目が慣れるまで待っても、誰も襲ってなど来なかったので、私はまた歩き出した。

ざり、ざり

そういえば親友が現代日本でも山賊が出るなんて冗談を言ってたけれど、本当なのかしら。だったらポッケにある、森永の新商品、小枝チョコレートを渡せば見逃してもらえないだろうか。同じ人間なのだから、あわよくば町に案内してくれるかも。対価はそうだな、もったいないけど右腕にあるオメガの時計なら言うことを聞いてくれるに違いない。

恐怖を紛らわせるために、くだらない事を延々と考えていたのに。

ざり、ざり、

後ろから足音が近付いてくる幻聴。

震えながら振り向いた。

暗闇だけ。

確かに足音が付いてきたと感じたのだが、誰もいない。そう言えば後をついてくるだけの妖怪がいるとか与太話にあった。いいや、まさか。

ざり、ざり、ざり

確かに足音がした。人間に決まってる。

じっと目を凝らすと、わずかな星明りの下、ゆっくりと何かが近付いてくる。

ぶわっと肌が粟立ち、背筋が固まる。

畳一枚分の距離まで来て足音の主は立ち止まった。顔はもちろん真っ暗で見えやしない。もし、もしもだ。人間じゃなかったら。空唾を飲み込んだ。

「あんた、こんなとこで何しとる」

年寄りの声だった。僅かな警戒感はあるが、こちらを心配してくれているような声音。

人間だ!ああ、人間でよかった。

堰を切ったように車がバーストして止まってしまったことを話すと、年寄りは唸った。ここから徒歩で町へ降りるには半日かけても難しいらしい。打ちのめされた私に、せめてもとバス停がある側道へ出る方角を教えてくれた。

それだけでもありがたく、私は勢いよく頭を下げた。すると懐中電灯の明かりが再び輝いた。電池の接触不良でも起こしていたのかもしれない。それが今の振動でうまく戻ったのか。

これは良い兆候だと、懐中電灯を回して辺りを照らしてみていると、初めて声をかけてくれた年寄りの顔が見えた。

男とも女とも取れない風貌の年寄りは、明らかに喜色を満面に溢れさせていた。

そのままずずいと私の顔の真ん前に進み出ると、手をやおら掴んだ。驚くほど力強く。

「あんた、色が白いね」

何のことだか分からず、聞き返す

「色とは、どういうことです?」

「肌の色だよ。真っ白だ。こんなに色白の人は滅多に見ない」

嬉しくない言葉だ。ずっと研究室に閉じこもりなので、私は日に焼けることがない。そもそも太陽は天敵なのだ。日焼けをすると肌が爛れて酷い目に遭う。

日中は研究室で実験に励み、外出するにしても今日のように夜中がほとんど。体つきも貧相で「うらなり君」と私を戯れに呼んだ親友とはしばらく口をきかなかったほど、青白い顔色を指摘されるのは嫌だった。

「懐中電灯に照らされているから、そう見えるだけですよ」

さすがに嫌悪感を覚えて逃げるように身を捩った。そうだ。大体どうしてこんな深夜の山道に年寄りがいたのだろう。非常に不自然なことなのに気が付かなかった。だが年寄りは私の腕を離さない。

「さあさ、ここで出会えたのも何かの縁だ。よかったら家に泊まりなさい」

遠慮すると言う間も与えず年寄りはまくし立てる。

「なあに少し歩けば着くさ。天気予報が言ってたよ。アメダスの数値が高いんだそうだ。このままでは雨が降るに違いない」

この星空で雨なんか降るものか。年寄りの腕を振りほどこうとすると、懐中電灯が地面に落ちた。アスファルトが照らされて、浮かび上がる影に私は絶句した。

足、足、足。

いつの間にか私はぐるりと人の影に囲まれていたのだ。

「…さ、山賊……あ…え、と…」

ひどい混乱の中、命乞いと交渉をしようとした私の口からは情けない掠れ声しか出ず、打って変わって周りの影たちは朗らかに笑った。

「おう、身ぐるみ剥がすぞ!…なーんちゃって、俺らは山賊なんかじゃないよ」

「そうそう。あんたみたいにこの道で車がダメになっちゃう奴って意外と多くてなあ、警察沙汰になる前に保護してるんだ」

「一晩泊めて、朝になってから安全に帰ってもらった方が、ウチの集落としてもありがたいんだわ」

「電話もあるよ。家に来て、一度親御さんにでも連絡しておいたらどうだい」

次々に明かりが増えて、私の周りには幾人もの男衆が立っていると分かった。皆そろいの法被を着ている。きっと地元の青年団なのかもしれない。笑ってかけられる声に、先程迄の年寄りへの不快感も忘れ、私はあっという間に心身の緊張がほどけていくのを感じていた。

なんということだろう。高度成長期で人の心は冷え切ったと言われて久しいのに、こんな山の奥でも人の親切はあるものなのか。遭難しかかって孤独だと思い込んでいた私が愚かだった。

感謝の思いが溢れ、私は彼らの集落へ共に向かったのだった。

『次は、かなしろ、賀名代温泉前です。次はかなしろ、賀名代温泉前です』

ブレーキ音を響かせて、レトロなバスが停まる。温泉街の雰囲気に合わせているわけではない。本当に古いだけなのだ。未だに木の板でできた床を踏みしめ、俺はバスから降りる。バス停の周りはかなり前に閉じたキャバレーや飲食店の空き店舗ばかりで、人影もなく寂れた雰囲気が印象に残った。

バス停からしばらく歩くと目的の診療所が見えた。窓が叩き割られ、外壁には大きな穴がいくつもあいている。まるで廃墟のような建物だ。

かろうじて読める【かなしろ診療所】と書かれたドアを叩くとがなり声。開いてるから勝手に入れとさ。ずんずん中に入っていくと、外見は酷いが中は小綺麗に整えてあるのがわかった。突き当たりの部屋へ入ると、もじゃもじゃと黒い髭を蓄えたプロレスラー体型の男が白衣を着て、どっかりと机の前に座っていた。男は、追い詰められた人間特有の目つきをして、その中に爛々と闘志をみなぎらせている。何に抗っているのか興味が湧く。

「あんたがブラック・ジャックか。俺は小林だ。よく来てくれた」

大きな手がそばの椅子を示すので、そこに座る。

「恩師の縁がある人から便りがあれば動くさ。それに送ってくれたカルテが面白かったからな。象皮病ではないのか?」

「いきなり本題か。まあ、俺もその方がいい。皮膚病に違いはないが、俺は新種の症例だと考えている」

さっぱり豪胆な物言いだ。こんな男は嫌いじゃない。酔っ払ってなければだが。

「ほう。詳しく聞きたいが、あんた酒臭いな。酔っ払いがいうことなんざ半分も信用しかねるぜ」

サイドデスクの上にはウイスキーの瓶が並んでいる。ふん、と俺の言葉を鼻で笑い、新たに酒をグラスに並々と注いで煽る。いつか飲もうと棚にしまっていた特上のウイスキーだとさ。俺にもグラスをよこすので、舐めるふりをした。さあ共犯になってやったぜ。どんな症例か聞かせろよ。

真っ赤になった虚ろな目つきで小林は呻く。

「あんたには信じてもらわなくちゃならねえ。与太話と思うかもしれねえが、俺が話すことは全部事実だ。あいつらにとっちゃ違うんだろうが…事実なんだ」

賀名代温泉は皮膚病の治療に良いとされ、湯治場として名高い。特に効果があると言われるのは、賀名代温泉の総湯から一キロほど離れた場所にある、多くの噴気孔が蒸気をあげる一帯だった。

そこではバラックのような小さな一軒家が貸し出され、家に備え付けられた温泉で湯治をしていく方式だ。醜く病に侵された皮膚を他人の目を気にすることなく温泉の蒸気や湯に浸せると、利用者の希望が後をたたないと言う。

湯治には時間がかかる。短くて一週間。長いと数ヶ月にも及ぶ。利用者が長期間湯治場に滞在するとなると、食品や生活必需品を調達しなくてはならない。そのために総湯近くの温泉街を利用するので、今や一昔前の観光地となり果てた寂れた町の経済は、湯治場のおかげで成り立っていた。

そんな温泉街の端に建つかなしろ診療所を、つい最近小林は心不全で急逝した老医師の代わりに任された。経緯は単純にして強引で、賀名代温泉街に実家があり、そこで幼少期を過ごしていた小林に白羽の矢が立っただけである。

小林にしては突然の申し出に驚くしかなかった。実家ははとうに処分していて随分と長く故郷の街を離れていたし、すでに隣の市で大きな医院に勤務をしていた。もう温泉地は自分には縁がない土地だと何度も断った。何故か温泉街に戻るのを忌避する自分自身すら感じていた。しかし温泉街からの使いは頑として聞き入れず、毎日のように勤務先に訪れて同じ文句を繰り返し、結局地元の頼みだと拝み倒されたのだ。

しぶしぶながら町医者のポストに就いて一週間、薬品棚の中身すら把握できていない小林のもとを一組の母子が訪れた。母子は賀名代温泉の湯治場で養生していると言う。

母の話によると、湯治を始めてすぐは良い具合だったそうだ。湯に浸かるたびに子のアトピーが劇的に改善していった。かゆみを訴えることなく熟睡する我が子を見て、母は安堵の涙を流し、心から喜んだ。

湯治を始めてしばらく経ち、母は改善する体調を実感するが、一方で温泉から出たくても出られない人がいると風のうわさに聞く。温泉から一日も離れられない皮膚とは、一体どんなに酷い姿なのか恐ろしくて考えたくもない。うわさを頭から振り払い、今日の湯につかるため、母は幼い子の服を脱がせた。

「今日も温泉に入って、アトピーを治そうね」

「うん。お母さんのおなかの傷も治そう」

「ありがとう、やさしいね。元気になって来てお母さんうれしい……ん?」

袖から抜けた我が子の腕にきらりと光るものがくっついている。おやつに与えた菓子箱のセロハンかしら。何の気は無しに見つめた。

きらきらと光をはじき虹色に見える。これは何だろう。そっと母は手を伸ばす。

触れればつるりとなめらかで、しかしてプラスチックのように固い。

シールかと思って剝がそうとすると、子は声を上げて痛がった。まるで皮膚の一部のように、虹色のそれはぴったりと貼りついていた。いや、生えていると表現した方が正しい。先程剥がそうとした場所から、うっすらと血が滲んでいるのだ。

我が子の柔い二の腕に、透きとおって光るのは、鱗。

そう。鱗と言って差支えがない物体だった。

子の体中を改めると、腿に、肩に、背に、尻に、それぞれ虹色の鱗が一枚ずつ生えている。母も着物を脱ぎ捨てて自らの体を調べるが、どうやら鱗はないらしい。どうして我が子だけに、こんな鱗が生えてしまったのか。

そして血相を変えて飛び込んだのが、この【かなしろ診療所】だ。

錯乱した様子の母をなだめて子の診察を始め、虹色の鱗を見た瞬間、小林はどこかでこれを見た気がすると、雷に打たれたかの如く直感した。

記憶の中から治療につながる情報を漁る小林の耳に、呼び鈴を鳴らす音が響く。窓から覗くと、診療所の入り口に、そろいの法被を着た男衆が詰めている。先頭に立つ老爺が小林を呼ぶ。

「小林先生、ここへ湯治場の母子が来ましたでしょう。話がありましてな。出てきてもらえませんか」

ああ、商店街の組合長か。返事をして、何事かと表へ出ると、有無を言わさず地面に打ち据えられた。法被の男が四人がかりで小林を押さえつけている。

「すみませんな。あなたは体格が良いので、乱暴な手段に出るしかなかったのです。なに、すぐに済みますからね。ごめんなさいね」

ひょいひょいと老爺が診療所の中に入り、程なくして母子が意識を失った状態で男衆に担がれて行く。小林は口に布を詰められて声が出せない。

「すみませんな。こんな予定ではなかったのですよ。あの母親、見かけによらず過激でしてな…いえ、こちらの話」

町の商業組合長を務める老爺は鼻先の鼈甲眼鏡を押さえ、そのまま小林を一瞥もせず話し続ける。

「ひとつお約束いたしましょう。今の事を忘れるなら慰謝料をお支払いします。こちらにも事前に説明が足りなかった落ち度がありますから。でも深入りするなら町から去ってもらいます。あなたは町でひとりのお医者さん。いなくなると困る人も…いるでしょうな。その人たちのためにも、賢明な判断を願いますよ。ごめんなさいね」

去っていく男たちを小林は見送ることしかできなかった。連れられて行く母子に、思い入れがあるわけでなし。脅しをかけられてまで追いすがる理由も見つからない。関わるなと言うのならそれで…

しかし小林の脳裏に、ある少女の影が映る。

少女に生えた虹色の鱗。

あれを確かに幼い自分は見たのだ。

小林はこの温泉街で生まれ育った。町に点在する温泉宿に勤める大人が多いこの町で、いっしょに遊べる子どもは限られる。仲居を母に持つ子は放課後も忙しかったり、他所からやってきて馴染めない感じの子が多く、遊び仲間にはなってくれなかった。そんな地元の子どもだけの小さな友達グループの中で、虹色の鱗が生えてきた子がいたのである。

新雪の色をした肌に花びらのようにくっついていた、小さな鱗。

肌と同じく色素の薄い色の髪をかきわけて、彼女は首筋に生える鱗をそっと見せてくれたのだった。ほころびかけた梅のつぼみのように色づいた頬の上、長いまつ毛が震えていた。

「神様が私を気に入ったしるしなんだって」

神様?町にあるやたら大きくて古い神社の神様か?そんな話聞いたことがなかった。

「お尻にも生えてるんだけど、見る?」

「み、み、見ねえよ、バーカ!!」

いたずらに笑う彼女の事をきっと好きだったのだと思う。

その後彼女が父親の仕事の都合で転校したと聞いたときは世界が真っ暗になった。だけど、その後町に流れた噂の方がひどかった。彼女の父親が性的虐待を加えていたというのだ。

まことしやかに囁かれる噂を聞くたびに、あったこともない彼女の父親を小林は憎んだ。だからその父親が、町の下手の川で溺れ死んでいたと聞いたとき「ざまあみろ」としか思わなかった。

本当はそこで違和感を持つべきだったのだ。小さな町の限定されたコミュニティの中で繰り返される噂は、思い込みと言うリアリティを纏う。

雪解け初めの晴れた朝。小林は祖母の言いつけで山菜を採りに向かった。この時期は滝のある裏山へ行けばフキノトウが見つかるかもしれない。何年も遊び場にしてきた裏山をすいすい上り、五つ瀧と呼ばれる場所までやって来た。ここは大小合わせて五つの滝が階段状に連なり、特に一番奥の大滝は滝壺が深く、浮かんでこられなくなるため絶対に遊んではいけないと教え込まれている。だから普段大滝まで行く町の人間はいない。

しかし、どうしてなのか、今の小林にもわからないが、あの日は大滝に行ってみようと思ったのだ。

そこで、彼は見た。

白い人影が大滝の上に立っている。

彼女だった。転校したと聞かされていた彼女だ。あの肌、あの髪の色。間違えるものか。

ふらりと倒れるように彼女は大滝に身を投げた。ひどく長い一瞬の中で彼女と目があったのは錯覚なんかじゃない。真っ白な着物を着た彼女は真っ逆さまに滝壺に吸い込まれ、浮かび上がってくることはなかった。

小林は何を見たのか理解できないまま、名残雪の中にしばし立ち尽くした。滝の音だけがいつまでも轟いていた。

やがてぼんやりと山を下り、納屋で作業をしていた祖母にぽつぽつ一部始終を話した。家族に話して安心したかったのかもしれない。話を聞き終わると祖母は小林の肩を抱き、彼の首筋に研がれた鎌を当てた。

「今日見たことは、誰にも言っちゃいけない。それはきっと神様の大切な儀式だ。もし言ったならば、お前をこの世に置いておけなくなる。カガシロ様の事は、誰も口にしちゃいけないんだ」

小林に言い含めるように、自分にも言い聞かせるように、祖母は優しい口調でありながら少しずつ首の皮膚を削る。

「お前はなんにも見なかった。いいね」

ゆっくりとした冷たい鎌の刃の感触が、恐ろしくてたまらなかった。

やっと小林が頷くと、祖母は白い紙で作ったひものようなものを酒に浸し、それを飲み込むように強いた。そして自分も同じように白い紙ひもを飲み込んだ。

「これでお払いができた。さて、畑を手伝いな」

いつもどおりに戻った祖母の様子に戸惑いながら、小林はこれでいいんだと思い始めていた。

転校をしたはずの彼女がまだ町にいたことも、一緒に町を出たはずの父親が町の川で死んでいたことも、瀧で見たことも、虹色の鱗のことも、忘れた方が良いことなんだ。

そうして彼は記憶の蓋を閉じたのだった。

子どもの頃に全て忘れたと思っていたことが、診療所を訪れた母子によって呼び起こされた。

商業組合長に脅しをかけられた事実は一抹の不安を与えたが、小林は諦めなかった。医者としての信念が燃えたのだ。祖母の言葉に頷いた気弱な少年は、医学という武器を得て逞しい男に成長していた。

母子が攫われてから、こっそりと虹色の鱗について調べることにした。疾病としての鱗の姿を洗い出せば、あの日滝壺に沈んだ彼女の真相に繋がる気がしたからだ。あの日祖母が口にした「カガシロ様」についても。

変化はすぐに起きた。町の人間が小林を避けるようになったのだ。町に一軒だけのスーパーに買い物に行くと、問答無用で追い出され食糧すら売ってもらえない。小林が商店街に赴くと、あからさまにどの店もシャッターを下ろすのだ。

あの鼈甲眼鏡の商業組合長が関わっていることは明白だった。

だが医者の視点から、あの鱗をオカルトの域に留めることはできない。虹色の鱗をこの目で見たのは二回しかないが、鱗の正体について彼なりに仮説を立てた。

ひょっとしたらあの母子のように湯治に来た人間の中に、鱗が生えた者がいるかもしれない。それをもう一度見られたら、仮説を決定付けられるに違いない。確信した小林はこっそりと湯治場へ忍び込んだ。

そして自らの仮説を決定付けるものを、いや、それ以上のものを、とうとう小林は見てしまったのだ。

「町の連中の嫌がらせはどんどん酷くなって、診療所がこんな有様なのもあいつらのせいだ。あいつらが大事にして隠そうとしているものを見ちまったからなあ」

小林は再びグラスを煽る。

「あんなもん見たら、まず正気じゃいられねえ。しかし俺も一端の医者として、オカルトを信じるようじゃお終いだ。実際俺はあの鱗を、いくつも見た。そして確信したんだ。あれは間違いなく疾病だ。それに罹患した人間は想像より多くいる」

空になったグラスを見つめて小林は呟く。

「俺はそれを何とかして救いたい。滝壺に沈んだあの子のためにも」

小林の独白を聞いて、俺は無言だった。初めの方はまだ話に整合性があったが、最後の鱗を見た話になるころには小林は完全に酔っており、分かることは少なかった。疾病に関する情報なんて雲をつかむような話しかない。こいつカルテの情報盛ったな。

「それで、あんたは村八分にされて、不貞腐れて昼間っから飲んでるってわけかい」

小林は机の上を顎でしゃくった。机に置かれた紙を手に取ると、新聞や雑誌の文字の切り抜きが貼り付けられて、文章になっているようだ。おやまあ、なんともレトロな脅迫文だこと。

「『町から出ていかなければ殺す』とは物騒だねえ」

「出ていく気なんかねえよ。俺はあの鱗の事を突き止めるんだ。今飲んでるのは、その決起集会だ!」

拳を机に叩きつける。集会って俺も入ってるのか?

「俺は医者だ!治せる患者がいるのなら…グ、ウ…」

拳を振るって叫んだ瞬間、小林は胸を押さえてうずくまる。

「おい!どうした!痛むのか!」

脂汗を滴らせて言葉を絞り出している。

「心臓が……」

「わかった。横になれ。処置をする」

重くて大きい体を床に横たわらせ、襟元を緩めた。その間にも小林はうわごとのように話し続ける。

「俺じゃ解らねえことが多すぎるんだ…頼む、力を貸してくれ…まともに、治療が受けられないまま、人が死ぬのは…俺には我慢ができん……」

それだけ言うと小林の意識が無くなった。心肺蘇生を試みるが、効果が出ない。鞄から即座にメスを取り出し、心臓まで切開して直接マッサージを行った。かつて馮二斉にも行った方法だ。幼子に処置した時はうまくいったのだ。絶対に救って見せる。

しかし、小林の心拍は戻らなかった。

救急車を見送り、警察官に事情を話す。友引警部の知り合いの知り合いがいて、話が早かった。本人が殴りこんでくるのは時間の問題かもしれないが、これだけ辺鄙な田舎町だ。簡単には来られないだろう。鑑識の声に耳を澄ますと、どうもウイスキーにジギタリスが入っていたらしい。病院の棚からごっそりなくなっていたそうだ。

俺も手術で使うが、あれは猛毒だ。摂取しすぎると心筋に影響が出る。そこまで考えると、憎たらしい銀髪の黒い眼帯が思い浮かんだので、面白くない気分が一層強くなってしまった。

小林の最後の言葉を思い出して、更に気分が重くなる。

俺だってアンタの気持ちが解らねえほど落ちちゃいねえよ。

寂れた田舎道を通るバスは、この時間になるともうない。仕方がない宿を取ろうと旅館に入れば、やたらにじろじろ見られた。小林を蘇生するときについた血まみれのシャツが見えないように、コートのボタンは留めてあるのだけど、どこからかはみ出しているのかな。とうとう女将から声をかけられた。

「失礼ですが、お客様はかなしろ診療所にお立ち寄りになりましたか?」

「ああ、さっきまでいたよ。小林先生が倒れてね、私が救命処置をしたのだが、問題でも」

ヒッと上がる悲鳴。おいおいそんなに何を怯えてるってんだ。

「申し訳ございませんが、お泊めするわけにはいきません」

「なんだって⁉」

「聞けばお客様は小林先生の体を切り刻んでいたとか。そんな方を泊めるなんて!どうして警察に逮捕されないのか不思議でございます!」

「バカを言うな。あれはれっきとした医療行為だ!警察だって納得した!」

「そんな方法は聞いたことがございません!」

きりきりと眉を吊り上げて叫ぶ女将と睨み合い、俺がとったのがどんな意味を持つ治療だったのか口を酸っぱくして説明したのだが、全く埒が明かない。「わかる気がない」という鉄壁のガードを崩すのは難しいと思い知った。

それに今さっき起こったことを、もう宿サイドが把握してるって異常な速さじゃないか?この町のネットワークってすげえなあ。ザ・田舎町って具合だ。

そんな訳で宿を放り出された俺は、町の奥にそびえる神社を目指している。古今東西行き倒れになりかけた巡礼者に一宿の施しをしてくれるのは寺と決まっている。まあ、俺は巡礼者じゃねえし、向かってんのも寺じゃねえけど。神社も似たようなもんだろ。軒先で寝てても追い出されることはないだろうさ。

日が落ちかけたころ、たどり着いた神社は、さびれた温泉街に不釣り合いなほど大きかった。【賀名代大社】と刻まれた木版は古く、閉ざされた拝殿は建てられた時代に思いを馳せるほど苔むしていた。

見たこともないくらいに長くて細いしめ縄だけが新しい。いや、どうも拝殿の奥の社務所も最近建てられたかのようだ。まだまだ奥に新しい建物がある。興味のまま覗き込む俺の後ろで声がした。

「血の臭いがする」

反射的に身構えて振り返ると、年のころ7,8歳の男児が夕陽の中に立っていた。白い着物を纏い、髪がオレンジ色に燃えるように光っている。どこから来たんだ、こいつ。

「おい坊主。お前さん、血の臭いがどんなものかわかるのかい」

確かに俺のシャツには血液がついているが、今はコートの下にしっかり隠している。なによりもこんな年端も行かない子どもが、血液の臭いを認識できる訳がない。ガキはチョコレートの匂いでも嗅いでいれば良いんだ。

俺の問いに対して子どもは頷き、ずんずんと近付いてくる。日陰に入った瞬間わかった。この坊主、アルビノの傾向がある。メラニン色素の少ない目が俺を映す。

「そんな臭いをして、神社に入っちゃいけないんだぞ。来い。ぼくがきれいにしてやる」

小さな手が俺の腕を掴み、駆け出していく。

「お、おい」

駆ける足の速さに、勢いよく俺の体はバランスを崩し、足をもつれさせながらついていく羽目になった。

男児は拝殿の裏手に回り込むと、真新しい木戸を叩いて中から開けさせた。木戸の中から顔を出した門番の男は俺を見るなり、男児に詰め寄った。「いけません」「お叱りを受けますよ」などなど俺を中に入れたくないのは丸わかりの反応だったが、卑屈なまでに丁寧な物言いの男に対して男児の態度は年齢に似つかわしくないほど実に尊大であった。

「ぼくが連れて来たんだ。コーダの言うことが聞けないのか」

ぴしゃりと言い放つと、口ごもる門番を押しのけて木戸の中へ入っていく。こいつはおもしろいことになったと俺も後に続いた。

「風呂に入って血を流せ。血の付いた服もよこせ」

檜風呂に押し込まれた俺にコーダと名乗る男児が命令する。

「へいへい。仰せの通りに。だがこのコートだけはダメだ」

商売道具が詰まった黒いコートを脱いで脇に抱えると、血の付いた白いシャツがあらわになる。血の色を前にしてコーダは目つきを変えた。

「本当に血がついてる…はは、分かったんだ。ぼくはちゃんと血の臭いが分かったんだ……」

何度も鼻を触って、何かをやり遂げたように呟く。プラモデルを作り上げたようなものではなく、もっと追い詰められた暗い表情だ。訳アリなのは重々承知だが、目の前でガキがそんなツラをしているのは面白くない。

「まるで今までは臭いが分からなかったような言い草だな」

「うるさいな。お前には関係ない!」

「おいおい、勝手に連れ込んでおいて、関係がないとはつれないねえ。ボクチャン」

「うるさい!ぼくは血を確かめたかっただけなんだ!」

そうそう。ガキはガキらしく癇癪でも起こせばいいんだよ。ぽかぽかと殴りかかって来たので、とっ捕まえて高い高いしてやった。ギャン泣き。何事かと駆け付けた連中に一喝。

「遊びの時間だ。失せやがれ!」

「ぼくはコーダだ!みんなあっち行け!」

俺とコーダの怒鳴り声が重なり、集まった連中は慌てて扉を閉めた。まあ後ろで聞き耳立ててんだろうけど、そんなにおイタはしないから心配すんな。それにしてもコーダはここで随分と強い権力を持っているようだな。こんなガキの言うことを聞くなんて、どんな集団なんだか。俺に抱えられたまま、えぐえぐと鼻水を啜り上げてコーダはわめく。

「ぼくは〈五枚〉なんだぞ。偉いんだぞ。お前なんか、あとでぐちゃぐちゃにしてやるんだからな」

真っ赤になった泣き顔は年相応。きれいな顔してんだから、笑ってた方がいい。床に下ろして、ぐりぐりと頭をなでてやると、俺をぽかんと見上げた。俺はそのままシャツを脱ぎ、上半身に走る縫合痕の全てをさらけ出す。

「〈五枚〉がどうした。なんのことか知らねえが、俺の体には五つじゃ足りねえほど傷がある。数じゃ負けねえ。文句あるか」

ひきつったコーダへ、とどめとばかりに腕の傷を見せつけた。

「ついでにここの皮は他人の皮膚を貼り付けてる。触ってみろ」

ぐいと小さな手を引き寄せ、傷に触れさせようとした時、ガキは火がついたように泣き喚いた。漏らすほど泣いた。過呼吸を起こしかけるほど泣いた。ここが風呂場で本当に良かった。

コーダの尻を湯で洗い、タオルで拭こうとした時、きらりと光るものが目に入った。

これがそうなのか。小林、お前が追っていたものの欠片はこれなんだな。

コーダの尻には、虹色の鱗が一枚生えていた。

血のついたシャツは捨てることにして、ジャケットを素肌に羽織った。どっかの任侠映画みたいで笑える。無闇に傷を見せる気は無いので、ベストも着て、きっちりボタンを掛けた。うん。首元だけ見える感じかな。風呂場の鏡で確認する。

風呂場から出ると、なぜだかコーダは俺の手を掴んで離さない。

黒漆の狭い廊下の左右から、俺達を挟むように法被を着た連中がひしめいている。明らかに俺を見てコソコソ話したり、しかめっ面作ってみたり。言わねえけどさ、俺は自分からココに来てねえからな。ちらりと視線をやるとコーダは下くちびるをきゅっと噛んでいる。あら、やな予感?

コーダの視線の先、囁き合う法被どもを押しのけて、怖い顔した中間管理職めいた男が前に進み出る。短く刈り込まれた頭髪に鋭い目つき。年のころは50かそこら、中年らしさを微塵も感じさせない鍛えられた体躯をしているのが身のこなしからわかる。ああ、めんどくせえの出たなあ。

「どのような理由で、この男を社に入れたのか説明してください」

静かに怒りを押さえた声音にコーダの手が緊張したのがわかった。

「ぼくは〈五枚〉だ」

「そうですね」

中間管理職が着ている藍色の法被には『後藤』と名が入っている。このおっさんの名前は後藤サンでいいようだ。見れば周りの連中も同じような法被を着ている。名前が入っているのは便利だな。侵入者を見つけやすい。俺がきょろきょろしているうちに、厳つい目をした後藤はコーダを問い詰めていく。

「外の者を社に入れることは、掟で禁じられています」

「こいつはぼくが拾った。だからぼくのものだ」

「犬猫とは違います。大師様がご不在だから良いようなものの、本来なら貴方様もこの男も、今すぐ高い所に行かなくてはならないほど大変なことをしたのですよ」

俺と漆喰の白壁の間に隠れるようにしてコーダは押し黙った。高い所ってなんだ?いや、今はどうでもいいか。

「大体、他のコーダの皆様に知られたら…」

太い眉を曇らせて、ため息交じりに後藤が呟く。コーダってこのガキの名前じゃないのか。他にもこんな権力振りかざせるような奴が、この集団にいるって事かよ。ろくでもねえなと格天井を見上げていると、ガキがさも名案を思い付いたかのように叫んだ。

「そうだ!〈七枚〉の兄さまに預けるよ!それなら後藤も安心だよね」

たしなめる言葉を繰り返す後藤の前で、ガキは小さな頭をぴょこぴょこさせて〈七枚〉と繰り返す。枚数増えたぞ。多分その数は…ガキの尻を見て見当を付けた。こいつの全身を見たわけじゃないから確定ではないが、おそらく〈七枚〉の奴も鱗を持っている可能性が高い。接触するメリットはある。兄さまって呼ばれるくらいだから、年嵩は間違いなくこのガキよりは上だ。もしかしたら、きちんと話ができる相手かもしれない。こいつは込み入った話をするには幼すぎる。

ちらっとガキの方を見ると、バチコンと目が合った。その目がにやっと曲がる前に俺達は走り出していた。

「後藤!〈七枚〉の兄さまに聞いてくるね!」

慌てふためく大人を尻目に、風の如く折り返し階段を駆け上り、勢いそのままに良く磨かれた漆の廊下を滑る。

建物の三階部分の東の角部屋。

そこに繋がる大きな襖をガキは勢いよく開け放った。

「〈七枚〉の兄さま!ぼく、お願いがあるんだ!」

部屋に入ると同時に、全速力で駆けてきた俺たちの足はもつれ、二人とも畳の上に転がった。

逆さまになった視界に、大きな窓に面した広縁に置かれた椅子が映る。

その椅子に腰かけていた人物がゆっくりと顔を向けると、白い着物の肩に銀の髪が滑り落ちていく。やがてくっきり見えるのは、なんてこった!

左目を覆う黒い眼帯!

「嘘だろ!てめえ、どうしてここにいやがる!!」

ひっくり返ったまま叫ぶ俺の前に音もなく近付くと、嫌味なほど優雅な所作であいつは腰を下ろした。あああ、ムカつくうううう!

「さあてな。俺も実際よくわからんのだ。何でだと思う?」

ここでてめえを殴らなかった俺を褒めろ。称えろ。謝罪しろ!

本当に、どうしてこんなところにいるんだよ、キリコ。

怒りのままに飛び起きる。その反動でガキがころころと畳の上を転げていってしまった。キリコはさっとガキを立たせると、広縁の机を指さした。

「耕太。俺はこいつと話がしたいから、そこの最中でも食べて待っていてくれるかい」

わかったと素直に頷いて、ガキは広縁に走っていった。コーダだの耕太だの紛らわしい!キリコは廊下に顔を出して、何かを話している。多分後藤だろう。ざわついていた空気が静まったので、連中が引き下がったのがわかった。

「さて、と」

キリコは茶筒を開け、急須を取り出す。

「お忙しいところ、スミマセンねえ。〈七枚〉の兄さま」

返事もせずに奴はさらさらと目分量で茶葉を量る。ピンと針のように細く尖った良い茶葉だ。そのまま食えそう。ずいっと手を伸ばして、ひとつまみ。口に含むと実に爽やか。腐った気持ちがちったあ晴れるってもんよ。

「相変わらずお前の行動は分からないな。ブラック・ジャック」

「本題に入れよ」

「いや?俺はお前に聞きたいことは特にない」

「はああ!?話がしたいって今さっきそこのガキに言っただろうが!!」

視界の隅で最中を抱えたガキが、びくっと震えた。

「すまない、耕太。この男は喧しいんだ。気にしないでくれ」

「怖いけど…ぼくは大丈夫。待ってるね」

キリコにはひたすら従順でかわいそうなボクを演じるガキ…いかん、切れる血管無くなるわ。

気持ちを切り替えて、この賀名代温泉に訪れてから起こったことを話すことにした。…した、が、キリコの視線が廊下に注がれたままなのに気が付いた。監視されている。このまま小林の事を話すのは得策ではない。

「俺は知り合いの紹介で、この町の医者を尋ねてきたんだ。その医者に会うには会えた。しかし彼は急に倒れてしまってな。心肺蘇生を試みたが、助からなかった。」

キリコの視線は動かない。

「帰ろうにもバスがないし、宿泊する当てもなくてな。神社の軒先でも借りて野宿しようかと思っていたところに、この子に会ったんだ」

「ふうん」

キリコは茶を淹れる。今日の出来事を簡略化した言葉にしてみれば、たったこれだけのことだったのか。茶を待つ時間にも満たないとは、とてもとても言い切れない情報量が溢れてるんだがな。ああ、言いてえ。湯のみを勧めながら、俺の気持ちは分かっているとキリコは唇の端で笑った。そうなるとため息をついて茶を啜るしかなかった。

「耕太。この男は神社にいたのかい?」

キリコの言葉に耕太と言う名のガキは頷いた。

「そうだよ。ぼーっと立っててさ、それなのに血の臭いをさせてるから気になって。ねえ、兄さま!ぼく、血の臭いがわかったんだよ!」

「耕太、それはお前の思い込みだって言っているだろうに」

「だって、みんなコーダの方々は血の臭いが分かるっていうんだ。ぼくだけ分からないなんておかしいって。だからね、ぼく」

たしなめるキリコに耕太は食い下がる。そうか。ひそひそ話を聞いちゃったってヤツか。ガキのくせに大人相手にあんな偉そうにしてるんだ。相手してる奴もボヤきたくなるわな。ガキだから嫌味の区別もつかんのだろう。

「俺も遠距離の血の臭いは嗅ぎとれん。気にするな」

「兄さま…」

「おい、こいつは兄さまなんて年齢じゃねえぞ。お父さんでもキツイかもしれん」

俺の眉間に盆が刺さる。にこやかにアンダースロー決めるんじゃねえ!悶絶する俺を意に介さず、キリコは耕太と話し続ける。耕太は耕太で、風呂場でギャン泣きしたことは伏せて、ぬけぬけとキリコにお願いを始めた。

「ぼく、こいつが傍にいてくれたら良いのになあって思う。兄さまからも言ってよ。やかましくて面白いし、こいつの傷がもっと見たいんだ。体の上の方は見せてくれたけど、きっと足もすごいんだろうなあ」

誰がやかましくて面白いだ。大体お前、俺の傷見て漏らしただろうが。否定しようと顔を上げると、絶対零度の風が微笑むキリコの方から吹いている。

「お前、また脱いだんだな」

いかん。キリコは俺が患者の前で服を脱ぐのを、最近良しとしなくなっている。原因は俺にあるので文句は言えんのだが、俺は俺のしたいようにする。それだけだ。

耕太はキリコの袖にすりすりして甘えている。こいつこんなに子どもに慕われる人格者だったか?なんだか共通の絆のようなものを感じる。やはり〈五枚〉〈七枚〉に関係するのだろうか。

キリコは廊下に向かって後藤を呼んだ。まもなく後藤がやって来て、座敷の入り口に控えた。

「後藤さん、彼はブラック・ジャック。モグリの医者だ。俺の責任下で彼を保護するよ。行く当てがないそうだから」

「しかし掟があります。外部の者を社に入れるのは、いくら〈七枚〉様のお言葉でも承諾しかねます」

後藤は譲らない。外部に知られちゃならないことがあるってか。

「そうだね。でも貴方たちはずっと前から、その掟を十分に守ってきた。彼一人紛れ込んだだけで、何か変わると思うかね」

「前例がありません。大師様がご不在の今、受け入れるわけには…」

「じゃあ、こうしよう。後藤さん、あなたが俺につけた刀傷。彼はそれを治療するために来た…という筋書ではどうかな」

後藤の顔色が変わる。

「もちろん言い方は変えるよ。商売柄怪我は付き物だから、古傷が痛むと言うことにして。俺としても適当な治療しかしてもらってない現状に不満なんだ。ここはひとつ譲歩してくれないかな」

黙りこくった後藤を見て、キリコは耕太を呼び寄せる。

「この男、ブラック・ジャックって言うんだけど、昼間はこいつを好きにしていいよ」

「本当!ありがとう、兄さま!」

「だけど夜は俺のところに返すんだよ。昼間もお前のお清めがあるときは、俺が預かるから」

こうして何も口を挟む暇がないほどに、この社での俺の処遇は決まったのだった。

その日は耕太と一緒に飯を食い、戻るとキリコの部屋の続きの間に布団が敷かれていた。ここで寝ろってことなんだろう。めんどくせえなあ。襖一枚隔てた向こうに奴がいるのだ。夜中なら監視も緩むはず、さっき話せなかったことを言ってしまいたい。

漏れ出るわずかな灯を頼りに、キリコの部屋へと続く襖の隙間から中を伺う。

中の光景に思わず息を呑んだ。

女がいた。

行燈の暗い明りに照らされて、長い黒髪の女がキリコの横に座っている。三十路前の女優並みの美人だ。

美人はキリコに手を取られ、時折微笑んでいる。キリコの顔は見えないが、彼女の微笑みに合わせて何やら頷いている。

距離があるから声が聞こえねえ。なにを話しているんだ。

隙間から見つめ続ける俺の存在など知らない素振りで、布団の上に座り二人だけの世界を作っている。

やがて女はキリコの肩にもたれかかった。灯が消える。

俺は弾かれたように襖から離れた。

薄い襖の向こうで起こっていることを知りたくなくて、俺は布団を頭までかぶり、耳を塞いで目を固く閉じた。

朝がいつ来るのかもわからないのに、俺はずっとそのままの姿勢でいた。

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