葡萄畑で捕まえて(下)

キリジャバナー2

【七日目】

私は〈名無し〉だった。

同じ家にいた大人は、私のことを「アレ」と呼んでいた。自分の名前はそうなのかと信じていた時期もあったのだけど、どうも違うらしいと成長するにつれ分かってきた。

名前がない原因は私の容姿にあった。

私の顔には赤黒い大きな瘤がいくつもあった。左右で違う動きをする目つき。背虫のように曲がった腰、傾いて真っ直ぐに歩けない足。周りの人々とあまりにも異なる容姿に初めて気が付いたとき、とても残念な気持ちになった。どれも自分で選んでそうなったわけではない。ただ、私の姿がみんなを驚かせるのは嫌だった。

一緒に住んでいた大人は次第に帰ってこなくなり、私は暗い家の中に一人残された。とうとう食糧が尽きた夜、私は家を抜け出した。このままだと恥ずかしい私の死体が、皆の前に残ってしまうと思ったからだ。

できるだけ山の奥へ行こうと、闇雲に歩き続けた。歩いて歩いて、息が切れ、足が動かなくなるころ、突然目の前に古い小屋が現れた。

呆然と小屋を眺めていると、脇に小さな湧き水とキイチゴの茂みがあるのを見つけた。夢中で飲んで、食べた。夜空を満たす星々の瞬きの下で、ぼんやりと思った。ここでなら静かに暮らせるかもしれない。誰も怖がらせずに、ひっそりと。

小屋は蔦にまみれてボロボロだったが、幸い中には山仕事をする道具が残されており、時間をかけて使い方を覚えた。私は木を切って薪にした。調子のいい時は獣を狩ることもできた。食べられる木の実も見つけた。

初めのうちは十分だった。しかし私の体は育とうとしているらしく、それだけの食糧だと、たちまちに飢えてしまう。気は進まないが、やはり町に下りて他の食べ物を得る必要がある。

小屋に残されていた灰色の外套を、森の小川で丁寧に洗って身に着けた。醜い私の見た目で町の人を驚かせることがないように。

私は薪と獣を売ることで生計を立てた。パンを買うと金はすぐになくなるから、祭りの日に、きらきらした食べ物や旨そうな匂いのする肉などを、笑顔で買い求める人々が羨ましかった。そんな夜は、ひとりぼっちなのが寂しかったが、概ね穏やかな日々が続いた。

ある日、いつものように獲物を売りに町へ下りた。私と取引している店の男は、常々裏口から来るように言っていたので、そちらへ回った。裏口に若い女がいた。掃除をしているようだった。知らない顔だが、つい、人恋しい気分になり、挨拶をした。振り向いた女は、私を見るなり大きな声を上げて喚き出し、それを聞いて駆けつけた男たちが私を殴った。這々の体で山小屋へ戻り、私は静かに泣いた。

泣き明かした朝、轟音が森に響いた。

慌てて飛び出すと、大きな鉄の塊が地面に突き刺さり、バラバラになっていた。

地面には人が倒れていた。血塗れになった人たちの中に、息をしている男がいたので、山小屋へ運び込んだ。満足な薬はなかったけれど、助けたい気持ちでいっぱいだった。特に顔の怪我がひどく、男は視力を失っているようだ。

医者に診せたいが金がない。意識が戻った男に正直に告げると、小さなカードを渡され、4つの数字を教えられた。町に一台だけある機械を使って、金を準備しろと男は言う。私はその機械が何に使われるものか知らなかった。男が怪我をしているにもかかわらず、早くしろとひどい剣幕で怒るので、体に障るといけないと思い、言う通りにした。

私は数字だけわかる。店で獲物を売る時に覚えたのだ。初めて触る機械にどぎまぎしたが、機械が勝手に喋ってくれるので、何とか操作できた。機械に金額が表示される。

見たこともない額の金だった。

これだけあれば、パンをたくさん買える。祭りの食べ物だって買える。きちんとした服を買って着れば、女に悲鳴を上げられることもないかもしれない。

幸せに、なれるかもしれない。

そう、私は幸せになりたかった。みんなと同じくらいに、幸せに。

◆◇◆◇◆◇◆

BJは丁寧に髭を剃り、身支度を整えた。イサベラはもうすぐ急拵えの手術室にやってくる。

「お前は、どうするんだ。」

手を洗いながら、背中越しに問いかけてくる。

「待機だよ。お前が手術にしくじったら、すぐにイサベラのところへ行きたいからな。」

「そんなことにはならん。期待するな。」

口調まで戻ってきたか。

「どうかね。お前、緊張してるみたいだし。メスが震えるんじゃないか。おまじないに、いってらっしゃいのキスでもしてやろうか。」

「バカ抜かせ。縁起でもない。」

どすどすと足音を立てて、BJはドアへ向かう。しかし、ぴたりと足を止めると、真っ赤な顔をして振り向いた。

「お前がしたいなら、仕方がないけど。」

ふふ、思わず笑みが溢れる。

「軽いやつ?濃いやつ?」

「…どっちでもいい。」

お望みのままに。

手術が始まった。大きな扉の向こうで、BJはメスを握っている。

医療に関する記憶に関しては、ほぼ戻っていると言っていいだろう。いざ事が始まると、とんでもない集中力を発揮するやつだから、手術の途中で自己回復をしていく可能性が予想できる。

つまり、イサベラの手術が成功するか否かの確率については、見込みが全くなかった当初からは、想定を大きく修正をする必要がある。

それでも俺は手術室の前で待つ。俺の出番になった時、契約者のイサベラが、せめて安らかに旅立てるように。

にわかに城の中の空気が変わった気がする。

王子様一行が到着したに違いない。

勘違いしている奴がいるようだが、俺はガキどもの保護者を気取るつもりは更々ないし、この城のガーディアンでもナイトでもない。彼らをお出迎えするする義務はないし、取り立てて用事もない。

城のことは城の人間がカタをつけるべきだ。ロゼフィニアは自分の役目を自覚している。アルベルトはうまく立ち回るだろう。俺の出番じゃない。

なのに、怒鳴り声がここまで響く。

「ドクターキリコを出せ‼︎」

王子様、この期に及んでどうするってんだ。そもそも俺が行っても、できることは何もない。

ここまで来て手術を邪魔されるのだけは腹に据えかねる。まだ手術は始まったばかりだ。俺としても契約の履行のために、一秒だってここから離れたくない。

「ドクターキリコを出せ‼」

まだ言ってる。手術室に殴りこんでくることも…考えられなくはないのが、悲しいところだ。イサベラ、あんたはまともな人みたいだったけど、血縁には恵まれてなかったんだな。

「ドクターキリコを出せ‼︎」

俺は海より深いため息をついて、錨より重い腰を上げる。とっとと片付けたい。もうめんどくさいのは、十分すぎる。

白大理石の玄関ホールには、王子様一行が待っていた。お供は20人程度の男ども。

どこへ号令をかけたのか知らないが、従えているのは実に個性的なファッションの男たちである。そのセンスは真似できん。

風呂にきちんと入っているのだろうか。ある男の刺青の入った力瘤に浮かぶ斑点はダニだ。別の男の金ピカチェーンが下がった太い首筋に溜まる垢が、こんなに離れていても見えてしまう。百歩譲ってユーズド感の出たレザージャケットには、正体不明の液体が着いて干からびた後が無数にある。

リーゼロッテじゃないが消毒したい。不衛生さに眉が曇る。

彼らは一応王子様の後ろで待機してはいるが、何かしらの統制が取れているようには見えない。荒事の騒ぎが大好きな輩が日雇いでかき集められただけなのだろう。しかし人数がいるだけに侮れない。

ご一行の中に乱杭歯の男を見つけた。厩で会った男だ。男はやっぱりにやあっと笑った。あいつが王子様と不衛生な連中を繋げたのか。

玄関ホールから城の入り口と階段を塞ぐように、リーゼロッテに扮したロゼフィニアを始めとした城の面々が並び、男たちと睨み合う。

こんな場面に俺が出るのは絶対に間違ってる。

だが年嵩のハウスキーパーは俺の姿を見つけると、やや強引に最前列へ押し出した。妙齢の者たちまで一緒になって俺の背を押す。主人と性格まで似るのか。

カルロは上機嫌に俺の名前を呼んで、この場に不釣り合いなほど美しい莞爾たる笑みをたたえた。グレーにダークレッドのストライプ柄のスーツを纏い、同じくダークレッドの手袋まで嵌めている。余程気合を入れて来たらしい。

隣には黒づくめのドレスの妻を従えている。妻のエマは余裕たっぷりに、ご自慢の容姿をくねらせる。厩の前では暗闇でわからなかったが、なかなか強欲そうな眼をしている。ロゼフィニアがぽそっと呟いた。「つけまつげ、盛りすぎ。」

役者は揃ったと、カルロは背後に控えていた色付き眼鏡の男に合図する。男は携えていた封書を恭しく開封し、中に入っていた書面をカルロに手渡した。まさか。城の人達の間に、緊張が走る。固唾を飲んで皆が見つめる中、流れるような所作で書面を掲げ、カルロは高々と宣誓した。

「この城の有する財産を、全て私が相続することが正式に決定した!すでに裁判所の認可は得ている!これがその証書だ!」

すかさず声を張り上げるロゼフィニア。

「そんなもの、あなたがもっているはずがないわ!葡萄畑の地主も、ワイナリーの経営者も労働者組合も、私を認めてくれている。彼らが裏切るものですか!」

カルロは彼女を一瞥して嘲笑う。くつくつと肩が震えるたびに、さらりと前髪が揺れる。

「リーゼ、君はまだまだ子どもなんだ。彼らが君を、本当に信頼していたと思っているのかい。ここを見たまえ。しっかりとサインがされているだろう。それから、裁判所の印璽もある。これを偽物だとは言わせないよ。」

ホールに小さな悲鳴のようなものが上がる。憤る声がする。不安で震える嗚咽が漏れる。それら全てを嘲るように、カルロは俺に命じた。

「さあ、これで君に安楽死を正式に依頼することができるよ。ドクターキリコ、イサベラおば様を、楽にしてやってくれ。」

俺の答えは決まっている。

「契約通りに。」

城の人々の視線が、俺を突き刺すように向けられた。

◆◇◆◇◆◇◆

町の噂では、首都にすごい医者が来ているらしい。その人に私の容姿を変えてもらおうと思った。醜いままでは、金があっても上手くいかないとわかったからだ。美しくなれば、きっと幸せになれる。

首都へ行くために見たこともない場所に行って、初めて乗り物にも乗った。有名人らしく、医者の居場所はすぐわかった。たくさん金を取られたけど、医者は私を美しくしてくれると約束した。

その時に、どんな顔がいいかと聞かれた。迷ったが、金を取り出せるカードの写真の男は美しい顔をしていたと思い当たり、彼に似せてもらうことにした。

美しくなった私は、故郷の町へ戻った。

ずっと食べてみたかった肉料理の店へ足を向けたとき、いきなり女が飛びついてきた。「どこへ行っていたのか。」「心配した。」そんな事を言いながら、黒髪の女は泣いたが、いったい誰なのかわからない。私は自動車で郊外の大きな家に連れていかれた。

家の中に入り、ドアが閉まった瞬間、女が豹変した。鞭で私を打ち付けて叫ぶ。「お前がいなかったせいで、あの婆の遺産が手に入らなくなった。悔しくてならない。」全く理解できなかったが、金を出せるカードの男が、女の夫だということはわかった。

ひとしきり鞭うたれた後、豪華な食事が出てきたので、やはり前よりは幸せだと思った。

しかし、すぐに女は私の中身に気が付いた。酷く打ち据えられて、何があったか洗いざらい吐かされた。本物の美しい男のことは、どうなったかわからない。山小屋に置きっぱなしにしていた。女は山小屋まで私を連れて行き、男の死体を山に埋めさせた。

「これであんたは共犯者。」山小屋を焼く火を映す、女の恐ろしい顔が目の前にあった。

女は美しい男の仕草や話し方、好み、日常の振る舞いなどを、徹底的に私に教え込んだ。覚えが悪いと鞭で叩かれる。うまくできたときは、甘い液体を飲ませてくれた。のどがカッと燃えるようだったが、その後とろりとした気持ちよさを覚えたので、やはり前よりは幸せだと思った。

リーゼロッテに会う時の練習を、何度も繰り返した。練習するうちに、これまで教え込まれた美しい男の仕草が、仮面のように貼りついていく。気持ちが悪かった。

だが遺産が手に入った後は好きにしていいと言われているので、早くこの大きな家を出て、行ったことのない所へ旅をしたい。きっと、この演技が終われば、幸せになれる。

◆◇◆◇◆◇◆

ぷらんと書面を掲げたままのカルロは手がふさがっている。隣のエマに広辞苑クラスの冊子を渡した。ずしっとした重量に、エマはよろける。

「契約に関する免責事項などについて書いてあります。よくお読みになって、次に渡す書類にご記入ください。」

手の指二本分ほどの厚さの書類の束を、冊子の上に載せる。

「それから…」

「待ちなさいよ!こんなことしてたら、手術が終わってしまうじゃないの!」

エマが甲高い声を上げて、カルロに重い冊子を押し付ける。なるほど。そばで見ると、つけまつげがすごいな。そもそもこの冊子を見て怯む段階でお粗末な覚悟のほどが分かるってもんだ。

「関係ありません。私は契約の通りに仕事をします。安楽死の理念にご理解をいただいた上で、契約を結ばせていただいております。どうやら、お二方は安楽死について誤解されているようですので、この機会に学んでください。」

ここぞとばかりに威圧する。

安楽死は殺し屋じゃない。安易に死を得るための免罪符じゃない。

そこのところを分かってない奴が多すぎる。人生が嫌になって死にたいから殺してくれだの、あいつが気に食わないから代わりに殺してくれだの、我儘が過ぎる。

大体、俺は至極真っ当に仕事をしているのに、必ず勘違いをした奴が現れる。

原因は絶対あれだ。いつも鼻先にまとわりついてくるツギハギが、俺に会うたび「ヒトゴロシ!」って大声で叫ぶからだ。

フラストレーションを叩き込んだ俺の営業スマイルを、どう受け止めたのか、じりじりとエマはひきつった顔で後退る。それを見て、カルロも下がる。エマは苛立たし気に、夫の脇を肘でついた。慌てて王子様スマイルを貼り付けて、カルロは後ろのむさ苦しい男達に指示を出す。夫婦漫才か。

「どうやら、話し合いでは難しいようだ。さあ、頼むよ。」

◆◇◆◇◆◇◆

何をやっても上手くいかないと、女は喚く。私は演技をするしかないのだから、どうすることもできない。

初めて城へ行ったとき〈あの人〉がいて驚いた。話をしたかったが、演技にはなかったから、やめた。〈あの人〉は階段から落ちて頭を打って、おかしくなってしまったらしい。変な気がして誰がやったんだと訊くと、お前には関係ないと女は喚いた。

女が喚くとうるさくて嫌だったが、野蛮な男たちが人を脅して、怖がらせる方がずっと嫌だった。乱杭歯の男は「飼われるだけの豚は反吐が出る。」と私に唾を吐いた。私は何をしているのだろう。金のため?叩かれないため?

失態をした男が、血を吐いて転がるのを見た。工場の真面目な女が、襲われて、職を失うのを見た。公正な判断をしただけの老人が、家を焼かれるのを見た。黒髪の女の眼だけが爛々と光る。

私は幸せになりたかった。こんなのは幸せじゃない。私の幸せは、ここにはない。

「準備ができたわ。今度は失敗するはずがない。行きましょう、あなた。」

これで最後だと女は言う。早く、幸せになりたい。

幸せに。

◆◇◆◇◆◇◆

マーブルの床に、のそりと影が差す。俺より頭一つ背の高いドラム缶に似た体つきの男が、目の前に立ちはだかった。逆光になった顔に乱杭歯が覗く。

「あんたはもうちょっと、話が分かると思ってたんだけどな。」

俺に向かって揶揄するような手つきを彼はした。

「おめえも闇稼業の人間だろうが、俺らとは住んでる階層がちげえんだよ。金になるなら何でも構やしねえんだ。おすまししてちゃ飯が食えねえ。毎日、酒と女がねえと、死んじまうのさ。」

戦場でも、この手の人間はいた。そうなってしまった状況は知っている。だけど、そうなりたくなくて、リンチを受けて冷たくなった奴を知っている。自分のした事を後悔しつくして、ジャングルから戻ってこなかった奴を知っている。

「だからって女の便器を舐める趣味は、俺にはないな。」

げらげらと男たちが笑う。

「金が湧くなら、便器だろうが何だろうが、舐め尽くしてスッカラカンにしてやるだけよ。案外楽しいぜ。それによ、なんだかおめえは雁字搦めになってるみてえじゃねえか。」

確かに今回の俺は、自分で結んだ契約に囚われすぎている感はある。状況が悪かったとは言え、一兎も二兎も追う形になり、結局自分で自分の首を絞めた。今後は契約をする際の規約を改める必要がある。いい勉強になった。しかし、お前に指摘される謂れはない。

「他人に縛られるのなんざ、俺は嫌だね。窮屈でならねえ。おめえの言ってるケーヤクとかリネンとかはよ、面白くねえんだよ。」

「俺は自分の信念に理解を示した人としか仕事をしない。あんたが窮屈と思うのならそうなんだろう。訂正する気はない。二度と会うことはないからな。」

にやあっと、黄ばんだ乱杭歯の生えた口が歪んだ。後ろの男たちと一緒に「めんどくせえ」「気が知れねえ」等々ひとしきり嘲笑した後、血走った目が俺を捕らえた。

「やっぱ、ぐだぐだ喋るのはややこしくていけねえな。」

男は髭だらけの顎を傾けた。ごきりと音がする。下卑た男たちの歓声が続々と上がった。それに応えるように、ぐるぐると筋肉質な腕を回すと、俺に向き直った。

「殴れば済む。そうだろ?これ以上わかりやすいこたぁねえよ。俺達もそういこうじゃねえか。安心しな。そのヒョロヒョロの体に合わせてやっからよ。兄弟。」

いいね、ブラザー。俺は顔にかかる髪を適当にかき上げ、営業スマイルを引っぺがした。

「御託はいいから、とっとと来い。フェラ豚野郎。てめえの好きなポーズでファックしてやるよ。」

激高する男の顔がみるみる赤くなり、乱杭歯が軋む。何を言っているのかわからないが口角に泡が溜まっている。思わず俺も犬歯を剥いた。ますます男はいきり立つ。

「遅漏のピグレット。もっとおっ勃てやがれ。まさか、そのカワイイので俺を満足させる気か?精々でかい声で鳴いて見せろ。てめえの口にぶら下がってる汚ねえ特製ハーモニカでな。」

戦場仕込みの俺の罵倒がお気に召したらしい。風切り音が響くような勢いで、血管の浮いた男の太い腕が拳を振った。

それを合図にしたかのように、獰猛な叫びを上げて狂犬どもが襲い掛かる。真っ先に狙われるのは、女。

凛として、ロゼフィニアは先頭に立った。

獣の眼をした男たちが、彼女に野蛮な爪を伸ばす。誰が一番早いか競うように。

怒号と悲鳴が飛び交う中、ぴしりとアルベルトの声が通った。

「現行犯。」

すかさず玄関ホールの絨毯の下から、瞬時にしてワイヤーが引き上げられる。

城の人々と襲い掛かる男たちの間に、ワイヤーに繋がる網がカーテンのように立ちふさがった。ひるんだ暴漢どもは、たたらを踏む。そこへ背後から突入してくる一団がある。ネイビーブルーの制服を身に着けた彼らは、すばやく窓をふさぎ、退路を断つ。

ロゼフィニアを目がけて、ひと固まりになっていたゴロツキ達はたちまち包囲され、電光石火の勢いで警官隊は玄関ホールを制圧した。

何が起きているのか全く処理できない様子のカルロは、騒ぎの真ん中でへなへなと座り込んでしまった。

彼の持っていた重い冊子が手から落ちて、エマの足を直撃。エマはキイキイ金切声をあげている。悪女なら、ここで悠然と構える方が様になるのだが、あの冊子がつま先に当たれば不可能だな。

熟練の警官たちは次々と手際よく、ゴロツキ達をお縄にしていく。

「鼻が無くなったら、どうしてくれるんだ。アルベルト。」

おお、痛え。網があんまり勢いよく上がったので、鼻の頭が網で擦れた。仕掛けを持ったアルベルトは、疲れ果てたように肩を落とす。

「あなた、一応医者なんですから、自分で治してください。僕はもう長期休暇が欲しいです。」

この田舎町の平和ボケした警官では、城で起こる騒動に太刀打ちできないと判断し、首都まで走って精鋭の警官隊の協力を要請する苦労を、アルベルトはぶつくさと言った。まだまだ言い足りない様子だったが、自分の立場を思い出したのか、渋々口を噤んだ。「殴られるときに自分から前に踏み出すって、ボクサーですか。僕の知ってる医者は、そんなこと絶対にしません。」それだけ耳に入れておいた。

後は任せる。手術が気になって仕方がない。

足早にホールを抜ける背中に、リーゼロッテの声がする。本物のリーゼロッテだ。ぜえぜえと息切れが聞こえてくるようだ。

「や、やっと城に戻れた。よくも、工場からの帰り道の間、ちまちまと邪魔してくれたわね!お婆様の手術に間に合わなかったら、どうしてくれるのよ!地の果てまで追いかけて潰す!あと、カルロおじ様が持ってる書類、偽物だから。本物はこっち!」

工場の総会のジジイどもを攻略してやったわ!リーゼロッテの勝利宣言が響いた。

手術室の扉の前で、俺は待つ。

契約を果たす時を待つ。

少し離れたソファで、リーゼロッテとロゼフィニアが身を寄せ合って祈る。

彼女たちは俺が何者なのかを知っている。

例え彼女たちの涙が流れても、殺意を向けられても、俺の成すことは一つだけ。

俺の仕事は、依頼人との契約で成り立っている。本来イレギュラーは許されない。

だから、ここから先はけじめだ。手術の結果がどうあろうとも。

星が輝く深夜、日付が変わる前に手術室のドアが開いた。城の中に歓声が沸き上がり、リーゼロッテとロゼフィニアは抱き合って泣いた。BJはそのまま廊下のソファに寝そべると、大きないびきをかきだす。

その場で正式に後見人の立場を得たリーゼロッテから、安楽死の契約の破棄が申し込まれた。必要な書面を作成し、受理した。

【八日目】

バイクは完全に天に召された。この言い方、嫌いだった。改めると、レンタルして城まで乗ってきたバイクが、完全に壊れて動かなくなった。

しかもまだ山の中である。町まで徒歩で行かなくてはならない。革靴でアスファルトの下り坂を降りる状況を想像するだけで、つま先と腿が痛む。だが時間が無い。足を進めるしかなかった。

下山しても道はまだ悪い。葡萄畑の真ん中を突っ切る農道を、商売道具一式を含んだ荷物を抱えて歩く。朝日が昇る前に出てきたのに、もう太陽は高くなっている。

けじめだ。手術ができるようになったなら、あいつは十分回復した。細かいことも、きっとあの様子なら、すぐに思い出すだろう。そこに俺はいるべきではない。

いいや。俺は自分の信条と、あいつを天秤にかけたのが許せないのだ。

あいつの暑苦しい生命賛歌と、俺の安楽死の理念は、混ざり合うことはない。

単純にプライドがあるのだ。なのに、そのプライドを二の次にしてしまえるほど、今回の件はまずかった。

どんなにあいつに毒されているのか、嫌というほど自覚した。

だから、けじめ。毒を抜きたい。長い時間がかかっても。

ペースを上げよう。早く町に着きたい。列車に乗ってしまえばカタがつく。砂利道をざくざくと踏みしめ、傾斜に沿った葡萄畑を行く。

風にそよぐ葡萄の葉が、やけに力強く見えた。その実は言わずもがな。

どこまでも広がる葡萄畑。根を張った木々が生み出す、命のフィールド。

土の下には微生物を含む無量大数の死骸がある。その躯が豊かな土壌となって木を育み、結んだ実もいずれは必ず土に還る。サイクルなのだ。誰も止められない、命の約束。

人間も同じだと説くが、大概理解されない。

今までのケースから、安楽死に反対する者は、依頼人が能動的に死を求めるのが、自分の損失になると考えている。喪う悲しみが損失だと。今回のイサベラのように、存在が無くなること自体が、損失だと判断される事も珍しくない。

社会生活を送る人間が、喪失を悲しみ、苦しむのは当然だと理解する。しかし、それは依頼人の感情ではない。依頼人が俺を頼るまでの葛藤に寄り添う寛容さ、言わば想像力が、反対する者には圧倒的に欠けている。

自分の人生を懸命に生きた者が、その幕引きを決める権利は十分にある。生が尊重されるのなら、死もまた同じ。どちらが、などと思い上がりも甚だしい。

だからこそ、命の約束の日までの道のりを、他者が不自然に変えるべきではない。

人が人として命を終えられる。これ以上のことはあるだろうか。

だから俺は歩みを止めない。

随分歩いた頃、革靴に何かが当たった。乾いた砂利の足元に小石が転がってくる。次々に、ころころと。

俺が歩いてきた坂の上からだ。

やがて耳に届くのは、駆け寄る足音と、息切れ。

「待ってくれ。」

歩き続ける。

「まだ、思い出してないことが、あるみたいなんだ。」

道の先だけ見つめる。

「多分、お前さんに関係のあることなんだ。いや、絶対、大事な何かなんだ。俺はそれを思い出したい。なあ、こっちを向いてくれないか。きちんと話がしたい。どうしていきなり城から出て行ったのかさえ、俺にはわからないんだ。」

彼が一気に捲し立てた後、ただただ沈黙が流れる。

耐えきれずに空を仰ぐ。陳腐だが、バカみたいに青かった。

「お前は十分回復したよ。それに、忘れたままの方がいいってことは、たくさんある。時間が経てば、忘れたことさえ忘れられる。俺の仕事はもう終わった。次があるから、行く。」

黙って行けばいいのに、言葉を交わしてしまう。だけど、これで本当に最後だ。どこかの夜で会うことがあるかも知れないけど、その時のことは、今は考えたくない。

「仕事って、安楽死のか。」

俺の背中に震える声が届くが、振り向かない。声はどんどん加熱していく。

「だめ、だ。だめだ!そんなのはだめだ!認められない。契約なんざ犬にでも食わしちまえ。紙切れ一枚で決まる命があってたまるか!」

足は止めない。

「契約だろうが何だろうが、生きられる可能性がある命を、どうして簡単に絶つんだ。誰にも分からないものだろうが。生きるの死ぬのは俺たちが決めることじゃない!」

「お前が言うな‼」

怒号が葡萄畑に響く。

「人が生きるか死ぬかは当人にも決められない。当り前のことだ。だがな、お前の言っていることは結果論だ。死を選ぶまでの依頼者の意思を踏みにじる真似は許さん。俺のところへ来る人間すべてを、お前が治療するのか。何様のつもりだ。」

完全な八つ当たりだ。これはイサベラへの後悔。俺自身に向けられるべき言葉。

「お前が斡旋するなら俺はやるぞ。」

「仲介業者なんて願い下げだ。誰もがお前の手を欲していると勘違いするなと言っている。俺の手を求める人間がいることを認めろ。それこそ生きるの死ぬのを俺たちが決められない証左だろうが。求めるのは依頼人だ。俺じゃない。」

「自惚れるな!お前のところに行く患者が、全て死にたがっているとどうして言い切れる。誰もが心に生きたいと願う思いがあるはずだ。お前はその思いを封じ込めるために、あんなに回りくどい契約を結んでいるように俺には見える。契約書で死に縛り付けているんだ。」

俺がそのことを知らないとでも思うか。生きたくても生きられない。だから俺の医院の門を叩くと言うのに。

「俺は違う。契約書も日時の指定も必要ない。治療する可能性があるのなら、命を救うことに何の躊躇いがあるか。」

お前に何がわかる。荷物を投げ捨てて、振り返る。クソ生意気なツギハギが燃える瞳で睨んでいる。気に食わない。

「可能性。可能性か!お前はよくよくその言葉が気に入ってるようだ。だが助からない可能性について熟慮したことはあるのか。救えない可能性に陥った自分を嘲ることはないのか。可能性にしがみつくお前の気まぐれに振り回されて、体を弄られる人間の人生を思うことはないのか!」

「何度打ちのめされようと、俺はメスを振るうんだ。それしか俺にはない!」

お前に何がわかる。メスが使えない瞬間も知らないくせに。打ちのめされる瞬間が息つく間もなく何度も襲ってきて、何も感じなくなるまで心が殴られる時間を味わったこともないくせに。

「助からない可能性を限りなくゼロに近付け、助かる可能性を引き上げるために、俺は最善を尽くす。確かに賭けのような一面があるのは否めない。だがそこで止まっていては命は救えない!死ぬと諦めている患者を俺はこれまで何人も救ってきた!」

お前に何がわかる。わずかな可能性が泡のように弾けて、死の絶望に塗りつぶされていく人間の慟哭を。体中が壊死してピンセットで蛆を取ってもらわなくてはならない人間の屈辱を。見せしめのために生きたまま皮を剥がれ、ジャングルに縛り付けられた人間の憤怒を。

誰もが死ぬために生まれてくるものか!

「俺は絶対に許せない!このヒトゴロシ‼」

殴りかかってくる勢いで駆け寄るBJを抱きとめ、力任せに掻き抱いた。固い胸板がぶつかり、激しく腕が絡みつく。彼が背中ごと引きちぎる勢いで俺の髪を握りしめている。俺は彼の肩に爪を立てた。

互いに牙を剥いたのは同時だった。そのまま噛みつき、深く口づけた。

薄い唇をこじ開ける。

がちがちと歯をぶつけながら熱い舌を吸い上げて、舌先を絡ませ、こぼれる唾液を啜る。

彼の犬歯で俺の唇が切れる。血の味がする。舌先をかじってやる。負けじと俺の舌を噛みちぎろうとする。本気なのがこいつらしい。後ろ髪を引き掴み、顎を上げさせた。

あいつの口と俺の間に、血の混ざった唾液のブリッジがかかる。その向こうから見えるのは、赫奕とした生命力に満ちた眼差し。

気に食わない。

だけど、俺を焦がすのはこの熱だけ。

俺の隻眼に何を見たのだろう。

「嫌いだ。」

その言葉に、はっと息をのんだ。

ツギハギを境にした両の眼に薄い膜が張っていく。

「お前さんなんて、大嫌いだ。」

あいつは俺のタイを掴むと、いきなりちゅっと音を立てて唇に吸い付いた。俺の唇の切れた傷をぺろりと舐めてくる。さっきと打って変わった反応に目を白黒させる俺に構うことなく、頬の縫合痕をぐりぐりと摺り寄せる。

「大嫌い。大嫌いだ!バッキャロー!」

あいつは俺の首にかじりついて離れない。荒い息の中に微かに潤声が混じっている。

葡萄畑の中を熱い風が通り抜け、無数の葉がさざめく。あいつの吐息だけが俺の耳を湿らせている。

「…BJ……」

だらりと下がったままの腕を、おずおずとあいつの背中に回した。

「バカキリコ、切羽詰まった顔してんじゃねえよ。似合わねえ。嫌いだ。そんな面。」

参ったな。俺、そんなに情けない顔してたか。

牙を抜かれて、ため息交じりに白黒の髪をぐちゃぐちゃに撫でた。

「くそ、ちょっと背が高いからって、調子こきやがって。大嫌いだ。」

ぐいと俺の胸を押し、溢れる生命力の火はそのままに、俺を見上げるあいつ。小生意気で、暑苦しくて、そのくせ繊細で、とびきり我儘な奴。

戻ってきた。戻って来たんだな。

「……BJ。」

「おう。」

「BJ。」

「なんだよ。」

「……ハハッ。」

あいつの肩に額をつけると、乾いた笑いが出た。

「気持ち悪いな。罵られて喜ぶようになったら、お前さん、いよいよ詰みだぞ。」

変態扱いするな。ぎゅうと力を込めて抱きつぶすと、あいつは俺の肩にタップをするけど離す気はない。観念したように、BJは俺の銀髪に鼻先を埋めた。黒いスーツの背中を熱い掌が撫でる。

それに応えるように顔を上げて、あいつの顔をじっと見つめた。なんだよ。散々人の事言っといて、お前も泣きべそかいてるじゃないか。指摘してやると、みるみる頬をかっかとさせた。「うるさい!」とそっぽを向くのを、顎を掴んでそのまま唇を落とした。

イヤイヤと首を振るのも、なんだか懐かしい。お構いなしに舌をぬるりと滑り込ませる。さっきの噛みつきとは真逆の接触。満足気に首筋に回る腕のぬくみを感じる。角度を変えて唇を味わう。唇を食まれて背筋を走る甘い電流。あいつも夢中になって求めてくる。

歪でもいい。名前がつかなくても、受け入れられなくてもいい。

俺は今のお前と、ずっとこうしたかったんだ。

彼の丸い後頭部を抱えて、葡萄畑の中で、何度も何度もキスを繰り返した。

あんなに情熱的な邂逅を果たしたというのに、BJの口からは不穏な言葉が出る。

「今回、事故にしろ記憶障害を患ったせいで、リーゼロッテには世話をかけたから、サービス残業を申し入れたんだ。内容はお前を連れ戻すこと。報酬は10億。お前さんが城に戻れば、10億はお前の物。このまま行ってしまうのなら、10億は俺の物。」

「その金は、俺がリーゼロッテと契約した10億のことか…?」

「出所は知らん。確認したければ、本人と話せ。城にいるぞ。事後処理で、てんやわんやなんだ。ちなみに俺はしばらく城に留まる。イサベラの経過が気になるからな。それからカルロが戻ってきた。拘留するにも町の警察署はゴロツキどもでいっぱいで、空きの房がなかったそうだ。それで警察の取り調べの後、裁判が始まるまで自宅で待つように言われたんだが、家がなくて城を頼ってきた。このへんはちゃんとリーゼロッテが確認してるから間違いないぞ。そしてカルロの顔を整形したのは」

「ちょっと待って。情報過多。」

痛むこめかみを押さえる。

「何だ。今更逃げるなんて許さないぞ。お前がかき回した部分もあるんだ。落とし前つけろよな。」

誰のせいだと。やっぱり城に行くのはやめよう。時間外労働をこれ以上させられちゃ堪らん。

不機嫌になって踵を返す俺のスーツの裾を、BJは捕まえて離さない。

「俺に忘れられて、拗ねてたくせに。」

拗ねてた?俺が?

「そうでなきゃ、逃げるように出て行ったりしないだろ。これは俺の仮説。でも当たってるみたいだな。正直に言うと、お前さんとのことは完全に思い出したわけじゃない。魔法みたいに、いきなり全部治る記憶障害なんてないから。でも一番大事なことは思い出せた。他のこともきっと思い出せる。」

真っ直ぐな瞳。いつもそうやって俺を見つめてきた。

「思い出す記憶が、どうしようもなく腹が立って、憎たらしいものでもか。」

「だいたい分かる。俺が安…おえ、口にするのも嫌だ。お前さんのロクでもない仕事に、無性にイラついて、許しがたいと腸が煮えているのは、現地点で確定しているからな。思い出すたびに、お前さんにアタるかもしれないが、それは自業自得だと諦めろ。」

「すんごい理不尽なこと言ってるの、わかってる?」

彼は白い歯を見せる。

「それが俺だろ。もし思い出せなくても、新しい記憶を作ればいい。」

「きっとどうでもいい記憶ばかりになるぜ。」

「しつこいな。まだ拗ねてるのか。」

違う。今すぐにでも抱きたいのに、城に戻らなくちゃならないのが面白くないだけだと耳元で囁くと、BJは茹で蛸のように頸まで真っ赤になった。それを冷やかしながら、坂の上へ足を向ける。BJが俺の背中をぼすぼすと殴るけど、全然痛くない。じゃれてるだけだ。

ああ、まだこのヤマは終わらない。早く片付けたい。本当にめんどくさい。10億じゃ足りない。

葡萄畑の向こうにそびえる古城を目指し、二人で長い坂道を登り出した。

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