葡萄畑で捕まえて(中)

キリジャバナー2

【四日目】

俺の食事に異物が混入された。

チキンの香草焼きから、かすかな異臭がしたのだ。不思議そうな顔をしているリーゼロッテに、まだ食事を始めるなと告げ、持ち歩いている検査キットを使う。するとチキンの肉汁が、見る間に薬物の陽性を示した。俺に毒物で挑むのか。なめられたもんだ。

犯人はあっけなく捕まった。俺の前に皿を置いた給仕の女性だった。

『ドクターキリコは日本から来た人だから、食事に〈ニガリ〉をかけるといいと、野菜を届けに来た男性が言っていた。自分はそれを鵜呑みにして、男性からもらった〈ニガリ〉を料理にかけてしまった。』ニガリは健康食品だと思っていたと、給仕の女性は泣きながら謝罪した。確かに日本で苦汁を健康のために摂取する人間はいるけれども、得体の知れない物を勝手に料理にかけるのはNGだろう。呆れるしかなかった。

同じテーブルに着いていたリーゼロッテは、ひどく落胆していた。信頼している従業員の中から、害をなす人間が出たのだ。信頼関係に影を落とすのと同時に、それは城中の全ての者が、安全ではないことを示していた。

不安が食堂を満たす前にリーゼロッテは従業員を集め、綱紀の緩みを引き締めること、身を守るために一人で行動しないこと、警備員の数を増やすことを指示し、その場を解散した。経緯はともかく、犯人の女性には厳しい処分をすることになりそうだ。

「悪かったわ。」

ショックを隠せないまま、リーゼロッテは呻く。

「よくあることだ。問題ない。」

「しばらくデリバリーを頼んだ方が安心?」

「どうかな。自分で作るよ。その方が変なものを入れられずに済む。」

「あんた、料理ができるの?」

目の前の小娘は、すっとんきょうな声を上げた。失礼な奴だ。俺が料理したらおかしいか。得意料理の名前を挙げると、リーゼロッテは目を真ん丸にしたり、ケタケタ笑ったりした。癪に障ったので、以前日本海側の漁港で鮟鱇を捌いたときの手順を詳細に説明したらおとなしくなった。ついでに厨房へ立つ許可を得る。

工場へ向かう約束があると、リーゼロッテは席を立ったが、食堂を出る手前で振り返る。

「野菜を届けに来た男は、誰だと思う?」

「多分、お前の思っている人物の差し金で間違いないだろう。証拠はないが。」

彼女は無言で頷くと、待たせていた執事を伴って廊下の向こうへ消えた。若い身空で、降ってわいた困難によく立ち向かっている。だが、お前のところまで、俺は手が回らない。契約の内容を履行するだけだ。

それにしても、あのツギハギどこ行った。この騒ぎの中、BJは食堂に現れなかった。まさか異物混入はデコイで、本命はBJのほうだったのか。嫌な予感がして、階段を駆け上がる。左右を見渡すと、右側の廊下をベッドが歩いていた。

…おい、そっちへ行くな。願いむなしく、ベッドは俺の部屋の真ん前で着陸した。

「なにやってんだ。」

ふうと一仕事終えたように汗をぬぐうツギハギに、一応紳士的に聞いてやる。

「今日からお前の部屋で生活しようと思って。付きまとうと言ったはずだぞ。俺は早く記憶を取り戻したいんだ。寝る間も惜しいくらいに。だから、お前と寝食を共にするのが、一番手っ取り早いと判断した。ところがベッドが一つしかない。さすがに不便だから、俺の使っていた部屋からベッドを運んで来たんだ。」

重すぎて手伝いを頼みたかったが、どういうわけか誰も見当たらない。自分一人でやるしかなかったから、食事をとり損ねたとツギハギはふくれっ面を作った。

もう何て言ったらいいのかわからない。本当にこの男をどうにかしてくれ。

「ほら、部屋の中にベッドを入れるのを手伝えよ。」

叫びたい。

やると決めたら、こいつはやる。痛いほど知っているはずなのに、今までの自分の認識が如何に甘かったか思い知らされている。BJは俺がどこへ行くにもついてくる。同じ空間にいても、ずっと俺の一挙手一投足を観察している。息が詰まるどころの話じゃない。

観察に飽きたかと思えば、怒涛の質問コーナーの始まりだ。「自分はどんな手術をしていたのか。」「医院は構えていたのか。」適当に答えていたら「好きな音楽は何だった。」だの「黒色しか着なかったのか。」だの、至極どうでもいいことを訊き始めた。俺はお前の説明書じゃない。耐えかねて一喝すると、しゅんと小さくなってしまった。以前のBJなら身じろぎ一つしない程度で言ったのだが、今のこいつには刺激が強かったらしい。まだまだ本調子ではないのだ。

口にチョコレートを放り込んでやると、うつむいてもぐもぐやっていた。そのまま黙っとけと、鞄に入っていた医学雑誌を渡してやる。BJは食い入るように読みだした。真剣な目つきは以前と変わらない。

やっと静かになった。窓を開けて、タバコを吸う。

精密な検査をしているわけではないから、楽観的な憶測は避けるべきだが、BJは記憶障害が目覚ましく回復しているように見える。約束の期間は半分を過ぎた。これからどう動くか、そろそろ見極めなければ。

カルロはおつむが弱いが、その分しつこい。嫌がらせは続くだろう。俺だけなら構わないが、BJに手がかかる可能性も日ごとに高まる。記憶が完全に戻っていないこいつは、襲われたときにメスを投げられない。結果的に同じ部屋になったのは、好都合なのかもしれない。俺達が一緒にいるところへ危害を加えようとするリスクは、さすがの王子様でもわかるだろう。そこまで考えたとき、ふいにBJが呟いた。

「お前のタバコのにおい、前にも嗅いだことがある。多分、好きなにおいだ。」

「…そうか。」

もっと気が利いたことが言えればいいのに、窓の外を見ることしかできなかった。

医学書を読み終えたBJは、専門用語を使って、治療法をつらつらと言えるようになっていた。回復具合を喜ぶべきなのだろうが、正直BJの生命力に底知れないものを感じて、肌が粟立った。天才ってやつは、とにかく常識が通じない。急に身体の力が抜けた。まともにやっていられないと、本能の部分で悟ったのかもしれない。

ふざけ半分で、あるゲームを提案した。俺が疾病の名前を挙げて、BJはその治療法を答えるクイズみたいなもの。「いいな!」と子犬の瞳で、BJはやる気十分だ。俺は気楽にやりたかったので、念入りに洗浄したポットで湯を沸かし、紙コップにインスタントコーヒーを入れた。

「どうして紙コップなんだ?」

「こーゆーのが流行ってるんだよ。」

「ふうん。砂糖はないのか。」

「ブラックで飲むのが流行ってる。」

「お前、かなりミーハーなやつなんだな。」

そういうことにしておいてくれ。思い付きで開催されたクイズ大会は、BJの正答率8割という恐ろしい数字を叩き出した。残りの2割は回答がとんでもなさすぎて、不可を出した。最前線を退いた俺の知識ではここまでだから、きっとその上を行く治療法のことなども思い出しているのだろう。実際BJは、ぶつぶつと症例と対処法を呟き続けている。頭から湯気が出そうだぞ。少しリラックスした方がいい。庭へ散歩に連れ出した。

庭へ足を向けると、アルベルトがいた。

「今日は隠れていないんだな。」

「もうしませんよお。そうだ、お二人さん。四阿の手前にある生垣が、ひどく壊れてしまいまして、応急処置のために、業者が木材を運んで来たんです。まだ木材が荷台に乗ったままだと思うんで、近付かないでくださいねえ。」

「そうなのか。教えてくれて、ありがとう。」

素直に礼を言うBJに、アルベルトは「いえいえ~」と手をひらひら振って、木材を運ぶための道具を取ってくると物置に入っていった。

少し歩くと、確かに壊された生垣があった。かなりの範囲で低木が引っこ抜かれたり折られたりして、生垣が囲んでいた花壇の土が流れ出している。こんな嫌がらせをして意味があるのかね。リーゼロッテへの圧力のつもりだろうか。生垣の傍に、板状の木材が積まれた荷車があった。アルベルトの助言通り、避けて進む。

突然、背後から大きな物音がした。

振り向く間も無く、木材が俺達を目掛けて倒れ込む。

腕を上げて受け止めるが、あまりの重量に潰れてしまう。ゴツゴツと木材がぶつかり合う音が響く。

幸い頭の上に屋根ができるように木材が折り重なったので、体への衝撃はそれほどではなかったように感じる。

背中に伝わる木材の振動が止むのを待って、とっさに抱えたBJの顔を見る。うん。顔は怪我してないな。頭は俺の腕でカバーできたはず。他はどうだろう。指が痛んでないといい。

ぐっと力を込めて、体の上に覆いかぶさった木材を持ち上げる。

「BJ、怪我はないか。」

リーゼロッテの采配で城から出てきた人々が、木材をどけてくれているようだ。土煙と慌てた声が混じる中、俺たちは木材の山から這い出した。

BJの体をチェックする。指は動くか、腕は痛まないか、診察するように体を見ていると、BJが叫んだ。

「自分の体を見てみろ!ひどい出血じゃないか!」

指をさされた方を見ると、シャツの脇腹がべっとりと血に濡れていた。

木材で腹の肉が少しえぐれただけだろう。青くなったり、悲鳴をあげたりする城の人間の前を素通りして、自分の部屋へ戻る。シャツをきつく巻いて止血帯にする。縫合したほうがよさそうな傷だが、生憎道具の手持ちがない。そうだ、BJの鞄があったじゃないかと顔を上げると、ツギハギが不機嫌そうに俺の前に立っていた。

「どうして俺を庇ったんだ。」

どうしてと言われても。契約だからと説明したが、ツギハギは納得しなかった。無言で鞄から道具を取り出す。縫合針を手にしているのを見て、ぎょっとした。

「人体実験の被験者になるつもりはないんだが。」

「縫合だけなら、多分できる。麻酔は自信がないから、しない。」

どうしてこう何度も、こいつに麻酔なしで縫われなきゃならんのだろうか。

ちくちくと針を動かす手つきは、お見事。BJは、あっと言う間に縫合を終え、木材がぶつかった腕を診察し出した。これも記憶を取り戻すきっかけになるかと、好きにさせた。

しかしながら、どうして木材が倒れ込んできたのだろうか。離れたところにいたのに、まるで突進してきたかのようだった。俺達に忠告したアルベルトが関わっているとは考えにくいが、忠告すら囮だったのだろうか。

「骨が折れてないか診たい。」

BJは俺の腕をとって、ぐるぐるまわしたり、持ち上げてみたり、ひとしきり確かめた。レントゲンを撮らなきゃわからんとは言ったが、現地点で骨折の気配はない。次は俺の背中に回って、ぺたぺたと手を這わせる。冷たい手をしているな。珍しい。

「内出血している。打撲もあるだろう。湿布を張るから、痛む個所を正直に言えよ。」

意地をはるなってことか。正直に痛むところを申告し、湿布をはってもらう。ひんやりとした湿布の感触を味わっていると、背中にぽふんと重量を感じた。BJの頭が当たっている。

「お前、食事に毒を盛られたんだってな。」

BJは、ぽつりと呟く。

「今の事故は、荷車が勝手に動き出したって。」

ごつごつと頭突きをされる。

「お前は言わないけど、もっといろんな目に遭ってるんだと思う。」

背中にぬるい雫が降っている。

「俺、どうしてお前にここまでしてもらえるのか、わからない。頭の中に名前が付けられない感情があるんだ。認めたいのに、受け入れられない。そんな感情が、お前を見ていると湧いてくるんだ。」

無言の俺の背中に、BJは話し続ける。

「嫌悪感とかじゃないんだ。胸の奥がつきつき痛むみたいで。これも記憶を失くしているせいなのかな。」

んー。一呼吸おいて、BJの方へ体を向けた。

「思い出すのが苦しいことなら、忘れたままでいいんじゃないか。」

「…え?」

濡れた頬を包み込むようにして、BJの顔を上げさせる。

「お前が一番に思い出さないとならないのは、手術に関することだろう。イサベラを助けるんじゃないのか。」

「うん…」

「それから、俺がお前に世話を焼くのは、リーゼロッテと契約したからであって、俺自身のためだ。気にする必要はない。俺は好きにやってる。」

「でも、お前が怪我したりするのは、おかしいと思う!」

そうだよな。俺もそう思う。でももう少し辛抱するだけでいいんだから、問題ない。相手も最終的には俺を殺したくないだろうし。

「お前が手術できるようになれば、なんとかなる。ほら、縫合ができただろ。知識も戻ってきてる。順調だ。ただ、俺がお前と一緒にいられる時間は、あと3日しかない。その間に、お前が自信を取り戻して、手術する姿が見られたら最高だ。」

『記憶』とは言わなかった。まだ涙で潤んでいる瞳を覗き込む。そっと触れた唇は、少しかさついていた。

「おやすみのキスだ。俺は休む。」

今頃傷がずきずきしだしたのを隠すように、シーツに潜り込み、無理矢理意識をシャットダウンさせた。

【五日目】

熱が出た。昨日の怪我が原因だろう。傷が化膿していたり、どこかが腫れているわけではないから、単純に免疫がちょいと落ちたんだろう。午前中はのんびりするとしようか。俺が起きた時には、もうBJはいなかったし。欠伸をすると、ノックが聞こえた。許可など不要と言わんばかりに、ドアが開け放たれる。

「見舞いよ。受け取りなさい。」

袋一杯にペットボトルを持ったリーゼロッテだった。急に気力が抜けていく。

「ムカつくわね。ありがとうとか言えないの?」

「お前、友達いないだろ。」

「あ、あんたみたいな陰キャに言われたくないわ!」

にゃあにゃあ喚く子猫はほっといて、渡された袋の中を見ると、飲料水がたくさん入っていた。

「助かる。異物混入で、この城の人間を困らせたくないからな。」

些か留飲を下げたリーゼロッテは、つかつかと部屋を横切り、窓際のソファに腰掛けた。今日の彼女は、こなれた印象のパンツスーツを身に着けている。黙っていれば様になるのに、足が痛いとブルーのヒールを放り出した。

「ああもう、工場まで行ったのに無駄足食わされたわ。あの人、工場の役員にまでちょっかい出してるみたい。昨日の庭の件も、あの人の企みね。」

「何か掴んでるのか。」

「まあね。ただ、今すぐ突き付けても効果が薄い。タイミングが大事。あなたには、とても悪いと思うけれど。」

「それも込みの10億だ。忘れるなよ。」

そうね。軽く返事をしたきり、リーゼロッテは俺をじっと見つめた。BJのときの虫かご状態ではないが、注意深く観察されている。やがて彼女は、至って真剣なまなざしで問いかけてきた。

「あんたとブラック・ジャック先生、普通の関係じゃないでしょ。」

こんなことを他人から訊かれるのは初めてだ。

「確かに商売敵に手を貸している状況は、普通ではないな。」

「ううん。もっと感情的な部分よ。恋人とかじゃないの?」

「恋人かあ…」

「ちゃんと人間の言葉で言ってるからね。生まれて初めて聞いたみたいな反応しないでくれる。」

「随分と馴染みのない言葉だったから、処理が追い付かなかった。それで、どうしてそう思うんだ。」

ふうん、と口をへの字に曲げて、リーゼロッテは足を組んだ。

「なんだか私と似たような感じがしたから。私、クィアみたいなのよね。幼いころから、自分の性別と認識に違いがあって、思い切ってアメリカに行ってみたらスッキリした。長いこと私はクエスチョニングだったんだって。それからカウンセリング受けたり、コミュニティに顔出してみたり、いろいろ。クィアってカテゴリが、今の私には合うの。」

クィアか。ざっくりとしか知らないが、性的マイノリティの総括的な名称だ。

「まだ私が女として同性を愛すのか、異性を求めるのかわからない。どっちでもあるし、どっちでもない感覚ね。ひょっとしたら性って概念がないのかも知れない。自分の性について、納得のいく名前を見つけてないの。だからクィア。それでいいの。」

組んだ足を伸ばして、手をストレッチするように前に出す。猫が伸びをしているようだ。しなやかな動きの子猫は好奇心いっぱいの眼を向ける。

「私がこれから誰を愛せるのかわからないけど、人間として気持ちを通わせられる人と出会えたらステキだなって、あんたたちを見てて思ったのよ。」

「それは買いかぶりすぎだ。」

仰天した。もともとのあいつを見たら、そんな幻想ぶっとぶぞ。気持ちが通うとか、都市伝説だ。あいつと出会ってから俺が飲んだ胃薬の量、教えてやろうか。懇々と説教臭くなりだした俺に、彼女は露骨に嫌な顔をした。

「やっぱり、私の眼って確かだわ。」

投げ出したヒールを拾い、窮屈そうに履く。

「あんたは喋ってても、殴りたくならないもの。私、男はダメなのよね。今のところ。城の人たちはみんな分かってるから大丈夫。外じゃそうはいかないから、結構がんばってるのよ。もちろんダメじゃないタイプの人だっているわ。それでも触られたらボコボコにしちゃうかもしれない。殴った後に拳を消毒しまくる。」

アルベルトが言っていたことは、本当だったのか。男と見るや引っ掻く子猫なんて、誰も拾わないぞ。それなら食堂でカルロに抱きつかれた時は大変だったんじゃないか?よくぞ聞いてくれたと、リーゼロッテは如何に不快だったか、マシンガントークを繰り広げた。

「変ね。あの人、知っているはずなのに。」

「おつむの弱い王子様の秘密か。」

「なにそれ。」

そのあだ名をつけるに至った経緯を話すと、リーゼロッテは自分もそのあだ名を使うと言って笑った。そして小さく謝罪の言葉を残して、部屋から出て行った。

ひと眠りすると、平熱まで下がった。脇腹の痛み具合を確かめるために、城の中をうろつくことにする。痛むには痛むが、大げさにするほどではない。小さな傷なのだし。階段の上り下りは大丈夫。椅子に座るのは、ゆっくりならいける。そうこうしながら厨房の前を通りかかると、大きな声がした。

「困ります!」

厨房の扉の覗き窓から、ツートンカラーの頭が見える。貧血のような感覚に襲われながら、覚悟を決めて扉を開けた。料理長が眉をハの字にして、仁王立ちしている。その前で、ぶすっとだんまりを決め込んでいるツギハギ。何をやらかしたのかと厨房の作業台を見ると、肉の塊が山のように積まれていた。

どうして大量の肉を持ち込んだのか尋ねると、BJは絞めた直後の山羊を農家から買い、郊外の野原で朝から切り刻んでいたそうだ。わかってる。お前が手術の練習したくて、そうやったのはわかってる。でも。

「なんなのお前!シリアルキラーにでもなるつもりか⁈」

やがて食堂に国際色豊かな山羊の肉料理が大量に並び、涙目でBJが食べていた。厨房の人たちからは、慇懃な言葉遣いで対応されるようになった。

「アルベルト、タバコ買って来い。」

「やですよお。それに禁煙だって言ってるじゃないですかあ。」

俺は四阿のベンチにぐったりともたれかかり、アルベルトを捕まえてパシらせようとしていた。部屋に戻るとBJがきょろきょろしていて落ち着くどころじゃないし、静かに休める場所は、この四阿くらいしか思いつかなかったのだ。ポケットにタバコが入っていないことに気付いた瞬間の絶望感たるや。

「駄賃やるから、買って来てくれ。」

「やですってばあ。僕、もう仕事に戻りますねえ。」

身を捩って逃げようとするアルベルトの後ろの茂みを、小走りに通り抜けようとする人影がある。

「リーゼロッテじゃないか。」

びくりと彼女は足を止めた。さっきはパンツスーツを着ていたのに、今はワンピースだ。わざわざ庭の隅を通っていたのは、ワンピース姿を見られたくなかったのか。

上流階級の人間はドレスコードが厳しい場合も多いし、意に添わなくても、場に応じた装いをしなくてはならない。現に彼女は淡い水色の手袋を嵌めた、ややフォーマルな印象になっている。俺の部屋で彼女とした話を思い出すと、服一つでも悩むことがあるように思えた。

落ち着きがないリーゼロッテは、口を開こうとする。それにアルベルトの間の抜けた声が重なった。

「そうだ、リーゼロッテお嬢様。イサベラ様のお部屋へ行く時間じゃないですかあ。」

「ああ、そうね。急がないと。失礼するわ。」

ぱたぱたと駆けていくリーゼロッテの姿を視界の隅に置いて、アルベルトに尋ねる。

「リーゼロッテは何をしに行くんだ。イサベラの顔を見に行くだけなら、時間は関係ないだろう。」

「いろいろとお世話したいんですってえ。じゃあ、僕、行きますから。」

生垣を全部撤去することになったのだと、ぶつぶつ言いながらアルベルトは去っていく。

一人残された四阿で、さっき抱いた小さな違和感を整理する。

イサベラのお世話、か。寝たきり老人の介護は楽じゃない。下の世話はさることながら、体を拭き清めるにしろ、老人独特のにおいがつくのだ。それを、あんな上品な手袋をしてするのか?衛生面からしても、遠慮願いたい。そもそもリーゼロッテは、工場にワイナリーに、城が所有する財産管理のために奔走しているはずだ。それなのに彼女の姿を城でいつも見かける。

秘密があるのは、王子様だけじゃなさそうだ。しかし、そこには頭を突っ込みたくない。探偵ごっこなんてまっぴら御免だ。俺がすることは、BJの記憶を取り戻す。それが契約だ。

夕食の後、バスルームにこもる。シャワー代わりに固く絞ったタオルで体を拭く。本当はガーゼの上からガムテープを貼ってシャワーを浴びたいのだが、それを見るとケトルのように湯気を吐く奴と同室なのでやめた。頭だけは洗面台で洗った。こういう時、髪を切ろうと心に誓うが、達成されたことはない。慣れると長髪は楽なのだ。ドライヤーで髪をしっかりと乾かして、バスルームから出ると、2つのベッドが1つになっていた。

俺のベッドとBJのベッドの隙間がなくなるように、ぐいぐいとベッドを押しているあいつ。

考えることを放棄した俺に気付くと、BJはベッドをポンポン叩いて、湿布を見せた。ああ、貼ってくれるのね…

「お前は就寝しているときの寝返りの回数が少ない。平均して1時間に1.7回。一般的な数値より低い値だ。寝返りには血行促進の効果があり…」

つらつらと説明しながら、俺の背中に湿布を貼るBJ。ぞくぞくするのは湿布のメントールのせいだけじゃない。どうして俺の寝返りの平均値を知っている。考えたくないが、こいつは寝ている間でさえ、俺を観察していたのだ。それは、もう、記憶云々以前の話だ。

「だから、ベッドをくっつけた。」

結論が唐突すぎたのと、説明をまるで聞いていなかったのと合わせて、反応に困った。

「もう一度説明してくれ。どうしてベッドをくっつける必要があるんだ。」

「大きなベッドの方が、寝返りが打ちやすいだろう。」

どうしてこんな簡単なことがわからないんだと言わんばかりに、BJは眉を顰めた。わかってたまるか。

「じゃあ、お前はどこで寝るんだ。」

「ベッドの上で寝る。当たり前だろう。」

同じベッドで寝るってことか。なるほど。よくない。

「俺は床の上でも眠れる。寝返りを打つために、広いスペースが必要なら、床の方が面積があって最適じゃないか。」

「正気か。衛生上の問題がある。そもそも血行促進のための対策なのに、硬い床の上では意味がない。」

「じゃあ、ソファにするよ。」

「だから広さが必要だと言っているだろう。」

ニコイチ状態のベッドの上で、やいやい言っていると、急にBJは俯いた。

「そんなに俺といるのが嫌なのか。」

違う。今のこいつは俺たちの関係を、すっぱり忘れてしまっているけれど、俺はそうじゃないってだけだ。それを説明できるほど、自惚れちゃいない。

「お前が俺の治療してくれたり、体のことを考えてくれているのは、感謝している。お前と一緒にいるのが嫌だってことはない。」

パッとBJは顔を上げた。あ、嫌な予感。説得を試みる。

「しかし、俺はパーソナルスペースが広い方なんだ。お前の提案は、きっと一般的には効果があるかもしれないが、俺には向いてない。」

「わかった。それならベッドに境界線を作ろう。その線を超えて、俺はお前に近付かない。これでいいだろう。」

お前がソファで寝る選択肢はないのかと言いたい俺をそっちのけにして、BJはシーツやクッションで境界線を作っていく。その分ベッドの面積が狭くなるのは構わないのだろうか。若干、俺のスペースを広く取ってくれていた。若干と言うところに、こいつの記憶が戻りつつある状況を実感する。もういいやと、横になろうとしていたら、BJの緊張した声が耳に届いた。

「明日、イサベラを手術するために、町の病院のスタッフとミーティングする。早ければ、明後日に手術をする予定だ。」

体を起こして続きを待つ。

「俺がきちんと手術ができるか、正直五分五分だ。イサベラの診察をしてきたが、彼女の体力が持つかどうかも。だが、やらなくてはならない。治療法のない病だとイサベラは諦めていたようだが、方法は、ある。」

力強い言葉に、ほのかな安心感を覚える。光が戻ってきた眼差しが眩しい。BJは俺に視線を合わせると、少し困ったような顔をした。

「お前も医者だって言うんなら、手術を手伝ってくれたら助かる。だけど、お前はそういうの嫌だろう。」

「当たり前だ。俺は安楽死専門の医者だ。イサベラの手術中に、彼女が助からないと判断したら、即座に安楽死を施すよ。」

怪訝な顔をして、BJは黙ってしまった。しばし考え込んだ後、重そうに口を開いた。

「前に…そんなようなことが、あった気がする。あの時…」

あまり思い出したくない。

「そんなことにリソースを割くな。イサベラの手術のことだけを考えろ。五分五分から逆転狙うんだろ。」

BJの瞳が潤んでいる。こいつなりに不安なんだろうか。こんな時、どうしてやればいいんだろう。記憶がある時と今は、かなり違うから。

やがて焦れたように、BJはベッドの境界線ギリギリまで身を寄せ、遠慮がちに上目遣いで俺を見た。

「おやすみのキスは、してくれないのか。」

おい。俺の配慮を灰燼に帰すのか。イラッときたから、してやった。ちょっと濃厚なやつ。

【六日目】

目を覚ますと、境界線はどこへやら。BJは俺の腕の隙間に入り込んで、ぐっすり眠っていた。寝起きで拷問に遭うとは。わかってただろ、俺。

さっさと身支度を整えたところに、町の病院のスタッフ達がやって来たと連絡が入る。BJは資料を手に、ミーティングへ向かった。俺も同席しようかと考えないでもなかったが、あいつが自分でやると決めたんだから、手は出さないと判断した。

ひとり城の大廊下を歩く。

歴代の城主の肖像画が並んでいるエリアに出た。かなり古めかしいものから始まっている。近代になると城主だけでなく家族で描かせた肖像画になる。ここで写真にならないあたりが、古城の伝統なのだろう。

一番端の肖像画には、明るい茶色の髪のがっしりした男性とその一人息子。そばに寄り添い微笑むのは、輝く赤い髪をした若き日のイサベラだ。夫にはかなり早く先立たれたと聞いている。おそらくこの肖像画が描かれた数年の後の出来事なのだろう。絵の中のイサベラは、くすんだ緑の瞳を正面に向けている。

BJの記憶障害が回復するにつれ、イサベラのことを考える時間が増えた。これまで俺がしてきたことは、ただ彼女の苦しみを長引かせているのではないかと、一度も自問しなかったと言えば嘘だ。リーゼロッテとの契約だと割り切ったくせに。

イサベラを診察している医者から彼女の容態を聞くだけでは、わからないことが多すぎて焦燥感が募った。BJの視点では助かることを前提にしているため、参考にならない。現地点では何もないのだ。俺がイサベラにできることは。ただ手術前に、一度でいいから彼女の顔が見たかった。

イサベラの部屋を見つけるのは簡単だ。警備員がドアに張り付いている部屋を探せばいい。正攻法でうまくいくとは思っていないが、できれば穏便にしたい。丸腰であることを証明して、二人の警備員にイサベラへの面会を希望した。当然、にべもなく断られる。この雰囲気だと買収も難しそうだ。リーゼロッテのやつ、きちんと人選に金かけてるな。最悪、城壁でロッククライミングするか。

「ドクターキリコ、お婆様に会いたいの?」

ゆったりと廊下の絨毯を歩き、背後から現れたリーゼロッテは完璧な令嬢モードだった。ミントグリーンのスカートに白いレース調のブラウス、そして同じ素材の手袋。膨れた子猫の容貌は鳴りを潜め、おしとやかな雰囲気。そういえば、ロックバンドのTシャツを着ていたり、パンツスーツからワンピースになったりと、彼女はころころと衣装の雰囲気を変える。今日のリーゼロッテは令嬢の気分なのだろうか。

警備員に話しかけ、リーゼロッテはイサベラの部屋へのドアを開けた。

「一緒に来る?変なことしたら、どうなるかわかってるわよね。」

穏やかな口調だが、視線の中には冷たいものがある。

「会わせてくれ。今は何もしない。」

軽く頷くと、俺の横を素通りし、リーゼロッテは警備員を一人連れて部屋に入っていく。俺もその後に続いた。

藤色の天蓋が覆うクラシックなベッドの周りに、最新鋭の医療機器が並ぶ。生命を繋ぐ機械の音が、いくつも部屋に満ちている。

見事な木彫のサイドボードの上に心電図モニターが乗っているのは、異様を通り越してスチームパンクの様相すらある。そんな現実味のない空間で、古城の主は横たわっていた。

彼女のベッドへ近付きながら、機械の数値やグラフを確認し、点滴、投薬の種類、彼女の体に繋がれる管の行方、病室の状況から得られる情報を掻き集める。『見切りが早い』と常々あいつに指摘されるが、流石に今の情報だけでは、彼女の病状を判断できなかった。

俺の先を行くリーゼロッテが、そっと枕元の幕を開ける。やわらかく差し込む光に、依頼人の姿が浮かび上がってくる。イサベラは眠っているようだった。酸素を付け、自立して呼吸している。見たところ、穏やかな顔つきだ。リーゼロッテの話によると、目を開ける日もあるそうだが、会話はできず、意思の疎通も難しい。

「お婆様、ドクターキリコが来たわよ。お婆様のお顔を見に来たんですって。」

そっとイサベラに囁くと、リーゼロッテは俺を枕元に招いた。俺はさっき警備員に身体検査を念入りに、執拗に、されている。

イサベラの横へ座り、俺は彼女の顔を見つめた。あの愛嬌のある瞳は、青く窪んだ瞼の下。俺の医院に訪れた時の朗笑する彼女と、現在の横たわる彼女がオーバーラップしてしまい、使命感が募る。

「現在の状況を申し訳なく思っています。ですが、契約はまだ破棄されていません。時が来れば、契約を果たすとお約束します。」

「まだ、そんなことを言っているの。」

呆れたような、力のないリーゼロッテの声が耳につく。

「明日までにお前がイサベラの正当な後見人となって、安楽死の依頼の取り下げを申請しない限り、俺はイサベラとの契約通りに安楽死を施す。これでも最大限に、お前に譲歩した。忘れたのか。」

「そんなの、お婆様の命を人質にとっているのと同じじゃない!」

「いいや。違う。仕事上、俺はイサベラとの契約が、絶対なんだ。」

「契約、契約って、それがどうしたって言うのよ!」

明日までと期限を突きつけられたのがショックだったのか、リーゼロッテは頭を振って泣き出した。涙が散り、赤い髪が舞う。病人がいるところで騒ぐべきではない。

困惑する警備員を尻目に、彼女をイサベラの部屋から引きずり出す。そのまま隣の空き部屋へ放り込み、内側から鍵をかけた。

彼女は嫌だ、嫌だと泣きじゃくり、俺に向かって部屋の調度品を投げつける。髪を乱して、手当たり次第に。クッションが跳ね、椅子は倒れる。わんわん大声を出して暴れる姿は、癇癪を起した子どものようだ。重い石の置時計を手にかけたので、その腕を掴んで引き寄せた。

「お前は、誰だ。」

エメラルドの瞳が見開かれる。髪に手を触れると、赤毛のかつらが床に落ちる。さっきの癇癪で緩んでいたのだ。かつらの下にあったのは、つやのない茶色の髪。

「涙で化粧が落ちてる。」

そう告げると、鼻にそばかすが散った少女は、力が抜けたように座り込んだ。

「瞳はコンタクトレンズかな。手袋を外して見せてくれ。」

観念したように、白いレースの手袋を抜き取る。やがて指先の荒れた小さな手が現れた。

リーゼロッテに扮していたのは、葡萄畑の粗末な小屋にいた少女だった。

散らかった調度品を適当に片付けて、ドアノブに手をかける。

「落ち着いたら、さっさと身支度整えて出て来い。俺はもう行く。」

「…どうして、とか、訊かないの。」

少女は真っ白な顔に驚愕の感情をいっぱいにしている。どうして、ね。

「あまり興味がない。きっとお前には何か役割があるんだろう。それは多分、この城の人間に危害が加えられる種類のものではない。ずっとイサベラの世話をしてきたんだ。これだけわかれば十分だ。」

「だ、だめよ。行かせない。あなたはお婆様を殺してしまう。殺人者!あなたは悪魔よ!」

追いすがる手を払いのける。絨毯の上に転ぶ少女。

「黙れ、クソガキ。母親は殺せても、お婆様は殺せないのか。理由は何だ。金か、地位か、甘いコットンキャンディか。」

「そんなんじゃないわ…」

俺を睨みつける少女は、ロゼフィニアと名乗った。そのまま話を続けようとしたので遮る。戸惑うロゼフィニアの前で、タバコに火をつけた。

「このタバコを吸い終わるまで聞いてやる。簡潔に話せ。」

ロゼフィニアはリーゼロッテの異母妹だと言う。町の工場の秘書として働いていたロゼフィニアの母を、リーゼロッテの父が見初めて、彼女が生まれた。

ところがよくある話で、本妻の怒りにふれてしまい、葡萄畑の粗末な小屋で母子は慎ましく生活していたそうだ。やがて不慣れな畑作業の無理が祟って母親は病に倒れ、満足に治療も受けさせられない。

そんなときにイサベラが小屋を訪ねてきた。息子の不始末を詫び、病気治療を申し出た。他にも何か難しい話をしていたそうだが、ロゼフィニアには理解できず、また母親も首を縦に振らなかったため覚えていない。

その後もイサベラは足繫く小屋へ通い、ロゼフィニアは優しいお婆さんが大好きになった。しかし彼女の母は頑として治療費を受け取らず、また全ての援助も不要と突き放した。苦渋を味わった母の意地だったのだろう。当然病は進行していく。痛みに苦しむ母のそばで、ロゼフィニア自身も衰弱していった。

ある日、彼女が畑仕事を終えて家に戻ると、涙を流しながら言い争う母とイサベラの姿があった。あなたたちが幸せになれるように、どうか手を取ってほしいとイサベラは泣いた。私の幸せは過去にあり、今は穏やかに死ぬことだけが望みだと母は泣いた。せめてその望みだけはと、イサベラは俺の名前を出したのだった。

「お母さんが苦しんでどうしようもなくなったときに、ドクターキリコという人が来るから、頼りなさいって。私も約束してるんだよって。お母さんは、今まで秘密で貯めてきたお金があるから、それを使いなさいって。」

だがイサベラの方が先に倒れた。噂に聞いて心配でたまらなくなっていたところへ、リーゼロッテが執事を伴ってやって来た。ロゼフィニアは自分がリーゼロッテの妹であることを知る。同時に父親が誰なのかも。誕生日が半年しか違わないリーゼロッテは、苦虫を嚙み潰したような顔で、ロゼフィニアに提案した。

「お婆様を守るために、リーゼの代わりになって欲しいって言われたの。リーゼはこれからすごく忙しくなるから、お城にいられない時が多くなる。その時に私がリーゼのふりをしていれば、お婆様を悪い人から守れるって。怖い目に遭わせてしまうけれど、ごめんねってリーゼは謝ったけど、私は全然平気。悪い人だって畑のイナゴみたいに大勢いるわけじゃないし。」

急ごしらえの令嬢生活と、小屋での母親の世話。二重生活は長くは続かなかった。俺が葡萄畑の小屋へ来たからだ。道理で二件の依頼が続いたわけだ。イサベラは自分に何かあったときに、ロゼフィニアの母の依頼も含めて、俺に知らせが行くように手筈を整えていたのだろう。

「がんばってリーゼのふりをしてきたのに、あなたにバレちゃった…」

タバコの煙が薄くたなびく室内で、あどけない口調のロゼフィニアはスカートの裾を握る。姉妹だな。姉はテーブルクロスを引っ掴んだが。

「どうしてイサベラが安楽死を受けるのに反対なんだ。」

イサベラが俺に依頼していたのを知っているのなら、安楽死の理念をわかっているはずだ。何より目の前で、母親が安らかに旅立ったのを見ている。受け入れられない理由が存在するのか。理解に苦しむ俺に、まっすぐ無垢な瞳が向けられる。

「だってお婆様は、まだ生きられるもの。痛い痛いって一晩中呻いたりしない。お顔も手足も、すべすべのままよ。それに、まだ三週間しか、ベッドに居ないんだもの。」

そうか。

「明日、お婆様がいなくなったら、私一人になってしまうわ。誰が優しくしてくれるの。」

いい加減、指が火傷しそうになってきた。タバコを携帯灰皿に突っ込む。

「わかった。簡単だわ。あなたがいなくなればいいの。」

胡乱な瞳でガラスの花瓶を握り、猛然と突進してきたロゼフィニアを躱すと、彼女はそのまま床にのびた。突っ伏したままのミントグリーンの尻に、どかっと腰を下ろす。バタバタと脚を振り上げるので、ぴしゃりと叩いておく。細っこい腕が絨毯をポカポカやってホコリを立てるので、茶色の頭の鼻先に革靴のかかとを落とす。ようやく静かになった。

これは、いろいろと栄養が足りてない。食べ物がどうってより、主に情操面の栄養不足。似たような奴、知ってる。ツギハギで、頭がツートンカラーで、今、一生懸命ミーティングしてる奴。リーゼロッテに比べて格段に未熟なのも、それが原因だな。姉と誕生日が半年しか違わないなんて信じられんほどだ。精神と実年齢とのギャップが大きすぎる。おそらく幼い頃に栄養が足りてないから、歪に育ったんだろうけど。喜べ、お前は若い。まだ矯正の余地はある。俺が将来を案じてやっているのに、下でぐすぐすやりだした。

「座り心地悪いな。肉をつけろ。お前、ちゃんと飯食ってんのか。」

「食べてる…ッ。一日三回も、食べてるもん。」

「全然足りん。10時と3時に菓子を食え。寝る前に牛乳を飲め。」

「牛乳、嫌い…」

俺の全体重をかけて座ってやると、みぃみぃ鳴き声を上げた。子猫のもっと小さいのは、どう呼んだらいいのだろう。俺はガキの世話をしに、ここへ来たんじゃないんだが。

「アルベルトー」

「誰もいない空間に呼びかけるの、やめてくれません?」

時代劇の一幕を彷彿とさせる。大名が「誰かある。」って言ったら、屋根からスタッと忍者が下りてくるところ。ここはいつもの四阿で、時代劇の舞台ではないけれど。間の抜けた話し方をやめたアルベルトは「ニンジャみたいなこと、できませんからね。」と、狐目を更に細くした。心の声が聞こえたか。

「あなたの用件は、なんとなくわかります。バレちゃいましたもんね。あの子。」

「長いこともった方だと思うぞ。大分苦労したんじゃないか。アルベルト。」

「…苦労は現在進行形ですよ。次々と対象が増えていく辛さ、わかります?僕の体はひとつしかないのに!」

まあまあと冷えた炭酸飲料を差し出す。カフェイン多めのやつ。アルベルトは俺の隻眼を値踏みするように見つめた後、ぶすっと炭酸飲料を受け取った。

「なんで僕の好み知ってるんですか。これ大好きなんです。」

「半分偶然、半分確信だ。俺の古い知り合いが、こういうのが好きだったんだ。徹夜で監視するときに効くってな。お前の歩き方を見ていたら、思い出したんだよ。」

「以後気をつけます…」

とりあえず座れ。四阿のベンチに軽くへこむアルベルトを招く。俺から適度な距離を取り、音もなくベンチに腰掛ける。彼が庭師らしく身に着けたオリーブグリーンの前掛けから、何本かペグが覗いている。少し変わったペグだな。見せてくれと頼むと、支給品なのでダメだと断られた。せめて用途を教えてくれ。粘ると、アルベルトは満更でもなさそうに、特別製のペグの使い方を教えてくれた。俄然欲しくなった。だってペグ打った範囲の電波を遮断するとか、そんなカッコイイの俺も欲しい。それなら注文してくれと言う。見上げた勤務態度だ。

「でもコレ、あなたの仕事道具とは相性悪いんじゃないですか。」

アルベルトはペグをくるりと回す。

「どうかな。愛機はロートルなんだ。逆に影響がないかも知れない。」

年季が入ってきた俺の安楽死装置は、近年修理パーツのやりくりに手がかかるようになってきている。

「トレンドは追っておかないと。どんどん良いものが、新しく出てきてるんですからね。」

「メインは馴染んだものがいいんだよ。」

「おや、エレクトロニクス方面なんか、ちょっと気を抜いたらウラシマタローですよ?」

「イビザのビーチで踊ってる奴らと一緒にするな。」

なんだか押し売りセールスの様相を呈してきた。アルベルトは遠い眼で「イビザ行ってみたいなあ…」なんて言ってるが、その目が憧れでなくて現実逃避にしか見えないのは、彼の労働環境に原因があるんだろうなあ。

まだ真夏のビーチに思いを馳せるアルベルトに、確認したいことを訊いた。

「答えられなかったら言わなくていい。お前の雇用主は、イサベラで間違いないか。」

「守秘義務がありますから。」

それは〈イエス〉の意味だと笑うと、真面目な狐目で「守秘義務が」と繰り返す。

「現在はリーゼロッテに雇用されている。合ってるか。」

「守秘義務がありますから。」

「最後にこれだけ教えてくれ。お前は明日、工場に行くか、城に残るか。」

四阿の中に一陣の風が吹き込んだ。瞬間、アルベルトは顔から柔和な表情を消す。しかしすぐに細い眼に笑みを浮かべて、手にしていたペグを前掛けのポケットに片付けた。

「お城の庭仕事があるので。明日はお客も多そうですし。」

親切な奴だ。きちんと答えてくれる。アルベルトは炭酸飲料のふたを開け、ごくごくと飲み干した。空になった缶を俺に渡してくる。お疲れさん。ゴミくらい捨ててやるさ。

「僕からも、いいですか。あなたは何故ここまでするのですか。」

そうだよな。俺も疑問。めんどくさいことばっかりだ。

「金だよ。10億のヤマ、逃す馬鹿いるかよ。」

何千回と顔に浮かべてきた、とびきりの黒い笑み。アルベルトも同じように「お金、大事ですよね。」と笑った。

庭から城に戻る途中、業者用の通用門の前を通りかかった。トラックから次々と医療設備が運び込まれている。城の中に、手術室を作るつもりなのだ。いよいよ始まる。スタッフと作業をするBJの姿を遠くに見て、静かにその場を後にした。

今夜の食堂のシャンデリアは、ひときわ輝いている。真っ白なテーブルクロスの上には、銀のカトラリー。少々くたびれた様子のBJと、工場から戻ってげっそりしたリーゼロッテが揃ったところで、厳戒体制のもと、料理長が腕を振るった豪華なディナーが始まった。

牛リブロースのグリル、ポロねぎのラヴィゴットソース、アメリケーネ風オマール、季節の野菜のテリーヌ…次から次へと運ばれてくる。俺も毒見に協力した。食材を無駄にはしたくないからな。

テーブルのすみっこに座ってリンゴジュースを飲むロゼフィニアを見つけたリーゼロッテは、慌てふためいて口をパクパクさせていたが、めんどくさいので手元にあったカナッペを突っ込む。もっとめんどくさいので、小娘同士ひとまとめにして座らせた。

リーゼロッテとロゼフィニアは、額をくっつけるようにして、ひそひそやっていた。並べてみると、似ている。姉妹という血のつながりの証と、女性の化粧の技術に感嘆するばかりだ。内緒話を終えた姉妹は、同時に俺の方を向き、幽霊でも見たような顔をした。

執事も給仕も庭師(一名欠席)も、時間の都合がつく人は、ごちそうをつまんでいく。警備員には副料理長がおつまみセットを作ってくれている。後で届けるそうだ。

明日に向けて英気を養う。はっきりと言葉にはしないけれど、城の誰もがそれを感じていた。明日はイサベラの手術をBJが執刀する。同時に俺が安楽死を施す期限の日でもある。それぞれの立場も役目もひっくるめて、同じテーブルを囲む。不思議と笑い声が絶えない時間になった。

だから、もう、いいだろ。お前はバリバリに手術できると思うし、たくさん飯も食って、よく眠ればいい。そのためにベッドを2つに分け直そうと言ったのだ。それなのに、なんだ。結局昨日と一緒だ。ニコイチベッドの境界線を、あっという間に越境して、BJは俺のTシャツの胸によだれを垂らす。本当にコイツなんとかしてほしい。俺も眠りたい。

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