銀色の非日常

※表の「シャワーの中に隠した雫」の続きです。

時間はさかのぼって、キリコが晩飯だけ残して消えてしまった日のことを聞いた。

「お前さん、どこから家を出たんだ。玄関のドアは開かなかったぞ。」

ウチは電話を置いてある机から玄関が見える。

「窓から失礼した。お前が患者を治療しているところなんかに居合わせたく無いからね。」

肩をすくめて言うキリコは、患者と鉢合わせることを本気で嫌がっているようだった。

「患者の容態を見たら、絶対に安楽死を推奨したくなるだろうし、そんな小競り合いを患者やその依頼者に見せることは、私の仕事にとってデメリットしかない。」

俺と似たようなことを考えていた。

「だからお前のウチにいるのは、ちょっと落ち着かない。なんだったら今からでも、私のところへ来ないか。」

そう言われてカチンと来た。

「お前さんの所だって、実に重篤な患者がいることがあるじゃないか。俺に気付かれないようにしているつもりだろうが、わかってるんだぞ。」

「ははあ、わかってたか。でも最近はセーブしてるんだ。長期間患者を入院させることに必要性はあるのか考えたら、少々疑問があってね。よほどのことがない限り入院はさせてない。孤児の子とか、どうしようもないケース以外は。」

だから仕事は今日みたいに病院の方が多いかな。なんてさらっと言うもんだから、とたんにむかむかしてきて、しばらくいつものように仕事を辞めろ辞めないの口論になった。

まくしたてたら俺の気分はかなりスッキリしていた。くそ。

そしてキリコは「それじゃあ…」と腰を上げたのだ。

「面倒を看るなら最後までだろ。」と手を広げたのは、キリコをこのまま帰したくない俺の正直な気持ちから。もっと言うと、なんだか貸しを作ってしまうようで癪だったのと、キリコがウチに来るのを「落ち着かない」と思っているのが悔しかったからだ。

だからキリコが「いいの?」なんてかわいい顔して言うなんて予想外だった。

男だった頃も女になってしまってからも、こいつの生き方は変わってない。完全に自立し、いつでも人生に幕引きができるように、身の回りは何もかもさっぱりしている。だからこいつには他人に頼るという選択肢が初めッから存在していない。結果自覚しないまま、いろんなものを溜め込み、壊れる寸前まで行ってることが間々ある。もし壊れたら、それはそれでコイツは受け入れてしまうんだろうけど。でも俺はそれが面白くない。もっと抗って良いのにとさえ思う。人生の激流に逆らってここまで来た俺としては。

だからベッドの中で、その激流にキリコを乱すことができるのが、とても好きだ。

俺の腕の中に閉じ込めて、キリコと短いキスを繰り返す。

俺の家の居間の真ん中で、彼女とキスしてる。初めての行為に無性に昂ぶる。

日常の中にありえない非日常が割り込んできたみたい。銀色の非日常。俺の家に上がってこんなことする彼女は何を感じているんだろうな。

「いけないことをしているみたい。」

そうつぶやくキリコは居間をぐるりと見渡して、いたずらをする子どものような笑みをこぼした。

「そうだぜ。もっといけないことをするんだぜ。」

彼女のブラウスのボタンを外しだした俺を制止するキリコ。

「こんなところで、また急患だなんだと人が来たらどうするんだ。」

ごもっとも。現在の我が家はその状況を許してしまっている。それじゃあ俺の寝室に行こうと促すと、キリコは固まった。どうしてそんなに緊張するんだろう。俺の寝室はそんなに異常な空間なのだろうか。じゃあそこで毎晩就寝してる俺はどうなんだ。そう問いかけると、キリコは自分の感情を分析し始めた。

「BJの寝室は何もおかしいことはないよ。きちんと片付けもされていて、いいなって思う。どうしてかな…まだ一度しか入ったことが無いからかな。」

「一度しかない浴室にはまっしぐらだったじゃねえか。」

「それは必要性があったから。」

「じゃあ今だって必要性があるだろう。」

「それは分かってる。…やっぱりお前の家にまだ慣れていないせいが大きいと思うよ。」

これから慣れればいいじゃないかと無責任な言葉を口にするのは憚られた。俺もこいつも明日なんて保証のない生活なんだ。だけどせめて今日ならいいだろう。

「とりあえず行くだけ行こうぜ。どうしてもダメなら、書斎のデスクの上でも俺は全然構わない。」

「ソッチの方が問題大有りだ!」

ほらほらと、気乗りのしない様子のキリコを寝室のドアの前まで押して行った。

キリコの緊張は高まるばかり。しかもその理由を自分でも正確に把握していないと来た。俺もわからん。妙にドアを開けるのに決心が要った。

がちゃりとドアが開くと、ひゅうと風が吹き込んだ。信じられないことに、俺は寝室の窓を開けたままウチを出たらしい。夜風にふわりとカーテンがはためく。泥棒が入らなくてよかった、どれだけ頭の中がいっぱいだったんだと自省して窓を閉めた俺の後ろで、キリコが立ち尽くしているのに気が付いた。

手も足も強張らせて、背中をひきつらせている。真っ青な顔をして、目を見開いたまま動かない。

まるでなにかに怯えているようだった。けれど俺の視線に気が付いたのか、一瞬で表情をゆるめた。

「うんうん。きれいにしてあるじゃないか。おっ、この雑誌もう買ったのか。」

サイドテーブルに目をやって明るく言うが、さっきの様子から俺の中に仮説が立った。

「読むか。」

受け取った医学雑誌をキリコは戸口で読む。俺はベッドメイキングをするふりをして、そんなキリコの様子を観察する。顔は長い髪で隠されているが、指先に余計な力が入っているのがわかる。まだ緊張の中にいる。寝室に入る前よりも強い緊張。それはきっと夜風にはためくカーテンがトリガーだ。

キリコの寝室を俺は思いだしていた。天井も壁も真っ白で、部屋の真ん中にマットレスだけが置かれた部屋。窓はあるもののカーテンはひかれていなかった。二階にある部屋だから要らないのかなとも思ったけど、そうではないのを知った。

あいつが依頼人の息子から逆恨みを受けて、トラックにはねられた日。あのときにこいつの部屋がなぜその有様なのか、俺は初めて知った。知ったところでなにか治療ができるわけはない。それよりも記憶に関する治療なんて、施せるはずがなかった。俺は戦争の記憶が元でジェット機に突っ込んだ男すら知っているのだ。そんなもの、俺は治せない。

雨音が機関銃の音に聞こえて、カーテンの影が敵に見えるこいつを、余計なものがごちゃごちゃしている知らない寝室に誘う意味を、だんだんと理解できてきた。一夜限りのホテルじゃないから余計に緊張するんだよな。

でもお生憎様だ。俺はお人よしじゃない。ここは俺のウチなのだ。ここにいる以上、お前もウチの流儀に倣ってもらおう。

いつまでも同じページを見ているキリコに近づいて、どうでもいい話をする。

「この教授、俺、会った事あるわ。」

「どこで?」

「B国の大学病院で。すごいチビだった。」

「印象がそれだけって酷くない?」

「本当にチビだったんだよ。お前さんの胸くらいの高さしかなかった。」

そう言ってキリコの胸をつんとつついた。「もう!」と身を捩って嫌がるキリコの反応に気を良くした俺は、つんつんと尚もつついた。くすぐったいと彼女が笑うまで。

キリコの冷たい手をとってベッドサイドに腰掛けた。キリコは立ち尽くしたまま。今度は俺がキリコの手をあたためる番。

「この部屋に入れるのは、俺がいっしょのときでないと許可は出ないぞ。」

「そう…なのか。」

「ああ。お前さん一人だったらここには入れない。俺と二人のときだけだ。」

強い口調で、はっきりと告げる。俺がそばにいるときだけ、ここに来て欲しい。

「今みたいに?」

「そう。」

俺がいるだろ。お前さんひとりじゃ、ないだろ。

キリコの一つだけの目を見据えて、あえてにかっと笑った俺の真意を知ってか知らずか、キリコは俺の頭を抱えるようにして、ふわりと抱きついてきた。彼女の顔を見ないまま、背中に回した手であたためるように、何度もさすった。

やがてキリコは俺から顔が見えない位置で、ささやいた。

「本当はカーテンのある部屋、好きじゃないんだ。…夜だけなんだけど。」

そうか。とだけ言って、キリコの肩を撫でる。キリコが心の奥の部分を明かしてくれることに、じんわりと胸に沁みるものがあった。すん、とキリコが俺の肌のにおいを嗅ぐのがわかった。やがて彼女は腕の力を込めて、くっついてくる。

「今はお前がそばにいるもんね…」

そっとキリコはつぶやいた。

「ああ、いるとも。ここは俺の寝室なんだ。どんなに暗い夜でも、嵐の夜でも、俺はここにいるよ。」

力を込めて告げた俺の言葉に、満足そうなため息を一つ吐いて、キリコは顔を上げた。

銀糸の雨と共にアイスブルーの瞳が降って来る。俺の寝室のベッドの上で、やっとくちびるを重ねることができた。

ばさばさと寝巻きを脱ぎ捨てる俺の横で、キリコもブラウスを脱ごうとしていた。だめだめ。俺が脱がすの。

素っ裸になった俺は、キリコから丁寧にブラウスを脱がせ、できるだけ皺にならないようにたたんで俺の脱ぎ散らかした寝巻きの上にそっと置いた。

「裸のバトラーだ。」

そう言ってキリコは笑った。フロイラインと呼ぶには齢食ってるよな、なんて軽口を叩くと、お前は重厚さが足りないと頬をつねられた。お互いにくすくすと声を立てながら、手触りの良い下着を取り去って、キリコを一糸纏わぬ姿にさせた。

華奢な体がランプの光に浮き出される。

ベッドの上で肘を支えにして上半身を起こすキリコが、上目遣いに俺に視線を寄越す。

見慣れた俺のベッドが、全く違う場所に見える。

非日常。

やたらと胸がどきどきしてきた。

じくじくと痛いほど勃起が張り詰める。

キリコはそんな俺を見て、そっと腕を広げた。

彼女の体を貪るように抱いて、一度射精したあと、俺の意識はぶつんと切れた。

今日まで張り詰めていた何もかもが一辺に切れた感じ。

隣に身を寄せてくれているぬくもりだけは離すもんかと、シャットダウンする視界の隅に、最後まで銀色を認識していた。

電話のベルの音が聞こえる。

うっすら目を開けると日が昇っていた。

隣に眠るやわらかい銀色を見つけて、心底ほっとする。

どうやら一晩中引っ掴んでいたらしい。

ベルの音はまだ止まない。

彼女の眠りを妨げるのが我慢ならなくて、そっとベッドから降りた。

寝巻きのズボンだけはいて、イライラと電話に出る。

急患?ああそう。今から来る?冗談じゃない。

「現金で5千万円。出せなきゃお断りですぜ。」

俺の言葉に電話の向こうが大慌てしているのが聞こえる。どうでもいい。放っておくと、やがて電話は勝手に切れた。

これこそモグリだろ。自由業。誰かのために自分を犠牲にする生きかたなんか、まっぴら御免だ。金さえ積めば何とかしてくれるなんて、都合の良い装置になる気なんかないね。

俺はしたいことをする。そう選んだ人生だ。

寝室に戻ると、ベッドの上に俺の目は惹きつけられた。まだ薄暗い部屋の中で、ベッドの上だけが淡い光を放っているかのようだった。その理由が知りたくて、そっとベッドに近寄る。

カーテンの隙間から入ってくる朝日に輝く、キリコの銀色の髪の美しさに、思わず息を飲んだ。そばに寄ると睫毛も肌の産毛も、みんな透き通って輝いているようで、とても神聖なものを目の当たりにしているような気分だった。

…なのに、男の体ってのはァ、その、朝になるとなァ…

ぱっと掛け布団を剥ぐと、キリコの白い肢体が目に飛び込んできた。寝室に白い光が満ち満ちるよう。安らかな眠りのままの彼女の脚をそっと開く。色素の薄い下生えの中は、昨夜の精が残っているのか潤んだままだった。それに気をよくして、彼女の体に乗っかった。「失礼します。」一応心の中で言っておく。よく眠っている彼女を起こさずにすむ道理なんてなかったんだけど、電話のベルに怒る資格ないな、俺。

朝立ちをキリコの中に埋め込むと、あまりの気持ちよさに腰が砕けそうになった。

あー、出る、だめだ…我慢…

必死で耐えていると、キリコの声がした。

「な、にやってんの。」

明らかに呆れている。

「あんまりお前がきれいだったから。」って本音を言えばいいのに、やっぱり俺は言えなくて。

「いやな、朝だし、立っちまったもんをどうしようかなって。」

「最低。」

ぐっさりくるけど、俺はキリコから離れない。

「お前ね、こういう行動も昨今は、私が訴えて裁判になったら勝てる世の中なんだよ。」

冷静なことを言いながら、寝起きの体は上手く動いてくれないみたい。

「訴える代わりに朝の運動はどう?」

くだらない軽口を叩きながら、彼女の中を突いた。キリコは大きくため息をついて「好きにすれば。」だって。お許しが出たぞ!

朝日の中でキリコを思うままに抱き潰した。朝の一発目は何のためらいもなくぶちまけた。爽快感。

昨晩は一発しか出してないのだ。ぐっすり眠った俺は、今はもうフルチャージの気分。続けざまに腰を動かしだすと、キリコは困ったように身を捩じらせて枕に鼻先をうずめた。シングルベッドのひとつしかない枕をキリコは抱えて、いたずらな笑みをこぼして言った。

「BJのにおいがする。」

なんだかとっても恥ずかしくなって、枕を取り上げようとするのだけど、渡してくれない。

「やめてくれよお。まだ加齢臭はしないはずなんだけど、自信はねえんだよお。」

「BJの肌のにおい、いいにおいだよ。」

そんなかわいいこと言うの。

「タバコと、BJの肌のにおい、それがこの部屋いっぱいになってるんだね…」

少しうっとりしたように見えるのは俺の気のせいではないはず。

「だからかな。よく眠れた。」

ニコ!と無邪気な笑みを浮かべて、彼女はまた枕に抱きついた。

「だ、抱きつくのは俺にして!」

焦って、枕ごとキリコを捕まえた。

ぎしぎしとシングルベッドが二人の重さに悲鳴をあげる。

「は、あ、新しいベッド、買おうかな。」

片足を抱えてキリコの奥を突き、快感にスパークが飛ぶ頭で、思いついた言葉を口にする。

「ど、して、?」

絶頂の向こう側から、キリコが問いかける。

「大きい、ベッドの方が、いいかなって。」

ああ、また出そう。奥歯をギリギリ言わせて耐える。

「この、ベッド、が、いいな」

キリコはシーツを握り締めて喘ぐ。

「ねえ、名前、呼んで、いい?」

唐突に言われて思わずうなずいた。彼女は決して自分勝手に俺の本名を呼ぼうとはしない。

キリコは俺の下でうわ言のように言った。

「あのね、新しいベッドじゃ、いやなんだ…だって、くろお、の、においがなくなる、でしょう?」

あああ!

「それに、ね。小さい、ベッドの方が、くろおと、くっついて、いら、れるでしょ?」

あああ!!そんなかわいいこと言うの反則!!

「わかったー!」と言う代わりに、我を忘れて腰を振ってしまった。びゅんびゅん射精して気がつくと、キリコはシーツをぐちゃぐちゃにして、俺の下で息も絶え絶えになっていた。

日が高くなってくる前に、俺の腹の虫が鳴いた。レトルトしかないけど、なにか腹に入れようとのそりと動くと、キリコもいっしょにいくとベッドから下りた。とたんにどろりと股の間から溢れるものを、キリコはとっさに手で押さえてしまう。慌てて渡したティッシュペーパーで彼女は精液を拭いていく。何枚つかっただろう。拭いても拭いても溢れてくる精液の量に自分でも引く。幾分申し訳ない気持ちになったので、拭いてやろうかと進み出たが丁重に断られた。

いくら我が家の中とはいえ、キリコを素っ裸で歩かせるのはいやなので、俺の寝巻きの上を頭から被せた。ぶかぶかのシャツを羽織っているようで、とてもかわいかった。キリコは「くろおのにおいがする。」とまた笑った。ど、どうしてくれよう。

俺は上半身裸で台所に立ち、レトルトの箱をいくつか出す。

キリコは手を洗って俺の横に立つと、興味深そうにそれらを見つめた。

「俺はここのカレーが好き。」

「朝からカレー食べられるのか。若いなあ。」

「そうだろう。じゃあ、俺カレーにする。」

「私は…これにしよう。お茶漬け。」

「レトルトじゃねえじゃん。いいけどさ。」

軽口を叩きながら、適当な朝食を摂った。味気ないレトルト食品も、どうしてか旨く感じた。

せめて一宿一飯の礼とキリコは言い、食べ終わった食器を洗ってくれた。

彼女の後姿は、俺の寝巻きを着ているせいもあっただろうけど、とても華奢に映った。短めの丈のワンピースを着ているように見えなくも無い。皿を洗いながら、彼女がうつむいたり手を伸ばしたりするたびに、ちらりと覗く小さなお尻がたまらなかった。辛抱堪らんってのはこんな状況を言うのかも。彼女が洗い物を終えた瞬間、後ろから抱きついた。

「後姿見てたら、しようがなくなっちゃった。」

ごりごりと硬くなった勃起をこすり付けてしまう。

「なあ、ここでしていい?」

信じられない、とか。こんなところで、とか。セックスに関しては俺よりもオカタイ思考のキリコの声がする。寝巻きのズボンをずり下げて、キリコを後ろから貫いた。シンクに手を掛けて、爪先立ちになりながら快感を味わうようすが、たまらなくそそる。

洗ったばかりの皿に光る水滴までもが艶かしい。いつもならひとりで侘びしく茶碗を洗うシンクに、キリコと俺の荒い呼吸がたまる。色気のない台所で房事に耽る非日常に酔いそうになっていたとき、突然ぎゅっとキリコは股を締め上げる。

「っあ、お前、搾り取る気かよ…」

「だって、さっきのが、あふれてきちゃって。」

「さっきのって。」

胡乱な返事をしながら、彼女の内腿を思う。きっとさっき寝室で出した精液の名残が、突き刺されて漏れ出てきたんだろう。あふれると困るのか。じゃあ、もっといっぱいにしなくちゃな。彼女が締め上げる快感に、まるで整合性のない思考を繋ぎ合わせて深く穿つ。

「だめ、よごしちゃう…床に、こぼれ、る」

ああ、そっちなのか。ふるふると銀色の頭を振って、困惑を示したキリコは一層俺を締め上げる。

これじゃもたない。床を汚すのが嫌なら、と食卓の上にキリコを組み敷いた。どんな料理より、おいしいご馳走。食卓の角を掴んで体を仰け反らせるキリコの尻を抱えて、パンパンと肉が弾ける音を響かせながら彼女の中を抉る。

「こんなとこで…」

快感に喘ぎながら、キリコは尚も今の状況を受け入れがたいみたい。そういえばこいつは台所に立つのが好きだったな。知り合った当初は、自分の家の台所を聖域のように扱っている時期があった。そこにずけずけと入り込み、更にこいつの大事にしていた調味料の瓶を割ってしまったので、俺は長らくキリコの家の台所に出入り禁止を食らったのだった。

でもここは俺の家だし、そんなの関係ないね。

「そうだな。ここでメシ食うたびに、今日のこと思い出すかも。」

意地悪く言い放ち、キリコの腰をぐいと強く引きつけ、膣の奥をぐにぐにといじめた。最近奥で達することを覚え始めた体が震える。

「台所で、お前さんを抱いて、すげー気持ちよかったってな。」

「…うう、こま、る」

「あー…いい気持ちだ…」

素直な感想を敢えて言う。がっしりとキリコの腰を掴んだまま、彼女が感じ始めている奥にガチガチになった剛直をねじつける。乱れてしまえばいいのに、彼女はまだ理性を捕まえている。

「気持ちいい?キリコ。」

声も出せずに頷くばかりのキリコがいじらしい。我慢比べになると、いつも俺は負けてしまう。視界の隅で震えているキリコの腕も気になるし。俺が抱えているとはいえ、不安定な姿勢でいつまでも耐えられるもんじゃないよな。場所を変えよう。もっと思いっきりできるところに。彼女の中から出ようとしたとき、玄関のほうから物音がした。

びくっと二人して固まってしまう。

コンコン、コンコンとノックの音が響く。

誰か来た。

「…しらねえ。」

ずん、とキリコの奥に戻る。

「で、出なくて、いいの?」

「うん。」

再び動き出した俺にキリコが驚く。

「患者、かも。BJ…」

「黒男。」

かぷりと熟れた果実のようなくちびるにかぶりついて言ってやる。

「そのうちどっかに行くだろ。」

まだ玄関のドアの向こうに人の気配を感じる。しつこいな。わざと食卓が大きく軋むように腰を使った。ぎしぎしと潰れんばかりに歪む食卓の上で、キリコが意地悪く口角を上げた。なにをたくらんでいるのかと心配するより先に、キリコの口から出たのはあられもない嬌声だった。

「あっ、あン!ああっ!」

お前……天を仰いだ俺の腰にキリコの細い脚が回る。

「もっと。でないと患者がドアを破って来るかも。」

「ドアを破ってくる患者なんて、ゾンビみたいじゃないか。」

「ふふ、ゾンビなら退治しなきゃ。私が鳴いたらいなくなるかもよ。」

「ブラック・ジャック先生のお家から、いやらしい声がしましたって?」

「鳴かせてみて。」

挑発的に俺の目を覗き込むキリコ。さっきまでは声一つ出すのもためらっていたくせに、俺の仕事が絡むと途端に豹変するのは、とてもお前らしいな。俺もとびきり邪悪に笑って、キリコを突き上げる。

「ああっ!いやあ…っ!」

そんな声が出せるのか。ぞくぞくと耳が痺れる。もっと聞きたくてキリコを爪弾く。

「…ああん!」

さすがに芝居がかっている。キリコも笑っている。

「ダメだぞ。きちんと鳴かないと。」

「ふふふっ、わかった。ホラ、腰止まってる。演技過剰で萎えた?」

くすくすと猫のように笑うキリコは、着ている寝巻きのすそをめくり上げ、白い胸をこぼれさせた。

昨夜まで俺が着ていた寝巻きの下に、今はにおいたつようなキリコの裸身がある。

昨日まで味気ないレトルトをかきこむだけの食卓に、汁の滴る肉体がある。

今朝からずっと明るい日のもとに暴かれた、ふたりの最も秘すべき結合部がある。

非日常。

お互いに熱のこもった視線を絡め合い、求め合う。

どこから意図的なのか線引きはできなかったけど、キリコはそれは上手く鳴いた。

その声が届いたのか、玄関の人影はなくなった。

あとは、そうだな。女を抱いていて病人を見過ごしたブラック・ジャックとか言われるのかね。楽しみだな。闇の業界人に先生この前は…って聞かれたとき、どう答えようか。

「なににやにやしてんの。」

キリコがつんと俺の眉間をつく。

「ははっ、おかげで俺の悪名に、もうひとつ箔がつくって思ってたのさ。」

「おまえだけずるい。今度はウチの玄関でしてもらおうかな。郵便局員に聞かせるのはどう?」

冗談にしても、俺の頭は勝手にキリコの家の玄関で、彼女を抱く自分を想像してしまっていた。

「変な扉が開きそうだから、勘弁して。」

情けない笑い声をたてて、俺は彼女の胸にずりおちた。

それからふたりで寝室に戻って、そのままなんとなくベッドにもたれながら、俺はタバコをふかし、キリコは俺のベッドサイドにあった本を読んだ。

こんな読書タイムが持てるなんて思っても見なかったけど、キリコはやっぱりあの雑誌が気になっていたみたいだったし、俺は俺で読みかけの論文があったし、あたたかい光の下でそれぞれに思うままの時間をすごした。

シングルベッドに大人二人が並んで座るのには、少し狭苦しさはあったけれど、却って密着する隣の肌の温みを感じて、不思議に安心感を覚えた。本当に、不思議に。

「なあ、この実験の前提条件って、かなり無理がないか?」

自然にキリコに話を振ってしまっていた。「んー」と論文に目を凝らすと「ちょっと読んだだけじゃわからない」と至極真っ当な返事をするので、俺が読んだところまでの概要を話した。ふんふんと聞いて、少し考え込んだ後、キリコは俺と全く反対の意見を述べた。どうしてそう考えたのか意見を交換する。口論をするわけでもなく、お互いとても理性的に叙述した。それが、楽しく感じた。

ああ、俺、こんなふうに自分の専門で話せる相手が欲しかったんだな。過去にさかのぼるとファスナー神父が一番そのポジションに近かったんだけど、今はこいつなんだ。こいつなんだなあ…達観とも諦観ともとれる感情で、となりの銀色を見る。俺との意見交換を終えて、今は雑誌掲載の薬学記事に夢中。そのまなざしを邪魔するのは憚られて、ひとりでコーヒーを淹れにベッドを立った。

インスタントコーヒーを淹れ、あいつもブラック派だったなあなんて、そんなことを思い浮かべられるくらいにキリコと一緒にいる気がする。ずっと昔からのような、一瞬一瞬が火花みたいにあっという間のような、不確かな感覚がある。ただわかるのは、あいつとすごす時間に同じ時間はなくて、いつも何か新鮮な発見があるってことだ。変な奴だ。まったく。

コーヒーカップを二つ持って寝室に戻ると、キリコは眠りの世界へ行ってしまっていた。ちぇっ、コーヒー無駄になったじゃねえか。舌打ちはしたものの、キリコの穏やかな寝顔を見ると、どうでもよくなった。コーヒーをおかわりに行く手間が省けたと思うことにする。

ベッドに滑り込むと、キリコの体がベッドから押し出されそうになってしまったので、抱えて俺の胸板の辺りが枕になるようにしてやる。ふたりでことりとベッドの中に落ち着いて、さっき読みかけていた論文を手に取る。

太陽は間もなく中天を過ぎるだろう。東向きの窓から入る光が、だんだんと弱まるのを感じる。

となりの銀色は目を覚ます気配もない。彼女の頬のぬくみがここちよくて、その頬にかかる銀の髪を一房とって指に絡ませ、なめらかな感触を楽しんだ。

こんな時間があっていいのだろうか。

カレンダー上は平日なのに、ベッドの上でずっとごろごろしてる。

患者が来ても追っ払って、好きな論文読んで、コーヒー飲んで…となりにやわらかい銀色がいて。

非日常。こればかり感じている。

とまどう自分がいるのも事実。でもそれをおもしろいと楽しむ自分もいる。

全ての非日常をもたらす銀色が、俺の胸の上で眠る。そんな状況に口元がゆるんだとき、銀色はすりと身を寄せてきた。目が覚めたかと思えば、そうでもないらしい。白桃のような頬をすりよせてくるのが、くすぐったい。小動物のようにくっついてくるこの銀色が、深夜の病院で見る冷徹な銀色と同じものとは、もし今の光景を見る第三者がいたら俄かには信じがたいだろう。まあ、自分で言っといてなんだが、こんなこいつを他の奴に見せる気なんかないけど。

論文をサイドテーブルに置く。

キリコを起こさないように、そっと、そっと、抱きしめた。

彼女の体温と、肌のにおいの密度が高くなる。規則正しく鳴る鼓動。

なにもかもが、今この一瞬にしかないものに思えて。

だから寝言のように彼女の口が、俺の名前をつむぐのが、きっかけになってしまったのを許して欲しい。

キリコと体を入れ替えるようにして、彼女の上にかぶさった。急な振動に眠りを覚まされた彼女は、まだ焦点の合わない視線を俺に向ける。

かすめるようにふれたくちびるが、あっという間に熱を持つ。奪うように荒々しいくちづけ。夢にまどろむキリコの舌を絡めて吸い上げる。二度も寝込みを襲われるとは思わなかったのだろう。キリコは数回俺の腕を叩いたけど、やがて観念したように背中に手を回した。

彼女の手のひらの温度を背中に感じて、もう止まってやらないと言う代わりに、豊かな胸を寝巻きの上から鷲掴んだ。寝巻きの下のキリコの素肌を思う。寝起きの彼女はいつもより体温が高いように感じた。子どもと一緒だ。半覚醒の感覚を呼び起こすように、丁寧に彼女の体を開いていく。いたるところにキスの雨を降らせて、俺だってわかるように縫合痕だらけの指で、手のひらで、なめらかな肌を滑って。

眠気とは違うとろけた視線を、キリコが俺に送ってくるまで。

キリコの指が俺の股座に伸びたけど、それを遮って、俺の方が先に彼女の裸の腰に手を掛けた。

「俺がするの。」

そう言って指を滑り込ませると、くち、と濡れた音が聞こえそうなくらい、彼女は潤んでいた。

「もう準備できてるから…」

キリコはシーツの上で俺を待つ。

熱い視線を、キリコは俺に向けて寄越した。そして赤く熟れたくちびるで誘う。

「来て。」

キリコのひとつだけの目に捕まって離れられない。冷たいアイスブルーの中に、ちろちろと舌を出す青い炎が見えるみたい。俺を焦がす、青い炎。

手探りで寝巻きをずり下げると、窮屈にしていた勃起が飛び出した。

キリコの目を見つめたまま、彼女の脚の間に体を沈める。やがて彼女の潤んだ部分に先端が触れる。彼女の脚を上げて、ゆっくりと埋め込む。

「ああ………」

どちらともつかない吐息が溢れた。

熱い。

繋がったところが、たまらなく熱い。

浅い呼吸をしながら、俺を食む彼女も同じことを思ってるといい。

ほんの一瞬のことが、とろとろと流れる蜂蜜のように無限に続くような気さえした。

そのまま蜂蜜の雫をなめとるように、長いくちづけを交わした。

熱い体を引き剥がすころ、空は少しずつ日暮れの色を示し始めていた。

「こんなに誰かの家で、ゆっくりしたのは初めてかも。」

身支度を整えながら、キリコが背中越しに言う。シャワーを浴びればいいのに、帰ってからでいいとさっさと衣服を身に着けていく。そんなキリコの後姿を見ながら、俺はまだ快楽の余韻に浸っている。けだるい体さえ心地よい。このままもう一度彼女の腕を引けば、またベッドに戻ってくれそうな気さえしていた。

スラックスを履いたキリコは、乱れた髪を手櫛で梳いて、振り返った。

その視線にはさっきまでのとろけるような熱量はなかったけれど、ふわりと口元に湛えられたほほえみは、俺の視界をそれでいっぱいにした。

「すてきな休日を、ありがとう。」

額にちゅっとリップ音を立てて、キリコのくちびるがふれる。そのぬくみが消えないうちに、キリコは身を翻して寝室を出て行く。まだ、と未練がましく。彼女の背を追ってしまう。

「何をそんなに慌ててるんだよ。」

俺の問いは、容易く返される。

「仕事。」

それだけ言うと、今度こそドアが開き、キリコは風のように出ていった。

やがて聞こえる旧車のエンジン音。それが遠ざかるまでの間に、俺の頭の中は見る間に塗り替えられていく。

日常が戻ってきた。

キリコがヒトゴロシをするのなら、俺はそれを阻止せねばならない。生きられる患者なら、必ず救いあげる。

布団を蹴飛ばして、ばたばたと衣類をかき集める。カッターシャツを身に着けて、黒尽くめのスーツを纏い、タイをつければ準備は万端だ。キリコのワインレッドの車がどこに向かったのか追いかけるべく、革靴で床を踏みしめ、俺も自宅を出発した。

7