彼女の可能性(3)【キリコ先生女体化】

「BJ先生、私達の娘を助けてください。」

俺の目の前で両親が懇願する。

「もう先生しかおらんのです。」

両腕を投げ出して、俺の前に跪かんばかりだ。

俺は椅子をくるりと回して、依頼人に向き直る。

氷嚢ががしゃりと音を立てた。

「いいでしょう。引き受けましょう。」

依頼人達が安堵の表情を浮かべてお互いに見合った後、俺を見て怪訝な顔をした。決して俺のツギハギを見ての反応ではない。

俺の頬は顔の縫合痕を歪ませるほどパンパンに膨れ上がっていた。あの寒い夜、キリコに強烈な右フックを食らったのだ。女の力じゃないぞ。ゴリラ並だ。くそ。

「先生、お茶がはいったのよさ。」

湯飲みを出してくれるピノコのやさしさが身にしみる。

「ああ。」

と言うが早いか「アッチ!!」

俺は煮えたぎった茶の入った湯飲みから慌てて手を離した。弾みで湯飲みが俺の太ももに落ちる。

「~~~~~~~~!!!」

慌ててスラックスを脱ぐ。

ピノコは知らん顔だ。俺がまた土産を忘れたので怒っているのだ。

くそ。女なんて。

くそ……

氷嚢が2個に増えた。

頬と腿を冷やしながら、依頼に来た患者のカルテに目を通す。子宮癌か。ステージ4とは。若いぶん進行が早い。位置も悪い。すぐに本人に会おう。

クラウンを飛ばして着いた病院の一室。30半ばの女性、眼の美しい人だった。

相部屋だったので、人がいなくなったのを見計らって声をかけた。彼女は一瞬驚いた顔をした。顔のキズにか、それとも腫れにか。

「あなたがBJ先生ですか。両親から聞いています。」

彼女の表情は凛々しい。俺は彼女の病状の進行具合についていくつか問診をして、オペに関して彼女の意思を確かめることにした。

「子宮を全部取ってください。」

彼女の言葉に俺は絶句した。彼女の両親は子宮を残すことを希望している。今の状況は決して芳しくは無いが、全摘せずとも俺なら治療できる。妊娠ができる可能性が彼女には残っているのだ。それに子宮を全摘すれば、いわゆる女性らしさも薄れてしまう。かつて全摘せざるを得なかった大学の後輩を思い、ふつふつと怒りを覚えながらも、話を聞くことにした。

「私は生きていたいんです。」

彼女は現在の主治医から手術について説明を受けた。その中で、とても難しい手術になること、それから手術がもし成功したとしても再発の可能性があること、その場合の致死率は9割になること、更に3年の間に再発する可能性が8割あることを告げられたという。

その見解は俺も同じだ。現在の検査結果ではわからないが、もしリンパまで侵されていればお仕舞いだ。そして場所が悪い。渡された映像からでは癌全体の様子が見えない。開いてみれば病巣が予想以上に大きかったということも十分に考えられるのだ。

「もし、手術が成功して、運よく子宮が残ったとします。でも、そうまでして子どもを授かっても、私には時間がなくなってしまうんです。3年しか生きられなかったなら、どうして小さい子を残して逝けるでしょうか。」

ぽたぽたと雫がシーツに染みる。

聞けば彼女は保育士をしているという。少し、特殊な。いわゆる養護院といったところか。そこでは親の都合で預けられた物心もつかない年齢の子どもが、似たような境遇の子どもたちと生活をともにしている。

それでか。彼女の枕の周りにはへたくそな、しかし懸命な字で「げんきになってね」「せんせいはやくきゃべつえんにきてね」だの、色とりどりなメッセージカードが所狭しと貼り付けられている。

彼女は親のいない子の悲しみを人一倍知っていると言った。わかる、とは言わなかった。それが彼女の子どもたちに対する真摯な姿勢のように思えて、俺は言葉を失った。俺もそれは、とてもよく知っていることだったから。

一人の男が病室に入ってきた。背の高くない、作業服の男だった。彼女の涙を見て、足早に近づくと、ポッケからしわしわのハンカチを出して彼女の涙を拭いた。彼女の様子を伺いながら、俺に不審そうな目を向ける。彼女から経緯を聞くと、男は無骨ながらも佇まいを正し、俺に深々と頭を下げた。彼女の婚約者だそうだ。

「両親には孫の顔を見せてあげられないのは申し訳ないと思っています。でも保育園の子どもたちが、本当の親でなくても、私の子どもです。だから私は生きていたいんです。30年とは言いません。せめて3年より長く。」

「彼女のいない人生は俺には考えられません。先生、どうかよろしくお願いします。」

固く手を握り、真っ直ぐな瞳を向ける2人に、俺はゆっくりと頷いた。

病院の独特のにおいのする廊下に立ち止まり、俺は過去の自分を見つめていた。

母がなくなった後、一人になってしまったけれど、俺には幸運にもさっきの彼女のような人が居てくれた。

本間先生、看護士の女性、病院のスタッフ。みんな俺を励まして、支えて、育ててくれた。

母がいなくて、とても寂しかった。

父がいなくて、とても悔しかった。

でも今になったら分かるような気がする。俺はたくさんの人に育てられたのだ。

結局俺は子宮を全摘した。開いてみると病巣は予想以上に深く、広く、彼女の体に食い込んでいた。やはり全部とったほうがいいと確信させるに十分だった。癌はリンパ腺のほんの数ミリ先まで進行し、そこが侵される前に摘出できたのが救いだった。全適の代償として、俺は完璧にどんなに小さな腫瘍であろうとも、すべて取り除いた。血管の先、筋肉の隙間、すべて。もう二度とここから病巣が広がらないように。

俺は彼女の親父に、頬の腫れが若干引いたところに拳を頂戴したが、こんなもんであの2人の門出祝いになるなら安いもんだ。あの娘の決心をちょっとは見習え。3千万が缶コーヒー1本になっちまったが、全くすっきりした。

その夜は繁華街に繰り出してうまい寿司を食い、腹がくちくなったところで、ゆかりママの店『すきゃっと』に転がり込んだ。

ゆかりママは昔俺が全身手術をしたことがある人だ。ふとしたことで再会し、それからちょくちょく通うようになった。

「『すきゃっと』はいつ来ても客が少ないのがいいな。」

「ちょっとセンセ、ひどいわぁ!先生のことを思って、わざわざ貸切状態にしてるんじゃないのよ。」

ゆかりママが野太い声をキンキンさせて水割りを作る。

「なんで俺のことを思われなきゃいけないんだ?」

「だって、アタシと2人っきりになりたいんでしょ?」

お通しのピーナッツを投げつけてやる。

「マチコもいないのか。」

マチコは巨漢のオカマだ。オペラ歌手顔負けの声量で『時をかける少女』なんか歌うからたまらない。あれははかなげに歌うからいいんだ。

「今日はね、みんなお手伝いに行ってるのよ。クリスマスが近いでしょ。」

もうそんな季節か。忘れていた。ピノコにプレゼントどうしよう。

「と、言うわけでぇ、センセにプレゼントがありまーす。はあーい、センセの好きな鰤カマ大根でえす。」

「いつもの突き出しじゃねえか。」

「いやん、プレゼントよお。氷見の鰤カマなのよお。」

カマカマ言うな。俺はげらげら笑いながら、フォアローゼスのニューボトルを入れ、ママと2人でしっぽりと飲んだ。

程よく酔いが回り、ママとの会話も途切れがちになってきたころ、いつの間にか猫が俺の横の席で毛づくろいを始めていた。あいつの家にもよく野良猫が来てたな。

「ゆかりママは、なんで女になりたかったんだ?」

俺の問いに驚く様子も無く、グラスを洗いながらママが言う。

「やあねえ、センセに切ってもらう前に大演説したでしょう。」

「そうだっけ。」

俺は嘯く。

「俺を納得させなけりゃ、いくら積まれても切らん!って啖呵切ったのはセンセよ。」

「そうだっけ。」

ゆかりママは俺をちょっと睨むそぶりをして、俺のグラスにまた水割りを作ってくれた。ついでに自分のグラスにも注いで、って、俺のより濃いぞ、それ。

「愛よね。」

なんだそりゃ。

「惚れた男がいたの。彼もアタシを大事にしてくれたわ。2人で幸せゴッコしてたんだけど、彼の両親にばれちゃって。」

ぐびりと水割りを飲む。

「アタシが女なら文句ねえだろ!ってセンセのとこに行ったの。」

そうだった。ゆかりママはそう言って、全身殺気立てて俺のところに来たのだった。その時ママが手術に命を賭けていることだけは、分かった。その目つきが気に入ったから切ったのだった。愛か。俺には分からない。

「男とか女とか、ぜんぜん関係ないのに、ねえ。」

キリコの肌を夢に見た。

なめらかで、熱くて、俺の体をしっかりと抱きしめてくれた。

「もう俺は俺じゃない!」

あいつの叫びがリフレインする。

あの夕暮れのテラスで、あいつが叫んだ言葉の意味を、俺はずっと考え続けていた。

いや、やっと、考え出した。

脳が、肉体が、全く違う様子に変わってしまうのを、一番に感じていたのはあいつだ。

あの病状では今までできていたことが、みるみる出来なくなっていったんだろう。

それだけじゃない。外見の変化は、時間をかけて神経を苛む。

それを俺は知っているはずなのに。

抱きしめることしか出来なかった俺に「ずたずたにされている気分」だと言った。

もうその時のお前は、俺の腕の力をはね退けることができなかったんだな。

抵抗しなかったんじゃない。できなかったんだ。

あいつは、どんなに。

どんなに。

キリコ、お前さんが必死で残そうとしていた男のプライドをぶち壊したのは、俺だ。

熱いものが枕を濡らしていくのがわかる。

何になるというわけではないのに。

冷え切った寝室の空気をかけ離れて、布団の中に溜まった俺だけの体温が、やたら空しかった。

焦げ臭いにおいで目が覚めた。

すわ、と起き上がり、台所に走るとガスマスクを着けたピノコが出てきた。

手に握られた菜箸の先には原型を留めぬ消し炭が一つ。またか。火事になったらどうするんだ。思わず大きな声で叱り付けてしまった。無理はしなくていいんだ。俺はどっかの死神野郎のように食道楽じゃない。食パン1枚あれば十分なんだ。

「疲れてるみたいだったから、先生の好きなお魚焼いてたのよ!もう!先生ッたら女心がてんでわかってないのよさ!」

涙でぐしゃぐしゃになりながらピノコが喚くのを聞いて、しまったと口を紡いだときにはもう遅かった。

それからピノコのストライキが始まった。

家事を一切放棄した。掃除も洗濯も、料理も。何もかも。

確かに最近の俺は仕事だ何だと家を空けながら、土産の一つも買わず、挙句に毎晩飲み歩く放蕩ぶり。彼女の逆鱗に触れるのも無理からぬ事だ。

ソファに寝ッ転がったままテレビドラマをむっつりと睨んでいるピノコにいろいろアプローチをかけたのだが糠に釘だ。やさしく声をかけてみたり、睨みを利かせて凄んでみたり。任侠相手に向こうを張れる俺のドスを聞かせた声も、彼女の冷ややかな一瞥の前に無残に霞んだ。俺はすごすごと書斎に退散し、デスクの下の引き出しに隠してあったビスケットを朝食の代わりにもそもそと食べた。

家の中が荒廃するのに2日とかからなかった。

相変わらずピノコは俺と口も聞かない。女って奴はどうして気に食わないとすぐにだんまりを決め込むんだろう。…うーん。俺も一緒か。俺も臍を曲げて、ピノコに何も話しかけてない。こうなったら根性比べみたいになってきた。

ピノコはどこからか自分だけラーメンやボンカレー(!)を出してきて、俺の前でうまそうに食べた。くそ。俺がどんなに探しても見つからないのに!

流石に腹も限界だ。いらいらを募らせて、車のキーを取り外へ出た。

冬の潮風は厳しい。クラウンのボディに錆が浮いている部分を見つけ、早めのメンテナンスをしなくてはとシートに駆け込む。車内は冷え切っているとはいえ、外よりはいくらかましだ。キーを差し込み、エンジンをかける。かける。ん?

こんな時にバッテリーがあがるなんて。なんてついてないんだ。急いで家に取って返した。正直家の玄関の鍵が開いていたことにほっとする。かじかむ指で電話帳を繰り、一番近いガソリンスタンドに電話した。

ツキの悪さは連鎖する。スタンドはタイヤ交換でてんてこ舞いだと言う。そういや今週末に雪が降るって天気予報が言ってたっけ。とにかく落ち着いたらでいいから家に来てくれるように頼む。今度スタンドで急患が出たら無料で治してやると言いかけたが、慌てて言葉を引っ込めた。どうも最近の俺は言葉で失敗している。

体が重い。こんな時は動かないほうがいい。

俺は書斎に引きこもると、ソファの上でコートを羽織り、寝てしまった。

何時間経った頃だろうか。うまそうなにおいが鼻をくすぐった。目を開けると、テーブルの上に湯気の立ったカップラーメンがあった。今度から俺のカップラーメン杯の首位はマルちゃんだ。息つく間も惜しく、温かいスープを最後まですすった。からっぽの容器を見つめ、目頭が熱くなる。俺は思いっきり鼻をかむと、ピノコがいる居間へと向かった。

「いっしょに片づけをしないか。」

俺の提案にピノコは不承不承といった風をしながら乗ってくれた。床に散乱したごみを拾いながら、無言の空気はそれでも少しは和らいでいた。

箒を操っているピノコはまだ話さない。ピノコの身長よりはるかに大きな箒を見て、彼女の体の小ささに改めて気付く。気丈にいつもこの家を守ってくれていたピノコ。彼女がいなければ、俺の生活はたちどころに崩れてしまう。夫としてではないけれど、一緒にこの家に住むパートナーとして、俺はもっと彼女のことを考えなければならない。彼女がいつか本当の恋をして、この家を出て行くその日まで。

「…」

「ピノコ」

「……」

「すまなかったな。」

目は合わせなかった。お互いに背を向けたまま、俺はピノコに感謝した。

どすん、と腰に衝撃。

ピノコが大きな目にいっぱいに涙をためて、俺にしがみついていた。

抱き上げて背中をぽんぽんと叩く。俺の耳元で絶叫してはいけないと思うのだろう。ピノコの声を殺した泣き声が愛おしい。

俺はピノコの気持ちをどれだけ考えたことがあっただろうか。こんなでかい図体をして俺はピノコに甘えてばかりだ。俺が帰らないと告げる電話の向こうで、お前はどんな顔をしていたんだろうな。土産を忘れた俺をカンカンになって怒ってくれるから、俺は謝るタイミングがもらえるんだ。

そんな思いがこぼれて、ピノコが耐え切れずにわんわん泣き出した。

思いっきり泣いてくれ。俺の鼓膜の一枚や二枚、破けたってすぐに治せるんだから。

家の掃除や片づけが一段落したころ、呼び鈴がなった。ガソリンスタンドの若い衆が俺の車のバッテリーを交換しに来てくれた。待たせて申し訳ないと、簡単な作りのクリスマスリースをピノコにくれた。緑の紙のテープで作られたリースに、赤いリボンの着いた金色のベルが中央に飾られている。

きっと町はクリスマス一色だ。今夜はレストランに行こうか。きらきらした笑顔を向けてくれるピノコに穏やかな気持ちになる。

視界の端で、リースの銀色の星が光った。

師走。

師ってのは学校の先生だけを指すんじゃなくて、坊さんや俺たち医者も指すのだそうだ。

確かに俺は忙しかった。大晦日まで金の取立てに行くのが嫌で、少々駆け足で治療費の請求に回っていた。

俺がローンを組ませる相手には、これでもかと手術に賭ける意思を問う。それから生半可には返せない額を吹っかける。それでもいいと、心に決めた人間からでないと金は取らない。結局その金が、健康になってからも患者を生かす。金を返すために必死に働いて、働けることに喜びを感じてくれれば、もう大丈夫。この金が重荷になるようであれば、初めから引き受けなどしない。その結末は考えたくも無い。

考えたくも無い結末に、はまり込んでしまう人間が世の中には存外多い。だから年末は、俺とは比べ物にならないほど忙しい奴がいる。勤勉なことだ。

そんな考えがふと過ぎった、大股で歩く町の雑踏。不意に人ごみの中に違和感を覚えた。ヨーロッパ人だろうか。体格の良い長身の男が雑踏の中で頭一つ突き出している。観光だろう。別段外国人など珍しくもない。目線を逸らした軌道上のある点で、俺の目は動かなくなった。

その横に寄り添う、銀髪の女。

心臓が裂ける。

男の腕に手を回し、肩を寄せている。

まっしろになった。

女の顔が見えた。

両目がある。

キリコじゃない。

筋肉が弛緩するのが分かる。

指先が少しずつ温まり、汗をかいているのに気付く。

心音が激しくて、耳はまだよく聞こえない。

……キリコじゃない。

はあっと大きく息をつく。

たった今起こった体の異常の原因を、考えたくなかった。

そんなくだらないことがあったせいだろう。曲がり角で通るべき路地を1つ間違えたことに気付いた。別に、関係ない。ここを通っても行き先は同じだ。キリコの屋敷がある通りを、俺は足早に歩いた。屋敷を確認するのもとうに止め、こちら方面に足を向けることもなかった。

屋敷の敷地はこんなに広かっただろうか。延々と続く歩道にうんざりする。

そちらを見ようとはしなかったのに、植え込みの隙間からちらりと窓が見えた。相変わらず、暗いままだった。投石で割られてやしないかと、他の窓も見る。あいつの商売柄、そんな窓が1枚や2枚あってもおかしくない。窓は割れてはいないが、どれも薄汚れている。病棟も含めると大きな屋敷なのに、どこか儚く霞んでいて、台風でも来れば根こそぎやられて倒れてしまいそうに見えた。庭も見渡すと、花壇にも芝生にも雑草が生い茂った後に枯れ果てて、あいつが世話をしていたころの名残もなかった。

何の名残も、なかった。

踵を返し、俺は家路を急いだ。

暗い路地で別れてから、俺はあいつの噂を一切聞かなかった。聞かないようにしていたのもある。それでも大概は耳に入ってくるものだが、それすらも無かった。あいつも俺を避けているのだと思う。これまで俺たちは腐れ縁のように、病院に行けばかなりの率でかち合った。患者がかぶることもざらにあった。それが完全に途絶えた。

もう俺は自由にメスを振れる。誰も俺が命を救うことに文句を垂れない。

実に開放感あふれる時間を俺は十分に味わった。ばりばりと仕事をこなし、貯金講座を新たに4つ開設したほどだ。

そう、十分に味わった。

ピノコがケーキを焼く練習をしている。来年のクリスマスのためだと言う。ちょっと早すぎやしないか?失敗作を食べるのは夕食後の習慣。だんだん上達はしている。見込みあるぞ、ピノコ。そう言ってやると、ピノコはにっこりしたが、小さな声で「ロクターに教えてもらいたいなあ。」とつぶやいた。ピノコも俺たちの間の変化に気付いている。

それはそうだ。あんなに足繁く通っていた奴が、ある日を境にぱったり来なくなるんだから。だからと言って俺を問い詰めたりしない辺り、またピノコに俺は甘えているのかもしれない。しかし、どう説明できるというんだ。

きっともう2度と俺たちは会わない。

俺にはもうチャンスが無い。

天気予報が大雪を知らせている。太平洋側でも雪がちらつくという。都会の交通網の脆弱さにうんざりしながら、俺は先日手術をした男性の経過を診るために家を出た。

高速に乗る。帰省ラッシュにはもう少しゆとりがあるため、上下線とも空いていた。車の窓から見る海は空と同じ鉛色で、容赦なく岩礁にその身を叩きつけ、白く粉々に砕けていた。カーステレオから女性シンガーのハスキーな歌声が流れてくる。

♪笑って話せるね

 そのうちにって握手した

別に興味もない。耳にするでもなく、ただ流れるに任せていた。

俺にはもうチャンスが無い。その事実に日増しに押しつぶされそうになっている。自分のしつこい性格を恨む。もうキリコは俺のことなどすっかり忘れてしまっているというのに。

緩やかなカーブを過ぎるとトンネルに入った。オレンジの光が暗闇に流されていく。

もう何度思い出したかわからない。あの寒い夜の記憶。俺は記憶の中のキリコに語りかける。

キリコ、お前結構ドレス姿似合ってたぞ。ユリさんによく教えてもらったんだな。しかし、化粧までするとはな。女ってめんどくさいんだな。デパートに買い物に行ったときは、あんなに引きつってたのに。今思うと、あのときから女として生きようと、いろいろと試していたんだな。

♪あなたが本気で見た……

   はぐらかしたのが苦しいの

俺はばかだ!

あのキリコが、俺に手を施され、人工的になった体で生き続けるはずなんかない。

俺はそんなことも分からずに、またお前の積み上げてきたものを砕いた。

俺のちっぽけな思い込みを押し付けて。

「女だから、何?」

「何が違うの?」

違わない。お前さんは何も変わっていなかった。

肉体の変化に囚われて、気付こうともしなかった。

何も変わっていなかった。

相変わらず安楽死なんぞ続けやがるふてぶてしさも。飄々と俺の言葉を流す憎たらしさも。酒を飲みながら過ごした気分のいい時間も。ベッドの上での毒物を思わせる雰囲気も。

それでもお前は俺の手術プランを聞いてくれたよな。

お前さんも俺に甘すぎるぜ。

本当に。

♪…を許さないで 憎んでも 覚えてて

カーステレオが歌う。

俺はスイッチを切った。

トンネルを抜けると、粉雪が舞っていた。

山間の病院は流石に雪深く、四駆でよかったと切実に思った。もうちょいランクを下げた前輪駆動の車ではこの坂と雪には敵わない。駐車場には大きな雪の山が出来ていた。重機で雪かきをして積んだのだ。一つ県をまたぐだけでなんて違いがあるものだろう。ピノコが見たら大喜びするだろうが。

粉雪はじき吹雪になった。これはうかうかしてはいられない。静まり返った病院に俺は影のように入り込んだ。年末で一時帰宅する患者も多い。スタッフも交代で休暇に入っているようだ。人もまばらな廊下を通り、静まり返った病棟へ入った。

術後の経過は良好で、男性はリハビリに苦慮しているようではあったが、努力を続けると約束してくれた。家族も見送ってくれたが、どこか疲れているような雰囲気が気にかかった。

病院を出たが、嫌な予感を払拭できず、SAで家に電話を入れる。

間髪いれずにピノコが出る。

「先生?!たった今、先生が行ってた病院から電話があって」

受話器を叩きつけ、俺は走った。

息を切らせて病室に駆け込むと、もう男性の息はなかった。家族のすすり泣く声。でも誰も俺を責めようとしない。遺体の腕を確認する。何も見当たらない。

俺は静脈を注意深く、くまなく辿り、見つけた。

真新しい注射痕。

死神が、来た。

病院のスタッフが制止するのも聞かず、俺は院内を走り回った。

あいつがいる。

ここにいる。

廊下に俺の駆ける足音だけが響く。

立ち止まって周囲を見渡せば、俺の息切れだけが聞こえる。

人気の無い、最北の病棟へたどり着いた。ここは検査室ばかりで、普段患者は寄り付かない。

階段の踊り場に立った瞬間、白い影が目に映った。

長い渡り廊下の真ん中で、あいつがじっと立っている。

黒いスーツに身を固め、手にはジュラルミンの鞄。

渡り廊下はガラス張りで、外の光が差し込んでいるにも関わらず、あいつの周りだけは暗い。あの銀髪は燃えるように輝いているのに。

奴が一歩踏み出す。

靴音だけが響く。

俺も歩き出した。

2つの靴音が交差し、反響し、ぴたりと止まった。

渡り廊下の境目、暗いロビーの中で、俺たちは対峙した。

あいつは、キリコは、真っ直ぐに俺の目を射る。あの夜のぎらぎらした瞳ではなく、どこまでも静かな、暗い目つきで。

「よう、BJ。」

「おう、キリコ。」

「餌に食いついてくれて感謝する。」

「餌などと言うな。いつからいた。」

「ほんの2時間前さ。お前に関わりそうな依頼は片っ端から断っていたんだけど、そろそろけじめをつけようかと思ってな。」

「何がけじめだ。人の命を奪っておいて。」

「噛み付くなよ。俺につけ込まれるような仕事をしたお前が悪い。」

次の言葉を言い澱んだ俺の喉笛に、キリコが注射器を構えた。

「腐れ縁だよな。俺の仕事には必ずおまえが付きまとう。」

朗々とあいつの声だけが響く。キリコはじっと俺を見つめるようでありながら、どこか焦点が合わない。

「お前関係の依頼を断るのに、俺は些か疲れた。」

注射器の針から毒液が滴る。

「だから、いい加減けりを着けたくてな。」

キリコの頬は緩まない。機械のように言葉を紡ぐ。

「俺に殺されろ、BJ。お前のために、俺はとっておきの毒薬を持ってきてやったぜ?」

突如、俺の目の前に、銀の花弁を擁した壮絶な毒の華が咲いた。

不思議と、俺は穏やかだった。チャンスだとさえ思えた。こいつをここまで追い詰めたのは俺だ。俺がキリコにしたことを、キリコ自身の手で取り戻せるなら。

「好きにしろ。キリコ。」

俺の言葉を一瞬理解しかねたような表情。

「好きに?」

嘲る様な口調でキリコが言った。

「ああ、好きにするさ。お前を殺して、精々見栄えの良い男でも捕まえて、楽しく暮らすよ。」

かつての雑踏で俺の心臓を裂いた痛みが蘇る。

「そうだなあ。お前、言ったっけ。子どもを産むのもいいかもな。」

キリコの声は平静だ。一瞬目だけが、ぎらりと燃えた。

「俺の勝手だよな。BJ?」

そう。確かにそういった。でも、そんなつもりではなかった。ただ女性の能力の素晴らしさを言いたかっただけだった。俺と関わった女性たちの顔が通り過ぎる。

ああ。俺は、ちっぽけだ。キリコに、あのキリコにそんな言葉を吐いた俺も。

「そうだ。勝手だ。」

噛み締めるように声を絞り出す。

「これからどうしようが、お前さんの勝手さ。」

キリコの表情が凍てつく。

「でも、許さない。」

俺の奥歯がぎりりと鳴った。

「何を許さないって?先生が許可する範疇のことじゃないでしょ。」

ぴくりと片眉を吊り上げて、キリコが反駁する。

俺はきっと緑色の目をしているだろう。俺の妄想の産物だ。雑踏の見間違いから派生した思い込みだ。でも、俺があの寒い路地で、キリコに投げつけた言葉の意味は、そう捉えられてもおかしくなかった。俺自身の言葉が、俺に突き刺さる。

チャンスなんだ。

格好つけたり、意地を張ったりして逃したくない。俺たちは世間で言う恋人ではないけれど。嘘をつくのは嫌だ。大きく響く心音をできるだけ治めようと呼吸を整えた。

俺の目の前には、キリコがいる。

そう、キリコが、ここにいる。

俺はただ素直に言った。

「俺は、お前さんの横に誰か他の奴がいるのは、許せない。」

キリコの手を取る。水のように冷たかった。

「俺は、今日、お前さんに会えてよかったぞ。」

無言で、キリコは俺の首筋に注射針を振り下ろした。

来るべき衝撃がなかなか来ない。

俺の肩口がだんだんと湿り気を帯びてきた。キリコの手に握られた注射器は、俺の首筋にわずかに届かず、その場所で針先から雫を零していた。

注射器が滑り落ち、ロビーの床に小さな音を立てて転がった。

嗚咽が漏れる。

キリコが俺の胸倉を掴む。もう一方の手で俺の胸を思いっきり殴った。

息が止まるほど痛い。

よろめく足を踏ん張り、2発目を受け止める。3発。4発。

肋骨なんかくれてやる。

俺のコートの襟を握ったまま、うつむくキリコの腕にそっと触れる。

途端にキリコが涙で潤んだ顔を上げて叫んだ。

「今、抱きしめるんだ!馬鹿!!」

「力の加減を知らないのか、馬鹿。」

俺の腕の中で悪態をつく。なおさら俺の腕に力がこもる。夢にまで見た感触を確かめる。

この髪を、この腕を、何度欲しいと思っただろう。この匂いも、ぬくもりも。

俺のコートの襟をぐちゃぐちゃにしながら、キリコが下から睨みつけた。

「好きにしろとか、そのくせ許さないとか、勝手過ぎるんだ。先生は。」

「もうずっと勝手なんだ。」

「病人意外には、鈍感で甘ちゃんで。」

喚きながら襟を持ってがくがく揺らす。ごもっとも。眉を歪ませて、涙が滲んだ片目が非難する。 三半規管をやられてくらくらする。

「お前さんには、特に、だな。」

ぴくっと動きを止めたキリコの眼がまんまるに開かれる。

「殊勝なこと抜かすんじゃねえ、バカ!!」

タイを締め付けられ、窒息しそうになる。

怒り付けながら、どこか照れくさそうな瞳。俺も何だか照れくさくなる。本当に夢じゃないだろうな。確かめるように、ぎゅっと抱きしめ、やわらかな唇に俺の唇を落とした。

「痛い、気がする。」

後数ミリ、と言うところで、俺は肩に異常を感じた。さっきキリコの注射器から漏れた毒薬がかかったところだ。

サッとキリコの顔色が変わり、あたふたとジュラルミンのケースから蒸留水と脱脂綿を出し、俺をロビーのソファに座らせてコートを脱がせにかかった。ジャケットを捨て、タイを解き、シャツをはだける。すっかり俺の上半身を剥いて、てきぱきと処置した。「大丈夫だとは思うが…」言い澱むキリコに俺は少々恐怖を感じる。こいつ、本気で俺を殺すつもりだったのか。

「これでおあいこか?」

と言う俺を、ぱちくりと見た後、意地悪そうに笑って。

「とんでもない。先生へのご恩はこんなものじゃあ済まされないよ。」

ご恩か。ふん。こんな嫌味すら懐かしいなんて、俺は病気だ。いきなり反対の肩をとん、と押され、俺は後ろへ倒れる。ここのロビーのソファ、背もたれが無いタイプで、しかも大きな円形をしている。

「とりあえず、前金を受け取ってもらおう。」

俺の上にまたがって、体を重ねてくる。かき上げた長い髪が流れる。

「遠慮なくいただくよ。」

微笑むキリコの唇を、今度こそ味わった。

瞬間、臀部にちくっと刺激が走った。怪訝な俺からキリコが唇を離すと、奴の右手には注射器があった。凍りつく俺に「心配するな。毒薬ではないよ。」と言う。じゃあ何だ。

「とっておきの媚薬。」

うっとりとする声でささやかれた。

「象に使うくらいの濃度のね。ちなみに遅効性。持続期間も長い。依存性は低いし、1度きりなら何の問題もない。」

つらつらと立て板に水といった塩梅に説明をすると、がばりと起き上がってソファから降りた。まだよく状況が飲み込めない俺に、艶やかに微笑み、銀髪をきらめかせて振り向く。

「じゃあね。先生。近々また会おうぜ。」

言うが早いか階段を駆け下りて、あっという間に姿を消してしまった。

ぽかんと一人残された俺。ソファに音を立てて倒れこむ。俺は不思議な安堵感に包まれていた。

「近々また」なんて信じても良いのか?

それがいつだっていい。肋骨の痛みが、あいつがここにいた証拠。

俺は口の端に笑みが浮かんでいるのに気付いた。

わずか数時間後に襲い来る地獄も知らずに。

大雪という予報は当たりだった。帰りも高速に乗ったが、大雪のため道路が封鎖される最悪の状況。下道へ誘導されるも、ここでも大渋滞。その時だった。下腹部にじわあっと嫌な熱が溜まるのを感じた。

「とっておきの媚薬。」

キリコの声が響く。

何てことだ。あの野郎、媚薬も本物か?!大体、本物ではないだろうと高を括った俺も相当呑気だが、あの時の俺はそんなことがどうでもいいくらいキリコに再会できた感覚を味わっていたのだと思う。油断だ。いや、あんな時にケツに一発食らうなんて予想だにしなかった。ぐるぐるしているうちにも、スーツの股座の部分がパンパンに張ってきた。痛え。脂汗が額に滲む。ハンドルが手汗でぬるぬるする。心拍数が異常だ。

前の車は一向に動かない。赤いテールランプが揺らめいて、眩暈さえする。震える手でスラックスの前立てをくつろげる。跳ね上がるものを見てげんなりする。衝動に駆られる。しかし四方を車に囲まれて、こんなところで何ができるっていうんだ。

おまけに俺のいでたちは素肌の上に白衣と言うワイルド振り。毒薬のついたシャツなど羽織れるはずもなく、俺は病院から白衣を拝借したのだ。車の中で、素肌に白衣のつぎはぎ男が一人で……恥ずかしくて消え入りたくなる。

雪で窓が隠されているから、とか。みんな前を睨んでいるから、とか。悪魔がささやく。みんなキリコの声に聞こえてくる。

俺はあんなに長くて苦しい4時間を味わったことがない。

結局俺は渋滞を抜けて一番に見つけたホテルに転がり込んだ。抜くためだけに。女を見繕うとか、そんな時間さえも惜しかった。

バスルームにこもって何分、いや何時間たっただろうか。疲れ果て、薄れ行く意識の中でキリコの妖艶な表情が浮かぶ。

くそ。あの野郎。

覚えとけよ。

前金どころじゃないぞ。釣りが来るぜ。

近々、なんて言わせないからな。

今すぐだ。今すぐ。

男の貞操帯。ヒット664000件。

そんなものを検索するほど俺は憔悴していた。

あれから3日。注射なのにここまで持続する薬なんて。どんなものを俺の体にいれやがったんだと怒りがごうごうと腸で煮えくり返っていた。正確には怒りだけではないけれど。

肝心のキリコはまた行方がつかめなくなっていた。屋敷にも戻ってはいない。ずっとこのままだったらどうしよう。「また会おう。」なんて信用の置けない奴の常套句じゃないか。

昼と言わず夜と言わず、悶々と過ごすはめに陥っている。家に帰ったがピノコもいることだし、何とか気付かれないように必死だ。トランクスでは押さえが利かない。できるだけぴたっとした下着にして、シャツもすそを出して目くらまし。ピノコが行儀が悪いと注意するけれど、どうしようもない。

24時間臨戦態勢なんて、ありえない。その分頭のめぐりがめっきり悪くなった気がする。ふわふわと俺は浮ついた足取りで、夜の街に出て行った。こんな時は飲むしかない。煩悩をアルコールでふやかして、正体不明にするんだ。行きつけじゃない、どこか知らない店に入ろう。その店に2度と行けなくなるくらい飲もう。

ぎらぎらした目で適当な店を選び、ドアを勢いよく開けると、店にはカウンターしかなく、そこでバーテンダーと客と思しき女が談笑しているところだった。

キリコだった。

俺は悪運に感謝する。つかつかと歩み寄り、腕を取る。

「あらぁ、BJ先生。」

びっくりした様子のバーテンと正反対に、おっとりとした口調のキリコ。だいぶ酔ってやがる。俺は無言でカウンターに万札を数枚叩きつけ、キリコを店の外へと引きずっていった。

ピンポーン

「いらっしゃいませ。当ホテルは自動会計システムに……」

機械のアナウンスに苛立ちを隠さず、鍵をかけたかどうかもあやふやなまま、俺はキリコを壁に押し付けて唇を貪っていた。

安いホテル。ピンクの絨毯がわざとらしい。

キリコも負けじと俺の舌を吸い上げる。唾液がこぼれる。

くらくらしながらキリコのスーツを剥ぎ取る。ジャケットをソファに投げつけ、スラックスを床に散らかして。ストッキングの手触りが、ぞくりと俺の股に絡みつく。

それに気付いたのか、キリコがそっと俺に触れる。唇を重ねたまま、俺の体をやわらかい胸に押し付けたまま。まずい、そう思った途端に弾けて腰が砕ける。がくがくと足をふるわせて。なんて様だ。

俺の息が少し収まるのを待って、キリコが耳元で囁く。

「俺のこと考えて、いっぱいした?」

かあっと血が上るのを感じる。ああ、したさ。数え切れないくらい。こくりと頷いてしまう。

「いっぱい我慢した?」

吐息が耳をくすぐる。我慢できなかったから抜いたんだ。悔しくて恥ずかしくて何度も頷いた。

「えらいね。」

キリコは俺のコートをシャツを、すべて投げ捨てると、ベルトのバックルに手をかけた。

俺も焦りで震える手でキリコのシャツのボタンを外しにかかる。3つほど外したところで止められた。広げたシャツの襟からほのかに色付いた肌が露になっている。

そこに釘付けになる俺に、ふわりと微笑むキリコが床に膝をつき、ベルトを外して俺の下着に指をかける。下着はさっきの破裂でどろどろだ。触らなくていいと言おうとした時、自分とは違う熱さにくらっときた。下着の上から、キリコの熱い舌が動いているのがわかる。

もどかしい。一枚薄い布が隔てているだけなのに。直に触ってほしい。直に。そう思っているのが伝わってしまったのか、キリコがやさしく噛み付いた。もう限界だ。

キリコの体を抱え、ベッドに横たえる。シャツのボタンを半ば引きちぎるように全て外し、紺のレースの上から揺れる胸にかぶりついた。

もう体裁なんかとっくに構っていられない。こんなに我慢させて、くそ。全裸になって獣のように覆いかぶさる俺の背中をそっと指が辿る。

「しょうがないなあ。まあ、俺も予定より遅くなっちゃったし、悪いのかもしれないけど。ほら、一回抜いてあげるから。」

すらりとした指が俺にまつわりついたかと思った直後、俺はまたまっしろになっていた。

俺はひたすらキリコを求めた。

キリコもまたパワーアップしたみたいだ。初めての夜と違って、まるで溶解炉のように熱くて、うねっていて。そう言ってやったら、ほめたつもりだったのに殴られた。

それから暗闇に浮かぶしなやかな体は、俺の記憶フォルダにがっちり保存された。

俺は何日ぶりかのすっきりした気持ちで、汗と体液でじっとり濡れたシーツにもぐりこんだ。横にいるキリコは、すっきりというよりぐったりしていた。満足できなかったのかな。俺、もうちょっとならがんばれるけど。そっと顔を覗き込むと静かに寝息を立てていた。

キリコを起こさないように気をつけながら肩を抱きかかえた。

夜のうちに、こいつがこっそりいなくならないように。

朝になってお互いの顔を見合うと、昨晩の嬌態がまざまざと蘇って、俺はまともに目を見れなかった。

「昨夜のことは、お前は薬のせい。俺は酒のせいだから。」

いい歳をして言い訳がないと素直になれないのが情けないけれど、今はそういうことにした方が楽だ。身支度をして、ちらと盗み見た奴の横顔が夜の表情とリンクして、俺の記憶フォルダが開く。うーんといい気分で味わっていると、尻をぱんぱんと確認された。

「BJ、ノーパンで帰るのか?」

「しかたないだろう。近くのコンビニで買うまでの辛抱だ。」

コンビニ、と聞いて奴の眉根が曇る。

「たまにはもうちょっと色気のあるパンツ履けよ。」

ああもう。キリコ先生。そういう台詞は言わないでほしい。

キリコだ。やっぱり、キリコだ。

俺は苦笑いをしながら「近々またな。」と答えた。

ああ、くそ。

うるせえ。

手がかゆい。

振動が気持ち悪い。

細かい切れ端が顔に当たる。

晴れ渡る空の下、俺は慣れない手つきで草刈機を振り回していた。キリコの庭で。

「おーい、BJ!おーい!!」

聞こえないふりをしてやる。本当にこの草刈機はやかましいなあ。

「近寄れないじゃないか、エンジンを切れ!」

ごすっと俺の後頭部に何かが投げつけられた。ちっ。

しぶしぶエンジンを切り、草刈機を地面に置くとキリコが寄ってきた。何を投げたんだ、こいつ。足元を見ると30cmくらいの箱が落ちていた。箱に書いてある字を読むと、「じかたび」?

「近所のじいさんが見かねて貸してくれたぞ。」

奴の手には麦藁帽子と何だか怪しげな黒い布状のもの、更に怪しげな緑のネットが握られていた。

そう。俺は相変わらずいつもの格好で草刈をしていた。ジャケットは流石に脱いだが、カッターシャツにリボンタイ、革靴といった服装だ。俺だってこれが草刈に向かないとは思っているけど、そもそもこんなことをするなんて思ってもみなかったんだ。

「よし、これが草刈の正装だそうだ。」

キリコが明らかに笑いを堪えて、もったいぶって抜かしやがった。

足元はさっき投げつけられた地下足袋を装着。コレはなんと奴の私物だ。これでぬかるみも怖くはない。スラックスのすそから草が入り込むこともない。腕には怪しげな黒い筒状の布を装着。軍手と手首の隙間をカバーしてくれている。手のちくちくともおさらばだ。麦藁帽子はまだ日差しがきつくはないのでマストとは言いがたいが、これがなくては最終兵器は使えない。緑のネットだ。これを帽子の上からかぶせ、つばの部分に引っ掛けて残りのネットを垂らすと、なんと顔をガードしてくれるのだ!細かい草の切れ端が目を襲うこともない。呼吸も楽だ。理に適っているとあれば、見てくれなんぞ構うものか。

「正装には、やはりタイが必要だろう。」

キリコがタオルを首に巻いた。……この野郎。

俺は完璧に草を刈った。慣れてきたら芝の高さをほぼ2cmに揃えることができた。しかし、奴の庭はこんなにも広かったのか。まだ半分しか終わっていない。くそ。意地で徹底的に芝を刈り続けていると、だんだん腰が痛んできた。休憩だ。休憩。家の裏に回り、テラスのように使われている縁側に向かう。縁側は以前は所狭しと植物の鉢が置かれていたのだが、今は全てなくなっている。縁を水拭きしているキリコに「一服しようぜ。」と声をかけた。

あいつは顔を上げ、俺の姿を見て、また笑った。俺の正装を忘れるとはふてえ野郎だ。

地下足袋を脱ぐのが面倒で、縁に腰掛けてキリコの入れてくれた茶を飲む。緑茶の香りが草と俺の汗のにおいと混ざる。しかし嫌な匂いではない。労働の匂いとでも言うのだろうか。

キリコを見ると膝が煤け、指先が黒ずんでいる。家の中をくまなく拭いて回っているようだ。結い上げた髪にホコリが付いていると教えてやると、うまく見つけられないのか全然違うところを触っている。見かねてホコリを取ってやると、キリコの体からも労働の匂いがした。

風が吹く。

汗をかいた肌に心地よい。

一服着く。

奴も吸う。

働いた体にヤニがよくまわる。

いい気分だ。

理由など探すまい。

「休憩終わり。さて、続きだ。」

「お前さん、人使いが荒すぎやしないか。」

「報酬は用意してある。」

「何だ。」

「虎屋の季節限定の羊羹。」

「超厚切りだぞ。」

「わかった。わかった。」

俺はまた草刈に戻る。春先だから、きっとまたすぐに刈らなくちゃいけなくなるだろうけど。マスターしたんだ。いつでも刈れるぞ。

なんでもない春の日。

門の鉄格子をそっと外して捨てたのは秘密だ。

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